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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 801~820 41/72ページ

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No.626:
(7pt)

昔のイギリス裁判は無茶苦茶

英国の犯罪史上のミステリといえば、やはり切り裂きジャックが一番に思い浮かび、本作で取り上げられているエドマンド・ゴドフリー卿殺害事件については日本の読者には馴染みの薄いものであろう。私自身、この本に当たるまで全く知らなかった。
しかし英国ではこの一介の治安判事の殺人事件が当時の国王チャールズ二世と反対勢力であるグリーンリボン・クラブの主導者シャフツベリー卿との大規模な政治闘争の幕開けであり、またプロテスタント主体の英国の中でカトリックを振興する国王チャールズ二世とその弟ヨーク公の失墜を目論んだ宗教弾劾の側面を持つスキャンダラスな背景も手伝って、いくつもの研究本が出ているミステリであるとのことで正直驚いた。

まず本作の登場人物表に記載された人物について触れておこう。なんと全部で75人である!今まで『銀英伝』が最高だったがそれをはるかに上回った。しかしそれにも関わらず、登場人物の混乱は起きなかった。それぞれに個性があり、またカーの書き分けが素晴らしかったのだろう。
カーが本作で取った手法は、まず事件が起こるまでのチャールズ二世とシャフツベリー卿の確執、そしてカトリック教徒のジェズイット派による国王暗殺計画が進行しているという密告があったことなどから始まり、ゴドフリー卿殺害事件の発生、それを引鉄としたカトリック教徒たちへの迫害、そしてチャールズ二世政権の終焉までの、一連の事実を詳細に述べ、その後で、それら事実を検証し、カーが至った真相を自らの推理と共に披露するといったものである。つまり、通常こういった作品で取られる事件そのものの検証に直接当たるのではなく、当時英国で起こった事を膨大な資料の山から取捨選択し、1つの物語として仕上げているので、最初はなかなか核心に触れず、様々な登場人物が織成す政治的策謀を延々と読まされ、しかもその登場人物が非常に多い事から読書が非常に難航した。

しかし、これが後々にこの事件を語る上で非常に重要な部分であることが判明してくる。前にも述べたがこの事件が国王政治とその反対勢力との政治闘争とそれに加え、当時のプロテスタントとカトリックとの一大宗教闘争までに発展するのだから、事件そのものの謎よりも、この事件を誰の仕業にするのかで当時の政治バランスが変わってしまうといった代物だったのだ。

17世紀のイギリスでの容疑者への尋問、刑事裁判の内容についてカーは微細に書いているのだが、これが現代では考えられないほど恣意的であるのに非常に驚いた。
まずチャールズ二世を何とか引きずり落とそうと企むシャフツベリー卿が犯罪調査委員会の委員長に任命され、色々な容疑者を尋問するのだが、これが非常に非人道的なのだ。
なんせこの男、今回の事件を利用して国王一族の凋落を企んでいるのだから、容疑者に自分の役に立つ証言をさせるために平気で脅迫を行う。それに従わなかったらニューゲイト監獄へぶち込むという極悪非道振りである。とにかく事件に関わったもの全て、そして当時事件はカトリック教徒の手によるものだと噂されていたものだから、カトリック教徒であるだけで取り調べられ、監獄に入れられるといった傍若無人ぶりなのである。
そして当時の事件で冤罪者を数多く出す事になったきっかけを作ったタイタス・オーツなる人物。
彼は証言に際して、自分で創作した真相を語り、矛盾点が発覚すると、あの時は事件を思い出すのに連日徹夜で調査していた疲れが溜まっており、正確な判断が下せなかった、云った覚えが無い、などなど愚にもつかない言い訳を行ういい加減なぶり。しかもそれらが当時のカトリック教徒撲滅(=国王失墜)のムードに同調しているがために、裁判官もその曖昧な証言を採用し、被告人に刑を課すのだ!
つまり裁判も公平なものでは勿論なく、証人、被告人が事実を告白しても、その者がプロテスタントではなくカトリックならば、嘘をついている、証言は出まかせだといって取り上げないのだ。
いやはや、ものすごい時代である。そしてまた、それに甘んじて無実の罪を着せられ、死刑に甘んじる英国庶民もまたすごい。当時の階級社会ではお上に逆らう事自体出来なかったという時世なのだろうが、やってもいない罪で死刑を命じられ、刑に服すとは、なんともまあ、滅私奉公の極みともいうべきか。

本作は正確には未解決事件の真相を探るノンフィクション物だとして読むよりも、17世紀のチャールズ二世政権時代を語った歴史書として読む方が正しいだろう。この事件の真相は?というよりもこの事件が当時イギリスに何を起こしたのか?国王は、その政敵は、プロテスタント達は、カトリック達は、そして影で暗躍するフランスは何を行ったのか?を知るには格好の書物である。
カーの、未解決事件の推理力は元より歴史物作家としての技量の高さを知る上でも貴重な作品だろう。


エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件 (創元推理文庫)
No.625:
(8pt)

チャーリー・マフィン版『ロミオとジュリエット』

英国情報部のロシア課に勤めていた経歴を買われ、ソ連側に寝返って英国へ情報を流している人物を探るよう要請されたサンプソン、片や英国情報部部長よりサンプソンと共に脱獄し、ソ連に潜入して、英国に情報を流しているソ連高官と接触し、亡命の案内役を務めるよう要請されたチャーリー。
この相反する任務を反目し合う2人のうち、どちらが先に目標に行き着くかという面白さ。それに加え、2人の共通の人物としてベレンコフが絡んでくるあたり、演出効果は抜群である。
特にベレンコフとチャーリーの再会シーンはシリーズ第1作目から読み続けた者にとってみれば、チャーリーらが作中で味わうワイン同様に芳醇な読書の愉悦に浸れる名シーンである。それぞれ敵国随一のスパイながら、お互いを認め合う存在が酌み交わす美酒にそのまま酔いしれる思いがした。

]そしてチャーリーに絡むのはチャーリーの尋問役として配されたKGBの局員ナターリヤ・フェドーワである。この2人の関係は正に恋愛小説の常道で、イギリス古典悲恋劇であるシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を真に踏襲する敵同士の恋愛劇なのだ。
ロシアに潜入したチャーリーをロシアに食い止める楔がナターリヤであり、英国情報部の復帰のために自国へ帰るか、はたまたソ連で得たスパイ学校の講師という役を生活の糧にしてソ連へ留まり、ナターリヤと暮らすか苦悶するチャーリー。

今回の作品の目玉はもう1つある。前にも触れたが、チャーリーがベレンコフの要請により、ソ連のスパイ学校の講師に抜擢され、講義を行うシーンである。
冒頭、刑務所のシーンから始まる本作でのチャーリーはかつて敏腕のスパイであった面影はどこへやら、刑務所連中に溶け込めずにいじける男に過ぎなく、後で入ってきたサンプソンの若さから年取って衰えた自分の肉体に自覚をやむなくされる不甲斐ない男として描かれてき、またソ連に逃亡してからも、英国のスパイ探索に重用されるサンプソンとは対照的に尋問を繰り返される毎日で、異臭のするアパートで陰鬱な毎日を過ごすだけの男だったのが、この講義では実に色めき立つのだ。
いやあ、チャーリー・マフィンという男の敏腕ぶりをフリーマントルはページ狭しとばかりに多種多様に描く。今となってみれば意外性を持たせるある種の常套手段を単に述べただけとも取れるかもしれないが、非常に楽しく読めた。またこのスパイ学校の講義がその後のストーリー展開に重要なファクターとして関わってくるのには、正直、舌を巻いた。

そして上司や権威主義者に対し、常に反抗的な態度を取るチャーリーはその故か、敵国の人物に好かれることになり、またチャーリー自身も自国の人間よりも他国の人物を好きになってしまう傾向がある。それはスパイという職業では通常得られない利害関係を超えた友情や愛情という純粋な部分で触れることになるだろう。
しかし、それが今回では仇になってしまう。これが今後のシリーズ展開にどのような影を落とすのか、非常に気になるところである。

この前の作品『追いつめられた男』でチャーリーはどうやらイタリアで捕まってしまうらしく、この物語はその事件の裁判から幕を開ける。しかし残念な事にその作品は既に絶版で、こっちにも無く、もはや読めることは適わない。
しかしそれでもこの物語が単独で愉しめるという事実に、今後のチャーリー・マフィンシリーズを断続的であっても愉しめる望みが出来たのは嬉しい。ただ、次回はいきなり10年以上もシリーズを飛び越してしまうので、果たして本当に愉しめるかどうか・・・。


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亡命者はモスクワをめざす (新潮文庫)
No.624:
(3pt)

小説未満のミステリ

一尺屋遙シリーズ第4作目。正直、私はこの一尺屋遙という探偵に全く魅力を感じていない。長髪の、ブランド物の服を好んで着る、大分の田舎の農家の息子で花売りのトラックが愛車の、無類の日本茶好き・・・。特徴を持たせようとして、あまりに作りすぎたキャラクターだと思ってしまい、なんだか出来の悪いマンガを読まされているような感じがいつもする。

で、内容はというと、いやあ、これもまた作り物の世界だなぁと悪い意味で思わざるを得ない事件だった。例えば、島田氏の御手洗シリーズはその発想の奇抜さ―奇想―ゆえ、確かに作り物の世界だと思うのだが、その作り物を形成する物語の面白さが読者を惹きつけ、退屈させない。だからこそ、驚天動地の大トリックを披露されても、歓喜こそすれ、落胆する事はないのだ。
しかし、司作品にはその作り物の世界に面白みがないのだ。不可能趣味を形成する諸々の事象が、物語に無理を感じさせるだけになっているのだ。

なぜ、犯人は朱鷺絵に化けなければならないのか?本書の肝と云える水槽密室の、密室にしなければならない意味は?
冒頭の幻想味、事件の奇抜さ、これらを補完する真相があまりに陳腐で、物語の魅力を支えきれていない。推理小説の真相というのは、「なんだ、そんな事か」と思わせるものではなく、「うおっ、そういうことだったのか!」と読者を唸らせるものでなくてはならないのに、謎の特異性のみに腐心して、肝心の真相が腰砕けになっている。これが非常に残念でならない。
そして今回の物語の骨子を支えるのはやはり穂波朱鷺絵という謎めいた女性の存在だろう。事件の全てはこの女性を中心に回っており、作者の意図も、この朱鷺絵という人物に隠されたある特異な性格が本作で訴えたかったテーマだったに違いない。
しかしそれが全く成功していないのだ。
こういった小説作法に関する無頓着さが、私をして司氏の評価を貶めさせているのだ。

そして文章の問題。
前作の『屍蝶の沼』では三人称叙述だったが、このシリーズではワトソン役による一人称叙述に徹するらしく、そのスタイルは変わっていない。で、前作で感じた文章力の向上だが、今作では確かに前3作よりはある程度の味が出てきたものの、やはり物足りない。根本的にこの作家は一人称叙述に向いていないのではないかと思う。
しかもこの作品は純粋な意味で一人称叙述ではない(今までの作品もそうだったが)。登場人物が章ごとに代わるにつれて、三人称になったりもする―そしてその三人称叙述も“神の目”の視点なのに、登場人物の主観的描写が多く、根本的な間違いが多いのだが―。

多分物語の面白さに没頭していれば、こういう粗も全然気にならないのだろう。しかし、ところどころにこの作者の、小説の書き方、物語の語り方に納得がいかないところがあるがために、どうしても瑕として目に付いてしまう。
かなり厳しい事を今まで述べてきたが、やはり金を払って本を買った身としては代価に見合った娯楽は確実に得たい。
もっと精進して欲しい、この作家には。


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悪魔の水槽密室―「金子みすゞ」殺人事件 (光文社文庫)
No.623:
(7pt)

知られざるベストの司作品

今まで読んだ司作品の中で、ベストの1冊。なぜ今までこのような書き方をしなかったのかと首を傾げたくなるぐらいの出来。
今回採用しているのは三人称叙述で、一尺屋シリーズの一人称叙述と違い、文体が格段に進歩していた。同じ三人称叙述の『首切り人魚~』と比べてもその違いは雲泥の差。
今まではストーリーを語るというよりもプロットを語る、つまりパズルを解いているプロセスを説明しているかのような味気ない文章だったが、この作品では、いわゆる「じらし」の手法に磨きがかかり、その抑制した文章には張り詰めた緊張感が一様にあった。

そして物語を彩る登場人物たちも、今までの諸作品には見られなかった個性があった。主人公を務めるしがないルポライターの高野舜と元恋人で「羽室新報」の社員、稲葉菜月の二人と、ほとんどサブキャラクターでしかないが、印象深い上司の松岡を始めとして、一部記憶が無くなるという症状を持つ能面師三村、梨花の担任のサラリーマン教師米沢、幻覚を見るという同級生の間宮弓子、家庭内確執を隠す仮面家族、原嶋一家とその家に勤める家政婦や用務員ともども。今までの作品では単に推理ゲームの駒の1つのようにしか語られなかった登場人物がそれぞれの過去にエピソードを孕ませることで深みを増したように思う。
そして1人の少女の死が、戦後の毒ガス実験に繋がっていくという物語の展開も事件の背後に隠された驚愕の事実という事ではなかなか秀逸だ。

いやあ、とにかくガラッと変わったというのが第一印象だ。
おまけに今回作者目指したホラーと推理の融合という目標は達成していると思う。実際、色が黒ずみ、痙攣を起こし、人相が変形する奇病は恐ろしかったし、羽室町という町が大きなお化け屋敷のように変わっていくのも読みながら手に汗握った。

しかし、しかしである。後半は急ぎ過ぎた。じわじわと雰囲気を盛り上げていった割には最後の真相が駆け足になってしまったようで、なんとも呆気ない。最後もぶつっと切れてしまったような終わり方で、エピローグが欲しかった。
今までの司作品では島田作品ばりのエピローグが特徴的で、時にはお涙頂戴的なそのエピローグが蛇足に感じていたのに、今回は逆にそれがないがために消化不良の感がある。

前にも書いたように今回の文章は別人が書いたかのような出来映えである。が、しかしこれはようやく作品として読むに耐える文章を得たという事に過ぎなく、今からが実質的なスタートラインだろう。次回もレベルを維持している事を期待する。


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屍蝶の沼 (光文社文庫)
司凍季屍蝶の沼 についてのレビュー
No.622:
(4pt)

純粋謎解き物として読めば…

唄う髑髏、白秋の詩に秘められた暗号といったガジェット。衆人環視の中での毒殺事件という不可能犯罪。そして惨劇の舞台は北九州の田舎にある民窯の村で、しかも祖父が愛人を囲い、妻は舌を切られ、原因不明の病に臥せり、腹違いの兄妹たちは遺産相続でいがみ合っている。
つまり扱っている題材は本格ど真ん中であり、舞台設定、トリック共々、申し分ないはずなのだが、やはり物足りない。
小説を読んだというより、長いパズルを解かされたという感慨しか残らないのだ。ここまで来ると呆れるのを通り越して、これこそがこの作者の特徴かと割り切ってしまう。

確かにそれぞれの登場人物には、欲深さとか派手な生活が好きだとか、厭世観を常に抱いているといった性格付けは基より、狭い田舎で繰り広げられる人間関係の罪深い業も設定され、しかもそれにはワトソン役まで一役担わされるのだが、一通りの素材というのは揃っている。しかし、なぜかそれらがストーリーに深みを与えるのではなく、プロットの段階でお披露目しているようにしか思えないのだ。
これほどまでに無個性だと、むしろこの作者は全てが謎解きに寄与する純粋本格推理小説を書くことを目指しているのかもしれない。

前作までは冒頭の幻想的な謎と論理的解決、図解を交えたトリックの種明しといったモチーフから、島田作品の影響をもろに受けていると述べたが、今回は山奥の山村といった閉じられた社会での陰惨な事件、一族の中の確執、唄う髑髏と横溝正史氏の影響が色濃く出ていると思った。
しかしこれら先達と大いに違うのは、物語としての面白さに欠けることだろう。島田氏には島田氏の、横溝氏には横溝氏のテイストという物が確かにあり、それが読書の食指を動かすのである。
司作品は文章にそのテイストという物が無い。心を動かす物語の振り幅が0に等しいのだ。

物語よりもトリックを!といった純粋推理を楽しみたい方には最適の作品だろう。しかし私はといえば、あいにくそれだけでは腹が太らないのである。


さかさ髑髏は三度唄う (講談社文庫)
司凍季さかさ髑髏は三度唄う についてのレビュー
No.621:
(3pt)

蛇遣い座、関係ある?

名探偵一尺屋遙シリーズの本書、オランジュ城館というフランスの城館を舞台にし、見取り図まで付け、しかも冒頭から壁を通り抜けて落下した死体、天を舞う蛇といった島田荘司氏ばりの奇想から幕開け、その後も白髪の狂った老女の登場、飄々とした探偵の登場といった横溝正史の金田一シリーズを髣髴させる幕の開け方、そして城主影平氏の、家電の買い込みと小型トラック1台分の殺虫剤を購入し、庭のあちこちに埋めるといった理解しがたい行動、等々、作者の本作に賭ける並々ならぬ意欲がひしひしと伝わり、正直、「これは!?」といった期待感があったのだが・・・。

真相を読むとどうもアンフェアのオンパレードだという印象が拭えない。
そして最初に起こる殺人事件の真相も実に呆気なく、最終章を迎える前に容易に探偵が種明しをしてしまう。
いや、これはこれでも構わないのだ。その後に起こる事件にもっと魅力があれば。しかし、次に起こる事件は過去に起こった事件と全く同じ物で、読者側にしてみれば同じトリックの使い回しのような感じを受けてしまう。

そして結末は作者の心酔する島田氏の作品に倣うかのように、またもや関係者の手記で幕を閉じる。
もしこの同じ設定を活かして島田氏が書けばどうなるだろうと想像してみる。恐らく、評価は少なくとも星1つは多くなるだろう。私が思うに、この作者には「推理」小説は書けるが推理「小説」は書けないのではないだろうか?つまり、この作者には物語が持つ「熱」を感じないのだ。「熱」とは、物語を読んで、読者が抱く悲哀感、爽快感、高揚感といった物である。これらが一切感じられない。

確かに物語を色濃くするために戦争のどさくさで日本軍が密かに行った物資横流し事件など、単純なパズルゲーム小説には終始していない。それは認めよう。しかし、それが単なる飾りにしかなっていないのだ。島田氏ならば、それ自体が非常に面白い読み物として提供してくれるだろう。ここに作者の力量の差が歴然と出てくるのだ。
奇想を作る才能は感じた。あとはそれに見合う物語力を求める。私は小説を読んでいるのだから。

最後にもう一点。題名の『蛇遣い座の殺人』、最初に出版された時は『蛇つかいの悦楽』という題名だったが、これが全く物語に寄与していない。蛇遣い座は作中では単なるエピソードとしてギリシャ神話の中での成り立ちが語られるだけである。当初、天を舞う大蛇をそのモチーフとして使う意図だったように推測するが、それはほんの末節に過ぎない。こういうところにも小説としてのバランスの悪さを感じてしまうのだ。


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蛇遣い座の殺人 (光文社文庫)
司凍季蛇遣い座の殺人 についてのレビュー
No.620:
(4pt)

師匠の壁は厚すぎた

以前住んでいた愛媛の離島を舞台にした作品という事で、期待したが、二時間サスペンスドラマの題材に過ぎない内容でガッカリした。
冒頭の幻想的(?)な謎の提示―首の無い死体が首の代わりに置かれていたマネキンからつかの間の瞬間、髑髏に変わる―、論理的解明、さらには犯人の手記で物語が終わるといった構成は師匠と崇める島田荘司氏の創作作法に則っているのだが、パンチが弱い。

ただし、約240ページの薄さに収められた謎はかなりの量である。先に述べた首の挿げ替えられた謎、同時刻に被害者が20キロ海を隔てた地で目撃されている事、45年前に起きた胴無し死体の謎、骨食らう鬼の正体、更なる首無し殺人事件の発生、といった具合に畳み掛ける。
それを補完するように、戦後の混乱に乗じた御家乗っ取り、閉鎖された離島での因縁深い人間関係、男と女の恋情沙汰なども散りばめられている。しかも主人公の敷島にも小さい頃育った沖縄で米兵と母親との間の苦い思い出のエピソードがあり、キャラクターを印象付けようとしている。
しかし、これらが何か薄い。小説作法の方程式に当て嵌めて、ただ単純に作ったという印象が拭えないのだ。

小説としてのコクはなくとも、じゃあ、謎解き部分はどうだ、というと、これもさほどでもない。確かに色々散りばめられた謎、犯人、どれも私の推理とは違ったが、カタルシスを得られたかというとそうではない。
一番ビックリしたのはいきなり最終章で犯人が犯行について独白し始めた事だ。これは一番嫌な謎解きシーンである。その後の展開から、この犯人は真犯人ではなく、共犯者だという事が解るのだが、はっきり云って興醒めした。このシーンで探偵役の敷島が、単に迷走していただけになってしまったかのような印象を受けた。

この作品も初版はカッパノベルスであり、駅のキオスクで売られるであろう版型である。しかし同じノベルスでも東野作品と比べると、作者の力量の差がいやでも解ってしまう。
酷な云い方だが、ブレイクする作家とそうでない作家の違いが如実に解ってしまうような作品だった。

首なし人魚伝説殺人事件 (光文社文庫)
司凍季首なし人魚伝説殺人事件 についてのレビュー
No.619:
(7pt)

物語が終っても生活は続く

高知の山村、郊外の村を舞台にした短編集で、5編が収められている。

まず表題作の「神祭」と「火鳥」と「隠れ山」の3編は嬉才野村を舞台にした作品。前者は老女由喜の回想譚。畑の物、海の物、山の物を氏神様に捧げて五穀豊穣を願う神祭。とはいえ、親戚一同が会して宴を行うだけの特にこれといって変わり映えのない祭りだったが40年前の神祭で由喜は今も忘れらない事件がある。それは当時男子に恵まれなかった由喜夫婦のために、精がつくと云われる鶏の生血を夫に飲ませようということになり、親戚一同、盛り上がっていた。夫が暴れる鶏を抱え込み、従兄の敬一が首を刎ねたのだが、首の無い鶏はそのまま裏山に飛び込んで消えてしまい、親戚一同で探索するが、見つからないづくだった。その後、由喜は子宝に恵まれたのだったが・・・。
「火鳥」は村にある二畳ほどの広さしかない蔵番小屋に住む未亡人みきの話。その小屋の隣に家を建てて住んでいたみき夫婦はその肉を食べると祟ると云われていた全身真っ赤な鳥ミズヨロロを食べたために火事で家と家族を失ったと専らの噂だった。しかし村の少年竹雄はいつも満ち足りた表情をしているみきを見て、みきが不幸であるとは信じかねるのだった。ある日、竹雄はみきが川で全裸で水浴びをしている所に遭遇する。それは竹雄の性の目覚めであった。それがきっかけでみきと時々交わる事になった竹雄だったが、ある夜、我慢できなくなり、みきに夜這いをかけようとするのだが。
「隠れ山」は北村定一という村役場の課長が突然失踪するという話。家庭菜園と亡き母の墓の世話を唯一の趣味にしている何の特徴の無いこの男らしく、いつものようにふらっと出掛けたまま、それっきり帰らなくなってしまったのだった。村の消防団で山中を捜索するが、どこそこで見たという噂があるだけで、その行方は杳として知れなかった。しかし、失踪1ヵ月後、頭から血を流して佇む定一の姿を見たという人物が現れる。しかし、それは北村定一という男がその後、繰り返す奇行の始まりでしか過ぎなかった。

4編目の「紙の町」は嬉才野村の近くにある白糸町を舞台にし、そこに住む知恵遅れの老女ヒサの一日の散策とそれに伴う生い立ちの回想譚。
最後の「祭りの記憶」は戦後10年目のよさこい祭りで起きた外国人殺害事件を扱った作品。外国人の殺害事件が起こった祭りのとき、田宮良則は現場の近くに居た。その時、不意にすれ違った恍惚な表情を浮かべた若者の顔に見覚えがあった。記憶を辿り、それがかつての教え子村上卓雄だと気付く。隠居前、蓮浜で学校の先生をしていた田宮は当時大人しく、これといって特徴の無かった卓雄が犯人ではないかと思い、蓮浜へ赴く。当時と変わりの無い街並みを歩きつつ、かつての教え子やその親たちと邂逅しながらも当の卓雄には逢えないのだった。数日後、はりまや橋の料亭で働く卓雄の母親を訪れたその足で再び蓮浜を訪れた田宮が見たものは・・・。

土俗ホラー作家として名高い坂東氏だが、本短編集ではホラー色がでているのは最後の「祭りの記憶」ぐらいで、その他は日本昔話や「世にも奇妙な物語」を髣髴させる御伽噺とか「奇妙な味」作品群である。
今までの短編集もそうだが、30~40ページ前後の短編とは云え、その濃厚な筆致は全く薄まっていない。逆に時にどぎつさを感じさせられる情念は成りを潜めている分、その文章は洗練された印象が強い。

5編とも外れはなく、どれも読み応え十分。表題作の首の無い鶏のアイデア、「火鳥」の南国を舞台にした少年の性の目覚めとギラギラした情欲の話、「紙の町」の知恵遅れの女ヒサが辿ってきた人生譚、「祭りの記憶」の引退した教師が遭遇する蓮浜という一見善良な町民が行ったある秘密、等々非常にコクがある。
そして個人的なベスト作品は「隠れ山」。何の特徴もない公務員の男があるとき、ふらっと失踪する。その発端自体は決して珍しい物ではないが、その後の展開に着想の冴えが光る。その定一が出くわした人々に当たるとも遠からずの町民の噂話をしては山へ帰っていくというのが面白い。それが町の混乱を引き起こすのだが、そこでカタストロフィが訪れるのではなく、それをありのままに受け入れる村社会の、懐の深さというか、暢気さが非常にいいのだ。

そして坂東作品に通底する人の起こす物事は性の衝動に起因するという考えはここでも常に述べられており、特に知恵遅れのヒサの口を通して語られる、「下半身にいる別の生き物」や「昼と夜とでは人は変わる」といった表現は痛烈である。
そしてこれらの話は全て何かが解決するわけでもなく、物事は起こった後も、そのまま秘密のままに残される。本格ミステリとは対極に位置するが、これもまたミステリ。謎は謎のままなのが世の常なのだ。

初期の『死国』、『狗神』、『蛇鏡』、『桃色浄土』、『山妣』、そして短編集の『屍の聲』などでは、それぞれの人が抱える人間の業が情念の渦となり、最後の最後にカタストロフィとして、それぞれに人生の終焉や無限に続く不幸を投げかけるといった作風だったが、先の『葛橋』や『道祖土家の猿嫁』以降、本作も含め、物事が起こるが、それで皆が不幸を迎えたり、生活が破綻するではなく、その後も人の営みは続くのだという風に変わっている。これはもちろん創作者としての成熟もあるのだろうが、当時タヒチに在住する著者が異国で体験する事も関係しているのかもしれない。

神祭 (角川文庫)
坂東眞砂子神祭 についてのレビュー
No.618:
(8pt)

チャーリー・マフィン縦横無尽!

チャーリー・マフィンシリーズ第4作目。いやあ、痛快、痛快。
『ディーケンの闘い』、『黄金をつくる男』など、ノン・シリーズにおけるフリーマントルもいいが、やはりこのシリーズでの筆致は一線を画すほどの躍動感がある。

チャーリー・マフィンの常に人を喰ったような策士ぶりは健在。いや、それどころか組織に属していない分、上司に縛られていないので、むしろ更に狡猾さが増した感がした。特にFBIのテリッリ捕縛作戦にロマノフ王朝切手コレクションがダシに使われることを摑んでからのFBIとのやり取りと、その作戦に一役噛んでいる上院議員コズグローブとのやり取りの面白い事、面白い事。
権力ある者に屈せず、むしろその権力を嵩に横暴を貪る者達を嘲笑するように振舞うチャーリーの姿には、上司-部下の上下関係に逆らえないサラリーマンの、こうでありたいという姿であり、溜飲が下がる気持ちがした。

そして今回、チャーリーの敵役のペンドルベリーも、いやはやなかなか面白い人物である。常によれよれのスーツを着、時には食べこぼしたケチャップの染みを付けて、上役の面前に登場したり、また必要以上に領収書を徴収して、必要経費を搾取する一見冴えないこの男は、FBI版チャーリー・マフィンであり、チャーリー自身も自分と同じ匂いを嗅ぎ取る。この男の水をも漏らさない計画に穴を開けるのが、このチャーリーというのがまた面白い。丁々発止の頭脳戦は似た者同士の騙し合い合戦そのものであり、これが今回の物語のメインディッシュとしてかなり美味しいものだった。

そして1,2作に登場し、大きな役割を果たしていたソ連のカレーニン将軍も大いにこの物語に寄与しているのも非常に楽しい。ソ連の旧王朝ロマノフ王朝の遺産であるから、ソ連が関与する事に違和感はなく、むしろこのKGBの上官が関係することで、クライマックスのテリッリ邸での銃撃戦へとなだれ込むのだから、フリーマントルのストーリーテリングの上手さには改めて感服した。
そして結局本作では活躍しなかった潜行工作員(スリーパー)のジョン・ウィリアムスン。ただのアメリカ人としか見えないこのKGB工作員のその後も大いに気になるところである。

ソ連のカレーニン、ベレンコフ、そしてかつての上司の息子であり友人であるルウパート・ウィロビーに加え、彼の妻クラリッサとこのウィリアムスン。どんどんシリーズの世界が広がっていく。今後のシリーズの行く末が非常に愉しみだ。


罠にかけられた男 (新潮文庫)
No.617: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

タイトルだけが残念だ

復讐者による連続殺人譚。タイトルにある「11文字」とは復讐者の手による「無人島より殺意をこめて」という1文に由来し、ケメルマンの『九マイルには遠すぎる』など、11文字に込められた謎を追うものでなく、単純に復讐のテーマだけの意味でしかない。
いきなりちょっと肩透かしを食らった感がしたが、もしかしたら、当初東野氏が予定していたこの作品の没タイトルだったかもしれない。

初版はカッパノベルスということで、前の『白馬山荘殺人事件』でも感じたが、このノベルスで発刊される作品は作者自身、読者層は駅のキオスクで購入して、車中で読み終わる程度の読み易さを心がけているような気がして、文章は軽妙だ。しかし、今回はなかなか読ませる。事件の構造も単純ながらも真相は最後で二転三転し、私なぞは映画『戦火の勇気』を想い起こした。
復讐者の正体はモノローグ4においてようやく解った。海難事故の遭遇者の中で唯一現れなかった古沢靖子についても途中で解った。この辺の難易度もやはり駅売りノベルスという事を配慮してか、軽めに設定している感じがした。

今回は今まで東野作品で扱われていた密室殺人が一切無く、本格的要素は最後の殺人でのアリバイ工作がある程度。海難事故で起こった事に関する謎を主題にしており、トリックよりもストーリーとプロットで勝負した感がある。
しかし、やはり二時間サスペンスドラマ小説と云った雰囲気は拭えない。主人公への脅迫の仕方もそうだが、特に肉体を求めるといった内容が出てきた時には時代の古さを感じたものだ。昭和の頃の作品だからまだこういう物が横行していたのだろうから仕方がないのかもしれないが思わず苦笑いしてしまった。

しかしまだ5作目で、外れはない。東野作品、お楽しみはこれからだろう。


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11文字の殺人 新装版 (光文社文庫)
東野圭吾11文字の殺人 についてのレビュー
No.616:
(6pt)

結末に納得がいかないって、この作品のことかしら?

1946年発表の本書、扱われているテーマは連続殺人鬼物。文中にも言及されているが、1800年末から1900年当初にわたって、イギリスを初め、各国ではクリッペンやスミス、ドゥーガル、ソーン、ディーミング、マニング夫妻、ランドリュー、グロスマンといった連続殺人犯の手による犯行が頻発しており、本作はそれらの事件に影響を受けているらしい。そして本作では予め連続殺人鬼の正体は明かされた上で、11年後、それが一体誰なのかという視点で物語は展開する。
このテーマについてカーの行った料理法は絶品である。新進気鋭の演出家の許に送られてきた匿名の脚本を契機に、俳優に田舎の町に行かせて、ロージャー・ビューリーなる殺人鬼になりすまして、殺人鬼の心理を摑ませようというのである。

いやあ、面白いね。しかもその俳優ブルースが、ホテルの記帳の際に、ロージャーとわざと書いて、消すような素振りを見せる演出の凝りようだから、徐々に読者はブルースが本当はロージャーの仮の姿では?と疑いを抱くようになっていくのだ。
そして町中に殺人鬼がどうやら来ているらしいという噂が流れ、惚れられた娘の父親に殺人鬼では?と疑われる中、ホテルの部屋に死体が現れる。しかもその死体が11年前の唯一の殺人の目撃者ミルドレッド・ライオンズというサプライズ。
この辺まではもうはっきり云って作者の術中にまんまと嵌り、クイクイとページを捲らされた、のだが・・・。

そこから煩雑になってしまったなぁ。
死体を前にそれぞれの登場人物が好き勝手に動き回って―それ自体はいいのだけど―、収拾がつかなくなり、最後には軍の戦闘訓練施設跡なんかがいきなり舞台になって、カー特有の怪奇色に彩られた中での悪党との対決。いきなり本格推理小説から通俗小説に移った感がし、戸惑った。
ロージャーの正体はいつもながらこちらの予想と違ったが、カタルシスが得られるほどでもなかった。本作で私が求めたのは、犯人がいかにしてミルドレッドの死体をブルースの部屋に運んだかという点にあったのだが、本作ではそこに主眼は無く、ミルドレッドがどこで殺され、どこに隠されていたかに置かれていた。このトリックこそ、カーが使いたかったものだろうけど、真相としては小さい。

設定の面白さに結末が追随できなかった。
作中で演出家が殺人鬼を扱った匿名の脚本の結末に納得が行かないと述べているが、ある意味、この小説に関するメタファーかなと思ってしまった。


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青ひげの花嫁 (ハヤカワ・ミステリ文庫 テ 3-9)
カーター・ディクスン青ひげの花嫁 についてのレビュー
No.615:
(7pt)

とことん不幸に描かれた猿嫁

この小説は猿に似た風貌から猿嫁と呼ばれた蕗の一生を明治中頃から現代に至るまで日本の歴史の移ろいを重ねて語ったもの。そこには自由民権運動から始まり、日露戦争、太平洋戦争、東京オリンピックなどが蕗の人生に織り込まれ、彼女の人生に色んな影響を与えていく。
また作者の緻密な筆致は健在で、吹きぼぼ小屋、若者の間で行われた和歌の会などの当時の風俗、火振村の伝統行事である七夕祭りに、その時に行われる女房担ぎなる駆け落ち、「女の家」という風習、道祖土家の先祖を讃える玄道踊りなどを交え、エピソードに事欠かない。

火振村の大地主の長男の嫁として迎えられた蕗は、予想に反して大地主の嫁として村に一目置かれる存在として扱われずに、家内では舅、姑、そして夫にこき使われ、半ば下女のように使われる。家族に隠れて飲む酒を唯一の愉しみにして、明日をまた生きるのだ。
そんな彼女にも転機は訪れる。
一度目は夫を亡くして実家に帰ってきた義姉の蔦の父知らずの子を引き取ると決めた時。そこに母親としての強さが芽生えるのだった。
二度目は後に火振合戦と呼ばれる警官と自由民権運動を支持する者達の戦いにおいて、夫と家族を助けるために、牛馬を放ち、警官達を一網打尽にする。
しかし、それらは蕗にとっては一時の転機に過ぎず、蔦の子、秋英は学生時分に家出して、音信不通となり、火振合戦で牛馬を放つきっかけとなった大楠からの啓示から家に植わる大楠を生き守様と拠り所にして、報われない日々を生きていくのだ。

そう、この主人公はいやに報われない。村の者達から猿嫁と馬鹿にされ、家では下女同然の扱いを受け、老境に入ってからも戦争で若い労力を取られることでなかなか隠居できずに家事に追われる始末。そして、子供4人のうち、1人は家出して行方知れず、1人は台風に河に落ちて死亡。さらに将来を期待された孫、辰巳に関しては太平洋戦争でビルマへ出兵し、そのまま還らぬ人に(最後にサプライズあるが)。
こういった境遇はもちろんながらも、最も酷いと感じたのは、蕗がセックスにおいて女性の悦びを知らずに死んでしまったことだ。92歳になって始めて孫夫婦の交わりを目の当たりにし、夫婦の営みとはかくも心地よい悦楽を得られるものかと愕然とするその事実。その股座に手を当てても渇ききってしまっており、もはや潤いは沸かない。その事実に蕗は涙を流すのだ。
この扱いは確かに残酷だと思う。ここに蕗の人生の答えが出ていると私は思った。

人生、楽しい事は僅かしかなく、大抵が辛い事だろう。価値観が多様化した今、全ての人がそうであるとは云わないにしても、ほとんどがそうだと思う。
しかし、そんな毎日の中に、確かに幸せを感じる瞬間はある。実際、自分の人生を振り返っても、幸せの時というのは頻繁にはないにせよ、決して少なくはない。そんな事を思い浮かべながら、老後に、人生楽しかったと感じるのではないだろうか?

しかし、この蕗の人生はどうだろう?
道祖土家の知り合いの紹介で断るに断りきれない気まずさから結婚した夫清重は、蕗との間に夫婦愛というものを介在せず、単純に身の回りの世話をし、時に欲情を覚えた時には一方的に交わるだけの女としてしか蕗を見ない。最初は猿に似た風貌を注視するのを避けて向き合っても視線を宙に浮かして喋るほどだ。
夫婦間との関係がそんな状態だから、蕗は常に居るべき所にいず、居てはいけない所に腰を据えている居心地の悪さを常に感じながら、とうとう生まれ故郷の狭之国に還ることなく、一生を終える。

一度、離縁を決意して里帰りを決行した時もあるが、結局は引止めに来た夫に負けてそのまま還ってしまった。もしあの時故郷へ帰っていたらという思いが最期の間際でも過ぎる蕗。これは人生のターニング・ポイントを見過ごした者の行く末を描いた小説なのだろうか。
いや、必ずしもそうではない。作者は道祖土家に残った蕗を中心に道祖土家の血縁者ら、蕗の子供ら、孫らのそれぞれの旅立ちを描くが、彼ら・彼女らが決して幸せになったという風には書いていないのだ。

作者のメッセージは終章に出てくるある人物からの手紙に書かれている、「常に自分の真の故郷は(中略)母と子供のいる場所だ」の一文になるのだろう。
とすると、作者は蕗の一生は幸せだったと云っているのか?幸せとはこういうものだと云っているのだろうか?
ここに来て私は、またもや首を傾げてしまうのだった。

道祖土家の猿嫁 (講談社文庫)
坂東眞砂子道祖土家の猿嫁 についてのレビュー
No.614:
(8pt)

24時間戦うビジネスマン

フリーマントルの手による経済小説である本書は、従来、彼の得意とするエスピオナージュの手法を存分に取り入れており、主人公である多国籍企業の会長を縦横無尽に世界中を駆け巡らせ、丁々発止の駆け引きをさせる。
主人公のジェイムズ・コリントンは孤児院の出で、生まれながらにして勘が鋭く、英国国鉄のポーター、陸軍を経て、南アフリカに金鉱山を複数持つ巨大企業の会長の座へと着いたという正に絵に描いたようなアメリカン・ドリーム男である。

金を主に扱う南ア社が、独自に金の取引を出来ないというのがまず面白い。各鉱山は金を産出するが、その販売権は国である南アフリカ政府によって一手に任せられている。したがって取引先の新規開拓というのははっきり云ってタブーである。しかし、サウジアラビアがドルによる取引で石油を売っており、その売り上げが不安定なドルレートによって非常に左右されることに目を付け、相場の安定している金でエネルギー不足に悩む南アフリカと取引させようというのが大きな粗筋である。
しかし、石油と金という巨額の富を生み出す資源の世界的な取引が単純に二国間だけの話で済まされるものではなく、また米ドル為替の安定を目指して国際的信用を高くしようと企むアメリカも南アフリカの動きを察知して、南ア社の鉱山を襲撃して株の暴落を図ろうとする。そしてもう1つの大国ソ連は名目上の生産量を下回る金を何とか確保して、アメリカからの穀物の安定供給を図るため、これまた南アフリカの金に手を延ばす、といった風に非常に各国・各要人入り乱れて、物語は錯綜する。

おまけに南ア社内部ではアフリカーナの取締役とイギリス人の取締役たちとの間で確執があり、どうにかイギリス人の会長であるコリントンを失墜させようとする。
これらを一気に打破するために若き“会長”コリントンは不眠不休で世界中を駆け巡り、情報を収集し、状況を好転させるのだ。

いやあ、すごいね、この会長は。西へ東へ、北へ南へとよく飛び回るものだ。こんなに働くものかね、多国籍企業の会長というものは。
正直、読んでいる最中、このコリントンのあまりのスーパーマンぶりに失笑を禁じえなかったが、その辺はフリーマントル、危ういところで読者との距離感を埋めている。仕事はすごいが、女性と家庭には不器用な男という肖像をきちんと描いており、なかなかである。

今までのエスピオナージュ物では、組織の大ボスとそれに振り回される男の様相を描いていたのだが、今回は組織の大ボス同士の、一歩間違えれば破滅寸前の駆け引きを描いており、これが非常に面白かった。フリーマントルの、ディベート能力の高さに舌を巻いた。
また世界経済の情勢を知る上でも―'80年初頭というかなり古い時代ではあるが―かなりの情報が詰め込まれており、非常に勉強になった。
久々に面白い物語以上の物を得て、清々しい思いがした。

題名の『黄金(きん)をつくる男』というのは単純にコリントンが金鉱山の会長であることを現しているのではなく、現代の錬金術である株価の上昇、そして更なる世界資源の取引の開拓という多様な意味合いが込められている。
恐らくはこんな男はいないとは思うが、たまにはこういう男の話を読むのも一ビジネスマンとしてカンフル剤となっていいものだと思った次第だ。

黄金(キン)をつくる男 (新潮文庫)
No.613: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

学生街は心を学生レベルに押し留める

東野作品4作目の本作は2作目の『卒業』の流れを汲む青春ミステリで、分量も今までの作品が350ページ前後であったのに対し、470ページ弱と増した事からも、当時この作品にある思いを秘めていた事が予想される。
とにかく東野氏の若さの主張が横溢しているのだ。

舞台は大学の正門の場所が変わったことで寂れゆく一方の旧学生街。そこの一角にある喫茶店兼雀荘兼ビリヤード場の店でバイトする主人公光平。大学を卒業するも、素直に社会の組織に組み込まれる事に嫌気が差し、自分が何者であるかを模索しているモラトリアムな男。そして同じバイト仲間の松木に至っては一旦勤めていた会社を辞め、あるチャンスを待ちながら同じバイト先で燻っているといった男である。
そして光平の彼女広美はいきなり堕胎を告白するシーンから登場し、しかも光平との不思議な出会いから、光平には内緒に通っている障害児童の幼稚園へのボランティアなど数々の謎めいたエピソードを孕み、そして唐突に殺される。そして光平と一緒に広美の死の真相を探る事になる妹の悦子に加え、他にも登場するのは派手な男性経験を重ねてすぐに寝る同じバイト仲間の沙緒里に、ビリヤードを打ちに来るサラリーマンの『ハスラー紳士』こと井原、同じくビリヤード仲間の大田助教授と本屋の時田、広美の友人かつスナックの共同経営者日野純子、かつて広美の恋人だった香月刑事、そして後半、重要な役回りを演じる斎藤医師と、老若男女問わず、それぞれが非常に青臭い信条や傷を持って生き、主張する事を止めない。
これだけみんなが青臭い純粋さを持っていると、なんだか二流のテレビドラマを観ているようで、今回ばかりはちょっと恥ずかしさを抱いてしまった。

この作品には『卒業』同様のペシミズムが流れているのは確かだが、『卒業』が私の中で高評価なのは主人公加賀の一本筋の通った性格と、サブキャラクターである恩師の南沢雅子の含蓄ある台詞に痺れたからだ。
それに対し、本作の主人公光平の確たる目標もなく、ただ現状に不満を抱きながらも行動を起こさない弱さ・青さ、そして周囲の人間誰もが自ら恣(ほしいまま)に振舞う未成熟なところが物語の要素として物足りないのだ。やはり物語を引き締めるには他に同調しないキャラクターが必要なのだ。被害者である光平の恋人広美にその片鱗が窺えるものの、その自己犠牲的な性格が他者に比べて両極端すぎて、バランスを欠いているように感じた。

しかしこの若い頃経験するまったりとした雰囲気、常に何か満ち足りない物を感じていた想い、これこそ東野氏が本作で書きたかったことなのだろう。いわゆる大人の常識に逆らうように世間の波から外れた生き方、そういう青い時期を本作ではテーマにしたように思う。
それゆえに本作での最後の真相のシーンは、通常では考えられない酷い仕打ちを犯人に犯している。
そして光平の父親の言動。定職に就かずフラフラしている息子に対し、叱責することなく、むしろその生き方を認めて去っていくその姿は、大人のそれではない。やはり親というのは子供に対して壁であるべきで、子供の人生の選択に対し、その覚悟を確かめるべきなのだ。私ならば、こういう物分りのいい親は自分の成長をストップする悪しき存在でしかないので願い下げである。

この470ページ弱の物語の中には、旧学生街の退廃感、そこを訪れる人々それぞれの思惑、彼ら彼女らが微妙に交錯することで始まり、あるいは終わる群像劇を背景に、エレベーターにおける密室トリック、アリバイ工作、そして1987年当時、最新の科学技術であった人工知能AIの話などなどが盛り込まれており、正直ページを繰る手を止まらせなかった。
しかし、読了した今、やはり登場人物の青さしか残らなかった。それが東野氏が書きたかったテーマである事は認めよう。ただ、それが私には非常に幼く映ったのだ。


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学生街の殺人 新装版 (講談社文庫)
東野圭吾学生街の殺人 についてのレビュー
No.612:
(7pt)

もっと書き方に工夫すればあるいは傑作だったかも?

魅力的な謎を魅力的な論理、魅力的な解明で解き明かしてこそ、本格推理小説は引き立つ。そして謎が魅力的であればあるほど、読者の期待が否が応にもその解決に集まり、増していく訳だが、本作は果たしてどうだろうか。
屋敷に着いた途端にコートと渦中のランプを残して忽然と姿を消し、しかもその屋敷には隠れ通路や隠し部屋などは存在しない、これほど条件を限定して、しかもそれが一度ならず二度も起こる。

内容紹介文にカーがエラリー・クイーンとミステリについて語り明かした末に行き着いた最高の謎、人間消失に挑んだこの作品で、上記のように確かに謎の魅力はどんどん高まるのだが、その真相の魅力が逆に小さく、期待しただけに終わったというのが正直、私の感想だ。

そして第二の失踪事件の謎。これは良かった。犯人の意外性も素晴らしく、またその動機も面白い。しかしある一点のみ説得力に欠ける(詳細はネタバレにて)。



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青銅ランプの呪 (創元推理文庫 (119‐6))
カーター・ディクスン青銅ランプの呪 についてのレビュー
No.611:
(9pt)

信仰の危うさ

上下巻820ページ弱の本書は、13世紀の日本、中国、モンゴル、ペルシア、イタリア、そしてアルプスの村落と舞台は移りゆく。日本の古き因習に囚われた業の深い人間とその怪異現象を村や町といった閉鎖空間で物語を紡ぎ出してきたこの作家にしては珍しい作品である。

13世紀の街並みを匂いすら感じさせるほど緻密に描いた本書はしかし、当初私はなかなかその物語世界に没入できなかった。似たような名前が多いのと、外国の街並み・生活風景がなかなかイメージと結びつかなく、特に第1章は正直、字面を追うような感じだった。また夏桂の人物像、特に物事の考え方に共感しがたいものがあったのも一因だったのかもしれない。
しかし物語が急転する第2章以降はそんな事は気にならなくなり、のめりこむことが出来た。特に第3章からはアルプスの麓の村落での生活という閉鎖空間での話になったのが大きな要因だったように思う。

特に第1,2章を合わせたヴォリュームで語られる第3章の印象は強烈で、第1章で出て来た主要人物は吹っ飛んでしまった。上の梗概を書くために紐解いた時にああ、こういう人物もいたなあと思ったくらいだ。実際、坂東氏もここから筆が乗ってきたように思う。
本書の時系列は第1章→第3章→第2章という構成になっている。第2章では<善き人>たちの安住の地<山の彼方>が今や廃墟になり、そこに一人、老人となった夏桂が住んでいる様子が描かれ、つまり事が起こったその後が語られる。そこではかつて異端審問者として<善き人>どもを排除しようとしたヴィットリオが現れ、マルコ・ポーロが逃亡した夏桂たちの追跡行が書簡の形で語られる。ここでの結末を読んだ時、私はこの小説が上下巻ではなく、1冊のみだと錯覚してしまった。上巻のみで物語は完結してもいいぐらいだった。しかし下巻で語られる逃亡した夏桂の<善き人>の里<山の彼方>での暮らしぶりと、何故のこの里が退廃するに至ったかが語られるに至って、最後の隠された謎、何故夏桂が老後にこの地に戻ってきたのかが解るのだ。

この上手さには参った。私の中でここで俄然評価が高まった。
しかし、個人的にはここで夏桂が何を待っているかを述べて欲しくはなかった。読者に悟らせる形を取って欲しかった。その方が心に深く残る。これが惜しかった。

物語の核となる「マリアの福音書」には男女が交わる事の神聖さ、尊さを謳っていた。これは肉の慾を穢れと忌み嫌う<善き人>の信仰を根本から覆す物であった。
しかしこれは全く以って当然のことである。全ての生きとし生けるものは子孫繁栄を第一義としておいてあるからだ。しかし信仰が過剰すぎるとそういう万物の原理そのものが目くらましになり、汚らわしい所のみクローズアップされ、歪められる。マッダレーナが末期に述べるように、男女が交わる事は決して穢れではなく、それを淫らに、奔放に娯楽として楽しむ事こそが穢れなのだ。

読中、人は生まれたその瞬間から死に向かっている、という言葉をふと思い出した。だからこそ人はいかに生きるかが大切なのだが、ここに出てくる<善き人>たちはいかに生きるかよりもいかに死ぬか、死んだ時に救済が得られるよう、信仰の教義に従って己を殺して生きている。
しかし、それが実は己の欲望を際立たせ、強く自覚させている事に他ならない事を最後に気付くのだ。生きる事は欲望の闘いの連続である。だからこそ自分を正当化するためにごまかしたりもする。それを他人から知らされた時に人は自分の信じていた基盤を失う。信仰というものが人が生きる支えであると同時にいかに脆い物かをここで作者は語りたかったのだろう。これは土俗的な信仰が根強く残る村社会で起こる悲劇を描いてきた坂東氏にとって新たなる展開であると思う。

しかし作者は信仰に囚われない夏桂その人も自由人としては描かない。むしろ自分で気付かない何物かに縛られて、流されてきた人物として描く。教義に従って欲望を抑圧して生きる者たちを嘲笑しながらも、完全に否定出来ない、むしろ何故これほどまでに真摯なのかと思い惑うのだ。
そして彼も最後には囚われの身として彼の地<山の彼方>に帰ってくる。マッダレーナの遺言を全うする事、それこそ彼が唯一得た信仰だったのかもしれない。そしてその信仰は、やはりマッダレーナへの愛情だったのだろう。

惚れてはいないが魂の尻尾が縛り付けられている。
それは恋ではなく愛であったことを彼なりに不器用に表現していると私は思うのだ。


旅涯ての地〈上〉 (角川文庫)
坂東眞砂子旅涯ての地 についてのレビュー
No.610:
(7pt)

暗鬱な物語を求めるのでなく

坂東眞砂子氏の中編集。彼女お得意の土俗ホラーというものではなく、2編が怪奇物で1編が奇妙な味系か。

まず怪奇物2編は冒頭の「一本樒」と末尾の表題作。
前者は妹のやくざ紛いの情人が姉夫婦の家を付き纏うというお話。ネタ自体は特に目新しい物はないのだが、樒やまたたび酒などの小技が効いている。
後者は妻を亡くした男が仕事の忙しさに疲れ、故郷の徳島に帰った時に出くわす怪異譚。この作品のモチーフとなっている葛橋は私も祖谷にある物を渡った事があるだけに興味深かった。古事記の伊邪那岐命の話から葛橋はあの世とこの世を結ぶ橋という設定を生み出した(実際そう伝えられているのかもしれないが)坂東作品の王道であるが、処理の仕方がいまいちか。

残る1編は奇妙な味とも云うべき「恵比寿」。高知県の漁村に住む主婦、宮坂寿美が主人公で、サラリーマンから漁師へ転身した夫、3人の子供に舅姑の七人家族を支えて毎日慌しく過ごしていたある日、いつものように夫と子供らを送り出してパートに出かける道すがら、海岸に打ち上げられた奇妙な物体に気がつくことから物語は始まる。淡い灰色のその塊はぐにゃぐにゃと柔らかく泡を固めたような物だった。家に持ち帰ると舅はかつて自分が漁師だった頃に南方の島で異国の者に見せてもらった鯨の糞だという。恵比寿様の贈り物だといって神棚に奉納していたが、寿美は娘の個人面談の時に娘の担任教師にその物体について尋ねたところ、龍涎香という抹香鯨の結石で香料として使われ、非常に価値のあるものだという。宮坂一家はその知らせに大金獲得の夢に思いを馳せるのだが、というストーリー。
坂東作品の中では珍しくどこかコミカルであり、新機軸として面白く読んだ。皮肉なラストはちょっと余計かなとも思ったが、この作者らしからぬ処理の仕方に逆に好印象を持った。

各3編に共通するのはどれもがどこか片田舎を舞台にしているということで、それぞれが小市民ながらも一生懸命生きているという生活感が滲み出ているところ。坂東作品の持ち味である登場人物が抱える業が無いのも珍しいと思った。
『屍の聲』が短編であるのにもかかわらず、それぞれの登場人物が業を抱えているのにだ。しかしそれゆえにちょっとあっさりとした感じがするのも確か。
全く贅沢なものである。

葛橋 (角川文庫)
坂東眞砂子葛橋 についてのレビュー
No.609:
(10pt)
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山が下した裁きの物語

明治末期の越後の山奥の村、明夜村へ江戸から二人の客が訪れる。扇水とその弟子の涼之助は村の領主、阿部長兵衛に神社への奉納芝居のために村人に芸指導をするよう招かれた、浅草の小さな芝居小屋を経営している役者だった。
借金の山を抱え、芝居小屋の経営難に陥っていた扇水に取って、越後の山奥での一仕事は、借金取り連中から一旦逃げ隠れる事が出来、その上、金稼ぎが出来るという好機であった。一方、女形を担っていた涼之助はその女性と見まがうほどの美貌を持っていたが、扇水の慰み物となり、小さい頃から芸を仕込まれていた扇水の許を離れないでいた。
阿部の屋敷には長兵衛の息子夫婦も同居していた。涼之助は不思議な魅力のもった息子の嫁のてるに惹かれる何かを感じ、いつしか密通を重ねるようになる。
また婿である鍵蔵は妻てるの魔性のような美貌の虜になり、妻が誰かと浮気してどこかに行ってしまうのではないかという不安に常に苛まれていた。
また近くの狼吠山には閉山した鉱山町跡があり、そこには山妣(やまんば)が棲むという言い伝えがあった。
山神様への奉納芝居に向けて稽古が続けられる中、それぞれの思いに変化も起き、やがて芝居当日を迎える。それは新たな悲劇の幕開けでもあった。

ああ、物語、物語。
凄まじいほどの物語の力だ。

上に概要を纏めようとしてもほんの一部を語るのに精一杯だという物語の密度の濃さだ。
上に書いた芝居の幕開けはこの壮大な物語の序章に過ぎなく、また登場人物もほんの氷山の一角に過ぎない。この序章を過ぎた後、目くるめく物語世界が開けるのだ。

特に閉山前の鉱山町の物語が始まる第二部からが本作の本当の始まりといえるだろう。この二部から出てくる遊女の君香=いさこそがこの物語の主役なのだから。第一部は単に布石に過ぎない。
第一部の物語は妙という少女から始まる。最初この少女を軸に語られると思ったがさにあらず、この少女と瞽女という歌い手として生涯独身、処女を突き通す盲目の姉琴の二人は単なるバイプレイヤーに過ぎなかったのが勿体無い。特に琴は通常ならば主人公級の人物像なのだが、その扱い方はあまりにも無残だ。琴の行く末こそこの物語が明るい色なのか暗い色なのかを決定付けているように思う。

そして第二部。これがなんともいいようがないすごい話である。遊女の身から盗みを働いて山中に篭り、渡り又鬼を手篭めにして、仮初めの夫婦となり、人の暮らしを捨て、山で暮らしていく事を決意して、又鬼から狩りを教わるいさ。女の強さをまざまざと見せつける存在感である。
20年もの間、山奥で暮らしてきたいさには人恋しさとか我が子への愛情、男女間の愛情をもはや超越した存在として語られる。しかし読者は彼女がそれらを捨て去ったのではなく心の奥に秘め、他人に決してあからさまに見せたりしないのだという事に気付かされるのだ。
これはほとんど男のストイックさ以外何物でもない。いさという女性の強さは母親の強さではなく、自然と共生する事で得た一人で生きていく事から来る強さなのだ。この強さを女性に持たせた作者の意図が面白いと思った。

翻ってこの物語に出てくる男供はどうかというと、これが対照的にどの男も弱さを抱えている。
したたかに振舞いつつ、芝居小屋復興を目指し、大きな夢を語るが実質が伴わない扇水。
世の中を斜に構えて見つめながらも、扇水の呪縛から離れる事が出来ず、また一人で生きていく術がないと惑う涼之助。
領主の息子という地位よりも村人同様の暮らしを望みながら、貧乏暮らしを選択できず、しかも妻の機嫌をいつも伺っている鍵蔵。
そして病持ちの鉱夫としてふがいない人生を送りながらもいさと山主の金を盗んで逃亡しながらも山の暮らしに耐え切れず、金を持ち去って逃げる文助。
渡り又鬼として山中を徘徊している最中に凍死寸前のいさを拾い、山神への畏れを抱きながらもいさと離れられない重太郎。
男は弱さを抱え、しかもそれを克服する事の出来ない弱い存在だとして物語は語られていく。
そしてこれら登場人物の過去と現在が語られる中、物語は獅子山という熊狩りを軸に引き寄せられるように各々、山へと向かい、そこでそれぞれの愛憎がものすごい結末へと収斂していく。

ところで本書の紹介文や帯には人の業が織成す運命悲劇というような文句がさかんに謳われている。確かに人の業の深さゆえに起こる運命劇・怪異譚は坂東氏の十八番であるが、私は本書に関してはさほど人の業が主幹として扱われているとは思えなかった。
私にはむしろこれは山という大自然が愚かな人間どもに下す鉄槌の物語だという印象が強い。いさという女を作ったのは山の厳しさである。そして山の厳しさと共存できる者、それに負ける者の物語だと強く感じた。
その証拠としてふたなりである涼之助が救われる「山ではお前なんかは珍しい事ではない」といういさの言葉を挙げたい。
自然の摂理に逆らう者、山の神に敬意を抱く者、山が下した裁きの物語。私はそう強く感じた。

直木賞受賞作の名に恥じない傑作であるのは間違いない。これで直木賞を取れなかったらどんな物語が受賞できるのかとまで思った次第だ。

山妣〈上〉 (新潮文庫)
坂東眞砂子山妣 についてのレビュー
No.608:
(9pt)

「雪蒲団」の怖さといったら…

坂東眞砂子氏の怪奇短編集。超常現象を扱っているが、この作家特有の日本古来の土俗的な因習に根差された言伝えや風習を基に綴られた恐怖を描いている。

まず表題作の「屍の聲」は惚けてきたおばあさんを孫の布由子が見殺しにする話。
布由子はおばあさんが時折正気に戻った時に自らの醜態を恥じ、死にたがっていた事を知る。誤って河に落ちたおばあさんを助けようとするが、正気のおばあさんが死にたがっていると信じ、そのまま見殺しにする。しかし葬儀の行われたその夜・・・。

次の「猿祈願」は当時上司だった男と不倫の関係になり、前妻と離婚させ、婚約をした女、里美が夫巧に連れられて夫の故郷秩父を訪れた時の怪事件を扱っている。
里美は巧の親に挨拶に行くため、秩父へ向かった二人は巧の母が勤める霊場で待ち合わせる事になった。そのお腹には巧の子供を宿してもいた。巧が里美を残して母親を探しに行った際、里美は「のぼり猿」を奉る観音堂で一人の老女と出逢う。それは巧の面影を持った老女で里美は件の母親だと判断するのだが。

続く三作目「残り火」は薪の風呂を沸かす妻とその風呂に入る夫との間に交わされる会話を軸に語られる。
房江は人生を夫のために尽くしてきた。娘から旅行の誘いが来、房江は夫秀一にその旨を伝えるが一蹴されてしまう。房江はいつものように夫のために風呂を沸かしていた。話題は次第にかつてひどい仕打ちをされた舅の事へと移る。今の今まで夫の秀一に尽くす事が出来たのは舅に家を追い出された際、隠遁先の温泉宿で出くわした夫の生霊と「戻ってこい」という言葉に支えられてきたと信じてきた房江は夫から意外な告白を聞かされる。

バツイチの美人ホステスを口説き落とし結婚した男が、妻と一緒に引っ越した家にある荒れた畑を開拓している最中にハメという蝮に似た毒蛇に妻が咬まれるシーンで幕を開けるのが「盛夏の毒」。
ハメに咬まれて命を亡くした者が多数いることで夫慎司は必至の思いで街の住民に助けを求める。雑貨屋の電話を借りて病院に電話している際に聞こえてきた住民の話は妻が浮気をしているといった内容だった。駆けつける医者より一足早くハメの毒に苦しむ妻の許へ戻った慎司は妻に噂の真偽を問い詰め、ある決断をする。

父親の死を機に母親の故郷新潟に戻った小学生の孝之を主人公にした「雪蒲団」は子供達の間での噂が発端となっている。
孝之の家の隣にすむ繁さんは独身で親代々から熊を捕って生計を建てていた。しかし孝之の従兄弟達の話では彼が人の肝も取って売っているという噂があった。気になる孝之は学校で喧嘩し、飛び出した際に繁さんの家を覗いてみる。そこで見た光景とはしかしそのどれでもなく・・・。

最後の1編、「正月女」は拡張型心筋症という不治の病に罹った登見子が、最後の正月を過ごすため、夫の家へ帰るという話。
皆が自分の死を期待しているように思える登見子は姑から「正月女」にはなるなと厳命される。その村では元旦に女が死ぬと村から七人の女が道連れにされると言い伝えられていた。登見子の夫保は村中の女性の注目の的であり、自分の死後、誰かの物になるのが登見子には堪らなかった。自分の命が長くない事を悟っていた登見子はあえて「正月女」になって保に近づく女性を道連れにしてやろうかと情念をたぎらすが・・・。

これまでの長編同様、この短編集でも各短編とも人の業が嫌というほど、描かれている。恨み、辛み、妬み、嫉み、欲情、愛情などでは足らない烈情とも云うべき想いが各登場人物には強いのだ。
前にも書いたが、この作家は人間が本来口に出さないながらも持っている一番嫌らしい感情を実に率直に書く。

表題作の「屍の聲」は惚けたお婆さんの介護への嫌気、「猿祈願」は自分があった仕打ちを相手に末代まで仕返ししようという呪い、「残り火」はどの夫婦にもあるであろう、妻が夫に尽くす事で無くした人生の損失を、「盛夏の毒」は愛情深い故に起きる激しい嫉妬、「雪蒲団」は知らぬ土地で暮らす子供の唯一の拠り所である母親を取られたくないという独占欲、「正月女」は病人が抱く周囲の同情が早く死んでほしいという気持ちの裏返しである事、といった具合である。
あまりに負の感情ばかりなので、この作家は純粋な愛情を知らないのかしらと不審に思うほどである。

どの短編も読み応えあるが、あえてベストを選ぶとすれば「雪蒲団」。これ以外の短編は従来の作品同様、主人公の動機、怪奇現象の原因などが直截に語られていたが、この作品はそれをせずに描写と台詞だけで、何を孝之は繁さんの家で見たのか、何が繁さんの家であったのか、なぜ孝之は繁さんを殺したのかを読者に悟らせるのである。
この効果がもたらす真相の驚き度は強烈だった。孝之が母親に甘える一行の台詞、この真意が非常に恐ろしい。この作品は今までの坂東作品より一段上の出来である。
あとこの作品には印象に残った文章があるのでちょっと抜き出しておこう。

“「すみません」は魔法の言葉だ。厄介事から解放してくれるが、その魔法を使うたびに、言葉を使った者の体は縮む”

大人は皆そうやって大きくなってきた。しかし子供の目には縮んで見えるのだ。なかなかに面白い。

坂東氏はこの短編集で短編も書ける事を大いに証明した。やはりこの作家はこの路線が非常に合っていると思う。

屍の聲    集英社文庫
坂東眞砂子屍の聲 についてのレビュー
No.607:
(7pt)

捻りに捻って、なんだか掴みどころがありません

かつて反政府分子たちの弁護士として高名を馳せていたディーケンは、立て続けに敗訴して以来、自信喪失症に係り、故郷の南アフリカを離れ、スイスの片隅でしがない弁護士稼業を続けていた。
そんな折も折、ディーケンはルパート・アンダーバーグと名乗る人物からアラブの武器商人アジズがナミビアのレジスタンスへ供給する兵器類を阻止して欲しいと頼まれる。思いもよらない依頼にディーケンは断ろうとしたが、アンダーバーグは彼の妻を誘拐していた。妻と引換えに、こちらの条件を飲めという。
進退窮まったディーケンはアジズの許へ向かう。彼の孤独な戦いが始まった。

ストーリーを概略すると以上のような形に収まるが、本作の構成はかなり複雑である。アンダーバーグなる黒幕はナミビアへの武器供給を止めろとディーケンに命じつつ、そのレジスタンスのリーダー、エドワード・マキンバーとも通じており、更に武器商人アジズの息子を誘拐させたイスラエル過激派を率いっており、なかなか狙いが摑めない。
更にアジズは誘拐グループに報復をしようと凄腕の用兵部隊を雇う。この三者三つ巴の只中で一人、ディーケンは南仏からセネガル、そして南アフリカへと翻弄される。

また本書は、矜持を失った男が、妻を救うべく奮闘する中で次第に自分を取り戻していく、といった定石を踏まない。
かつて反政府分子たちのために次々と政府相手に勝訴を勝ち取った英雄弁護士ディーケンは、翻弄されるがまま、それこそボロ雑巾の如く、這いつくばり、愚直なまでにアンダーバーグの言葉に従い、アジズとその弁護士グリアスンの掌上で踊らされる。
ディーケンが自分の意志で行動を起こすのは全400ページ中290ページ弱の辺りで全体の3/4が終わった頃である。しかしその後もディーケンは支援側からも利用されるといった具合で終始報われない。

さらに誘拐された妻はストックホルム症候群に陥り、イスラエル過激派のリーダーと恋に落ちてしまう。むしろディーケンの許へ帰る事を拒むようになるといった次第で、ますます主人公ディーケンは救われないのだ。
この作品は読者がこの展開を楽しめるか楽しめないかに懸かっている。そして私は後者に属した。シニカルな面白さよりも爽快感を求めたが故に、悲壮感が最後残ってしまった。

実は爽快感を期待したのには訳がある。作中235ページにディーケンがバーでぼんやりとしている時に二匹のヤモリが、虫を食べようとして失敗し、虫は無事逃げおおせるといった描写がある。これをそのままストーリーの展開の直截な暗喩と思ったのだ。
逃げおおせた虫はディーケン、二匹のヤモリはそれぞれアジズとイスラエル過激派と思ったがそうではなかった。この暗喩は一体何を意味したのか。

そしてエピローグにて明かされる本書の仕掛け。最後に登場する名前は予想の範疇で特別なサプライズは感じなかった。
私はあまりにも出来すぎていて、計画の破綻がないことに逆に作り物の偽物感を抱いた。ちょっと懲りすぎたかな、フリーマントル。


▼以下、ネタバレ感想
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ディーケンの戦い (新潮文庫)