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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全1022件 881~900 45/52ページ
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本作は3.11を経た「国境の南」ではないかと思いました。底流にあるのは「それでも生きていく」であり、「ノルウェイ」や「国境」ではうつむきがちだった生への肯定が、「多崎つくる」では顔を上げて受け入れていく姿勢に変わっているように感じます。ミステリのような合理的な謎解きはありませんが、誰の人生にもさまざまな形で起こりうることを、色彩を持った登場人物たちが提示していきます。沙羅はイタリア語の「知る」という言葉の未来形=多崎つくるを先導する役割‥‥というのはうがちすぎでしょうかね。「カフカ」や「1Q84」路線が苦手な人には、すっと入ってくる作品だと思います。そして未曾有の災害を経た日本人への応援でもあると思います。 | ||||
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なぜこうも村上春樹の作品に惹かれるのだろうか。 ずっと理由をうまく言葉にできなかった。 ただただ好き、たまらなく。で、いいと思っていた。 今回、この作品を読んでいて、ふと思いついた言葉がある。 少数派。 多分、村上春樹も、私も、多崎つくるも、少数派の人間なんじゃないかな・・・。 少数派だけど、真面目に人に迷惑かけずに日々生きています。 | ||||
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私は、大学時代に風の歌を聴けに出会い、それ以村上氏の小説は全て発売日に買って、その日に読み終えるということを30年続けてきた、かなり濃いファンです。 これまでの私にとってのベストは『ねじまき鳥クロニクル』ですが、それ以外の全ての小説も私にとってかけがえのない読書体験を与えてくれてきました。読んだ後数日はいつも、他に何も手を付けたくなるような衝撃を毎回受けてきました。ただ一作、『ノルウェーの森』を除いて。 今回の新作も発売当日に読み終えましたが、『ノルウェーの森』同様、何も感じることができませんでした。 ひとりの小説家が、『ねじまき鳥クロニクル』や『1Q84』のような大作を描き続けるのは不可能なのかもしれません。たまには深い井戸から出てきて外の空気を吸うことも必要なのかもしれません。ただ、願わくは、本作が次の大作のための小休止であって欲しいとおもいます。 | ||||
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村上春樹の小説は全て読んでいるけど、 読んでいて「涙」が出たのは初めてです。 ネタばれしないように感想を書くのは難しいけれど、 個人的には好きな作品です。 | ||||
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村上春樹がデビュー以来コツコツと積み上げてきたハルキズム。本作はその対局にあるところで書き上げられた小説である。その春樹らしい心意気に頭の下がる思いがする。創作家とは生涯かくありたいものだ。 | ||||
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この作品の中で繰り返し言及されるリストの「La mal du pays」というピアノ曲は、静けさの中にかすかに悲痛な叫びを聞き取れるような曲です。 作品の終わり近くになって、主人公は、かっての友人の一人と話すうち、次のような思いに捕らわれます。 「人の心は痛みと痛みによって繋がっている。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を流さない許しはなく、喪失を通り抜けない受容はない」 たいていの人は、最愛の人を喪うという経験を必ずします。例えば、親を亡くしたり、恋人や友人を失ったりというのは極めて普遍的な経験です。しかし、それを乗り越えるのは難しいし、その乗り越え方は多様です。村上春樹はそのような喪失と回復を繰り返し描いていますが、この作品は極めてダイレクトに、喪失そのものを受容すべきものとして描いています。かっての友人の不幸な死は、決して肯定はできないが、受容せざるを得ないのです。 現在の恋人は、魅力的な異性として、さらに彼女自身の発言によって、喪失の受容を促しますが、恋人がそのような発言をすることは、この小説をある意味で簡明で大衆的なものにしています。しかし、作者にとって本当に望ましいのはノーベル賞受賞ではなく、大衆からの長期的な支持ではないでしょうか。村上春樹は、世界の大衆からの長期的な支持を得ている希な存在だと思います。 | ||||
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村上さんの作品は、”幾何学”から”トポロジー”、”多次元”に変化してきたと思います。それと同時に徐々に、社会にコミットメントするように変化してきています。 この小説は「1Q84」に続き、すごく構築的な多次元世界をつくるために、ほぼ全てがメタファーと記号になっていて、その意味を固定化させないために、ものすごく平滑な表現になっています。だからすごく読みやすいし、意味不明と読まれてしまう部分もあるように思います。 ある目的(言いたいこと)に向けて描いているのではなく、この小説の構造が目的になっていると思います。 いろいろな部分がいろいろな形でつながります。 この小説は「ノルウェーの森」などとは違い、”今”を観察し分析した小説だと思います。だからこの小説がおもしろくないなら、”今”がおもしろくないのだと思います。 少し違和感があるのは、”ネット”で良さそうなところを”ツイッター”や”フェイスブック”、”グーグル”という単語を使っていたところです。これも記号なのだろうけど。。。 | ||||
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30代後半の男性が、過去を振り返る。 痛みを伴う青春時代の光と影。失望、喪失感と再生。 20年以上前、旅先で貪るように読んだ「ノルウェイの森」と酷似しているように思った。 「色彩をもたない」。個性がないと思い込んでいる主人公、多崎つくるくん。 自分の色を持っていない人間なんて、この世にはいないよ。 それに、いくらナイーブな傷つきやすい少年であったとしても、14年もそれを引きずるなんて……。 その時、深い傷を負ったことは理解できる。 自分を否定したい気持ちも、消えてなくなってしまいたかった気持ちもわかる。 でも、14年もの間、自分を苦しめる原因を突き詰めようともせず、ただ自分の殻に閉じこもってしまっていたのは、どうなんだろう。 友達以上恋人未満(かなり古い表現?)の沙羅が「つくる」に言った「過去と正面から向き合わなくてはいけない。自分が見たいものを見るのではなく、見なくてはならないものを見るのよ。そうしないとあなたはその重い荷物を抱えたまま、これから先の人生を送ることになる。(略)……」という言葉のとおりだと思う。 「海辺のカフカ」や「1Q84」のような難解さがない分、読みやすいけれども、ちょっと抒情的過ぎる感じで、面白いとも思わなかったし、感動もしなかった。 ただ、著者の年齢でも、このような青春小説?を書けるのだと、妙なところに感心した。 この本では、主人公はフィンランドに向かうのだが、村上春樹は、北欧が好きなのだろうか? | ||||
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かなり期待して買ったけれども、やたらと形容詞、隠喩が多いわりに、本の中で行われていることはなんともない。 村上さんの作品を初めて読んだのは高校生の時で、それからずっと好きだったけど、ある時から文章の言い回しだけが楽しくて買っている感じがしてた。 今回は前回の「1Q84」からの反動でかなり期待してたけど、実際読んだら少しは良くなったけど、それでも鼠シリーズを超えてない気がする。 ひとによるかもしれないけど、僕はもういいです。それでも気になって買っちゃうけど。 | ||||
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発売日に購入して読みました。自分には純文学がわからないということがわかりました。 筋立ては平凡すぎるほどです。ドラマチックな展開もなく、爽快な謎解きもなく、感動するエピソードもありません。ぬるい展開で、謎は解かれないまま、読者に共感を与えない形で物語は終わります。終わったという実感すら与えません。この軽さをどう捉えるかは、読者に委ねられています。 作者は何を言いたかったのでしょうか。書いてあることからそれを探ることは困難な気がします。ならば書かれていないことを探ってみようと思いました。 この小説では、現代日本の独身中年における乾いた孤独が丁寧な文体で描かれており、確かにこんな中途半端な人が増えているという感じはします。反面、不況、失業、貧困、財政赤字、環境破壊、戦争の脅威といった大きな現実の問題は取り上げられていません。そのためファンタジーかと疑うほど、非現実感にあふれています。素直に読めば、主人公が精神的に子供であるために自閉的であり、実社会が見えていないのだという解釈が成り立ちますが、この見方は皮相的でしょう。 思い切って深読みすれば、日本人が国内で目にしている問題は、(作者が高く評価されている)世界の水準で見れば、本当は大した問題ではないという辛口の批評が込められているのかもしれません。この解釈に立てば「日本の若者よ、現状に絶望してはいけない。今より少しだけよくなりたいという謙虚な理想をもって人間関係を大切にすれば、幸せがやってくる」という、作者の励ましのメッセージなのだとも受け取れます。 村上氏は孤独をモチーフにすると言われますが、この小説では、孤独に生きている者は不幸になり、家族を持った者が幸せになっています。人間関係が希薄化した現代でも家族は大切だという作者のセンチメンタリズムでしょうか。これが作品の心地よいぬるさを引き立てています。 気になるのは、主人公と友人たちが属する社会階級です。友人たちは中流と描写され、主人公だけ少し裕福と描写されています。こう書けば若い世代は感情移入できるのでしょうか。古い世代の感覚では、主人公は裕福すぎて共感できません。主人公たちが名古屋人なのに洗練された標準語を話しているのも違和感があります。名古屋は閉鎖性を象徴する記号で、現実ではないということなのでしょうか。 この小説は、不透明な時代に生きる若者たちにささやかな夢と希望を与える意図があるのかもしれません。それが本当なら大ベストセラーになるでしょう。 | ||||
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煮え切らない感じの(でも何故かたやすく女性と寝る事ができる)主人公が、精神を病んだ女性に翻弄される話。 これって、ノルウェイ、国境、ねじまき、カフカにもあてはまらないか? | ||||
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村上春樹さんの作品は数本しか読んだことがないのですが、なぜかこれは気になってしまったので購入。 すらすら頭の中に流れ込んでくるようなかろやかな文章でとても気持ち良く読めました。 私はまだ大学生で、つくるが死について深く考えた20歳前後と同い年です。 だから、36歳のつくるが16年前の青春時代ことについてアクションを起こして過去を振り返っていく、そういうことができません。そこからの話も、酷く切ない気持で読んでいました。歴史は変えられない。自分も歳を重ねれたらこんなふうに思う時がくるのだろうか? 今仲のいい友人はこれから16年先どんな風に変わっていくのかな? と自分を振り返りながら読んでいました。 未来が怖いな、そう思えるような最後にのこる寂しさや孤独感は、きっと今どれだけ毎日を必死に生きても付いて回ることなのかもしれない。 そんな人生の哀れさをしみじみと感じられる一冊でした。 若い人には書けないとものすごく感じました。 この歳でこの小説を読んだことで、私のこれからの人生はまた変わったものになる気がします。 私が三十路を過ぎたら、もう一度読み返してみたい。 そうしたらきっと、この作品は物語の奥深くで、20歳のころの私を思い出させてくれる気がします。 ずっと大切にしていきたい、そんな一冊でした。 読んで本当によかった。 | ||||
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著者の文学的な達成と成長をささやかに(しかし芳醇に)匂わせる、硬く小さな果実のような作品だと思いました。 さほどヴォリュームもなければ、物語に劇的な起伏もありません。驚かせるような新機軸も手の込んだ仕掛けもなく、読者をはっとさせるような荒唐無稽なエピソード、著者独特のアイロニーとユーモアに富んだ比喩、洒落た小道具も(比較的)少ないと言えるでしょう。 プロットを細かく設定せず、手なり(手の赴くままに)で書かれたような作風は、これまでの著者の長編作品の中においても、ひときわに強く感じます。しかしそれらの要素は熟達した水泳選手が到達地点をしっかと見定め――あとは水の流れにすっかり身をまかせきって泳いでいるようなシンプルかつ流麗な流れとなって、このミニマムな作品を傑作たらしめているように思います。 今作の主題を「赦しと再生(への理解)」などと、安易に言ってしまうことは容易いのかもしれません。しかし、(仮設された)そのような古典的かつ普遍的な主題の下、「多崎つくる」の物語は、闇の中をひっそりと流れる小川のように淀みなく――畏れるべき神秘(あるいは神秘的な何か)の存在への畏敬を随所に感じさせながら――リアリスティックに、ユニークに進行し――やがて来たるべき結末を迎えます。 読後、「多崎つくる」の凍てついた心と身体を静かに、じわじわと暖めてくれていた小さな炎の存在。それが読者である私自身にも「フィジカルな効用」をもたらしてくれていることに気づき、驚きと感謝の吐息を漏らしました。 ※余談ですが、著者はレイモンド・チャンドラー「プレイバック」を訳しながらこの作品を書き上げたのではないでしょうか。読みながら、ところどころでそのように感じました。そう遠くないうちに早川書房から村上訳「プレイバック」が発売されることに1ヶ月ぶんの給料を賭けようと思います(笑)。 | ||||
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本作のこれまで作品との決定的な相違点は、主人公が職業を得て、その職業が仮のものでなく天職だという点にある。これまでの主人公も職業に就いてないことはなかったが、その職業は便宜的に設定され、ほぼ形骸化していた。主人公は、たとえば予備校講師にしろ、学校の教師にしろ、一応職業に就いてはいたものの、その職業に大して関心を持つことができずにいるし、その所属する組織なり共同体に本質的には所属することができずにいる。村上春樹の物語は、そもそもその所属することへの不可能性、違和感が推進力として作用してきたわけだが、本作の主人公多崎つくるは、駅をつくるという職業を、天職として、それ以外にはあり得ないものとして保有し、また、その職業として必要不可欠な組織上の関係をそれなりに健全に全うしている(全うしようとしている)。 ここでポイントになるのは多崎つくるの「駅をつくる」という職業だが、村上春樹がその職業に暗喩として込めた意味を読み取るとすれば、それは、村上春樹における「小説を書く」という職業を寓意してると読み取るのが、素直な読み方だろう。 「駅」が、目的地へ人を運ぶために必要不可欠だという合目的的存在であること、あるいは建造物としての個性が必要以上に求められない(駅という機能を最優先する必要がある)点、なによりターミナルとして交通を整理する点、駅という存在は、思考において小説の果たす役割をかなり率直に比喩している。 そういう理解で物語を理解しようとすれば、本作は「多崎つくるの巡礼」にまつわる物語でありつつ、ある意味では「村上春樹の巡礼」の物語として読むことも可能だ。 そのことは、主人公多崎つくるが、ある日とても仲のよかった友人達に、一方的に理不尽に関係を切られるというプロットからも読み取れる。村上春樹は「風の詩を聴け」でデビューし「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」と完成度の高い3作品を上梓するが、芥川賞の選考ではほとんど箸にも棒にもかからず、その後、彼の代表作となってしまう「ノルウェーの森」では、要約すれば「チープで悲劇的で気取ったリアリズム小説」として、大々的に批判され、決定的に日本の文壇から疎外されてしまう。彼は、文壇に一切関与しようとしなかったが、あるいはそれが一因ともなって、当時の文壇関係者に徹底的批判される。それは、本作において理不尽に一方的に関係を切られる多崎つくるの置かれた心境に、重ねて読むことが難しくない。(このときの心境は、例えば「考える人」2010年夏号のインタビューに詳しい)知っての通り、村上春樹は批評的な側面においては、世界的な評価を得て日本に返り咲いた作家だ。 つまり多崎つくるの物語は、ある時期の村上春樹の物語として読むことができるのだ。 ネタバレを含んでしまうので、これ以上本作とこれまでの作品との相違は明示しないが、本作における多崎つくるの問題との対峙の仕方は、これまでの村上春樹作品が有することのなかった、力強いポジティヴィティを有している。 「神のこども達はみな踊る」は、村上春樹にとってターニングポイントを迎えた作品だったが、そういった視点において、本作はもうひとつのターニングポイントとなる作品ということもできそうだ。 「神の・・・」以降の作品で、彼は「責任」について言及し、社会にコミットすることを問うてきたが、本作では「責任」ではなく「意思」によって社会に関与し、そのために自分を変革することを模索している。変われない自分に諦念しながら「やれやれ」などと社会を呪ったりしてはいない。多崎つくるは、幾人かの友人に支えられて、自らの意思によって、社会にしがみつこうとする。 それは、今までにない突き抜け方だ。 色彩を持たず、仲間はずれになった多崎つくるは、いかにして自分と向き合い、自分を、色彩を取り戻すのか。その、過程には現代人が普遍的に見失いつつある、魂の葛藤が描かれている。 | ||||
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まず、本作が内容などの情報を規制して人の気持ちを煽ったり、既に50万部刷られる事が決定したというニュースを耳にしたり、 というような事にうんざりさせられたりしたが、発売日の夕方に本屋さんを覗くと存外たくさん積まれていたので ”思い切って” 手に取ってみた。 思えば、新人文学賞受賞のニュースとともに「風の歌を聴け」を読んで以来、村上春樹は僕を成すもののひとつになった。 本を開けばいつでもどこでも、その世界に入り込めた。 この間「村上春樹」で飯を食ってるようなものには一切触れなかったし、好んで村上さんの生活を思わせるようなニュースも遠ざけ、 (高倉健さんが私生活をいっさい見せないように気を使われている事に敬意を表します)ただひたすらに、その世界の中で想いに耽っていました。 発売とともに買い込んで、永らく本棚に積んであった「1Q84」を、ついこの間何とかやっつけて、それでも、 「そんなに毎回毎回、良いのができるっていうのもなあ」とか「自分の中の何かが変わってしまったのかなあ」 などと思ったりしながらの今回の新作でした。 この喪失感もいずれ忘れて行くのだろうか。 | ||||
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さらって読めます、リーダビリティ高いです。いつも通りの、主人公は悪くないけどいろいろなタイミングが重なって損なわれるけど、最終的にみんな許しますよ、という話し。主人公にとって都合の良い彼女が出てきて物語を前に進める原動力を与えてくれますが、何故彼女がそんなに主人公に惹かれてしまうのか謎。で、もちろん主人公がそれを受け入れるのも謎。 と、ネガティブな意見もありますが、もちろん面白く読みました。いつも通りの春樹さん節でぐいぐい読めますよ。 灰田くんはどうなったのかなぁ。続き出るのかなぁ。「ねじまき鳥」や「1Q84」商法みたいにしばらくしてしらっと続編出てもおかしくない結末。「羊」の頃から同じだけど、読みたくさせるチカラ強いです。 | ||||
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この作家の、人と人との繋がり方、男女の繋がり方が 自分自身には極めてリアルで、苦しいような感情に流されるように 読みました。 個人個人の生は、かけがいのないものであるけれど、 絶対的な孤独を抱えながら繋がろうとするそのこと自体から、 人生や世界とのかかわりの真実が現れてくると感じました。 大文字の言葉から小文字を見るのではなく、 小文字の生きていく軌跡から大文字の真実を浮かび上がらせていく。 恋愛をするとき、男性はこのように行動し、女性はこのように言葉を選び行動する。 そのリアルさにどんな恋愛小説よりも震撼した。 この作家は、やはり只者ではない。 唯一の存在である。 ドストエフスキーのような作品を書きたいというその思いが、 この時代とシンクロして、朧に形を現していく。 スリリングな作家と作品である。 | ||||
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主人公である多崎つくるが、人生のある一点を経てから、「自分の本当の気持ち」に蓋をして生きるようになる。蓋をしている間は、主人公自身、そのことに気付かない。 しかし、ある女性との出会いをきっかけに、蓋をしている自分の姿に気が付いた。 そうして彼の「巡礼の旅」が始まる。旅に出るのは、主人公自身が望み選んだことだ。旅の行く先は、ネタバレになるので本書を読んで確かめてほしい。後悔はしないはずである。いや、しないでほしいというのがレビュアーの希望だ。 | ||||
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タイトルの色彩を持たない〜ってのが面白い謎になっていると発売日前にテレビの女子アナウンサーが言っていた どんなものだろうかとそこだけ(本体にそこだけ)期待したが実際は大したものではなかったので残念だった なんか業界が必死にマーケティングするのが見えてしまって萎えてしまうので過大な宣伝は辞めて欲しい もうハルキストと呼ばれる人達が買い続けてればいい 村上春樹が書いたから評価されるのであって決して面白い小説ではない 子供達にもあまり見せたくない内容なのでテレビでアッピールは本当に辞めろ | ||||
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真空とはなにもない状態ではなく、その物理系の最低エネルギー状態として定義される。たとえば電子と陽電子が生成と消滅を繰り返している状態。村上春樹の小説の主人公はいつも真空をかかえて登場します。からっぽに見える人格は真空よりもエネルギ−準位の高いどんな外界のエネルギ−も吸収してしまう。自分では気づかず人々の尖った余計なものを吸収する、人々になにか安心感を与える、ように登場してくる。今回の主人公「つくる」もその一人である。そして、真空が壊れて別のなにかに満たされることができるかどうか、という甦生の物語である。「色彩を持たない、多崎つくると、彼の巡礼の年」。 いつものように、スリリングな暗喩の数々がはじめから炸裂している。「壁にもたれて死について、あるいは生の欠落について思いを巡らせた。彼の前には暗い闇が大きく口を開け、地球の芯にまでまっすぐ通じていた。・・聞こえるのは鼓膜を圧迫する深い沈黙たった。」 なにかが真空の中にしのびよりそのエネルギ−バランスを壊し始めた。 真空の別名でしょうか、深くて遠い疎外感、を補強するための挿話がこの小説でも語られる。人々のもつ色を見分ける能力をもつ人たち、昔主人公の友人だった人たちの現在、娯楽映画MATRIXの有名な言葉のパロディ。"Welcome to the real world"、リアルワ−ルド、リアルライフとはなにか? この小説を引っ張る音楽は今回はリストの巡礼の年第一年スイス。前作で小説のリズムを刻んだヤナ−チェクのシンフォニエッタは小説1Q84の販売とともに店頭からCDが消えたという。今回もそうでしょう。ベルマン演奏。 P343、「あるとき」は「あのとき」の誤植ではないでしようか? そうならば クライマッスでの一文字の誤植は興ざめ。総じて、村上春樹のこれまでのモチ−フの集大成です。 | ||||
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