■スポンサードリンク
夜の谷を行く
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
夜の谷を行くの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.00pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全77件 61~77 4/4ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
当時の感覚ならそれってあるよね、みたいなエピソードを寄せ集めて小説にした様子。そのまま革命戦士を続けなければならなかった人もいまだにいるし、北朝鮮でよど号事件をおこしたあの人たちはほんとは日本に帰りたいだろうけど、のんびり退屈しながら余生を生きているし、こういう元極左のはなしはルポではよく聞くが小説の形でしかも女性の「老婆」を主人公にしたところが切り口としてはあたらしいかなと感じた。若い頃って勢いでとんでもないことをしちゃうものですよ。高齢化するほど犯罪率が減るのは当然。誰だって賢くなるんですよ。 話のまとめ方としてはちょっと、会話が多すぎて、それで感情、当時の回想を語り、また今のエピソードを交えてそれが家族、親戚にどう影響を与えたのか、とはいえ、だいたいがこじんまりしてて、物語として語るほどの起伏はない。その起伏のなさを最後の「エー」にひっぱるところが作家さんのテクかなと。でもやられたというよりは、いやそれ、ちょっとぶっつけすぎでしょ、みたいに思ってしまった。 なにしろ、変に文体がふつーっぽくて易しいんです。わかりやすくて、つまづかない小説。 内容は人を選ぶとおもうし、学生運動系に興味がなければおもしろいと思わないかも。でも、いまじゃ考えられないこういう時代がたしかにあって、けっこうな人が死んで、政治は暗躍して、その裏ではアメリカと冷戦があったりして、裏の裏をひろげていけばけっこう、直近の近代史としておもしろいんですよ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
連合赤軍事件に関しては世代でもなく、知識もあまりない状態で読みましたが、 非常に読みやすく連合赤軍事件のことについてもっと知りたいと思える一冊でした。 女性目線での事件や、視点、これらから見える革命の新しい考察がとても興味深かったです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
すらすらとは読めますが、老後の孤独とか、人間の厭らしさとかが現実的すぎて、気分暗くなりました。 過去を隠して目立たなく生きる主人公の現実が中心で、過去のお話はそんなに出てきません。 期待していたほどのドラマチックは話ではありませんでした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
熱かったあの時代の余韻が夜の冷たさの中でじんわり感じられるような作品です。私は1962年生まれ。学生運動が最も暑かったと言われる1968年には6歳の小学校1年生。なのであの時代に生きてはいましたが、リアルタイムに時代を体感した訳ではありません。しかし何となく熱かった時代であったことは記憶に刻み込まれていたようで、その熱さに長らく憧れに近い感情を持っていて、その熱の余韻を懐かしむように、この本を貪るように読みました。連合赤軍の内部崩壊の現実を知ったのは大学生の頃と、大変遅く、憧れを持っていただけに人間の醜い本性を突きつけられたようでその時は大変ショックでした。この問題を考える時、いつも最初は永田洋子さんらは異常な性格だったと思い込もうとしますが、最後はそうではなく彼女はどこにでもいる普通のお嬢さんで、自分の中にも同じ鬼が棲んでいるということを自覚してぞっとする、とういうことの繰り返しでした。この本では運動に参加した人がどのような心的障害と闘って自分を顔の見えない普通の生活に埋没させようとしているのかが(運動したこともない自分が言うのはおこがましいですが)実感を伴って迫ってくるように感じてあっという間に読了してしまいました。物語の最後は他の方も触れてられていたように、意外な展開でしたが、難しい理論で頭でっかちな革命戦士だった主人公が、女性としての生理的現象(妊娠・出産)が結実した現実に帰っていくというおは現実味があるように感じました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
すべての作品を読んでいるわけではないのだが、いつもながらの「疾走感」を確保しつつ、人間としての描写が克明であることに引き込まれる。実在する一人の人としての生活が、まず登場人物というより「人」としてのリアリティーをもって現れてきて、たぶん作者のテーマなのでしょうが、「ある状況」と、「女であること」の掛け算で、物語が展開する。 「女である」主人公の犯した罪は、実は「女であること」を捨てることで償って来ていたという、裁判やマスコミの裁きとは別次元の贖罪意識を描く。最後に「のうのうと出産した」という一言が、軽そうな言葉であるように感じても、一人の人の償い続けた四十年の歳月は長く重い点、凄味があります。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私は学生運動に遅れてやってきた世代です。 しかしながら連合赤軍事件および大地の牙、赤軍派の当事者の著書やルポライターの書籍はほぼ読んでいます。 著者のことは全く知らずに書評だけで購入して読みましたが、非常に読みやすかったです。 文章もさることながら、内容が等身大でリアルでした。 どのような経緯で書かれたかは知りませんが、当事者達と適切な距離を持ちながら、非常によくできていると思いました。 油断して読んでいたので、最後の落ちを読んで放心しました。 素材が連合赤軍事件だから引き込まれたのかもしれませんが、普遍的な主題を持っていると思います。 鉈を振り下ろした瞬間から世界は変わってしまうのですね。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
でも他のレビューにもありますが、同時代を生きていた読者のほうがよりおもしろく読めると思います。 私はあさま山荘事件、連合赤軍のリンチ殺人はなんとなく知っている程度で背景を調べつつ読みましたが、そうすると、事件のインパクトが強すぎてストーリーに没頭できず。主人公の「昔のこと」「忘れたいこと」という気持ちに同調することなく、むしろ、あんなにひどいことをしたのに普通に暮らそうなんて、という釈然としない思いのまま読み終わってしまいました。エンディングも少し違和感がありました。 当時はこういう時代だった、昔こんな事件があった、と思い出しながら読むほうがより物語や登場人物の気持ちに入り込める気がします。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「連合赤軍事件」終結からしばらくのち、新左翼「過激派」の拠点となり「内ゲバ」等の紛争で知られるようになった大学に入学した頃、学内はまるで何事もなかったかのような平穏なムードに包まれていたことを覚えている。一般の学生が政治活動に参加することが現実的ではない時代が到来していた。 若い世代の「脱・政治化」に「連合赤軍事件」が大きな影響を与えたことの罪は重い。自分たちなりの崇高な「理想」というものがあったとしても多くの犠牲者を出し無残にも自滅していった彼らに同情の余地は全くない。彼らの後の世代に属する自分が本書を読んでどう思ったか。複雑な気持ちに陥ったのが正直なところである。 本書はその「連合赤軍事件」のメンバーだった女性が刑に服した後、世間から身を隠すように生き、「事件」を過去のものとして心の中に収めることができず悔恨と自己正当化を繰り返す日々が書かれている。当時20歳過ぎだった彼女はすでに還暦を過ぎた年齢となっている。40年の歳月が経過しているのだ。 小説の中の彼女は架空の存在だが、過去をめぐって妹や姪との諍いや元同志たちとの再会などが繊細に描かれ、ラストでの「救済」についても感銘できた。だが読了後には何とも言えぬ重いものが心に残った。 著者はこの事件の中心メンバーと同世代であり、この題材をいま書かねばならないという強い使命感が行間から伝わって来る。力作であることは認めたい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
学生時代に社会学を学んでいた中で連合赤軍やあさま山荘事件に関しては大まかな知識はありました。学んだ当時は、割と左派系の学校だったのですが、個人的にはこの人たちただの幼稚な馬鹿で愚かな犯罪者集団なんじゃないかと切り捨てていました。 しかし、加害者たちの自己弁護的な手記とは違って小説という形で描かれると、途端に彼らの物語が流れ込んでくるようで不思議です。 桐野さんが作り出す登場人物は、今優しい気持ちになったと思ったら相手の反応によってすぐ不機嫌に変化するなど、非常に人間らしく興味深く、どんな過去を背負っていても所詮生身の人間だなと微笑ましくなるくらいです。 ラスト2ページはなんだか桐野さんらしくないような気がしますが胸を衝かれました。桐野作品では初めてかもしれない涙が滲んだのは、私が彼と同世代だからでしょうか?スピンオフで彼の人生も覗いてみたいです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
筆者自身が新聞等のインタビューで述べているように、「女の立場」からの連合赤軍の問題、特に「総括」という名目で同志を殺害した出来事に迫った作品であることは確かです。実在の人物を登場させ、そこに主人公を巧みにからませ、過去を語らせるという展開の妙は見事ですし、又、主人公の年齢と現況の設定も巧みで、小説として上手く処理しています。過去に出版されたノンフイクションでは、ともすると重苦しく深刻な記述となっていた事実が、読者にとって読み難くするのではなく、かえって読者を惹きつけ読ませる展開となっています。(例えば、一緒に逃げ出し、今は名を変え農家の主婦となっている友人との対話という形式にして語らせる等) さすがに団塊の世代のであり、あの事件の同世代と言える桐野さんらしいと思わされます。 その面では確かに読ませる作品なのです。しかし、人によって評価は別れるでしょうが、最後の展開はなんとも納得出来ません。主人公にアプローチしてきたノンフイクションライターらしき人物と何十年か振りに旧アジトを訊ねた場面において、明かされる事実はあまりにも小説らしいといえば小説らしいですが、「推理小説作家」としての桐野さんらしい「どんでん返し」とも言える、ある意味で「あざとさ」といも言えるのではないでしょうか? 確かに途中の経過と対話の展開も少々急ぎ過ぎる所があります。例えば妹や姪との会話展開に於いても、スポーツクラブでの人間関係の描写にしても。又、肝心の連合赤軍内部の人間関係にしても、もう少し個人描写が必要であったかもしれません。著者自身もそこの所はよくわかっているはずで、もう少し時間が欲しかったのかもしれません。最後の終わり方を含め、著者は続編を書くつもりではないのでしょうか?特に次回は書き足りなかった連合赤軍の男性を描くつもりではないかと期待しているのは、自分の勝手な思い込みでしょうか? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
同時代の人間が連合赤軍事件を言語化した作品として必読の書です。革命左派と共産同赤軍派の女性観の相違も指摘されていました。また、グループの共有財産としてヤマに女性を迎えたという初めて知り得た事実もありました。群馬刑務所で産み捨てた子供というのが本の帯にある追いかけて来る過去であったという、最後の2ページの顛末が圧巻でしたが、そこで終わっていた事が逆に救いでした。シェーン・オサリバン監督の「革命の子どもたち」にも微妙にリンクしておりました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
もと連合赤軍の西田啓子は、ひっそりと孤独に暮らしている。2011年、永田洋子が獄死した。 一つの時代の節目なのか、平穏だった彼女の周囲に波紋が起こる。 古市と名乗るライターの接近、昔の仲間との再会、そして事情を知らない姪の結婚。逃げても過去は追いかけてくる。 抑えた地味なストーリーが淡々と進む。それでもページをめくる手が止まらないのは、やはり作者の力量だろう。 駐輪場の管理人の意地悪さや暇な老女が集まるジムの風景は、いかにも高齢化社会らしい灰色の現実だ。 ヒロインの老境はもの寂しく、心にしみる。だが孤独に引きこもることも許されない。 過去に抱えた秘密はあまりにも大きく、忘れたい古傷は触れるだけで生々しく鮮血がにじむのだ。 還暦近い読者なら、もと左翼でなくても心を揺さぶられるだろう。 何人かが「あの時は正義だと信じていた」と発言するが、具体的な踏み込みはない。 70年代に革命という言葉がどんな意味を持っていたかという考察は、いっさいなし。少し物足りない。 政治的にあの事件を語った本は山ほど出ているので、あえて避けたのだろうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
桐野夏生さんにしては毒が薄かったかな? でも、世俗というか市井で生きている所謂「普通の人たち」のエグさの描写には さすがってくらいに たっぷり毒が振り掛けられてましたけど。 桐野夏生さんの同年代、団塊の世代の若かりし頃の時代に対する嫌悪 嫌悪に相反する切ない情 そして何より同世代の男に対する 徹底的な嫌悪を「抱く女」「猿の見る夢」「夜の谷を行く」で総括したのだなと勝手に思ってます そしてその総括は 「希望という慣れない感情に戸惑っている。ふと気が付くと命の気配に満ちていて、その中に浸ろうとした。」 主人公が獄中で生んだ子供が男の子であるということが 男に対する桐野さんの許しの証のような気がしました これまでで一番愛おしい男を描いたと「猿の見る夢」を桐野さんが言っていたのは 桐野さんの中で男に対する怒りと憎しみがこんな風に総括されたということだったのでしょうか? それはそれで喜ぶべきことなのかもしれないけど 一抹の寂しさを覚えます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
連合赤軍事件を新たな視点から描いた桐野夏生の新境地たる傑作。 余計な説明がないので、当時のことを知る読者でないと背後事情が全くわからないと思う。 そして老境でないと分からないであろうことばかりを綴っている点で、読者は限られる。 桐野夏生はもはや読者に媚びていないという意味で新境地だと思う。 鮮烈な終末は素晴らしい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
桐野さんの小説のファンなのですが、、、 連合赤軍の幼児性に嫌悪感を抱いているため、 この主人公にはあまり感情移入ができませんでした。 ブントがどうとか、革命戦士がどうとか。 議論中の「展開しろよ」みたいなせりふとか、、 嫌いです。 中でも、ことあるごとに「わかってもらえない」とこぼす主人公、、 それがあの「現象」のリアルな本質だったのかも知れませんが、、、 だとしても、なぜ主人公は斯様なグループに参画することになったのか? まあ、そのあたりはあえて割愛しているのでしょうが、 、、、はい、よくわかりませんでした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
桐野夏生『夜の谷を行く』は1972年2月の連合赤軍事件を取り上げた小説であるが、人物洞察においてこれまでの連赤ものとはレベルが比較にならない。大事なことは、この事件で組織全体が崩壊した京浜安保共闘の視点、女性の視点で書かれていることで、これまでのほら吹きの赤軍派視点、男性視点の反対側から、もうひとつの真実に取り組んだ作品であると言うことだ。何よりも文学作品として傑作である。ここでは事実とフィクションが作者の想像力によって織物のように編み上げられた文学作品という前提のもとで解読してみたい。最初に歴史的過去と照合して物語の意味や違和感を記し、次に文学作品としての人物造形について記述し、最後に世界との和解性、相互了解について書く。まず主人公の西田啓子は1972年2月中旬に迦葉山アジトから脱出した女性である。この物語では迦葉山アジトをめぐる「山岳ベース」が軍事拠点であると同時に「子育てコミューン」=根拠地をもくろんだ計画であることが書かれている。確かに事件当時は赤ちゃんが助かったと言う「救い」の物語が話題を呼んだが、その後の凄惨な成り行きで忘却していたのに気がついた。理論家でも無く戦略家でもない活動家に過ぎず、「最高指導者」の凄惨な妄想を吹き込まれやすい「フーセン」永田洋子が、それでも女性の観点から毛沢東の「長征」「根拠地」を夢想ししがみついたとすれば、ありえない話では無い。この小説では西田がどのような経緯で迦葉山に徴兵されたのかという経緯が書かれていないが、そこはおそらくは情報元にかかわることで、書かない、触れないということだろうと感じた。たしかに1970年夏にゲリラ作戦に参加した女性は実在すると思われる。とはいえ西田はあくまで合成された人格の一部である。教師歴があるという設定からすれば西田に想定される参加時期は作品よりも早く1968年夏ごろに推定するのが妥当だと思う。被指導部ではあるが年長のゲリラであり、そのため公然組織の人たち、つまり1970年の第2期フェミニズムに触れた若いメンバーとは考え方もセンスも違う。この世代のズレが作中の人間関係に微妙な溝を生んでいる。主人公は西田であるが、小説上のキーパーソンは公然にいた村松であり、ライターの古市である。そう考えれば主低音は1970年秋以降の他地域から新たにオルグされた結集者(しかも大衆団体)など傍流にあり、また上赤塚、真岡事件の出口としてでっち上げられた「コンミューン」に労働力としてオルグされた人たちからする古参メンバーへの批判となる。西田が「草」ではないかとか、印旛沼事件を永田から相談されていたのではないかという疑惑が仲間内でもささやかれ、それが物語全体に緊張感を与えている。従来あまりに赤軍派的視点、男性視点で固定化され、政治的迷宮の仲間殺しとして語られてきた物語を、女たちのコンミューンと、その非現実性ゆえの破綻に加えて、すでに抜け殻になっていた赤軍派の精神主義的な軍事至上主義(および獄中にいた革命左派・京浜安保共闘の指導者)との葛藤が生んだ悲劇として語り直すことに挑んだ小説である。次に桐野は本作品ですぐれた人間洞察を行っている。例えば駐輪場で西田の自転車のカゴにペットボトルが投げ込まれた出来事では、西田はこれを許すことができずに管理人に処理を要求する。この管理人は赤軍派の暗喩である。責任を逃れようとする管理人に対する強い批判的表現もこれに由来する。ただし、いやしいほどに鋭い目と言うのは、1971年秋になって自分の都合が悪くなると永田を投げ捨てた革命左派の「獄中」指導者を指している。ここでは二人ともペットボトル(ノイズ=不純物)の存在に困惑し、ルールで処理しようとする。つまりこの人物たちは理性的かつ構造主義的な世界観を持っており、彼らから見れば世界は精密な時計のように動いているのであり、時計が遅れるのは部品が壊れているか管理不十分であると理解し、その責任がどこにあるのかを考える。彼らは実存主義的ではないからペットボトルを投げ捨てたり、踏みつぶして舌打ちをするわけでもない。そういう実存主義的傾向があれば人間類型としてわかりやすく、仲間殺しの動機としても説明しやすいが、あまりに秩序的で内面の矛盾を持たない人間が、強制的に現実世界から隔離されたことで「銃による人間の共産主義化」と言う「救済」にはまり整然と「仲間殺し」を行うという理解しがたい行動を起こすことがよりいっそう連赤事件を不気味なものにしているわけだ。ペットボトルは「援助」→「総括」の暗喩でもある。作品では、あきらめてペットボトルを置いて立ち去る西田の行為が事件からの「距離」を象徴している。世界認識が構造主義的であるか実存主義的であるかは人間の二類型である。この種類のインテレクチュアルな人間が西田をどう見るかであるが、ごく普通の社会人である生徒の父親が彼女を察知して何気なく近づいてシンパシーを示すのは、そのような人には連合赤軍事件の西田もまた「理解可能」であるということを書いているのかと考える。実際にこのような会話はあり得ないので虚実皮膜の間にリアリティが見る作者の意図を感じる。いずれにせよここでは「あっちの世界」が「この世」に結びついているという伏線が張られる。最後に村松により封印されていた記憶がよみがえり、別れた中途半端な「元夫」の消滅を経て世界が浄化され、最後に古市という人物と肉親の邂逅を行うことで西田の「この世」との和解が行われるという出来事により読者はカタルシスに導かれる。さて思い出話の相手であるかのように見えながら作品の原型では重要な位置を占める鍵がが藤川であろう。この作品を見ると藤川と村松、西田は古市を媒介に4者関係を持っているという全体の構造がうかがえる。ことに藤川と古市の関係が隠された軸で、また藤川と村松は近い関係にある。3人から見て「ウラ」の西田は永田に近いという構造がある。その関係性が組織内においても秘匿され疑惑のこだわりになっていたとするころに小説の妙味がある。西田は永田の死によって解放され、3,11世界に帰還する。この作品によって従来の青臭く政治的意図を持って語られてきた「連合赤軍もの」から飛躍的に抜け出した小説的完成度の高い上質の作品がついに生まれたと感嘆する。しかしながらこのカタルシスは西田の重たい過去を反転させて読む者に重い未来を示唆する不穏な性格を持つ。これ以上はただならぬことゆえ筆を擱くことにした。なお本小説とは離れるが、すでに公刊されている参考文献を見ると、永田自身が生育期におった傷による不幸な問題を抱えていたことは想像できる。しかし当時、このような問題は周囲により無視、隠蔽され本人ですらそれを認識できないという時代背景(無理解)があっただろう。またそれを利用して巧みに獄中から組織を操る指導者がいた。永田が赤軍派の「共産主義化」理論にこだわるのは、傷を負うがゆえに人格的二面性を持つサバイバーである彼女自身の問題が背景にあるが、それが異様な強度を持っており、彼女以外の人たちにとっては思いがけずに転がり込んでしまった地獄だということになる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
巻末には20冊余りの参考文献が載せられています。 本作品ではルポルタージュと創作の両方が味わえます。 私は桐野夏生さんと同世代ですが、体育会系だったので学生運動とは無縁でしたので この本に描かれている真実に震撼するあまり、読み続ける事にメゲそうになりました。 しかし最後まで読んで良かったです。想像もできない生き方もあるんだなぁと。 スポーツジムや駐輪場でのやり取りとか、日常の些末なことを織り込んでいく 手法はこの著書にも生きています。 桐野氏の某雑誌へのインタビューによると、西田啓子は当初、サイパンへ行き そこで逮捕されるという筋書きだったそうですが、革命左派の元女性メンバーへの 取材により、連合赤軍の衝撃的な事実が判明し、本作のように書き換えたそうです。 同時代(1972年)を背景にした『抱く女』は20歳の女子大生、直子が主人公ですが やはり男たちに巻き込まれながら、暗い時代に自らの生き方を模索しつつ戦っています。 桐野さん自身もいつも戦う女性なんですね。 20歳と63歳、年齢も立場も異なる二人の女性をほぼ同時期に描いたことにも 桐野夏生氏の力量と矜持を感じました。 『夜の谷を行く』のクライマックスは最終章にあります。 孤独と沈黙と無理解の中で生きてきた西田啓子の人生に初めての希望の光が差します。 最後の数行で私は涙が溢れました。凄惨な事件の陰に、深い母性が感じられるのです。 「感動しろ」という押しつけがましさは全く無く、むしろ呆気ないくらいに スパッと終わってしまうところも桐野さんらしいです。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!