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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全1023件 881~900 45/52ページ
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発売日に購入して読みました。自分には純文学がわからないということがわかりました。 筋立ては平凡すぎるほどです。ドラマチックな展開もなく、爽快な謎解きもなく、感動するエピソードもありません。ぬるい展開で、謎は解かれないまま、読者に共感を与えない形で物語は終わります。終わったという実感すら与えません。この軽さをどう捉えるかは、読者に委ねられています。 作者は何を言いたかったのでしょうか。書いてあることからそれを探ることは困難な気がします。ならば書かれていないことを探ってみようと思いました。 この小説では、現代日本の独身中年における乾いた孤独が丁寧な文体で描かれており、確かにこんな中途半端な人が増えているという感じはします。反面、不況、失業、貧困、財政赤字、環境破壊、戦争の脅威といった大きな現実の問題は取り上げられていません。そのためファンタジーかと疑うほど、非現実感にあふれています。素直に読めば、主人公が精神的に子供であるために自閉的であり、実社会が見えていないのだという解釈が成り立ちますが、この見方は皮相的でしょう。 思い切って深読みすれば、日本人が国内で目にしている問題は、(作者が高く評価されている)世界の水準で見れば、本当は大した問題ではないという辛口の批評が込められているのかもしれません。この解釈に立てば「日本の若者よ、現状に絶望してはいけない。今より少しだけよくなりたいという謙虚な理想をもって人間関係を大切にすれば、幸せがやってくる」という、作者の励ましのメッセージなのだとも受け取れます。 村上氏は孤独をモチーフにすると言われますが、この小説では、孤独に生きている者は不幸になり、家族を持った者が幸せになっています。人間関係が希薄化した現代でも家族は大切だという作者のセンチメンタリズムでしょうか。これが作品の心地よいぬるさを引き立てています。 気になるのは、主人公と友人たちが属する社会階級です。友人たちは中流と描写され、主人公だけ少し裕福と描写されています。こう書けば若い世代は感情移入できるのでしょうか。古い世代の感覚では、主人公は裕福すぎて共感できません。主人公たちが名古屋人なのに洗練された標準語を話しているのも違和感があります。名古屋は閉鎖性を象徴する記号で、現実ではないということなのでしょうか。 この小説は、不透明な時代に生きる若者たちにささやかな夢と希望を与える意図があるのかもしれません。それが本当なら大ベストセラーになるでしょう。 | ||||
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読み続けるのがとても困難でした。 村上春樹と云う作家とは短大生だった時に出会った『風の歌を聴け』からです。かれこれ30年近く彼の作品と接してきたことになります。勿論、受け入れがたかった作品もありますが……。好きな作家のひとりであることは事実。だが、昨今の彼の作品には残念ながら期待を寄せることはなくなりそうです。 まず、購入するのは自分の目で内容を確認してからすべきです。それで自分がそえる作品であると思われたのならば、読まれることをお勧めします。 そうでなければ、購入は勧めません。そうなれば、読まずに廃棄されるか、新古書店へ買いたたかれて本を売るだけです。これだけのベストセラーですから、買い取り価格はさぞ安いことでしょう! 自分の目で確かめて買うこと! それをお勧めします! | ||||
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煮え切らない感じの(でも何故かたやすく女性と寝る事ができる)主人公が、精神を病んだ女性に翻弄される話。 これって、ノルウェイ、国境、ねじまき、カフカにもあてはまらないか? | ||||
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村上春樹の小説は全て読んでいるけど、 読んでいて「涙」が出たのは初めてです。 ネタばれしないように感想を書くのは難しいけれど、 個人的には好きな作品です。 | ||||
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本作は3.11を経た「国境の南」ではないかと思いました。底流にあるのは「それでも生きていく」であり、「ノルウェイ」や「国境」ではうつむきがちだった生への肯定が、「多崎つくる」では顔を上げて受け入れていく姿勢に変わっているように感じます。ミステリのような合理的な謎解きはありませんが、誰の人生にもさまざまな形で起こりうることを、色彩を持った登場人物たちが提示していきます。沙羅はイタリア語の「知る」という言葉の未来形=多崎つくるを先導する役割‥‥というのはうがちすぎでしょうかね。「カフカ」や「1Q84」路線が苦手な人には、すっと入ってくる作品だと思います。そして未曾有の災害を経た日本人への応援でもあると思います。 | ||||
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なぜこうも村上春樹の作品に惹かれるのだろうか。 ずっと理由をうまく言葉にできなかった。 ただただ好き、たまらなく。で、いいと思っていた。 今回、この作品を読んでいて、ふと思いついた言葉がある。 少数派。 多分、村上春樹も、私も、多崎つくるも、少数派の人間なんじゃないかな・・・。 少数派だけど、真面目に人に迷惑かけずに日々生きています。 | ||||
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村上春樹のデビューから一貫したテーマである「喪失」と「再生」。 これに新たなラインナップが加わった。 われわれは、好むと好まざるに関係なく、ある種の行動規範の強制的な変更を強いられてきた。 古くは、第二次世界大戦の戦前と戦後。 70年代は、学生運動の理想と終焉。 80年代は、バブルの崩壊。 それらは、人間の性(さが)によるもので、われわれが責任を負うべきいたしかたない面があった。 次のステップに進むために、運命的に仕組まれたものと考えても納得できる。 しかし、今回の震災は、いかんともしがたい厳しい仕打ちである。 時代を切り拓くために、何かを捨て、もしくは失い、リニューアルすることは、われわれが常に歴史上行ってきた事柄なのかもしれない。 たしかに、個人のレベルでは、それが容易にできる人とそうでない人がいると思う。 しかしいずれにせよ、「過去に蓋をすることができても、歴史を変えることはできない」のだから、向き合って行かなくてはならないのだ。 これまでの作品での「喪失」は一人称の「喪失」であった。 きわめて個人的な、成長過程での喪失と「再生」である。 これが、三人称となると、普遍化する。 自分では訳も分からないままに、全てを失った人間が、どのように過去と向き合いながら「リニューアル」していくか。 そこに答えはないにしろ、一つの方法論を提示されたような気がする。 そう、「まず、駅をこしらえるのだ」。 | ||||
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かなり期待して買ったけれども、やたらと形容詞、隠喩が多いわりに、本の中で行われていることはなんともない。 村上さんの作品を初めて読んだのは高校生の時で、それからずっと好きだったけど、ある時から文章の言い回しだけが楽しくて買っている感じがしてた。 今回は前回の「1Q84」からの反動でかなり期待してたけど、実際読んだら少しは良くなったけど、それでも鼠シリーズを超えてない気がする。 ひとによるかもしれないけど、僕はもういいです。それでも気になって買っちゃうけど。 | ||||
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主人公の30代の男性「多崎つくる」が、過去のトラウマに向き合うべく、かつて主人公を 手酷く切り捨てた もと友人たちを訪ねてまわる話です。 それがタイトルにある「巡礼」の意味で、ふつうの意味での巡礼(「聖地」への訪問) をするわけではありませんでした。 主人公に「巡礼」をすることを促す女性「沙羅」が、少々うさんくさく 感じられました。よく言えば積極的とも言えますが、なにか押しつけがましいというか。 結果オーライだったから良かったものの、なんであんなに自信満々に、絶交した 昔の友人たちに会いに行けと言えたのか、違和感をおぼえました。 ただ好奇心にかられただけで、主人公を焚きつけているようにも感じられました。 沙羅さんは、遠い過去の問題であっても、それを解決しなければ現在も危うくなる。 前には進めないというような意味のことを言います。しかし、それってどうなのでしょうか? 過去は過去。現在は現在なのでは? 今回の小説の描写は、主人公からの視点に限定されているので、 多崎つくるの知らない水面下で何が進行していたのか、最後までよくわからないところがあります。 もと友人たちの語る言葉も、本当に腹を割って話しているのかどうか、よくわかりません。 そこには、想像の余地があり、それこそが今回の話の面白いところなのかもしれませんが、 すっきりしないところでもあります。 本筋とは関係ありませんが、多崎つくるの父親が、つくるの名前を決めた理由の話は、 良いなと思いました。不思議な雰囲気のある灰谷と彼の父親の話も好きです。 | ||||
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この作品の中で繰り返し言及されるリストの「La mal du pays」というピアノ曲は、静けさの中にかすかに悲痛な叫びを聞き取れるような曲です。 作品の終わり近くになって、主人公は、かっての友人の一人と話すうち、次のような思いに捕らわれます。 「人の心は痛みと痛みによって繋がっている。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を流さない許しはなく、喪失を通り抜けない受容はない」 たいていの人は、最愛の人を喪うという経験を必ずします。例えば、親を亡くしたり、恋人や友人を失ったりというのは極めて普遍的な経験です。しかし、それを乗り越えるのは難しいし、その乗り越え方は多様です。村上春樹はそのような喪失と回復を繰り返し描いていますが、この作品は極めてダイレクトに、喪失そのものを受容すべきものとして描いています。かっての友人の不幸な死は、決して肯定はできないが、受容せざるを得ないのです。そのような普遍的な真実を、具体的な物語として何度も描いてきた作者に感謝します。 | ||||
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著者の文学的な達成と成長をささやかに(しかし芳醇に)匂わせる、硬く小さな果実のような作品だと思いました。 さほどヴォリュームもなければ、物語に劇的な起伏もありません。驚かせるような新機軸も手の込んだ仕掛けもなく、読者をはっとさせるような荒唐無稽なエピソード、著者独特のアイロニーとユーモアに富んだ比喩、洒落た小道具も(比較的)少ないと言えるでしょう。 プロットを細かく設定せず、手なり(手の赴くままに)で書かれたような作風は、これまでの著者の長編作品の中においても、ひときわに強く感じます。しかしそれらの要素は熟達した水泳選手が到達地点をしっかと見定め――あとは水の流れにすっかり身をまかせきって泳いでいるようなシンプルかつ流麗な流れとなって、このミニマムな作品を傑作たらしめているように思います。 今作の主題を「赦しと再生(への理解)」などと、安易に言ってしまうことは容易いのかもしれません。しかし、(仮設された)そのような古典的かつ普遍的な主題の下、「多崎つくる」の物語は、闇の中をひっそりと流れる小川のように淀みなく――畏れるべき神秘(あるいは神秘的な何か)の存在への畏敬を随所に感じさせながら――リアリスティックに、ユニークに進行し――やがて来たるべき結末を迎えます。 読後、「多崎つくる」の凍てついた心と身体を静かに、じわじわと暖めてくれていた小さな炎の存在。それが読者である私自身にも「フィジカルな効用」をもたらしてくれていることに気づき、驚きと感謝の吐息を漏らしました。 ※余談ですが、著者はレイモンド・チャンドラー「プレイバック」を訳しながらこの作品を書き上げたのではないでしょうか。読みながら、ところどころでそのように感じました。そう遠くないうちに早川書房から村上訳「プレイバック」が発売されることに1ヶ月ぶんの給料を賭けようと思います(笑)。 | ||||
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私は、大学時代に風の歌を聴けに出会い、それ以村上氏の小説は全て発売日に買って、その日に読み終えるということを30年続けてきた、かなり濃いファンです。 これまでの私にとってのベストは『ねじまき鳥クロニクル』ですが、それ以外の全ての小説も私にとってかけがえのない読書体験を与えてくれてきました。読んだ後数日はいつも、他に何も手を付けたくなるような衝撃を毎回受けてきました。ただ一作、『ノルウェーの森』を除いて。 今回の新作も発売当日に読み終えましたが、『ノルウェーの森』同様、何も感じることができませんでした。 ひとりの小説家が、『ねじまき鳥クロニクル』や『1Q84』のような大作を描き続けるのは不可能なのかもしれません。たまには深い井戸から出てきて外の空気を吸うことも必要なのかもしれません。ただ、願わくは、本作が次の大作のための小休止であって欲しいとおもいます。 | ||||
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最近、朝日新聞に寄稿するなど政治的な発言が目立つ村上さん。 中国や韓国に強硬な態度を取る連中が拍手喝采を浴びて、自制を求める人たちは「非国民」だとして糾弾されるのが今の日本のトレンド。そういった日本の「右傾化」に対して、村上さんは日本のナショナリズムは暴走しているとして自制を促している。その態度を面白くないと思う人は多いだろうし、読む前から「左翼」村上として否定的な態度で読む人も多いと思う。 そもそも「面白くなかった」とレビューに書いて「すぐにゴミ箱に捨てました」と無感覚に公言するその鈍感さを持った人間や、「お金の無駄だった」と金銭的な価値観でしか物事を考えることができない人間たちの感性の方が問題があると思うんだが…。 | ||||
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村上さんの作品は、”幾何学”から”トポロジー”、”多次元”に変化してきたと思います。それと同時に徐々に、社会にコミットメントするように変化してきています。 この小説は「1Q84」に続き、すごく構築的な多次元世界をつくるために、ほぼ全てがメタファーと記号になっていて、その意味を固定化させないために、ものすごく平滑な表現になっています。だからすごく読みやすいし、意味不明と読まれてしまう部分もあるように思います。 ある目的(言いたいこと)に向けて描いているのではなく、この小説の構造が目的になっていると思います。 いろいろな部分がいろいろな形でつながります。 この小説は「ノルウェーの森」などとは違い、”今”を観察し分析した小説だと思います。だからこの小説がおもしろくないなら、”今”がおもしろくないのだと思います。 少し違和感があるのは、”ネット”で良さそうなところを”ツイッター”や”フェイスブック”、”グーグル”という単語を使っていたところです。これも記号なのだろうけど。。。 | ||||
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大作と大作の間の「箸休め」のような作品である。 ここではノモンハンも出てこないし、 カルト教団も出てこない。 16年という時間の経過は描かれるが、 月が二つある世界は描かれず、 基本はリアリスティックな物語である。 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、 できが悪くはないが、傑作というわけでもない。 ここには「風の歌を聴け」から今に至る、 欠落の回復を目指す旅、というモチーフが踏襲されている。 構造のシンプルさといい、 初期作品に帰った、と言ったほうがいいかもしれない。 何度も書かれた旅。 今回の旅も含めて、それを「巡礼」という言葉で語り直している、 という印象を受けた。 この小説には、 古い村上春樹ファンにとって、 ホッとさせるモチーフが数多く描かれる。 既視感が多い、 とも言える。 またかよ、 と言いたいような気もする。 しかし、 だからダメだ、とは思えないのだ。 村上春樹自身はどう思っているのだろう。 自己模倣だとは思っていないだろうか。 [・・・] | ||||
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「心の整理がつかないまま放置されている思い出がある」人にオススメします! 主人公の多崎つくるは 仲の良い高校の友人4人からいきなり絶縁され傷ついた経験があり、 36歳になった現在、理由を確認するために、彼らを”巡礼する”物語です。 村上春樹はよく分からないと思っている方も多いかもしれませんが、 パラレルワールドや不思議な世界に向かわないので、とても読みやすい作品です。 私自身は海辺のカフカのような作品が好きなので☆を-1しました。 社会生活は問題ないものの、「心の整理がつかないまま放置されている思い出がある」ことは 決して遠い問題でなく、だからこそ、誰もが主人公の心に引き込ます。 そして、過去の友人と会い、心の整理をしていく過程を読み進めると、 今をがむしゃらに生きるだけでなく、時に立ち止まって対話することの重要さを感じます。 私自身、今だからこそ話せることがありそうな気がして、 読んだ後、意味もなく、高校時代の友達に電話してしまいました。 ちなみに、タイトルに入っている「巡礼の年」は 作品のモチーフに使われている、リストのピアノ曲のタイトルです。 とても旋律が美しい曲なので、本と併せて、オススメします☆ | ||||
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村上春樹さんの作品では、ファンタジー色の強いものと、より現実感の強いものがあるように感じます。前者が『1Q84』や『世界の終わりと…』、後者が『ノルウェイの森』。本作は後者に属するように思いますし、読んでいて『国境の南、太陽の西』を思い出すところもありました。個人的には、前者の方が圧倒的に好きなんで、そういった意味では若干の期待外れではあったのですけれど、一気に読み進めさせられてしまう魅力は健在。出来たら、もっと短いサイクルで新作を発表していただきたい、というのが一ファンとして切なる願いです。 | ||||
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真空とはなにもない状態ではなく、その物理系の最低エネルギー状態として定義される。たとえば電子と陽電子が生成と消滅を繰り返している状態。村上春樹の小説の主人公はいつも真空をかかえて登場します。からっぽに見える人格は真空よりもエネルギ−準位の高いどんな外界のエネルギ−も吸収してしまう。自分では気づかず人々の尖った余計なものを吸収する、人々になにか安心感を与える、ように登場してくる。今回の主人公「つくる」もその一人である。そして、真空が壊れて別のなにかに満たされることができるかどうか、という甦生の物語である。「色彩を持たない、多崎つくると、彼の巡礼の年」。 いつものように、スリリングな暗喩の数々がはじめから炸裂している。「壁にもたれて死について、あるいは生の欠落について思いを巡らせた。彼の前には暗い闇が大きく口を開け、地球の芯にまでまっすぐ通じていた。・・聞こえるのは鼓膜を圧迫する深い沈黙たった。」 なにかが真空の中にしのびよりそのエネルギ−バランスを壊し始めた。 真空の別名でしょうか、深くて遠い疎外感、を補強するための挿話がこの小説でも語られる。人々のもつ色を見分ける能力をもつ人たち、昔主人公の友人だった人たちの現在、娯楽映画MATRIXの有名な言葉のパロディ。"Welcome to the real world"、リアルワ−ルド、リアルライフとはなにか? この小説を引っ張る音楽は今回はリストの巡礼の年第一年スイス。前作で小説のリズムを刻んだヤナ−チェクのシンフォニエッタは小説1Q84の販売とともに店頭からCDが消えたという。今回もそうでしょう。ベルマン演奏。 P343、「あるとき」は「あのとき」の誤植ではないでしようか? そうならば クライマッスでの一文字の誤植は興ざめ。総じて、村上春樹のこれまでのモチ−フの集大成です。 | ||||
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32歳、女です。 今回の新作の発売で印象深かったのは、世間のミーハーな人たちがぜんぜん食いついていなかったことです。前作の1Q84の時は、村上春樹作品を読んだこともないような人が、ベストセラーだからとか、ノーベル賞候補だからとか、すごく売れてるからとか、意味深な出版社の売り方が目立っていてとにかく買ってみたとか、とりあえず買っとけば知的ぶれるとかいう輩が多かったと思います。そういう人たちは、途中で読むのを放棄した人が大半ではないでしょうか? 読んでも理解できない人が大半だと思います。村上作品は大衆文学ではない。読み捨てされるような作品ではありません。 ファンにとっては、とても個人的で大切な作品です。 だから今回の売り方は、とても好感をもてました。一気に読みましたが、孤独感、人と深くかかわることで得られるものや失ってしまったこと、色を持つということなど、読後も心の中に残っています。 つくるの孤独感の描写がよかったです。以前、心の闇という言葉を簡単に使われたくないと、春樹氏が言っていらっしゃったと思いますが、不気味な闇を感じました。これは心の闇なのでしょうか? 主人公はとても好きです。村上作品らしい主人公です。春樹氏に似ているのか? わたしに似ているところもあるのかもしれない。 もう少し深く人物のことが知りたかったかなと思います。心に迫るフレーズ、感動が欲しかった。けれど、この読後感こそ春樹作品の醍醐味かもしれない。 別に、春樹氏は、わかりやすい感動や、お涙ちょうだいを狙っているわけではないのだから。春樹氏が伝えたいこととはなんだろう。 もしかしたら、この作品にメッセージはないのかもしれない。春樹氏が生み出した作品は、確かに私の心をゆさぶり、話の世界へと連れていった。そして読んだ後も、今も考えている。 それでいいと思う。 | ||||
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相変わらず思わせぶり的で、中身の薄い内容の作品で、世界的作家カフカとはレベルが違い過ぎます。作者は正業に就いた経験が無いために、本当の世の中を知らない方のようです。よって世間の確信部分が解っていないので絵空事しか描けないのです。作者は聞く所に拠ると、圧倒的に女性フアンが多い方だと聞いております。世間に長けている人には物足りない作品。但し、女性にこれだけ受ける才能は大したものです。 | ||||
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