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罪と罰
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【この小説が収録されている参考書籍】
罪と罰の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.33pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全440件 41~60 3/22ページ
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とにかくこの本だけは人生で一度読むべし。 あくまでも個人的感想ですが。 | ||||
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『罪と罰』というダイヤモンドを新たにカットするとき、下手くそな宝石職人が、いちばん煌びやかな光を大幅に減殺してしまった。職人の弁によれば、これは心血を注いだ労作だったとのこと。画に描いたような非細工の小刀減らしである。 | ||||
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『罪と罰』というダイヤモンドを新たにカットするとき、下手くそな宝石職人が、いちばん煌びやかな光を大幅に減殺してしまった。職人の弁によれば、これは心血を注いだ労作だったとのこと。画に描いたような非細工の小刀減らしである。 | ||||
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ドストエフスキーの作品の中でも、話の中に出てくる人間関係がやや複雑のように感じたが、ロシア人の人物の名前を覚えるのにやや苦労した。 | ||||
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「名作」ということで、読んでみましたが、話の途中で、主人公が居酒屋で酔っ払いの退職役人に絡まれ、 そのオジサンの独演会が延々と続くシーンがあるのですが、そこで嫌になり、読むのを止めてしまいました。 酔っ払いオジサンの独演会が延々と続く小説の、どの辺が名作なのか、私には分かりませんでした。 | ||||
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薦められて購入しました。 | ||||
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薦められて購入しました。 | ||||
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ソーニャたんとかいう聖母 | ||||
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新品購入にもかかわらず本のカバーの端が折れていました。 | ||||
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金貸し婆さんと女性を殺害し、自分が殺したと吹聴。その後殺人を否定。この作品を面白いと言っていたミュージシャンがいましたが、どこが面白いのか理解出来なかった。 | ||||
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この本は、聖書や経典にならぶ予言書で あり。人類が読むべき本である | ||||
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ラスコーリニコフは罪と罰が書かれた1800年代中盤の過激派知識人を反映させた人物像です。 それ以前にロシアは不凍港獲得を目指してイギリス、フランス、オーストリア、トルコと戦争を行い続けましたが、負けて負けて負け続けました。それを受けて当時のロシア皇帝アレクサンドル2世は「戦争に敗北したのはロシアの近代化されていなかったからだ。」と分析して近代化を実行しようとしましたが、その目玉が農奴解放令でした。 ただし、通常農奴解放令となると農民に人格も土地も分け与えて成果を出せば出した分豊かになり、引いては国家経済も豊かになるのですが、そうはせず、人格と移動の自由だけ保障して、土地の権利は認めなかった中途半端な改革でした。 この中途半端な改革により、農民は都市に流入していき、当時の首都ペテルブルグの人口は20年で2倍になります。罪と罰で建設現場の描写がかなり出てきますが、それだけ流入する人口の生活を満たすアパート建設が常に必要だったためです。 それほど人口増になると犯罪、貧困、格差、自殺も増大します。そうするとその状態を憂う知識人も増加します。 それだけその手の知識人が増えると極端な方向に走る過激派知識人も出てきます。「こんなひどい状態を作り出した最高責任者は皇帝アレクサンドル2世だ。あいつさえいなくなれば世の中はよくなる。あいつ一人を殺して国民みんなが幸せになるならそうすべきだ。」実際にアレクサンドル2世は3回暗殺未遂を受け、4回目で暗殺されています。勿論皇帝がいなくなったからと言って社会体制が変わることはありませんでした。 また、人口の大多数にして劣悪な生活を送っている農民を啓蒙して皇帝権力を打破しようとするナロードニキ運動もありました。これもうまくいきません。ナロードニキ運動とは簡単に表現すると、知識人が農村に入って農民とともに農作業をしながら「なあなあ、皇帝ってやっぱりいないほうがいいよね。」と説得する運動です。大抵無視されるか「こいつ、怪しい奴だな。」で警察に密告されて逮捕されることが多かったのです。 そうやって挫折していくと「やっぱり農民なんかにはわからないんだ。俺達優れた知識人だけが理解できるんだ。」という傲慢な考え、あるいはニヒリズムに走っていきます。 ドストエフスキーは20代の頃、左派サークルに入って過激思想を持つようになり、最終的にはシベリアに送られ10年間そこで過ごすことになります。その間自分の思想や行動を反省し、どうあるべきかを考え続けました。 その結果、「皇帝さえいなくなれば世の中よくなる」→「この大地に根を張り、地道に変えていこうじゃないか。」との考えに変わります。 罪と罰はラスコーリニコフにその当時の知識人を反映させ「お前らのやろうとしていることはこんなにうまくいかないんだ。」ということを主張します。 ラスコーリニコフは学費が払えず大学を中退せざるを得ず、家庭教師で食いつないできましたがそれもやめて下宿で何日もうにょうにょ考え続けます。それが苦しくなるとペテルブルグをうろうろしながら考え続けます。これはその当時の過激派知識人が頭の中だけでうにょうにょうろうろ考えていることを表しています。 「しらみのような強欲な金貸しばばあを殺してその金を使って1000人の人々の生活をよくするんだ。1人殺して1000人助かるならそれでいいのだ。」「ナポレオンみたいな優秀な英雄が何かをなす時邪魔な奴がいれば殺したって構わない。」と考えていますが、これは過激派知識人が「皇帝1人殺せば国民全員が助かるならそれでいいのだ。」「俺達みたいに優秀な人間が殺さなければならないんだ。多少の犠牲が出たって問題ない。」と傲慢に考えていることを表しています。 ラスコーリニコフは主観的には入念に計画しているつもりが、金貸しばあさんの所有物や所持財産をろくに調べず、あわてて準備をして、殺害に使う斧も犯行数時間前に偶然見つけ、犯行後の逃走経路も確保せず偶然に助けられて犯行場所から出ていきます。強盗したものも思いつきで自分の部屋や近所の石の下に隠す等警察がちょっとがんばったり何かの偶然ですぐに見つかってしまいそうな場所に隠します。その当時の過激派知識人に対して「お前らが考えている皇帝暗殺なんてこんないいかげんなんだ。」ということを言いたかったのでしょう。 金貸しばあさんを殺す時に彼女の義理の妹のリザヴェータも巻き添えで殺してしまいます。このリザヴェータですが、後でラスコーリニコフと愛し合う中になるソーニャの非常に親しい友人でした。調査不足も表していますが、過激派知識人に対して「お前らがやろうとしていることはコラテラルダメージが発生するんだ。それはお前らにとって大事な人の大切な友人かもしれない。それでもいいのか。よくないだろうが。」というメッセージでしょう。 ラズミーヒンはラスコーリニコフのすぐ近くにいる友人で、境遇は同じく学費がなくて大学を中退したのですが、うにょうにょ考えたりせずに家庭教師をしながら「俺は翻訳出版社を立ち上げたいんだ。この国の翻訳本はいいかげんだから、そんななかでまともな翻訳本を出版すれば大成功できるぜ。出版社でもう2年もアルバイト(家庭教師と掛け持ち)しているから出版の仕組みもコネクションもあるんだ。」このような夢を持っています。つまりは過激派知識人に「お前らの頭脳はラズミーヒンみたいに使わなければならないんだ。社会を変えたければ皇帝暗殺なんて傲慢でいい加減でへたくそな方法ではなくてラズミーヒンみたいに地に足ついた方法で行え。」という主張があったのでしょう。 | ||||
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序章があって展開があって、その展開 にあたる本節での人物のやりとりが面白いです。 | ||||
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最初の方の老婆やその妹を殺害する場面はまさに罪と罰そのものだが、あとの方に書かれるマルメラードフが馬車に惹かれ瀕死の状態になつまているとかろを担ぎあげて彼の貧しい家族が住む家まで連れて行くところなどは、罪と慈愛を感じる。とてもとても深い文学作品である。 | ||||
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人間は<高い地位>と<他の人々>に二分され、<特殊な人々>は法律の適用を受けないばかりか<他の人々=材料=ゴミ>のために法律を作ってやる。そして、特殊な人々である天才たちは小さな悪を平気で踏み越えていく…。つまり、「大きな目的が善を目ざしていれば、一つくらいの悪業は許される」。こんな思想を持った主人公のラスコーリニコフ君が、「しらみ(虱)」と形容する金貸しの老婆とその妹を斧で殴り殺す…というところから物語は始まる。 例によって、いつもの捻くれたねちっこい文章が延々と続いていき、読者は次第にそのしつこさの魅力に取り込まれていく訳で、最初はとっつきにくく感じられても、次第に「読み進めずにはいられない」状態となってしまうのだが、とにかくその文章・物語に込められた熱量が無駄に凄まじく、圧倒される。 とはいえ、そこまで重要な作品かというと、そこまででも…。確かに打ちのめされる程の力が感じられるとまでは言えないまでも、「聖なる娼婦」ソーニャとの会話でラスコーリニコフ君が意地悪く語る「神なんてぜんぜん存在しないかもしれないよ」という一言や、ソーニャの母親であるカテリーナ・イワーノヴナの「世の中に正義というものがないのでしょうか!」という興奮した叫び声には強く心を打たれ、考えさせられるところも無いではない。しかし、あまり話は深まらずに物語の最後まで進んでいってしまうので、なんとも拍子抜けしてしまう。『カラマーゾフ』ほどの豊かさは、ここには無いと思う。 翻訳は工藤精一郎であまり話題に上る人ではないし、古臭い表現なども目にはつくものの、別に読みにくいほどの古臭さでもなく、その文章の熱量というか暑苦しさがとても上手く滲み出る訳であって非常にドストエフスキー向きだと感じられ、私は結構好きである。光文社から出ている亀山訳とも読み比べてみたりしたが、やっぱり工藤訳の方が心に響いた。また、巻末の解説は非常に理解しやすく親切な内容になっている(が、ネタバレ気味なので最初には読まないほうが良い)。 | ||||
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人間は<高い地位>と<他の人々>に二分され、<特殊な人々>は法律の適用を受けないばかりか<他の人々=材料=ゴミ>のために法律を作ってやる。そして、特殊な人々である天才たちは小さな悪を平気で踏み越えていく…。つまり、「大きな目的が善を目ざしていれば、一つくらいの悪業は許される」。こんな思想を持った主人公のラスコーリニコフ君が、「しらみ(虱)」と形容する金貸しの老婆とその妹を斧で殴り殺す…というところから物語は始まる。 例によって、いつもの捻くれたねちっこい文章が延々と続いていき、読者は次第にそのしつこさの魅力に取り込まれていく訳で、最初はとっつきにくく感じられても、次第に「読み進めずにはいられない」状態となってしまうのだが、とにかくその文章・物語に込められた熱量が無駄に凄まじく、圧倒される。 とはいえ、そこまで重要な作品かというと、そこまででも…。確かに打ちのめされる程の力が感じられるとまでは言えないまでも、「聖なる娼婦」ソーニャとの会話でラスコーリニコフ君が意地悪く語る「神なんてぜんぜん存在しないかもしれないよ」という一言や、ソーニャの母親であるカテリーナ・イワーノヴナの「世の中に正義というものがないのでしょうか!」という興奮した叫び声には強く心を打たれ、考えさせられるところも無いではない。しかし、あまり話は深まらずに物語の最後まで進んでいってしまうので、なんとも拍子抜けしてしまう。『カラマーゾフ』ほどの豊かさは、ここには無いと思う。 翻訳は工藤精一郎であまり話題に上る人ではないし、古臭い表現なども目にはつくものの、別に読みにくいほどの古臭さでもなく、その文章の熱量というか暑苦しさがとても上手く滲み出る訳であって非常にドストエフスキー向きだと感じられ、私は結構好きである。光文社から出ている亀山訳とも読み比べたりしてみたが、やっぱり工藤訳の方が心に響いた。また、巻末の解説は非常に理解しやすく親切な内容になっている(が、ネタバレ気味なので最初には読まないほうが良い)。 | ||||
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まずサスペンス小説として面白い。長編だが、ぐいぐいと引き込まれて一気に読んでしまうと思う。 | ||||
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読み進んでいきながら、主人公ラスコーリニコフの心には二つの流れがあるのではないかと思った。彼は、老婆とその妹リザヴェータを殺害した後、二つの感情のはざまで苦しむ。一つは、自分は思想的に悪いことをしていないのだから、捕まりたくない、捕まってたまるかという強い感情。もう一つは、自分ではどうしようもなく心が動揺し、心の平安を取り戻すにはもう自ら名乗り出るしかないのではないかという(どうしようもない)感情。これら二つの流れはどう収束していくだろうか。 まず第一の流れについて。ラスコーリニコフは、思想的に自分は悪いことをしたのではないという考えからあくまで頑張りぬこうと思うのだが、そうなると、たとえば自分を逮捕する側の人たちに対しては疑心暗鬼に陥ってしまう。そして、気絶したり、自分のうわごとを気にしたり、大変な重圧を感じているようだ。少し脇道に逸れるが「犯人を突き止める」というテーマはドスト氏の得意とするところらしい。数か月前に、この小説と同様苦労しながら読んだ『カラマーゾフの兄弟』でも、父殺しの犯人を突き止める過程が小説の一大山場になっていた(ドスト氏もこのテーマを書くときは、これは自分の得手な分野だとおそらく自覚していたのではないか)。次に第二の流れについて。人間たる者殺人を犯せば、「この殺人は正しい」と割り切るには無理があるのではないか(ラスコーリニコフは思想的見地から割り切ろうとしたのだが)。そして彼の心には葛藤が生じる。心が休まらないのだ。筆者は読みながら、彼はおそらくソーニャの力を借りるのではないかと言う予感がしていたのだが、果たしてそうであった。ソーニャの、彼に対する一途な愛の強さはすばらしい。「まず、あなたが汚した大地に接吻しなさい。……そしてみなに聞こえるように、「私は人を殺しました!」と言うんです」(下巻135頁)とか「いっしょに苦しみましょうよ、いっしょに十字架を背負いましょうよ!……」(下巻140頁)とか。さらに、とにかく彼を支えたという点では、母親と妹ドゥーニャの果たした役割も大きいと思う。特に、ラスコーリニコフに対して無私の愛情を表明する母親の言葉は圧巻だ(下巻329~339頁)。 最後に、繰り返しになるが筆者の結論を述べたい。筆者としては、ラスコーリニコフは自分の犯罪に対して罰が下るまでは落ち着けないのではないだろうかという気がしていた。従って、彼が「この殺人は許される動機からなされたのだから、罰なんか受ける必要はないんだ」という気持ちには少し無理があるのではないかと思った(自分の感情は理性ではコントロールできない、ということだろう)。つまり筆者の関心は、第一の流れ(彼の犯罪はいかにして突き止められるか)よりも、第二の流れ(彼はいかにして救われるのか)の方がより大きかった。ドスト氏は、両方の流れに同等の力点を置いているようだが。 なお、あまり自信はないが、文章の流れから、及び、他の翻訳書を参照して、誤訳と思われる個所を一か所書いておきたい(筆者のロシア語の知識は文字通りゼロです)。 〇 中巻126頁。「ああ、それであんなに仰天したんだな、昨日ゾシーモフが、ポルフィーリイは入質者を訊問していると口をすべらしたとき!」→この下線部は、昨日ぼくがゾシーモフに、であろう(上巻306頁参照)。 新潮文庫(工藤精一郎訳)でも、「それでだよ、ぼくが昨日ゾシーモフに、ポルフィーリイが質入れした連中を喚問してるっていう話をしたとき、きみはぎくっとしたものな!」(上巻527頁)となっている。 〇さらに一か所、江川訳が、他の二つの翻訳と異なる箇所も書いておきたい。 江川訳 下巻363頁の副署長のせりふ。「ご用件だったら、もう少し早目においでいただくんでしたね、私も偶然居合わせただけで……」 小沼訳(筑摩書房 ドストエフスキー6)「もしも御用だったら、おいでになるのが少々早すぎたようですな。そう言う私も実は偶然……」 工藤訳(新潮文庫)「用件なら、まだちょっと早すぎましたな。わたしはたまたま……」 副署長にとって、彼の突然の来訪の時刻は早すぎたのか、遅すぎたのか、どちらだろう? おおよその時刻は、太陽が刻々西に傾いて(下巻 351頁)、そのあと少したった頃ということである。 | ||||
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読書・哲学が好きな、40代のサラリーマンです。海外在住です。 罪と罰は、今回が三度目の読了となりました。 一度目は20代の頃、二度目は数年前(40代手前)です。また、二度目の読了後に、サンクトペテルブルクのドストエフスキー博物館等も訪れました。 一度目は、かなりの衝撃を受けました。これが世界最高峰の文学というものなのかと。ラスコーリニコフの心情の変化が印象に残り、彼の表情が明確に頭の中に浮かんだことを覚えています。二度目も、基本的には一度目と同じ様な感想で、とにかく素晴らしい作品であるという印象を受けました。ここ1年程、色々な哲学書を読みましたが、三度目となる今回は、自分自身がどの様な感想・感情を抱くかという思いで読み始めました。(カラマーゾフの兄弟を再読しようか迷いましたが、結局、罪と罰を選びました。) 今回は、読むのにかなり疲れたというのが、正直な感想です。 ラスコーリニコフの自首とエピローグという、本当に最後の最後まで、両極端な対話や色々なエピソードを用いて引っ張るなあと。特に、いわゆる二重人格(もしくは自閉症?)っぽいラスコーリニコフに対しては、かなり苛々させられました。これは、以前に読んだ時とは、どちらかというと、逆の感情です。 また、今回は、彼の母親の心情の描写に惹きつけられました。他、マルメラードフ一家の不幸、つまり極貧というものが、どれだけ悲惨なものなのかが、リアルに伝わって来ました。それから、犯罪の時の場面や、ラスコーリニコフとソーニャの会話を、隣の部屋で盗み聞きされていたことなどは、ちょっと話が出来すぎているなどと感じました。ただ、ドストエフスキー自身の人生も、偶然に偶然が重なった様な、ジェットコースターのようなものであったわけであり、それが著作に迫力を持たせているということは、間違いありません。 多少脱線しますが、エピローグの572ページに書かれている、ラスコーリニコフが見た、アジアで発生した伝染病については、現在のコロナを連想させ、ハッとさせられました。違いといえば、本著の伝染病は、感染者を狂人にさせるということ。この様な表現が正しいかどうかはわかりませんが、コロナの場合には、どちらかと言うとその逆であるのかと思います。いずれにせよ、ラスコーリニコフには、人類の浄化という思想があったということを感じさせるエピソードではありますが、それ以上に、ドストエフスキーが、よくこの様な表現をしたものだと、不思議な感情を抱きました。 解説の最後にて、訳者の工藤精一郎氏が、 「ドストエフスキーは『罪と罰』で人間の本性を忘れた理性だけによる改革が人間を破滅させることを説いたのである。」 と記述されています。 結局のところ、人は誰しも多かれ少なかれラスコーリニコフであり、あまりに行き過ぎた両極端な思想は、社会にも悪影響を与え、更には、本人自身をも破滅させることになります。ドストエフスキー自身もその事を偶然であれ、つまり、望む・望まざるによらず、生涯、身を持って体験したのだと思います。 最後に、少しおこがましいですが、私の中では、これでドストエフスキーは卒業です。 | ||||
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主人公であるラスコーリニコフが行動している場面や心理は とても興味深く先が気になるのですが、 それ以外は本筋からの枝葉の部分が多すぎて結構疲れます。 退屈なところも多いので読み進めるのは大変ですが 不思議とところどころに挟まれる物語のおもしろさで読めてしまいます。 難しいなと思っても止まらずに読み進めることをおすすめします。 | ||||
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