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罪と罰
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【この小説が収録されている参考書籍】
罪と罰の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.34pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全425件 41~60 3/22ページ
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人間は<高い地位>と<他の人々>に二分され、<特殊な人々>は法律の適用を受けないばかりか<他の人々=材料=ゴミ>のために法律を作ってやる。そして、特殊な人々である天才たちは小さな悪を平気で踏み越えていく…。つまり、「大きな目的が善を目ざしていれば、一つくらいの悪業は許される」。こんな思想を持った主人公のラスコーリニコフ君が、「しらみ(虱)」と形容する金貸しの老婆とその妹を斧で殴り殺す…というところから物語は始まる。 例によって、いつもの捻くれたねちっこい文章が延々と続いていき、読者は次第にそのしつこさの魅力に取り込まれていく訳で、最初はとっつきにくく感じられても、次第に「読み進めずにはいられない」状態となってしまうのだが、とにかくその文章・物語に込められた熱量が無駄に凄まじく、圧倒される。 とはいえ、そこまで重要な作品かというと、そこまででも…。確かに打ちのめされる程の力が感じられるとまでは言えないまでも、「聖なる娼婦」ソーニャとの会話でラスコーリニコフ君が意地悪く語る「神なんてぜんぜん存在しないかもしれないよ」という一言や、ソーニャの母親であるカテリーナ・イワーノヴナの「世の中に正義というものがないのでしょうか!」という興奮した叫び声には強く心を打たれ、考えさせられるところも無いではない。しかし、あまり話は深まらずに物語の最後まで進んでいってしまうので、なんとも拍子抜けしてしまう。『カラマーゾフ』ほどの豊かさは、ここには無いと思う。 翻訳は工藤精一郎であまり話題に上る人ではないし、古臭い表現なども目にはつくものの、別に読みにくいほどの古臭さでもなく、その文章の熱量というか暑苦しさがとても上手く滲み出る訳であって非常にドストエフスキー向きだと感じられ、私は結構好きである。光文社から出ている亀山訳とも読み比べてみたりしたが、やっぱり工藤訳の方が心に響いた。また、巻末の解説は非常に理解しやすく親切な内容になっている(が、ネタバレ気味なので最初には読まないほうが良い)。 | ||||
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人間は<高い地位>と<他の人々>に二分され、<特殊な人々>は法律の適用を受けないばかりか<他の人々=材料=ゴミ>のために法律を作ってやる。そして、特殊な人々である天才たちは小さな悪を平気で踏み越えていく…。つまり、「大きな目的が善を目ざしていれば、一つくらいの悪業は許される」。こんな思想を持った主人公のラスコーリニコフ君が、「しらみ(虱)」と形容する金貸しの老婆とその妹を斧で殴り殺す…というところから物語は始まる。 例によって、いつもの捻くれたねちっこい文章が延々と続いていき、読者は次第にそのしつこさの魅力に取り込まれていく訳で、最初はとっつきにくく感じられても、次第に「読み進めずにはいられない」状態となってしまうのだが、とにかくその文章・物語に込められた熱量が無駄に凄まじく、圧倒される。 とはいえ、そこまで重要な作品かというと、そこまででも…。確かに打ちのめされる程の力が感じられるとまでは言えないまでも、「聖なる娼婦」ソーニャとの会話でラスコーリニコフ君が意地悪く語る「神なんてぜんぜん存在しないかもしれないよ」という一言や、ソーニャの母親であるカテリーナ・イワーノヴナの「世の中に正義というものがないのでしょうか!」という興奮した叫び声には強く心を打たれ、考えさせられるところも無いではない。しかし、あまり話は深まらずに物語の最後まで進んでいってしまうので、なんとも拍子抜けしてしまう。『カラマーゾフ』ほどの豊かさは、ここには無いと思う。 翻訳は工藤精一郎であまり話題に上る人ではないし、古臭い表現なども目にはつくものの、別に読みにくいほどの古臭さでもなく、その文章の熱量というか暑苦しさがとても上手く滲み出る訳であって非常にドストエフスキー向きだと感じられ、私は結構好きである。光文社から出ている亀山訳とも読み比べたりしてみたが、やっぱり工藤訳の方が心に響いた。また、巻末の解説は非常に理解しやすく親切な内容になっている(が、ネタバレ気味なので最初には読まないほうが良い)。 | ||||
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まずサスペンス小説として面白い。長編だが、ぐいぐいと引き込まれて一気に読んでしまうと思う。 | ||||
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読み進んでいきながら、主人公ラスコーリニコフの心には二つの流れがあるのではないかと思った。彼は、老婆とその妹リザヴェータを殺害した後、二つの感情のはざまで苦しむ。一つは、自分は思想的に悪いことをしていないのだから、捕まりたくない、捕まってたまるかという強い感情。もう一つは、自分ではどうしようもなく心が動揺し、心の平安を取り戻すにはもう自ら名乗り出るしかないのではないかという(どうしようもない)感情。これら二つの流れはどう収束していくだろうか。 まず第一の流れについて。ラスコーリニコフは、思想的に自分は悪いことをしたのではないという考えからあくまで頑張りぬこうと思うのだが、そうなると、たとえば自分を逮捕する側の人たちに対しては疑心暗鬼に陥ってしまう。そして、気絶したり、自分のうわごとを気にしたり、大変な重圧を感じているようだ。少し脇道に逸れるが「犯人を突き止める」というテーマはドスト氏の得意とするところらしい。数か月前に、この小説と同様苦労しながら読んだ『カラマーゾフの兄弟』でも、父殺しの犯人を突き止める過程が小説の一大山場になっていた(ドスト氏もこのテーマを書くときは、これは自分の得手な分野だとおそらく自覚していたのではないか)。次に第二の流れについて。人間たる者殺人を犯せば、「この殺人は正しい」と割り切るには無理があるのではないか(ラスコーリニコフは思想的見地から割り切ろうとしたのだが)。そして彼の心には葛藤が生じる。心が休まらないのだ。筆者は読みながら、彼はおそらくソーニャの力を借りるのではないかと言う予感がしていたのだが、果たしてそうであった。ソーニャの、彼に対する一途な愛の強さはすばらしい。「まず、あなたが汚した大地に接吻しなさい。……そしてみなに聞こえるように、「私は人を殺しました!」と言うんです」(下巻135頁)とか「いっしょに苦しみましょうよ、いっしょに十字架を背負いましょうよ!……」(下巻140頁)とか。さらに、とにかく彼を支えたという点では、母親と妹ドゥーニャの果たした役割も大きいと思う。特に、ラスコーリニコフに対して無私の愛情を表明する母親の言葉は圧巻だ(下巻329~339頁)。 最後に、繰り返しになるが筆者の結論を述べたい。筆者としては、ラスコーリニコフは自分の犯罪に対して罰が下るまでは落ち着けないのではないだろうかという気がしていた。従って、彼が「この殺人は許される動機からなされたのだから、罰なんか受ける必要はないんだ」という気持ちには少し無理があるのではないかと思った(自分の感情は理性ではコントロールできない、ということだろう)。つまり筆者の関心は、第一の流れ(彼の犯罪はいかにして突き止められるか)よりも、第二の流れ(彼はいかにして救われるのか)の方がより大きかった。ドスト氏は、両方の流れに同等の力点を置いているようだが。 なお、あまり自信はないが、文章の流れから、及び、他の翻訳書を参照して、誤訳と思われる個所を一か所書いておきたい(筆者のロシア語の知識は文字通りゼロです)。 〇 中巻126頁。「ああ、それであんなに仰天したんだな、昨日ゾシーモフが、ポルフィーリイは入質者を訊問していると口をすべらしたとき!」→この下線部は、昨日ぼくがゾシーモフに、であろう(上巻306頁参照)。 新潮文庫(工藤精一郎訳)でも、「それでだよ、ぼくが昨日ゾシーモフに、ポルフィーリイが質入れした連中を喚問してるっていう話をしたとき、きみはぎくっとしたものな!」(上巻527頁)となっている。 〇さらに一か所、江川訳が、他の二つの翻訳と異なる箇所も書いておきたい。 江川訳 下巻363頁の副署長のせりふ。「ご用件だったら、もう少し早目においでいただくんでしたね、私も偶然居合わせただけで……」 小沼訳(筑摩書房 ドストエフスキー6)「もしも御用だったら、おいでになるのが少々早すぎたようですな。そう言う私も実は偶然……」 工藤訳(新潮文庫)「用件なら、まだちょっと早すぎましたな。わたしはたまたま……」 副署長にとって、彼の突然の来訪の時刻は早すぎたのか、遅すぎたのか、どちらだろう? おおよその時刻は、太陽が刻々西に傾いて(下巻 351頁)、そのあと少したった頃ということである。 | ||||
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読書・哲学が好きな、40代のサラリーマンです。海外在住です。 罪と罰は、今回が三度目の読了となりました。 一度目は20代の頃、二度目は数年前(40代手前)です。また、二度目の読了後に、サンクトペテルブルクのドストエフスキー博物館等も訪れました。 一度目は、かなりの衝撃を受けました。これが世界最高峰の文学というものなのかと。ラスコーリニコフの心情の変化が印象に残り、彼の表情が明確に頭の中に浮かんだことを覚えています。二度目も、基本的には一度目と同じ様な感想で、とにかく素晴らしい作品であるという印象を受けました。ここ1年程、色々な哲学書を読みましたが、三度目となる今回は、自分自身がどの様な感想・感情を抱くかという思いで読み始めました。(カラマーゾフの兄弟を再読しようか迷いましたが、結局、罪と罰を選びました。) 今回は、読むのにかなり疲れたというのが、正直な感想です。 ラスコーリニコフの自首とエピローグという、本当に最後の最後まで、両極端な対話や色々なエピソードを用いて引っ張るなあと。特に、いわゆる二重人格(もしくは自閉症?)っぽいラスコーリニコフに対しては、かなり苛々させられました。これは、以前に読んだ時とは、どちらかというと、逆の感情です。また、今回は、彼の母親の心情の描写に惹きつけられました。他、マルメラードフ一家の不幸、つまり極貧というものが、どれだけ悲惨なものなのかが、リアルに伝わって来ました。それから、犯罪の時の場面や、ラスコーリニコフとソーニャの会話を、隣の部屋で盗み聞きされていたことなどは、ちょっと話が出来すぎているなどと感じました。ただ、ドストエフスキー自身の人生も、偶然に偶然が重なった様な、ジェットコースターのようなものであったわけであり、それが著作に迫力を持たせているのだとは思います。 多少脱線しますが、エピローグの572ページに書かれている、ラスコーリニコフが見た、アジアで発生した伝染病については、現在のコロナを連想させ、ハッとさせられました。違いといえば、本著の伝染病は、感染者を狂人にさせるということ。この様な表現が正しいかどうかはわかりませんが、コロナの場合には、どちらかと言うとその逆であるのかと思います。いずれにせよ、ラスコーリニコフには、人類の浄化という思想があったということを感じさせるエピソードではありますし、それ以上に、ドストエフスキーが、よくこの様な表現をしたものだと、不思議な感情を抱きました。 解説の最後にて、訳者の工藤精一郎氏が、 「ドストエフスキーは『罪と罰』で人間の本性を忘れた理性だけによる改革が人間を破滅させることを説いたのである。」 と記述されています。 結局のところ、人は誰しも多かれ少なかれラスコーリニコフであり、あまりに行き過ぎた両極端な思想は、社会にも悪影響を与え、更には、本人自身をも破滅させることになります。ドストエフスキー自身もその事を偶然であれ、つまり、望む・望まざるによらず、生涯、身を持って体験したのだと思います。(もちろん、こんな簡単に一文で済ませられる様なものではなかったはずですし、普通の精神力の人であれば、途中で人生を投げ出したような、筆舌に尽くしがたいものであったと思います。) 最後に、私の考えを書かせていただくと、本著に限らず、ドストエフスキーの著作では、あくまで人間が主人公であるわけでありますが、今後我々は、人間にだけでなく、周りの生物や自然にも感謝して、謙虚に生きていくべきであると、強く思います。 | ||||
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主人公であるラスコーリニコフが行動している場面や心理は とても興味深く先が気になるのですが、 それ以外は本筋からの枝葉の部分が多すぎて結構疲れます。 退屈なところも多いので読み進めるのは大変ですが 不思議とところどころに挟まれる物語のおもしろさで読めてしまいます。 難しいなと思っても止まらずに読み進めることをおすすめします。 | ||||
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退屈に感じた場面も多かったですが、エピローグまでたどりつくと 読んでよかったなと思えます。 死の家の記録や虐げられた人びとを読んだ時の記憶がよみがえり、 地下室の手記などの要素がぎゅっと詰まっていました。 娯楽としてだけなら他におもしろい小説はたくさんありますが、 ドストエフスキーは読んでおくと教養としても、経験としても、 世界中の読書好きの人と共有できる話題のひとつになります。 | ||||
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「ドライブ・マイ・カー」をきっかけに読んだチェーホフに感動して、これまで難しそうと思って敬遠していたドストエフスキー、最もポピュラーな「罪と罰」を手に取りました。思いのほか読みやすく、挫折することなく読み終えることができました。自分のことすらままならないのに、社会の理不尽や貧しい人々に心を砕くことをやめられず次第に病んでいく主人公ラスコーリニコフ、貧しく救いがない人生においても優しさやプライドを損なわない美しい心を持つ娼婦ソーニャ、出自や過去の栄光を唯一の生きがいとする人たち。100年以上前のロシアが舞台の物語ですが、登場人物の行動や考えは現代に生きる私にもとても身近に感じられました。全編を通して描かれるそれらの登場人物たちの生きざまは冗長にも感じられましたが、その苦しみをじっくりと共有することによって、エピローグがより感動できるような仕掛けになっているように思いました。人間の醜さ、貧しさ、人生の苦しさ…何も解決しなくても「愛」によって人は救われるのだと。そしてその「愛」は簡単に獲得できるものではなく、この物語のようなプロセスや何かしらの犠牲が必要なのだと。2022年3月現在、このような素晴らしい文学を生み出した国が愛の行為によって救われん事を切に願います。 | ||||
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装填も良いし、東京外大の亀山先生の訳に惹かれた。 | ||||
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上下巻あるような長い本は初めて読みましたが、面白くて短く感じたぐらいです。 賢い貧乏の学生(元学生)が金欲しさに人殺しして、それからの苦悩の様なものが書かれてます。 主人公以外にも3人の男の罪と罰 警察との駆け引き めちゃくちゃ良くしてくれる友人 聖人の様な女 優しい家族 落ち着く暇もなく、常に色んな展開をしていって飽きません。 主人公目線で書かれていて、リアルさも感じながら、主人公の思考、感情に引き込まれました。 | ||||
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江川さんの翻訳が世界観をより引き立たせている。 | ||||
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エミリー・ブロンテが「嵐が丘」一編を残して世界文学史に不滅の輝きを放ち続けているように、ドストエフスキーはもし「カラマーゾフの兄弟」や「白痴」ほか何も残さなかったとしても、この「罪と罰」一編によって、やはり世界文学史上に永久に消えることのない刻印を残したことは確実だと思われます。 | ||||
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読了、放心、打ちのめされました。 5年後に再読します。 | ||||
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汚れも気にならなくてよかったです。 | ||||
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第3巻は紆余曲折をたどる複雑な構成であり、主人公ラスコーリニコフが苦悩を経て罪を告白し、さらには自首するに至るまでを、作家が技巧を凝らし考え抜いて描いたものである。 まず、マルメラードフの葬礼の宴席で、肺病病みの妻カタリーナが興奮状態に陥り、家主や間借り人と大騒動を引き起こす。ドストエフスキーお得意のカーニバル的な場面であるが、そこにルージンがソーニャを陥れる悪巧みが挿入され、にわかに緊張が高まる。この悪巧みはルージンの思惑通り展開するが、最後に決定的な証人が現れて、一挙に形勢が覆される。まるで被告に嘘を長々と弁じさせてから動かぬ証拠を突きつける反対尋問のように痛快な場面だが、これはドストエフスキーが通いつめた陪審裁判の影響だろう。この小説では、その他にも予審判事ポルフィーリーの捜査手法やエピローグの裁判の場面などで詳細で正確な法律知識が示されているのが興味深い。 ポルフィーリーについては、第2巻のレビューで刑事コロンボのモデルと書いたが、第3巻でも神出鬼没ぶりを発揮し、その話術で主人公を油断させつつ、最後は「犯人はあなたしかいないと確信している」とコロンボのようにズバリと切り込む。その一方で主人公の苦悩にも理解を示し、自首の機会を与える人間味も示している。主人公に感情移入して読むと油断ならない恐ろしい捜査官だが、コロンボのイメージを想像するとユーモラスで人情のある人柄が見えてくる。 第3巻で最大の謎は、怪人スヴィドリガイロフであろう。女好きで少女陵辱や妻殺しの噂にまみれたこの人物にドストエフスキーはなぜ重要な狂言回しのような役割を与え、かなり長いページを割いてその行動を描いたのか? 主人公が最後にこの怪人と対決する長い対話で明らかになるが、この人物は主人公の利己主義と犯罪の鏡のような存在であり、いわば主人公の分身なのである。 スヴィドリガイロフはソーニャに、主人公に残っている道は「額にピストルを撃ち込むか、囚人街道を下るか」だと告げるが、その究極の選択は、欲望が実現せず絶望に陥ったスヴィドリガイロフ自身にも突きつけられていた。 主人公は苦悩の末にソーニャに罪を告白し、スヴィドリガイロフとの対話を経て「囚人街道」を選んだわけだが、注意しなければならないのは、主人公は自らの罪を悔いて自首したわけではないということである。 主人公はその傲慢な思想を捨てず、自らがナポレオンのようになれなかったことに苦しみ、その重圧に耐えられずに告白し、自首したのである。 ただ、主人公は「死」ではなく「生きて苦しむこと」を選んだ。そこにはソーニャや妹ドーニャ、あるいは母や友人ラズミーヒンといった、主人公を愛して温かく見守る人たちの存在の意味がある。 死ではなく「苦しみを受ける」こと、これはポルフィーリーもソーニャも語ったキーワードである。自首、裁判、そしてシベリアでの受刑がこの「苦しみを受けること」に当たるわけだが、エピローグの最後のシベリアの場面でようやく主人公には「蘇りの光」が見えてくる。いわば悪霊のように主人公に取り憑いていた「観念」にかわって「生命が訪れてきた」のである。 ただし、更生はまだ始まったばかりだとして、希望の余韻を残したまま物語は閉じられる。 | ||||
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全三巻ですが、ここに感想を書きます。 この長編(だと思っている)のPNRは、おそらくここだろう。主人公とおせっかいの友人の間を通り過ぎて行った冷たいもの、それは友人が信じたくなかったものが一瞬に理解できてしまった瞬間ではないだろうか。 主人公の状態は、今風で言うと鬱なのかもしれない。目まぐるしく変わる心の変化を、ドストエフスキーは良くここまで正確に記述できるものだと感心させられてしまった。 ドン底まで沈んだ、いや追い込んだ自分を、表面しか見ないまま見下す奴らに証明して見せたかった。それを実行する勇気があることで、本当の勝者は誰であるのかを。 バレたら一巻の終わり、身の破滅であることは分かっている。反面、黙っていることの苦しさと、証明したい、認めさせてやりたいという欲望が渦を巻いて、結果的に自分が仕掛けた罠に足を咬まれてしまう。 あの決定的な「4~5分」から最後まではドキドキしながら一気に読んでしまった。やはり、ドフトエフスキーは面白いのである。 | ||||
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第2巻はクライムミステリーのような展開であり、主人公ラスコーリニコフの揺れ動く精神状態の心理描写と、予審判事ポルフィーリーとの2度にわたる息詰まる対決に読者は一気に引き込まれる。 ただし、その間に主人公の犯罪の背景となった思想が詳しく語られ、その対極となるソーニャとの長い対話が配置されていることは見落とせない。 それにしてもポルフィーリーの主人公への追及は硬軟取り混ぜた見事な心理戦であり、無関係な雑談や冗談を交え、おだてたりなだめすかしたり、わざと事実関係を間違えて相手を引っかけようとしたりといったふうで、まるで刑事コロンボである(実際、刑事コロンボの脚本家はポルフィーリーをコロンボのモデルにしたとのこと)。 他方、ポルフィーリーの追及に立ち向かう主人公の心理の動きやあわや崩壊寸前に追い込まれる動揺ぶりも濃密に描かれ、緊迫感を高めている。 主人公の思想はポルフィーリーとの1回目の対決で語られるが、天才や非凡人には大衆を踏み越えていく権利があるというグロテスクなものである。「ナポレオン主義」と戯画化されているが、訳者によると元はナポレオン3世の著作に由来するとのこと。 他方、主人公は当時のフーリエ流社会主義思想に対しても批判的であり、彼らは論理だけを使って本性を切り捨てる、「生活の、ほんものの生きたプロセスも嫌ってる、生きてる魂なんていらないってわけ!」と厳しく批判する。かつてドストエフスキーが「反動的」と批判された由縁であるが、人口都市ペテルブルクの急速な近代化と社会的混乱を背景とした思想状況がうかがい知れて興味深い。 主人公とソーニャの対話は、舞台がソーニャの賃借している「カペルナウーモフ」の家で行われ、またヨハネ福音書の「ラザロの復活」の朗読が山場となっており、聖書と深く関係する場面である。言うまでもなく「カペルナウム」はイエスが伝導の拠点とし、悪霊を追い出す奇跡を示した場所である。ソーニャは主人公に頼まれて「ラザロの復活」の節を朗読するが、復活の奇跡が顕現する場面ではソーニャ自身が大きな勝利感に包まれる。この時点ではまだ主人公の心には響いていないが、この「ラザロの復活」は『罪と罰』の全体を貫く信仰による魂の救済というモチーフとなっている。 (第3巻へ続く) | ||||
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『罪と罰』を初めて読んだのは中学時代で、その後も何度も読んだが、読むたびにその素晴らしさに圧倒され、小説を読む醍醐味を味わう。 1990年代にはサンクト・ペテルブルクを訪れ、小説の舞台となったセンナヤ広場周辺や冬宮殿を望むネヴァ川の橋のあたりを散策したが、「ラスコーリニコフの家」があったのには驚いた(もちろん観光用である)。 この第1巻は主人公ラスコーリニコフが金貸しの老婆とその妹を殺す場面を最大の山場として、そこまでに至る主人公の葛藤と逡巡の濃密な心理描写が素晴らしい。そして、計画や下見段階では空想としか思えずに一度は断念するものの、いくつかの偶然から運命の歯車が回るように計画の実行に押し出されるその過程の緊迫感が、驚くべきリアリティとスピード感で描かれていく。さらに、殺人の実行と現場からの逃走後は、主人公が精神的動揺で心身ともに病的な状態に陥り、犯行の隠蔽から自首寸前に至る心理と行動が手に汗握るスリリングな筆致で描かれる。 まさに、≪人を殺す≫ということが人間にとっていかに極限的なことであるのかを、犯人の心理面と行動面で描き尽くした傑作といえる。 他方、物語の横糸としては、酒で自滅した元九等官マルメラードフとその家族の悲惨な生活、ソーニャの自己犠牲、母からの長い手紙、主人公が子供の頃見た、痩せ馬を無残になぶり殺す恐ろしい夢といったエピソードが巧みに組み合わされて、主人公の人間的側面が浮き彫りにされる。 ここに描かれているのは「冷酷な殺人鬼」ではなく、人間味と情愛あふれる主人公がニヒリズムに傾く理性の罠によって殺人に至るドラマなのである。 (第2巻へ続く) | ||||
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