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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全1022件 961~980 49/52ページ
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村上春樹氏の小説には、デビュー作「風の歌を聴け」以来、作中に音楽が頻繁に登場し、重要な役割を担っています。ビートルズの「ノルウェイの森」はそのままタイトルに使われましたし、前作「1Q84」ではヤナーチェックの「シンフォニエッタ」が天吾と青豆を結びつけるキーファクターでした。村上作品を読む楽しみのひとつは、音楽に造詣の深い村上春樹氏が取り上げる曲にどのような意味を込めたのかを思いめぐらしながら、彼に導かれて音楽を聴くことだと私は考えています。 この新作では、フランツ・リストがかつて訪れた土地の印象を表現したピアノ曲集「巡礼の年」がそのままタイトルに使われています。また、4集あるうちの第1集「第1年スイス」から8曲目「郷愁 Le mal du pays」(作中では「ル・マル・デュ・ペイ」と表記される)が繰り返し出てきて、作品全体の通奏低音の役割を果たしています。 リストは「ル・マル・デュ・ペイ」でふるさとへの望郷の念を表現しています。主人公の多崎つくるに置き換えれば、高校時代の友人との親密な関係への「郷愁」に当たるでしょう。彼が高校時代にあこがれた美少女「シロ」は「ル・マル・デュ・ペイ」をピアノで弾いて何度も彼に聴かせました。彼は一方的に拒絶されて「シロ」に会えなくなってもこの「ル・マル・デュ・ペイ」を弾く彼女の姿をなつかしく思い出すのです。やがて彼は大学の後輩・灰田からこのLPを譲り受けて、繰り返し聴くようになります。多崎は、恋人の勧めにしたがって彼に死を考えさせた出来事の真相を知るために高校時代の友人を訪ねる「巡礼」へと出発します。そして最後のフィンランドへの「巡礼」の旅で「クロ」と再会し、真相の一端を掴むのでした。 村上春樹氏は「巡礼の年」と「ル・マル・デュ・ペイ」をリストの作曲動機にまで遡って考察し、この曲をモチーフに選んだのは明らかです。作家はこの曲からストーリーを着想してのでしょうか、それともストーリーが先にあって曲を選んだのでしょうか、私の疑問です。ピアニストに有名なアラウやブレンデル盤ではなくベルマン盤を選んでいるのには理由があります。前2者の演奏にベートーベンのような剛直さがみられるのに対してベルマン盤にあふれるロマンチズムが女子高生の演奏に通じると共にこの小説の主題にふさわしいからでしょう。この作品の読後感とピアノ曲の印象は共にあたたかく、両者がシンクロしているように感じられました。村上春樹氏は何と思慮深く、センスのいい文学者だろうと、私は感嘆したのでした。 | ||||
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アラフォー主人公が、学生時代のトラウマを解き明かすストーリー。なかなか分かりやすい作品だと思います。 が、相変わらずセックス、射精に死まで絡めてのお得意の流れは、やれやれを通り越して無ければ村上作品じゃない!とニヤニヤしながら読みました。 最後尻窄みですが、さっぱり読めて、明るい気持ちにもなります。駄作ではないですが、名作とも思えません。 タイトルの巡礼は曲のタイトルみたいですね。 | ||||
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さっそく新刊読みました。一言でいうといい作品ですね。 深くないし、難解さもないし、多崎つくるの心の動きをノルウェイの森タッチ風に仕上げた感じです。 深くない分、逆に心に残るかもしれません。 村上春樹が60歳を超えて、テクニックから基礎(初心)に戻った感じです。 最初の50ページの説明だらだらと、最後の章はちょっと消化不良だが、中盤から後半の筆致は、さすがとしか言いようがない。100点満点でいえば80点の作品なのだが、巡礼(それぞれの人との会話)の描写は、相変わらず瞬間風速100点です。 総合すると、90点ぐらいの作品かな。 個人的には「ノルウェイの森タッチ風の都会的なノリ」が結構(相変わらず)好きです。 ノルウェーの国の横のフィンランドが出てくるあたりも、村上が初心を思い出している風景がよく見て取れます。 村上春樹はロマンティストなので、北欧のような余裕のある優しい国の感触が好きなんでしょうね。 文章が今回は(いつもの通り?)優しい感じがします。 ジェットコースターは本人談どおりまったくない。(笑) | ||||
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<span class="tiny"> 長さ:: 9:47 分 </span>色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 新刊を読みましたが優しいタッチですね。 ノルウェイの森を彷彿とさせます。 主人公の巡礼と言うよりも、「村上春樹さん自身の巡礼の年」だと思います。 感想を細かく、ビデオレビューにしてみました。 | ||||
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以前、(たぶん)村上さんは”よい小説というのは、心の中の湖に石を投げ込むようなもの”と言っていました。 今度の話は確かに私の心の中で波紋が起きています。 それがどんなものかは、著書の内容だけで決まるのではなく、受け取る自分によっても決まると思っています。 村上さんの小説は、それだけで完全なものを目指しているのではなく、それを読む読者と補完しあって完成する気がします。 もう一度、時間をおいて読み返すのが楽しみです。 | ||||
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このレビューを書いているのは発売日翌日の朝ですが、この時点で★は5個から1個まで5,4,0,1,3です。予想通りの賛否両論になりました。 賛否両論になることまでも作者は狙ってますな。思う壺ですわ。だからあえて★は3。 他のレビュアの意見にもある通り、特別扱いし過ぎだと思います。良くも悪くも21世紀の現代日本文学ですよ。内容は違うんですが、国境の南、太陽の西を読み終えた時を思い出しました。 5年くらい経ってから読み返したら、どんな感想を持つかな、とつくづく思いました。ある種のライブ感を味わいたい人は、今すぐどうぞ。 | ||||
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団塊の世代=学園闘争時代を生きた 若者の喪失感と恋愛を描いた 『ノルウェイの森』 『色彩を持たない〜』は 団塊ジュニア世代の『ノルウェイの森』だといえるだろう 『ノルウェイ〜』の表紙は緑と赤 これをクリスマスカラーと評するひとが大半だが、これは革命=赤、癒しの森=緑であるように思える 主人公は赤と緑の中で揉まれながら 喪失と再生を経験するわけだが 『色彩を持たない〜』は『ノルウェイ〜』とは反対に、主人公は無色透明存在 団塊ジュニアゆえ、赤=革命を知らないし 自分が無個性=透明であると知りながらも 個性ある=色を持った仲間たちに囲まれていれば、十分幸福を享受出来る幸福な時代に生まれた 主人公の父親は 団塊の世代で社会的成功を収め、経済的に恵まれている 主人公はその庇護下で育ち、容姿もよく、頭もよい。個性豊かな友人に囲まれ 何不自由ない青春時代を過ごす そんな主人公にも やがて喪失が訪れる 喪失とはどんな時代であっても 若者の普遍的なテーマであるように思える 色彩を持たない世代であっても それは不可避な問題なのだろう かつて革命によって多くを失ったと団塊の世代とは違い、団塊ジュニア世代は 《はじめから失われている喪失感》 に立ち向かわなくてはならない 主人公はある事件から喪失感を味わうのだが、 作中で主人公と友人が語るように それは事件のあるなしに関係なく 不可避であるように思える 主人公は一見、ふつうの社会生活をおくっているように見えるが、ある日、ふと自殺してしまってもおかしくないような危うさの中で生きている これは現代の若者のテーマであるように思える 『色彩を持たない〜』の主人公は 自らの孤独と喪失の意味と向き合うために 巡礼の旅に出る かつての友人と再会するための旅 ここは『ノルウェイ〜』の主人公より 自由で前向きなものを感じさせる 最後の巡礼地はフィンランド 流れる曲はル・マル・デュ・ペイ 『ノルウェイ〜』のラストが 電話で終わったのに呼応するように 『色彩を持たない〜』のラストにも やはり電話のベルが鳴る 主人公のとった行動にどんな意味があるのか もう一度、読み直して 深く考えてみたいと思った | ||||
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ノルウェイの森に、その後の長編のエッセンスを盛り込んだような感じ。(一部アンダーグラウンドやマラソン・水泳のエキスも1滴くらい入っている) 具体的に自分にわかったのは、「想像したことは現実に起こってなくても起こったのと同じ」みたいなあれ。あれをノルウェイの森の中に持ち込んだらこうなった、という感じ。あと、夢で性行為をするところはリトルピープルの出てくる作品の中で出てきた夢か現実かわからないみたいな、女子高生と交わるシーンと似てる。(私はこの一連の性行為シーンが気持ち悪くてダメです) この子は直子、この人はレイコさん、この人ははつみさんの彼氏の人、もちろん主人公はワタナベ、みたいに過去の人物が容易に浮かび上がります。 「裏の顔」、「自分がシロを殺したのかもしれない」、灰田君が大学を中退して田舎に戻ったこと、これらは全部多崎氏の激悪なダークサイドにつながる扉だったと思うのですが、結局その極悪な裏の顔の解明は回避され、それどころか、シロは自分に殺されることを望んでいたのかも、うん、きっとそうだら〜そういうことにしとこう!と開き直った。さらにはシロに表されるような弱い人間、美しいが壊れやすいものは時として過酷な人生においては犠牲・生け贄になっても仕方なく、そういう役割を担う人間は必要とまで言っている。何に必要なのか、それは多崎のようなタフな人間が生き残って、人生を謳歌するためにだ。私にはそういうふうに読めた。これでは世の中のシロのような人たちにとってひどすぎないか?シロのようなものの側に偏って見てしまう自分が偽善的なのかもしれないし、おぼこいのかもしれない。だけど、シロや灰田君のような弱く美しいものが、多崎のような人間に殺されてもやむを得ない世界なんて私は嫌である。卵の側につくと言ったのは誰だった? 私も40年弱生きてきて、心の中で思ったり想像したことが、ものすごく遠回りして誰かの人生に悪い影響をもたらすのではないかという感覚は理解できるので、そういう考えに至った多崎にはもっとそこを追求してほしかった。自分の不作為や作為で友達が死んだのかもしれないと思ったなら、自分は何をするべきだったのか、追求してほしかった。 そういう追求もせずに、最後に多崎がカッチカチに勃起して沙羅とのセックスに成功してめでたしめでたしだったら、本当にこの作者に今後一切お金を落とすことはやめようと決めてよんだ。できれば最後に多崎が沙羅に完膚なきまでに振られ、(言葉は悪いですが)名実ともに死ねばいいのにと思った。 自分の想像した最低の結末は免れたが、当然ですよね。最低ラインですよね。 つるつるの、エロ小説から出てきたような女性キャラクターが「つくる、死ねばいいのに」と一言でも言ってくれればまだ溜飲も下がったかもしれない。でもそんなことは絶対に起こらない。それどころか深夜4時の多崎の電話にも喜んでホイホイ出て、さらに多崎を心配して電話して2度も無視されても怒りもしない。 この作者の本がごく一部のファンによって喜ばれているのなら全く健全な状況だと思うが、現実はそうではない。洗練された非常に手触りの良い子猫のような毛皮をかぶった本の中に悪魔がいる、と私は思う。弱い者、女性に理解を示すような言葉はいっぱい並んでいるけど、その裏の心は、そういうものをとても見下して、踏み台にすることに何ら罪悪感もないのが感じられる。そんな本がばかすか売れている。まさに洗練された商売そのものだと思う。私の感じ方がおかしいのだろうか。 これまで作者の本は出たら中も見ずに買うことを続けてきたが、もうやめようと思う。自分がお金を落とすことで、自分でも気付かないうちに一体何の片棒を担いでいるのか、よく考えなければだめだと、今回身にしみて思った。1700円はその対価だと思う。 私がこのように思ったことも、作者の考えによれば、私と作者をつなぐ地下水路があって、それを伝っていつか作者に伝わるのですよね。 あいかわらず比喩表現はうまく、ノーベル比喩賞があれば、まっさきに差し上げたらよろしいのではないかと思う。「つぶてのような硬そうな痰」には笑いました。デトロイトメタルシティという漫画のある1コマを思い出しました。 | ||||
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この人の作品を読んでいて毎回、思うのですが、謎が謎のまま終わってしまう。もしくは、あいまいなまま終わってしまう。 何かあるように見せて読者を引っ張る、その力はすごいです。でも、いつもたいしたものがない。 途中までは面白いが、最後まで読むと、何もこころに残らない。 エヴァンゲリオンや浦安直樹の漫画と同じ系統の作品のように思います。 今回の作品は読みやすかったですが、こんなにページ数を使ってまでやる内容ではないと思いました。 たぶん、西原理恵子が書いたら、三ページで終わるでしょう。 登場人物がみんな理屈っぽい。ぐだぐだ言いすぎ。モブキャラですら、小難しい理屈を語る語る。 しかも、生まれも育ちも名古屋なのに、みんな標準語。 今回、半分までは夢中になって読みました。三分の二を過ぎた辺りから、またいつものパターンじゃないだろうか、 何かあるように見せて、実は何もないパターンじゃないだろうかと危惧しはじめ、 五分の四あたりで、がっかりして読む気が失せました。 いちおうは最後まで読みましたが、残念感がたっぷりです。 | ||||
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『1Q84』で回答が提示されなかった“天吾の母親はなぜ死んだのか?”という謎。そして、天吾にとっての“母親はどこに行ったのか?”(実は絞殺されていたのだが)という謎の回答を、村上さんは、この物語の力を使って導き出した。 この小説を読み終えたあと、僕はまずそう思った。 村上さん自身が『1Q84』執筆後、それらの謎を解決させて読者に伝えなければ、と頭の片隅で思っていたのだろう。 だって、シロとの性交シーン(ふかえりとのシーンと同じだ)や『トークン』(これはリトル・ピープルと同義だ)という、 あんなわかりやすい場面や例えを、村上さんが意味もなく持ち出すはずがないから。 なので、「それは突飛な意見だ」と言う方もおられるかもしれないが、 僕はこの小説を『1Q84』の続編だと思っている。 そしてそれと同時に、 この小説は、村上春樹による村上春樹論だとも思っている。 というのは、まだ巧く言葉にできないけれど、この小説を読んでいるとき、 なぜか僕は、村上作品のキャラクターたちの顔や声が鮮明に蘇ってきたからだ。 たぶん、これは僕だけじゃない。 きっと、同じことを思った村上春樹ファンでは多いはずだ。 『羊をめぐる冒険』で羊にとりつかれて自殺をした鼠。 『ねじまき鳥クロニクル』で奥さんを取り戻そうとしている岡田亨。 『海辺のカフカ』で起きたら血だらけになっていたカフカくん。 『1Q84』で自分の名前をひどく気にしている青豆。 この小説のページをめくるたびに、みんなが次々に脳裏を横切り、次々に言葉を発していった。 発せられた彼らの声は方向や高さを合わせ、徐々にしかし確実に この物語が導き出そうとする回答へと集約していった。 だから、僕はこの小説を読んでいるあいだ、すごく懐かしい気持ちになった。 なんていったって、鼠やカフカ君にまた逢えるのは、 たとえそれが頭の中であれ、ファンにとって、とてもとても嬉しいことだから。 そんな風にして村上作品の過去の登場人物に出会うしかけ(のようなもの)を 村上さんが創り出したのなら、この作品には、村上春樹による村上春樹論的な要素が含まれているかもしれない。 そしてそれは、村上作品の総まとめということもいえるのかもしれない。つまり、僕はそう思ったわけだ。 で、だからこそというべきか、 僕は、この小説を読んでいるときも、読み終わったときも、懐かしいと思うと同時にひどく哀しい気持ちになった。 もう村上さんは多くの作品を世に残すことができないんじゃないか。 もしかすると死期が近づいてるのでは。 そんな風に訝ってしまった。もちろん勝手な想像だけど。 ともかく、村上さんは、マイルズ・デイビスとは違った人生終盤の歩み方をしている。 ドストエフスキーとも違う。 次の作品は、おそらく短篇集になると思うけど、 楽しみに待っていよう。 | ||||
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ニュートラルな文体に、村上春樹の長編には珍しくリアルにありそうな(あるいはなくもなさそうな)プロ ットで、読んでいるうちはなんというか随分とオーソドックスな探偵小説のような印象を受けました。 章の末尾の引きも強いですし。 作中には色んな謎が出てきますが、多くは解明されません。あるいは「え?そんなもん?」と拍子抜けする ような答えであったり、解明のされ方をすることも多いです。 むしろこの小説は、1人のなんでもない男が、なんだかよくわからないもの、自分のあずかり知らないもの たちに翻弄され、それでもなんとか強く生きようと決心し、行動し、その結果以前居た場所とは違うところ にたどり着く、という「流れ」が大事なのであって、そこでは謎がなんなのか、答えがなんなのかは、副次 的で交換可能なものでしかないという気もしました。 | ||||
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とても完璧な調和関係にあった友人4人から大学時代に絶交を告げられ、心に傷を負って臆病になった主人公。その主人公が、36歳になった今、彼女の勧めで過去の友人たちと再会し、なぜ自分が拒絶されたのか、理由を探っていく物語。 『1Q84』ほどの大仕掛けのミステリーや計算されたプロットはない。したがって、『1Q84』と比較すると、壮大さや迫力には欠ける。ストーリー性(物語性)については、『1Q84』の方が遥かに上である。 『1Q84』がグランドデザインのある、非常にマクロ的な作品だとするなら、本作は過去の友人たちと自分の彼女という、非常に小さな半径の円の中の物語、小さなミクロ的な作品である。 性夢の中での3Pなど、また評論家から「村上春樹はセックスばかり描いている」と批判されそうなシーンがあるけれど、ぼくは批判に値するとは思わない。注意深く読めば、描かれているセックスが、セックスであるだけでなく、それ以外のものを象徴していることが見えてくるはずだ。 読み解くためのキーワードは、「限定的」「完璧な調和」「五角形」「五本指」「六本指」「枠」「記憶」「歴史」「性的関心」「性夢」「シロとクロ」「グレー」「悪霊」「選択と本物の人生」。 4人の友人に名字には、色がついている。 ・赤松慶……男性。高校時代の友人。通称、アカ。 ・青海悦夫……男性。高校時代の友人。通称、アオ。 ・白根柚木……女性。美人。高校時代の友人。通称、シロ。 ・黒埜恵理・黒埜恵理……女性。巨乳。高校時代の友人。通称、クロ。 4人はみな、個性のある、いわば色のある存在たち。対して主人公の名前「多崎つくる」には、色がない。タイトルの「色彩を持たない多崎つくる」とは、そういう意味。 多崎つくるは、自分には色彩がない、自分は空っぽの容器だと感じている。そのせいか、全的に異性に対面するということがなく、第三者的なポジションにいて恋愛やセックスをするという形をつづけてしまっている。 その多崎つくるが、彼女の助言によって過去と対峙し、そのことで自分の3つの問題をクリアーしていく――そういう物語だ。 多崎つくるは、20歳の時に自分が拒絶された記憶に蓋をして、思い出さないように、あるいは人に話さないようにしている。ある意味、枠の中にとどまろうとしている。それに対して、今の彼女は言う。 「記憶を隠せても、それがもたらした歴史を消すことはできない」 カバーをめくると、英語のタイトルが書いてある。 Coloress Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage。「巡礼の年」は「Years of Pilgrimage」と複数形になっている。 巡礼とは、完璧な調和関係だった5人の一体感から抜けて、再び友人たちと対面し、自分を見つめなおしていくまでの16年を意味しているのだろう。 | ||||
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読みやすかったです。 なんとなく、昔読んだ夏目漱石の「こころ」に似ているような感じがしました。(あくまでも個人的印象です。) 舞台が現代なので、登場人物やその人間関係は、より現代的状況を反映したものになっていますが。 Facebookなどが出てくる割に、つくるの設計技師としての日常やその背景には、現代の鉄道(駅舎)設計のリアリティやディテールが希薄で、それが共感を薄くしましたが、これが春樹的世界なのかもしれません。 | ||||
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僕は村上春樹に期待しすぎているのかもしれない... ノルウェイや世界の終わりのような感動はもう得られないのか | ||||
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冒頭から、村上春樹ワールド炸裂で、ああ、やっぱり 村上春樹だ(意味不明)と納得する一冊。 考えや思いが、時間を前後して登場したり 短いフレーズの比喩が複雑な気持ちを鮮明に 表現していたり、洋書のような単語を使ったり、 クラッシック曲の蘊蓄があったり。 だが、ファンタジックな、というかミステリアスな 部分が陰を潜め、リアルな空間を作っているところが、 良くもあり、悪くもあると思った。 あまり、冒険をしなかった作品ではないか。 | ||||
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村上春樹もつくづく不運だと思う。読んでもいない批判論者にレビューを書き込まれて。まあ文学界では異端児だし、メディアに勝手に持ち上げられ目立つしで敵も多い。 これまで大抵の村上春樹の作品を読んできましたが、読むのが苦痛だった1Q84とは一転、本作は非常に読みやすく、村上春樹らしさを取り戻したのではないか。一方、登場人物に関する描写は少なく、かつキャラクターの魅力も薄く感じる。読了後の満足度も他の作品と比べても多いとは言えない。他の方が指摘するような違和感や、これまでのような現実世界と少し離れた世界との織りなす物語も少ない。 しかし一度読めば、お馬鹿な酷評レビュアーがいかに“読まずして必死に書き込んでいるか”が分かります。どこの関係者なのか、いくらもらってるのか甚だ疑問です。 | ||||
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1Q84もアホらしく、読み続けるのが辛くて、3巻の途中で何年も過ごしている。再度アタックをかけるんだけど、やっぱりダメ。その間に他の小説は何冊も何冊も読破。そんな状況下で、馬鹿な奴だと思いながら、新作に手をだしてしまった。本当に馬鹿。やめればよかった。今回もひどい。作家名がわからなかったら、誰も買わないし、見向きもしない。商売が上手やね。次は本の売り方の指南書を書いたらどうでしょうか。とにかく、後悔の嵐。ほんと、私は馬鹿です。誰かが言ってたよね。それぞれの作品はピースの一部分であるとね。そして、それぞれに意味があるとね。すべて埋まったとき、わかるんだよね。そうだったよね。詭弁家さん。もう、力がないんだ。やっと、理解した。おわり。 | ||||
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私は、殆ど村上春樹の小説を読んだことがない。所謂、ハルキストではない。ふだんから、そんなに小説を読む方ではない。 しかし、根がミーハーなので、つい、購入して、一気に読んでしまった。 この小説は、決してよみにくくはない。次から次へと読み進めることができる。小説の世界に感情移入しにくい私も 読めてしまったくらいである。 この小説を読んだ後、これが期待通りの秀作かと聞かれると、色々と疑問点が数多くある。 はたして、現代の36歳の男性は、このような話し方、考え方をするのだろうか。 会話の内容が極めて洗練されており、知的であるが、果たして? 登場人物の会話も知的で、所謂、「おしゃれ」である。かっこいい、のである。 果たして、リアリズムは? 等々。 他に、この小説の物語についても、不満が残る。ラストは、あれで良いの? 期待をしていたのに。そのラストは、読者のそうぞうりょくにまかせる、というものなのか? ただ、村上春樹の小説の特徴だと言われているのかもしれませんが、「言葉の力」のようなものは よんでいて、ひしひしと感じていた。読んで、数時間たったいまでも、何か頭に残っているような気分である。 とにかく、良い意味でも悪い意味でも「大人の小説」であろう。 このレビューのように、評価は二分されるだろう。 | ||||
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初レビューです。25年位前からファンで、これまでの春樹さんの小説は多分全部読んでて、本棚は春樹さんの本ばかりで、無条件に春樹さんの文章や表現に感動し、受け入れてきました。春樹さんの本を読むと、翌日学校や会社に行けなくなるくらい、物語に「インヴォルブ」されてきました。 この本も、発売日に買って、とても楽しみにして読みました。 で、読後の感想なんですが、うーん。。 これ、確かに春樹さんらしい表現や文章がいっぱい詰まってるけど、正直、昔読んだことのあるモチーフばかりというか、既視感が半端ないのと、登場人物の描写が(名前に特徴がある以外は)あまりにステレオタイプで薄っぺらいので、正直誰にも感情移入できず、感動できませんでした。ごめんなさい。。(「スプートニクの恋人」も既視感あったけど、登場人物がたまらなく魅力的でした) 本当に、春樹さんが、何も計画せずに、思いつくまま、自分の筆のおもむくままに書かれたのではないかなあという気がします。 これ、もし春樹さんの本だと言わずに世に出ていたら、凡庸な評価しか得られないのでは?? これがベストセラーって、日本の文学のレベルって、どうなの?ノーベル文学賞って何?とまで思ってしまいました。。 文体すら段落ごとにばらばらで、統一されていないような(出版社が変わって、校正の考え方が変わった?)。。 ただ、主人公が自分のことを「おれ」と言ったり(新鮮でした)、今までにない新鮮な表現にも挑戦されています。 そういう意味では、春樹さんの現在地を確認する、という意味で、ファンは読む価値があると思いますので、星は3つです。。 これ、僕が気づいていないだけで、春樹さんのことだから、きっと、考えがあってのことなんだろうな(と思いたい)。。 あまりに肩すかしだったので、もう一回読んでみます。。次回作に期待かな。。 | ||||
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本作は、よくも悪くも「村上春樹ワールド」炸裂!、といった印象を受けました。熱烈なハルキストの人にはたまらない一冊になるのではないでしょうか? 個人的にはあまり心にぐっとくるものはなかったのですが、この人は、ストーリーテラー・流行作家として本当に上手い人だな、というのは感じます。 今回の作品もマスコミの報道などが過熱することに比例して、驚くほど売れるのでしょうが、これがノーベル文学賞か?と言われると、正直それはないだろうなと思います。 | ||||
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