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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1418

全1418件 801~820 41/71ページ

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No.618:
(8pt)

チャーリー・マフィン縦横無尽!

チャーリー・マフィンシリーズ第4作目。いやあ、痛快、痛快。
『ディーケンの闘い』、『黄金をつくる男』など、ノン・シリーズにおけるフリーマントルもいいが、やはりこのシリーズでの筆致は一線を画すほどの躍動感がある。

チャーリー・マフィンの常に人を喰ったような策士ぶりは健在。いや、それどころか組織に属していない分、上司に縛られていないので、むしろ更に狡猾さが増した感がした。特にFBIのテリッリ捕縛作戦にロマノフ王朝切手コレクションがダシに使われることを摑んでからのFBIとのやり取りと、その作戦に一役噛んでいる上院議員コズグローブとのやり取りの面白い事、面白い事。
権力ある者に屈せず、むしろその権力を嵩に横暴を貪る者達を嘲笑するように振舞うチャーリーの姿には、上司-部下の上下関係に逆らえないサラリーマンの、こうでありたいという姿であり、溜飲が下がる気持ちがした。

そして今回、チャーリーの敵役のペンドルベリーも、いやはやなかなか面白い人物である。常によれよれのスーツを着、時には食べこぼしたケチャップの染みを付けて、上役の面前に登場したり、また必要以上に領収書を徴収して、必要経費を搾取する一見冴えないこの男は、FBI版チャーリー・マフィンであり、チャーリー自身も自分と同じ匂いを嗅ぎ取る。この男の水をも漏らさない計画に穴を開けるのが、このチャーリーというのがまた面白い。丁々発止の頭脳戦は似た者同士の騙し合い合戦そのものであり、これが今回の物語のメインディッシュとしてかなり美味しいものだった。

そして1,2作に登場し、大きな役割を果たしていたソ連のカレーニン将軍も大いにこの物語に寄与しているのも非常に楽しい。ソ連の旧王朝ロマノフ王朝の遺産であるから、ソ連が関与する事に違和感はなく、むしろこのKGBの上官が関係することで、クライマックスのテリッリ邸での銃撃戦へとなだれ込むのだから、フリーマントルのストーリーテリングの上手さには改めて感服した。
そして結局本作では活躍しなかった潜行工作員(スリーパー)のジョン・ウィリアムスン。ただのアメリカ人としか見えないこのKGB工作員のその後も大いに気になるところである。

ソ連のカレーニン、ベレンコフ、そしてかつての上司の息子であり友人であるルウパート・ウィロビーに加え、彼の妻クラリッサとこのウィリアムスン。どんどんシリーズの世界が広がっていく。今後のシリーズの行く末が非常に愉しみだ。


罠にかけられた男 (新潮文庫)
No.617: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

タイトルだけが残念だ

復讐者による連続殺人譚。タイトルにある「11文字」とは復讐者の手による「無人島より殺意をこめて」という1文に由来し、ケメルマンの『九マイルには遠すぎる』など、11文字に込められた謎を追うものでなく、単純に復讐のテーマだけの意味でしかない。
いきなりちょっと肩透かしを食らった感がしたが、もしかしたら、当初東野氏が予定していたこの作品の没タイトルだったかもしれない。

初版はカッパノベルスということで、前の『白馬山荘殺人事件』でも感じたが、このノベルスで発刊される作品は作者自身、読者層は駅のキオスクで購入して、車中で読み終わる程度の読み易さを心がけているような気がして、文章は軽妙だ。しかし、今回はなかなか読ませる。事件の構造も単純ながらも真相は最後で二転三転し、私なぞは映画『戦火の勇気』を想い起こした。
復讐者の正体はモノローグ4においてようやく解った。海難事故の遭遇者の中で唯一現れなかった古沢靖子についても途中で解った。この辺の難易度もやはり駅売りノベルスという事を配慮してか、軽めに設定している感じがした。

今回は今まで東野作品で扱われていた密室殺人が一切無く、本格的要素は最後の殺人でのアリバイ工作がある程度。海難事故で起こった事に関する謎を主題にしており、トリックよりもストーリーとプロットで勝負した感がある。
しかし、やはり二時間サスペンスドラマ小説と云った雰囲気は拭えない。主人公への脅迫の仕方もそうだが、特に肉体を求めるといった内容が出てきた時には時代の古さを感じたものだ。昭和の頃の作品だからまだこういう物が横行していたのだろうから仕方がないのかもしれないが思わず苦笑いしてしまった。

しかしまだ5作目で、外れはない。東野作品、お楽しみはこれからだろう。


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11文字の殺人 新装版 (光文社文庫)
東野圭吾11文字の殺人 についてのレビュー
No.616:
(6pt)

結末に納得がいかないって、この作品のことかしら?

1946年発表の本書、扱われているテーマは連続殺人鬼物。文中にも言及されているが、1800年末から1900年当初にわたって、イギリスを初め、各国ではクリッペンやスミス、ドゥーガル、ソーン、ディーミング、マニング夫妻、ランドリュー、グロスマンといった連続殺人犯の手による犯行が頻発しており、本作はそれらの事件に影響を受けているらしい。そして本作では予め連続殺人鬼の正体は明かされた上で、11年後、それが一体誰なのかという視点で物語は展開する。
このテーマについてカーの行った料理法は絶品である。新進気鋭の演出家の許に送られてきた匿名の脚本を契機に、俳優に田舎の町に行かせて、ロージャー・ビューリーなる殺人鬼になりすまして、殺人鬼の心理を摑ませようというのである。

いやあ、面白いね。しかもその俳優ブルースが、ホテルの記帳の際に、ロージャーとわざと書いて、消すような素振りを見せる演出の凝りようだから、徐々に読者はブルースが本当はロージャーの仮の姿では?と疑いを抱くようになっていくのだ。
そして町中に殺人鬼がどうやら来ているらしいという噂が流れ、惚れられた娘の父親に殺人鬼では?と疑われる中、ホテルの部屋に死体が現れる。しかもその死体が11年前の唯一の殺人の目撃者ミルドレッド・ライオンズというサプライズ。
この辺まではもうはっきり云って作者の術中にまんまと嵌り、クイクイとページを捲らされた、のだが・・・。

そこから煩雑になってしまったなぁ。
死体を前にそれぞれの登場人物が好き勝手に動き回って―それ自体はいいのだけど―、収拾がつかなくなり、最後には軍の戦闘訓練施設跡なんかがいきなり舞台になって、カー特有の怪奇色に彩られた中での悪党との対決。いきなり本格推理小説から通俗小説に移った感がし、戸惑った。
ロージャーの正体はいつもながらこちらの予想と違ったが、カタルシスが得られるほどでもなかった。本作で私が求めたのは、犯人がいかにしてミルドレッドの死体をブルースの部屋に運んだかという点にあったのだが、本作ではそこに主眼は無く、ミルドレッドがどこで殺され、どこに隠されていたかに置かれていた。このトリックこそ、カーが使いたかったものだろうけど、真相としては小さい。

設定の面白さに結末が追随できなかった。
作中で演出家が殺人鬼を扱った匿名の脚本の結末に納得が行かないと述べているが、ある意味、この小説に関するメタファーかなと思ってしまった。


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青ひげの花嫁 (ハヤカワ・ミステリ文庫 テ 3-9)
カーター・ディクスン青ひげの花嫁 についてのレビュー
No.615:
(7pt)

とことん不幸に描かれた猿嫁

この小説は猿に似た風貌から猿嫁と呼ばれた蕗の一生を明治中頃から現代に至るまで日本の歴史の移ろいを重ねて語ったもの。そこには自由民権運動から始まり、日露戦争、太平洋戦争、東京オリンピックなどが蕗の人生に織り込まれ、彼女の人生に色んな影響を与えていく。
また作者の緻密な筆致は健在で、吹きぼぼ小屋、若者の間で行われた和歌の会などの当時の風俗、火振村の伝統行事である七夕祭りに、その時に行われる女房担ぎなる駆け落ち、「女の家」という風習、道祖土家の先祖を讃える玄道踊りなどを交え、エピソードに事欠かない。

火振村の大地主の長男の嫁として迎えられた蕗は、予想に反して大地主の嫁として村に一目置かれる存在として扱われずに、家内では舅、姑、そして夫にこき使われ、半ば下女のように使われる。家族に隠れて飲む酒を唯一の愉しみにして、明日をまた生きるのだ。
そんな彼女にも転機は訪れる。
一度目は夫を亡くして実家に帰ってきた義姉の蔦の父知らずの子を引き取ると決めた時。そこに母親としての強さが芽生えるのだった。
二度目は後に火振合戦と呼ばれる警官と自由民権運動を支持する者達の戦いにおいて、夫と家族を助けるために、牛馬を放ち、警官達を一網打尽にする。
しかし、それらは蕗にとっては一時の転機に過ぎず、蔦の子、秋英は学生時分に家出して、音信不通となり、火振合戦で牛馬を放つきっかけとなった大楠からの啓示から家に植わる大楠を生き守様と拠り所にして、報われない日々を生きていくのだ。

そう、この主人公はいやに報われない。村の者達から猿嫁と馬鹿にされ、家では下女同然の扱いを受け、老境に入ってからも戦争で若い労力を取られることでなかなか隠居できずに家事に追われる始末。そして、子供4人のうち、1人は家出して行方知れず、1人は台風に河に落ちて死亡。さらに将来を期待された孫、辰巳に関しては太平洋戦争でビルマへ出兵し、そのまま還らぬ人に(最後にサプライズあるが)。
こういった境遇はもちろんながらも、最も酷いと感じたのは、蕗がセックスにおいて女性の悦びを知らずに死んでしまったことだ。92歳になって始めて孫夫婦の交わりを目の当たりにし、夫婦の営みとはかくも心地よい悦楽を得られるものかと愕然とするその事実。その股座に手を当てても渇ききってしまっており、もはや潤いは沸かない。その事実に蕗は涙を流すのだ。
この扱いは確かに残酷だと思う。ここに蕗の人生の答えが出ていると私は思った。

人生、楽しい事は僅かしかなく、大抵が辛い事だろう。価値観が多様化した今、全ての人がそうであるとは云わないにしても、ほとんどがそうだと思う。
しかし、そんな毎日の中に、確かに幸せを感じる瞬間はある。実際、自分の人生を振り返っても、幸せの時というのは頻繁にはないにせよ、決して少なくはない。そんな事を思い浮かべながら、老後に、人生楽しかったと感じるのではないだろうか?

しかし、この蕗の人生はどうだろう?
道祖土家の知り合いの紹介で断るに断りきれない気まずさから結婚した夫清重は、蕗との間に夫婦愛というものを介在せず、単純に身の回りの世話をし、時に欲情を覚えた時には一方的に交わるだけの女としてしか蕗を見ない。最初は猿に似た風貌を注視するのを避けて向き合っても視線を宙に浮かして喋るほどだ。
夫婦間との関係がそんな状態だから、蕗は常に居るべき所にいず、居てはいけない所に腰を据えている居心地の悪さを常に感じながら、とうとう生まれ故郷の狭之国に還ることなく、一生を終える。

一度、離縁を決意して里帰りを決行した時もあるが、結局は引止めに来た夫に負けてそのまま還ってしまった。もしあの時故郷へ帰っていたらという思いが最期の間際でも過ぎる蕗。これは人生のターニング・ポイントを見過ごした者の行く末を描いた小説なのだろうか。
いや、必ずしもそうではない。作者は道祖土家に残った蕗を中心に道祖土家の血縁者ら、蕗の子供ら、孫らのそれぞれの旅立ちを描くが、彼ら・彼女らが決して幸せになったという風には書いていないのだ。

作者のメッセージは終章に出てくるある人物からの手紙に書かれている、「常に自分の真の故郷は(中略)母と子供のいる場所だ」の一文になるのだろう。
とすると、作者は蕗の一生は幸せだったと云っているのか?幸せとはこういうものだと云っているのだろうか?
ここに来て私は、またもや首を傾げてしまうのだった。

道祖土家の猿嫁 (講談社文庫)
坂東眞砂子道祖土家の猿嫁 についてのレビュー
No.614:
(8pt)

24時間戦うビジネスマン

フリーマントルの手による経済小説である本書は、従来、彼の得意とするエスピオナージュの手法を存分に取り入れており、主人公である多国籍企業の会長を縦横無尽に世界中を駆け巡らせ、丁々発止の駆け引きをさせる。
主人公のジェイムズ・コリントンは孤児院の出で、生まれながらにして勘が鋭く、英国国鉄のポーター、陸軍を経て、南アフリカに金鉱山を複数持つ巨大企業の会長の座へと着いたという正に絵に描いたようなアメリカン・ドリーム男である。

金を主に扱う南ア社が、独自に金の取引を出来ないというのがまず面白い。各鉱山は金を産出するが、その販売権は国である南アフリカ政府によって一手に任せられている。したがって取引先の新規開拓というのははっきり云ってタブーである。しかし、サウジアラビアがドルによる取引で石油を売っており、その売り上げが不安定なドルレートによって非常に左右されることに目を付け、相場の安定している金でエネルギー不足に悩む南アフリカと取引させようというのが大きな粗筋である。
しかし、石油と金という巨額の富を生み出す資源の世界的な取引が単純に二国間だけの話で済まされるものではなく、また米ドル為替の安定を目指して国際的信用を高くしようと企むアメリカも南アフリカの動きを察知して、南ア社の鉱山を襲撃して株の暴落を図ろうとする。そしてもう1つの大国ソ連は名目上の生産量を下回る金を何とか確保して、アメリカからの穀物の安定供給を図るため、これまた南アフリカの金に手を延ばす、といった風に非常に各国・各要人入り乱れて、物語は錯綜する。

おまけに南ア社内部ではアフリカーナの取締役とイギリス人の取締役たちとの間で確執があり、どうにかイギリス人の会長であるコリントンを失墜させようとする。
これらを一気に打破するために若き“会長”コリントンは不眠不休で世界中を駆け巡り、情報を収集し、状況を好転させるのだ。

いやあ、すごいね、この会長は。西へ東へ、北へ南へとよく飛び回るものだ。こんなに働くものかね、多国籍企業の会長というものは。
正直、読んでいる最中、このコリントンのあまりのスーパーマンぶりに失笑を禁じえなかったが、その辺はフリーマントル、危ういところで読者との距離感を埋めている。仕事はすごいが、女性と家庭には不器用な男という肖像をきちんと描いており、なかなかである。

今までのエスピオナージュ物では、組織の大ボスとそれに振り回される男の様相を描いていたのだが、今回は組織の大ボス同士の、一歩間違えれば破滅寸前の駆け引きを描いており、これが非常に面白かった。フリーマントルの、ディベート能力の高さに舌を巻いた。
また世界経済の情勢を知る上でも―'80年初頭というかなり古い時代ではあるが―かなりの情報が詰め込まれており、非常に勉強になった。
久々に面白い物語以上の物を得て、清々しい思いがした。

題名の『黄金(きん)をつくる男』というのは単純にコリントンが金鉱山の会長であることを現しているのではなく、現代の錬金術である株価の上昇、そして更なる世界資源の取引の開拓という多様な意味合いが込められている。
恐らくはこんな男はいないとは思うが、たまにはこういう男の話を読むのも一ビジネスマンとしてカンフル剤となっていいものだと思った次第だ。

黄金(キン)をつくる男 (新潮文庫)
No.613: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

学生街は心を学生レベルに押し留める

東野作品4作目の本作は2作目の『卒業』の流れを汲む青春ミステリで、分量も今までの作品が350ページ前後であったのに対し、470ページ弱と増した事からも、当時この作品にある思いを秘めていた事が予想される。
とにかく東野氏の若さの主張が横溢しているのだ。

舞台は大学の正門の場所が変わったことで寂れゆく一方の旧学生街。そこの一角にある喫茶店兼雀荘兼ビリヤード場の店でバイトする主人公光平。大学を卒業するも、素直に社会の組織に組み込まれる事に嫌気が差し、自分が何者であるかを模索しているモラトリアムな男。そして同じバイト仲間の松木に至っては一旦勤めていた会社を辞め、あるチャンスを待ちながら同じバイト先で燻っているといった男である。
そして光平の彼女広美はいきなり堕胎を告白するシーンから登場し、しかも光平との不思議な出会いから、光平には内緒に通っている障害児童の幼稚園へのボランティアなど数々の謎めいたエピソードを孕み、そして唐突に殺される。そして光平と一緒に広美の死の真相を探る事になる妹の悦子に加え、他にも登場するのは派手な男性経験を重ねてすぐに寝る同じバイト仲間の沙緒里に、ビリヤードを打ちに来るサラリーマンの『ハスラー紳士』こと井原、同じくビリヤード仲間の大田助教授と本屋の時田、広美の友人かつスナックの共同経営者日野純子、かつて広美の恋人だった香月刑事、そして後半、重要な役回りを演じる斎藤医師と、老若男女問わず、それぞれが非常に青臭い信条や傷を持って生き、主張する事を止めない。
これだけみんなが青臭い純粋さを持っていると、なんだか二流のテレビドラマを観ているようで、今回ばかりはちょっと恥ずかしさを抱いてしまった。

この作品には『卒業』同様のペシミズムが流れているのは確かだが、『卒業』が私の中で高評価なのは主人公加賀の一本筋の通った性格と、サブキャラクターである恩師の南沢雅子の含蓄ある台詞に痺れたからだ。
それに対し、本作の主人公光平の確たる目標もなく、ただ現状に不満を抱きながらも行動を起こさない弱さ・青さ、そして周囲の人間誰もが自ら恣(ほしいまま)に振舞う未成熟なところが物語の要素として物足りないのだ。やはり物語を引き締めるには他に同調しないキャラクターが必要なのだ。被害者である光平の恋人広美にその片鱗が窺えるものの、その自己犠牲的な性格が他者に比べて両極端すぎて、バランスを欠いているように感じた。

しかしこの若い頃経験するまったりとした雰囲気、常に何か満ち足りない物を感じていた想い、これこそ東野氏が本作で書きたかったことなのだろう。いわゆる大人の常識に逆らうように世間の波から外れた生き方、そういう青い時期を本作ではテーマにしたように思う。
それゆえに本作での最後の真相のシーンは、通常では考えられない酷い仕打ちを犯人に犯している。
そして光平の父親の言動。定職に就かずフラフラしている息子に対し、叱責することなく、むしろその生き方を認めて去っていくその姿は、大人のそれではない。やはり親というのは子供に対して壁であるべきで、子供の人生の選択に対し、その覚悟を確かめるべきなのだ。私ならば、こういう物分りのいい親は自分の成長をストップする悪しき存在でしかないので願い下げである。

この470ページ弱の物語の中には、旧学生街の退廃感、そこを訪れる人々それぞれの思惑、彼ら彼女らが微妙に交錯することで始まり、あるいは終わる群像劇を背景に、エレベーターにおける密室トリック、アリバイ工作、そして1987年当時、最新の科学技術であった人工知能AIの話などなどが盛り込まれており、正直ページを繰る手を止まらせなかった。
しかし、読了した今、やはり登場人物の青さしか残らなかった。それが東野氏が書きたかったテーマである事は認めよう。ただ、それが私には非常に幼く映ったのだ。


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学生街の殺人 新装版 (講談社文庫)
東野圭吾学生街の殺人 についてのレビュー
No.612:
(7pt)

もっと書き方に工夫すればあるいは傑作だったかも?

魅力的な謎を魅力的な論理、魅力的な解明で解き明かしてこそ、本格推理小説は引き立つ。そして謎が魅力的であればあるほど、読者の期待が否が応にもその解決に集まり、増していく訳だが、本作は果たしてどうだろうか。
屋敷に着いた途端にコートと渦中のランプを残して忽然と姿を消し、しかもその屋敷には隠れ通路や隠し部屋などは存在しない、これほど条件を限定して、しかもそれが一度ならず二度も起こる。

内容紹介文にカーがエラリー・クイーンとミステリについて語り明かした末に行き着いた最高の謎、人間消失に挑んだこの作品で、上記のように確かに謎の魅力はどんどん高まるのだが、その真相の魅力が逆に小さく、期待しただけに終わったというのが正直、私の感想だ。

そして第二の失踪事件の謎。これは良かった。犯人の意外性も素晴らしく、またその動機も面白い。しかしある一点のみ説得力に欠ける(詳細はネタバレにて)。



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青銅ランプの呪 (創元推理文庫 (119‐6))
カーター・ディクスン青銅ランプの呪 についてのレビュー
No.611:
(9pt)

信仰の危うさ

上下巻820ページ弱の本書は、13世紀の日本、中国、モンゴル、ペルシア、イタリア、そしてアルプスの村落と舞台は移りゆく。日本の古き因習に囚われた業の深い人間とその怪異現象を村や町といった閉鎖空間で物語を紡ぎ出してきたこの作家にしては珍しい作品である。

13世紀の街並みを匂いすら感じさせるほど緻密に描いた本書はしかし、当初私はなかなかその物語世界に没入できなかった。似たような名前が多いのと、外国の街並み・生活風景がなかなかイメージと結びつかなく、特に第1章は正直、字面を追うような感じだった。また夏桂の人物像、特に物事の考え方に共感しがたいものがあったのも一因だったのかもしれない。
しかし物語が急転する第2章以降はそんな事は気にならなくなり、のめりこむことが出来た。特に第3章からはアルプスの麓の村落での生活という閉鎖空間での話になったのが大きな要因だったように思う。

特に第1,2章を合わせたヴォリュームで語られる第3章の印象は強烈で、第1章で出て来た主要人物は吹っ飛んでしまった。上の梗概を書くために紐解いた時にああ、こういう人物もいたなあと思ったくらいだ。実際、坂東氏もここから筆が乗ってきたように思う。
本書の時系列は第1章→第3章→第2章という構成になっている。第2章では<善き人>たちの安住の地<山の彼方>が今や廃墟になり、そこに一人、老人となった夏桂が住んでいる様子が描かれ、つまり事が起こったその後が語られる。そこではかつて異端審問者として<善き人>どもを排除しようとしたヴィットリオが現れ、マルコ・ポーロが逃亡した夏桂たちの追跡行が書簡の形で語られる。ここでの結末を読んだ時、私はこの小説が上下巻ではなく、1冊のみだと錯覚してしまった。上巻のみで物語は完結してもいいぐらいだった。しかし下巻で語られる逃亡した夏桂の<善き人>の里<山の彼方>での暮らしぶりと、何故のこの里が退廃するに至ったかが語られるに至って、最後の隠された謎、何故夏桂が老後にこの地に戻ってきたのかが解るのだ。

この上手さには参った。私の中でここで俄然評価が高まった。
しかし、個人的にはここで夏桂が何を待っているかを述べて欲しくはなかった。読者に悟らせる形を取って欲しかった。その方が心に深く残る。これが惜しかった。

物語の核となる「マリアの福音書」には男女が交わる事の神聖さ、尊さを謳っていた。これは肉の慾を穢れと忌み嫌う<善き人>の信仰を根本から覆す物であった。
しかしこれは全く以って当然のことである。全ての生きとし生けるものは子孫繁栄を第一義としておいてあるからだ。しかし信仰が過剰すぎるとそういう万物の原理そのものが目くらましになり、汚らわしい所のみクローズアップされ、歪められる。マッダレーナが末期に述べるように、男女が交わる事は決して穢れではなく、それを淫らに、奔放に娯楽として楽しむ事こそが穢れなのだ。

読中、人は生まれたその瞬間から死に向かっている、という言葉をふと思い出した。だからこそ人はいかに生きるかが大切なのだが、ここに出てくる<善き人>たちはいかに生きるかよりもいかに死ぬか、死んだ時に救済が得られるよう、信仰の教義に従って己を殺して生きている。
しかし、それが実は己の欲望を際立たせ、強く自覚させている事に他ならない事を最後に気付くのだ。生きる事は欲望の闘いの連続である。だからこそ自分を正当化するためにごまかしたりもする。それを他人から知らされた時に人は自分の信じていた基盤を失う。信仰というものが人が生きる支えであると同時にいかに脆い物かをここで作者は語りたかったのだろう。これは土俗的な信仰が根強く残る村社会で起こる悲劇を描いてきた坂東氏にとって新たなる展開であると思う。

しかし作者は信仰に囚われない夏桂その人も自由人としては描かない。むしろ自分で気付かない何物かに縛られて、流されてきた人物として描く。教義に従って欲望を抑圧して生きる者たちを嘲笑しながらも、完全に否定出来ない、むしろ何故これほどまでに真摯なのかと思い惑うのだ。
そして彼も最後には囚われの身として彼の地<山の彼方>に帰ってくる。マッダレーナの遺言を全うする事、それこそ彼が唯一得た信仰だったのかもしれない。そしてその信仰は、やはりマッダレーナへの愛情だったのだろう。

惚れてはいないが魂の尻尾が縛り付けられている。
それは恋ではなく愛であったことを彼なりに不器用に表現していると私は思うのだ。


旅涯ての地〈上〉 (角川文庫)
坂東眞砂子旅涯ての地 についてのレビュー
No.610:
(7pt)

暗鬱な物語を求めるのでなく

坂東眞砂子氏の中編集。彼女お得意の土俗ホラーというものではなく、2編が怪奇物で1編が奇妙な味系か。

まず怪奇物2編は冒頭の「一本樒」と末尾の表題作。
前者は妹のやくざ紛いの情人が姉夫婦の家を付き纏うというお話。ネタ自体は特に目新しい物はないのだが、樒やまたたび酒などの小技が効いている。
後者は妻を亡くした男が仕事の忙しさに疲れ、故郷の徳島に帰った時に出くわす怪異譚。この作品のモチーフとなっている葛橋は私も祖谷にある物を渡った事があるだけに興味深かった。古事記の伊邪那岐命の話から葛橋はあの世とこの世を結ぶ橋という設定を生み出した(実際そう伝えられているのかもしれないが)坂東作品の王道であるが、処理の仕方がいまいちか。

残る1編は奇妙な味とも云うべき「恵比寿」。高知県の漁村に住む主婦、宮坂寿美が主人公で、サラリーマンから漁師へ転身した夫、3人の子供に舅姑の七人家族を支えて毎日慌しく過ごしていたある日、いつものように夫と子供らを送り出してパートに出かける道すがら、海岸に打ち上げられた奇妙な物体に気がつくことから物語は始まる。淡い灰色のその塊はぐにゃぐにゃと柔らかく泡を固めたような物だった。家に持ち帰ると舅はかつて自分が漁師だった頃に南方の島で異国の者に見せてもらった鯨の糞だという。恵比寿様の贈り物だといって神棚に奉納していたが、寿美は娘の個人面談の時に娘の担任教師にその物体について尋ねたところ、龍涎香という抹香鯨の結石で香料として使われ、非常に価値のあるものだという。宮坂一家はその知らせに大金獲得の夢に思いを馳せるのだが、というストーリー。
坂東作品の中では珍しくどこかコミカルであり、新機軸として面白く読んだ。皮肉なラストはちょっと余計かなとも思ったが、この作者らしからぬ処理の仕方に逆に好印象を持った。

各3編に共通するのはどれもがどこか片田舎を舞台にしているということで、それぞれが小市民ながらも一生懸命生きているという生活感が滲み出ているところ。坂東作品の持ち味である登場人物が抱える業が無いのも珍しいと思った。
『屍の聲』が短編であるのにもかかわらず、それぞれの登場人物が業を抱えているのにだ。しかしそれゆえにちょっとあっさりとした感じがするのも確か。
全く贅沢なものである。

葛橋 (角川文庫)
坂東眞砂子葛橋 についてのレビュー
No.609:
(10pt)
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山が下した裁きの物語

明治末期の越後の山奥の村、明夜村へ江戸から二人の客が訪れる。扇水とその弟子の涼之助は村の領主、阿部長兵衛に神社への奉納芝居のために村人に芸指導をするよう招かれた、浅草の小さな芝居小屋を経営している役者だった。
借金の山を抱え、芝居小屋の経営難に陥っていた扇水に取って、越後の山奥での一仕事は、借金取り連中から一旦逃げ隠れる事が出来、その上、金稼ぎが出来るという好機であった。一方、女形を担っていた涼之助はその女性と見まがうほどの美貌を持っていたが、扇水の慰み物となり、小さい頃から芸を仕込まれていた扇水の許を離れないでいた。
阿部の屋敷には長兵衛の息子夫婦も同居していた。涼之助は不思議な魅力のもった息子の嫁のてるに惹かれる何かを感じ、いつしか密通を重ねるようになる。
また婿である鍵蔵は妻てるの魔性のような美貌の虜になり、妻が誰かと浮気してどこかに行ってしまうのではないかという不安に常に苛まれていた。
また近くの狼吠山には閉山した鉱山町跡があり、そこには山妣(やまんば)が棲むという言い伝えがあった。
山神様への奉納芝居に向けて稽古が続けられる中、それぞれの思いに変化も起き、やがて芝居当日を迎える。それは新たな悲劇の幕開けでもあった。

ああ、物語、物語。
凄まじいほどの物語の力だ。

上に概要を纏めようとしてもほんの一部を語るのに精一杯だという物語の密度の濃さだ。
上に書いた芝居の幕開けはこの壮大な物語の序章に過ぎなく、また登場人物もほんの氷山の一角に過ぎない。この序章を過ぎた後、目くるめく物語世界が開けるのだ。

特に閉山前の鉱山町の物語が始まる第二部からが本作の本当の始まりといえるだろう。この二部から出てくる遊女の君香=いさこそがこの物語の主役なのだから。第一部は単に布石に過ぎない。
第一部の物語は妙という少女から始まる。最初この少女を軸に語られると思ったがさにあらず、この少女と瞽女という歌い手として生涯独身、処女を突き通す盲目の姉琴の二人は単なるバイプレイヤーに過ぎなかったのが勿体無い。特に琴は通常ならば主人公級の人物像なのだが、その扱い方はあまりにも無残だ。琴の行く末こそこの物語が明るい色なのか暗い色なのかを決定付けているように思う。

そして第二部。これがなんともいいようがないすごい話である。遊女の身から盗みを働いて山中に篭り、渡り又鬼を手篭めにして、仮初めの夫婦となり、人の暮らしを捨て、山で暮らしていく事を決意して、又鬼から狩りを教わるいさ。女の強さをまざまざと見せつける存在感である。
20年もの間、山奥で暮らしてきたいさには人恋しさとか我が子への愛情、男女間の愛情をもはや超越した存在として語られる。しかし読者は彼女がそれらを捨て去ったのではなく心の奥に秘め、他人に決してあからさまに見せたりしないのだという事に気付かされるのだ。
これはほとんど男のストイックさ以外何物でもない。いさという女性の強さは母親の強さではなく、自然と共生する事で得た一人で生きていく事から来る強さなのだ。この強さを女性に持たせた作者の意図が面白いと思った。

翻ってこの物語に出てくる男供はどうかというと、これが対照的にどの男も弱さを抱えている。
したたかに振舞いつつ、芝居小屋復興を目指し、大きな夢を語るが実質が伴わない扇水。
世の中を斜に構えて見つめながらも、扇水の呪縛から離れる事が出来ず、また一人で生きていく術がないと惑う涼之助。
領主の息子という地位よりも村人同様の暮らしを望みながら、貧乏暮らしを選択できず、しかも妻の機嫌をいつも伺っている鍵蔵。
そして病持ちの鉱夫としてふがいない人生を送りながらもいさと山主の金を盗んで逃亡しながらも山の暮らしに耐え切れず、金を持ち去って逃げる文助。
渡り又鬼として山中を徘徊している最中に凍死寸前のいさを拾い、山神への畏れを抱きながらもいさと離れられない重太郎。
男は弱さを抱え、しかもそれを克服する事の出来ない弱い存在だとして物語は語られていく。
そしてこれら登場人物の過去と現在が語られる中、物語は獅子山という熊狩りを軸に引き寄せられるように各々、山へと向かい、そこでそれぞれの愛憎がものすごい結末へと収斂していく。

ところで本書の紹介文や帯には人の業が織成す運命悲劇というような文句がさかんに謳われている。確かに人の業の深さゆえに起こる運命劇・怪異譚は坂東氏の十八番であるが、私は本書に関してはさほど人の業が主幹として扱われているとは思えなかった。
私にはむしろこれは山という大自然が愚かな人間どもに下す鉄槌の物語だという印象が強い。いさという女を作ったのは山の厳しさである。そして山の厳しさと共存できる者、それに負ける者の物語だと強く感じた。
その証拠としてふたなりである涼之助が救われる「山ではお前なんかは珍しい事ではない」といういさの言葉を挙げたい。
自然の摂理に逆らう者、山の神に敬意を抱く者、山が下した裁きの物語。私はそう強く感じた。

直木賞受賞作の名に恥じない傑作であるのは間違いない。これで直木賞を取れなかったらどんな物語が受賞できるのかとまで思った次第だ。

山妣〈上〉 (新潮文庫)
坂東眞砂子山妣 についてのレビュー
No.608:
(9pt)

「雪蒲団」の怖さといったら…

坂東眞砂子氏の怪奇短編集。超常現象を扱っているが、この作家特有の日本古来の土俗的な因習に根差された言伝えや風習を基に綴られた恐怖を描いている。

まず表題作の「屍の聲」は惚けてきたおばあさんを孫の布由子が見殺しにする話。
布由子はおばあさんが時折正気に戻った時に自らの醜態を恥じ、死にたがっていた事を知る。誤って河に落ちたおばあさんを助けようとするが、正気のおばあさんが死にたがっていると信じ、そのまま見殺しにする。しかし葬儀の行われたその夜・・・。

次の「猿祈願」は当時上司だった男と不倫の関係になり、前妻と離婚させ、婚約をした女、里美が夫巧に連れられて夫の故郷秩父を訪れた時の怪事件を扱っている。
里美は巧の親に挨拶に行くため、秩父へ向かった二人は巧の母が勤める霊場で待ち合わせる事になった。そのお腹には巧の子供を宿してもいた。巧が里美を残して母親を探しに行った際、里美は「のぼり猿」を奉る観音堂で一人の老女と出逢う。それは巧の面影を持った老女で里美は件の母親だと判断するのだが。

続く三作目「残り火」は薪の風呂を沸かす妻とその風呂に入る夫との間に交わされる会話を軸に語られる。
房江は人生を夫のために尽くしてきた。娘から旅行の誘いが来、房江は夫秀一にその旨を伝えるが一蹴されてしまう。房江はいつものように夫のために風呂を沸かしていた。話題は次第にかつてひどい仕打ちをされた舅の事へと移る。今の今まで夫の秀一に尽くす事が出来たのは舅に家を追い出された際、隠遁先の温泉宿で出くわした夫の生霊と「戻ってこい」という言葉に支えられてきたと信じてきた房江は夫から意外な告白を聞かされる。

バツイチの美人ホステスを口説き落とし結婚した男が、妻と一緒に引っ越した家にある荒れた畑を開拓している最中にハメという蝮に似た毒蛇に妻が咬まれるシーンで幕を開けるのが「盛夏の毒」。
ハメに咬まれて命を亡くした者が多数いることで夫慎司は必至の思いで街の住民に助けを求める。雑貨屋の電話を借りて病院に電話している際に聞こえてきた住民の話は妻が浮気をしているといった内容だった。駆けつける医者より一足早くハメの毒に苦しむ妻の許へ戻った慎司は妻に噂の真偽を問い詰め、ある決断をする。

父親の死を機に母親の故郷新潟に戻った小学生の孝之を主人公にした「雪蒲団」は子供達の間での噂が発端となっている。
孝之の家の隣にすむ繁さんは独身で親代々から熊を捕って生計を建てていた。しかし孝之の従兄弟達の話では彼が人の肝も取って売っているという噂があった。気になる孝之は学校で喧嘩し、飛び出した際に繁さんの家を覗いてみる。そこで見た光景とはしかしそのどれでもなく・・・。

最後の1編、「正月女」は拡張型心筋症という不治の病に罹った登見子が、最後の正月を過ごすため、夫の家へ帰るという話。
皆が自分の死を期待しているように思える登見子は姑から「正月女」にはなるなと厳命される。その村では元旦に女が死ぬと村から七人の女が道連れにされると言い伝えられていた。登見子の夫保は村中の女性の注目の的であり、自分の死後、誰かの物になるのが登見子には堪らなかった。自分の命が長くない事を悟っていた登見子はあえて「正月女」になって保に近づく女性を道連れにしてやろうかと情念をたぎらすが・・・。

これまでの長編同様、この短編集でも各短編とも人の業が嫌というほど、描かれている。恨み、辛み、妬み、嫉み、欲情、愛情などでは足らない烈情とも云うべき想いが各登場人物には強いのだ。
前にも書いたが、この作家は人間が本来口に出さないながらも持っている一番嫌らしい感情を実に率直に書く。

表題作の「屍の聲」は惚けたお婆さんの介護への嫌気、「猿祈願」は自分があった仕打ちを相手に末代まで仕返ししようという呪い、「残り火」はどの夫婦にもあるであろう、妻が夫に尽くす事で無くした人生の損失を、「盛夏の毒」は愛情深い故に起きる激しい嫉妬、「雪蒲団」は知らぬ土地で暮らす子供の唯一の拠り所である母親を取られたくないという独占欲、「正月女」は病人が抱く周囲の同情が早く死んでほしいという気持ちの裏返しである事、といった具合である。
あまりに負の感情ばかりなので、この作家は純粋な愛情を知らないのかしらと不審に思うほどである。

どの短編も読み応えあるが、あえてベストを選ぶとすれば「雪蒲団」。これ以外の短編は従来の作品同様、主人公の動機、怪奇現象の原因などが直截に語られていたが、この作品はそれをせずに描写と台詞だけで、何を孝之は繁さんの家で見たのか、何が繁さんの家であったのか、なぜ孝之は繁さんを殺したのかを読者に悟らせるのである。
この効果がもたらす真相の驚き度は強烈だった。孝之が母親に甘える一行の台詞、この真意が非常に恐ろしい。この作品は今までの坂東作品より一段上の出来である。
あとこの作品には印象に残った文章があるのでちょっと抜き出しておこう。

“「すみません」は魔法の言葉だ。厄介事から解放してくれるが、その魔法を使うたびに、言葉を使った者の体は縮む”

大人は皆そうやって大きくなってきた。しかし子供の目には縮んで見えるのだ。なかなかに面白い。

坂東氏はこの短編集で短編も書ける事を大いに証明した。やはりこの作家はこの路線が非常に合っていると思う。

屍の聲    集英社文庫
坂東眞砂子屍の聲 についてのレビュー
No.607:
(7pt)

捻りに捻って、なんだか掴みどころがありません

かつて反政府分子たちの弁護士として高名を馳せていたディーケンは、立て続けに敗訴して以来、自信喪失症に係り、故郷の南アフリカを離れ、スイスの片隅でしがない弁護士稼業を続けていた。
そんな折も折、ディーケンはルパート・アンダーバーグと名乗る人物からアラブの武器商人アジズがナミビアのレジスタンスへ供給する兵器類を阻止して欲しいと頼まれる。思いもよらない依頼にディーケンは断ろうとしたが、アンダーバーグは彼の妻を誘拐していた。妻と引換えに、こちらの条件を飲めという。
進退窮まったディーケンはアジズの許へ向かう。彼の孤独な戦いが始まった。

ストーリーを概略すると以上のような形に収まるが、本作の構成はかなり複雑である。アンダーバーグなる黒幕はナミビアへの武器供給を止めろとディーケンに命じつつ、そのレジスタンスのリーダー、エドワード・マキンバーとも通じており、更に武器商人アジズの息子を誘拐させたイスラエル過激派を率いっており、なかなか狙いが摑めない。
更にアジズは誘拐グループに報復をしようと凄腕の用兵部隊を雇う。この三者三つ巴の只中で一人、ディーケンは南仏からセネガル、そして南アフリカへと翻弄される。

また本書は、矜持を失った男が、妻を救うべく奮闘する中で次第に自分を取り戻していく、といった定石を踏まない。
かつて反政府分子たちのために次々と政府相手に勝訴を勝ち取った英雄弁護士ディーケンは、翻弄されるがまま、それこそボロ雑巾の如く、這いつくばり、愚直なまでにアンダーバーグの言葉に従い、アジズとその弁護士グリアスンの掌上で踊らされる。
ディーケンが自分の意志で行動を起こすのは全400ページ中290ページ弱の辺りで全体の3/4が終わった頃である。しかしその後もディーケンは支援側からも利用されるといった具合で終始報われない。

さらに誘拐された妻はストックホルム症候群に陥り、イスラエル過激派のリーダーと恋に落ちてしまう。むしろディーケンの許へ帰る事を拒むようになるといった次第で、ますます主人公ディーケンは救われないのだ。
この作品は読者がこの展開を楽しめるか楽しめないかに懸かっている。そして私は後者に属した。シニカルな面白さよりも爽快感を求めたが故に、悲壮感が最後残ってしまった。

実は爽快感を期待したのには訳がある。作中235ページにディーケンがバーでぼんやりとしている時に二匹のヤモリが、虫を食べようとして失敗し、虫は無事逃げおおせるといった描写がある。これをそのままストーリーの展開の直截な暗喩と思ったのだ。
逃げおおせた虫はディーケン、二匹のヤモリはそれぞれアジズとイスラエル過激派と思ったがそうではなかった。この暗喩は一体何を意味したのか。

そしてエピローグにて明かされる本書の仕掛け。最後に登場する名前は予想の範疇で特別なサプライズは感じなかった。
私はあまりにも出来すぎていて、計画の破綻がないことに逆に作り物の偽物感を抱いた。ちょっと懲りすぎたかな、フリーマントル。


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ディーケンの戦い (新潮文庫)
No.606: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

意外と骨太

それぞれの人にそれぞれの事情。
約340ページに纏められた本書はその題名から駅の売店で売られている読み捨て感覚のノベルスの1つに過ぎないと高を括っていたが、いやはや色んな謎が重層的に織り込まれたなかなか味わい深い作品だった。

密室殺人の謎、「マザー・グース」の暗号の謎、遠隔殺人トリック、2年前の事故死の謎に加え、ペンション「まざあ・ぐうす」の前の所有者である英国未亡人の自殺の謎と盛り沢山である。
またそれぞれの謎についても1つの真相に留まらず、そのまた隠れた真相と二重構造になっているのもかなり贅沢だ。デビューした作家が必ず通るカッパ・ノベルスでの、所謂『量産物』的作品と位置づけるには勿体無いくらいの満腹感がある。

東野氏は本作で当初叙述トリックを試みようとした節がある。よくあるパターンのトリックなのだが、しかしそれは早々に種明しされる(なんと始まって30ページ弱のところで)。通常ならばこの手法を用いるのにそんなに早い段階で明かさないのだが、恐らく書いている途中(もしくは一旦書きあがった途中)にこのトリックが作品のバランスを欠くものだと判断したようだ。
私は逆にこの判断を尊重する。本作を読むに別に最後の方で明かすことは困難ではなかっただろう。ちょっとしたサプライズとして取っておくことは可能だっただろうが、やはり最後のエピローグまで読むと、この段階で明かすことが賢明だったように思える。この辺の思い切りのよさが単なる「推理」作家に満足していないとの認識を得た。

しかしとは云いつつ、本作のメインの2つの謎―密室殺人と暗号―は結構複雑。
まず密室殺人。過去2作の密室殺人から判断できるように、東野氏の密室殺人は密室が何段階にも分けられて構成されていることに特徴を感じる。最初は開いていた扉が次には閉まっていた、ここが逆に読者を更なる難問へと導くのである。
だからその解明も結構複雑だ。詰め将棋が解かれる様を見ているようである。
しかし、逆にこれが所謂“ファイナル・ストライクー最後の一撃”効果を大いに減じているのは確か。読者はロジックを理解するのに腐心して、カタルシスを感じないのである。
それは「マザー・グース」の暗号にしてもそうである。いやいや、かなり難しい。英文と訳文2つを駆使して、しかもそれぞれの詩の構成を参考にして分解・再構成をしなければならないとくれば、いやもうこれは一種、数学の難問と取り組むのと変わらない趣きがある。

先ほど述べたように、カッパ・ノベルスと云えば出張や旅行の車内で暇つぶしに読むといった感じの蔵書であるから、この作品だと暇つぶしどころか、かなりの頭脳労働を強いられる事だろう。おっとこれは本作の出来には関係のない余計な詮索だった。本筋に戻ろう。

東野氏の作品は物語にコクがあるのも事実で、本作もそれぞれの宿泊客は元よりペンションのオーナーにシェフ、従業員の男女にも深みのあるバックストーリーが用意されている。これが今回のプロットを重層的に構成させるのに大いに貢献しているのだが、このストーリー性とロジックに偏ったトリックとがいささか上手く溶け合っていないように感じる。前2作はまだ良かったが、3作目の今回は特に強く感じた。宿泊客がそんな複雑な仕掛けをするかなぁというのが私の感想である。確かにそれを裏打ちするエピソードも用意されてはいたのだが、1年に一度訪れる現場では準備に苦労するという気持ちは否めない。
しかし、まだ東野ワールド創世記である。現時点このクオリティだから、今後更に大いに期待できるのは間違いない。ああ、次はどんな話を用意してくれるのだろうか。

最後にちょっと蛇足めいた感想を。他の人の書評にもあったが東野氏の過去の作品には昔の時代を感じさせる表現が時々出てくる。今回もあるにはあったが、1つだけ。
数千万円相当の宝石を評して、プロ野球のトップ選手の年棒とあるが、今の数億円プレーヤー頻出の世の中では失笑を免れない表現である。これは次回重版時に削除したらよいかと思うが、どうだろうか?

白馬山荘殺人事件 新装版 (光文社文庫)
東野圭吾白馬山荘殺人事件 についてのレビュー
No.605: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

実は事件は爬虫類館で起きているのではない!

本作の密室トリック―窓も扉も目張りされ、鍵が掛けられた部屋からいかに犯人は脱出したのか―の真相は解ってしまった。最初は解らなかったものの、トリックを特定するある物が出て来た時点で、閃いた。というよりも多分小さい頃に読んでいた藤原宰太郎氏の推理トリッククイズに問題の1つとして挙げられていた可能性が高い(ホント、この本の犯した罪は重いと思う)。
本格推理小説は手品・奇術と相通ずる物がある、というのは泡坂妻夫氏の持論だが、カーもこの作品で奇術におけるミスリードを一つの要素として扱っており、カー自身もその思いを強くしていたように思える(良きライバルであるクレイトン・ロースンその人が奇術師であり、競作を行っていたから、これは今更ながら述べる事でもないのだが)。

本作はこのトリックがメインであり、その他については物語を形成する装飾品に過ぎない。特にそれが顕著に見られるのは最後の犯人告発シーン。密室の解明に力が入っている割には、犯人を特定すべき証拠が挙がらず、脅迫じみた形で自白を迫るといった滑稽さである。まあ、そのシーンも犯人が憎らしいがために、読者の溜飲を下げる効果もあるのだが、幾分泥臭い。
しかし真相の解明のヒントとなる戸棚とマッチの燃え滓の2つはどうも読者へのヒントになっていないように思える。私自身、トリックの真相に確信を持っていたのだが、違うのかなと思ってしまった。その説明も本作では十分になされていない。
しかし、犯人は予想とは違った。いやあ、やっぱりカー作品は犯人を当てるのは難しいわ。あまりに情報が少なすぎる。

さて今回の原題だが“He Wouldn’t Kill Patience”であり、作中の台詞を借りると「彼がペイシェンスを殺すはずがない」となる。これは事件が自殺でなく他殺である根拠として娘のルイズが述べる台詞で、ペイシェンスはお気に入りの蛇の名前である。手元の辞書では何か別の意味があるのか解らなかったが、私は邦題よりもこちらの方が魅力を感じる。
事件は園長の家で起きており、爬虫類館ではないので邦題の『爬虫類館の殺人』は実は正確さを欠いている。しかも原題には未読の人にはその意味について興味をそそられ、本を読んでこそ解る意味になっているからだ。この題名は改訳の折には変更してもらいたいと強く思った。


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爬虫類館の殺人 (創元推理文庫)
カーター・ディクスン爬虫類館の殺人 についてのレビュー
No.604:
(7pt)

未完の作品?

今まで四国、奈良と古き因習の残る小村、または町を舞台に伝奇ホラーを展開してきた坂東氏が今回選んだ舞台はなんと東京。しかも本作はホラーではなく、戦前の画家の探索行と昭和初期の情念溢れる女と男の業を描いた恋愛物。
しかし、舞台は東京といっても年寄りの街、そして仏閣の街、巣鴨。やはり死がテーマの一部である。

物語は混乱の昭和初期を生き抜いた二人の女性の物語を軸に、戦前の画家西游を巡る現代の物語が展開する。
当初本作の主人公とされた額田彩子のストーリーよりも五木田早夜と小野美紗江という対照的な二人の物語の方が比重が大きくなり、またその情念の凄さから物語自体、かなり濃密である。

この二つの物語についてはそれぞれの人生観が特徴的に表れていると思う。
雪深い新潟の地を出るように上京し、画家を目指すが、人生に翻弄されるがままに生きていき、西游という狂乱の画家と出逢う事で愛憎に苦しみながら生きてきた早夜は「人生は食べてしまった饅頭のように何も残らないものだ」と述懐する。
一方、同棲相手から逃げるように飛び出し、未練を残しながらも新しい生活に向かおうとする彩子は「散った桜が消えないように、人生も過去に思いを馳せつつ残り続けていく」と考える。
何もかも失ってしまった早夜―最後に命さえも失った事が解るのだが―と三浦英夫との同棲に失敗した思い出が色濃く残る彩子。この二人を象徴するのに最適なエピソードだと思った。

そして早夜と美紗江の過去の物語の登場人物全てが不幸であるというのもまた坂東氏の特徴がよく表れている。
早夜は元より、その類い稀なる美貌と絵の才能を持っていた美紗江もまた西游に人生狂わされ、緑内障により、画家の道を閉ざされ、生涯独身を余儀なくされる。
そして榊原西游も周囲の人生を狂わせる事で絵の才能の糧にし、女の内面を写実的に描き出す。しかし空襲でその作品のほとんどは焼き尽くされ、現在では最早忘れ去られた存在に(実在の人物なのかどうかは解らないが)。
そして早夜の上京時からの良きパートナーであった有馬雄吉もまた、新進の俳優の道が開ける正にその時、戦争に徴収され、顔に火傷を負い、俳優の道を閉ざされ、家業の桶屋を継ぐことになる。しかも妻と子供は空襲で爆死するといった有様だ。その死に様は身寄りの無い年寄りの孤独な死である。
この救いの無さは一体何なのだろう?

しかし、前述したように過去と現在との物語では断然過去の物語の方が面白い。
これから判断するに、人の不幸こそ面白い、というのが坂東氏の物語作法なのだろうか?
しかし、私はこの物語は失敗作だと思う。
いや、失敗作というのは適切ではない。未完の作品だと思う。
過去と現在の物語の濃度に差がある故にバランスを欠いているように感じるのだ。
主人公の予定だった彩子がなんともぼやけた存在になってしまっている。
行きつけのパブ「リンダム」の常連達である弥生と大磯夫婦など個性あるキャラクターもいるのに物語があまり膨らんでいない。
しかし何といっても物語の結末の仕方がすべて曖昧なのだ。
はっきりした答えなど必要ない、感じたことを信じればそれでいいのだ。
確かにこれも一種の結末の付け方だろう。しかし、なんとも据わりが悪い。

今回、死の象徴とされた蝙蝠傘を持ち、「都市は冥界である」と唱える男の正体、絵の作者、西游の行方、美紗江の真意。
これら全てが未解決であるから余韻を残す結末ではなく、どうにも消化不足のような気がしてならない。
ミステリではないからと云われればそれまでだが、あと少し書き込めばなかなかの傑作になったのではないかと思うのだが。

桜雨 (集英社文庫)
坂東眞砂子桜雨 についてのレビュー
No.603:
(7pt)

展開は予想もつかないのだが…

題名の『バンディッツ』は“盗賊”の意味で、本作では主人公ジャックと元修道尼のルーシー、そしてかつて刑務所仲間だった元銀行強盗のカレンと元警官のロイたち一行を差す。
最初読んだ時はレナードにしてはストレートな設定だなぁと思った。ジャックが強盗団を結成すべく、ムショ仲間を仲間に引き入れ、大佐の金を強奪するという方向性が早くも見えたからだ。この前に読んだ『スティック』は思いつくままストーリーは流れ、なんとも掴みようがなかっただけに、この明解さには正直驚いた。

しかしやはりレナードはレナードである。一筋縄では参りません。この強奪計画が判明した106ページから誰が423ページの結末を予想できるでしょう?
本作ではレナードは熱心に南米で行われている虐殺についてルーシーの言葉、そしてCIAのウォリー・スケイルズの口を借りて述べている。また登場人物の1人に「ベトナム戦争に行った事ない奴が口出すんじゃねぇ」と云わせ、ベトナム戦争がアメリカに落とした影についてもそれとなく仄めかしている。レナードの南国の太陽を思わせる雰囲気の中に戦争の悲惨さという暗いテーマが眠っているのもこの作品の特徴だ。

しかし、この作品、レナードの先の読めない展開が悪い側に出たという印象は拭えない。本作のプロットが判明する100ページ辺りまでの面白さから、「これは!」と期待するところがあったのだが、それ以降の展開が実にのらりくらりとしており、なかなか強奪計画の全容が見えてこない。実際最後の380ページ当たりになって始めてシミュレーションが行われるくらいだから、レナードはそこに重きを置いていないのだろう。
でも逆にこれが私には不満で、まるで皮が美味しいのに中身がスカスカの饅頭を食べているかのような印象が残った。
タイトルのバンディッツも結局ほとんど機能しなかったし、やはりちょっと物足りないと思うのである。


▼以下、ネタバレ感想
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バンディッツ
エルモア・レナードバンディッツ についてのレビュー
No.602: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

青春は斯くもほろ苦く

T大学生の加賀恭一郎、相原沙都子、金井波香、藤堂正彦、若生勇、伊沢華江、牧村祥子は高校からの仲の良いグループであり、大学に入ってからも交流が続いていた。
卒業を前に控えた9月、加賀と金井は学生剣道選手権大会の県予選に出場し、ともども優勝候補の筆頭になっていた。しかし順当に優勝した加賀とは対照的に金井は優勢だと思われていた試合でまさかの敗北を喫してしまう。
その一ヵ月後、波香の住んでいるアパートを訪ねた沙都子は、同じアパートに住む祥子が手首を切って死んでいる姿を発見する。残された日記から、夏に講座旅行に行った際に、犯した一夜の過ちから、恋人である藤堂へ罪悪感が生じた故の自殺だと思われていた。部屋は窓も扉も鍵が掛かっており、密室状態でその事実を一層裏付けたが、死亡推定時刻前後で部屋が開いていたという新たな証言を得て、俄然他殺の線が濃くなった。事件に不審を抱いていた沙都子と加賀は独自に捜査をし始める。
そんな中、高校時代の恩師、南沢雅子の誕生日を祝う「雪月花之式」の日が今年も訪れた。事件以来、疎遠になりかけていた6人が加賀を除いて一同に会し、例年通り「雪月花之式」を実施する。しかし和やかだったその茶会の席で、金井波香が苦悶の表情で絶命するという事件が起こる。死因は青酸カリによる中毒死で、飲んだお茶に含まれていたらしい。
一体誰が、どのようにして波香を殺したのか?状況的には無作為に殺されたとしか思えないのだが・・・。

東野圭吾作品のシリーズキャラクターとなる加賀恭一郎刑事が、まだ学生の頃に起きた事件を扱ったもので、最初に加賀刑事ありきで始まったのではないところに非常に好感を抱いた。恐らく東野氏は1作限りの主人公にするつもりだったのだろうが、加賀の、剣道を軸に鍛えられた律とした姿勢とまっすぐな生き方が気に入り、シリーズキャラクターに起用したように思われるふしがあり、非常に楽しく読めた(もちろん私も加賀のキャラクターにはかなり好感を抱いた)。

さて事件は1作目同様、密室殺人&衆人環視の中での毒殺と本格ミステリの王道である不可能状況が用意されており、なかなかに、いやかなり難しい問題だ(よく考えると1作目の『放課後』も第1の殺人が密室殺人、第2の殺人が衆人環視の中の毒殺である。よほどこの手の謎が好きなのか、それともアイデアを豊富に持っていたのか)。
最初の殺人は管理人が厳しく入場者を見張る女人禁制のアパートで起きる、一見リストカット自殺とも思える事件。死亡推定時刻にすでに被害者は部屋にいて手首を切っていたという状況だったのだが、その前の時間にたまたま隣人の女子大生が、扉が開いて明かりが点いていたとの証言を得て、密室殺人の疑いが強まる。

第2の殺人はもっと複雑で茶道の一種のゲームである「雪月花之式」という独特のルールの中で起こる事件で、本作のサブタイトルにもなっている。これがそれほど難しくは無いのだが、一口に説明できないルールで、混乱する事しばしばだった。
しかし一見無作為に殺されたとしか思えないこの殺人が意図的に特定の人を絞り込むように操作されていたのは素晴らしい。ある意味、ロジックを突き詰めた一つの形を見せられたわけで、手品師の泡坂氏の手際の鮮やかさを髣髴とさせる。

こういったトリック、ロジックもさることながら本書の魅力はそれだけに留まらず、やはりなんといっても加賀と沙都子を中心にした学生グループ全員が織成す青春群像劇にある。東野氏特有の青臭さ、ペシミズム、シニシズムが絶妙に溶け合っており、とても心に響くのである。熱くも無く、かといってクールすぎず、一人前を気取りながらも、あくまで大人ではない、大人には適わないと知りながらも斜に構えていたあの頃を思い出させてくれた。
特に本作では彼らの青臭さ、未成熟さを際立たせるキャラクターとして、刑事である加賀の父親、そして彼らの恩師である南沢雅子の2人は特筆に価するものがある。
あくまで前面に出ることは無く、置き手紙での参加でしかないのだが、加賀の父親が息子をサポートする場面は加賀にとって助けではありながら、しかし越えるべき壁である事を示唆している。
また南沢雅子の含蓄溢れる台詞の数々はどうだろうか!大人だからこそ云える人生訓であり、生きていく上で勝ち得た知恵である。
このキャラクターを当時28の青年である東野氏が想像したことを驚異だと考える。どこかにモデルがいるにしてもああいった台詞は人生を重ねないと書けない。東野氏が28までにどのような人生を送ったのか、気になるところだ。

東野氏に上手さを感じるのはその独特の台詞回しだ。常に核心に触れず、一歩手前ではぐらかすような台詞はそのまま学生が云っているようだし、活きている言語だと思う。また祥子が自殺に及んだ真相についても、あえて婉曲的に表現するに留めている点も、読者に想像の余地を残したという点で好感を持った。
実際、人生において真実を知ることは多くない。むしろ謎のままでいることの方が多いのだ。東野氏の作品を読むとその当たり前の事に気付かせてくれるように感じる。
本作は彼のベスト作品の1つではないだろうが、胸に残る率直な思いに嘘は付けない。私にとってはベスト作品の1つであると断言しよう。


▼以下、ネタバレ感想
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卒業 (講談社文庫)
東野圭吾卒業―雪月花殺人ゲーム についてのレビュー
No.601: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

犯人が異様に逞しい

女優フレイヴィア・ヴェナーの邸宅だった<仮面荘>に住むドワイト・スタナップはスコットランド・ヤードの警部ニコラス・ウッドを自宅に招待した。実はドワイトが警察へある相談を持ちかけた事がきっかけで仮面荘へ赴くことになったのだが、表向きは新年のお祝いに招待されたという体裁を整えていた。
ドワイトには活発なエリナーに可憐なベティという美しい異母姉妹がいた。また邸には他にも実業家のブラー・ネズビー、ニコラスの旧友ヴィンス・ジェームズが招待されており、エリナーの婚約者ロイ・ドースン海軍少佐も訪れる予定だった。
ニコラスが訪れたその夜、屋敷の1階に絵画泥棒が押し入り、果物ナイフで刺されるという事件が発生した。泥棒の正体はしかし、当主のドワイトその人であった。なぜ彼は自分の家の絵画を盗もうとしたのか?そしてなぜ泥棒を捕まえた者は捕縛せずに一思いに刺したのか?
瀕死の状態ながらもドワイトは一命をとりとめ、意識が戻るまで自宅で養生する事にした。
そこへ登場するのが我らがヘンリー・メリヴェール卿。しかしHM卿の登場空しく、次なる悲劇が発生する。

本作の真相は見破れないながらも、この頃の作品に多く見られるアクロバティックな真相で、カタルシスを感じるには首肯せざるを得なかった。
泥棒の正体が館の主である事からすぐに盗難による保険詐欺という趣向が想起され、それが確かにミスリードとなっているのは、さすがはカー!といったところか。

しかし、前述のように真犯人の正体に関してはいささか際どすぎる。
真相や趣向は非常にいいと思うのだが、事件の意匠の部分で過剰に演出しすぎ、現実味に欠けていて、いや非常識に感じられて、失望を禁じえない。
あと犯人の絞込みの重要なキーとなる背格好について。これについてもそれぞれの登場人物の描写を事細かにメモしていないと解らない。確かに作者が云うようにヒントは冒頭に隠されていたが、しかし、これだけだとは・・・(まあ、これは半分負け惜しみが入っているが)。

とはいえ、本作においてもカーは読書サービスを怠らない。
今回は特にHM卿が大カフーザラムなる魔術師に扮して子供達に奇術を披露するシーン。しかも仮面荘の当主の妻の悪友ともいうべきミス・クラタバックなる嫌味な人物に弄られながら、魔術と称してやっつけるといった内容。HM卿が実は奇術が得意であるという隠れた特技が本作で解るという点で、本作は見逃せない作品だろう。

また本作では犯人の悪意についても語られている。全てにおいて万能であった犯人が見事に罠に嵌り、プライドを傷つけられた憤りを重傷を負った人物に更に追い討ちをかけるように痛めつける。しかもそれについて悪びれもしないという人間の醜さを今回は見せつける。今手元にないので年代が解らないが、これはセイヤーズが晩年描いたテーマ―犯人が何も個人の事情や経済状態、止むに止まれない事情で犯行を犯すのではなく、単に意に沿わないという理由でも犯行を犯すのだ―に似ている。

カー作品の中でもあまり話題に上らない本作。それはこの素っ気無い題名によるところも大きいと思う。
本格物によくありがちな題名だが、原題は“The Gilded Man”で『金箔の男』という意味。これは盗難の対象となったエル・グレコの絵画に描かれたアンデス山中にある湖に沈んだ金塊を引き上げようとする男達を指している。
なかなか印象深い原題だが直接的には事件とは大きく関係しないため、どっこいどっこいといったところか。


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仮面荘の怪事件 (創元推理文庫)
カーター・ディクスン仮面荘の怪事件 についてのレビュー
No.600: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

どこかにあった物語を掘り起こしたよう

刑務所から出所したスティックはムショ仲間のレイニーから届け物をするだけで5,000ドルもらえる仕事があるから手伝えと持ちかけられる。気の乗らないまま、レイニーに同行するスティックは、それが麻薬密売人たちの取引で、自分たちが故売人のチャッキーに仲間を売られた報復として麻薬卸元であるネスターへ差し出された生贄だと知る。レイニーはネスターの手下に撃ち殺されてしまうが、スティックは命からがら逃げ延びる。
しかしスティックはチャッキーのいる街を離れず、くたびれた風采を整え、あえてこの街に残る事にする。ムショ暮らしで失ったかつての鋭さを取り戻すためと、自分が何者かを知るために。
ひょんなことからバリー・スタムという投資家のお抱え運転手を任される事になったスティックはバリーとチャッキーが友人同士だということを知り、チャッキーへの復讐を企む。

・・・と、あらすじを書いてみたものの、本作はレナード作品の中でも特に先の読めない作品だった。作者が行き当たりばったりで書いているとしか思えないほど、主人公のスティックが縦横無尽に動き回る。
一応、本作は『スワッグ』で銀行強盗として登場したスティックのその後を描いた続編。1983年に発表された本書は油が乗り切った時期に書かれたこともあって、レナード特有の流れるような文章、一緒に会話をしているかのような生きた台詞がページのすみずみまでに行き渡っている。いつしかスティックを始め、投資家のバリー、暗黒街のボス、チャッキー、不遜な殺し屋エディ・モーク、投資アドヴァイザーで美人のカイル、はたまた登場人物表に載っていない端役のバーテン、ボビー―このキャラクターがなぜ一覧表に無いのか不思議。かなり魅力を感じる美人バーテンダーである―までもがイメージを伴って、眼の前に迫ってくる。

しかし、前にも書いたように本作の特徴はスティックの行動そのものにあるといっていい。読者はスティックが何を考えているのかに興味を持ちながら読み進むしかないのだ。
最初はムショ上がりの冴えない男だったのが、死地から逃げ延びた事で逆に己自身を見つめなおし、自動車泥棒を行おうとしたところで、バリーと知り合い、運転手に落ち着き、そこで株投資の世界に興味を持ち始めたかと思うと、バリーの付き合う愛人、妻、そして投資アドヴァイザーのカイルの3人と寝てしまうのだ。更にはバリーと主従の関係が逆転し、そしてバリーが企画した新作映画への融資をだしにチャッキーを獲物にして一大詐欺を起こそうとするのだ。

こんな物語に最後きちんとオチがつくのだからものすごい。こういう話を読むとレナードが作ったのではなく、あたかもそういう話が実際にあってそれをレナードが小説にしたとしか思えない、それほど「作っていない」感じがするのだ。

しかし、あえて苦言を呈するならば、やはり行き当たりばったりで書いているなあという気持ちは払拭できない。以前とは違い、さすがに色々読んできている現在では終わりよければ全て良しという手には乗らないぞという捻くれた思いが強く残るのだ。
こういう小説もいいだろ?という声も聞こえるが、他にレナードの素晴らしい作品を知っているだけに、ここは苦言を呈して星7ツに留めよう。

スティック (文春文庫)
エルモア・レナードスティック についてのレビュー
No.599:
(7pt)

ジョナサン・ヘムロック、精彩を欠く

アイガーでの制裁(サンクション)の後、スパイ稼業に嫌気が差したジョナサン・ヘムロックはCIIを辞め、一度見た物を細部まで記憶するという自らの天賦の才能を活かして美術鑑定家として生計を建てていた。
旧友のヴァンからパーティに出席するよう頼まれたジョナサンはパーティ会場の一室でギリシャ彫刻を具現化したような完璧な美貌を持つ男に逢わされ、マリーニの『ダラスの馬』を見せられる。男はこれを500万ポンドで裁いて欲しいと依頼するのだが、ジョナサンは危険な匂いを感じ取り、断った。
旧友の美術品泥棒マックテイントに逢いに行った帰り、ジョナサンは一文無しのアイルランド娘マギーと知り合い、自分のアパートメントで一夜を共にする。
翌朝目覚めてみるとバスルームに腹を裂かれた死にそうな男が横たわっており、ジョナサンは何かに巻き込まれようとしているのを察知し、逃亡するが、約束の講演に出演した折に捕まってしまう。
捕まえた組織はルー―便所という意味―というイギリス版CIIともいうべき組織だった。そこを束ねる“司祭”は闇の一大売春組織『修道院』が所有するイギリスを根底から揺るがすスキャンダルが収められたフィルムの奪還をジョナサンに頼む。断れば死体の犯人にさせられるという状況下、ジョナサンは悪の巣窟『修道院』へ乗り込む。

長年探し求めていた『アイガー・サンクション』の続編の本書がまさか彼の地フィリピンで邂逅しようとは思わなかった。こんな硬質な作品をよく読んだものだ。一体誰だろう?他にもレナードの『スティック』と『バンディッツ』も収穫できたし、また出発前には絶版となっていたクーンツの『トワイライト・アイズ』もGETできたし、最近の立て続けに起こる過去の積み残し大清算めいた流れはどうしたことか?
いきなり本題から外れてしまったので元に戻ろう。

『アイガー・サンクション』ではスパイ物でありつつ、本格的な山岳小説でもあったが、本作は純粋なスパイ小説に徹している。主人公のジョナサン・ヘムロックが一流の登山家であることを匂わす箇所はクライマックスで敵のアジトから脱走しようとするシーンで麻薬中毒の中、マントルピースをよじ登るシーンと屋根上に隠れるシーンでしかない。
冒険小説を期待する読者にとっては物足りなさを感じるのだろう、『アイガー~』が時折巷間の話題に上るのに対して、本作については全くと云っていいほど語られない。しかし、個人的には傑作とまではいかないにしても一級のスパイ小説であると思う。

プロローグのあるスパイが聖堂の鐘楼で串刺しにされているというショッキングなシーンから幕開けするが、このたった6ページのシーンの緊迫感からして濃厚だ。最初、何が男に起こっているのか、読者には検討がつかない。もはや助からないのだろうなという事は解るのだが、どういった状況が判明しない。最後のページの新聞記事の抜粋を読むに至って、串刺し刑という拷問にあった事がわかり、それを基に読み直すと、今まで読んでいた意味が明らかになる。この辺からもう心臓鷲掴みである。
しかし、なかなか物語は進まない。本題に入るのは100ページを超えた辺りからだ。それまでは延々とスパイ稼業を引退したジョナサンと彼を取り巻く人たちとのやり取り、そしてアイルランド娘マギーとの新たな出逢いが語られる。

本作は何といってもマギーに尽きるだろう。このアイルランド娘の存在はスパイを辞めたジョナサンにとって普通の生活へ繋ぎ止める存在であり、守らなければならない物、そして彼にとって心のダイヤモンドである。特にジョナサンとマギーが最初に出逢い、レストランで食事をするシーンは本作の中で最も私が好きなシーン。道すがら出逢った男と女が交わす他愛も無い会話を断片的に語る、これだけで二人の親密さが心の中にしんしんと積もっていく。男と女の始まりを空気まで沸き立たせており、トレヴェニアンの技巧の冴えに唸ってしまった。
そしてだからこそマギーの喪失感がジョナサンと同様、読者の胸を打つ。やっぱりこの手の手法に私は弱い。

図らずもスパイ稼業に復帰せざるを得なくなったジョナサン。しかし読者の予想を裏切って百戦錬磨の活躍を見せるわけではなく、ブランクによる違和感と若さの喪失を悔やむジョナサンと読者は対面する事になる。動きにかつての精彩さを欠きながら、それでもジョナサンはまんまと周囲を出し抜くのだが、非常に危なっかしい。特に強敵とされたレオナードとは直接格闘で倒すのではなく、麻薬で苦しむジョナサンが銃で撃ち殺す結末となり、個人的には物足りなかった。
しかし、相変わらずトレヴェニアンの描く登場人物は個性的で際立っている。先に述べたマギーを筆頭に、完璧な美を誇る売春婦アメージング・グレース(素晴らしい名前だ!)、同じく永遠の若さを理想とする悪役マクシミリアン・ストレンジ、そして一癖も二癖もある美術品泥棒マックテイントなどなど、全て印象的である。この作家が亡くなってしまったのは本当に惜しい。

今考えてみると、本作は残酷なシーンと哀しみが表裏一体となっている。拷問の上に殺されるというケースがほとんどであり、また悪役もダムダム弾という一発で手足が吹き飛ぶ強烈な弾で撃たれ、無残に殺されている。
残酷さと哀しみ。どちらも負の感情だ。だからこの作品の読後感に爽快感はない。大きな喪失感が残る。

元大学教授とトレヴェニアンの略歴にはある。心理学なのか文学の教授だったのかわからないが、一連の作品に通底するペシミズムは彼のこの経歴から来るものなのかもしれない。つまり小説創作を通じて実験を行っている、それはあまりに穿ち過ぎか。


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ルー・サクション (河出文庫)
トレヴェニアンルー・サンクション についてのレビュー