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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全1022件 941~960 48/52ページ
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多崎つくるは,20歳のときほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。 名古屋での高校生の時から親密に交際していた4人の友だちから,ある日,もうお前とは顔を合わせたくないし,口をききたくもないと告げられたのだ。妥協の余地なく唐突に。そしてその理由はなにひとつ説明してもらえなかった。 「乱れなく調和する共同体」みたいなものを維持しようとしていた高校時代の5人。 それなのになぜ・・。あまりの出来事に何もかもがどうでもよくなってしまったつくるは,半年で体重が7キロ落ち,顔つきも一変し世界を見る目も変わってしまった。 それから16年。 多崎つくるは36歳。 突然夜の海に突き落とされたような状態からなんとか一人で泳ぎ切れたつくるは,東京で駅をつくる仕事をしている。 20歳の時の経験が原因か,人と深いところで関われない,他人との間に常に一定のスペースを置くような傾向を持つようになっている。 そして,現在,木元沙羅という二つ年上の女性とつきあい始めた。 沙羅はつくるの高校時代の話に興味を持ち,つくるが抱えている心の問題を解決するには名古屋に行って,突然関係を打ち切られた原因を確認する必要があり,そうしない限り二人の関係は前に進まないと言われる。 こうして多崎つくるが高校時代の友人たちを訪ね,16年前の原因を確認する過程がえがかれる。 ただ,本書では,時系列的に原因究明の旅をえがくだけでなく,同時に,つくるが大学時代,なんとか死ぬことを乗り越えた直後に出会った二学年年下のある男(灰谷)との関係が描かれ,この物語が本書全体に村上春樹ならではの不思議な雰囲気を与えている。 灰谷は,鉄道の駅を作ることに興味を持つ多崎つくるに対し「限定して興味を持てる対象がこの人生でひとつでもみつかれば,それはもう立派な達成じゃないか」と言って,つくるに関心を寄せる。 そんな灰谷がつくるに話した,灰谷の父の経験談が奇妙だ。 そして私は「海辺のカフカ」や「スプートニクの恋人」などに含まれる奇妙な物語が大好きだ。 村上春樹の作品は,すべてなんらかの奇妙な物語が含まれ,それこそが村上春樹の醍醐味だと思います(「ノルウェーの森」だけはリアリズムの手法で書かれたものだと思いますが,それでも何か奇妙な感じも内包しています)。 本書において,灰谷の物語がなくとも作品は成り立ちそうですが,この灰谷の物語によって,本書を安易に,多崎つくるの喪失から再生への物語だ,とも言えないような雰囲気を醸し出しています。 | ||||
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相変わらずの心地よい文体、メタファーの洪水…。 直近の村上春樹にしては平易な長編…むしろ短編群に近い空気感。 自分の年齢もあるのか、「羊をめぐる…」や「世界の終り…」の時のような衝撃ときらめき感は弱かったが…。 シロとクロの転化を想定させる灰田くんや(光の三原色?)絡みでアカ・アオに呼応する緑川さんが消えていく挿話も村上春樹らしい心地よい仕込みだと感じました。 | ||||
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誤解を恐れず言うなら、私自身は村上春樹という作家の作品は本来、このように新作が出るたびに大きな話題となって、一度に何十万(百何十万)部という膨大な数の本が売れるようなものではないと思っています。私から見た限りでは、その作品群には全体的に色濃い「孤独」の影が漂っています。そしてたとえ多くの人が潜在的にその「孤独」を背負っており、村上春樹がその「孤独」を描出する手腕が傑出したものであったとしても、その「読者」と「作品」との間に存在する「孤独感」(あるいはその他の感情)の共鳴は、より自然に自発的に(つまり宣伝文句で煽られるのではなく、読者の側の自然な心の求め方によって)なされるべきだと思っています。そして(村上作品ファンの方々だったらおわかりいただける感覚だと期待しているのですが)、読者と作品との間にそのような幸福な「共鳴」が訪れた時に初めて、その作品はその人にとってとても大切なものへと変貌するのだと思います。 この新作についても、作品全体には同じく濃密な「孤独の影」があります。主人公の多崎つくるは過去の出来事により、ある時期強く「自分が死ぬこと」を求めるようになります。それを何とか乗り越え(たと自分では思っている)、社会人として東京で働いている時点を現在基点とし、彼がその過去の出来事と一つ一つ向き合っていくさまが作中で描かれます。 他の村上作品によくあるように、この作品の主人公である多崎つくるも他人との広い交際を持たず基本的には孤独であり、また「人生を生きていく事」に対してあまり情熱的な姿勢を見せません。そして彼自身はそんな自分の薄ぼんやりとした(色彩を欠いた)存在に対して疑念を抱いており、そんな自分が人に何かを与えることができるのかと(ぼんやりと、しかし執拗に)悩み続けます。 そんな彼が、リストのピアノ曲「巡礼の年」に触発されるように、そして過去と向き合うことを通して自分自身の生きる意味を確認するかのように、過去への「巡礼」の旅に出かけます。 その「巡礼」の間に彼が何を見出すのか、それは読書の楽しみとして具体的には書かないでおきますが、ただその「巡礼」は彼にとってほろ苦い切ないものとなっています。そして作品全体はその「苦さ」や「切なさ」を「生きていくうえで避ける事のできない不可分もの」として提示し、それを通してしか人は生きていく事はできないのだ、と言っているかのようです。それは一つの苦い認識ですが、しかしそれだけに、作中で時に語られる「時間が経っても変わらない、昔も今も変わらずある良きもの」の掛け替えのなさも際立つかのようです。そしてこのような苦さや切なさ(時に不気味な薄暗さ)が作品の基調を成しているにもかかわらず、全体として「それでも我々はこの人生を生きていくのだ」という足取りを感じることができるのもまた確かです。 上にも書いたように、私自身は村上作品は自分がそれを自然に欲していると思った時に、自発的に手に取った時にこそ真の共鳴が得られると思っています(そしてこの作品に限って言えば、大変な話題となっている現状には反して、この作品に心底共感できる人の割合はもっと少ないと思っています)。ですからこの作品に関しても、私は積極的には他の読者の方々にはお薦めしません。ただし上に書いたような諸点に何かしら共鳴するものを感じられる場合であれば、もしかしたら手に取ってみる価値はある(そしてこの作品がその方にとってとても大切なものになる可能性がある)かもしれません。 最後にこの作品全体に関する私自身の印象を。既にレビューで指摘されている方もいらっしゃいますが、熱心な村上ファンならすぐにわかるような、過去作品で登場したモチーフがこの作品には頻出しているように見えます。あまり村上作品に接したことのない読者なら新鮮に見える点も、そういった昔からのファンにとっては「焼き直し」に見えてしまう恐れもあります。ただしそれらは考えようによっては、それだけ作者にとって重要なモチーフであるとも言えるのかもしれませんが。 ただしその文体に関しては、近年の村上春樹が持っていた「三人称の語り」への強いこだわりが、この作品では完成形に近づいたかのように見えます。作品に存在する切なさや寂寥感とも呼応して、その語りは全体的に静謐な美しさに満ちています。文章自体がこのようにある種の魅力を備えてもいますので、(上に書いたことと矛盾するかもしれませんが)「試しに読んでみる」つもりで読んでみても恐らくスイスイと読むことができると思います。そして読み終えてすぐには印象に残らなかったとしても、後々自分自身の境遇や心境が変わるにつれて、再度この作品を手に取ってみたくなる瞬間もあるかもしれません。もし気が向いた方がいらっしゃれば、そんな瞬間を期待してこの作品をとりあえず手に取ってみるのも良いかと、個人的には思います。 | ||||
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大体の春樹作品(短編・エッセイ含)を読んでいる者です。 物語の構造自体は真新しいものではなく、 「主人公或いは主人公にとって大切な人物が別の世界へ行き、 無事に戻って来られるか」という『羊をめぐる冒険』辺りからある 多くの村上作品に見られる構造だと思います。 内容は今までの作品に見られるテーマや人物を幾つか拾い集めて、 時代設定や作中に登場するアイテムを現代に合わせてアップデートしたような印象を受けました。 物語の結末や謎解きを肝要にするのではなく、文体や比喩に唸りつつ、 上記に書いた構造を抜け出す(或いは踏襲する)作品となるのかを念頭に置きつつ読み進めるのが、 春樹作品の楽しみ方なのかも知れません。 | ||||
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他のレヴュワーの方も記しているが、村上氏はドストエフスキーの作品のような小説を書きたいと述べていたことがあった。そして出版された作品が、この作品である。370ページと言う長さからして、晩年に“罪と罰”から“カラマゾフの兄弟”まで長編を次々に書き上げて行ったロシアの巨匠から見ると、ちょっと違うんじゃないの、と思わず首を捻ってしまった。もちろん長ければ、大作であると言う訳ではないが………。 他の作家に比べれば、それはそれは楽しめる小説だ。けれども期待していたレヴェルには、とてもではないが遠く及ばない。ノーベル賞の万年候補になってしまい、もっと冒険できる小説を書けなくなってしまったのだろうか。フィンランドは、“遠い太鼓”で数ページ出てきたけれども、情景描写が比較的容易にできるので選んだだけではないか、と勘ぐってしまう。また登場人物のうち幾人かが死ぬ設定になっているのだが、前もって“この人物は死ぬのだろうな”と言うことが分かってしまう。それに主人公から仲間が離れてゆく理由が、唐突であり、とってつけたような印象を受けたが、それは私一人の印象だろうか。 ドストエフスキーは59歳で亡くなったが、氏の前年に“カラマゾフの兄弟”を書いている。村上氏はもう64歳になっているはずだ。きっとこれは次回の長編のための跳躍台なのだろう。次回作に期待しよう。 | ||||
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この小説、いやどのような作家のどのような作品にも、本来評価などというものは当てはまらない。ましてや村上春樹さんを評価するなど、僭越なことです。 半日を費やして、一気に読ませていただきました。登場人物は多くなく、それぞれがそれぞれの役割を担うべく発言をしますが、結局は主人公の心の葛藤がテーマ。 高校時代から大学二年に至るまでの友好的な友人関係の崩壊に端を発し、30歳半ばにしてその理由を確かめる旅に名古屋へフィンランドへと旅をするのだが、そこには単なる事実だけが存在し、それを受け入れ自分の人生を再考するきっかけにしかならない。 様々な人生での出来事を一夜の夢の物語として捉え、目覚めてしまえばまた新しい一日を過ごすしかない。 そんな繰り返しを、村上春樹さん流の巧みな文章で綴られた物語。 飽きもせず、眠くもならず、360ページを一気に読ませられる小説を書ける数少ない存在の作家、村上春樹さん。 楽しませていただきました。 | ||||
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設定はなかなか新鮮で、これは面白いかも?と序盤は思ったけど非現実的なことがばっかりで段々冷めてくる。 しかも最後まで謎を残したまま終わってしまうからタチが悪い。もちろん、謎を残したまま終わること自体は悪いことではなくて、想像するのが馬鹿らしくなる類の謎だから悪いのである。 まあ作者の言いたい事は何となくわかるんだけど、いかんせん話が薄っぺらいからリアリティゼロ。こんなんだったら世の中に出さないで自分で楽しめばいいのにって思ってしまう。 この人は海外でもネームバリューがあるからこの本は売れると思うけど、最近の日本の文学はショボいねと言われても仕方がないレベルの出来だと思う。 | ||||
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多崎つくるは沙羅の言葉を巡礼の先々で繰り返す。 「記憶を隠すことはできても、歴史を変えることはできない」(p193) 歴史修正主義者に対する批判と受けとめた。 | ||||
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さっきこの作品を読破させて頂きました・・・。 今、その余韻に酔い浸りながら泣きながらレビュー書いております。 あぁ、何故春樹氏の作品はここまで素晴らしいのだろうか。 小生の欲求と不安な部分をここまで潤してくれる作品はなかなかないです。 現代で比喩が秀逸で綺麗で美しく読みやすい文章を書ける著者はこの人以外いないでしょう。 ただハルキスト代表として愚痴を少しだけ溢させて頂きます。 マスコミは春樹氏の作品をゴリ推しするのをやめていただきたい。 春樹氏の作品はあくまでも『純文学』なのだ。そんな大衆向けのエンタメ作品ではないのだ。 なので早急にやめてもらいたいです。 あとこの作品は高尚な純文学小説なので、 流行ってるからこの作品を手に取ろうとする主体性の無い人や感受性が乏しい人は読まないで頂きたい。 宜しくお願いします。 | ||||
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村上春樹には、高校生活の思い出を主題にした小説がいくつかある。 「めくらやなぎと眠る女」 「1963/1982のイパネマ娘」 「我らの時代のフォークロア 高度資本主義前史」 などである。これらはいずれも短編だが、今回初めて長編小説として高校時代に焦点をあてたものが本書である。 公立の進学校には、この小説に描かれたような質の経験が確かにある(誰にでもではないけれど)。小説の描く細部から 自分自身の物語をなにがしか聞き取ることが、本書の最大の楽しみです。大変興味深く、ハルキワールドを味わいました。 次のエッセイの一節を敷衍した小説といえるでしょう。 ・でも10代後半くらいの少年少女の恋愛には、ほどよく風が抜けている感じがある。深い事情がわかっていないから、 実際面ではどたばたすることもあるけれど、そのぶんものごとは新鮮で感動に満ちている。もちろんそういう日々は あっという間に過ぎ去り,気がついたときにはもう永遠に失われてしまっているということになるわけだけど、でも 記憶だけは新鮮に留まって、それが僕らの残りの(痛々しいことの多い)人生をけっこう有効に温めてくれる。 (『村上ラヂオ』所収「恋している人のように」) 以下は、ちょっと引っかかったこと。どなたか「正解」を知っていたらご教授下さい。 ・主人公の卒業したのは、東工大とおぼしいが、なぜそう書かれていないのか。名古屋大学は実名で出てくるのに、 アンバランス。 ・267頁「ダイハード12」って、誤植なのでしょうか。 同時代の作家の新作を発売すぐに読むことの小さな幸せを確かに感じました。 | ||||
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今までの村上春樹さんの作品と少し違う感じでしたが、村上春樹初心者でも読みやすかったと思います。 ひとつひとつの言葉が厳選されていて、心地よく感じました。 | ||||
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まず、この作品は午後の昼寝をするような気楽な感じですんなり読めました。 つまり逆に言うと、中身が薄い。あるいは灰田や緑川のくだりは大胆に 削って短編でもいいような内容ですね。ポスト311作品ということで 発売前からその謎めいたタイトルからいろいろな妄想をしていましたが なんかゴレンジャー的な陳腐な色彩に関しての設定があったり、「巡礼」 という言葉を使うにはちょっと大げさな感じがしました。 私自身も40なのでつくる氏よりちょっと年上ですがそれはそれなりに 過去の心の傷にとらわれながらもなんとか生きています。 しかし正直言ってつくる氏には感情移入できなかった。 つくる氏が36歳という設定に違和感があった。いろいろ トラウマをかかえているにしても現実感がなさすぎ。 逆に一番リアルに親近感を抱いたのはレくサス売りの彼。 読み込んでいけばいろいろな仕掛けや謎解きがあるのかもしれないけど 今後何年後かに発表されるであろう渾身の超長編のまえのいわば アフターザダークのようなローテーションの谷間的な作品と 考えればいいのではないでしょうか | ||||
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ノルウェイの森に似ている。 ある意味で。 直子と緑。 でも、今回緑が弱く、どうも魅力的な女性に思えなかった。 風景描写は圧巻。とくにフィンランドと新宿駅。 題名通りのノスタルジア。 美しく甘い、そしてやはり孤独で静かな小説でした。 つまらないところがいっさいない、 圧倒的な比喩、 安心して読み進めることができます。 彼がどんなに否定しようと、天才ですね。 | ||||
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まず冒頭でこの不思議なタイトルの意味が判明し、そこからはこの物語に於いて主人公が終始負い目として感じ続ける自分自身の存在意義の希薄さ、そして自ら望んだものでは無いにせよそれを探しに行くという、作者得意の「喪失とその奪還」の物語です。 とてもフィットした五人の少年少女達は絶妙なバランスで五角形を保っていたが、その一角=主人公はそこから強制的に排斥される。それは主人公に意向常に死を考えさせる程深い傷を与える事になり、そこから物語は始まります。 人は誰でも一度は「夜の冷たい海を一人で泳ぎ切らなければならない時」が来る。 | ||||
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「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読み終わりました。村上さんの作品にはいつも、見たくない自分の暗部、しかし見なければならない、もしくは見たほうがいい暗部を見せつけられる。できれば、眼を背けておきたい気もするけど、しかし、そこを直視すると何か「勇気」というか、自分の中の自分で気が付いていなかった「強さ」というようなものに気がついたりする。それはやはり「希望」なんだろうか?でも、村上さんは「過剰に期待した希望」についての「大いなる絶望」にまで思いを巡らせて、読者を包んでくれる。 そう、べったりとまとわりつくわけではない、本当の「優しさ」が全世界を巻き込んで人々に「危うさとだからこその安定」を感じさせてくれるのだろう。そこに世界中の人々は救いを求めているのかもしれない。 | ||||
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深く結びついていた4人の仲間から、大学2年の夏に突如、 絶縁された、多崎つくる。 その理由を16年後の「巡礼」によって知るという 村上春樹にしては、分かりやすく、読みやすい物語。 毎日死を考えるほど絶望する出来事はあまりないかもしれないけれど 誰にでも向き合うべき過去はあり、それを記憶の底に沈めることはできても、 なかったことには出来ない、というのは、そうかなと思った。 つくるの佇まい、つくると沙羅、つくるとエリの会話は、 いかにも村上春樹的で、心地よい。 やはり、いいですね。堪能しました。 | ||||
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2000年代に入ってからの村上春樹氏の長編は『海辺のカフカ』『1Q84』と大長編・問題作が続いた。 本作は量的に前2作の半分か半分以下の上、内容的にも難解・未知の問題が少なく、 読者にとっては読みやすいと思う。 しかし、高校生の男女5人の親密で完璧なグループという、現実には存在しえないものが登場する点に 違和感を感じた。 また主人公はじめ登場人物の造形に新味がない上、 生と死、意識と無意識、現実の人生と表面下に存在するもう1つの人生、といったテーマは、 村上春樹氏にとってお馴染みのものである。 本作はクリエイティビティに欠けるのではないだろうか。 しかし村上春樹ならではの比喩に満ちた文体が読ませるものではあることは確かで、星1つでは酷なので、 星2つとします。 | ||||
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近年の作品の中では一番好きでした。 村上さんの作品にしては珍しく、固有名詞がたくさん出て来て、現実感のある登場人物たちが新鮮。 自分に馴染みのある、名古屋と東京の舞台で、空気感がよく分かったのか余計面白かったのかもしれません。 方言が無くて不自然とのレビューもありましたが、実際コテコテの名古屋弁はあまり聞かないし、そもそもこのお話では不必要だと思いました。 ただ、いつも適度にワークアウトしてこざっぱりしている主人公像に少々飽き飽きしているので、☆ー1です…(まぁ、小気味良くはありますが。) この時代に生きて、村上さんの“新作”を読めるのは幸せなことだなぁと思います。 | ||||
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久しぶりに、時間を惜しんで小説を読むという体験を持つことができました。ここ数年の村上氏の作品は私にとっては冗長的すぎて正直余楽しめませんでしたが、今回の新作は一気に読んでしまえる長さとテンポの良さでとても楽しめ「中国行きのスローボート」や「レキシントンの幽霊」をよ読んだ時と同じ感じを持ちました。 「IQ84」「ねじまき鳥」の時には味わえなかった読了後の自分が別の場所にいるような村上氏独特の感覚もありとても懐かしい感じがする作品でした。 今までの主人公の一人称「ぼく」が「おれ」に変わっていること、すべての事象について中途半端なエンディングであることなどいろいろ違和感はありますが、それでも30年近くの村上氏のファンの私にとっては久しぶりの春樹節でうれしかったです。 | ||||
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内容の良さは多くのレビューに書いてある通りなので特に書きません。 じゃあ何が書きたいのかと言えば、否定的なレビューに対して感じた部分についてです。 否定的なレビューのほとんどは「リアルさ」=「現実感」に依拠しているように思われます。 《こんなことは起こらない、冷静すぎる、訛りが無い……》 あげれば際限がないのですが、だいたいが「リアリズム」に関するものでした。 しかし私は、それらをひっくるめて、 「小説はすべてがリアリズムであるわけではない」 ということを言いたい。 「本当に世の中で起こったこと」や「起こりそうなことをそのまま書く」ことを求めるのなら、小説は読まなくても良い、あるいは、読まない方が良い、と思います。 もちろん小説には様々なものがあって良いのであって、徹底的にリアリズムを突き通すものがあってもいいでしょう。それは否定しません。 しかしだからと言って、(だからこそ)現実感を欠いた小説が否定される必要もないでしょう。 むしろ、現実をそのまま描くのではなくて、現実を別の角度から、もっと言えば、有り得ないことを想定することによってこそ、現実と言うものを、今までにない、もっと現実的な見方で捉えなおすことが出来る場合だってあるのではないでしょうか。非常に簡単な例ですが、顕微鏡と言う装置を使うことによって、我々は自分たちが捉えきれる限界を超えて、そこに有るものを知覚しえるわけです。 ******************************************************** ここからは完全に私見ですが、この小説を否定しきれる人は「現実にべったり適応でき、タフに生きていける人」なのでは。(アカやアオにそれを感じました。シロやクロのような陰のある生き方=現実から大きく離れてしまった存在、に比べて華やかな色合いをしているのも、そのような意味合いがあるのかもしれません)それは悪くない生き方だし、むしろ良いともいえる。レクサスを売ることも大切だし、セミナーを必要とする人にその機会を与えるのもいいでしょう。 しかし、世の中にはそうじゃない人だっていると言うことを考える必要もあるでしょう。それこそがシロ=ユズであり、つくるでもあるのかと。 では彼らはどうやって生きていくのか。現実に生きる場所を見いだせない彼らはどうするのか。様々な生き方が(或いは死に方が)あるのでしょうが、僕なら村上春樹のような稀有な作家の小説を読んで、そこに生きる場所を見出して生きていくと思う。現実では生きていけないのだから、フィクションで生きていくしかないんです。 ******************************************************** 現実感のなさを引き合いに否定する人には、小説とはそもそも現実感を求めるだけに存在しないということ、そして現実世界で生きていくことの出来ない人、のことをもう少し考えてほしいと思いました。 | ||||
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