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日没
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日没の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.64pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全57件 41~57 3/3ページ
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いきなり謎の組織に見知らぬ療養所に軟禁された小説家が、更生を名目に社会に適応した小説を書けと強要される不条理な物語。 療養所の風景描写や人々の薄気味悪さ、主人公の矜持や怒り、食への執着などにかかる感情の起伏等、物語全編に桐野節が炸裂です。 主人公が作家で、テーマが国家権力と表現の自由ようなことから、メッセージ性の強い小説かと勝手に推測しましたが、只々エンタメ小説を楽しみたいと考える向きの方でも合うのでは、と思いました。 | ||||
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めちゃくちゃ面白くて、めちゃくちゃ怖い小説でした。おすすめです。 | ||||
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平凡な生活に送られてきた不審な呼び出しの封書。ここから戦慄の物語は始まる。 ラストには、わずかな光明と自由への手助けが見えたが…。 この小説には、最後まで(というか最後に)「救い」はなかった。 第一章で、主人公が案じる「帰ってこない猫」はまさに主人公自身であった。 背筋が凍る、とはこの小説のこと。一気に読み終えたが、恐怖は静かに深くやってきた。 | ||||
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この本は単に恐怖政治下の強制収容所を描いた近未来小説ではなく、今を生きる実感にとても近い内容だと思います。 『日没』は何より現在の日本の言論統制の恐怖を感じさせました。 芸術は善悪の彼岸に人間存在の深淵を垣間見せるもので、もともと正義を振りかざす政府にとって反体制的な存在なのだと思います。 強権的であればあるほど、体制はそれを飼い慣らし無害化しようと画策します。 芸術に限らず、広く表現や言論に対してもそうでしょう。 今が怖いのは、わかりやすい直接的な暴力ではなく、あの手この手を使って蝕んでくることですが、主要な方法は経済的圧迫と人事の選別です。 愛知トリエンナーレ表現の不自由展への補助金不公布問題は、安倍政権の意向に沿わない表現は認めないと宣言したようなものでした。 学術会議から政策に異を唱えた学者を排除した菅政権も同様です。 報道されない同じようなことはおびただしい数あるはずです。報道機関に対する脅迫めいたことはNHKに対するばかりではありません。出版社も締め付けられているでしょう。 こうしたことを通して、政権は巧みに世論や人心を操作し誘導します。敵は彼らではなく、反政府=反日だと。そうやって不毛な論戦にもちこみ心を疲弊させ潰していきます。 もう普通に呼吸するだけで、毒が身体に浸透していくようです。 今日本で暮らすとはそういうことなのではないでしょうか。 近所の生き残っている老舗の本屋に行くと、メインに並んでいるのは、自己啓発本、ハウツー本、そして嫌韓嫌中反朝日、歴史修正主義の本です。 『日没』の収容所は隔離施設ではなく、日本全体のことなのです。桐野夏生さんも恐らくそう感じて書いていらっしゃると思います。 主人公同様に私たちも脱出して逃げていくところがないのです。恐ろしいでしょう? 戦争経験者の祖父が、子ども心に「ファシズムへと空気が変わった」と思ったのは、村の小さな掲示板に爆弾三勇士礼賛の告知が出た時だそうです。 サインはもういたるところに溢れています。 今死にものぐるいに抵抗しないと、主人公や他の収容者と同じ運命が、私やあなたを待っているかもしれません。 | ||||
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近未来の日本社会がこうなるかもしれないと思わせるし、世界中には今現に似たようなことが起きている国があるだろうと思わせるお話。 味方になってくれそうな者を信じて良いのか、手に入れた情報が偽ではないか、と疑わざるを得ない状況は、囚われ人をより追いつめる。 これ以上の感想は他のレビューアーさんにおまかせしますが、本書が岩波書店の雑誌に連載され、岩波から出版されたのも何か意味あるのかな。文芸書で定評のある(あった)S社もB社も、この小説中の出版社や編集者のように作家に圧力をかけるから? それにしても、アマゾンの書名検索で「日没」と入れてもヒットせず、桐野さんの著作からも外されている。これってどこかからの圧力、と思いたくないけど(次に試してみたときには正常になっていると期待します)。 | ||||
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この人の書く文章は、情景を思い浮かべやすく、まるで映画を見ている感覚で読書が出来るので好きです。 今回のストーリーは、なかなか奇抜で先の展開が読めず、ハラハラしながら物語に引き込まれてしまいました。 読み終えた後は、脱力感に見舞われました。 | ||||
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. 「表現抑圧」がテーマの「ディストピア小説」である。一種の「ホラー(恐怖小説)」でもあろう。 他のレビュアーもすでに指摘しているとおり、「ディストピア小説」の古典としては、オーウェルの『1984年』、ブラッドベリの『華氏451度』などがすぐに想起される。これらの作品は、国家が国民全体の「思想統制」を行なっている世界を、大きなスケール感で描いているのに対し、本作では、国家機関らしき謎の組織が、作家を個々に「思想矯正」する(ことで、間接的に国民全体の「思想統制」をしようとしている)というお話になっているので、話のスケールは小さく、物語はほぼ「病院の中」だけに終始する。つまり、拉致され、閉じこめられ、暴力的に思想矯正がなされる、というかたちで展開する物語であり、「国家体制の恐怖」よりも、もっと直接的な「主体性喪失の恐怖」が描かれている、と言ってもいいだろう。 そしてそうした点で、本作は、スティーブン・キングの『ミザリー』や、ジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』に近い味わいの作品だとも言えるのだ。 「倫理」を振りかざして「自由」を抑圧しようとするのは、国家の常態であって、決して珍しい話ではない。国家とは、もともと統制機関であり、個人の完全な自由など認めるわけもない。民主主義国家においては、主権者である国民個々の自由を最大限に尊重するというのが、前提条件でありタテマエともなっているが、国家を運営する側の人間、つまり権力者の側としては、個人の自由の制限は否応なく必要なものであり、より多く制限(統制)した方が、仕事としても「楽」に決まっている。 しかしまた、人は「自由」を求めるものであり、「国家」に対しては「最低限の制約で、最大限の福祉」を求めるだろう。だからこそ「権力を与えている」のだから、それは当然の要求なのだ。 そこで、この二つの「当然」は、いつでも対立する。 しかし、帯に惹句に『ポリコレ、ネット中傷、出版不況、国家の圧力。』とあるように、本書のテーマを、「国家による言論弾圧」を描いたもの、だと単純に理解するのは、たぶん間違いだ。 問題は、それだけではなく、むしろ『ポリコレ、ネット中傷、出版不況』の方なのではないだろうか。つまり、私たち自身が、多かれ少なかれ関わっている部分である。 例えば「ポリコレ」だが、これを口先で批判するのは簡単だ。だが、自分が(本作主人公のように)「差別される側」に立たされることを考えてみれば、「ポリティカル・コレクトネス(公正な表現もしくは言葉の使用)」の必要性を説く人たちの努力を、そう簡単に否定しさることなど出来ないのは明らかだろう。 確かに「弊害」はあるものの、もとより多くの「メリット」があるし、そもそもそれは「弱者のために」なされている「善意」の行動なのである。 次に「ネット中傷」。これも、そう簡単に否定できるものではない。と言うのも、「中傷」と「批判」は紙一重であり、もともと境界線など無いのだから、(本作でも示唆されるように)「中傷はいけません」という言葉は、そのまま「批評禁止」ということにすり替わりかねないのだ。 次に「出版不況」。これも簡単な問題ではない。人が本を読む動機は「面白いから」だと言って良いだろう。それが娯楽小説か、難解な哲学書かは別にして、人はそれが「面白いから」読むのであるが、しかし今の世の中には、新しくて「面白い」メディアやツールが溢れていて、なにも「本」を読まなければならないという理由は無い。 つまり、私たちが「面白いから」本を読むのであるかぎり、「出版不況」は必然的な流れであって、それを責めることなど誰にもできない。 しかし、これらの諸条件が重なって、作家は「自由に表現する」ということが難しくなってきている。 言い変えれば、これからの時代、「お金ももらい(原稿料や印税で生活し)」かつ「自由に書く」ことが、ますます困難になるというのは、ほぼ必然的なのだ。 なぜなら「自由」であることは「他人を傷つけるというリスク」をともなうし、昔とは違い、ネット社会では、作家が自由に書いた「表現」に対して、一般の読者が自由な「表現」として、直接的に反応を返してくる。「表現者」は、もはや「作家」だけではなく、すでに彼らは「特権的な地位」にはないから、特別に守られてもいないのだ。 また「出版不況」であれば、出版社が「売れるものを書け」と言うのは、資本主義社会における必然で、おのずと「自由」に書きたいのなら「趣味でやれ」あるいは「自費出版にしてください」ということにもなろう。そうしたきわめて厳しい局面にある現在、「良い作品なら、きっと売れる」などという甘い幻想など、とうてい持ちようもないのである。 つまり「表現の自由」と「金儲け」は、両立困難な時代になってきた。 自分の「自由」を守りたければ、出版社にも、読者にも頼らず、「本にならなかろうが、売れなかろうが、とにかく書きたいことを書く」しかない。そんな覚悟がなくては、「表現の自由」は守れない。「二兎を追う者は一兎をも得ず」なのである。 そして、そんな状況のなかで、さらに「国家の圧力」が加わる。 はたして作家は、それでも「表現の自由」を守り抜けるだろうか? 私たちが知っている「四畳半襖の下張裁判」や「サド裁判」など、「表現の自由」が争われた裁判は、「本が売れる時代」を背景としたものだということを忘れてはならない。今は、そんな悠長な時代ではないのである。 したがって、本作が「救いのない結末」を迎えるのも、言わば、必然的でもあれば合理的でもあったのだ。 はたして作家たちは、「職業作家」であることを諦め、それでも「自由に書き続ける覚悟」があるだろうか。読んでもらえないものでも、書き続ける覚悟があるだろうか。この「日没」の先に、ふたたび日の昇る朝(あした)がめぐり来ると信じることができるだろうか。その時まで、はたして持ちこたえられるだろうか。 「表現欲求」は死なないだろう。だが、生身の「職業作家」は、日の昇る朝まで、生き延びることができるのだだろうか。 「作家」殺しの実行犯は「国家」かも知れない。 しかし、その背後には、もはや「活字(本)」に「娯楽」しか求めなくなった、私たち「国民」のいることを忘れてはならない。 . | ||||
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反日、反社、などという言葉が跋扈しはじめていますが、それらの行く先を示唆した小説。 25年来の著者の敬虔なファンですが、久々の強烈な桐野節に打ちのめされています。 過去に「髭」というHNの見えない相手を発端に、出版業界と闘った内容を綴るエッセイ 「白蛇教異端審問」を思い出さずにはいられない。 それが書かれた頃(12、3年くらい前?)に比べると、社会を取り巻く環境は本当に驚くほど変化しています。 勿論それは人の心の変化も含めて。 明らかに考え方が浅くなってきている人たち。 反日が作り出す虚構新聞を「唯一の正しい情報」という旧態依然とした考え方を元にいまだ信じ続けている老人達。 スマホに写される中身も何も無い文字列や画像に一喜一憂し、狂喜する若者達。 それらが生きる社会の中で、国家権力は知らぬうちにどんどん国をある方向へ変えていっている。 この小説は、それらの行く先にあるものは何かという表現をしてくれています。 読んでいると暗澹たる気持ちになりますし、マッツ同様怒りに打ち震えます。 怒るのは、我々が自由だからということを再認識させてくれます。 安部公房の「闖入者」を読んだときの怒りの感情に似ていますね。 この作品が、多くの方の目に留まり、考えるきっかけになればと心から願います。 ◆蛇足です◆ それにしても今回は痺れましたよ。 過去に「キリノの毒に触れてみる」というキャッチコピーありましたが、正にキリノの毒。 これは多分「今だから書けた」のだと思います。 小説の創作活動を長くやってきて「ケンカ・キリノ」という名誉ある(?)称号を持つ著者が感じ取った中のものを書いたものであり、著者からの警告でもあるのでしょう。 あまりの筆致に読む手が止まりませんでした。 特に、多田とマッツのやりとりは、自分の頭の中ではそれは桐野氏の言葉であり、社会に向けて彼女が訴えたい事なんだと強く感じながら読んでいました。 レビュー書き始めた時も、まるで自分がマッツになったかのように、「こんな内容は書いていいだろうか。反社ではないか。国の機関がどこかで検閲していて、後々自分の不利益になるのではないか。」 などと考えてしまうほど、自分の心に訴えかけた小説でした。 久々に痺れるほどの桐野節に触れることが出来て、やっぱりファンやっていてよかったなと感じています。 | ||||
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まず前提として、読みやすいです。 次にユニークですので、ぐいぐい引き込まれて、すいすい読めちゃいます。 そしてスリリングです。 何が、というと、物語的にハッピーエンドを期待するものの、主人公(と著者も?)が“良い小説”を否定する立場をとっているので、ご都合的なみんな幸せ、な終わり方をすると(まだ読み途中ですが、このままでは)矛盾、もしくは破綻してしまう、、という、匂いを出しているからです。 どう終わるんだろう?マッツには救われて欲しい。でも安易な展開は多田の思い通りと言えるし。。。 これを打開できるアイデアに期待して、読み進めています…! | ||||
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ふだん小説はあまり読まないのですが、「王様のブランチ」で桐野さんのインタビューをみて買っちゃいました。読み始めると、展開が気になって一気に最後まで…。そんな本でした。 令和初期の作家、知識人の心象風景を抉り出したような作品です。物語の時代は「ヘイトスピーチ法」が成立して1年半後ですから、2018年ぐらいでしょうか?「総務省なんたら委員会」が規制しようとする表現物もリアルで、現代日本の出版世界を反映したものとなってます。作中の「療養所」に収監された作家には、反原発小説を書いていた人もいますが、ポリティカルコレクトネス「違反」で収容された人が少なからずいます。主人公マッツもその一人で、取り調べで恣意的なポリコレ適用に強く抗議しています。現在の日本でモノを書く場合、強い圧力となっているのが何者であるのか、窺えるところです。 さらに現代的なのは、読者・一般大衆の存在です。ディストピア小説の古典「1984年」や「華氏451度」では、抵抗する知識人vs圧倒的権力を持つ独裁体制の構図の下、一般大衆は権力に踊らされているだけでなんとも影が薄いのですが、本作では違います。作家を「総務省なんたら委員会」に告発するだけではなく、看守「秋海」さんととして作家、文壇の偽善性、上級国民性をイヤらしく追及してきます。一方の文壇サイドの独善性もリアル(?)に描写されています。マッツ達が「知性」を認める対象は見事に作家か、元作家に限定されています。彼らにとって、他の人々、看守はもとより役人も医者も「愚昧な人間」、「素人」、「想像力を必要としない程度に鈍い人々」なのです。大衆に否定され、国家に追われ、頼れる(かもしれない)のは作家仲間のみ…。本作のラストは衝撃的なのですが、必然のようにも思えました。 私は、ラストよりも某作家の「遺書」にぞっとするものを感じました。この遺書は、1984年のゴールドスタインの著作のように、物語のタネを半分だけ明かしてくれる、重要な役割を持っています。遺書を書いた作家は、時代小説に差別的なセリフがあったために療養所入りとなった人物です。この遺書によれば、問題となったセリフは「先住民族に対する蔑称」が使われていたとあります。しかし、「先住民族に対する蔑称」とは、実に役所的で、作中ではむしろ所長あたりが使いそうな表現です。作家なら、問題視された「蔑称」そのものを記すのが自然であるように思われます。作品に自負を持ってきた作家が、最期の「自由」な時間に書いたものとしては不自然さが否めません。なぜこのような表現になったのでしょうか。遺書の続きの部分では、断章取義で「人種差別的作家のレッテル」を貼られることの恐ろしさが述べられていますが、これは小説の中のできごととは言えません、現実の日本においても、特定の民族の蔑称を作品に書くのはリスキーな所業となっています。差別主義者レッテルの恐怖は、“今、みんなが目覚めて戦えば回避できる近未来のできごと”ではありません。既に我々の言論文化を取り巻いている現実です。 現実の総務省になんたら委員会はまだ設置されていませんが、それを待ち望んでいる「秋海」さんたちはもう世に満ちている─そんなことを考えさせてくれる小説でした。 | ||||
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この小説は一人称で書かれているので、主人公がどこまで読者に本当のことを語っているのかが最後まで分からない、現実と妄想、語りと騙りが混ざり合い、真相がぼやけることを一貫している小説でもあります。まずこのことを踏まえます。 次に、精神科患者に対する偏見はこんなに酷いことなのですよと訴えるのは、今まで他のノンフィクション作家などが散々訴えてきた問題提起でもあり、そもそも桐野夏生が今さら小説に使うかと、ちょっと疑問に感じます。それでも作者がこの描写の必要性を感じたのには理由があるはずです。 帯にもありましたが「表現の不自由」は今回の作品のテーマでした。 「社会に適応しろ、できないやつは強制的に更生させる」 マッツは問題を被っている世の中の(読者を含めた)大勢の中の代表として作品の中に存在しているようにみえ、また、マッツの見たこと聞いたこと感じたことを社会問題としてテーマにしているように感じるけれども、上段に記した、ぼやけた真相のなかの論理から考えると、実は、あくまでも周りは関係なく、(一人称故に嘘か誠かわからない)マッツ個人だけの物語であるという構成が成り立たないでしょうか。つまり、古臭いと形容してもおかしくないような、「差別意識、それによる奴隷制の是」をマッツ個人の価値判断に裏打ちされた物語。 小理屈を申しましたが、読み始めスタートからグイグイと読者をひっぱり、最後まで一気にゴールさせられます。リーダビリティは流石です。 この本は、身近に読書が大好きで、沢山の本を読む友達がいて、新刊が出れば必ず読む作家さんの作品です。自分も影響を受けて読みました。大正解でした! 是非、一読をお薦めします!! | ||||
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面白すぎて読み終えるのがもったいなく、一気に読みたい気持ちを堪えて少しずつ読みました。読み終わってからまた最初から読み始めました。やはり桐野夏生さんの作品は切れ味最高です。 | ||||
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昨日、桐野夏生の小説『日没』(岩波書店)を一気に読了した。 怖かった、とても。 しかし途中で止めることなど出来なかった。 日本学術会議での菅首相による任命拒否の問題が社会的に大きな問題になっているこのタイミングでの刊行に慄然とする。 しかし今僕らはこの怖さから目を逸らさずこのジョージ・オーウェルの『1984』にも匹敵するようなディストピア小説の描く世界を直視し「正しく絶望する」ことから始めるしかないかも知れない。 | ||||
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ある日突然、国から召喚状が届く。その召喚に従って千葉と茨城の県境まで出向いていくエンタメ(のくくりにされている)女性小説家。読者から寄せられた著作本へのクレームにより「ブンリン」と呼ばれる療養所で、風俗を乱す小説執筆をやめるように「療養」を促される。 桐野さん著作はほとんど読んでいますが、これほどの恐怖を感じながら読んだのは初めてでした。その恐怖がどこにあるのかと振り返ったとき、小説の話の全てが今生きている世界と地続きであるという恐怖。また自分自身が小説に出てくる登場人物と紙一重かもしれない、と感じる恐怖。さらに自分の信念や正気は、これまで映画でみてきたような拷問などを行わなくても、いとも簡単に失われるかもしれない、という恐怖。21世紀になって綻びを見せ始めている近代社会の理念(人権、法治国家、精神病への扱い、非正規労働者)の問題をこれでもかというほど正面から扱い、読者の目の前につきつけてくる作品です。 桐野さんの著作は初期の頃、絶望の中でもある種の覚悟としたたかさをもって生き延びようとする強い女性がヒロインでした。ですがこの著書ではこの主人公がどうなるか、を読者自身が覚悟をもって読み進めることになります。ジョージ・オーウェル『1984』の権力よりも、巧妙で鈍く絡めとられている自分自身が理解できない「国家」権力。本を読んで作者に楽しませてもらい自分の生き方を探す、という時代の終焉を感じた1日でした。 | ||||
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①総務省文化局文化倫理向上委員会という謎の国家組織。主人公の女性エロ作家が招集に応じたのが運の尽きだ。 ②「表現の自由」は憲法第21条で保障されている。「身体の自由」も保障されていて、裁判官の令状なくして警察官も現行犯以外は容疑者の身柄を拘束することは出来ないのだ。主人公は招集を拒否し、あくまでも裁判で争えば良かったのだ。 ③公序良俗=公共の福祉による表現の自由の制限は、近年ではほとんど見られない。『チャタレイ夫人の恋人』が不倫や露骨な性的描写を理由に出版差し止めになった判決事例はあるが、それは戦後なもなくの国民の性のモラルが厳しかった時代の話であり、現在ではポルノ映画でさえ、R(年齢)制限をクリアーすれば誰でもOKである。 ④こうした理由により、露骨な性描写による著者の反省(矯正)はナンセンスであり、荒唐無稽である。本書のようなストーリーはむしろ国家権力の悪用(濫用)として行政裁判になるに違いない。 ⑤しかし、この療養所と称した矯正施設での治療(矯正)のストーリーは面白く、作家と職員の言葉の応酬は大変ユーモラスで、怒りと馬鹿らしさに満ちている。創作の場面をこの収容所に限定しているのが成功の秘訣だ。ここには政府も大臣も国家権力の中枢は登場しない。それが良い。 一気読み必至である。 ブラックユーモアとしても読める小説だ。 お勧めの一冊だ。 | ||||
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61ページ 権力はひとつ妥協すれば、ひとつ罠をしかける。 185ページ 政府の言うことを聞く愚民を大量生産することにあるのでしょう。 雑誌「文学」と「世界」に掲載された物に加筆・修正をくわえたもの、とあるので 内容を知っている方もいると思う。 強いて言えば、映画パピョンとシャッターアイランド、ザ・ウォード、時計じかけのオレンジを 合わせたような作品。ミステリー仕立ての社会派作品。 本作は、youtube「野菜デモラジオ」に桐野夏生さんが出演された時に知った物。 その話の中で「修正」と上にあるように、かなり現在では出版社側は体制に対して媚を売り 書き手に圧力をかけてくるとおっしゃっていた。 この作品は、おそらく入院経験を基にしてお書きになったものだろうと思う。 私も2007年に1週間入院したが。やはり辛かった。 点滴の針は、5㎝ぐらいのコの字型で、映画やドラマのように簡単に抜ける代物ではない。 たまに、ヘタをすると逆流してホースの中に血が流れ込むが『痛い!』。 また、怖ろしい事に、高校出たてと思われる新人看護師の実験台にされて 何度も針の刺し直しをされた経験もある。 食事は、はっきり言って「お供え」程度だが、ご飯と味噌汁がお替り可能なのが 嬉しかった。それでも残飯に入れに入れる人の方が多かったのには驚いた。 団体部屋で、昼夜逆転の老人がいて、夜電気とTVを点けっ放しにしていて同室の者達から 苦情が出ていたが、ある日突然いなくなった。 退院だったら、ささやかな造花が机の上に置かれるのだが、それもなかった。当然荷物は 置いたまま。 総合病院だったから、おそらく精神科にでも移されたのだろうか? この作品は、当然フィクションである。しかし次期憲法ではやたらと「公益」が連呼されている。 185ページの愚民にならないためにも、是非読んで欲しい。 菅(かん)主主義をしっかり見極めれば、まだ間に合うのだから。 | ||||
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今の世界風潮を媒体小説にて描きだされた、戦慄を覚える怖い話。 最初か最後の一行まで呼吸は浅くなる読書体験となった。 しかし怖いのはやっぱ、一人一人が無責任な同調風潮だったり権力、組織のこわさ。 あとは集団心理とか・・・ でも桐野さんらしい作風だし、主人公のめげないところも痛々しくも頼もしくも、怖くも、いろいろ思う。 すばらしい作品! | ||||
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