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果てしなき流れの果てに
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果てしなき流れの果てにの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.20pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全115件 1~20 1/6ページ
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この小説は、小松左京氏のSF小説のうち、初期作品にして、早くも集大成とも呼べそうな力作です。400ページほどの長編なのですが、惜しげもなく色々なアイディアが詰め込まれていますので、シリーズものや連続テレビドラマなみのボリュームを感じさせます。 また、昨今のフィクション界では、タイムリープものが流行っているようですが、本作でも、そのテーマはすでに取り上げられており、「われわれ自身が、すでにそうやって、われわれの知らない、もう一つの世界の未来人によって、歴史をかえられた結果なのです」と言うセリフを見つけた時は、ちょっとゾワッとしました。(逆もしかり。われわれの生きている、この時間帯だって、今すぐにでも、誰かのタイムリープによって書き換えられて、消されてしまうのかも?) もっとも、本作は60年も昔に書かれた小説ですので、使用されている元ネタの中には、今の世代の人には馴染みの薄い話題も含まれているようでして、今後、新装版が出る予定がありましたら、細かい注釈付きの仕様にするのも良いかも知れません。 「剣竜はジュラ紀に活動した恐竜だが、一部のアジア産の剣竜は白亜紀まで生き延びていた」 「1963年に水戸街道で起きたと言われる自動車消失事件(藤代バイパス車両失踪事件)は、その実際の目撃者が判明しておらず、近年ではガセネタ(フェイクニュース)だったとも言われている」 などなど。 | ||||
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こっちの装丁が好きです。 | ||||
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若き日の小松左京の代表作。今もって、ヒストリカルベストに選ばれているという。40年ぶりに再読した。 「全ての時間、全ての空間を認識する」とはどういうものなのか、小松左京らしい壮大な誇大妄想に圧倒される。 ところどころに時間と空間にまつわる論理が記されているが、正直、意味不明である。「これ、書いた本人も意味わかってへんのとちゃうか」という失礼な考えも沸いてくる。物理学や数学の素養があれば、違うのかもしれないが。 全ての時間と全ての空間、これを表現するために、「歴史を根本から改変して、知的生命体をより速やかに高次のレベルに移行させようとする」集団と、それを阻止する側の追跡劇の程を成しているが、いわゆるタイムパトロール物ではない。 ここに記されているのは、「進化することも、淘汰されることも、いづれも突き詰めれば残酷な現象なのだ」という認識だ。 また、この「物語」の登場者は、誰一人として報われない。何かを成しえたとか、幸せを手に入れたとか、そういう世俗の求める展開は一切、ない。 そして、この追跡劇も、それを監視する存在も、更なる高次の存在に支配され、更にはその高次の存在もまた・・・という、無限の階層の連なりにさらされ、読者は途方に暮れることになる。 しかし、その壮大な舞台の幕を引くのは、結局は人の小さな情愛であることに、このテーマを取り扱うには人間がいかに小さな存在であるかを思い知らされる。 それだけではない。「全ての時間、全ての空間」を網羅する追跡劇を「時系列」として記載せざるをえないという矛盾が立ちはだかる。 「全ての時間、全ての空間」を監視できるなら、反乱者をどこで追い詰めたかは、既に「わかっているはず」だからだ。 その矛盾を孕んでなお、瞠目に値する作品なのだ。 | ||||
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小松左京の初期作品だが、今から60年近く前にこれほど壮大で濃密なSF小説が書かれていたとは驚異としか思えない。明晰な洞察力と緻密な分析。果てない想像力と哲学的な深い思考力。それにも増して、人間への切ないほどの愛着心を込めて書かれているので、単なる娯楽的なSF作品とは一線を画している。 最高の知的生物である人間の意識を最大限にレベルアップすることにより、時間と空間への挑戦と支配を試みる、ということが作品のテーマである。滅亡した地球から逃れ、宇宙に漂い生きる人間の苦悩と破滅。人間の限りのない欲望と傲慢による破壊と再建の繰り返し。ときに難解過ぎて混乱する箇所もあるが、ストーリーの発想と展開の面白さに引き込まれて、一気に読み終えた。多分、今後もまた読み返すだろう。 日本の戦中と戦後を生き抜いて、確かな洞察力で日本を直視してきた作者の渾身の思いが、現代を生きる者への伝言として感じられるからだ。 小松左京といえば「日本沈没」が代表作品だが、初期の作品にも傑作が多い。この作品が筆頭に挙げられると思う。 | ||||
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この本きっかけでズッポシ 小松左京のSFにハマりました。 言い回しがとても楽しい。 分かりやすく面白い。 面白いSF読みたいなら 絶対に小松左京読むべき! | ||||
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最高でしたラストシーンにつながる瞬間、驚愕しました、読んでよかったです | ||||
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話の内容がさっぱり解らない | ||||
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久しぶりに再読(通しでは多分3回目).名作とは聞いていたものの、私の学生時代にはなかなか入手できず、当時たまたま見つけた徳間文庫での再刊で読みました(私のは'90年3月の初刷).初めて読んだ時、冒頭の恐竜時代に鳴る金色の電話機、という場面にこの後どうなるんだろう?とワクワクし、最初の二章で昭和40年代初頭のレトロな日本を楽しみ、その後のエピローグ(その2)の佐世子が野々村を待ち続ける描写で涙がチョチョ切れ、第三章以降、軌道エレベーターに始まる時空を超えた展開にはただただ翻弄され、後半でそれまでのバラバラなエピソードが繋がって最初の謎がちゃんと回収され、最後の第十章とエピローグ(その1)で「果しなき流れの果て」をそのタイトル通りに目眩くイメージ(ブッ飛んだ記述が超越者っぽい)で描写した筆力に感動しました.しかしながら今読むと、こちらが歳をとって感性が摩滅したのか、昔ほどには興奮せずに割と冷静に読めました(ただ、悲しみを秘めつつ中学教師として生きる佐世子の姿にはやっぱりジンときます).中盤から後半の訳のわからない展開は、当時の小松左京さんの技術不足もあるでしょうが、わざと説明不足にすることで読者を異次元に放り込む効果も狙っていたのでしょう.今回の再読に際し、加藤夢三さんの「存在することの居心地悪さ」(現代思想10月臨時増刊号「総特集 小松左京」)という論考がとても参考になりました.結局のところ、反体制側のN(=野々村)やホアン達は今ある世界に満足・安住できない男達であり、未来を過去にフィードバックするという行為もあくまで手段であって、何らかの理想社会を明確にイメージしての所業ではなく、そこら辺は実は彼らを取り締まる体制側のアイ・マツラも同類である(自分達を動かす超越者が何を考えているのか分からない)、というふうに理解しました.今ある世界ではない、さまざまな世界が可能性としてあるのではないか(今の言葉で言えばメタバース?)という思いが、小松左京さんの根源的な立ち位置として正直に吐露されているように感じます.小説としての完成度という点で本書は少々破綻しているようにも思いますが、破綻しているが故に比類無くパワフルで、トンデモな大風呂敷を荒唐無稽に広げつつ深い叙情を湛え、物語を読む楽しさを十二分に備えながら、人間と世界との関わりにおける普遍的・根源的な問いを読者に問い続ける本書には、時代を超える値打ちがあると思います. | ||||
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いまからおよそ40数年ムカシ、 筒井康隆・編『SF教室』で見つけてハマった『明日泥棒』を モ~レツ攻勢でオススメした友人が この本を持って逆襲してきた。 否応なく貸し出されたソレを ホレ読めヤレ読めとせっつかれて読んだ。 アラカンを迎えた現在、脳内にはその"なにやら壮大な"イメージが渦巻くのみ そろそろ人生も終盤に差し掛かったと実感する今日この頃 そろそろ読み返してみようかなとの想いに駆られてオリマス。 | ||||
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空間の広がり、時間の広がり、意識の広がりなどいくつもの軸が拡張の対象となる。なんてすごい小説なのだろうか。正確には途中でついていけなくなったところがあり、すごいことは分かるが作品が訴えたいことを理解するまでには至らなかった。時間軸を行きつ戻りつ、場所も地球や火星などの太陽系から恒星間の話まで広がる。これは再読すると作品を楽しめそうだ。 | ||||
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私は今年55歳にして、ほんの2~3年前から小松左京氏の作品に本格的に着手し始めた「にわか」読者だが、「名作」の呼び声高い本作品をkindleで購入し、四日間かけてゆっくり読み、たった今読了。 ん~これは噂に違わない名作ですね。これは凄いのではないでしょうか? 何が凄いって、小松左京という人は、「自身の作品の意味や価値」などを「意識しないで」書いてしまう、という「無意識」的傾向があることから、この作品だって決して「名作をものしよう」などという目的で書かれたものではないにもかかわらず、おそらく本人すら完全には理解していないだろうと思われる域にまで到達してしまっている作品だからです。 「無限遠点」という概念があります。 文字通り、「今自分が存在する時間と空間の現地点から、最も遠い地点」に関する考察です。 これについて、私はかつて考察(思考実験)したことがありますが、「無限遠点」はどこか、その答えは、「自分の背中」、つまり「自分自身」即ち「今、ここ」というものでした。結局それは、漫画でよくあるように、自分が撃った弾が地球を一周して、自分の背中に命中するというあのイメージです。 円環。循環。無限の宇宙の時空間においても、「直線」を無限に果てしなく進んだ果ては、知らず曲線を描いて「今、ここの自分」に戻る、と。敷衍すれば、「人は最初から「目的地」にいた」あるいは「最初から「欲しいもの(探し物)」は手にしていた」という、あのパラドックスです。 私の本作品に対する解釈に「読み違え」がないならば、この作品は、私の「無限遠点に関する思考実験から導き出された答え」と一致することに、唸った、というわけです。 それとは別に、この作品って、「2001年宇宙の旅」より以前に書かれたものですよね? 「日本のSFのレベルの高さ」を云々する以前に、もはや謙虚に押し黙るしかありません。。。 | ||||
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東京のN大学理論物理研究所助手の野々村は、ある日、大泉教授とその友人・番匠谷教授から一つの砂時計を見せられる。白堊紀の地層から出土したその砂時計は、砂が上から下に永遠に落ち続けながら、上の器の砂は全く減らず、下の器の砂は一向に増えない。野々村はこの時計の発掘現場である関西へと急ぎ向かうが、そのまま忽然と姿を消してしまう……。 ------------------------ 昭和40年(1965年)に1年かけて早川書房のSFマガジン誌上で連載された長編です。 プロローグでは恐竜が跋扈する太古の地球の片隅で、電話がけたたましく鳴っている様子が描かれます。時空のねじれを感じさせるこの冒頭部分から、突如として昭和40年の大学研究室へと場所は飛び、それがやがて時間機を駆使したタイムトラベル戦へと展開していくのです。 今から半世紀以上も前の日本でこれだけの壮大なSF物語が紡がれていたことの凄みをまず感じます。地球から伸びる宇宙エレベーター構想に触れられていますが、アーサー・C・クラークの『 楽園の泉 』は1978年、『 3001年終局への旅 』は1997年の作品です。また、太陽の突然の異変によって地球の生命体が脅かされる下りは、今年(2022年)邦訳が出て話題となっているアンディ・ウィアー『 プロジェクト・ヘイル・メアリー 』と同じテーマですから、その早さがわかるというものです。 ただし、昭和40年から始まる前半の展開は、野々村とその恋人・佐世子の物語は、しっとりとした味わいでまとめられている一方、野々村の失踪の背後にあった時間航行戦争が展開する後半は、とにかくその想像の翼の広がりが大き過ぎるうえに、めくるめくスピードで描かれていくため、読み手としてはその展開に十分に追いついていけたとはとてもいえません。青息吐息の読書だったというのが率直な感想です。 またタイムトラベルだけでもお腹がいっぱいになりそうな仕掛けなのに、そのうえ超能力者がしれっと登場したり、「光線銃」という昭和的な用語が出てきたりと、やはり古めかしさは否めません。 巻末の「初版あとがき」で作者の小松左京は、連載を続けるのにかなり苦労した経緯を明かしたうえで、いつか体力と気力と準備を整えて同じ主題でまた書きたいと、正直すぎるほど正直な言葉を綴っています。「この作品は、次の作品へのエスキースと考えていただいてもけっこうです」とまで記します。体力も気力も準備も不十分なまま書き進めてしまった下絵的な作品だと聞かされたわけですから、読者としては鼻白む思いがします。 . | ||||
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双璧の片方、個人的には光瀬龍氏の「百億の昼と〜」かと思っています。SFMオールタイム投票等でも概ね、この2作品がツートップですしね。 高校3年生時の「国語表現」でこの作品を取り上げたのですが、私の力不足と担当教師の理解不足等もあり、当時は全然歯が立たなかったような……果たして今でもどうか、と思う部分はありますね。 小松左京氏の主系列的作品で、これと「神への長い道」や「結晶星団」、「ゴルディアスの結び目」と総決算作で未完に終わった「虚無回廊」等の流れで読んで欲しいですね。「復活の日」「日本沈没」「首都消失」等はまた別の系列ですからね。大きくはこの2つに分類される作家かとは思います。 生前の左京さん、連載も非常に書くのがしんどくて参ったと話されていたようですが、やはり氏はだてに京都大学でイタリア文学を専攻されていないので、SFでダンテ「神曲」を書きたかったのは間違いないんでしょうね。生涯をかけての途方もない試み、完成することはなかったのでしょうが……断片的ではあってもこの作品の壮大さ、「三体」シリーズ等にも負けてはいないよな、といち左京ファンは思ってしまいますね。 他の方もカスタマーレビューで色々書かれている通り、読者の想像力を非常に刺激する佳作ですので、やはり是非ぜひ読んでもらいたい一冊ですね。 | ||||
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本作の主人公は人間ではなく、タイトルにある通り、「流れ」です。しかも「果てしな」い「流れ」。そのスケールには圧倒されますが、自分の場合、1人の主人公を通してしか物語に入り込めないのでダメでした。 | ||||
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40年前、中学生の時に夢中で読みました。 スケールの大きいSFです。 | ||||
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白亜紀の地層から止まらない砂時計が発見される、という、冒頭に提示される謎には惹かれたが、その回答が「タイムマシンで未来人が来て置いていった」という、考えられる最も安易なものだったのにはガッカリした。 時間遡行、時間停止、四次元、気候変動による地球滅亡、歴史改変、並行宇宙といった珍しくもない発想を詰め込んでいるが、さして深堀りされているわけでもなく「フーン」という印象しかない。 なんかワチャワチャやってるけど、タイムマシンがある時点で「ルール無用の何でもあり」でしかなく、つまらない。ドラえもんと一緒。 | ||||
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深淵な宇宙の真理を、人間の意識は理解できるのか?そもそも意識とは何か?そんな深い問いを投げかける唯一無二のSF超大作です。果てしない広大な宇宙空間と永遠の時の流れの前では、人間の意識など、砂漠に落とされた一滴の砂粒にも満たない、微小で瞬間的な存在にすぎません。しかし人間の心は、宇宙を「意識」することで宇宙全体をとらえることができるのです。宇宙があるから我々の意識があるのか。我々の意識があるから宇宙があるのか。いや、そもそも宇宙と意識はお互いに相克するのではなく、同一の存在なのではないか。数万年前にホモサピエンスが誕生した。そしてこれから何万年、何千万年と続くかもしれない我々の種の歩み。そこに存在する何千億人の意識は、過去から未来への途切れない大河となって、人類の歴史をつなぐのです。その遥かなる未来に、人の意識は宇宙の真理にたどり着くのでしょうか。そんな科学的であり哲学的な問いを投げかけます。 そしてこのSF小説は宗教の教典的であるとも思いました。時間と空間を目まぐるしく行き交い、自分の現在地が分からなくなります。登場人物の多さと関係性の分かりにくさも重なり、自分が何の話を読んでいるのか途中からわからず、ほとんどの読者は迷子になったような気持ちになるでしょう。しかし場面が変わっても、一貫してこの小説は人の意識の意味について問いかけます。これはまさに宗教の「我々はなぜ生きているのか」という根源的な問いと同じです。そして物語を通じて人間という存在の根源に迫ろうとするアプローチは、ギリシア神話や旧約聖書が「神話」という物語を通じて人間に語りかけたことと同じでしょう。明確な起承転結で完結させず、読む人に考えさせる、という意味でも。 理解するのではなく、宇宙と人間の意識の深遠さを感じる。そんな稀有なSF小説です。 | ||||
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本書を久しぶりに読んでいて、おやっ?と思ったことがある。調べると、本書の出版社を問わない初版は1966年。それなのに、本書には日本列島の地質の特殊性を記述するのに当時は一般的だったプルーム・テクトニクス理論ではなく、当時最先端の理論だった地向斜理論が使われている。当時を知らないからわからないが、かなり論難を受けることだったのではないだろうか? 筆者は「百合若大臣伝説の現代版」を書きたいと考えて本書を構想したという。ひょっとするととりとめのないアイデアのよせ集めになりかねないテーマをこのような時空序事詩にまとめたのは、筆者の構想力と取材のたまものであろう。だとすれば、現代の恐竜学の観点からするとちょっとした齟齬があることぐらい、どうでもいいことではないか。 | ||||
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2021年現在、ストーリーに黴臭さも古臭さも陳腐さも、ましてやセピア色感も皆無とはなんたること。 スケールの大きさ、発想の斬新さ、豊富な科学知識、etc.に著者への敬意は惜しみません。 スゴイ、というより凄まじい時空感覚ですが、内容についていけたのは第二章とエピローグ(その2)まで。 後の第三章から第十章は混乱と混沌が錯綜し、エピローグ(その1)に至っても首を傾げるばかり。 私のような頭の固くなったロートルには荷が重すぎ。「日本沈没」や「復活の日」あたりで止めておけばよかった。 | ||||
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ネットの評判も良かったし、新品で買って読んでみるかと思ったのが間違いでした。確かに最初の導入部は、おぉ〜♫と思い読み進めますが、序盤から全く置いてけぼり。盛り込みすぎ。やりたい事はなんとなく理解できるが設定が雑過ぎる気がしました。ガニメデの何某みたいのを俺だったらこう書くぜって意気込んだが風呂敷広げ過ぎて収集つかなくなっちゃったみたいな…。何とも残念な感想しか出て来ません。後書きも本当に傑作だと思って書いたのか疑問になるくらいです。小松左京ってこんなつまらなかったかなぁ? | ||||
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