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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全1023件 801~820 41/52ページ
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時間をかけてゆっくり読みました。 私はやはり村上春樹作品がすきです。全ての作品を何度も読み返しています。 読み返すたびに新たな発見があり、自分の再発見にもつながる気がします。 この作品もそうしたいと思います。 | ||||
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話題になっていたので読んでみました。 どちらかと言えば、本は沢山読むほうではないし、音楽を聴くことの方が量としては多いと思うので、あくまでも個人的に感じた感想です。 まだ読まれてない方はネタバレになるのと悪いのでレビューをよまないでほしいのですがまず、主人公である多崎つくるは自らネガティヴを作り出してしまう感じがあってあまり感情移入はできませんでした。 常に冷静。あとシロが一体誰に殺されたのか?灰田のその後は?沙羅の出した答えは?色々なことが謎のまま終わってしまうというのが個人的にはどうも不完全燃焼でだめでした。 あと回想シーンがたくさん出てきますが、その回想シーンよりも、もっとアカ、アオ、シロ、クロ(エリ)の16年の空白を描写してほしかった。続きも知りたいけど続編を描くほどのエッセンスが残されてない。 ただこの煮え切らなさというか読み終わったあとのモヤモヤ感は不思議です。 多崎つくるのように割り切れない感情と近いものがあるかのように。 | ||||
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私にはこれが素晴らしいというふうには思えませんでした。 いつもの、村上さんですね、、っていう感じで。 パターンというか、手法というか。 それでもいつか、何かを期待して、今後も彼の本を買い続けるとは思うのですが、、。 | ||||
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普通にいいと思う。 エンタテイメント作家じゃないのだから、デフォルメした人物が登場したり事件が続発する本ばかりじゃなくてもよいでしょう。 | ||||
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マスコミが連日大騒ぎして、ヴォジョレーヌーボーのような扱いだった本著。自分もまんまと乗せられた一人です。 村上作品はデビュー作の「風の歌を聴け」がとにかくカッコよくてすっかりはまってしまい、それから全部読んでいますが 今回で完全にがっかりしました。 一言でいえば、主人公に全く魅力を感じなかった。終始イライラさせられました。 年上の女性に指示されるまで自分の抱えている問題について何も行動を起こさないし。姉がいたから年上の女性が落ち着く 云々は、一生甘ったれ坊やなんだなぁという感じで、ちょっと気持ち悪かったし。 大体、電話くらいサッサとでなさい。自分は非常識な時間に平気で電話するくせに、相手からの電話は「話したくないんだ」 と無視。36歳の設定が痛いんですよね・・・・。せめて大学生ならまだ共感できたかも。 いい歳した社会人が何やってるの、としか思えない。 そして思わせぶりに登場してその後一切出てこない、人やエピソードは一体どう処理すればいいのでしょうか。 これまでの作品ではここまでの放置はなかったような気がします。 主人公の悩みも、仲良しグループの悩みも、全てが薄っぺらく感じてしまいます。大体この主人公お金持ちのぼんぼんだし 母親や姉達に甘やかされすぎて精神的な成長が止まっているのでは? 主人公の恋人も理解不可能。もっともらしい理屈をこねても所詮していることは・・・・、そういうことでしょう。 もう村上節に乗れなくなってしまい、完全にしらけてしまいました。 | ||||
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「海辺のカフカ」の舞台となった四国は、八十八か所の巡礼地・お遍路さん、として有名です。 今回は、名古屋とフィンランドへ巡礼する旅でした。 生まれ育った、独特な濃い文化の地方都市へ住み続ける男友達。 知り合いの全くいない海外へ移り出て行った女友達。 名古屋といえば旅行記「地球のはぐれ方」で、一番最初に取り上げられた場所。 とても強い印象が村上さんに残ったようです。 「名古屋の青少年は、この街にいたらわりに孤独なんじゃないのかな」 「(名古屋の人は)出たら出っぱなし、居たら居っぱなし」 「グローバリズム対名古屋ファンダリズム」と、述べています。 自宅へ帰った後、友人へ電話をしたら、相手から、突然、絶交されてしまう。 中央公論社に対して書いた村上さんの自筆原稿が流失した事件。 村上さんと亡くなった編集者・安原さんとの友人関係を思い出しました。 「東京奇譚集・品川猿」では、ホンダの女性販売員が登場しました。 ここでは、レクサスの中堅販売員が好意的に描かれています。 トヨタ関係者にとっては、理想的な宣伝文章となっています。 組織で働いた経験の無い村上さんが、研修を取り上げていたのは、意外でした。 読んでいて、研修を受けた時に感じた不快感が、強くよみがえってきました。 平均的な社会人は、研修に対して、どのような思い出を持っているのだろう。 学生は成人する過程で、人間関係の優先順位が変わっていきます。 最初に男友達を切り捨て、次に女友達を捨て去り、結婚をして家族を作り生き延びる。 精神を病んでしまった友人を、長く助け続ける難しさ。 最近も芸能界で、矢部浩之さんは病んだ岡村隆史さんを支えながら結婚をされた一方で、 矢部さんと同じ年齢の中島知子さんは、必死になって人間関係を壊し続けています。 沙羅の魅力を感じるために、沙羅の過去についての物語を、もう少し書いて欲しかったです。 | ||||
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村上春樹さんの物語には、物語が無い。そう誰かが言っていましたが、自分もかなり同意です。私たちは彼の本を通して、唯唯彼の独特な世界に触れることが出来るだけなのです。そして、その世界が移り行く描写に引き込まれてしまうのです。最近では、同時代に生まれていて良かったと思える随一の作家と呼ばれる程、村上春樹さんの著作への世間の注目度は、彼のApp*e製品並に高まっていますよね。そこまで人気が出るとレビューも高から低まで様々です。そして、レビューを参考にする人ももちろん大変ですが、レビューを書く方も大変です。なぜなら彼の作品は一見難解ではない文章で出来ているにも関わらず、実はかなり深いところまで語られていることが大半です。そして、それをいちいち批判的に読み解くにはそれなりの知識とセンスが求められるので、自分のような素人にはまだまだ無理です。では自分はどう本書をレビューするかというと、ただ直感的に好きか、嫌いかで判断することにします。自分は素人読者なのでね。で、結論は、大好きです。 | ||||
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村上春樹氏の小説をいくつか読んでいて、いつも思い当たる言葉が2つあります。 思考することの恥、人間であることのおぞましさ。 (マラルメ) 世界なんか破滅したって、ぼくがいつも茶を飲めれば、それでいいのさ。 (ドストエフスキー) 世界の出来事に背を向けて、孤独感や喪失感に心地よく浸り、恥やおぞましさを密かに楽しむことが出来る人。そんな読者が、世界には数多くいる。善いか悪いかではなく、それが人間の一面であり、文学の王道である。私は、そんな風に思います。素朴に世界平和を願う宮沢賢治とは正反対の在り方でしょう。人生はファッション。世界の苦悩なんて糞食らえ。どうも、そういう村上春樹氏の世界は好きにはなれませんが、相変わらず文章力は確かだと感心します。ただ、我々は、そろそろ村上春樹氏を卒業して、人類の進化や向上について、もう少し考えてもいい時期を迎えているように思います。いつまでもぬるま湯のような時代は続きませんから。 | ||||
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村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という奇妙なタイトルの小説が売れている。すでに100万部を超えたとメディアは伝えている。この本に触れる前に、前作の長編小説『1Q84』を思い出してもらいたい。 『1Q84』は青豆と天吾という二人の男女の名前と、青豆が渋滞する首都高速道路でタクシーから下車し非常階段を降りていくという三つのコンセプトから書き始めたと春樹はインタビューで答えている。そのタクシーの運転手がかけていた音楽がヤナーチェクのシンフォニエッタという曲だ。現実のタクシー運転手がクラシックのマイナーな曲であるシンフォニエッタを聴いているとは考えられない。春樹はこうやって読者を不思議な世界に引き摺り込んでいく。 青豆が迷い込んだ世界は近過去の1Q84だった。そこは現実の1984年とは少しだけ違っているところだ。あることをきっかけに違う道を選択し、人々はあるべきでなかった世界に入ってしまう。そうだ。2011年3月11日の大地震を経験し、日本人全員が少しだけ違う価値観の世界の道に入り込んだように。あの大地震を経験し、人生が異なってしまった人は少なくないだろう。でも、後戻りはできない。 『1Q84』は幼少のころ暴力を被り心に傷を負った者の復活の物語としてぼくは読んだのだった。 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に話を戻そう。 色彩を持たないという意味は当初、ほとんどの登場人物の苗字に色がついているが、主人公の多崎つくるだけが色がついていないことだ。多崎つくるは自分自身何の変哲もない、カラフルでもない、つまらない人間だと思っている。しかし、それは彼がそう思い込んでいるだけで、周りの人々はつくるを色彩がないと口では言うが、心では不可欠な人間だと尊敬さえしていたのである。この平行線は最後まで交わることはなかった。つくるが気づくことはなかった。これは読者への問いかけでもある。つくるは色彩がない人間かどうか。色彩があるとはいったいどんな意味なのかと。 「巡礼の年」は、フランツ・リストのピアノ独奏曲集からの引用だ。リストが訪れたスイス、イタリア、ヴェネツィア、ナポリの地の印象や経験を表現したものである。その中の第1年スイスの第8曲<ル・マル・デュ・ペイ(郷愁)>という美しいピアノ曲がその小説の謎を解くひとつの鍵だ。この作品はオベルマンが友人に宛てた手紙で綴っている望郷の念「自分の唯一の死に場所こそアルプスである」を表現したものである。登場人物のシロこと白根柚木という女性と灰田という男性が心から愛していた曲である。シロは絞殺され、灰田は突然主人公の前から消える。アルプスとはこの小説で何を意味しているのか。それを特定することはできないが、生きるために非常に大切なものであるとは分かる。 主人公のつくるは仲の良かった友人とのちょっとした行き違いから、自殺一歩手前まで追い込まれてしまう。彼は何も悪いことをやっていないが、宿命として悪霊に憑りつかれたような苦しみを味わわされることになる。分岐点で右の道に行けば、別の世界に辿り着いていたはずだ。失われたもうひとつの世界はどこかに存在する。世界は多重構造になっているからだ。 つくるは巡礼によって、自殺に追い込まれそうになった謎を解き明かしていく。それは完全に解明されることはないが傷の痛みが幾分和らいでいく。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。そう悟るまで成長する。 すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ。では、その残されたものとはいったい何なのだろうか。それはぼくの解釈では、『自己』だ。高度消費社会で自我という欲望が肯定され、膨張して自己を食い破って出てきた。それが現代人の悩みの源泉である。自我を落ち着かせ、自己の枠に戻さなければならない。それは失ってしまったけれども人生に大切なものがあり、もうひとつの世界に踏みとどまっていると思うことでかろうじて護られるのである。自我は常に自分を正当化するから注意しなければならない。 我々は難しい時代に生きていると考えされたのだった。 | ||||
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今回の小説は、「ノルウェイの森」と同じようなテーマで、そこには姿や形をかけた直子やミドリやレイコが登場している。個人的に「ノルウェイの森」が好きなので、同じようなテイストを持つこの作品も好きである。 ただ残念なのはラストである。真相がきちんとあかされていないため、?が、ずっと頭に残るのである。読み終わった後に、ずっと真相を考えてしまった。 | ||||
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ふと疑問に思うんです。 どんな分野でもいい。 小説だろうと漫画だろうと音楽だろうと陶芸だろうと舞台だろうと、ある一つの目立たない作品(凡作)があって、それを世間の人が評価する時、作者の経歴やネームバリューってどのくらいの影響力があるものなのかと。 例えば音楽。初めはキャッチーなメロディで人気を不動のものとしたアーティストが、その後自己満ともとれるお世辞にも万人受けするとは言い難い曲を世に発表する。売れる。ミリオンで売れる。この曲にはきっと深い意味が、メッセージが込められているに違いないと感じるファンによって。若しくは売れているから間違いないだろうという風潮に従う人々によって。 もしその曲を名も知れない自称ミュージシャンがレコード会社に持ち込んだら、担当者はどんな評価をするんだろう?『君凄いね!これは100万枚売れなきゃおかしいくらいの名曲だよ君!』ってなるかなってことです。 今回の小説、、、 ハルキストの仮面を被り、得意気に意味を語るような器用なことは出来ません。 私やあなたの名前だったら本になることも無かったでしょう。 大好きな人だけに、、、残念。 | ||||
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(一部ネタバレあり)登場人物といい、筋といい、世界観といい(そこそこ収入があってなぜか女にもてる自意識過剰の独身中年男の自分探し)、変わり映えのしないものだった。これまでに村上春樹の代表作を何冊か読んだことがある人は既読感が邪魔をしてすんなりと入っていけないだろう。初めて読んだ人は、なぜ村上春樹が世界的な作家といわれるのかわからないと感じるだろう。 物理的な意味では読ませる。『1Q84』もそうだったが、没入しなくてもどんどん読めてしまうのだ。そういう小説はめずらしい。村上春樹なんだから、この先なにかあるだろう、という期待感で読みすすめるというのもあるが、「ありそう」な感じを出しながら話を展開させていくストーリーテリングは本当にうまい。単純な筋なのに構成が甘く、伏線が回収されていない(というかする気がない)のでフラストレーションを感じつつも、あるいはこの本は自作への序章?……などと、読む方が先回りして考えてしまう。そこまで織り込み済みで書かれたのであればメタレベルでの面白さはある。 深読みついでいえば、良い意味で読者を裏切るような新たな試みをせず、「村上春樹っぽさ」だけが濃くて内容が一見薄い作品をあえて書いたのは自身の「多崎つくる」性の表現であったととることは可能である。多崎つくるは自分が空っぽで色を持たないことにコンプレックスを感じている。 「僕にはたぶん自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない。そのことがずっと昔から僕の抱えていた問題だった。僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた。入れ物としてはある程度形をなしているかもしれないけど、その中には内容と呼べるほどのものはない」 しかし物語の終盤においてはそれを自身のアイデンティティとして引き受ける覚悟を決める。「空っぽの器」は「乗り物」を想起させる。結局のところ、作家の仕事とは駅を整備するだけで、電車に乗って好きなところに出かけていくのは読者である。つくるは言う。 「もし駅がなければ、電車はそこに停まれない。僕がやらなくちゃならないのは、まずその駅を頭に思い浮かべ、具体的な色と形をそこに与えていくことだ。それが最初に来る。なにか不備があったとしてもあとで直していけばいい。そして僕はそういう作業に慣れている」 沙羅の言葉を借りると、村上春樹は「すぐれたエンジニア」としての作家を目指しているとも読める。作家という仕事を「乗り物」と「駅」をつくることであると定義すれば、今回の作品がなぜ誰が見てもそれわかるような「過去の焼き直し」にして提示したことも確信犯的な行為に思えてくる。読者はこれを読んで、変わりばえがしないとか、思っていたのと全然ちがった、次作はもう買わないなどと言うだろう。こうしたかたちでの疎外は、「六本目の指」という余計な才能、感性をもって生まれた者の宿命であるとあきらめざるを得ない、と言っているようでもある。 「おれは結局のところ、一人ぼっちになるように運命づけられているのかもしれない/人々はみんな彼のもとにやってきて、やがて去っていく。彼らはつくるの中に何かを求めるのだが、それがうまく見つからず、あるいは見つかっても気にいらず、あきらめて(あるいは失望し、腹を立てて)立ち去っていくようだ。/自分の中には根本的に、何かしら人をがっかりさせるものがあるに違いない/結局のところ、人に向けて差し出せるものを、おれは何ひとつ持ち合わせていないのだろう」 もし多崎つくるが作家という仕事を象徴しているのだとすれば、その奇妙な名前の謎もとける。つくるは「作」と書く。これは作家の「作」ではないだろうか。この一字について表現するためにの作品であるとすれば、伏線や筋などは借り物でも使い回しでもなんでもいいわけだ。というかむしろそうあるべきなのだ。父親が「創」ではなく「作」という字を選んだことを、主人公はこのように言って感謝している。以下の一言は、本書から読み取ることができる「作家=エンジニア」説の裏付けともいえるだろう。 「『多崎創』よりは『多崎作』のほうが間違いなく自分の名前として相応しい。独創的な要素なんて、自分の中にはほぼ見当たらないのだから」 そうやって割り切ったとしてもまだ残る伝えたいという欲求。それが、ひび割れた古い壁から水が染み出るようにこの作品全体を覆っている。 「それは一人の心と、もう一人の心との間の問題なのだ。与えるべきものがあり、受け取るべきものがある」 この本を読んで真っ先に感じたのは、トラウマ、友情、恋愛、本書に描かれているそれらはすべて他の作品と置き換え可能な素材と一見してわかる作品であることだった。小説としてはつまらない。でも、あえてそうしたものを組み合わせた作家論として読めば、とても面白い。 | ||||
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会社の女の子にどんな本と聞かれ、ミスチルファンの子だったので「彩り」の内容と似てるかなあと軽く返答した。サビの部分の歌詞で色の羅列するのを思い出し、フラッシュアイデアで答えたのだが、家に帰り聴き直してみると根っこの部便が実に関連している。今回の小説では、つくるの駅を作るという職業が社会との係りや人との繋がり、自身のアイディンティを構成するものとして大切に表現されている。これは今までの作品にはなかった部分だ。ミスチルの「僕の事務」の部分にあたる。 巡礼で出会い、振返る人々を「色彩のある人々」として表現しているが、これはやはりつくるの人生を彩っていた人々であったという暗喩であると解釈したい。一見色のない「職業人」の人生も、解釈の仕方では煌めいた再構成が可能であるのだ。人が生きていく上で、心の中で燃えている核のようなものを感じさせる。 つくるが沙羅を必要とする必然性が薄いので星4つ。羊をめぐる冒険の「耳のきれいな女の子」のように単に導く人として描いたほうがすっきりしたような気がする。 | ||||
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村上作品の中でもっとも近いのは、「国境の南、太陽の西」だと思います。未解決の過去を辿ることによる償いと巡礼の物語であり、とてもパーソナルで静かな小説です。 本来は、一週間で100万部も売れるようなタイプの小説ではありません。時代的なタイミングやプロモーションの成果によって爆発的に売れていますが、そういう瞬発力とはまったく無縁の内容です。 本書で初めて村上作品を読んで抵抗を感じたかたもいるでしょうが、村上氏の著作は、個人の内省に深く踏み込むためにそのモノローグがナルシズムに映ったり、登場人物やプロット自体が暗喩的に使われるためにそのとらえどころのなさが小賢しく感じられる部分があると思います。著者のファンである自分でさえ時々そう感じますし、そのスタイルは本作でも変わらず繰り返されているので、過去に村上作品に幻滅したかたには合わないでしょう。非常に人を選ぶ小説です。 村上作品は、内省に踏み込むのが気恥ずかしいかたには全く合わないだろうし、優れたミステリーのようなプロットの整合性や解決を期待するかたには応えられないと思います。緻密かつボリュームのある人物描写がなされないとリアリティを感じないという人、非科学的・ファンタジックなプロットを許せない人にもおすすめできません。 にもかかわらず、村上氏の著作が多くの人に愛されているのは、客観的な事実や解釈をダイレクトに読み手に提供するのではなく、一見は漠とした暗喩の積み重ねによって、孤独や哀しみの輪郭を「読み手それぞれの経験と解釈の中に」浮かび上がらせることができるからでしょう。それはダイレクトに核心を突いた表現と同等に(あるいはそれ以上に)困難かつ高度な表現のはずです。それが村上作品を村上作品たらしめている類いまれな特徴であり、また最大の弱点にもなっている気がします。 「薄っぺらな著作にコアなファンが群がってそれぞれが勝手な解釈で過大評価している」と断じるか、「読み手それぞれが持つ孤独(読み手の経験)に形を変えて寄り添うことができるために世界中で幅広く愛されている作家」と見るか、村上氏の評価はそこで大きく二分されると思います。暗喩に共鳴する部分がなければ前者になり、あれば後者になるでしょう。 もし後者であったなら、その共鳴は読み手の成長や経験によって変化し、将来まったく違う輪郭や解釈を与えてくれます。時を経て再読するたびに読み手と村上作品との絆が深まるのは、そうやって小説が読み手の人生に寄り添い続ける力を持っているからです。そういう村上作品の素晴らしさを自分はずっと実感してきましたし、本作でもそれは失われていないと思いました。 今回はユーモアが控えめであり、登場人物たちの台詞や比喩がみずみずしく、三人称表現であることも相まって、透明感のある独特の作風になっています。特に、巡礼の最後にクロと再会した場面は情感深く、胸を打たれました。ただ、以前の著作と似ているプロットの頻出や、全体的にやや冗長で荒削りな印象(特に最終章が…)があることから、世界的に評価されている過去の著作には大きく及ばなかったと感じます。 また、1Q84で総合小説的なアプローチを見せたあと、小説を通じて次に何を語ってくれるのかを期待していたら、初期の著作に類するような非常にパーソナルな作品が出てきたことには、かなり残念に思う部分がありました(自分は震災後の日本社会に対するコミットメントをもう少し期待していたので)。村上氏の翻訳による海外の小説「極北」はちょうどそれに応えるような作品だったので、本作が不満だった村上ファンのかたにはそちらををおすすめしたいです。 | ||||
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情景と音楽が印象に残る小説でした。物語の中ではリストの「巡礼の年」が繰り返し流れます。ラザール・ベルマンの演奏ですが、ある重要なシーンのみアルフレート・ブレンデルの演奏に変わります。華麗できらびやかなロシアンピアニズムの系譜を継ぐベルマンの演奏に対し、詩人でもあるブレンデルの演奏は幾分端正で慎みがあり、内省的です。ある女性に対して向けられる2人の登場人物の眼差しと理解の違いを象徴しているようにも思えました。(ベルマンの3枚組輸入CDが売れていますがブレンデルの演奏(5枚組輸入ボックスセット)も本当に素晴らしいです。) 以下は余談(言葉遊び)になりますが、、 本作ではタイトルもそうですが物語の中で「名前」に注意を向けさせるような表現が度々みられます。また「巡礼」、「背教」、「カソリック」といった語彙やヨナ書やヨハネ伝に由来する比喩等、キリスト教を感じさせるモチーフが所々に埋め込まれています。したがって読み進めるにつれてどうしても両者を関連付けて深読みしてしまうことになりました。 たとえば「Eri」と「Sarah」という名前は聖書中の人物(存在)をイメージさせます。Eriは旧約聖書中の預言者を連想させる名前でもありますが、十字架上のイエスが最後の瞬間に呼びかける名前でもあります(「Eri Eri 何故私を見捨てるのですか」)。 そしてSarahも旧約聖書中に登場する女性ですが、彼女は高齢でありながらも美しかったため、王に見初められ、夫の元から離れるというエピソードを持ちます。そうやって深読みしていくと、主人公の名前も意味ありげではあります。「産めよ増やせよ」という言葉は旧約聖書のキーワードですが、主人公の名前はある人物を連想させなくもありません。マタイ伝冒頭の長大な系譜の最初に出てくる人物であり、「多くのものの父」という意味の名前を持つその人はSarahの夫でもあります。 その後Sarahを取り戻した彼は一族繁栄の礎を築きます。三大宗教の源流に立つ人物です。 | ||||
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高校生の年代。。。大人の世界と子供の世界を行き来する青春時代に、男女5人のグループでの欠点無き最高の日々を作ってしまった主人公たちの苦悩。 出発点はすべてそのグループでの日々が完璧すぎたという事実にある。多くの人は、主人公のように最高の青春時代を持てたという人は少ないだろう。青春時代は一瞬のうちに過ぎ去っていき、変色していくものなのである。 しかし、完璧すぎた青春が偶像となって観念的理想となり、彼らをその後、苦しめる原因となった。その偶像が色あせて腐っていく前に破壊されることとなった。理由なく捨てられた主人公、多崎つくる。 彼はそのことを思い悩みながら過去を忘却しようと色彩を欠いたまま生きていく。あるきっかけで、彼は自分の過去と向き合う決心をした。。。。色彩を欠いた多崎つくる。本当は彼が一番の光彩を放っていた。。。知らないのは自分だけだ。 青春は少し、汚れている方がいい。青春は恥ずかしくみっともないくらいで丁度いい。。。そんな気持ちになった物語でした。村上春樹ワールド最高です。(なるべくネタバレしないように書きました。) | ||||
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こちらのレビューを見ていて、 「わざわざ読んで悪口を言いたい人たち」 が世の中には沢山いるんだな〜 と笑ってしまいました。 共感出来るところも多かったし、魅力的な小説だと思うんですけどね。 | ||||
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この作品を読み終えた時、毎回、村上作品に対して感じる特有の読後感を 得ることが出来たと同時に、この作品は評価が別れるだろうと感じました。 メタファーの多用により、プロットとして完結していないと感じる読者も 相当数いるのではないかという危惧です。 しかし私の中では近年の最高傑作だと思います。 『国境の南、太陽の西』と作風は似ていますが、こちらの方では余りにも ポストモダン的な要素が前面にあるのが読みとれて、途中から「うん?」 って感じでしたが、本作は古典的なものに回帰してると思います。 平易な文章で、毎回村上作品に出てくる性描写も奥深かったです。 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という題名で、最初から 内容全体を提示したことも面白い試みだと思いました。 本の内容は繊細多感な時期に仲間から外され、それ以来、自分には主体 (色彩)がないと感じている主人公が、その抑圧した過去を、一人の女性と いう触媒により巡礼なるものを行う。 そこで、ある種最初からストイック過ぎる破壊性を包含している男3人 女2人のグループの”イマ”を眼にする。 その作業を通して、主人公の主体と魂が結合され、人を愛することが出来る ようになるというものでしょうか。 ただ、本作品の異様な熱狂ぶりには違和感を感じます。 昨年、村上氏が成し遂げた、レイモンド・チャンドラー作『大いなる眠り』 の翻訳という日本文学界における素晴らしい業績と、余りにもかけ離れて いるからかも知れません。 (同作品は、私が読んだ当時、絶版されていて、古書でしか手に入れること が出来ませんでした。村上訳は、まだ読んでいないのでGWの楽しみにして います) | ||||
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村上春樹のファンの方ほど、がっかりされたという方も多いのではないでしょうか。 まず、シロについてもっとちゃんと描かないとつまらないと思います。悪霊に憑かれたように理由なく(あるいは、宿命的に)人が損なわれていくことがあるとしても、その過程をもっとちゃんと描いてほしい。ノルウェイの森の直子のように。あるいは、多崎つくるがそれをどう受け止めるのかということを。 それから何より、夢の中で交わり意識の中に射精する的なプロットはさすがにもう飽きました。加納クレタはいいとしても、その後、佐伯さんもフカエリも青豆も皆そう。「またこれか」と思って冷めてしまいます。 自分自身、団塊ジュニアと言われる世代ですし、その気になれば社会的にある程度以上成功することのできる能力と環境に恵まれながら限定された事柄にしか関心を持てず、人と一定の距離を置きながら、細々とした事柄には几帳面で、ときどき何かに真剣に腹を立てたりするといった村上春樹の小説の主人公のいつもの生き方には共感を覚えますが(だからこそ村上春樹のファンなのですが)、「羊をめぐる冒険」や「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」、「ねじまき鳥クロニクル」、「ノルウェイの森」といった初期から中期の作品と比べると、数段落ちると言わざるを得ないと思います。 という訳で、村上春樹を読んだことのない方には初期から中期の作品をお勧めしますし、初期から中期の作品を既に読まれたという方ならあえて読まなくてもいい、という程度の作品だと思います。 村上春樹の新作が出ればまた読んでしまうとは思いますが、もうだめなのかもしれないと思いました…。 | ||||
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ただ読んでてとても素敵な景色が思い浮かべられ、読書期間中の1週間、本を手にしている時も手にしていない時も、なんだか幸せな気持ちでいられた。それだけ | ||||
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