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禁忌
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禁忌の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.91pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全23件 1~20 1/2ページ
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後半に登場する、本格的に性格の悪い弁護士が圧巻の存在感。特に、本筋とは逸れるものの、湖畔?かどこかの静かなリゾートでの朝食の時間に、人好きのする老夫婦の他愛のない話しかけを粉々に粉砕するところは、ドイツじゃみんなこうか!と、ふだん日本のホームドラマ的な進行に居心地の悪さを感じていた私には痛快としか言いようがありませんでした。加えて、長年寄り添い続けているこの男の妻には同情の念を禁じ得ず、今後のこの弁護士の活躍には期待しかありません。なかなか本筋に囚われてここのところを読み取れない読者も多いようで、本当に残念です。 | ||||
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まるで長篇詩のような不思議な魅力のある小説。 「共感覚」という紹介文に魅かれて読んだが、期待していたSFチックな内容をいい意味で裏切ってくれました。全編に俳味と詩情の漂う人物激でした。北欧の作家独特のシニシズムもあります。 これは読む人を選ぶと思う。 作家でいえば姫野カオルコのH(アッシュ)が好きな人ならこれも好きでしょう。 逆に、探偵小説やミステリー大好きで物語のスリリングさを求める人には向かないかも。 | ||||
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著者は刑事弁護専門の弁護士だが、本書は法廷小説でも犯罪ミステリーでもない。もちろん、その手法は駆使されているが、著者の関心は社会や周囲の人になじめない人々の心理や行動であろうか。 本書の前半は犯罪とも裁判とも関係なく、鋭敏かつ特異な色彩感覚を持った少年が写真家として独立していく物語を描いている。この写真家は家族や恋人との関係をうまく築けず、恋人からはあなたのことが理解できないと言われる。カミュ『異邦人』の主人公ムルソーを連想させる人物造形である。 一方、著者の分身と思われる刑事弁護士は30年に及ぶキャリアの心労で倒れ、医師の勧めで山岳地帯に転地療養している(トーマス・マンの『魔の山』が意識されている)。しかし、この弁護士はすばらしい自然環境での療養に全くなじめず、登山客に誘われてもにべもなく断ってしまう。そして、妻が止めるのも聞かずに事件の依頼を機にベルリンの事務所にさっさと戻ってしまう。まさに偏屈そのものである。 社会的に成功しているように見える写真家も弁護士も、実は内心では社会との適合に葛藤を抱え、生きづらさを抱いている。それが写真家の引き起こした不可解な刑事事件、弁護士の心労による転地療養として、合わせ鏡のように描かれているのである。 最後に写真家は弁護士に対して「罪とはなんですか?」と尋ね、弁護士は直接は答えないが「罪なものは人間さ」とつぶやく。 刑事弁護人としてはシニカルに達観しすぎのように感じるが、これが著者が刑事弁護人から小説家へと転身したゆえんなのであろう(短編集『刑罰』のレビューを参照されたい)。 ただ、小説としては事件の動機や人間関係などが説明不足で理解困難な部分が多く、不満の残るところである。 | ||||
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本作でもシーラッハは、簡潔な文章で思わせぶりにストーリーテリングする才能は確かなものである。 が、評者が今まで読んだ他の作品と比べるとシーラッハが弁護士として不条理な事件など多く手掛けて「罪と罰」にたいして法の限界を感じて書いた小説と想像してしまったのです。 主人公のゼバスティアンが何故犯罪者と見せかけるようなパーフォーマンス(芸術作品として)司法の場で披瀝するのか? また、このような司法にたいして型破りのことが許されるのでしょうか? 税金の無駄使いだと非難されることはないのだろうか? などなど、真面目に考えだしたらこの小説は「ナンセンス」そのものと言えるのです。 奇をてらったこのような作品を、さも深く理解したような「フリ」は評者にはできません。 追記として書いておきますが、日本の読者に阿るような俳諧の知識を披瀝するのもどうかと思ってしまったのです。 | ||||
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意味が分からないというのは、ゼバスティアンが経緯を素直に話せば大事にならずにすんだのにということです。事件として扱われることも含め全て芸術の表現ということ?最後の方でセバスティアンが「罪とはなんですか?」と弁護士に聞くが、世間の常識は非常識ということ?う~ん分からん…。ただ、こんな事件が実際に起きたら、「お前の芸術なんか知るか!人騒がせなヤツだ!ふざけるな!」となるだろうなと思った。この迷惑行為は罪にならないのか?この弁護士を主人公にした作品を読んでみたいと思った。 | ||||
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家柄や両親の、様々な曰く付きの事情を背負ったエッシュブルグという、後に写真やインスタレーションで名を成す青年と、彼の起こした殺人(レヴューのマナーに抵触しますが)偽装事件の弁護人ビーグラーの2人を視点人物に描かれた、推理小説、というには後半はほとんど法廷ドラマの様相であるし、前半は前半で家族の相剋といいますか、エッシュブルグの自我の、ある意味陶冶といいますか、要するに区分けが難しい、ジャンル横断的な作品です。 ただ、エピグラフの「緑と赤と青の光が同等にまざりあうとき、それは白に見える。」に従った章立てであったり、99ページのダーウィンの従兄弟というサー・フランシス・ゴルトンの、「犯罪者の顔を合成した結果」の虚実皮膜のエピソードであったりと、よく言えば暗示的、悪く言えば思わせぶりな工夫が随所に施されていて、読む人を引きつけて離しません。 寡聞にして知りませんが、何らかの形で映像化された作品が先にあるのなら、その原作として読んだ方が美点が際立つ作品であるように思いました。 | ||||
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読みたく思っていたシーラッハの長編が、短時間で届きました。嬉しいです。 | ||||
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“「わたしたちは自分の罪に耐えられない。他人のことは許せる。敵のことも、裏切った者のことも、嘘をついた者のことも。しかし自分自身となると難しい。どうしても許せない者なんだ。自分を許すことには挫折する」” ドイツの刑事弁護士でもある小説家シーラッハによる長編小説。これより前に発表された短編集2冊がとても素晴らしかったので、今度は長編を読んでみることにしたのだが……、ちょっと肩すかしを喰らった感じ。 なにかが起こりそうで起こらない前半を過ぎ、中盤から後半でグググーッと惹きつけられ、 「さすがシーラッハ!」 と絶賛したものの、最後の最後であらら? ただ、被疑者取り調べのありかた、その際の拷問が許されるのかどうか、被疑者を弁護することについてといった法的な話になると、やはり「さすがシーラッハ!」という筆力と説得力であった。こういう部分を読めただけでも価値ある読書時間ではあった。 | ||||
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シーラッハを初めて知ってまず短編から入りました。 短編3冊+長編1冊夢中になって読んだ後アマゾンからの「あたなにおススメ?」 メールにて「禁忌」を知りました。読んでみっかで一応読んだけれど、最初は面白そう。 何よりも写真家として成功する主人公エッシュブルグの性格が特異ではあるものの、 それ程魅力的とはならなかったけどソフィア登場しどういう展開になるのか ちょっとドキドキ、各章が色分けされていて凝っているなぁと感じながら読む進むと 如何やら緑+赤+青=白、赤は殺人、白は無罪ってことなのかなぁなんて 読み終わった後、勝手に解釈はしてみたけれど、途中からう~ん、う~んって、今までとは 違うなぁって、レビュアー様、よくわかったなぁって自分の読解力のなさに ガクゼンとしてしまいました。 シーラッハさんは日本びいきなのかしらん。日本の読者に向けてのサービス精神 あふれているのか良寛さんの「うらを見せおもてを見せて散るもみぢ」を引用するも 更にわからなくもなって。「罪とはなんですか?」 本の帯には絶賛の嵐が・・・「~~ラストに明かされる衝撃の真実!それと同時に、 人間の内面的真実が明らかにされる」「~~謎の事件発覚と共に登場する ビーグラー弁護士の存在感と驚きの結末!~~」 確かにビーグラー弁護士の存在はちょっと変人しててユニーク、謎を解いちゃう優秀さに こちらがついていければよかったんだけど、最後のさいごになって、チェスやビデオが 出てきたあたりからよくわからず、結局、ダメだった。つまんないなぁとなってしまいました。 (文章そのものは毎回とても歯切れがよくて読みやすく翻訳者様に感謝です。) | ||||
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正直、ミステリーとしての面白味に欠ける作品、題名と帯の感想と星数に騙されたって感じ | ||||
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常人とは異なる超微細な色覚を有した主人公ゼバスティアンの半生を通して、芸術、罪と罰、幼児期のトラウマ、幻視、法と悪など様々な題材を扱った作品。主人公の特性に合わせて、「緑」、「赤」、「青」及び「白」の4つの章から構成される。冒頭で、「緑」、「赤」、「青」が混じると「白」になると断っているので、その通りの全体構成ではある。一文が非常に短く(2行を越える文章は多分ない)、簡潔な文体で淡々と綴ってはいるものの、その意匠は高踏的に過ぎる感もある。 本作の表面上の見所は、高名な写真家となったゼバスティアンが、「赤」の章で女性誘拐殺人の容疑で拷問の末に自白を強要された上に逮捕され、「青」の章で法廷劇を繰り広げる所にある。ただし、勿論、法廷ミステリではなく、作品全体が(言葉を削ぎ落とした)戯曲の様になっていて、それを通じて、上述した様なテーマを扱っている(と思う)。実は、芥川よろしく、「真実は『藪の中』」という雰囲気が濃厚で、作者の本当の意匠は良く分からないのである。反面、本の表表紙の女性の写真が本作中の「ある真実」を物語っているという大胆な趣向には感心した。 邦題の「禁忌」は原題(Tabu)を直訳したもの。ただし、「タブー」がテーマだとはどうしても思えなかった。日本版には作者が親切にも良寛の 「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」 という俳句を寄せている。これが解題だとすると、人生や人間における「真実」などは表裏一体で、何が「悪」かなんて簡単に決められないという事であろうか。難解ではあるが、作者のファンの方は勿論、広く文学・芸術を愛する方へお薦めの秀作だと思った。 | ||||
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一応、ひと通り読了して(案の定)最初に戻った(笑)。何に疑問を感じたかというと、主人公(とされているゼバスティアン)の生い立ちの部分。セッティングがまるで19世紀のように旧いけれど、ゼバスティアンの年齢から推定すると「そんなはずはない」。 「緑」からすでに虚構が始まっているのではないか…と。 ゼバスティアンの記憶らしき断片で成り立っている「緑」は、よく読んでみるとゼバスティアンの父の兄弟が何人いるのか、「ゼバスティアン」が何人いるのか(貴族の家では同じ名前の人物が複数いてもおかしくはない)、村の中に「落とし種」が何人いるのか、そもそも何人種なのか…等、定義付けのための何かが欠けている。母親には「色がない」というのは、「他所から来た女」だから「トランスペアレント」なのではないか(それまでは、一族の中で婚姻を繰り返していたのかも)…とか思いつつ読み進めていくと、父親(と推定される人物)の頭が吹き飛んだ次の場面でゼバスティアンの色彩感覚が「普通」になっていたり。 しかも、「緑」では社会的事象の記載がないため、年代感覚がまったくない。自分は50歳ですが、子供のころはこんなに古くさい時代ではなかった。むしろ、今よりも感覚的には進んでいたような…。では、現在のゼバスティアンはいったい何歳の人物なのか…?(時代感覚がはっきりしてくるのは、ゼバスティアンの身柄が拘束されたあたりからだけれど、取調べで拷問があったかなかったかがはっきりしない。客観的に立証できる事象はここにもない。) 結果的には、ライトに近づこうとしたダークな家族の歴史にも見え、それがセーニャ・フィンクスで完結したようにも思える。ゼバスティアンと過去の記憶のセグメントを共有しない彼女が、「どこかの誰か」であることをやめた時点でゼバスティアンの(ダークな)家族の歴史がライトのほうに昇華するということなのでしょうか(もっとはっきり書きたいところだが、今の時代は難しい。ライトとダークの対比自体が時代遅れかも…)。 確かに、「もみじは赤に決まってるでしょ」と日本人なら誰もが思う。でもね、楓はもともと緑なんです。少しずつ赤くなり、最後にはどこから見ても赤。「もともとは緑だったのよ」という言葉がどの程度の意味を持つのか?でしょ、つまりは。 | ||||
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ドイツ法曹界関係者による、『コリーニ事件』に続く2作目の長編。 マジョリティが興味を引く「事件」という題材を数多抱える職業であり、抑制が利いた筆致、こなれた翻訳も手伝い、面白くないワケがない。 『犯罪』、『罪悪』という短編集も、エンタメとして読めて、その上、社会、組織の矛盾、思うようにならぬ家族関係において無防備な種の人々の物悲しさ、業のようなものを浮かび上がらせて深い余韻を残す。 エッシュブルクの色彩認識異常、光の三原色をモティーフにした構成は、同じドイツのゲーテの『色彩論』がヒントでは? それにランボーを掛け合わせたアイディアと、臆測する。フランスのミシェル・ウエルベックの問題作『素粒子』をも意識した気がする。長めなエッシュブルクの生い立ちは、これまたドイツのみならず一昔前の欧州文学界のボス的存在だったギュンター・グラスの名作『ブリキの太鼓』でしょう。 主人公の仕事における方法論が大きなヒント。巧みな仕掛けだし、弁護士ビーグラ―の人物設定は歴代探偵小説の名キャラを憶い出させる程魅力的だと思う。弁護士になった理由を面白く簡潔に語る部分、終盤、担当刑事とのやりとりは途轍もなくスリリングで、かつ深い。自由と法律に関する言及は感動的でさえある。そうだよなあ、自由って実に脆くて、壊れ易いものなんだねえ。 シーラッハの小説を法学部のテキストにしたら多くの学生たちが目を輝かすと思うんだけどなあ。 よ~く練られてあるが、一つのアイディアを短く凝縮した珠玉の短編群も素晴らしいです。 | ||||
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何度も繰り返して読みました。この作者の独特な世界観がひとつの芸術作品みたいに思える。登場人物の内面や背景を色々考えたり想像したりして読んでいくとその世界に引き込まれていく。もし、読者があらすじのみを追うことを読書の楽しみとしているのならおもしろさは半減してしまうと思う。 | ||||
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2009年に出版された初めての短編集「犯罪」が世界的なベストセラ-になったフェルディナンド・ファン・シーラッハの最新作は「禁忌」。本文中にも触れられた色彩の天才画家ティツィア-ノを彷彿とさせる異常に研ぎ澄まされた色彩感覚をもって生まれた主人公の半生を、ちょうど志賀直哉のように鋭利に刈り込んだ文体で刻む。シーラッハが「犯罪」以来取り組んでいるテ-マは、なぜ人は同時に善人にも犯罪者にもなりうるのか、そもそも悪とは何か。20年間の刑事事件を扱った弁護士経験からすべての犯罪の動機やその犯罪者への影響を相対化してみせた。「禁忌」ではさらに、不気味な主人公が張り巡らせるトリックが犯罪の現場を混乱させる。その一部は読者にも最後まで解けない謎として残り、読後感は圧倒的だ。 巻末の「日本の読者のみなさんへ」と題したシーラッハの寄稿文は、良寛の、 うらを見せおもてを見せて散るもみぢ の俳句から始まる。裏と表の世界の背反にとまどうのではなくもみじ自体がもともと持っているものであり、取り巻く状況でそれらは違った様子を見せる、それが人間というものだ、と言いたいのでしょう。戦争の中にも豊かな平和があるのを描いたトルストイ、神様お許しくださいと言ってナイフで相手をぐさっと刺すのは信心深いドストエフスキ-の主人公たちだ。 | ||||
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「緑」「赤」「青」「白」の四章からなるシーラッハの新作。 主人公のゼバスティアン・フォン・エッシュブルクは、その名の「フォン」が示すように かつては豊かさと権威を誇った名家の末裔。 色彩を知覚する能力に恵まれた彼は写真家として大成功を収め、有名人の仲間入りをしますが ほどなく女性誘拐の罪で逮捕され、殺人容疑で起訴されます。 物語の後半からはエッシュブルクの弁護のために有能な弁護士のビーグラーが奔走しますが 読者の予想を裏切るような驚くべき展開が続き、物語の最後にたどりついても 何か突き放されたような漠然とした不安感を覚えながら本を閉じることになります。 特異な能力の持ち主であるエッシュブルクの世界観は通常の人びとと 異なっています。その「世界とのずれ」こそが彼を裁判の被告席に 坐らせることになったのかもしれません。シーラッハは巻末の 「日本の読者の皆さんへ」という題の文章のなかで 「肝心なのはつねに人間そのもので、人間に関する理論ではない」と書いていますが、 その彼の言葉を熟考し、噛みしめるのは私たちに任されているのだと思います。 ゴヤの絵への言及や「チェスをするトルコ人」の逸話などが この物語に神秘的な色彩をつけ加えています。 法廷の描写や犯罪の推理はこの物語の一つの要素に過ぎず、 人間性の深淵を覗き込むような純文学に近い作品だと感じました。 なお、酒寄進一氏の簡潔にして格調ある翻訳の素晴らしさが 今回も強く印象に残りました。 | ||||
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『犯罪』『罪悪』『コリーニ事件』――。 フェルディナント・フォン・シーラッハは、人が罪を犯す背景の捉えどころのなさや、その罪を現代の司法制度で裁くことの限界と苦味について、乾いた文体を用いて冷然と描いてきたドイツ人作家です。巧みな物語構成にすっかり捕らわれて、私は新刊が出るたびに欠かさず手にしてきました。 フォン・シーラッハの作品は、翻訳出版元の東京創元社がカバーの内側に付している<あらすじ>には目を通さずに読み始めることが鉄則です。今回も私が自らに課したそのルールに則って頁を繰り始めました。 ところが今回はこれまでの著作とはかなり勝手が違いました。 物語は冒頭から主人公ゼバスティアン・フォン・エッシュブルクの生い立ちが延々と綴られます。ドイツのBildungsroman(教養小説)のような趣といえば聞こえが良いでしょうが、フォン・シーラッハの湿り気のない文体――そして酒寄進一氏によるいつもながら見事な日本語へと移し替えられた和文――を100頁近く読んでも事件が起こる気配がいささかもないことに、やきもきし、大いに戸惑うばかりだったのです。 後半、ゼバスティアンが逮捕されたあたりから、何か不穏な事件が起こったことがようやく見えてくるのですが、それでも彼をめぐる裁判劇の進展具合は、上質のミステリーと形容するにはほど遠く、これまで熱烈なフォン・シーラッハ信奉者だった私の落胆はそれだけ大きなものとなったのです。 これまで多くの読者を魅了してきた作家だけに、この物語の混迷ぶり、混沌具合を指摘することが憚れ、何かがそこにあるのではないか、それが理解できないのは読者である私の力量が足らないからではないかと恐れおののいてしまいそうです。そしていたずらに深く考え、深読みをしたくなるかもしれません。 しかし訳者あとがきによれば、作者の本国ドイツでも「二度読んでも理解できなかった」というDie Zeit紙の書評もあったとか。「王様は裸だ」と直截(ちょくせつ)に発言する書評子もいたということです。それも無理からぬことと言わざるをえません。 日本でのフォン・シーラッハ人気を彼自身も知っているからか、作者はわざわざ日本語版読者向けに特別な随想まで寄せてくれています。その文章で彼は、良寛の句を引いて日本人読者の心に寄り添おうとする努力を見せていますが、果たしてその句の彼の解釈が、多くの日本人読者の賛意を得られるかというと、私は大いに疑問です。日本文化に対して付け焼刃的知識で急ごしらえした文章という印象が残りました。 フォン・シーラッハの作品の翻訳は今後もいくつか予定されていると巻末に書かれています。今しばらく、その作品がまた酒寄氏の日本語で読める日を待ちたいと思います。 *76頁に「熱いオリーブ油で素揚げしたシシトウ、<ピメントス・デ・パドロン>」という文章がありました。スペイン料理pimientos de padronはカタカナ表記するならば<ピミエントス・デ・パドロン>とするべきです。 | ||||
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見事な小説である。刑法と刑事訴訟法の真髄を見事に描き出している。法律に関する小説は、THE TENTH JUDGE くらいがいいと思っていましたが、この小説は、それを遥かに越えている。日常生活を、うまく織り込んでいる点も評価できる。できれば、小坂井敏晶著「責任という虚構」ないし「人が人を裁くということ」をあわせて読むと、この著者が表現したいことが良く理解できると思います。 それにしても、ドイツで、日本の尊属殺人罪違憲判決と同じような事件があったことを知って驚きました。 | ||||
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著者の邦訳はすべて読んでいるが相変わらずの面白さ。犯罪にまつわる事象を淡々と事実を述べるシンプルな語り口で語りつつ、読み手に深い情動を引き起こす手腕は冴えている。 ただ今回、前半は少し退屈に感じた。冒頭は不穏な雰囲気が出ているのだが、写真家になるあたりからの展開が、なんだかありきたりの純文学っぽい展開に思えて眠くなった。いっぽう警察と弁護士が出てきてからの後半の展開は文句なし。それでいて一読しただけではよくわからない箇所がそれなりにあるので(フィンクスのくだりがどういう意味を持つのかなど)、読み込んだりするような深さもあり、素晴らしい。 | ||||
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ミステリというより、観念小説のような読後感でした。 嫌いではないですが、ミステリファンは面食らうと思います。 | ||||
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