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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全1023件 981~1000 50/52ページ
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庄司薫と言って憶えている人はもう少ないのかもしれません。7年も待って青の物語が出版されたときには心底失望したものです。物語を紡ぐ力がもうこの人には残っていないのだなと思いました。それからしばらくして「風の歌を聴け」そして「ノルウェイの森」で、その物語りの続きに出会った思いがしました。30年も前のあの思い込みは見当はずれではなかったと確信できました。 現代の魂への気遣い。ノーベル賞を受賞しようとしまいと私はこの小説が好きです。 | ||||
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『1Q84』以外の小説は一通り(中には複数回読み返した作品も)読んでいる、なんちゃってハルキストです。 ※『1Q84』は手に取らなかったのではなくて、私には全く合わなくてかなり前半部分で挫折してしまいました。 『1Q84』で自分の中の春樹さんは「終焉」でしたが、今回も「挑戦」し、敗北。題名からかなり不安でしたが。 読後感はよろしくありません。謎解き、という程でもなくて、何となくモヤモヤした感じでずるずるいく感じかな。 舞台が名古屋である必要はありませんでした。素直に東京近郊でよかったのでは。「名古屋感」出てないし。 あと「友人になりたいな」「好きになりそうだな」という登場人物も特にいませんでした。魅力がないのですね。 全体的に「くどいヤツ」ばかり出て来ます。善だとか悪だとか以前に、皆が皆、鬱陶しい感じで「う〜む」と唸り。 月影の如き喪失感を描きたかったのか。紅蓮の如き情熱や欲望を描きたかったのか。鼠や羊もいないしな。 「若い日は秒殺で過ぎてゆくのだな」と感じました。春樹さんは勿論、読者の己も年を重ねているわけで(当然)。 老獪、熟練の「技」はあるのだろうけれども、贅肉が付き過ぎか。もうヒリヒリする様な「若さ」は描けないのでは。 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985年)』が個人的に一番好みの作品でした。本作はストレス。 もう私も「卒業」の時期なのかも。あとは音楽だとか旅だとか走ることだとかのエッセイ系を期待して読みます。 | ||||
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高校時代。彼はかけがえのない仲間を手に入れた。 アカ、アオ、シロ、クロ。 でも、多崎つくるは色彩を持たない。 ある日、彼は仲間たちから「切られる」。唐突に。一方的に。 それから幾つもの月日が流れる。死と共に暮らし、彼は変わる。今では黙々と駅舎をつくっている。 孤独ではある。だが孤独は彼にとって空気のようなものだ。特に不満はない。少なくともそう思っている。 だが、本当に出血は止まったのだろうか?身体の奥の、目に見えないどこかで、今もなお血は流れ続けてい るのではないだろうか?律儀に時を刻む大きな古時計みたいに。 過去に蓋をすることはできる。でも歴史を書き換えることはできない。 故に彼は「巡礼」に赴く。過去に向き合うために。今を生きるために。 | ||||
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1Q84もアホらしく、読み続けるのが辛くて、3巻の途中で何年も過ごしている。再度アタックをかけるんだけど、やっぱりダメ。その間に他の小説は何冊も何冊も読破。そんな状況下で、馬鹿な奴だと思いながら、新作に手をだしてしまった。本当に馬鹿。やめればよかった。今回もひどい。作家名がわからなかったら、誰も買わないし、見向きもしない。商売が上手やね。次は本の売り方の指南書を書いたらどうでしょうか。とにかく、後悔の嵐。ほんと、私は馬鹿です。誰かが言ってたよね。それぞれの作品はピースの一部分であるとね。そして、それぞれに意味があるとね。すべて埋まったとき、わかるんだよね。そうだったよね。詭弁家さん。もう、力がないんだ。やっと、理解した。おわり。 | ||||
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ノルウェイの森に、その後の長編のエッセンスを盛り込んだような感じ。(一部アンダーグラウンドのエキスも1滴くらい入っている) 具体的に自分にわかったのは、「想像したことは現実に起こってなくても起こったのと同じ」みたいなあれ。あれをノルウェイの森の中に持ち込んだらこうなった、という感じ。あと、夢で性行為をするところはリトルピープルの出てくる作品の中で出てきた夢か現実かわからないみたいな、女子高生と交わるシーンと似てる。 この子は直子、この人はレイコさん、この人ははつみさんの彼氏の人、もちろん主人公はワタナベ、みたいに過去の人物が容易に浮かび上がります。 「裏の顔」、「自分がシロを殺したのかもしれない」、灰田くんとのこと、これらは全部多崎氏の激悪なダークサイドにつながる扉だったと思うのですが、結局その扉の向こうを掘り下げることがなかったので、多崎氏のダークサイドは全く解明されず。(解明するのは本筋とは関係ないかもしれないけど、うやむやにされたように感じた) シロが本当にかわいそうで、(灰田君も結構かわいそう)なぜこのような生け贄を毎度毎度登場させるのか、もし多崎氏が沙羅と無事セックスできて彼女を手に入れてめでたしめでたしで終わったら本当にもう今後は踊らされて本を買うのはやめようと思って読み進めました。 これは単なるひがみかもしれないですが、女性をあまりにも自分の人生に都合よく利用し過ぎなきがします。(自分は女性ですが) どんな人との関係も受け身で、シロのことも取り返しのつかないことをしたなどと神妙になるけど、いざ東京に戻ってきて、自分は夜中の4時に沙羅に電話するくせに(ここで沙羅が叩き起こされてもいいのよいいのよと受け入れるのも腹が立つ)、逆に沙羅が心配して電話してきたときはそれが沙羅からの電話だとわかってて12回もベルを鳴らさせといて出ず、さらに15分後にかかってきても無視するとか、そういうことを昔からしているから積もりに積もってシロは死んだのではないでしょうか。自分はからっぽだからとか、色彩がないからとか、いろいろ言っていますが、単に相手に対して何も想像していないだけでは・・・・・ その辺どうお考えか、多崎氏に問いただしたい。一体どこまで本気でやっているのか・書いているのか、私にはまったくわからないです。 よかった点は、私は赤松君の話がおもしろかったので、赤松君のことはもうちょっと読みたかった。社会への復讐の意味ももつ仕事について。 あと、比喩の秀逸さは今作品もすごいです。「つぶてのように硬そうな痰」には笑いました。 自分はもう途中からあまりにもノルウェイの森にそっくりすぎて苦痛だったんですが(あと、やはり性描写がどうしても気持ち悪くてきつい)村上作品を始めて読む人はこれは結構おもしろいかもなあと思います。 | ||||
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とても完璧な調和関係にあった友人4人から大学時代に絶交を告げられ、心に傷を負って臆病になった主人公。その主人公が、36歳になった今、彼女の勧めで過去の友人たちと再会し、なぜ自分が拒絶されたのか、理由を探っていく物語。 『1Q84』ほどの大仕掛けのミステリーや計算されたプロットはない。したがって、『1Q84』と比較すると、壮大さや迫力には欠ける。ストーリー性(物語性)については、『1Q84』の方が遥かに上である。 『1Q84』がグランドデザインのある、非常にマクロ的な作品だとするなら、本作は過去の友人たちと自分の彼女という、非常に小さな半径の円の中の物語、小さなミクロ的な作品である。 性夢の中での3Pなど、また評論家から「村上春樹はセックスばかり描いている」と批判されそうなシーンがあるけれど、ぼくは批判に値するとは思わない。注意深く読めば、描かれているセックスが、セックスであるだけでなく、それ以外のものを象徴していることが見えてくるはずだ。 読み解くためのキーワードは、「限定的」「完璧な調和」「五角形」「五本指」「六本指」「枠」「記憶」「歴史」「性的関心」「性夢」「シロとクロ」「グレー」「悪霊」「選択と本物の人生」。 4人の友人に名字には、色がついている。 ・赤松慶……男性。高校時代の友人。通称、アカ。 ・青海悦夫……男性。高校時代の友人。通称、アオ。 ・白根柚木……女性。美人。高校時代の友人。通称、シロ。 ・黒埜恵理・黒埜恵理……女性。巨乳。高校時代の友人。通称、クロ。 4人はみな、個性のある、いわば色のある存在たち。対して主人公の名前「多崎つくる」には、色がない。タイトルの「色彩を持たない多崎つくる」とは、そういう意味。 多崎つくるは、自分には色彩がない、自分は空っぽの容器だと感じている。そのせいか、全的に異性に対面するということがなく、第三者的なポジションにいて恋愛やセックスをするという形をつづけてしまっている。 その多崎つくるが、彼女の助言によって過去と対峙し、そのことで自分の3つの問題をクリアーしていく――そういう物語だ。 多崎つくるは、20歳の時に自分が拒絶された記憶に蓋をして、思い出さないように、あるいは人に話さないようにしている。ある意味、枠の中にとどまろうとしている。それに対して、今の彼女は言う。 「記憶を隠せても、それがもたらした歴史を消すことはできない」 カバーをめくると、英語のタイトルが書いてある。 Coloress Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage。「巡礼の年」は「Years of Pilgrimage」と複数形になっている。 巡礼とは、完璧な調和関係だった5人の一体感から抜けて、再び友人たちと対面し、自分を見つめなおしていくまでの16年を意味しているのだろう。 | ||||
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さっそく新刊読みました。一言でいうといい作品ですね。 深くないし、難解さもないし、多崎つくるの心の動きをノルウェイの森タッチ風に仕上げた感じです。 深くない分、逆に心に残るかもしれません。 村上春樹が60歳を超えて、テクニックから基礎(初心)に戻った感じです。 最初の50ページの説明だらだらと、最後の章はちょっと消化不良だが、中盤から後半の筆致は、さすがとしか言いようがない。100点満点でいえば80点の作品なのだが、巡礼(それぞれの人との会話)の描写は、相変わらず瞬間風速100点です。 総合すると、90点ぐらいの作品かな。 個人的には「ノルウェイの森タッチ風の都会的なノリ」が結構(相変わらず)好きです。 ノルウェーの国の横のフィンランドが出てくるあたりも、村上が初心を思い出している風景がよく見て取れます。 村上春樹はロマンティストなので、北欧のような余裕のある優しい国の感触が好きなんでしょうね。 文章が今回は(いつもの通り?)優しい感じがします。 ジェットコースターは本人談どおりまったくない。(笑) | ||||
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以前、(たぶん)村上さんは”よい小説というのは、心の中の湖に石を投げ込むようなもの”と言っていました。 今度の話は確かに私の心の中で波紋が起きています。 それがどんなものかは、著書の内容だけで決まるのではなく、受け取る自分によっても決まると思っています。 村上さんの小説は、それだけで完全なものを目指しているのではなく、それを読む読者と補完しあって完成する気がします。 もう一度、時間をおいて読み返すのが楽しみです。 | ||||
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☆ネタバレ含みます。ご注意ください☆ とても読みやすく、一気に読めました。 集合無意識の世界と通じるやりとりがリアルに描かれていて、そこが個人的にツボでした。 苦く傷ついた思い出を胸の奥底に沈めて蓋をして、何もなかったことにして人生を歩んでいるつくるに「記憶は消せても、歴史は変わらない」と自分の過去に向き合うチャンスをくれる沙羅。 その沙羅が旅行代理店の企画担当というのもぴったりです。 巡礼の旅はここから始まるのですから。 相変わらず、誠実でクレバー、理屈っぽくマイペースな主人公という設定はお決まりですが、積極性を持って自己変容を遂げていく要素は今までの作品の中ではあまりなかったように思うので、そのプロセスも新鮮でした。 また、自分のことを「僕」ではなく「おれ」と呼んでいるのも珍しいですし、鉄道オタクなところも面白いキャラクター設定です。 いつもの「やれやれ」をつくるではなく、沙羅ちゃんのほうから言われちゃうところも笑いました。 途中から、「ノルウエイの森」が懐かしく思えてきました。どことなく似ています。 学生時代の大切な友人を失うという設定が一致。 北欧の深い森や川、規則的で孤独な東京の生活、学生寮などシンボルチックなアイテムが共通すること。 どことなく登場人物が重なること。 ユニークで包容力のあるクロ(エリ)レイコさんのように思え、ユズ(シロ)の悲壮感はそのまま直子に。しっかりした沙羅さんは緑が大人の女性に成長したらこんな感じだったんじゃないかな、などと勝手に想像しながら読みました。 おまけに、ラストはどちらも電話のシーンで、この二人の恋路はいかに?というところで終わっています。 これは意図されたものなのでしょうか。 「ノルウエイの森」以外の作品からの繋がりも、随所に見られます。なんというか、ディズニーランドで隠れミッキーを探しているような感じ。 ファンにとっては、そういう勝手な解釈や想像を楽しめるのも魅力ですね。 読み進めながら、過去にご縁があって今では会えなくなった人々や失った情景を思い出して懐かしさとせつなさでいっぱいになりました。 でも「ねぇ、つくる、あの子は本当にいろんなところに生き続けているのよ。」と言ったエリ。そして、つくるが伝えたかった言葉「過去には戻れなくても、すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃない。」 それを聞けて、私も救われました。 お話の中では集合無意識が闇のダークな部分として描かれていますが、同じ世界に光も存在し、そちらと繋がることもできるんだと、そう締めくくられていると私は解釈しました。 読み終わって、何かに突き動かされているような気がしています。 私も変容しなさい、と言われているのかもしれません。 | ||||
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本来一読した程度で感想を述べるのは、好きではないのですが、そうした感想も新鮮ゆえに、常連客の目の前に差し出すことも許されるのではないかと思い、投稿させてもらいます。ネタバレも一部含みます。 調和と不協和音、誰しもが一度は経験するはずのものですが、その経験を直視して、「暗い夜の海を泳ぎ切れるか」はまた別問題だと思います。人は時に、周囲と同じ行動をとることで、安心感を得ようとするし、また安心もします。高校生や大学生の中にはそういう人間は少なからずいるし、それが「美」とされる時さえある。 しかし、少し考えてみれば、24時間、誰かと同じ時間を過ごすことなどできない。当たり前の話です。 どうしても、流れる時間軸の中に、自分という存在と向き合う時間が生じる。そこで、はじめて、調和の世界から一歩這い出た自分が、「自分」を客観的に考察することができる。「東京」という場所で、調和だけの日々が続くのであるならば、どんなに楽でしょうか。繋がりがあるからこそ、そこに不協和音が生じることに不安が生じるのであって、感受性が人一倍強いシロはそれに耐えられなかったのではないかと思います(決して彼女が弱いということではない)。レイプされた被害者が、共同体の中でどのような立ち位置に置かれるのか、実際の被害者の方々の声を見聞すれば、想像することができます。優勢遺伝子が必ずしも社会に現れていないのと同じように、被害者もまた、社会で「存在しないもの」として扱われかねません。まるで、六本ある指を五本にして「整える」ように。 調和のない世界もなければ、不調和のない世界もない。 人は本気で人と向き合おうとすればするほど、えぐり取られるような苦しみとつらさ、寂しさを経験するものだと思います。常に一定の距離を持ち、誰とも、それが好意を寄せる女性であっても、心底繋がれない苦しさとはまた別のものかもしれない。本気で欲するからこそ、失うことの怖さを感じる。自分が失われてしまうのではないかと不安になる。しかし、その不安は、本気で欲した者にしか経験できない不安ではないでしょうか。 つくるは、沙羅を本気で「得よう」とする。それに沙羅も本気で「応えよう」とする。 結果ではなく、その二人の心の変化にこそ、悪魔に飲み込まれないようにするための、生への渇望が垣間見られると思いました。 私は、どちらかというと、つくる君のような人生なのかなと思います。どこかで、人から腹黒さを感じ取られ、男女問わず、心の底から人と付き合うことができずに生きています。自分では、努力しているつもりでも、どこかに「闇」を抱えているのかもしれません。本作品に自分自身を投影してしまったため、バイアスがかかり、評価を満点とすることはできません。しかし、一度でも「死」を本気で考えた者にしかわからない「闇」を村上春樹さんの筆力で描いた本作品は、自分を含め、人間関係に悩む人にとって、幾らか勇気付けてくれると思います。 | ||||
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3月中に、題名が発表になり、題名を見て、「巡礼の年」という言葉に大変想像力を刺激された。本書の中でも言及されていたが、リストの「巡礼の年」を思い出したし、本書ではなんのほのめかしもなかったが、リルケの詩「巡礼の巻」を連想したからだ。しかも「巡礼」→十字軍という事柄さえ思い浮かべたが、そういう高尚なものとはまったく無縁で、著者には、そのような教養、古典の下地(したじ)もないようだった。 簡単に言えば、本書は、"毎度の"ストーリーでのみできあがっている(400字詰原稿用紙換算、700枚前後)。 主人公、多崎つくるが、大学の2年に、高校時代からの親友4人から、理由を明かされないまま絶交を言い渡され、死を考える。そんななか、後輩の男と知り合い、リストの「巡礼の年」と、それにまつわるエピソードを知る。以上のような経歴を、小説の現在である時間の恋人に語って聞かせ、彼女の勧めと協力で、なぜ多崎が4人の友人に絶交されたかを探っていく。あいだにはさまれる、「行方不明」「殺人」。推理小説のようには、犯人も理由も明かされない。それは、あくまで、物語をミステリアスにするための装飾である。 ちなみに、高校時代の4人の親友の名前が、白、黒、赤、青、という文字が名字に入っているが、これは、中国神話の四神で、司っている東西南北を表す色である。これは、小説(庄司薫とか(笑))やゲームなどに、結構使われている。そして本書では、やはり思わせぶりの装飾の域を出ていない。 小説が文学であるためには、それが事実であるかどうかという意味ではなく、リアリティというものが必要である。また、エンターテインメントであるためには、該博な知識が必要になってくる。本著者のように、ただ感覚的なものだけで押していくと、なにを語っても抽象的になり、数作はそれでもいいかもしれないが、やがて、自己模倣の隘路へと入り込んでいく。日本の文壇からは完全に無視されている著者であるが、ただバカ売れしている書き手に対する嫉妬からだけとも言い得ない。このような「お話」は、文学とは言えない。ただそれだけである。 それにしても、大学生にもなって、高校時代の仲間に絶交されただけで、死を考え、結局それを実行できない人物というのは、昨今、追い詰められて、どんどん死んでしまう小中学生が存在する現実に対して、どうなんでしょう? 著者はニュースすら見ていないのかもしれないと勘ぐってしまう。 綿矢りさは、十代で女子高校生の世界を描き注目されたが、十年経った今も、女子高校生の世界を描いている。このぶんで行けば、十年後も描いているかもしれない。同様に、とうに還暦すぎた村上春樹が、いまだ、高校時代の人間関係で傷つき死を考える青年を描いているのを見ると、これは、70歳になっても、こういう世界を描き続けるのかな、と人ごとながら思う。まあ、行けるところまで行ってください(合掌)。次は、どのような興味深い題名でも、Amazonで予約をしてしまうという愚は犯さないようにしますから。 | ||||
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団塊の世代=学園闘争時代を生きた 若者の喪失感と恋愛を描いた 『ノルウェイの森』 『色彩を持たない〜』は 団塊ジュニア世代の『ノルウェイの森』だといえるだろう 『ノルウェイ〜』の表紙は緑と赤 これをクリスマスカラーと評するひとが大半だが、これは革命=赤、癒しの森=緑であるように思える 主人公は赤と緑の中で揉まれながら 喪失と再生を経験するわけだが 『色彩を持たない〜』は『ノルウェイ〜』とは反対に、主人公は無色透明存在 団塊ジュニアゆえ、赤=革命を知らないし 自分が無個性=透明であると知りながらも 個性ある=色を持った仲間たちに囲まれていれば、十分幸福を享受出来る幸福な時代に生まれた 主人公の父親は 団塊の世代で社会的成功を収め、経済的に恵まれている 主人公はその庇護下で育ち、容姿もよく、頭もよい。個性豊かな友人に囲まれ 何不自由ない青春時代を過ごす そんな主人公にも やがて喪失が訪れる 喪失とはどんな時代であっても 若者の普遍的なテーマであるように思える 色彩を持たない世代であっても それは不可避な問題なのだろう かつて革命によって多くを失ったと団塊の世代とは違い、団塊ジュニア世代は 《はじめから失われている喪失感》 に立ち向かわなくてはならない 主人公はある事件から喪失感を味わうのだが、 作中で主人公と友人が語るように それは事件のあるなしに関係なく 不可避であるように思える 主人公は一見、ふつうの社会生活をおくっているように見えるが、ある日、ふと自殺してしまってもおかしくないような危うさの中で生きている これは現代の若者のテーマであるように思える 『色彩を持たない〜』の主人公は 自らの孤独と喪失の意味と向き合うために 巡礼の旅に出る かつての友人と再会するための旅 ここは『ノルウェイ〜』の主人公より 自由で前向きなものを感じさせる 最後の巡礼地はフィンランド 流れる曲はル・マル・デュ・ペイ 『ノルウェイ〜』のラストが 電話で終わったのに呼応するように 『色彩を持たない〜』のラストにも やはり電話のベルが鳴る 主人公のとった行動にどんな意味があるのか もう一度、読み直して 深く考えてみたいと思った | ||||
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少年時代から青年、大人に至る過程で誰もが経験するモラトリアムとアイデンティティの葛藤の物語。 テーマとしては村上さんの小説によく登場しますが、今回は今回で改めて面白く読めました。 いつまでも高校生の話、という話ともいえますが、村上さんの「物語」にとっての永遠のテーマなのかもしれません。 そこにしか物語がないのか、と言われれば、そうではないかもしれませんが、自分んははこの村上さんの小説にいつも気付かされます。 ナイーブすぎる37才のつくる君、そうでもないかなと思います。 | ||||
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村上春樹という作家を、他と比較して語るほどの力量を僕は持ち合わせていないので、毎回単純に彼の新刊を楽しみにしている。 今回の作品も、村上ワールド全開とまではいかないまでも、レトリックや言い回し、受け答えの仕方、研ぎ澄まされた文体、どれをとっても彼一流のものだった。 確かに、答えは用意されていない。しかし、それは初めから何となく予感できたし、そうであってほしいとさえ思う。 人は、音楽に癒やしを求めることができる。耳に入ってくるのだ、美しいメロディが。第九の歌詞の意味側からなくても、最終楽章でカタルシスに達する人はたくさんいる。 しかし、絵画はどうだろうか?美しいメロディを単純に許容できる脳が、絵画になると、意味を読み取ろうとしてはいないか?もちろん、アメリカの1800年代の風景画のように、荘厳な風景画は、ある意味敬虔な感覚を呼び起こさせる。単純にだ。 村上作品は、絵画を鑑賞するのに似ている。底では自分で意味を見つけていくほかはないのだ。解釈は見る人に委ねられているのだ。だから、死やメランコリィなどの灰色のイメージと登場人物の名前における色彩との対比もできるわけだ。喪失感や厭世観を超えたところにあるのは、やはりヒトへの愛だった。 待った甲斐がありました。この作品に出会えたことに感謝します。 | ||||
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うーん、どこかで読んだことあるぞこんな話、という気持ちになった。 大きな流れも細かいディテールも違うのに、出来上がった全体は何か、見たことあるなにかに見える。 主人公が代わり映えしないのはいつものことだからいいとして、そのほかの登場人物にいまひとつ奥行きを感じない。4人の元親友も新しい恋人も消えた年下の友人も。 死に囚われるほどに苦しんだ絶縁も、あっさりと「ごめん」「許す」で乗り越えたし。 最後の最後でつくるが時間の経過について意見を述べるけど、それがこの話のいいたいことだとしたらこの本はあまりに薄い。 もっと大長編にすればいいのに。ロシア文学みたいに。 (年齢がほぼ同じで、20歳前後にきつい時期があって、とか個人的にシンクロする部分があったので面白かったけど) 1Q84のBOOK4は、どうなってるんですかねぇ。出るんですか、村上さん? | ||||
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冒頭から、村上春樹ワールド炸裂で、ああ、やっぱり 村上春樹だ(意味不明)と納得する一冊。 考えや思いが、時間を前後して登場したり 短いフレーズの比喩が複雑な気持ちを鮮明に 表現していたり、洋書のような単語を使ったり、 クラッシック曲の蘊蓄があったり。 だが、ファンタジックな、というかミステリアスな 部分が陰を潜め、リアルな空間を作っているところが、 良くもあり、悪くもあると思った。 あまり、冒険をしなかった作品ではないか。 | ||||
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村上春樹は私にとって、一度深く愛し、その後決別した作家だ。 青春時代に愛した村上さんは、社会に出てからも付き合い続けるにはあまりに脆弱すぎたのだ。 今回、この本を読んでみたのは友達に触発されたからだが、はっきり言うと村上さんはある年齢で成長を止めてしまったんだなぁ、という、決別したときと同じ思いしか感じなかった。 また、この内容なら、もう少し簡潔にできたはずでは、とも思った。心理描写が少ないのにこの量は少し冗長すぎる。 村上さんは、イニシエーション以前〜イニシエーションまでを描くのは恐ろしく巧い(と感じさせる)が、イニシエーション後については、彼は描かない。イニシエーション後が彼にとって未知の世界だから描けない、なのか、自分のイニシエーション後観を不特定多数の他者に見せたくないから描かない、なのか、どちらかわからないけれど。 しかし、今後も、イニシエーション後を描け(か)ない作家で居続けるのであれば、彼はノーベル文学賞を取ることなどできないだろう。 | ||||
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読みやすかったです。 なんとなく、昔読んだ夏目漱石の「こころ」に似ているような感じがしました。(あくまでも個人的印象です。) 舞台が現代なので、登場人物やその人間関係は、より現代的状況を反映したものになっていますが。 Facebookなどが出てくる割に、つくるの設計技師としての日常やその背景には、現代の鉄道(駅舎)設計のリアリティやディテールが希薄で、それが共感を薄くしましたが、これが春樹的世界なのかもしれません。 | ||||
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氏の作品は全て読んでいるファンですが、できるだけ冷静にレビューを書こうと思います。いくらかネタバレを含みます。 読後感は「国境の南、太陽の西」に似ています。つまり、切ない終わり方であり、明快な解決は与えられないんだけど、主人公がひとつの哀しみを通り過ぎて、それでも尚も生きつづけているという体温みたいなものが、確実に伝わってきたということです。 構成や展開に奇想天外な要素はないし、度肝を抜くような仕掛けはなく、氏の系譜のなかでは寧ろ異端の、静やかなリアリズム作品ということができるかもしれません。ただ、そのように構成なり題材なり手法なりが静やかであるからといって、読み手の心が「静やか」なままであるとは限りません。主人公の切なさに感応してしまった、自分の物語のように感じてしまったという点では、少なくとも私にとって、この作品は近年のベストです。 思想やメッセージ(時には結論さえも)が、かなり直接的に語られ、思わせぶりな部分が少なく、恐らくは文学作品を読まない層に向けて書かれている点は、好き嫌いが分かれると思います。こんなのは(高尚な)文学じゃないと切り捨ててしまうかも人もいるだろうし、励ましをストレートに受け取って涙を流す人もいるに違いありません。個人的には「人はまず駅を作らなくてはならない(駅にならなくてはならない)」という比喩が、とても素敵だと思いました。つまり、相手がどう出るにせよ、環境がどうであるにせよ、迎え入れるだけの準備は(まず自分から)始めなければというメッセージです。 それにしても「世の中には実に沢山の人が生活している」ということと、「その沢山の人は代替不能の個人から成っている」ということを、かくもリアルに実感させてくれる小説というのは、本当に尊いと思います。新宿駅の描写など、特にそう感じさえましたし、主人公や幼なじみが大人への階段を辿っていく様、慈善と偽善の間を揺れつつ過去に惹かれながらも、否応なく歩みを進んでいく様子は、誰の人生にも多かれ少なかれ重なってくるのではないかと思います。 減点要素もあります。主人公が、もしかしたら自分は気付かぬうちに、別の自分の手によって何かを殺したり損なっているかもしれないと考察する場面です。これは「海辺のカフカ」でも扱われた命題で、その焼き直しであると思われますし、むしろ「カフカ」よりも踏み込みが浅いです。いくつか「この手の考察は、過去の作品の主人公もしてたけど、彼ら(彼女ら)のほうが熟考してたんじゃないかな」と思わせる点がありました。 それでもなお、私が評価を4とするのは、氏が直接的に、真っ直ぐに、主人公を励まそう、それによって読み手を元気づけようとしているように感じたからです。難解なもの、入り組んだもの、複雑怪奇なものを書こうと思えば書ける作者が、あえてストレートにものを書くと、かくも温かな世界が広がるのかという感動がありました。少なくとも私は、主人公と「巡礼」をして良かったと思っています。 | ||||
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僕は村上春樹に期待しすぎているのかもしれない... ノルウェイや世界の終わりのような感動はもう得られないのか | ||||
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