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ザリガニの鳴くところ
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ザリガニの鳴くところの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.39pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全243件 141~160 8/13ページ
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1969年、ノースカロライナ州の湿地帯にある火の見櫓から若い男チェイス・アンドルーズの転落遺体が発見される。事故なのか、事件なのか。地元の保安官が進める捜査線上に、「湿地の少女」と言われてきた女が容疑者として浮上する。“少女”の名は、キャサリン・“カイア”・クラーク。母も兄も姉も、そして父までもが昔、彼女を置いて村を出てしまっていた。天涯孤独の身のカイアは、果たしてチェイスを殺したのか……? ---------------- 2018年にアメリカで出版されると、ベストセラーとなり、昨2020年に出た邦訳は本屋大賞・翻訳小説部門で1位に輝いたという話題の書です。 物語の仕立ては、犯人探しのミステリーですが、その一方、1960年代の貧困白人層の末娘が文字も読めない生活から少しずつ人生を切り開いていく教養小説(Bildungsroman)でもあり、アメリカの大自然豊かな湿地帯に暮らす人々の人種差別や経済格差を描く社会小説でもあります。そうした幅広いジャンルを横断しながら、主人公とともに成長を感じられる見事な小説です。 カイアが恋をし、裏切られる切なさが胸に迫ります。 最後に意外な犯人が、意外な形で明らかになる様子には大いに驚かされるとともに、上質のミステリーを読んだという満足感を味わえました。 友廣純氏の翻訳は実に読みやすく、翻訳調のバタ臭さは微塵もありません。500頁を超える大部の書ですが、すいすいと読み進めることができます。こうした日本語が書けることが羨ましく感じられます。 ------------------------ この小説を読みながら、二つの作品を思い出していました。以下に紹介しておきます。 ◆J.D.ヴァンス『 ヒルビリー エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち 』(光文社) :ヒルビリーとは、アイルランドのアルスター地方から主にアパラチア山脈周辺のケンタッキー州やウェスト・ヴァージニア州に住み着いたスコッツ・アイリッシュのこと。著者のJ.D.ヴァンスは1984年にケンタッキー州の北隣に位置するオハイオ州ミドルタウンのヒルビリー出身の親のもとに生まれました。これは彼の自叙伝であるとともに、アメリカの<忘れられた白人労働者階級>の現状を描いた書です。教育を受ける機会と意志をもつこと、そして努力を続けることがいかに人生を向上させることか。それを鮮烈な形で示してくれる優れたノンフィクションです。 ◆映画『 ネル 』(1994年) :ノースカロライナ州の山で奇妙な言葉を話す女性が発見される。彼女は言葉が不自由な母親に育てられ、教育を受けたことがない女性ネルだった……。ジョディ・フォスターがアカデミー主演女優賞の候補になった作品です。 | ||||
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ミステリーとしては低評価。 読み物としてもそれほど面白いものではない。 過大評価というやつ。 | ||||
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人里離れた湿地で「湿地の少女」と町の人間から蔑まれながらも天涯孤独で逞しく成長する少女の成長を縦糸に、町での殺人事件を横糸に織りなして語られる物語。黒人差別・プアホワイト・南東部の田舎町・殺人・・はじめはフォークナー的な陰惨な物語かと思ったがさにあらず。 少女の居場所である湿地・入り江は、むせ返るほど豊穣で牧歌的に描写され、人間社会から拒絶された少女のサンクチュアリだったことがうかがえる。 少女は成長の過程で、「なぜ母親は自分を置き去りにしたか」何度も自問自答するが、結局「ケガをした赤ん坊を捨てたキツネ」のように、DVをはたらく父親により共倒れされるより、種として生存することを優先した判断であると思い至る。(母親はあとで強い後悔の念に至ったことが後であかされるが) これが少女の価値観に大きく影を落としたいるように思える。 動物学者である著者は、ホタルやカマキリの例を引き、ある個体が、じしんの生存のために別の個体を利用することがあるが(たとえばホタルの雌は、雄を交尾を誘いながら食い殺す)、この行為は結果として種の持続に貢献しており、その行為に善悪はないとしきりに描く。 成長後の主人公は、社会的に恵まれずとも外見も学の才にも恵まれて魅力的な男性二人から言い寄られる(一方は生殖目当てだけど)。いわば遺伝子強者であったが、自身の安全のために「ホタル」的な行為を働く。そしてその行為をホタルの生存戦略を例にとり、内心で正当化していたことが死後に判明する 主人公は結果、社会的な名声を獲得するとともにパートナーにも恵まれた、しかし、結局は幼いときの母親に棄てられた経験から、「ホタル」のような自然本位の価値観からはなれられず、心のどこかでは「ザリガニの鳴くところ」(自然の奥深くで、生物が生物であり続けるところ)を探し続けていたかのように思える。そう思うと、単純な少女の成長譚ではなく、そこはかとない恐怖感ともの悲しさが湧いてくるのである。 | ||||
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湿地で逞しく暮らす少女の成長物語。親の暴力と闘い、差別、貧困と闘い、ごくたまに優しさという休息を得て、また偏見と闘う。自然で育った少女は強かった。 | ||||
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圧倒的な孤独の中を生きる少女の人生をただただ祈りながら読み続けた。 家族や恋人に幾度となく捨てられても、また人との繋がりに焦がれてしまう。 そんな孤独と共生の狭間で揺れ動く心情が生々しく表現されていた。 また、湿地や動物など自然豊かな描写が美しかった。 ㅤ 事件の真相は、墓場まで持っていく。 | ||||
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(ネタバレ注意) 誰もが最初に疑問に思うのは、果たしてザリガニは「鳴く」のかと言うことだろう。原文では「鳴く」のところはsingである。だから直訳すれば「ザリガニの歌うところ」となる。鳴くと歌うとでは若干感じが違う。鳴くにはおそらくストレス下にある場合も含むであろうが、singにはストレスはかかっていまい。すなわち、「ザリガニが自由にのびのびと暮らしているところ」といったほどの意味であろうか。言い換えれば、人間の開発や干渉が及んでいないところ、か。しかし、本文中ではとってつけたほどしか出てこないザリガニが、なぜ本の題名にまでなっているのか?彼女が一番お世話になったのはmusselsイガイであり、本来ならば「イガイの鳴くところ」とでもすべきだろうが、そうすれば毎日のようにイガイを大量に掘り、それを売りさばいて生計を立てている彼女自身が生態系の破壊者であることを想起させてしまうからだろう。 原文で読んだ。95%位(盛りすぎ?)はまぁまぁ正しく理解したと思うが、残りの5%ぐらいは意味不明だったり、適当に読み飛ばしたり、誤解したりしていると思う。大勢に影響ないとしておこう。(ところで、日本語の本のここに投稿するのは不適当かもしれないがお許しを。) 親からも兄弟姉妹からも見捨てられ去られて、天涯孤独の身となった6歳の少女Kyaの死ぬまでの物語である。彼女はたくましく、また反面半ば臆病に生き、そして成長していく。そこに殺人事件が絡んでくるが、これはおそらく読者を最後のページまで誘導するための作者の仕掛けであって、決定的に重大な意味を持っているようには思えない。法廷場面が好きな私は、そこを一番ワクワクしながら読んだが、読み方としては邪道と言えるかもしれない。しかし、この仕掛けがなければ、涙を誘う部分があるとは言え、前半はやや退屈である。 主人公の次に重要な意味を持つのは、ノースカロライナの湿地帯marshであろう。そこは彼女の棲家であり、遊び場であり、学びの場であり、食料の供給源であり、収入の源でもあった。そこは、日本でよくあるように、洪水や台風や地震といった自然の猛威といったものは、少なくとも彼女の命が尽きるまでの60年間ほどは一度もなく、彼女がshackと呼ぶボロ家も、多少手を入れたとはいえその年月無事に立ち続け、ストーブとともに彼女のアイデンティティーの重要な一部をなす。母親の帰りを待つためにも、そしてもはや帰ってこないとわかってからも、出て行った母親の記憶を留めるためにも、それはそこにそのままの形で必要だったのである。 また一方湿地帯は、そこは彼女がmarsh girlとして村人からあざけられ差別される原因であり、また同時に彼女を村人から守ってくれるシェルターでもあった。湿地帯はアクセスの障壁であり、その障壁を越えてやってくる2人の男を彼女は愛し、裏切られ、憎み、また愛し、そして・・・殺す(順不同)。 チェイス殺害の罪で彼女は起訴される。確たる証拠は何もない。はたして彼女は無罪の評決を得る。しかし、物語の最後に実は彼女が真犯人であったことが明かされる。メスのホタルが偽の光の明滅でオスをお引き寄せるように、彼女はチェイスを火の見櫓にお引き寄せ、そして突き落としたのだった。彼女に人を殺めたことに対する葛藤はなかったのだろうか。そこは何も書かれていない。が,なかったはずがない。最後の最後でのどんでん返しに導くために、作者は書くことができなかったのである。それは、この小説の重大な欠点と言わなければならないだろう。 この結末には納得できない。元来、作家はその主人公を煮て食おうが焼いて食おうが勝手であって、読者が文句を言う筋合いは無い。しかし、主人公Kyaには、いかに人に去られ、捨てられ、孤独であっても、on her own で、すなわち独力で生きていくと言う一種の気高さ、矜持があったのではなかったか。そうであるならば作者にも、主人公を最後までそのように生きさせる矜持が同じくあって欲しかった。例えどんでん返しなどなくても、である。それが、この小説を後味の悪いものにしていると思う。ただ、彼女が子供に恵まれなかった事は、わずかではあるがこれに対する天からの罰であったのかもしれない。(逆に天恵とも解釈できるが。) 振り返って、彼女の一生は幸せだったのだろうか。他人から見れば惨めだった少女時代、その中にも楽しかったテイトとの学びの日々と裏切り。チェイスとのこと。本を書いて名声と大金を得た娘時代、それはまた同時に一級殺人罪で法廷に立たされた苦難の時代でもあった。無罪獲得後のテイトとの撚り戻しと結婚。それ以後の愛と自由な生活と早すぎる突然の死。葬式の参列者の多さが、彼女の晩年が幸せであったと暗示しているようでもあるが、殺されなければならないほど悪人であったとも思えないチェイスの落下する瞬間の眼差しを、おそらくは時にふれ思い出したであろう彼女が、本当に幸せであったかどうかは、私にはわからない。 読んでいるうちに物語に対する疑問が、湿地帯の水のようにふつふつと湧いてくるが、長くなるので1つだけ書いておく。彼女が殺害現場に向かう際に時間節約の元になったとされる潮流は、帰りには逆流となって船足を遅らせるので、結局何の助けにもならなかったのではないだろうか。 ところで、今日は「広島原爆の日」ですが、Kyaの生まれたのは広島に原爆が落とされた2ヶ月後です。 | ||||
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主人公に移入し、裁判の場面などこの手があったかと感心しました。 最後の1−2頁はびっくりでした。 | ||||
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読み物として、面白いのは面白いです。 特にヒロインの幼少期は、とっても可哀想で切ない。まあ、これ系好きな人は「レミゼラブル」があるし、別に新鮮というわけでも無いけど。でも、幼い少女があまりにも顧みられない社会って、ちょっと酷いよね。可哀想で読んでらんない。そんな社会有る? おそらく歯磨きの習慣も、躾もマナーも無い、栄養状態さえ悪い少女がシンデレラのように美しく魅力的に成長する。もろもろにリアリティーを感じられるか? おとぎ話や遠い外国の話としてなら理解できるのかな~。 そんな希有な状況下で、奇跡的に湿地でたった一人生きることになった少女は、やがて殺人事件の容疑者となる。 作者は著名な動物行動学者なので、動物の生態をときどき人間社会に置き換えたりして、その描写が面白い。 以下ネタバレ注意。 「ザリガニの鳴くところ」という場所は結局出てこない、一度だけ言葉が出たきり。 しかし、これは結末がそうなんでしょうね。人間のルールが通用しない場所という意味でしょう。 ヒロインは、自然のルールにおいて問題を処理した。それは、人間社会のルールを超えた自然の原則があった。 ヒロインが心の支えにしていた作家、実はヒロイン自身というオチ。でも、作家は母親が好きだった作家じゃ無かったけ? 当然幼少期には、文字も書けないし、もしかしたら、母親がオリジナルの詩人だったて事かな? そもそも、詩人の存在を意識していたのはヒロイン自身で、ヒロインはずっと孤独。叙情トリックにしても独りよがり過ぎるでしょ…。 裁判でさんざん、時系列的な犯行不可能性を指摘しておきながら、犯行のトリックは一切説明無し。まあ、ええか! 要は、自然は残酷。 人間社会の善悪やルールは、あくまで人間の作った物にすぎない。動物の研究をしている人が、よく言うセリフですが、それを物語にした作品。 70歳の女性学者の処女作で、いろいろ荒っぽい部分もあるんだけど、一般的には普通におすすめできる良書! かな? | ||||
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打ち捨てられた少女が生き抜く姿、無視する多くの人、助けるわずかな人、 法廷闘争、サスペンス要素等々、素晴らしい本です。世界を見れば、 素晴らしい本がある。 | ||||
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久しぶりにページをめくる手が止められず、徹夜しそうになりました。 世界観も学者さんならではで新鮮でしたし、この世界のどこかに主人公が生きている感じがあって、物語に没頭できた幸せな時間でした。 | ||||
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ミステリーものだと思ってたが、全くの別物。 詩に興味がある人には良作と感じられるかもしれない。 最後のネタで、良いと取るか悪いと取るかで評価は真っ二つにわかれる。自分は悪い意味で裏切られた感じですね。 | ||||
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母親に捨てられ、父親に虐待され、 孤独を生きる少女が 寿命を迎えるまでの話でした。 売れた、だとかベストセラー、だとか そういった類のものには手を出しませんが、 帯の書評が曖昧で内容を思わせないところに惹かれ購入、終盤までは一気に読みました。 それから一月以上放置、からの読み切り。 親との関係で孤独を感じ、 恋人との関係にも行き詰まった人には いい話かもしれません。 孤独と共に生きる人には、 この主人公が自分に思えるかも。 私もそうでした。 主人公が自分を捨てた母親との記憶や 感情に折り合いをつけるところまで描かれているのが大変よかったです。 売れてる作品は避けてしまう私ですが、 これは買って読んでよかったな。 | ||||
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まるでアメリカ南部の古典的な時代小説にも感じる作品です。主人公の困難で不安定な状況がくるくる変わり、早く幸せになってほしいなとドキドキしながら読み進めました。読後の正直な感想は、自分がもしアメリカで生まれたならもっと深く入り込めたかもしれない。スタンドバイミーやクリントイーストウッド作品のような時代設定と背景描写。湿地、川、森、砂埃、海と自然が近くに描写されますが、そこにあるのはやはり人間。そして何ともアメリカ的。クランベリーソースに漠然とした憧れのあった世代の私としては、もう少し若い頃に読んでみたかったです。 | ||||
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二度目読了してもこれほどの高評価の理由がよく分かりません。 鳥の羽がとても美しいことがよく伝わったのでこれからは落ちているカラスの羽さえ凝視します。そして美しさを認めるのでしょう。 でも6歳(完全一人になったのはその後ですが)の子供が一人で湿地で生き続けることができるほど夏も冬も自然は優しいのでしょうか。 一切の社会経験や学習経験がないにも関わらず14歳まで文字さえ知らなかった人間が一人の助け(しかも助ける当人も成長途上)だけで大きな知識を携えた人物になることは可能なのでしょうか。 1960年代とはいえ、子供が一人でいるところに全くの心のこもった支援がいかないのは、子供の権利を守ろうとするアメリカであり得るのでしょうか。 教育なくも大いなる王になった「ライオンキング」的小説でした。 繊細で力強い自然描写のあるファンタジーと思えば星3・5、大人向けミステリーと思えば星3。 | ||||
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原本を読みました。めちゃくちゃきれいでしたね。自分はまだ、英語能力の幼稚さもあって英語できれいな文を楽しむという領域に達せてなかったのですがこの本は引き込まれるように読んでしまいました。そのきれい世界にずっと浸ってたいがあまり読み終えてしまったときはたしかに涙が出そうになりました。 | ||||
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自分には、《 印刷の活字が薄く かつ行間が狭い》と感じつつも 《訳が素直に良い 進める》と 歳を 置きおいて 眼をウドウドさせながらも 湿地の情景に 惹かれて読んだ。移動の手段が ボート それが 想像をかきたてる。義務教育を全く受けずにも《1日 登校したのみ》本が出版出来たというのが 興味深い。小動物や鳥たち 拘置所でも 猫の 登場で 頑なに孤独で生きる分 小動物たちへの愛情は深い。衝撃の?結末で らいねん上映予定の 映画への ドキドキハラハラ感は 限りなく 薄れたが。その分 背景 情景 主人公 カイラの秘めたる 芯の部分 どんなに出来上がるか たのしみ。キーワードは 《 し 》かな。 | ||||
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この本に出会えて主人公カイアと生きることができた時間は至福だった。息を詰めるように、読み終わってしまうのが惜しいような気持ちで読んだ。淡々としながらも詩情豊かに語られる湿地の自然と生き物たち。風に震える名もなきようなカイアの生きざま。 何度も読み返したい本に巡り会えた幸せを噛み締めています。胸のなかにカイアが住みつきました。 | ||||
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読んで、残る本なので買ってよかった。それがすべてかな。 ナタバレなので、読んでない人はここから読まないでね! ミステリーは無理があり過ぎ。小説だから仕方ないけど、 夜中のその時間に、その場所にどうやって呼び寄せた? 相手も虫じゃないんだから(笑) たとえ、よびよせる方法があったとしても、 そんな真夜中に呼び出されたら、相手だって警戒するし かんたんに誘いに乗らないでしょう。 しかも血眼になって探している最中に! 殺人事件の要素はいれる必要がなかったね! でも読む価値のあるいい本。 | ||||
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Amazonの中古単行本『非常に良い』だと本当に程度がいいものが続いていたのですが、こちらは色ハゲが目立ちました。 200円の差なら新品にすれば良かったです。 またクロネコヤマトで届いたのですが、荷物がタバコ臭かったです。 | ||||
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私は作者の作品は初読で、それもその筈、本作は作者が69歳で執筆した初の小説(半自伝的小説の趣きさえある)だからである。作者は動物学者で"湿地"の保全活動に取り組んでいる由で本作の舞台もノース・カロライナ州の湿地。本作はヒロインである湿地のほとりの小屋に住むカイアの物語であるのだが、「湿地は不毛に見えて、実は(「ザリガニ」を含む)多様な生き物に満ちた豊饒・神聖な地で、湿地はそこに住む人々と外界との境界線」という作者の持論が1つの主旋律となっている。 まず、プロローグで1969年に住民のチェイスが"沼地"で遺体で発見された事が提示される。ここからは、1952年(この時、カイア6歳)から始まるカイアの成長に沿った章と1969年のチェイスの事件に係わる章とがカットバックで描かれる。頑固な父親(と経済的困窮)のために兄弟姉妹や母親が次々と家出し、唯一残っていた兄のジョディも去ってしまった孤独。6歳のカイアが"読み書き"が出来ない等の事由で学校を忌避し、「湿地が自身の母親」と思うという孤絶。その父親も姿を見せなくなり、いよいよ困窮したカイアが"魚の燻製"を作って金を稼ぐ経緯と森に詳しいテートという少年と知り合いとなり、そのテートがカイアに"読み書き"を教える経緯。学校へ連れ戻そうとする連中から逃れるために湿地に潜伏しようとするカイアに向かって、テートが「ザリガニの鳴くところ」(生き物が自然のままで生きてる場所)で会おうと言うエピソード。そのテートとの女性としての自然な関係を育むが、初体験寸前でテートが"湿地"の研究をする生物学者になるために大学進学をする事を告げられ、これまでの多くの人に対してと同様"待ち人"となるというエピソード。テートが"湿地"を出て"沼地"へと行った(境界線を出た)ため、チェイスに遊ばれ初体験をしてしまい、様子を見に来たテートも拒絶し、「1人で人生を生きなければいけない」と決意する悲愴及び「何があっても揺るがないのは自然だけ」という悟り(作者の思惟でもあろう)。 尚、1969年の章の目的はカイアをチェイス殺人の容疑者として逮捕し裁判に掛ける事にある。ラスト近く、裁判の模様が詳細かつ科学的に綴られるが、割愛して、結局、カイアは無実で、ラストはカイアとテートが「ザリガニの鳴くところ」で愛の巣を営むという大団円。感じたのは作者の信念の強さと同時に、苛酷なカイアの運命とは対照的な作品から漂って来る美しさである。自然描写の美しさは勿論だが、テートに教えられた"読み書き"に依ってカイアが有名詩人の詩を口ずさむ文字通り詩的な美しさが特に印象に残った。カイアという苛酷な運命を背負った少女の半生を通して、<差別問題>を扱うと共に、自然描写の美しさ・詩的な美しさが読者に感動を与える傑作だと思った。 | ||||
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