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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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各種オールタイムベストランキングで常に1,2位、少なくとも上位5位以内には位置を占める不朽の名作『Yの悲劇』。21世紀の世になり、かなりの小説を消化してきてようやく着手した。
舞台となるハッター家の邸に住まう、気ちがいハッター家と世間で揶揄される面々がいつもに比べて非常に強烈なキャラクター性を放っている。 傲岸不遜を地で行くエミリー・ハッターを筆頭に、精神的虐待で自身の私的研究室に終始篭っていた被害者ヨーク。世間で天才の名を恣にしている長女で詩人のバーバラ。学生の頃から今に至るまで夜の街で暴れては警察の厄介になり、各種の犯罪を犯しては母の権力でもみ消してもらっている無頼派の長男コンラッド。美貌を活かし、男をとっかえひっかえして、数多のスキャンダルを繰り返す末娘のジル。ハッター家に嫁ぐもエミリーの君主的支配からヨーク同様の生きる屍の如く毎日を送るコンラッドの妻マーサ。そしてコンラッドとの間に出来た二人の息子ジャッキーとビリーは狂暴かつ乱暴で悪知恵が働き、常に残忍な悪戯をして周囲を困らせている。そして聾唖盲の三重苦を背負ったエミリーの前夫との娘ルイザ。 なんともヴァラエティに富んだキャスティングではないか。今まで読んだ他の作品と比べても、エラリーが本作に多大なる力を注いだのがこの人物設定からも十分窺える。 そして『Xの悲劇』が様々な公共交通機関で起こる、云わば外に向けられた連続殺人劇であるのに対し、この『Yの悲劇』は古典ミステリの原点回帰とも云うべき、ハッター家という邸内で起こる連続殺人劇というのが非常に特徴的だ。これも作者が正面から古典本格に戦いを挑んだ姿勢とも取れる。 このクイーンの過去の名作への挑戦とも云える本書の感想を率直に述べよう。 確かに傑作。これはすごい。読み終わった後、鳥肌が立った。これほど明確なまでに探偵の収集した情報を読者の眼前に詳らかにした上で、最後の舞台裏の章で明かされる事件の真相の凄さ。本作で展開されるロジックの畳み掛けはクイーン特有のロジックの美しさというよりも、論理を超えた論理とも云うべき凄味すら感じさせられた。 この書を手に取るに辺り、多大なる期待と多大なる不安があったことをまず正直に述べておこう。なぜなら私自身、これまで数多の推理小説を読んできたと自負しているので、世の読書家、書評子の方々が諸手を挙げて傑作、傑作と囃し立てるほどの驚きは感じられないだろうと高を括っていた。が、全く以ってそれが自身の自惚れにしか過ぎないことが読後の今、痛感させられた。 ここで子供じみた自画自賛的主張を述べるが、真相に至る前に犯人は解っていた。私には十全に推理が組み立てられなくとも、読書の最中で、ふと犯人が閃く事がある。それは各登場人物の描写における違和感や何気なく描かれた一行程度の仕種だったり、探偵役の調査の過程で思弁を凝らした時だったり、添付された見取り図をじっと凝視している時に、電撃のように頭に閃くのである。時にはそれが作者の文体の癖からだったりもし、これになるともはや推理というよりも単なる勘であるのだが。 で、今回はレーンが実験室を調査中にふと閃く事があり、その直感を元に見取り図を見て、ある文字が頭に飛び込んできた時に、ざわっとしたような啓示を受けた。その時、浮かんだのは、この手の真相はこの小説が起源だったのかということだった。そしてこの時浮かんだ島田氏の本書の題名に非常によく似た作品について、恨みめいた感情を抱いたものだ。 だから舞台裏の最初でレーンの口から犯人が明かされた時、正に我が意を得たりといった満足感があった。この真相は発表当時は衝撃だったであろうが、今となっては一つのジャンルとなりつつあるこの手の真相を扱った小説、映画を観てきた現代人にしてみれば、それほど衝撃的ではないし、逆にこの趣向を使ってもっと戦慄を感じさせる小説は後世にも出てきており、何故これほどまでに今に至って傑作と評されるのかが疑問だった。 しかしそれから展開される探偵の推理と真相はページを捲る手を休ませないほど、微に入り細を穿ち、なおかつ堅牢無比のロジックが目くるめく展開する。 未だに「推理小説で凶器といって何を思い浮かべるか」という質問があったときに、「マンドリン」と答える人が複数いるという。それは暗にこの小説で扱われた凶器がその人たちの記憶に鮮明に残っているからなのだが、これは確かにものすごく強烈に記憶に残る。いやむしろ叩き込まれるといった方が正鵠を射ているだろう。 小学校で習う掛け算の九九や三角形の面積の出し方、円周率が3.14であることと同じくらい、死ぬまで残る記憶に残るのではないか。私も30過ぎて読んだが、多分今後このマンドリンという凶器とそれをなぜ犯人が使ったのかという理由のロジックの見事さは忘れられないだろう。 更にこの犯人であることを補完する証拠や犯人の心理がレーンの口から理路整然と次々に語られる。そしてこれが犯人が犯人であるだけに論理だけに落ちず、感情的にも深く心に染み込む理解となった。 そして読後の今、私が犯人を当てたなどは単なる直感に過ぎず、何の推理もしていなかったことが気持ちのいいほど腑に落とされた。自信喪失というよりも爽快感しかない。 そして最後の毒殺の真相。これがこの作品に他作とは一線を画する余韻をもたらしている。レーンのこの事件で感じた絶望が読後、時間が経つにつれ心の中に染入るほどに降り積もる。 読後の今、この作品を振り返ってみると、これはエラリー・クイーンが書いたとは思えないほど、暗い物語だ。家庭内の悲劇が事件によって暴かれる。これは正にロス・マクドナルドではないか。もしかしてロスマクの諸作品はこの『Yの悲劇』が下敷きとなっているのではないかとも取れる。 犯行の動機があまりに短絡的でありながら純粋かつ無邪気なところがこの驚愕を際立たせる。そして今現在、日本各地で起こっている衝動的殺人のほとんどがこの『Yの悲劇』と同様の動機であることに思い当たる。だからこそ現代でも燦然と輝く傑作なのか。 そして私はこれは未完の傑作だと考える。なぜなら冒頭のヨーク・ハッター氏の真相が明かされていないからだ。ヨーク・ハッター氏は果たして自殺だったのか、それとも?なぜヨークは失踪したのか? まだ『Yの悲劇』は終わらない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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非常に独特のリリシズムを持った作家だ。己の美意識に従ったその作風は胡散臭さと紙一重のバランスで、ぎりぎり読むに値する、そんな危うさを感じた。自作の歌詞まで載せているくらいだから、気障と云ってもいいだろう。
そしてこれは自身が相場の世界で大被害を被った経験を活かした作品であり、主人公梨田は作者自身が十二分に投影された姿であろう。そう、この作品は作者の過去との訣別のために書かれた、そう断言しても間違いではない。 本作の舞台となる相場師の世界。ありもしない資金を投じて、株価吊り上げを行う様は、某IT企業の若い社長が世間に株価暴落ショックをもたらした例の事件を思わせる。そしてこれはその事件が起こる10年も前、平成6年に書かれた物。更に作中の時代は遡り、バブルの時代の物語である。ここにこんな教訓がきちんと書いてあるのに、同じ事が繰り返される。人間は愚かというか、金の魔力ゆえというか。 そしてこれらの世界はやはり作者がその世界に身を投じているからこそ書ける物で、かなり独特の雰囲気に満ちている。単なる堅気では書けない人を見る目、世界を見る目で以って書かれた世界だ。作者自身が作中で主人公が独白する“向こう側の世界”に身を置いた、もしくは知る者であることを示唆している。 こういうリリシズムに満ちた作品はチャンドラーを初め、国内作家の志水辰夫氏、大沢在昌氏、原尞氏など、私はかなり好きなのだが、この作品に関しては読中、なんとも云えないもやもやとした感じが拭えなかった。これは何だろうとずっと考えていたが、ようやく解った。 まずこの作者の文体についてだ。 美しい文体というのはどこか作者の自己陶酔と紙一重のところがある。自己陶酔で書かれた文章というのは、夜に書かれたラヴレターのような文章だ。つまり一夜明けて読むとその時の熱意が白々しく思える、陳腐な文章だ。 で、この作家の文章はというと、美文と自己陶酔の境目を右往左往している、そんな印象を受けた。時に読者を酔わせもするが、白々しくも感じさせたりもする。自らの人生経験で培った美意識を、出来うる限り詰め込んでいるのが、文面からひしひしと伝わってはくる。 これが合うか否かで読者の印象はガラリと変わる。私にはどうも読みにくいように感じた。 そしてこの主人公梨田、この男の造形である。相場の世界で他人の金で一儲けする裏家業に身を浸す男である梨田は真に卑しき街を歩く者なのだが、終始どうにも共感できない人物像だった。 矜持を持ち、こだわりを捨てずにかつての恩人の弔いのために、再び相場の世界に身を投じる。かつて行けなかった犯罪に手を染める向こう側に行く事を覚悟し、自分の信じる道を突き進む。 しかし、作者が意図して創作した上記のような設定は認めつつも、どうしても何かが違うように感じてならなかった。そしてそれはこの男はただ人から見られる外見を気にしているに過ぎないことに気付いた。 かっこ悪いところを見せない男であり、しかもそれは読者の前でもまたそうなのだ。卑しき街を行く男どもの話を読むのは私は大変好きである。彼らには自分にはない矜持とか守るべき何かがある。しかし私が彼らを好きなのはそれだけではなく、彼らが一様に弱さを秘めており、また人前で無様な姿を見せたりするからこそ共感できるキャラクターになっているのだ。減らず口を叩いたり、度胸がいい割には腕っぷしが強くなかったり、もしくは非常にだらしない男である、生活欠陥者とでもいうべき人間だったり、女の前では弱かったり、そういう完璧さを覆す欠点が読者にとってそのキャラクターに親近感を抱かせるのだ。 しかし本作の主人公梨田という男にはそれが一切ない。腕っぷしは立たないかもしれないが、やられる前、いや傷つく前に友人のヤクザに助けられるし、一文無しになったゼロからのスタートだといっても口八丁手八丁で金のないところを周りに悟らせない。また金が無くなっても身に着けている物は高級ブランド品ばかり、車はポンコツ車などには乗らない。つまりなんとも嫌味な男なのだ。 これは作者自身が相場の世界という情報や風評を重視し、他人への信頼を何よりも気にする世界に身を浸からせた男だからこそ外見を気にするのだろうが、なんとも気障ったらしいな、と鼻につく感じが最後まで取れなかった。 そして唐突に迎える物語の終焉。冒頭のエピソードで語られる梨田が服役3年に処されるまでの話が語られるかと思ったら、そうではなく、自分が囲った女の手記で物語は閉じられ、繋がりが放置されたままで投げ出される。 つまり作者は結末は既に書いてると云っているのだろうが、これがなんとも呆気に取られる閉じられ方なのだ。つまりミステリとして読んだ時に、一番要となる“どうしてそうなったのか?”という核心の部分をすっぽかしたままなのだ(ちなみに本作品、’95年版『このミス』第9位である)。結局、読者はこの作者の自慢話を、作者の美学を延々と聞かされただけなのか。読後の今、そんな風にしか思えない。 作中、一人の女性が主人公に対して云う台詞がある。貴方は自分の世界に酔っているだけだと。正にそんな作品だ。残念ながら私はその領域まで酔えなかった。 |
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ジョン・コーリーシリーズ4作目に当たる本作は正に狂信者達の戦争とも云うべき皮膚泡立つ恐ろしい物語だ。
21世紀という現代において先進国が自国内で何千人単位という犠牲者を出したテロは2018年現在でも2001年に起きた9・11同時多発テロ以外起きていない。それは“世界の警察”を自認するアメリカにとって屈辱的なことであり、なおかつ国民レベルで世界に対する、いや正義に対する見方・考え方が変わった瞬間であった。 多くの人が直接的・間接的を問わずトラウマを患った未曾有の危機によって本書に書かれている権力者達が精神不安定の状況下でこのような世迷言のような、独善的な計画を発案し、実行に移そうとしていても何ら不思議ではないかもしれない。つまりビンラディンは人道的にやってはいけないレベルのテロ行為をやってしまったのだ。 本作のタイトルとなっている「ワイルドファイア」とはレーガン政権時代に考案された対テロ報復作戦である。「全てを焼き尽くす燎原の火」という名のこの作戦はアメリカがテロを受けた際、自動的に核ミサイルが発動してイスラム諸国の主要都市―油田及び主要港湾都市を除いた―を襲撃するという物だ。 そして本作で掲げられている<プロジェクト・グリーン>とは9・11同時多発テロを受け、アメリカが次のテロを受ける前に自身の手で核を自国のどこかで爆発させ、大義名分を得た上でイスラム諸国を襲撃するという、権力者達の狂った作戦なのだ。 そしてこの<プロジェクト・グリーン>の首謀者が石油会社を経営するベイン・マドックス。自身かつて合衆国陸軍に属し、戦争も体験し、中佐まで上りつめた男だ。 殺人を主にした犯罪を良心を痛めることなく出来、その自らの行為に関して警察やFBIに勘ぐられようが眉一つ動かさず、汗一粒も垂らさない、大木のような図太い神経を持った男だ。いや、その辺の善悪に関する感覚が麻痺しているといった方が正しいかもしれない。そしてこの男にコーリーはだんだんと惹かれていったりもする。同じ穴の狢としての匂いを感じるのだ。 さて作者は冒頭のはしがきでこの「ワイルドファイア」は作者の創造による作戦である事を述べているが、同時に類似の作戦は作られるべきだとも述べている。このコメントにはかなり幻滅した。結局デミルもアメリカ至上主義者の1人に過ぎないと解ったからだ。 本作で滔々と述べられる<プロジェクト・グリーン>が及ぼす影響は、アメリカにとって有益な事を並べ連ね、他国の事は全く頓着していないことが非常に特徴的だ。核を使うことを是とする作戦は作ってはならないと私は強く主張したい。核使用後の波及効果はシミュレーションだけでは計り知れないものがあると思うからだ。そういう類いの作戦立案を支持するデミルの姿勢は、ここに出てくるカスターヒル・クラブの歴々となんら差がないのではないか?そしてこれについてはコーリーも心中で述懐するように、一瞬この作戦を止めるのを躊躇する。もしかしたらこの小説はデミルによる、イスラムへの反逆に対する国際的指示を得るであろう開戦プランの提言なのかも、とまで思ってしまう。 思えば『王者のゲーム』で現れたジョン・コーリーの敵アサド・ハリールが中東諸国から来たテロリストであることは今となってみれば非常に暗示的だった。 そしてその作品が本国アメリカで出版されたのがなんと2000年。9・11のわずか1年前である。 テロ発生後、デミルはこの偶然性に天啓を受けたに違いない。このテロこそ自分が次に書くべき題材だと。そしてこれこそ我が残りの生涯を通じて語るべき物語なのだと。そこでデミルは『王者のゲーム』の後、『アップ・カントリー』を上梓し、自身も参戦したベトナム戦争の心の傷痕を清算している。 そしてその後は、今までどちらかと云えばシリーズキャラクターを立てず、単発物を書いていたデミルにしては珍しくジョン・コーリー物ばかりを書いており、創作姿勢が変化している。このことからもデミルはこの先ジョン・コーリーシリーズしか書かなく、ジョン・コーリーを通じてこの一連のATTFシリーズを自らのライフワークとして定めたのではないだろうかという推測が成り立つ。 穿った見方をすれば、情報通のデミルのこと、もしかしたらこれは偶然ではなかったのかもしれない。『王者のゲーム』を著す際の取材でオサマ・ビンラディンを筆頭とするムスリム系テロリストの存在は知っていたのは必然だろうし、逆にそれを題材にして『王者のゲーム』を著したのかもしれない。そして当初はアメリカへの警鐘の意味合いを込めた作品だったはずだ。しかしそれが警鐘を超え、現実の物となってしまった。 さてデミルの創作意識への推測はここまでにして本作の内容に移ろう。 今まで『王者のゲーム』、『ナイトフォール』で私が散々不満を漏らしていたデミルの創作作法については今回も変わらない。物語の序盤でATTFの捜査官ハリー・ミューラーが<カスターヒル・クラブ>の潜入捜査に失敗して拉致されるあたりで、本作の物語の肝である<プロジェクト・グリーン>と「ワイルドファイア」の内容について早々に詳らかにする。 しかしこれは後々のジョンとケイトのベインとの対決シーンの緊張感を高めるのに、この長々としたベインの講演を読まされるよりもよかったように感じた。今回の物語の展開としてはこの手法は有益に働いていた。 そして何よりも今回はカタルシスがきちんと得られた。敵役のベインとはきちんとケリがつくし、何よりもシリーズを通してのジョンの天敵テッド・ナッシュとの決着も着くからだ。前2作で感じた、どうにも宙に浮いたような結末に比べるとやはり数段にいい。 そして主人公のジョン・コーリーは相変わらずのスタンドプレイぶり。とにかく全ての上司の命令に背く。つまり上司の命令と反対の事をすれば、真相に行き着くと云わんばかりだ―まあ、実際そうなのだが―。 そして減らず口も健在。というよりも更に輪を掛けて饒舌になっている。よくもまあ、ケイトはこんな男と付き合えるものである。物語の主人公としては痛快極まりないが、同じ仕事の同僚、部下としてはお金を払ってでも遠慮ねがいたい人物だ。 しかしデミルのジョンを描く時の筆の冴えは健在だ。もうノリノリである。随所に盛り込まれたジョークにまたも声を出して笑ってしまった―特に「カタツムリだけは入れてくれるな、アンリ」は傑作!―。 相棒のケイトもこれほど辛抱強く、またジョンに同調していとも簡単に規則を破っていたかしらという風に変わってきている。作中でも9・11以後、ケイトはセラピーを受け、変わったと述べているが、二人のコンビ振りが更に躍動感を増したように思う。 余談だが、アメリカ国内における核もしくはテロリストの脅威がテーマであることで、なんだかドラマ『24』を観ているような錯覚に陥った。とはいえ、ジョンはキーファー・サザーランド演ずるジャック・バウアーとはイメージが異なる。しかもあのドラマと違い、こちらは1泊1200ドルもする高級コテージで寛ぐ余裕すらある。 さて前にも書いたように、本作では9・11同時多発テロが色濃く繁栄されているが、興味深いのはあのテロの後、アメリカ人の心境・生活に何をもたらしたかが随所に織り込まれていることだ。 頭上を飛ぶ飛行機の機影に敏感になる、空港のみならずホテルや高層ビルでは金属探知機が常設されている、毎日どこかの葬式に出席していた、等々。これらはデミルが書かなければならなかった事実なのだろう。そしてそれはアメリカ国民にとっても読むべき話なのだろう。明日に向かうために。 また2006年に発表された本書ではイラクに大量破壊兵器があるなどと信じていないという記述があり、ニヤリとさせられる。 しかし同時に石油価格がこの<プロジェクト・グリーン>発動後、1バーレル当り100ドルまで急騰するだろうと述べられているが、実際はその予想を遥かに上回る130ドルという価格まで跳ね上がった(2008年当時)。 もちろん現実社会では核攻撃など起きてはいない、そういった状況での原油高騰であり、これはさすがのデミルも予想外だったに違いない。 とまあ、上下巻合わせて1,080ページ強のこの物語には、こんな風に書いていけばいくらでも書きたいことが出てくる。それほど本作には色んな内容が盛り込まれており、読者を飽きさせない。 私は本作を読んだ時に、ジョン・コーリーシリーズはこれで終わりではないだろうかと思った。 しかし、そうではないことに気付いた。なぜならジョンの最大の敵役アサド・ハリールがまだ残っているからだ。次にこのハリールが復活してジョンを脅かすのかどうか、楽しみにして待っていよう。 |
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エラリー・クイーンが当初バーナビー・ロス別名義で世に放ったいわゆる悲劇4部作の第1作。名探偵ドルリー・レーンシリーズの幕開けである。
ドルリー・レーンとエラリー・クイーン。作者クイーンはこの2人の名探偵を実に特徴付けて設定している。 犯人が確定する絶対的な証拠を掴むまで絶対に真相を話さない、お互い引用癖があるという共通点はあるものの、片や大学卒でミステリ作家でもエラリー・クイーンは若さ故に先走る事があり、書物収集家でもある典型的なインテリタイプ。 片やレーンはかつてシェイクスピア俳優として名声を馳せた人物で、常に冷静に事件を見つめ、元俳優という職業を活かし、変装までも行って独自で捜査を行い、また演劇と犯罪とを結びつけて考える、そして耳が聞こえないというハンディキャップを負いながらも読唇術で会話ができ、なおかつ推理に浸るときには目を瞑り外界からの情報を一切シャットダウンすることができる深慮黙考型の探偵だ。古典ミステリの観点から云えば、このドルリー・レーンこそ昔ながらの名探偵像に近いと云える。 またこの作品、国名シリーズと違って、非常に古めかしい装いを呈している。 なにしろ冒頭は山奥に建つイギリス様式の、個人劇場を備えた豪邸ハムレット荘を訪ねることから始まるのだ。ニューヨークに住居を構える都会型探偵エラリーとは大違いの舞台設定だ。 事件は衆人環視の満員電車の中での殺人、また乗客の多数乗った連絡線からの墜落死とモダンな感じはするものの、レーン氏の風貌、文体などからもこれぞ古典本格ミステリといった風合いが漂う。こういうガジェット趣味は現代の新本格ミステリに通ずる趣向であり、読んでて非常にワクワクした。 さて読者への挑戦状は挿入されていないものの、国名シリーズ同様、犯人を当てられるだけの材料は真相解明には全て揃っていた。 そして本作が発表された1932年という年は他にも『ギリシア棺の謎』、『Yの悲劇』、『エジプト十字架の謎』というクリーン諸作の中でも代表作と呼ばれる4作品が発表されたクイーン最盛期の年である。 本作では殺人事件は3つ起き、それぞれの舞台は電車、定期船、電車と乗り物であるのが特徴。装飾は古めかしいが、殺人現場は非常にモダンである。 そしてこれら「動く密室」を設定しているのが、国名シリーズとは一線を画するといったところか。そして犯人逮捕シーンも最後の殺人の舞台となった電車内で行われる、劇的趣向が施されているのもやはり主人公レーンが元舞台俳優であることを意識しての事なのかもしれない。 本作のタイトル『Xの悲劇』の「X」の意味について、作者はきちんと答えを用意している。 その正体はなるほどね、という軽い意味合いのものではあるが、雰囲気や字面だけで題名をつける作品が多い中、こういう誠実さは非常に好感が持てる。それが果たして「悲劇」になったのかどうかは別にして、記憶に残るタイトルと正体であるのは間違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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薬師寺涼子シリーズも6作目。最近はパリ、香港、バンクーバーと海外を舞台に活躍する話が多かったが、今回はお膝元の東京を舞台に活躍する。
そのせいか、どうもコレといった売りがないような気がした。登場人物も泉田&涼子コンビを取り巻く室町由紀子、岸本、マリアンヌにリュシアンヌと定番キャラクターが全て登場するが、それに加えて何かという物がない。 今回の敵役である黒林道義も断片的に登場する物の、前作『黒蜘蛛島』に出てきたグレゴリー・キャノン二世のような特徴というか外連味がない。東京都内で起こる人喰いボタル、ネズミ、ムカデの大量発生に関する真相も単純に黒林氏の研究成果によるもので終わっており、展開としては非常にストレートである。捻りがあるとすれば、ゼンドーレンで起きた防衛大臣誘拐事件の真相ぐらいか。 今回はスケールダウンしたと云わざるを得ない。そして前作の感想にも書いたが、やはり涼子が無敵すぎ、クライマックスが派手なだけで、スリルがない。シリーズも6作を数えるようになったからには、そろそろ涼子を苦しめるライバルの登場が必要ではないだろうか? あと泉田と涼子の間の進展を見せるなど、シリーズの転換を次回は期待したい。 |
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天童荒太氏のデビュー作。登場人物全てがそれぞれに孤独を抱えている。その孤独感の描写が寂寥感に溢れており、読んでて痛い。
全面改稿した上での文庫化なので、原本とどれだけ違い、また質が上がっているのか解らないが、読んでてなんとも魂の抉られる思いがする、そんな作家だ。情念の作家とでも云おうか。 上に書いたように、この作品でテーマになっているのはそれぞれの人間が抱える孤独。ひとりではないんだけど、結局ひとりなのだというあの感覚だ。 家庭内での孤立、学校内での孤独、社会に対応しきれない孤独、群集の中の孤独。それら色んな種類の孤独をこの作者はみなが表現したいように表現している、そんな風に感じた。 読んでいると主人公や各登場人物が抱える孤独が痛烈に胸に突き刺さってくる。平静な気持ちで読んでいられない。リレーのバトン渡しのエピソードなど、人と人との繋がりについて語るのに長けているように感じた。 読中、よくよく読むと、各登場人物の造形はどこかで見たタレントや歌手を想起させるし、セリフなどは2時間サスペンスドラマの脚本のように、安っぽさを感じさせるのだが、殊にこの作者が本当に語りたい事に触れると、その筆致は非常に無防備なまでに心情が剥き出しになってくる。 そして本作のサイコ・キラーの異常な性癖・生活の場面や、彼が被害者に施す残虐な行為には熱がこもり、こちらまで痛みが届く思いがする。この身を切り裂かれんばかりの迫真性は一体何なのだろう? 表紙カバー袖にある著者近影の写真は、読者に挑まんばかりにギラギラしている。描写のエネルギー、いやそうではない。筆に込められた思いの丈の伝達力の強さ、これこそがこの作者の特質であり、唯一無二性なのだ。 発表されたのは1998年。この頃は1989年に日本で刊行された『羊たちの沈黙』から派生した一連のサイコホラー・サスペンス物が続々と書かれた時期で海外ミステリに目を向ければ、ハイスミスの諸作がどんどん訳出されており、しかもこの年の『このミス』における日本ミステリ部門1位は桐野夏生の『OUT』である。2位は貴志祐介の『黒い家』でもあり、やはりこの頃はサイコサスペンス全盛だったのだなぁと感慨深い。 私はこれらの作品を未読なのだが、この天童氏が描くサイコパスは、厳格な父親に育てられた母の、不倫であるにも関わらず、両親がいると信じることを強要された狂った親の犠牲者であり、この子供の頃の経験が後の趣味嗜好性に影響を与えるというのがこの時代で既に描かれている。現在の抱える子供の教育問題―特に幼児虐待の根っこ―はこの時に既に顕在化していたのか。 そして特筆すべきはこの事件が非常に日常的な風景の中で描かれている事だ。切り裂きジャックのように、犯人は無作為に女性を襲うのではなく、深夜コンビニを利用する若い女性をターゲットにしている。買い物の内容を何日も確認し、独り暮らしであることを確信する。尾行して家を探り当てるとずっと見張り、どんな暮らしをしているのかを自分の物とする。しかも東京という街の匿名性を熟知しており、怪しまれても笑顔で相手を和ます落ち着きも備えている。現代でいうストーカー犯罪者である。 更にその家は、女性を連れ込んでも、死体を連れ出しても隣近所からは解らない、1階に車庫を備えた住宅である。もしかしたら現在起きている犯罪のほとんどはこうしてなされているのかもしれない、それほどリアルで特殊性がない。 また題名の「孤独の歌声」も、単に読者を惹きつける為に、小洒落たように付けられているわけではなく、ちゃんと意味がある。本作ではアマチュア歌手の芳川潤平の声が科学的に分類されると「孤独」を表現するグループに入るということから来ている。しかもそれは淋しさを嘆き悲しむ声ではなく、淋しいけれども独りではないよと元気付けられる、勇気付けられる声だという物だ。 私はこのエピソードを読んだ時にすぐに尾崎豊が頭に浮かんだ。それ以降、潤平は尾崎だった。 友達が眼の前で犯罪者に連れ去られるという幼少期のトラウマを抱えた主人公朝川風季は、またこれも『羊たちの沈黙』のクラリスを想起させる。 だからしっかりと書けているのだけれど、どこか借り物という気持ちが拭えない。 しかし、この作者には作家としての何かを確実に持っていることが解る作品だ。それは後の活躍が証明している。 世評高い『家族狩り』、『永遠の仔』に比して、埋もれがちな本書だが、この作者が拙いまでも描いた孤独のメロディ、決して読んで損はしないと思う。 事実、私は愉しんだのだから。 |
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とにかく今回の作品は、いきなりクライマックスから始まる。今までのクーンツ作品と違い、今回はなぜトミーの許に呪術を施されたような人形が送りつけられ、彼を襲うのか、その経緯がまったく解らないまま、最終章の前章まで逃亡劇・闘争劇が続く。
訳が解らない物ほど怖い物はないということだろうか、今回のテーマは。 さて今回の主人公トミーは両親と2人の兄と共にヴェトナムから逃亡してきた移民だが、歳の離れた彼らと違い、ヴェトナム人であるアイデンティティを固持せず、あえてアメリカ人として同化しようとしている。ファン・トラン・ツォンから改名し、アメリカ人的な名前、トミー・ファンと名乗り、家族の経営するベーカリーを手伝わず、医者にしたいという親の期待を裏切り、大学でジャーナリスト科を専攻し、新聞記者となり、作家業へと転身する。しかし、そうやってヴェトナム人であることを捨てようとすることで、家族と疎遠になることもまた寂しく思っている、そんなありきたりな移民系アメリカ人だ。 クーンツはかつて日本人を作品に登場させた事があり、日本人の描写、日本文化に関する叙述の詳細さに驚嘆した覚えがあるが、今回のヴェトナムに関しても恐らくその辺の詳細さに関しては同様だろう。ヴェトナム人が好むソウル・フードに関する叙述はそのまま日本人が抱く感覚でもあるし、またヴェトナム人が非常に勤勉な民族であること、また圧政からの反骨精神から根っからの闘士である点など、凡百の移民と思われたトミーが何故この物語の主人公に選ばれたのか、つまりこの訳の解らない苦難に打ち克つための根拠がこのヴェトナム人という設定に込められている。 またこの怪物がなぜトミーの許に送られることになるのかも、この設定に拠っているところが大きい。 また物語の前半でトミーの相棒となるデラ・ペインなるエキセントリックな女性も、なかなか魅力的ではある。最初はその飛躍した会話、性格から作りすぎている感が強かったが、トミーが彼女の一見突拍子のない会話の中に彼女特有の哲学と真実を見通す目から話されている的確さを悟るあたりで、彼女の人と成りが腑に落ちてくる。 このデラ・ペインは先に読んだ『対決の刻』に出てくるスペルケンフェルター姉妹の原形のような人物像である。なぜこのような“作られた”ようなスーパーウーマンが出てくるのか、それは最後に明らかにされる。 そして犬好きのクーンツ、本作でもまた犬が出てくる。スクーティーというデラが飼う黒いラブラドール・レトリーバーだ。 しかし、本作では『ウォッチャーズ』や『ドラゴン・ティアーズ』、『対決の刻』のように主役、もしくはキー・プレイヤーのような役回りではなく、あくまで物語にアクセントを加える道化役に留まっているように感じたが、やはりクーンツ、最後にとんでもない設定を用意してくれた。 ところで作中、日本人は毎日豆腐を食べるから前立腺癌の発症率が低いという叙述があるが、本当だろうか? 確かに日本人は前立腺癌に罹って死ぬという話はあまり聞かない。本書に拠れば男性の死亡原因の3、4番目ぐらいに位置するらしい。アメリカに限った話か、国際的な統計か解らないが、なかなか面白い挿話である。 しかし、今回の訳はところどころ首肯せざるを得ないおかしい箇所があった。まずトミーの購入したコルベットの色を“明るいアクアメタリック”と訳すのはどうかと思う。これはそのまま英語をカタカナ表記すべきだろう。 “フーティーやブロウフィッシュ”は明らかに”Hootie&The Blowfish”のことだし、“ショウガクッキー”も“シュレック”に出て来た“ジンジャークッキー”のことに違いない。 訳者は誰かと思ったら、なんと海外文学に造詣が深い風間賢二ではないか!取材を怠ったか、さらには下請けに出したとも誹られてもおかしくない怠慢さである。 またこれを校正した上で出版した扶桑社の姿勢もまた眉を潜めざるを得ない。出版不況・海外ミステリが売れないと嘆かれているが、訳者・出版社がこんな調子では、現状打破は望めるべくもなく、それも無理からぬと気がせんでもない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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国名シリーズ5作目でシリーズ中最高傑作と名高い本書。その導入部はエラリーが父親の出張旅行に同行している最中に出くわす猟奇的な殺人事件というショッキングな幕開けだ。
しかも今回クイーンは云わば「動のクイーン」と称せるほど、クイーンが動く。物語の舞台が変る。最後の犯人の追跡行はアメリカ東部の主要都市を車、飛行機を駆使して不眠不休の如く、続けられる。 また今までのシリーズのように、事件をしっかり調査して、並べられた証拠・事実をじっくり吟味する趣向と違い、犯人と目される人物の名前は出ており、それが起こす殺人を如何に未然に防ぎ、犯人を捕らえるかという、特殊な設定になっている。 今回のテーマは「見立て殺人」ということになるだろうか。T型の十字架に磔にされた首のないT型の死体。しかも場所はT字路もしくは頭文字“T”のトーテムポール。おまけに殺害現場にはどちらとも大きく「T」の殴り書きが。 云わば『Tの悲劇』とも副題がつきそうな内容だが、物語半ばで明かされるTの真相は意外にも呆気ない。その真相が得られるまでエラリーはT十字架、ギリシア正教で使われていたギリシア十字架の前に存在していたタウ十字架、すなわちそれは昔エジプト十字架と呼ばれていたという知識を披露し、事件の裏に宗教的な匂いを感じる。 これはヤードリー教授に勘違いを指摘されてしまうのだが、これがちょうど物語の半分辺りの2章の終わりで覆されるのが個人的には惜しいと思った。 しかしこの“T”の意匠については解決編で別の解答が得られるが、よくありがちな真相、つまり私が想像していたものであったのが残念。 さて今回の読者への挑戦状はかなり後の方に出てくる。残り50ページ足らずのところで挿入される。しかし前述の通り、今回は犯人が解っているため、今回は読者への挑戦状はないかと思っていたので、正直びっくりした。 実は私は2章が終わった段階である人物を犯人と目していた。その直感的な指摘は、その時点で物語を読み返すと確かに事件の時期とその人物の行動・そして身体的特徴が一致したこともあり、かなりの自信があったのだが、挑戦状を待たずして、その人物が犯人でない事が解ったことも、今回は挑戦状はないのでは?と思った次第だ。 で、結果はというと今回も敗北。これは素直に認めざるを得ない。なにしろあれだけ明確にあの人物が犯人であるという証拠を見せつけられたからには、ぐうの音も出ない。 天晴れ、クイーン!である。 が、しかしそれでも私は解決編を読んでも残る疑問はあると苦言を呈したい。 まず第一になぜトマス・ブラッドは犯人とチェッカーをやるために、家族のみならず、執事ら使用人らも含めて人払いしたのか? もう1つはスティヴン・メガラの殺害について、桟橋にあったボートを盗んで犯行に及んだ事までは解っているが、どうやってその桟橋まで犯人は侵入できたのか?まだ警察はブラッドウッド界隈を見張っており、メガラが犯人をおびき寄せるべく、警察に警護を解くようにいった事実は、この犯人は知りようがないではないか。つまりこの犯人はそれまでブラッドウッドのどこに潜んでいたのかが全然解らない。 今回の犯人は犯行現場からかなり遠方にいたはずである。どうやってメガラ周囲の動向が知りえたのか、全く不明だ。中にスパイがいた、もしくは定期的に連絡を取っていたという記述は一切なかった。 他にも何か据わりの悪さを感じるところがあるが、主に上の2点が非常に気になった。 今回の国名シリーズは今までの国名シリーズと違い、非常に表題に挙げられた国を意識した作品になっている。今までは舞台となった場所にその国名が関せられただけで、国名シリーズといいながら、その国ならではの特徴があったとは決して云いがたい。 しかし今回はエジプトに関する叙述が横溢している。発端のエジプト十字架に関する考察から、古代エジプトの文化・風習など、それらが物語に一種オカルト風の味付けをしていることが本書の最大の特徴だといえるだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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中堅どころの建設会社に勤めるOL若竹七海が突然社内報の編集長を仰せつかり、しかもその社内報に小説を載せたいという無理難題を命じられて、大学の先輩に助け舟を出したところ、その友人が匿名で短編小説を連載する事に協力する事になる、といった、これまでにないアイデアで纏められた連作短編集。
若竹七海が編集長に任ぜられたのは1年間で、各短編もそれぞれその時の季節に合わせた内容になっている。それらの中身はその匿名作家が自身の体験に基づく話で、先輩や街で出会った人から聞いた話に隠された真相を解き明かすアームチェア・ディテクティヴの体裁を取っている。 まず創刊号の4月号では花見を舞台に展開する「桜嫌い」。 その次の「鬼」はちょっとぞっとする話だ。 一転して6月号に掲載された「あっという間に」は、商店街の草野球チームが織成す下町風味のミステリ。 社内報も7月ということで怪談めいたミステリが登場。「箱の虫」がそれ。 そして続く8月号も怪談仕立て。というよりもこの「消滅する希望」はホラーそのものである。 9月号の「吉祥果夢」も「消滅する希望」を引き継ぐかのような幻想的なミステリ。 10月号掲載の「ラビット・ダンス・イン・オータム」は持病の療養で有意義な放蕩生活を満喫していたぼくが社会復帰をするところから始まる。 11月号は「写し絵の景色」。 12月号の「内気なクリスマス・ケーキ」はやはり定番のクリスマス・ストーリー。 新年を迎える1月号では「お正月探偵」が掲載。しかし題名とは裏腹に結末は重く、暗いものだった。 2月号の「バレンタイン・バレンタイン」は今までの構成とはガラリと変え、作品のほとんどが会話文で構成された黒崎緑氏の『しゃべくり探偵』を思わせる作品となっている。 最後3月号は「吉凶春神籤」。 まず短編集であるからには短編に関する感想から述べよう。 設定が社内報に掲載する短編であることから、作者はプロローグでの先輩との往復書簡でも書いているように1編原稿用紙30~40枚程度という制限を課しており、これが逆に各作品のクオリティにバラツキを与えている。特に「写し絵の景色」などは明らかにこの枚数では足りないような内容であり、中編向きである。また全編主人公の「ぼく」の閃きが逆に謎解きの性急さを感じさせた。 ちょっと気になるのは短編の中には展開するそれぞれの登場人物たちの立ち位置が解りにくいものもあった。1作目の「桜嫌い」の桜木荘の間取りと各登場人物の配置、「箱の虫」の箱根のロープウェイにおける乗客の位置関係や交通機関の連絡関係など、文章のみではかなり把握しづらい。 ただ全体を通して文章に伏線や布石をさりげなく散りばめる手腕は素直に上手いと思う。風景描写や人物描写として語られる一文が実に謎解きに有機的に働くのは読んでて小気味よかった。 収録作品中、ベストはやはり「内気なクリスマス・ケーキ」で、その他「あっという間に」と「お正月探偵」がそれに続くか。 「内気なクリスマス・ケーキ」はシクラメンの持つ性質の二面性といい、見事に引っかかってしまった。これこそこの作者のさりげない描写が十分に発揮された成果であろう。往々にしてクリスマスを題材にしたミステリにはハートウォーミングなストーリーが多いが、これもそう。色々な仕掛けが随所に散りばめられた好編。 「あっという間に」はオーダーメニューが相手チームに渡す情報のヒントというのまでは解ったが、この解答が思いつかなかった。 「お正月探偵」はざらりとした読後感が印象的。夜中に架かってくる電話という導入部から暗鬱な話だと連想されるが、内容はぼくの素人尾行の顛末。坊野という元野球部のスポーツマンタイプの男を設定し、カラッとした内容で物語は展開するが、明らかになる真相は逆にその軽妙さとのギャップがボディブローとして重く効いてくる。 「鬼」はぞっとする話だが、この人の心に潜むざらりとした感情を描くことこそ、この作者が持つ本質なのかもしれない。 逆にワースト2を云えば「ラビット・ダンス・イン・オータム」と「バレンタイン・バレンタイン」の2編となるか。 ワーストとは特別悪いという事ではないが、前者は謎は謎でもミステリというよりもクイズだろう。しかもある程度の知識を持っていないと解けないクイズで、非常に高度。まあ、納得はいくが。 後者は中身としては軽いミステリ。特に最後の設定は入らないでしょう。 その他佳作として、ミステリならぬ幻想小説仕立ての「吉祥果夢」が印象に残った。幻聴は幻聴として起こるという前提での謎解きで、この設定を高野山という霊験あらたかな地を舞台にしていることで、納得させている。最後の結末はちょっとやりすぎかなとも思ったが。 とまあ、上に書いたように正直な感想を云えば、各短編それぞれの謎のクオリティと、物語としての面白さには出来不出来の差がはっきりあり、全てが手放しで賞賛できるものではない。 しかし、この一種未完成とも筆足らずとも思える短編が最後になって一枚の絵を描く時、それらが単なるある1つの事件を告発する材料に過ぎないことが解る。そういった意味で云えば、やはりこの短編集は普通の短編集にはない1つ秀でた何かを持っているのは認めざるを得ない。 毎回わざわざ社内報の目次が載ることに最後に各短編が1つに繋がるヒントが隠されているであろう事は解ったのだが、それでもやはり私の眼はその謎を解き明かすには節穴だった。 そして全体を通して判明するこの短編集の意図は、やはりここでは後の読者の事を考えてあえてどんな物かは詳らかにすべきではないと思うが、かなり魂の冷える話だ。少なくとも私はそう感じた。 これほど読書前と読後の印象が変る作品も珍しいのではないか? 日常のなんでもない謎、あるいは謎ともいえないちょっと理解しがたい事象を主人公のぼくが独自の視点から思わぬ解答を披露する軽妙洒脱なミステリ、これが読中の印象だったが、最後の編集後記ならびに匿名作家からの手紙を読み終わると、闇の奥底に人の悪意なるものが息を潜めて狙っている、そんな冷えた読後感を得た。 冒頭でも話したとおり、これらミステリ短編が匿名作者自身の体験に基づく内容であるからこその題名『ぼくのミステリな日常』だというのが大方の感じ方だろうが、読後の今、私は実は匿名作者にとって本当の「ミステリな日常」が始まるのではないかと思えてならない。それも怖い意味で。 ところで作中で出てくる「ぼく」のニックネーム、「ちいにいちゃん」がどうしても解らないのだが、誰か解る人いるだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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東京創元社によるドイルコレクション第4集。
今回は非常にバラエティに富んだ内容となっているのが特徴だ。それぞれテーマがボクシング、狩猟、クリケット、海賊物とに分かれている。 順を追って各編に触れていこう。 まず最初の4編はボクシング小説。「クロックスリーの王者」は苦学生が学費を稼ぐためにボクシングの野試合に出るというもの。 次の「バリモア公の失脚」は同じボクシングを扱いつつも、ちょっと毛色の変わった内容だ。 ドイルのホームズ物を除く短編の特徴として怪奇譚が多いのが挙げられるが、これにボクシングをブレンドしたのが続く「ブローカスの暴れん坊」。 最後の「ファルコンブリッジ公―リングの伝説」はボクシングに男女の憎悪を絡めたもの。 ドイルの手によるボクシング小説というのは意外に思えるが、この手の格闘小説を書くというのは実はホームズシリーズにおいても第2部の事件の背景を語る物語でこのような話はあったから、なんら不思議には感じなかった。むしろそっちの方が水を得た魚のような躍動感溢れる筆致で書いていた印象がある。 「クロックスリーの王者」もボクシングに試合に出るまでの顛末から、ボクシングの試合描写の詳細さまで、手を抜くことなく書いている。結末もモンゴメリーの男意気を上げるようなもので爽快だ。 2編目の「バリモア公の失脚」は宿敵を失脚させるために甥が選んだ方法というのが女装して、バリモア公ならびにその用心棒を打ちのめすという趣向がウィットに富んでいる。 「ブローカスの暴れん坊」はやはりこれはよくあるパターンであると思わざるを得ない。 「ファルコンブリッジ公」も謎で引っ張るだけになかなか面白かった。 これらに共通しているのが減量・トレーニングの様子、そして負けても相手を讃えるフェアプレイの精神、倒れた相手には手を出さない騎士道精神といった英国紳士の気高さが表されていること。これらが選手の内面にも掘り下げられており、登場人物とともに試合前の緊張感、不安感を感じることが出来る。特にボクサーの肉体美を讃える描写が必ず挟まれており、ボクシングに対する思いがなみなみならない事を行間からも窺わせる。そして各編ともテーマはボクシングなれど設定はヴァラエティに富んでおり、逆にこういうのがドイルも書けるのかと新たな発見をした思いがした。 続く「狐の王」は狩猟小説。 狐狩りという狩猟をモチーフに有閑青年の教訓話が繰り広げられる。作品のプロットは凡百のものと云えるものだが、当時イギリスで行われていた狩猟シーンの描写が白眉で非常に写実的。また狩りのためなら他人の敷地に入ることも辞さず、またそれが許されていたというのも時代を感じさせ、面白い。 「スペティグの魔球」はなんとクリケット小説。 一介の無名の素人選手が、特異な球を投げられるというだけで、国際試合の投手として抜擢されるドリーム・ストーリーで、非常に映画に向いている話だ。クリケットについては無知であったが、それでも十分楽しめる。定番だが、やはりこういう話は面白い。 「准将の結婚」は短い喜劇のような話。プライドの高い軽騎兵隊の准将が遠征に訪れたフランスの自作農の娘に惚れ、結婚する話。とはいえ、兵士である彼は明日の命を知れぬ自分の職業柄、結婚には前向きではなかったのだが、逢瀬の帰り道に出逢った巨大な牡牛から逃げることで偶然にもプロポーズに至るという、笑い話。イギリス人、軍人のプライドの高さが他のストーリーでは登場人物らに一種の崇高さを与えているのに、この話では逆にユーモアを助長しているというのが面白い。 続く3編は海賊シャーキー物の短編が収められている。 「セント・キット島総督、本国へ帰還す」は悪名高いシャーキーが処刑される事になり、その採決を下した総督をひょんなことからロンドンまで乗せて帰ることになったジャック・スカロウ船長、最初はいやいやながら引き受けたが、次第に総督の人となりに他の船員達も打ち解け、また船長も総督に親しみを抱くようになっていくが・・・という話。 「シャーキー対スティーヴン・クラドック」は傾船手入れをしているシャーキーを彼の似た船を使って騙し、一網打尽にしようと企む元悪党スティーヴン・クラドックとシャーキー船長の騙しあいを描く。 「コプリー・バンクス、シャーキー船長を葬る」はタイトルどおり、かつての豪商コプリー・バンクスが妻と子供をシャーキーに殺され、復讐を企てる話。 スティーヴンスの『宝島』に代表されるようにかつては一大ジャンルを築いていた海賊物。いわゆる悪漢小説の類いとなるが、それが一時期隆盛を誇ったのも解る気がする。 ルパンに有名な怪盗物とならび、文字通り海千山千の強者が鎬を削り、騙し合いが日常茶飯事に行われる荒くれ者の日々、これが小説の題材として非常に魅力的なのは間違いなく、本作品もその例に洩れない。確かに小説のストーリー、プロットには斬新さは見られないものの、そこはかとないロマンが作品には漂う。男はやはり海が好きだということかもしれないが。 最後は表題作「陸の盗賊」。小村の野道を訪れる車を次々と襲う追い剥ぎの目的とは?といった内容。 この真相はいささか無理がある。ちょっとこれは意外性を狙いすぎだろう。 短編集も4集目を迎えて、さらにドイルの作家としての奥深さが解ってきた感じがする。ボクシング、狩猟、クリケットはまさにドイル自らが趣味として嗜んでいたものだからだ。 つまりこれらの短編を読んでいく事で作家ドイル自身の人となりが詳らかになっていくことになるのだ。 そして昔の英国紳士が持っていた騎士道精神なるものが作品には通底しており、これがまた非常に清々しい。更に今回気付いたのはドイルの風景描写の精緻さである。特に「狐の王」では姿の見えない狐を追っていくシーンが延々と綴られるが、その流れるような英国の田舎風景は正に写実的かつ映像的で、主人公とともに馬を駆って野山を一緒に駆け巡っている錯覚を覚えた。 更には当時の英国風俗・慣習を知ることにもなり、それらを補完する原書の挿絵が詳細で、資料的にも価値が高いように思える。 確かにストーリー・プロットは現代小説に比べれば、一昔も二昔も前の古めかしさを感じるのは否めないが、それ以外の付加価値が高い短編集だと思った。 予定で行けば次の第5集が最後らしい。次はどんな作品が読めるのか、楽しみになってきた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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スケルトン探偵ギデオン・オリヴァーシリーズも本作でなんと13作目である。
ここまで終始一貫して骨をテーマにしたミステリを展開しているエルキンズ。前作の『水底の骨』、前々作の『骨の島』ではそれぞれ辛口の評価を下したが、今回はもうかつてのシリーズの最盛期を思わせる、骨の検証と事件とがガッチリ結びついた好編となっている。 そう、上に述べたようにシリーズは13作目なのである。13作目にして、さらに骨に関して新しい見識・見解が本作で繰り広げられるのにまず脱帽。 今回、浜辺に埋められていた骨の正体について、その身体的特徴から死者の生前の職業を云い当てるのだが、これが見事。 よく考えると、詳らかになった事実を予め用意した設定に当て嵌めているようにも読め、他にこれらの身体的特徴を持つ職業って本当にないのかしらと疑問に思ってしまうが、それはそれ、野暮というものだろう。ここは素直にスケルトン探偵が一枚一枚覆われたヴェールを剥ぐが如く、展開していく推理に身を委ねるのが一番だろう。 そしてさらに現在において起きた殺人の解剖にギデオンが立ち会うことになるのだが、そこで開陳される解剖学における知識についても新たに開眼させられる思いがした。脳の損傷におけるクー損傷とコントルクー損傷について。なんと脳みそは止まっている状態で打撃を与えられた場合と、頭が動いた状態で静止した物に頭をぶつけた場合では、脳に受ける損傷が違うのだという。前者をクー損傷といい、これは打撃を受けた箇所が脳は損傷するのに対し、後者のコントルクー損傷とは、例えば落下して地面に頭を打ち付けるなどという事象では、脳は打撃を受けた箇所の反対側を損傷するというのだ。 さらに骨に関して云えば、クー損傷を起こす事象では骨は打撃を受けた箇所が陥没骨折を起こすのに対し、コントルクー損傷では、線状骨折となり罅が入るのだという。 私もミステリを長年読んできたが、こういった事実は初めて知った。いやはやまだまだ知らぬ事が多いことだ。特にこの辺の叙述は日本のミステリ作家にとっても大いに興味を引く箇所ではないだろうか。 そして今回嬉しいことに、250ページの辺りで犯人が解ってしまった。正確に云えば、浜辺に埋められていた骨の正体が誰かと解った時点で、そこから推測して犯人が解った次第。 今までこのシリーズを読んだ者ならば、このエルキンズという作家の創作手法から、犯人を推測できるのは想像に難くない。ここで“推理”と云わず、“推測”というのは、まさしくその通りだからだ。 21世紀の現在、日本を除いて、作中に散りばめられた事実から真実を推理する真の“推理小説”はもはや書かれていない。いや、正確にはフランスのポール・アルテなど、本格ミステリマニアから作家になった人たちがいるものの、それらはかなりの少数派だ。 これら少数派の作家以外の手によるミステリでは、読者のページを捲る手を牽引するために、新たに事件を発生させる、サスペンス型、昔で云うところの通俗推理小説がほとんどである。そして犯人は自身の蛇足による自滅によるところが大きく、動機などは最後の辺りで犯人の独白や人生背景などで語られることがほとんどである。 哀しいかな、このスケルトン探偵シリーズも現れた骨からギデオン・オリヴァーが遺体がどんな人物なのかを推理するところに主眼があり、犯人当てはそのイベントを彩る味付けとなっている。 しかし、この作者の良いところはあくまでフェアなこと。 全く関係のないと思われたエピソード―主にプロローグ―がきちんと事件に関連しており、そしてそれが最後のサプライズに寄与している。この作家のミステリマインドが他の作家と違い、昔の本格ミステリのテイストを微かながらに残していることが、シリーズの人気を長く保っている秘密なのではないかと私は思っている。特に今回はさりげなく犯人を推理するヒントが散りばめられており、犯人当てを趣向として愉しめるようになっていると思う。 そしてシリーズの長寿化はそれだけが理由ではない。やはりキャラクターの魅力もその大きな要因だ。 今回も読後感のなんと爽やかな事。出てくるキャラクター全てが気持ちよい。小説のキャラクターを印象付けるため、なかなかいそうでいない人物像を創作するのが、作家の手腕の見せ所だが、このエルキンズという作家は、そのハードルを楽々クリアする上に、しかも全てが善人で、本を閉じる頃には別れを名残惜しむくらい、キャラクターが立ち上がってきている。 コンソーシアム主催者のコズロフや、博物館長のマデリン、特殊能力犬訓練士のヒックスなどもいいが、何といっても今回は墜ちた英雄として描かれるマイク・クラッパー巡査部長とその部下ロブ巡査の造形が見事。この二人のその後について、絶対シリーズで描いてほしい。本作で終えるには勿体無い好漢たちである。 いささか疑問に残るのは邦題である。今回はシリー諸島のセント・メアリーズ島にあるスターキャッスルなる古城がコンソーシアムの主催者コズロフの持ち家であり、確かにこの城がギデオンらの常宿ともなっているわけだが、『骨の城』となるほど、骨には密接に関わっておらず、むしろ出てくる骨は島の浜辺からである。ここは『浜辺の骨』ぐらいが適当ではないか。確かにそれだとインパクトにかけるかも知れぬが。 そして原題の“Unnatural Selection”普通に訳せば「不自然な選択」となるが辞書でこの対義語を調べると”Natural Selection”で「自然淘汰」という意味らしい。この言意で考えれば原題の意味は「不自然淘汰」、つまり「殺人」ということになるわけだ。 作中、自然動物に関する保護運動がしばしば語られ、これが本作の底を流れるテーマともなっており、またメインではないものの、自然界における淘汰についても触れられており、この原題が実に知性とウィットに満ちたものであることが判る。 ともあれ、いやあ、やはりこのシリーズ、やめられない。そんな気にさせてくれる好シリーズだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『リング』、『らせん』、そして『ループ』で登場した高野舞、山村貞子、杉浦礼子という3人の女性の物語を描いた連作短編集。内容的にはこれら3作で語られなかったエピソードを補完するような内容となっている。
まず冒頭の「空に浮かぶ棺」は呪いのビデオテープを見ることで、山村貞子を懐胎してしまい、不遇の死を遂げた高野舞の物語。それも内容は山村貞子再誕の“あの時”の話。 続く「レモンハート」は特に『リング』において浅川と新聞社時代の同僚吉野が探った山村貞子の劇団員時代の若き日の物語。語り手を遠山というかつての劇団員の仲間であり、また貞子の恋人でもあった男に設定し、彼を吉野が訪ね、その時の話を聞くという構成になっている。 最後の「ハッピー・バースデイ」は『ループ』の主人公二見馨の子供を宿すことになった杉浦礼子の、『ループ』以後の話。ループプロジェクトの研究員の天野から馨がどのような運命を辿り、そして現在彼がどこにいるのかを聞かされつつ、お腹に宿った新たな生命を生み出すまでの話となっている。 これらの短編は連作短編となっており、各短編の時間の流れも正にこの順番どおりとなっている。そして無論の事、それらの作品世界は本編3部作を踏襲しており、「空に浮かぶ棺」、「レモンハート」を包含するような形で「ハッピー・バースデイ」が存在する。 正直、最初の2編を読んだ時は改めて短編として描くようなエピソードだったのかという疑問が残った。ここに書かれた内容は確かに『リング』、『らせん』では明確に書かれていなかったが、特別に短編として書き出すほどの目新しさを感じなかった。 「レモンハート」も劇団員時代に貞子の周囲で起きた怪異譚を描いているが、この遠山という人物が貞子の呪縛に絡め取られ、死んでいく話もあえて必要だったのかと疑問が残る。確かに劇場の音効室に隠された神棚とそこにあった干からびた臍の緒、そしていずこともなく音響カセットに入り込む赤子の声と貞子の官能的な愛の囁きと、ホラー要素ど真ん中の作品なのだが、どうも心の底から怖く感じない。逆に当たり前のモチーフを用いて、印象が浅くなってしまった。これは逆に『ループ』を読んでしまった後だけに、貞子という存在が希薄になってしまった事によるからかもしれない。 しかし、最後の「ハッピー・バースデイ」では、この報われなさが救われた。先にも書いたように『ループ』の後日譚である本作は、どうにか消化不良だった『ループ』に最後のピースがカチッと収まった、そういう風に感じさせてくれる作品だった。 馨の子供を孕んだ礼子がその子を産むまでの話なのだが、それを仮想空間「ループ」に入った馨のその後、リングウィルスのその後、そして増殖した山村貞子という個体のその後がきちんと語られ、そして最後に新しい生命の誕生と、実に清々しい気分にさせてくれる好編だ。出産をテーマにした本作は主夫作家鈴木氏の小説テーマのど真ん中なのだが、今回はそれがいい方に働いた。それは自分も三度我が子の出産に立ち会ったという経験から来る、作者への共感によるところが大きいのかもしれないが。 いまだに『ループ』という作品の内容については納得は行かないものの、この短編を読むことで、欲求不満が若干解消されたのは確か。逆にこの1編がなかったら、この短編集は単なるリングファンの手によるファンジンぐらいの価値しかなかっただろう。 最後に馨が生まれたてのわが子に投げかける言葉。それはそのまま私が生まれた子供らに向けて投げかけた言葉に等しい。あのときの思いを思い出させてくれた。それだけでこの1編だけは他人がけなそうが私にとっては良作になっている。 |
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『リング』、『らせん』シリーズの最終作『ループ』。
しかしこの作品の評判が非常に悪いのが気になっていた。実際映画化されたのも『らせん』止まりだし、あれだけ世間で大ブームを起こしたこれらの作品に比して、この『ループ』は一種のタブーめいた扱いを受けているような気がした。 そしてそれは確かにその通りであると認めざるを得ない物であることが解った。 それはまず『ループプロジェクト』の内容がわかる135ページ当たりから、非常に嫌な予感となって現れた。そしてそれは的中してしまった。 作者鈴木氏は前2作で積み上げてきた山村貞子なる恐るべきキャラクターが起こした一大カラミティを大胆にも解体し、箱庭の中に封じ込めてしまった。 そしてさらに馨がフォーコーナーズの研究所跡で体験する仮想空間「ループ」の件を読むに至って、さらに不安は増す。それはあって欲しくない予想だったが、果たしてその通りだった。 またこの『リング』シリーズを通して解ったこと、痛感したことがある。 やはりホラーというジャンルは恐怖の根源についてある程度の謎解きは許せても、全てを解明するとなんともまあ陳腐になるということだ。それはシリーズが続くにつれ『リング』>『らせん』>『ループ』とどんどん面白さが希薄になっていくからだ。 始まりは「ビデオを観た人が1週間以内に死ぬ」というシンプルな設定だった。しかし、シンプルだからこそ、物語の方向性はまっすぐであり、読者はその方向に登場人物と共に身を委ねて突き進めた。 しかしこの設定をどんどん理詰めで解明しようとしたのがまずかったように思う。恐らく作者は当初続編を書こうなんて気は毛頭無かったのではないか?それは『リング』前後に書いたこの作者の作品がファンタジー、ミステリと作品ごとにジャンルが違っている事からもわかる。 しかし世間は『リング』の面白さを受け入れ、あらゆるメディアに『リング』ブームは拡がる。そして『リング』を読んだ・観た者達は当然の如く続編を求めた。 そしてそれは出版社も恐らくそうだろう。この『リング』ブームを単発で終わらすには勿体無い、ブームを継続させるには続編が必要だ、それはファンも望んでいる、と。そしてこの作者は通常ならばこういうホラーの続編にありがちな手法、つまり限られた登場人物での出来事から、山村貞子を化け物として、大多数の人間を襲う、というような安直な方法を採らず、怪異の現象を科学的に解明しようとする方法を採ったのだ。 それはクローン技術同様、天に唾吐く行為だったのだと思う。確かに作者はかなりそれを実現させるために努力している。遺伝子工学、暗号学、物理学という理系学問に加え、アメリカの民間伝承にまでその思弁の手を伸ばしている。しかし、逆にそれがために作者自身が自縄自縛に陥る様を見ているように感じられた。 作中、主人公馨が仮想空間ループの中で繰り広げられる第1作『リング』の設定―ビデオが貞子の念写によって作られた―を観て、こんなことを溢す。 「よくできているけれども、いくつかの幼稚な設定が鏤められた映画を観ているような気分になってきた」 この件はどういう意味なんだろう? 今回の巻末に書かれた参考文献の膨大な量からして、当時『リング』を物した時とは比べようも無いほど、作家として成熟している。あの頃はなんと無邪気に小説を書いていたことかと省みているのだろうか? それともあんな幼稚な設定で始めた話がこんな話にまでなってしまった、俺はこんな続編を作りたかったわけじゃないんだと吐露しているのだろうか? 私は上に感想に述べたように後者のように思えてならないのだが。 また本作には2作目『らせん』に引き続き、またも『リング』そして今度は『らせん』の内容を要約するパートが出てくる。 『らせん』でも感じたが―あれは後でこの要約部が必要だった事が解るが―、これらがかなり詳細であり、同じ話を何度も読まされている気になり、退屈だった。私はこれらのシリーズを続けて読んでいるからかもしれず、実際このシリーズは刊行にインターバルがある(『リング』91年、『らせん』95年、『ループ』98年)ので、読者に対して―あるいは作者自身に関しても―おさらいの意味があったのかもしれないが、これは作品としてページ数の水増しにもとれ、どうも承服しかねる。 ただ今回モチーフとなっているガンに関して述べられている中で、面白いと思った部分がある。ガン細胞が不老不死である事は周知の事実であり、この細胞こそに不老不死のカギが隠されていると、云われている。しかし作者は作中である宗教家の戯言と一刀両断しており、代わりにこのガン細胞こそ実は人間が次の進化を行うために新たなる臓器を生み出すために生まれた物ではないかと述懐している。 作中でも述べられているが、生物の進化の歴史はそれこそ悠久の年月が費やされており、1000年単位どころか1万、10万、100万年単位がほとんどである。そしてたかだか人間の歴史という物のはそのうちのたった数千年に過ぎない。そしてガンと医学の闘いは21世紀の今においても根本的な解決は見られていない。普通、人間の身体を蝕むものに対して、戦い、打ち克つことを考えるが、この作者はこのガン細胞と共存し、次世代の人間が生まれるのではないかと想定する。 これは私自身、新しい視点であり、こういうところはなかなかユニークな事考えるなぁと思った。 作者は本作において作者なりの神話体系なる物を書きたかったのか? 最先端の科学の分野の知識を導入し、それを突き詰めていく先で辿り着くのはやはりこの世には人智を超えた存在による介入が無い事には今の進化はありえなかったという結論。そしてその人智を超えた存在までをも創造する事で一連の山村貞子が引き起こしたカラミティを豪腕で以って解決に導いた本作。しかし、上で述べたように、明るい場所で見るお化け屋敷ほど、陳腐な物はない。 お疲れさん、というくらいの感想しか浮かばないのが本音だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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タイトルどおり、生と死をテーマにした作品を集めた短編集・・・といいたいところだが、読後感はちょっと違う。
「紙おむつとレーサーレプリカ」と最後の「無明」は作者本人と思われる人物が主人公の私小説的作品。 神経衰弱に侵された妻と暮らす私は娘の誕生を機に勤めを辞め、主夫がてらスポーツジムのインストラクターのバイトと家庭教師のバイトをしていた。家庭教師先の生徒がこの頃サボるようになった。一緒に成績を上げるべく頑張ってき、実際テストの結果も徐々に上がってきたのだが、期待した通信簿は前と変わらぬ1の連続だったことに消沈したらしい。今日も生徒に会えずに、途中で買った紙おむつを後部に結びつけたレーサーレプリカのバイクで帰る道すがら、一台のセリカが幅寄せをしてきて、転倒してしまう。バイクは大破し、あわや命を失うかというほどの事故だったが、紙おむつがクッションになりかすり傷程度で助かる。遠くに停まったセリカの後部座席に家庭教師の生徒の姿があった。 「無明」はこの続きと云える作品だ。 娘の通っていた保育園の父母同士で毎年キャンプを行っていた。今回は一日遅れで参加することになったが、その場所が元幹事の会社の同僚が建てたログ・キャビンであり、仙丈ヶ岳の奥まったところにあるというだけのファックスが頼りだった。そこの山の霊気に触れることに思いを馳せる私は過去何度か訪れたこの地で経験した大自然、特に山が与える云い様の無い力について思い出していた。確たる自信がないまま、見当をつけた未舗装の道を車で行くうちに、私たち家族はとんでもない光景に出くわす。 ここで語られる勤めていた出版社を辞め、マグロ船に乗ったこと、主夫業に専念している事、ウェイトリフティングの大会に出るほどの体躯の持ち主など、ほとんど作家をする前の作者の姿と思える。家庭教師をやっていたのは本当だろうが、こういう事故があったのかどうかは定かではないが、どうにも本当のように思える。 しかし、同じく登山を経験し、途中、修験僧と出会い、滝にうたれたことなどを書いた「無明」も作者の体験したことなのだろうが、最後に出てくる誰かが死体を山中に処理しようとしてるところに出くわすというショッキングな体験は、この物語のためのものだろう。その恐怖についての描写はリアルさを感じるが。 しかし幕切れは強制的に連載終了されたマンガを思わせるほど、消化不良だ。 次の「乱れる呼吸」は集中治療室を舞台にした小品。 クモ膜下出血で病院へ搬送された妻は集中治療室にいた。その傍らで目が開くのを待つ私。そのとき人工呼吸器の調子がおかしいことに気付く。看護婦を呼んでみると首を傾げつつ、何度か機械を叩いたところ正常に直った。こんな機械に妻の命が委ねられているのかと驚愕しつつ、うとうとした私はまたもや人工呼吸器の調子がおかしいことに気付く。半ば怒りを伴いながら看護婦を呼びつけるとまたも同じ処置。機械を換えてくれと訴える私だったが、看護婦は涙を浮かべて、外に出るように促す。 これは実際にありそうな話。以前肺ガンで亡くなった患者の意思が乗り移ったかのように、人工呼吸器の動きが乱れる。常に生か死か、命のやり取りが行われている病院ではこういう不思議なことは案外あるのだろう。 「キー・ウェスト」は幻想小説。 交通事故で妻と長男を亡くした美術教師渥美達郎は娘と二人、ロスアンジェルスからニューヨークを長距離バスで横断する旅に出ていた。途中、手違いでスーツケースが紛失したのを機に、レンタカーを借りて、フロリダのキー・ウェストに一泊することにした。島を繋ぐハイウェイを通っている際、ある島が目に入る。既視感を感じた渥美はふとあの島に泳いで渡ろうと思いつく。トランクス一丁で島に渡った渥美は足元に得体の知れないおぞましさを感じつつ、島を散策すると、そこにはかつて人が住んでいたと思われる集落跡と不似合いな廃客車があった。 これは『楽園』で出てきた太平洋の島での話、それに加えて絡み合う二匹の海蛇をDNAの二重螺旋に喩える辺りは『らせん』で用いた表現で、こういう似たようなテーマ、モチーフが気にかかる。内容的には可もなく不可もなくといったところ。 「闇のむこう」は何気ない日常を突如襲う理不尽な悪戯をテーマにしている。 やっとの思いで手に入れたマンションに深沢良明と絵梨子夫婦は喜んでいた。しかしそんな生活も束の間、奇妙ないたずら電話が掛かってくることに。電話魔は絵梨子のことを知っているようで、その内容は酷い誹謗・中傷に満ちていた。妻に心当たりを問い質すが、皆目見当がつかない。しかしいたずら電話は毎日架かってき、絵梨子は精神的不安定から難聴を来たす。途方に暮れる夫婦だったが、ひょんなことから犯人の糸口が見つかる。 個人的にこれがベスト。こういう悪意あるいたずら電話が起こす非日常体験というのが誰もが経験する可能性があるだけに怖い。そして誰とも知らない人物が電話番号という個人情報を手に入れる方法としてあまりに普通の事なので逆に恐怖を駆り立てる。特にいたずら電話は自らも経験があるだけにドキドキしながら読んだ。 離婚したシングルマザー理英子が主人公の「抱擁」。 理英子は5日前に取引先の東京のアパレルメーカーの営業担当の藤村から誘いを受けていた。5日前はホテルに連れ込まれる寸前まで来たが、難聴の1歳の娘が気になり、断った。その週の土曜日に9時に電話すると行って別れた。果たして藤村は約束どおり電話してきた。清水市に住む理英子のためにわざわざ東京から車を飛ばしてきたらしい。理英子は藤村を家に上げることを承諾する。5日前の再開とばかりに親密な雰囲気に包まれるが、その時娘が泣き出した。なかなか寝ない娘をあやす間、藤村は自分が娘を突然死で亡くしたことを語りだす。 この結末の呆気なさはなんだろう。シングルマザーの情事を描くかと思えば、そうではなく、そこでは情事の相手が抱えるある闇が語られる。 人が死ぬ事、生き延びること、その違いとは一体何なのか?それについて語った作品集といいたいところだが、「闇のむこう」と「無明」はそのテーマから外れているだろう。 確かにこれらの作品でも死が扱われているが、それは副次的な物であり、主体ではない。いたずら電話の犯人のちっぽけな死。山奥に遺棄される誰とも知らない男の死体。そこに生死を分ける何かが語られているわけではない。 しかしあとがきを読むと、なんと父性と母性をテーマにしているあるではないか。しかしそれもなんだか腑に落ちない。 「キー・ウェスト」そして「無明」はその父性と母性については触れられていない。それらには危うく冥土に行きかけた男がこの世に引き寄せられたもの、山での霊的体験について語られており、それらは生死、魂などといった見えない力に関するものだからだ。結果、私の中ではなんとも統一性のない短編集だという感が残ってしまった。 ところで『仄暗い水の底から』以降の作品に見られるテーマの重複が異様に気になる。南の孤島、洞窟、DNA、マグロ船などがそうだ。確かに同じテーマを扱うのはいいが、その再利用の仕方が、初めて使った作品をなぞるかの如く似通っているのが気になる。つまり同じ話を主人公と結末を変えて語っているだけのような気がする。そしてそれは逆に作者の懐の浅さを露呈している。もしかして昨今のこの作者の活躍を聞かないのはこういうところにあるのではないだろうか。 4作目にして翳りが見えてき、5作目の本書でもそれが拭えない。もっと書ける作家だと思ったのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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大ヒットホラー『リング』の続編である。これも映画化されたので云わずもがなではあるが。
『リング』で想像された山村貞子という忌まわしき存在。『リング』では超能力者の怨念に現代ツールであるビデオテープを組合し、全く新しいホラー小説を生み出した。これこそ日本におけるモダンホラーの幕開けだとその時の感想に書いた。 そしてその続編である本書では、山村貞子というウィルスの存在を遺伝子工学を中心に、あらゆる見地から解き明かし、更なる深化を目指している。 だからといって山村貞子が増殖するというメカニズムを詳らかにし、それを糸口として山村貞子の殲滅が成就する、といった構成になっていないところが面白い。むしろそのメカニズムが解ってからこそ、真の恐怖が生まれる趣向になっている。 特に興味深いのが、科学の最先端分野である遺伝子工学が、いまだ五里霧中の最中で手探り状態であることが本書を読むと解ってくる。特に生命の根源を突き詰めていけば、禅問答のように無限のクエスションが生まれていき、ロジックの深淵へと入り込んでいくのがよく解る。例えば「見る」という行為に対して、このメカニズムを突き詰めていくと 「人間は見る」→「なぜ?」→「目があるから」→「なぜ目があると見えるのか」→「目には角膜と瞳孔があり、それで物体を投射できるから」→「なぜ投射できると見えるのか」→「それを像として脳に認識させる視神経があるから」→「なぜ視神経と脳は繋がっているのか?なぜ角膜と瞳孔という物があるのか」→「・・・」 といった具合である。 つまり目のない生物と目のある生物との境、そして目を構成する複雑な組織がどういう進化の過程で、細胞から変異したのかについてはまだ解っていない。そして(本書が出版された1995年当時の)現在では、それは“心”が作用している、つまりそれを望む「意志」の力が影響していると述べられている。その例としてストレスで胃に穴が空くという話が出てくるが、なるほどと思った。この辺の話は非常に興味深く読んだが、あまり長く書くと感想を大きく逸脱するのでここいらで止めよう。 あと本作では暗号が都合2回出てくる。これが実に凝った暗号で、最初の暗号はさしたる頭脳労働はなかったものの、2回目の暗号はかなり本格的。読んでいる途中で投げ出してしまった。幸いにもどうにか理解は出来たが、遺伝子情報を暗号に見立てるそのアイデアからして、やはりこの鈴木光司という作家は単なる物書きに終始していないことがよく解る。 そしてこの作家の最も大胆なところは、本作が実は世に興った『リング』ブームのパロディであることだ。自身が生み出した『リング』という作品が各メディアにて映画、ドラマ、CDブック、コミックへと色んなメディアへ文字通り“増殖”していく過程をそのまま山村貞子が人類社会へ増殖していく現象へと擬えているのが非常に面白い。 ある箱根の保養施設で偶然写りこんだ奇妙な名も無いビデオテープから、それを観た者が1週間、自分の命を救うために奔走した体験記へ、そしてそれが死後、遺族の手を借りて『リング』という名の小説となり、人類へと蔓延る、正に作者独自の大いなる皮肉である。なんとも大胆不敵だ。 しかし今回はいささか大風呂敷を広げすぎた感は否めない。次作『ループ』がどのような話になるのか、非常に不安である。 最後に本書が出版された95年という年に注目したい。実はこの年、日本ホラー小説大賞が初の受賞作を生み出している。それは『パラサイト・イヴ』。ご存知のようにこれも遺伝子を扱ったモダンホラーである。そしてこの作品も日本に“理系ホラー”を生み出すきっかけとなった。この年がそういう転換期であったと今になって思える。 そういえばこの前に読んだ本、篠田節子氏の『絹の変容』も遺伝子操作を扱ったパニック・ホラーだった。これは91年の作品だった。そして本書の前作『リング』はなんと91年出版である。 当方としてみれば単純に本棚の積読本の山から順番どおりに未読本を抜き取っているに過ぎない。単なる偶然だろうが、読書を続けると、なぜかこういう云い様の無い大きな流れというのを感じてしまう。確かにこの世にはこういう説明のつかない事がまだあり、それがあるからこそ、こういうホラーも成り立つのだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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篠田節子デビュー作。たった200ページにも満たないパニック小説であるが、中身は薄っぺらな物ではなく、仕上がりも堅実である。
一枚の絹織物から、その繭を作る蚕の養殖、そしてほんの小さな過ちから派生するパニックが、絹織物、養蚕、バイオテクノロジーの専門知識を読者の興味を損なわない程度に付け加えながら、必然性を持って発生するプロセスを淡々と描いていく。 特に蚕がどんどん怪物化していく過程は例えば、よくある怪物小説で放射線が当たって遺伝子に異常が起きた、特殊な薬品・ガスがこぼれて、それを吸ったがために進化した、などと理由にならない理由をつけて突然変異させる物が多い中、この小説では芳乃の独創的な改良手法を逐一述べることで読者に怪物が出来ていく様を知らせていくところが、非常に好ましい。蚕の糸が蛋白質で出来ていることから、餌を桑の葉から鶏肉に、そして豚の血を混ぜた餌を食べさせるなんて発想には驚いた。 そして登場人物も三人と非常に少ないのがこの本の特徴。これは映画『ザ・フライ』を思わせる。 虹のような光彩を放つ絹に魅せられ、それにかつての夢を賭けようとする主人公長谷康貴は、包帯工場の若旦那であり、また整った風貌から遊び人のように見られ、事実、そのような自堕落な生活を送っていた人物。とにかく包帯工場を継ぐのがいやで、何か華やかな仕事を始めたいと友人に持ちかけるが、その飽きっぽい性格ゆえ、一つとして物にならないまま、30手前まで来ているというよくある現代の若者の1人とも云える。 確かにこの康貴の考えはとても社会人であるとは思えないほど甘い。夢はでかいがそれを実現するために何をしなければならないかが全くわかっていない男である。 そして康貴の持ち込んだ絹織物に同様に魅せられ、閑職で燻っていた研究心を再燃する有田芳乃。とはいえ、この女性は専門に特化した女性として描かれ、人間味を感じさせない人物となっている。 しかし、それは自身の仕事に対するプライドの高さゆえと、それが及ぼす影響力を肌身で知っているからこその態度・姿勢であり、これをおぼっちゃんである康貴の甘さとの対比でそれが際立っているに過ぎないことが解ってくる。 そして康貴の持ち込んだ絹織物に新しい商売の匂いを嗅ぎつけ、金銭面と商業面で協力する大野。通常ならばこういう人物は金の亡者のような描き方をされるが、本作ではそうではなく、社会人である私の眼から見れば、真っ当な経営者である。 投資するに見合うだけのビジネスチャンスがあるかを算段し、それを成功させるためには金を惜しまない。ビジネスを世に公開すべきタイミングを嗅ぎ分ける嗅覚、そして不測の事態に対する迅速な処理も非常にそつが無い。もしこの本を学生のころに読んでいたらこの大野という人物に嫌悪を感じていたかもしれないが、社会人も10年を過ぎた今となっては、大野が非常にバランスの取れた経営者だと認められる。 特に育てた蚕が人体に悪影響を及ぼすことを妻の死で知った康貴が、何もしてやれなかった妻への罪滅ぼしというその感傷的な理由から事業の撤退を大野に告げた際の大野の反論は至極最もであり、康貴という人物の甘さに腹が立つくらいだった。 品種改良した蚕が人間を襲うパニック小説。それを発端から結末まできちんと描いているにもかかわらずコンパクトに纏め、総ページ200ページ弱と非常に薄い本書だが、やはり新人の若書きという感じがしないでもない。 確かに200ページで済むような内容を、色々贅肉を施して倍、もしくはそれ以上の分量にしたりして冗長を感じさせるのも困るが、あまりにあっさりしすぎるのも物足りない。 特に今回思ったのはその展開の速さである。シナリオを読んでいるかのごとく物語はとんとんと進み、時間経過も5年もの月日が流れているとは思えないほど早い。やはり小説には外連味や人物に厚みを持たせるエピソード、つまり味わいが必要である。そこに読者の心情は移り、共感や嫌悪感を得るのである。 特に本書では、やはり芳乃と康貴との心の揺れ、康貴と父親との確執についてもっと掘り下げて欲しかった。康貴が父親から栗林を譲り受けるシーンは親子の確執があるにしてはあっさりとしすぎだ。 まあ、後に直木賞を受賞する作家であるから、これからの小説にはその小説の旨みというのが加わるのだろう。 最後に1つ。タイトルはもう少しどうにかならなかったのだろうか? 品種改良され、化け物と化した蚕という意味でつけた題名だろうが、『絹の変容』という言葉からはとてもそんな内容は想起できない。呉服屋を舞台にした恋愛小説や群像小説のような感じがする。もう少し、熟考したらよかったと思うのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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シリーズ4作目での趣向はトライアル&エラー、つまり複数の推理による事件の解決である。つまり今回、エラリーは一度誤った推理を犯し、二度目は父親である警視の推理に出し抜かれ、三度目にしてようやく真相に辿り着く。
この趣向を行うために作者は時代を遡り、エラリー最初の事件としている。そしてその趣向のため自然ページ数も最大となってきている。つまりそれほどこの作品には自信があるということだ。 で、その自信作はというと、いやあ、確かに素晴らしい出来映え。またもやものの見事に騙された。今回は真に完敗である 正直に云えば、犯人が明かされたとき、驚きよりも懐疑が勝っていた。この真相はちょっと狙いすぎだろうと。しかし40ページに渡って繰り広げられるエラリーの推理を読んで、その心境は喝采に変わった。実に素晴らしいどんでん返しだと。正にこれはクイーンがこれだけのページを費やすに値する自信作だ。 本書における真犯人は第4の犯人であるが、読者への挑戦は第3の犯人が提示される前に挿入されている。この第3の犯人を立証する論理が非常に穴だらけで、何だ、これは?とこぼしてしまったが、それを洗い流すだけのカタルシスが最後に得られた。 しかし、本書において1つだけ腑に落ちない論理がある。それは第1段階の推理で判明する被害者の従弟が色盲であるという事実を証明するシーンだ。 その従弟は緑が赤に見え、赤が緑に見えるという。これがちょっとおかしい。本書ではこの色盲を部分的色盲と述べているが、例えば赤が緑に見えるのは解るにしてもその逆が成り立つかどうか甚だ疑問である。 そしてこの推理にはもう1つの解釈が出来る。このギリシアから呼ばれた従弟は白痴であり、それゆえに単語を覚える段階で「赤」を「緑」と覚え、「緑」を「赤」と間違って覚えたという解釈だ。こっちの方が理論的にすっきりすると思うのだが。 あと事件の発端ともいうべき、紛失した遺言書をいかに盗んだかについて何ら解明されていない事だ。誰かが盗んだのは出てくるにしても、執事がうたた寝しながらも金庫の前に鎮座していたという状況下でどのように盗んだのか興味があったのだが、結局それについては流されてしまった。事件の捜査が進むに連れ、この無くなった遺言書についてはそれほど重要視されなくなったのも気になった。 あとタイプライターについての推理は、読者、特に日本の読者には推理しようにも出来ない代物だ。どこのタイプライターか、特定する材料として£(英国ポンド)のキーがある珍しいタイプという述懐があるが、解明の糸口となる電報の件でもポンドはカタカナ表記だし、これは正に騙し打ちの感がある。まあこれは海外ミステリの抱える一種の業のようなものだから仕方ないか。 また、この時代を遡るという設定は今までの作品と違って、エラリーの理解者である父親のクイーン警視や地方検事のサンプトンらが、エラリーの存在を疎ましく思っている効果を生み出し、それが面白い。とはいえ、他の名探偵物に比べるとやはり警視の息子ということで特別扱いをされている感は否めない。 明らかに捜査の邪魔となるエラリーの気紛れな所作は、激昂の上、退場を命ぜられてもおかしくないものばかりだし、また大学出たてのくせに周囲の大人にタメ口をきく無礼さ―まあ、これは翻訳の綾かもしれないが―も寛容に受け止められている風がある。 それ以外に、時代性を感じさせる表現があったので、ここに書きとめておこう。 書中でおやっと思ったのは事件のキー・パーソンとなっているハルキス氏の秘書ジョアン・ブレット女史が自分の年齢が22で、結婚年齢が過ぎたと述べていること。これは早すぎではないか?というより、この1930年代とはそういう風潮だったのか?今の日本の結婚適齢期を考えると、ものすごい隔世の感がある。 そしてエラリーは明らかにこのジョアン女史に色目を使っている。ちゃらちゃらしてますね、彼。そして初対面時のくどき文句がすごい。 「僕が、あなたについて、たとえ予備知識をもっていなかったとしても、僕の循環組織が、それを教えてくれるとは、お考えになりませんか」 つまり、要約すると、「貴女の事について、何も知らなかったとしても、いきなり胸がドキドキしたってこと、解ります?」ってことなんだろう。これをわざわざ回りくどい表現を使うクイーン。まあ、大学ぽっと出の、頭でっかちな時にしか浮かばないセリフだな。 今回は密室状況下での殺人とかダイイング・メッセージとか、衆人環視での殺人、人物消失などといった不可能趣味というよりも色々出てくる事実に辻褄が合う1つのストーリーはこれだ!といった類いのミステリだったので、決定的な証拠があるわけでもなく、読者への挑戦まで堅牢な自分の推理というのが持てなかったのが、悔しい。が、やはりこれほどまでにロジックに彩られたミステリはやはり面白いものだ。 そして最後の中島河太郎氏によって明かされる本書に隠された趣向もまた素晴らしい!いやあ、やるねぇ、クイーン! ▼以下、ネタバレ感想 |
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ユーロポール心理分析官クローディーン・カーター・シリーズ3作目。今回は小児性愛者グループによる幼児誘拐を扱っている。
そして本作では犯人グループがたまたま誘拐したのが将来の大統領候補とも云われるベルギー駐在アメリカ大使の娘であるところがミソ。あえてその娘をテロ行為として誘拐したのではないところがフリーマントルらしい味付けだ。 今回クローディーン・カーターのライヴァルとして設定されているのがFBI人質交渉主任のジョン・ノリス。登場シーンから彼がいかなる凄腕の交渉人であり、しかも変人であるかが雄弁に語られるのだが、ここにフリーマントルの作家としてのあざといまでのテクニックが見られる。 実際語られるノリスの交渉はクローディーンがプロファイルするように自分が偉大な人間だと妄信する単なる勘違い男に過ぎないのだが、フリーマントルはクローディーンと邂逅させるまでに彼が実に切れ者の交渉人であるかをCIA、FBIのスタッフその他と会見させる事で述べる。しかしそれらのやり取りは直裁に語られず、会見後に零す彼らの、例えば「あのくそ野郎は現実の人間なのか」といったコメントによって人物像を形成させられているに過ぎない。つまりこのノリスを強敵と見せ、それをクローディーンに論破させることでフリーマントルはクローディーンの有能さを読者に刷り込もうとしているのが解る。こういう職人的テクニックが最近は頂けないと思うのだ。 特にジョン・ノリスが初めてクローディーンと論争をする際にあからさまに対抗されることに慣れていないという描写があって、あれっ?と私は思ってしまった。人質交渉主任として凄腕ならば数々の事件の修羅場を経験しており、その中には一切、人の話を聞かないでゴリ押しする犯罪者もいたはずである。そういう輩も相手にしてきているわけだから、こういうあからさまな抵抗を受ける事に慣れていないというのはおかしいではないか? そしてこのノリスは結局自らを追い詰める形で途中退場してしまうのだが、この辺どうも消化不足だなぁと思ってしまった。 また前作ではクローディーン、フォルカー、ロセッティといった多国籍エキスパートチームが少数精鋭で活躍している痛快さがあったが、本作ではアメリカ大使の娘の誘拐という事で、事件の起こったベルギーの警察のみならずフリーマントル作品ではおなじみのFBI・CIAそしてユーロポールの混合チームとなって捜査に当るところが特徴的だ。 というよりもこれによりユーロポールという新進気鋭の組織の特徴が減じられ、特に事件の責任所掌において各要人が自らの保身のために腐心する様子は正にチャーリー・マフィン・シリーズとなんら色が変わらなくなってしまったような気がした。 そしてクローディーンのチームにも変化が訪れる。前作まで無敵のトライアングルを形成していたこの3人に綻びが生じる。それは新たにパートナーになったピーター・ブレークなるイギリスの元スパイの存在。彼の抱えるトラウマが、クローディーンに彼を身近な存在に感じさせたのは間違いない。 また植物人間と化した妻の復活を待つロセッティにクローディーンが疲れを感じていたのも二人の接近を許す事になってしまった。今後これら三角関係がどのようになるのかを匂わせて物語は閉じられる。 前作でもあったが、本作でもクローディーンは自らのプロファイリングに絶大なる自信を持ち、捜査を推し進める。それは自らの正しさを信じることで捜査を確実な方向に導かなければならないというプレッシャーの裏返しでもある。さらにその有能さゆえに自らが抱える孤独に苛まれる。 敵に勝つために自信の鎧を身につけ、それゆえに誰もが不可侵である存在感をも身にまとってしまうことの寂しさ。有能な人間ほど自らの幸福に縁遠くなってしまう。現代の女性の抱える問題をクローディーンは具現化しているようだ。 最後にもう1つ。本作は1998年の作品となっている。捜査ではインターネット、Eメール、携帯電話も登場し、それらの逆探知も行われているが、ドラマ『24』を観た者にとっては時代遅れの感は否めない。なぜにこれほど逆探知に時間が取られるのか、Eメールの発信元探知の遅さ、そしてそれらに対して敵側が何らかのファイアウォールも設定していない事など時代錯誤感を感じた。 10年前の作品だが、やっている事はそれ以上の月日が経っているように感じてしまった。これもハイテク捜査を扱う作品の哀しい宿命を感じずにはいられない。 |
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とにかく苦痛の強いられる読書だった。途中何度も投げ出そうと思った。
プロットに比べその書き込みの量ゆえに物語の進行が途轍もなく遅い本書はクーンツ作品には珍しく疾走感を欠いている。それは本書ではクーンツが詰め込みたかったエピソードを存分に詰め込んでいるからだ。 今回は『ドラゴン・ティアーズ』でサブテーマとして語られていた“狂気の90年代”という、本来抱くべき近親者への愛情が個人の欲望の強さに歪められ、異常な行動を起こす精神を病んだ人々が主題となっている。つまり本書で語られるのが全編胸の悪くなる異常な話ばかりだ。 特に同時に進行する3つの話の中でも本書の主軸となっているミッキーとレイラニのパートで語られるレイラニのジャンキーな母親シンセミーリャとUFOが異常者を癒すと信じ、生命倫理学なる学問を確立し、障害者ならびに社会不適合者、老い先短い老人たちを淘汰する事でよりよい社会が生まれるという選民思想を掲げるその夫プレストン・マドックの所業の数々は観たくも無い、聞きたくも無い人間の残酷さを見せ付けられ、何度もくじけそうになった。特に障害を持って生まれたレイラニたちを生まれた瞬間から負け犬と独白する辺りは気分が悪くなった。 そしてレイラニとその亡き兄ルキペラがなぜ障害を持って生まれたかを母親が嬉々として語る件は、寒気と吐き気を覚えるほどだ(妊娠中にドラッグを多用し、そうすることで奇跡の子が生まれると信じて疑わなかったというとんでもない母親なのだ)。 後半に至り、今まで他人の目を通して語られていたプレストンが主観的に語られるにいたり、彼の歪んだ心理とあまりに独善的な哲学にも身の毛がよだつほどだ。先に述べた生命倫理学を説きながら、その実、プレストンは妻の妊娠中にドラッグを服用させ、不具者を生まれさせようとする。それは自らの殺人願望を満たすためだからだ。 そしてカーティス・ハモンドのパート、これも辛かった。特に逃亡者であるカーティス・ハモンド少年というのがなんとも“空気の読めない”少年で、気の利いたことを云おうとして人の神経を逆なでする、この繰り返しだからだ。あらゆる学問や映画・音楽といった文化的知識には精通しているものの、人との付き合い方となると、スラングや慣用表現に疎く、常に言葉尻を取って反問する、普通で云えば友達にはなりたくない男の子である。 しかしこれも上巻の最後に至り、ようやく納得できるのだ。この少年自体が宇宙人であり、クーンツはカーティスのパートを追われる宇宙人側から描いてきたのだ、と。そしてカーティスがキャスとポリーのグラマラスな双子の姉妹と出逢うに至り、人類と宇宙人の理解が生まれ、ギクシャクしていた物語の進行がスムーズになっていく。 そして3つの話のうち、比重がやや軽い探偵ノア・ファレルのパート。彼も少年の頃に叔母に家族を惨殺され、自身も撃たれるという苦い過去を持つ男だ。そしてそこで語られるエピソードもまた“狂気の90年代”そのものである。彼は妹を預けている保養施設にて、狂った慈愛の心を持った看護婦に妹を殺されたことで探偵業を辞めてしまう。しかしそこに現れるのがレイラニを救うべく立ち上がったミッキーで、ここで彼らの人生が交わる。 また残るカーティスはキャスとポリーのスペルケンフェルター姉妹らとともに訪れたフリートウッドのキャンプ場で、そこに停泊していたレイラニ一家のトレーラーハウスに出くわす事で彼らの人生が交わる。 しかしそこから実にクーンツらしく、物語はじれったく進行していく。共通の宿敵であるプレストンを退治するまでが非常に長い。そして物語はそれが解決する事で収束に向かい、もう一つ大きな主題であったカーティスと追っ手との攻防はなんと棚上げされたように処理される。これこそクーンツの悪い癖でテーマを盛り込みすぎて、片手落ちになってしまっている。 しかも今回はよほど色んな情報を得たのだろう、とにかくプレストンの行った悪行、彼の異常なまでに歪んだ選民思想、ミッキー、ジェニーヴァ、シンセミーリャ、ノア、キャス、ポリーそれぞれの登場人物の語り口が長い、長すぎる。なんとも説教臭い話になってしまっているのだ。 クーンツの、この現代人が抱える精神病に関してリサーチした結果、そしてそれに関する自身の考察の発表の場になっているようにしか思えず、先にも述べたように詰め込みすぎだという印象は拭えない。上下巻1,130ページも費やして語られる物語は至極簡単な物で、70%はこれら長ったらしい主張で埋められているかのようだ。しかも1つの物語は決着がつかないままである。 またクーンツ作品の特徴の1つに犬との交流というのがあるが、今回は最もそれが顕著だ。なんと宇宙人を介してとうとう犬の思考の中まで入り込んでしまうことになり、各登場人物全てが最終的に犬を飼うとまでなってしまう。犬好きの自分が描く理想の友人付き合いの姿ともいうべき結末で、しかも犬の思考についてはかなり善意的に書いてあり、本当かな?と首を傾げざるを得ない。なんとも自分の趣味嗜好をここまで押し出していいものかなと疑問を持ってしまう。 唯一の救いはやはりレイラニの存在だろう。ジャンキーの母親に大量殺人者であり、幼児虐待嗜好者の義父に連れられ、UFOとの遭遇を求め、全国を駆け巡り、10歳になる前に義父の狂った論理ゆえに殺される運命を抱えながらも、自らをミュータントと定義し、物事を斜めに観ることで笑いに変え、辛い現実を直視することを避け、どうにか生きようとするこの少女の造形は何よりも素晴らしい。 『テラビシアにかける橋』でヒロインを演じたアナソフィア・ロブをイメージして読んだ。特にカーティスとの邂逅シーンで呟く「きみはキラキラしてる」は心に残る名セリフだ。 原題の“One Door Away From Heaven”とは作中幾度かジェニーヴァから問われる「天国の一つ手前のドアの奥には何がある?」という謎かけから取られている。その答えは意外に完結でなく、けっこう説教じみた物だ(心を閉ざしていれば何も見えず、心が開かれていればそこには貴方と同じように道を探している人が見える。貴方はその人と一緒に光に繋がるドアを見つけるの)。 こういう説教事で埋め尽くされた作品を読むと、今後のクーンツはどの方向に進むのか不安でならない。 |
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7編の水をテーマにした連作短編ホラー集。神奈川県に住む老婆が孫娘に朝の散歩時に一週間お話をするという構成になっている。
まず「浮遊する水」はかつて角川ホラー文庫で編まれたホラーアンソロジーで読んでいたもの。夫との離婚を機に港区の埋立地に建てられたマンションに引っ越した母子家庭の一家が出くわす怪異譚。 埋立地、水道水といったじっとりしたイメージを喚起する文体は、粘っこさを感じさせる。これを読んだ後は社宅の水を飲むのが嫌になったくらいのおぞましさを感じた。切れ味素晴らしい短編。 続く「孤島」からは全て初読。大学時代の友人が第六台場という都会の無人島に女を捨てたという。その友人は夭折し、数年後、理科の教師となった主人公がひょんなことから第六台場の調査に参加する事に。そしてそこで出くわした物とは・・・というお話。 物語は読者の予想通りの展開を見せるが、東京のど真ん中、しかもお台場という地にある無人島を舞台にこういう物語を紡ぐという発想を買う。なんとも云い難い読後感を残す。 「穴ぐら」はあなご漁で生計を立てている漁師の妻が朝起きると失踪したという話。散歩がてら妻を捜すが見当たらない。戻っているかもと思い、家に帰ってみるがやはりいなかった。昨夜は酔っ払って早々に寝たはずだが、記憶が定かではなかった稲垣はその日はそのまま寝て、翌朝漁に出発した。 「浮遊する水」の変奏曲のような作。母子家庭から父子家庭(この場合は妻が失踪して一時的に父子家庭になったというものだが)という構成も似ている。しかしここで最も気になったのが主人公の稲垣裕之は幼い頃に親から暴力を受け育った男で、親となった今、同じことを子供にしているという点。暴力は遺伝すると昨今問題になっているものだ。そしてこれは自分にも思い当たる節があるだけに、いっそう印象に残った。 「夢の島クルーズ」は主人公が高校のOB会で知り合った男に誘われ、ヨットで東京湾クルーズに行ったことから物語は始まる。よくあるマルチ商法の勧誘だったことが解り、うんざりした主人公は夫妻の話に取り合わず、夢の島マリーナへの到着を今か今かと待ちわびていた。だがマリーナまで数キロというところでヨットがいきなり止まってしまう。スクリューを見ると、子供の靴が片方絡まっていた。それを除けてみたが、やはり動かない。キールに何か絡まっているのだろうと判断したオーナーは潜って取り除く事に。しかし浮上した男は顔面蒼白で、溺れかけていた。 都市伝説ホラー。ぶつっと切れるような形で物語は終えるが、ちょっとベタな感じ。それよりも知り合いに誘われてヨットのクルーズに参加か・・・。自分にも同様の経験があるだけに、主人公の心理が痛いように解った。 「漂流船」はなんと長編『光射す海』で登場した第七若潮丸、しかもあの主人公の一人真木洋一が参加していた漁の後日譚である。あの作品はホラー味はなく、一人の女性の正体を探るミステリだったが、これは古来からある海洋ホラーとなっている。 漁を終え、日本への帰路に出くわした一台のクルーザー。中には誰もいない。結局海保との相談で漁船が曳航することに。乗り込んだ機関士白石が遭遇したものとは? 作中でも書かれているがかの有名なマリー・セレスト号事件をモチーフにしている。しかしこれは純然たるホラー。怪異の正体がわかるまでは日誌の内容などぞくぞくすることしきりだったが、正体が解ると意外に陳腐な印象。 次の「ウォーター・カラー」は問題作。気鋭の小劇団がかつてバブル時代に活況を呈した複数階で構成されたディスコの跡地を利用しての公演中に水漏れというアクシデントに見舞われる。古参の劇団員で、演出家との意見の食い違いから直前になって役を降ろされた神谷が原因を突き止めにいくことに。 廃屋となったディスコの跡地のトイレ一面に流れる水、排水口に大量に詰まった色とりどりの髪の毛、と古来からホラーに欠かせないモチーフを使い、実際ドキドキしながら読んだのだが、最後のオチに愕然。これはちょっと奇を衒いすぎたといわざるを得ない。明かされる真相はホラーという読者の予想を裏切り、超えるものであるが、これをいい意味か悪い意味で裏切ったのかは読者によるだろう。 私は悪い意味でとった。 ラストの「海に沈む森」は感動の一編。洞窟探検を趣味している主人公が多摩川の源流を友人と遡るうちに前人未到と思われる洞窟を発見する。すでに結婚し、子供もいる主人公は人生守りに入り、躊躇うが友人にそそのかされ、入ることに。そして・・・という展開的には予想通りとなるのだが、そこからが素晴らしい。時代設定を1975年とし、そこから主人公が手紙を認め、放流する。そして20年後、成長した息子が訪れるといった展開を見せる。父と子の血の絆を感じさせる力強い一編だ。 そして語り部として設定されている老婆もこの手紙が実は老婆の生きる源となっているというのが最後になって解る。 この7編で舞台となるのは東京一円だ。港区の埋立地、第六台場、富津岬、東京湾に、鳥島周辺―ここも確かに東京だ―、芝浦運河沿岸に立つ雑居ビル、そして多摩川の源流。ほとんどが東京圏に住む読者ならば目にする、訪れている、もしくは行こうと思えば行ける場所だ。つまり作者は読者のすぐそばに怪奇は潜んでいると告げている。 そして全編を通して語られる水もホラーの要素としては欠かせないものだ。水の雫の落ちる音から、人智の及ばない海や未開の地下水まで様々だ。恐らくこれは作者自身が水と密接に関わっていることに起因するのだろう。特に漁、クルーズといった航海に関するものが多い。これは『光射す海』でも使われていたマグロ漁を作者自身が経験することで得た知識であり、自然そちらへ題材を取ることが多くなったのだろう。 ただ残念なのは、この短編が今までの長編に見られた題材のアレンジでしかないこと。漁やクルーズなど船に纏わる話、鍾乳洞探検、そして劇団の話などは『楽園』、『光射す海』の作品を物するのに取材した、もしくは自身で体験したものだろう。 しかし4作目にして、似たような印象を受けるのは意外と作者の引き出しが少ないのではないかと危惧してしまう。確かに読ませるが、初めてこの短編を読むならば、また印象は違っただろうが、続けて作者の作品を読んでいる身にしてみれば、またこの話か、と思ってしまうのは否めない。 次作の題材が新しいことに期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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