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抱く女
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抱く女の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.28pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全32件 1~20 1/2ページ
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桐野さんの持ち味である冴えわたる毒と辛辣さが感じられるだろうか、このテーマで、というのは杞憂でした。今回もページをめくる手が止まらなかったです。 | ||||
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私は桐野夏生さんの大ファンで、殆どの本は読んでいます。この本は青春小説であり恋愛小説であり、また、心理劇の小説だと感じました。 | ||||
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女は男に「抱かれる」存在でしかないのか。1972年、革マルと中核が抗争を繰り返す時代の、20歳の「ノンポリ」の女子大生・直子が主人公。桐野流自分探しの青春小説。みずみずしい。 わかってるのに感情を抑えられなくて、両親と傷つけ合う。対立するセクトに襲撃され重体なった兄よりも、恋人を優先してしまう直子。でも、そういう気持ちってあるよなあ、と思いながら読んだ。思想の時代は遠景にあって、物語の要素ではあるけれどテーマは若者の生き方。解説で村田沙耶香さんは「直子の物語は、私たちの痛みを覚醒させてくれる」と書いた。そう「痛い」。もっとスマートに生きられたら、と思うけれども。 | ||||
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抱く女とは、当時のウーマンリブ・ムーブメントの1つのスローガンだった「抱かれる女から抱く女へ」から取られたものだ。 1972年の吉祥寺を舞台に、女子学生の主人公を描く。 大学に通う気にもならず、雀荘とジャズ喫茶に入り浸る。 実家は荻窪の小さな酒屋。 友人の元恋人は赤軍派シンパで自殺し、主人公の次兄は早稲田の革マルで川口君事件後に中核派の襲撃で死亡する。 どう生きていくのか、将来など描けない。 親も、そうした子供たちにどう接していいのかわからない。 作者と同世代だからわかるのだが、そんな時代だった。 現代も子供たちは、どう生きていいかわからないのはある意味では共通しているが、もっと時代の急激な変化の中で立ち尽くしてしまうような感覚があった。 親もしかりだ。 本作はそんな時代と気分を的確に描いているとは思う。 ただ、どうして桐野夏生がいま、こんな小説を書いたのだろう。 帯には「この主人公は、私自身だ」とある。 本作の中で、主人公は「抱く女」にもなり切れない。 ぼくは、作品をそのものを読むというスタンスで、あまり作者の背景を忖度しないのが常なのだが、今回はそんな疑問を感じないでもない。 というのも、桐生と同世代の女性作家である小池真理子などは、『無伴奏』という作品では彼女の高校時代の1970年の仙台を描き、その中で東北大の第4インター派の学生を登場させつつ、当時の時代と気分を描いたし、『恋』では軽井沢の別荘地を舞台に連合赤軍事件を遠景とした作品を書いた。 また、篠田節子も、出身の東京学芸大を舞台に第4インター派などを登場させた作品を書いている。 桐野夏生は、そうした体験を生のままではなくフィクション化して描いてきたという印象がある。 やはり彼女にも、自分語りをしなくてはおさまらないものがあるのかもしれない。 そんな詮索はともかく、あの時代の気分を自分の中に甦らせてくれた作品ではあった。 | ||||
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私も60年代後半、大学生活を送ったので、大変興味深かった。主人公の直子が語るように、革命的な言葉を吐く男たちも、また男尊女卑的な料簡でいることが多かった。そうそう、私もそう思う、と同感の思いしきり。「抱かれる女」ではなく、「抱く女」である。このタイトル、誤解を招くこともあるかもしれないが、エロティックな話が中心なのではない。女が如何に自由に、自立的に生きるか、だと思う。中ピ連、など、懐かしい言葉も出てきた。 | ||||
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あまり書評がよくないようですが、本著も根本はグロテスクなどと同じく女の戦いの表現です。 背景になっている時代も、それから40年以上経っている現代社会もさして女性というものの世間的生きづらさは代わり映えしてない。 学生運動とか愛とかそんなんではなく、女性として生きることというメッセージを強く感じて私には刺さりました。 自分はフェミニストでもないですし、男性差別する意図はありませんが、この手の本は男性が読んでも面白さが伝わり辛いだろうなと思います。 そういう作品をあえて書いた著者の新たな挑戦を感じました。 | ||||
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1972年の学生運動などが盛んな時期の 女性大生の話。 特に何かに励むわけでのなく、雀荘に入り浸り、バイトしてみても店長がムカつくという理由で直ぐやめてしまう。 男にだらしなく大体どんな男ともすぐ寝てしまう。 そんなダメ女子大生の典型のような主人公が、バンドマン見習いのドラマーを好きになって、3週間ほど男の家に入り浸りセックス 三昧の日をおくり、初めて本当に男を好きになったといって、大学を辞めてその男について行ってしまうという話。 小説はそこで終わっているが、主人公はこのドラマーとは確実に破局するだろうことは容易に想像できる。 正直、バカな女のバカな日常話で、殆ど共感できなかったが、そんな話でも、ちゃんと最後まで読まされてしまうのがこの作者の文章の力なのだろう。 ただ、男に求められることが女の価値なのだ的な世界観の話が多かった今までの話と対局的というか、そこから抜け出すというのが、本作のテーマなのだろうが、正直バカ女の勢いだけの選択に見えてしまう部分が大きく、あんまり伝わって来なかった。 やっぱり、桐野夏生作品は、差別とか貧困か、そしてアジア系外国人がでてこないと物足りない。 | ||||
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つい先日の文庫化を機に奇しくも吉祥寺ロンロン2Fの書店で購入しました。 内容知らなかったんですけど、家で本を開いて「さっきまでそこに居たけど!」って思いました。 一読しただけでよくわからなかったので★は3つにしておきます。 何度も読み返せばまた変わってくるかもしれません。 自ら選んだつもりが選ばされている。って階級社会における弱者あるあるじゃないですか? リベラルの文脈ですらナチュラルに排除されている女性が男性にとって 自ら進んでいわゆる「都合のいい女」化するような振る舞いをしてしまうのは無理からぬことでしょう。 特に若い女性なんかはそうだと思います。 子供とかもそうかな、大人の期待してる振る舞いを意識しちゃうのに似てる。 だから排除と言っても「女は土俵に上がるな!」というような排除ではないんですけどね。 その場所にも居て関わって、なんなら何かに従事もしてるんですけどね。 男は女を体としか見ていなくて要するに「魂の容れ物としてみていない」といったような記述が 桐野氏の「OUT」にも登場しますがここでの排除ってそういうことです。 なかなか気づき難いと思うのですが、これも排除のひとつです。 学生運動をモチーフにした作品といえば つかこうへい氏の舞台作品 飛龍伝(1974初演年)が有名ですが あの作品でも女性は女性としての貢献を求められるんですよね。 神林美智子なんて、全共闘40万のトップになってるっつうのに どこまで行っても、女は女、女女女、、、 そんな中で神林美智子が自衛隊と恋をするなんて飛龍伝は本当にすごい設定です。 思い出しただけで涙を禁じ得ません。 やはり人間は熱く生きて熱く死ぬべきなのでしょうか。 場所わきまえず恋なんかするからだろ、と言われそうですが、 別に恋をしたっていいじゃないですか、場所わきまえず発情してるのはむしろ男性に多い。 話を戻しますと桐野氏の「OUT」では「自由」がキーワードになっているのですが、 このクソみたいな階級社会における女性の自由とは・・・ 社会規範や道徳を超越した世界にしか女性の自由はないのかもしれない、 という示唆を与えてもらったような気がします。 (そうでないと階級社会を背景にする理由がないように思えますので) ただ、あの作品で描かれている圧倒的暴力は到底無視できるものではないので そこは別の機会に考えてまいります。 かなり話がそれました。 本書だけではなかなかなんとも言い難いのでついそれてしまいました。 本書のラストにおいての直子の意思決定、 他の方がどう受け止めたのか気になってレビューを読んでみましたら 好ましくないと受け止める方も散見され私も共感しました。 でももしかしたら、その考えこそが規範にとらわれてるし 旧態依然とした昔のおばさんおじさんPTAチックな感じで 桐野氏の読者っぽくないなぁっていうことに逆説的に気づかされましたね。 人がどうしようと良いじゃんね別に。 ----- 単行本 単行本 つかこうへい | ||||
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この「抱く女」単行本の評判も散々です。文庫版のキャッチコピーが本日の朝刊に出ていました。 内容とあまりにもかけ離れたいわゆる「宣伝文句」に驚きを禁じえませんでした。そのキャッチ『狂おしい恋。大学生・直子の鮮烈な日々。(中略)現代の混沌を生きる女性に贈る、永遠の青春小説』 内容と全く異なる宣伝文句。どなたが書いたのでしょうか?〈(直子の)狂おしい恋〉なんかありません。〈(直子は)鮮烈な日々〉なんか送っていません。=ただ、怠惰に無目的に学生時代を過ごしているだけです。問題意識のかけらもありません。これをして〈永遠の青春小説〉といえるのでしょうか?このキャッチコピーを書かれたライターの方の反論をお聞きしたい。 | ||||
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親の金でフラフラしているだけのように見える 主人公の行動についていろいろ批判もあるようですけど 足を踏んでる方には足を踏まれている状態は分からないんだと思います。 抱く女になれたかといえば おそらく主人公はなれなかったと思われ それでも1972年の虚無について書かれていて それは、残されるべきものだと思いました。 P151 なぜ男は女をさげすむことで自分の性をかくもみにくくゆがめられるのだろう。 これでもいつまで経っても男たちと共闘することなどできない。 そして対等な恋愛もできない。 | ||||
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とにかく面白い本です。桐野夏樹のファンになりました。推奨します。 | ||||
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あー、この話ね。っていうような学生運動の話を盛り込んだ当時の生活や雰囲気を味わう小説って感じでしょうか。 帯に恋焦がれるような事が書いてあったので、恋愛小説のようなものかと思い読み始めたら、 これがなかなか相手が出てこない。 終盤に入り始めてやっと出てきて、気づいたら激しい恋に落ちているんですよね。 そこまでの過程が皆無なので、何も共感できない。 桐野氏得意の悪意も特に強くは出てこない。 テーマだった女性蔑視の世間から抜け出すというものも何かぱっとせず。 桐野氏の長編にある、読み終えたあとにえもいえぬ気分になるというのが無くて ただ読了っていう。 期待しすぎなのかなぁ。 この後の猿の見る夢は男の馬鹿馬鹿しさが物凄く前に出ていて一貫していて 内容は決して重くは無いけど楽しく読めたのですが。。。 あと、他の方で「ヒリヒリするような・・・」って書いていた方がいましたが、 激しく共感します。 グロテスク・柔らかな頬の頃のような魅力があると嬉しいんですよね。 とはいえ、あれだけの方ですから考えてこのようにされているんでしょうね。 | ||||
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荻窪にある酒屋の末っ子長女(兄二人)、二十歳の三浦直子は、自宅から吉祥寺のS大学(著者が成蹊だから、モデルは成蹊だろう)に通っている。 彼女を主人公とし、1972年9月から12月までの3ヶ月間を綴った小説。 中央線吉祥寺駅で降り、北口のハモニカ横丁へ入る冒頭の地の文は、悪くはない。 実在した飲食店(後に、ぐゎらん堂も名前だけ登場するが、有名な西洋乞食は1年後の開店なので出てこない)や施設名を出しつつ、直子は近頃講義も休みがちで、自堕落に雀荘、ジャズ喫茶へ通い、酒も飲めば、煙草も吸うというキャラも手際良く紹介される。 彼女の男友達、女友達も、連合赤軍事件後、内ゲバを繰り返す少数の過激な活動家を除き、急速に醒めた“シラケ世代”の人々らしく、皆、無気力で、その日その日を刹那的に生きている。 当時、自分はまだガキだったが、兄妹で、教授のボディガードを務める大学院生、小田実にかぶれた少々左派気味の女子高生が、正月早々論争するなど、政治の季節末期に、こういう雰囲気の親戚がいっぱいいた。 特に好きでもない男から「欲せられる」ことにより、自らの存在意義を感じ、同禽してしまう若い女の子たち(文中、“公衆便所”という懐かしい言葉を使用、ならば、確かに、男はクソ小便)も、この頃、目立ってきたのかもしれない。 これも、実名で出てくる中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合 代表は榎美沙子)の会合に参加し、軋轢が生じる場面も、なかなか。 当時、リヴ運動の真の敵は、旧態依然とした男連中と言うより、女性同士で足を引っ張り合っていた感がある。 確かに、1970年代前半あたりまでのサントリー・オールドは旨かったらしいし、登場人物を語る上で、必ず出てくる服装の説明も、一部(P53、“ロンドンのバンドみたいな細身のパンツ”・・・モッズか? ザ・フーでさえ、1969年のウッドストックでは穿いていなかったぞ)を除き、自分が、知り得る限り、まあまあリアルではある、と、思う。 それなのに、途中、会話が多くなるあたりから(会話に逃げていないかなあ)、首を捻らざるを得なくなってくる。 著者自身の内面の葛藤を、複数の人物に語らせているのだろうが、どうも、しっくり来ない。 複雑で、渾沌とした1972年を、咀嚼、消化して、作品に結晶させろというのは、無理だろうが、例えば、村上龍は、『69 sixty nine』で、当時の意識的ではあるが単純な男子高校生の視線から、1969年の喧騒を、それなりに浮かび上がらせたように思える。 自分が男だから共感を得易かったのだろうか。 倉橋由美子、高橋たか子、吉田知子、富岡多恵子などの作品を、「へー、小母様方って、こういうふうな物の見方をするのか」、と、中学生の頃から、結構、興味深く読んできたつもりではあったのだが、何か、夏生姉さんの今回の小説は、イマイチ、よく理解出来ない。 直子の友人である宮脇泉のボーイフレンドに触れた「死は最強」を、さらに補強しようとしたのか、早稲田の学生で革マル派の次兄にまつわるエピソード、それに絡め新たな出発を意味する深田健一郎の存在にメロメロになる描写も、違和感がある。 直子、あんたは、もう少しクールだったんじゃないの? 昔から、女優岸田今日子の姉、岸田衿子みたいな、“抱かれる”のではなく、“抱く女”というタイプの女性はいたが、直子のようなスケールの小さなタイプではないし、だからこそ、それを目指してのタイトル? 所属女性タレントに、「やられるのではなく、やる女になれ!」、と、叱咤したイエローキャブの元社長野田義治さんを想起させ、きわめて1990年代的だなあ。 やや後追いながら、当時、書かれた小説と無意識の裡に比較してしまうのか、文体が気になるなあ。 高村薫と熊谷達也との対談で、高村が、「私の文章と、純文学の文章とでは、何かが違うような気がする」と、熊谷に投げかけていたのを憶い出した。 それに、確か、某季刊文芸誌に掲載されていた、安岡章太郎と大江健三郎との対談。 大江が、トドロフの文体論を引きながら論を進めるのに対し、安岡は、トドロフを読んでいなかったが、「小説を読む時、大切にしているのは、個性的な文体を有しているかどうか」みたいなことを、言っていた。 山田美妙の“デスマス体”、文章の神様と言われた志賀直哉じゃないんだから、そんな新文体の発明を現代の多くの作家に求めるのはおかしい、と、思ったものだ。 でも、本書のように、読み易いことは、悪くはないが、題材にそぐわない文体って、あるのかなあ。 文体ではなく、使用語の問題で、少なくとも、1972年を舞台にした小説において、 ”逆ギレする(P137の1行目)”は、いくら何でもないだろう。 各文学賞に塗れ、紫綬褒章までもらった(同じ大学の安倍晋三首相による根回し?)夏生姉さん、次は、「参った!」と平伏してしまうものを、是非、書いてください。 | ||||
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私は1972年に大学入学したから、この小説の主人公(桐野氏?)とほぼ同世代である。しかしまったく面白くなかった。主人公がどうしようもない甘ったれで共感できないのもあるが、まぁ20歳の学生なんて、今から見ればあんなもんだろうからそれはいいとして。 題材かな。1972年らしい材料、学生運動、ジャズ喫茶、高橋和巳なんかを適当に散りばめて結局何を描きたかったんだろう? 題名からすると自立していく女性? だとすると最後まで主人公は変わってないんじゃないの? 結局好きな男と暮らしたい為に家を出て大学中退するだけ。実家の酒屋から売り物であるウィスキーくすねたり、働くことも決めずに衝動的に男に会いに行くだけ。 ま、恐らく1年も経たないうち男に捨てられてスゴスゴ家に戻ってくるのだろう。主人公の父親が言った「俺たちが酒屋やって働いた金でお前たちに自由な時間を買ってやっただけなのか」という言葉が一番心に響いた。 この時代をいかにもアウトローが活躍した活気ある時代だったように、必要以上にもてはやす人がいる。しかし、誰もが学生運動や同棲をし、主人公のように奔放に振舞っていたわけじゃない。 ごく普通に学校に通い、アルバイトをし、異性とは不器用にしか付き合えなかった学生たちの方が数の上では多かったと思うのだ、私も含めて。いや、当時は大学進学率は今よりずっと低かったから、同世代では懸命に毎日働く人たちが最も多かったろう。 主人公とその周囲にいる人たちって、1972年でもごくごく一部の恵まれた人たちだよ。そんな人たちと時代を、何かすごくノスタルジックに美化してる印象しか残らない。 桐野氏の描くヒロイン、嘗ては輝いていたのに、「ハピネス」にしろ「だから荒野」にしろ、どうも最近はダメだなぁ。 | ||||
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抱く女と言う題名から、自立したリブを想像してたし、学生運動の時代の話かと 思っていたが、この主人公はそこまでの大志もなく、ただ遊び呆けてるだけ。 下半身が緩い、フリーセックスのはしりと言うだけの残念なヒロイン。 せっかくの親の苦労も考えず、男を追って大学も辞めると言う結末は、 内容もなく、得る物もない。期待はずれだったなと思う。 | ||||
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自分の中にある熱を持て余していたが、放出できる居場所を見つけるまでの主人公直子を描いているので、作品はずっと苛々して鬱積している。 これが若さなのかもしれないが、1972年の時代背景として出てくる雀荘、ジャズ喫茶、学生運動の様子と、直子の嗅ぎ回る有様に映る姿が重苦しい。 桐野作品に度々取り上げられる性は、直子が泉に言った台詞「男が自分を欲していることで、自分という女が成り立っているような錯覚を起こすんだよね。アイデンティティを確認してるのかしら」に桐野持論を再確認させられた。 | ||||
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284ページの作品で、ようやく200ページあたりから主人公=直子に感情移入ができてきた。 新しい恋人=深田との恋愛のはじまり、中核派の兄の内ゲバによる危篤あたりの描写はうまいと思う。 しかし、それに至る当時の風俗描写が、(私にとっては計算が)見え見えで、当時流行した“単語・キーワード”の羅列はいただけない。 連合赤軍事件は、学生運動の衰退へのターニングポイント。 そのあたりの、デカダンスな当時の空気感が弱く、兄の内ゲバによる入院、家族の戸惑い描写がうまくリンクしていない。 ジャズ喫茶にしてみても、アーティストや作品(楽曲名)の羅列で、雰囲気がでていない。 雀荘の描写はまあまあ。 当時の大学生の無目的とはいえ、もう少し、問題意識はみんな持ってたよな。 「主人公=直子が、あまりにも魅力がない」…それがこの作品の致命傷。 作品名の「抱く女」だが、途中何か所もチラチラ「女の自立」の主張が出てきたり、ウーマンリブ主婦の会がエピソードとして出てくる。 しかし、それも中途半端で終わっている。 | ||||
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いまの団塊の世代が学生だったころ、学生運動盛んな時代、1972年の3ヶ月を切り取って、主人公、二十歳の女子学生、直子の日常を描いている。 多少、現在からの目線が入っている感じもあるが、同じ時代を生きたものとして、概ね当時の空気がきちんと描かれていると思った。 雀荘、ジャズ喫茶、内ゲバ、同棲、高橋和己などなど、そんなものがアイテムとして日常にあったあのころ。著者はこの作品で、何か高邁なものを書きたかったのではなく、当時の空気を描きたかったのではないか? 絶望と高揚を同時に抱きながら生きていた若者たち。今の世界とは、こう見てみると、様々な技術の発達以上に、心の有り様がずいぶん変わってしまったということを思った。 ラストに、直子の恋をどう始末するのかと思ったが結末は描かれていない。描かなくとも読者には容易に推測できると、著者は思ったに違いない。 | ||||
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本書を読みながら途中で気付いたのだが、1972年に大学3年で「S大学」で武蔵野在住というのは著者と同じで、帯広告でも「彼女は私」といった文字があったわけだが、別に私小説ではないようだ。 実に愚かで浅薄で救いようのない女が主人公であって、彼女の関わる友人・知人も男女を問わず、愚かで浅薄で、無頼を気取っては時代や社会に流され飲み込まれてる。 この時代や当時の学生を題材とした作品の多くが、社会性や人間性を肯定的に描こうとしているのに対し、本書では徹底して否定的、いや肯定否定以前に愚かと見定めた上で、その愚かさを実に見事に描いていると思う。 共感しようもないし、己を重ねる気にもならない主人公だが、それ故に本作品自体が愚かで共感できないものではないだろう。 既に半世紀近くが過ぎ、忘れられる中で、下手をすれば本人達の中で美化されているこの時代(いわゆる団塊の世代の連中の「俺は昔はやったもんだぜ」や「いまの若いやつは」をみるだに、その傾向は進んでいるように思える)について、同時代人からの辛辣な作品化は案外と楽しめた。但し、そこまでの作品ではあったと思うので、星は4つ。 | ||||
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「抱かれているのではない。私が男を抱いているのだ」 どこかで聞いた台詞。随分昔に、ドラマで篠ひろ子が言っていたのだと思い出した。そっくりそのままを作中で用いるばかりでなく、タイトルに据えている。偶々、発想が同じだったのか。それとも、昔のドラマだから、誰も覚えてやしないだろうと用いてしまったのか。前者である事を切に願う。 | ||||
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