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木曜の男
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木曜の男の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.00pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全27件 1~20 1/2ページ
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思索が坂道を転がっていくような話で、笑える箇所も多い。一時の妄想のようだったラストも閑静な雰囲気で読後感がある。 | ||||
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なぜ、この小説が思想小説なのか、その場合、思想とは何か、そこにふれられた感想はないようだ。秩序と反秩序との錯綜した戦いを、詩人と無政府主義に対比させて描いている。ミルトンの「失楽園」とダンテの「神曲」の思想をチェスタトンがおのれのものとして描いた奇抜でいて深遠な小説。言うまでもなく旧訳創世記の第一章の創造の七日間を六人の刑事と謎の怪物である日曜で七人に割り当てているので、必読である。秩序と反秩序の関係は人類の永遠の課題だから、物語に深みがあるが、単なるうわべだけで読んだら、矛盾だらけのドタバタの稚拙な小説であろう。出来れば南條訳も参照したい。思想小説であればこそ別訳も読みたい。主人公サイムはSAME、同じという意味、南條訳では相変わらずと訳している箇所がある。これも一つの参考になる。 | ||||
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期待通りの商品でした。 | ||||
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"だが、おまえたちは人間だった。秘めたる誉れを忘れなかった――全宇宙がおまえたちからそれをもぎ取ろうとする拷問機械に変わっても。””神は死んだ”のニーチェ没後から8年して発刊された本書は、推理作家として探偵小説の古典と見なされる作品を手がけた著者だけあって、緊張した展開から始まり一転、世界の豊かさ、素晴らしさを【再発見】する流れになるのが秀逸。 そして個人的には、19世紀のイギリスにおいて科学技術の発展と共にキリスト教の価値観が揺さぶられ(著者曰く)"印象派の様な"退廃的な文化が生まれる混乱の中で【それでも】と世界を見つめ直そうとする前向きな視線を冒頭の親友へのメッセージに感じ、何だか著者も救われたのだろうなと勝手に安堵したり。 19世紀のイギリスの混乱した様子を感じたい誰か。探偵小説的で、それでいて多層な作品構成に興味のある誰か、あるいは木曜日のお共にオススメ。 | ||||
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Gilbert Keith Chestertonの『The Man Who Ws Thursday』(1908年)の翻訳。 これまで多数の翻訳がある本書だが、英題に忠実な訳題となっているのがまず特徴か。本文もきわめて正確かつ読みやすく訳されており、またこれが肝心なところなのだが、ユーモアの部分もきちんと楽しく訳されている。 訳者によるチェスタートンについての紹介、年譜が非常に行き届いたもので、役に立つ。 信頼できる一冊だろう。 | ||||
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ミステリなのか、ファンタジーなのか、冒険活劇なのか、それとも宗教寓話なのか、あまり馴染みのない一風変わった作風だけれど、 部分的には、そういればこういうのどこかで見た記憶があるなあと懐かしい感じもした。 この小説が世に問われたのは1908年。 ちょうどその10年後から一世を風靡したスラップスティック・コメディとか、ルイ・フイヤードの連続犯罪活劇に通じるアナーキーな楽しさがある。 あるいはそれをリメイクしたフランジュの幻想的なポエジーとか、映画『地下鉄のザジ』小説『日々の泡』あたりのジャッジーでマジカルな表現。 ほかには宮崎駿の『カリオストロの城』やフレンチ・アニメ『ベルヴィル・ランデブー』などのハチャメチャな追跡劇を思い起こすところもあった。 シャガールの絵を思い起こさせる表現主義的な舞台の書割から始まり、何気ない日常風景のなかでも常に奇妙に歪められたパースペクティブの連続で万華鏡のなかでも覗き込んでいるような気にさせる。 少ないタッチでまざまざと幻灯じみた影絵の雰囲気を浮かび上げさせる、絵画的というか視覚的に喚起力のある文体。 最初期のサイレント映画に影響を受けたような場面も少なくない。 無人の草原の真っ只中にある駅から黒集りの暴徒に追われて逃げ回るところなんかまるでゾンビ映画のようだ。 ロシア人形のように幾重にも正体が包み隠された間諜たちと心理的駆け引きを繰り返しているうちに、敵と味方の区別がつかなってくるところなんて実に痛快。 惜しむらくは第三幕でテンポが落ちて若干説明的になり過ぎてしまったところか。 個人的な好みとしては観念的な遊戯に走るよりも感覚的なスペクタクルに徹して欲しかった。 | ||||
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この本の主人公は詩人だが、「世界を破壊してしまいたい」という欲求を実行に移し始めた団体があることを教えられ、警察に入りその暗黒の団体「無政府主義者の団体」に潜入捜査をする。意外な展開があって徐々に仲間を獲得していくがその一方で「敵」もその強力さをいやというほど見せつけてくる。だがそのたびに人類のまともさと「神の栄光」を信じることで彼らは苦難を乗り越えそしてついに、という筋で、僕としては二つほど言いたいことがあるが、なぜ日本人が読むべきと感じたかは一応この筋からだけでもなんとなく読み取っていただけると思う。 僕も自分がやっているブログに「俺も世界を壊したいんだ」などと書き込まれて腹を立てたことがある。みんなそんなにこの世界を壊したいのか?臨済は言ってたぜ。お前らこの世界を離れてどこへ行くんだと。 言いたいこと二つとは、こういう絶望感はニヒリズムではあっても必ずしもアナーキズムではないということだ。まともな宗教ほど思想的にはパンクだし、現にこの小説が面白いのも時としてきわめてパンクな思想を表現するからである。ニヒリズムの実践がアナーキズムであるという図式に最後まで従ったがために、反対する人類の立場がカトリックと同一化されてしまい、結果この小説は見かけ上の宗教的な土着根性といったものを差っ引いて評価してやる必要がある。 もうひとつ、ラストで庭を剪定している「女の子特有の無意識に厳粛な表情」って何さ?ここでもカトリシズムへの甘えが出てしまったようにも思えるが。 | ||||
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推理小説家だと思っていたのだが、篠田一士によればどうもそうばかりではないらしいと知り読んでみた。スパイ小説ばりの心理戦が繰り広げられるスリリングさ、寓意に満ちた設定、そして何よりも豊富なセンスオブワンダー。あっという間に読んでしまった。読書の楽しみを堪能できる傑作。 | ||||
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詩人サイムと無政府主義者グレゴリーとの議論が楽しい本書はなかなかユニークな作品です。 詩人が喜ぶのは混乱だけだ。そうじゃないと言うなら、この世で一番詩的なものは地下鉄道だってことになる。 というグレゴリーに対し 君はつまらん死や散文を読むがいい。僕は時刻表を読みながら誇りの涙を流したいね。 と答えるサイム。 そして自分のペースに持ち込みグレゴリーが狙う無政府主義者の次期役員の地位 木曜日 にまんまとなりすますサイム。 実はサイムが潜入捜査のためにグレゴリーに近ずいた警察官であることが早い段階からわかるのですが、その展開の仕方がうまいです。 本書半ばくらいまでは知的な会話で物語が展開しますが、後半に入ってから、突如まるで筒井康隆のようなドタバタ喜劇に転じます。 そして一気に哲学的な終幕へ。 ラストをどのように解釈するか、何度か読み返す必要があるかもしれません。 それでも、前半部分の知的な展開が 楽しいので個人的にはOKな作品です。 | ||||
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訳者が巻末の解説に書いているように、この本にはさまざまな心象風景や、脳裏を通過した思想、懐疑、偏見、切実な希求、霊感、啓示がちりばめられている。筋書きは奇想天外、探偵小説にして黙示録、副題のごとく一つの悪夢である。 昔大学の恩師が、無から有を生み出す芸術家は尊く、決められた線路の上をダイヤ通りに運転する運転士を蔑むようにいっていたことを思い出した。しかしこの本では、混沌の中でなら汽車はどこにだっていける、しかし人間は魔術師であってヴィクトリアといえばヴィクトリアに着くんだと誇りの涙を流すと。そう、着かない可能性は千もあるのに、ちゃんと着くことに意味があるんだ。 | ||||
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副題には「A Nightmare 一つの悪夢」とあるが、これはミスだったんじゃないか。これでネタバレしてしまった、すべては悪夢だったっていうこと。というより、むしろ完全なスラップ・スティック、ドタバタ喜劇と言ったほうがいいかもしれない。 「ブラウン神父」シリーズもので有名なチェスタトンだが、この手のミステリーの初期の名作ではあるのだろう。いまだに新訳が出てくるっていうところを見ると・・・・・・・ | ||||
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氏によるチェスタトン翻訳にはもう一つ『自叙伝』があって、二冊ともチェスタトン理解のための好適な資料となりました。 カトリック陣営が英国の知識階級の中で拡大する動きには、幾つかの説明の方法がありますが、文学の世界でそのダイナミズムを求めるのならば、ブルームズベリー・グループにおけるカトリック思想の影響を考えてみるのが一つの試みとなるでしょう。 チェスタトンの批評に働く意識は、思想と社会を「今」深く切り裂きます。と同時にその刀は自らをも切り裂かざるをえません。無論いったん表現の領域に移行するのならば、それは思索の終ったあとでの態度決定でもあるのですが、自分が発言者、表現者として時代に相対して無事であるのではありません。 表現は精神の活動の始点にあたるので、ここから動き始めるのです。 その背景には、発言者、表現者の義務があります。 ちなみに、原題には副題がありますので、注意してください。 | ||||
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「木曜の男」を読んだのは30年以上前。この光文社の新訳シリーズは、昔懐かしい作品を(新訳で)読み直すキッカケとなると言う点で良い企画だと思う。本作はチェスタトンの唯一の長編だが、初読時よりもチェスタトンの思弁が前面に出ているいる印象を受けた。鬱々とした印象のあった本作を、なるべく平明に訳そうとする意図にも好感が持てた。 "日曜日"を議長とする無政府主義者評議会に、新しい"木曜日"として潜入した刑事サイムが体験する不条理とも言えるサスペンス小説の体裁で書かれているが、チェスタトンらしい趣向が施され、味わい深い作品となっている。読む方は、迷宮を彷徨っている感じを味わうと思う。そして、いつも通りチェンスタンの社会観・人間観が良く現われている。"目に見えるものが必ずしも真実ではない"、との趣旨が全編を通じ逆説的論理で綴られている。階層社会に対しては否定的なチェスタトンだが、本作では宗教を含め、何が社会的正義なのか懐疑的になっているのが印象的だった。 上述の通り、チェスタトン唯一の長編であり、ミステリ的技巧と共に当時のチェスタトンの思索が充分堪能出来る作品。新訳で読み易さも増し、チェスタトン・ファンにとって必読の名作。 | ||||
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吉田健一訳の『木曜の男』(創元推理文庫)以来、南條竹則の新訳による本作品を久しぶりに読んでみました。 主人公ガブリエル・サイムの恐れと不安がスリリングな熱気をはらむ前半から中盤にかけての歩みと、俄然、一点に向けて物語が収束していく後半のスピーディーな展開と。本文庫の「訳者あとがき」に<この話が一種壮大なピクニック譚だ>とありますが、第十一章「犯罪者が警察を追う」以降の展開は、確かに、ファンタスティックな幻想「ピクニック譚」と言ってもいい妙味がありますね。はらはら、どきどきしながら、頁をめくっていました。 ガブリエル・サイムとガブリエル・ゲイル、主人公の名前が似ていること。「金色の太陽」というカフェと「昇る太陽」という宿屋、話の中に出てくる店の名に、両方とも「太陽」の二文字が入っていること。本作品(1908)のおよそ二十年後に書かれたチェスタトンの『詩人と狂人たち』(1929)のことを、ふっと思い浮かべたりもしました。 訳文は読みやすかったです。吉田健一の訳文の独特な旨味、あれはもう一種の名人芸かなと。文章の馴染みやすさ、分かりやすさという点では、この南條訳に軍配が上がるでしょうか。でも、どちらもそれぞれにいい訳だと思います。蛇足ですが、南條竹則訳では英国怪談のアンソロジー『怪談の悦び』がとても気に入っています。 それと、訳者による本文庫の「解説」、これがよかったなあ。チェスタトンの思想、友人に恵まれたその人生を、ささっとスケッチして見せてくれたような案内文。奇想天外なこの物語を書いた作者の人となり、その一端に触れ得た思い。読みごたえ、ありました。解説文の途中に挟まれた一枚の絵も、雰囲気があって魅力的。机に向かって何か書いているチェスタトンと、それを見守っているふたりの親友、モーリス・ベアリングとヒレア・ベロックを描いたこの絵は、ジェイムズ・ガンの「団欒図」(1932)。 | ||||
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日曜日から土曜日まで、七曜を名乗る 男たちが巣くう秘密結社《七曜会》――。 この怪しくも魅惑的な集団の名に、私がはじめて 触れたのは『街』というゲームソフトにおいてでした。 そのゲームは、妖艶で世俗を超越した美女「日曜日」のもと、 《七曜会》のメンバーとなってターゲットを脅迫し、一万円を 支払わせるという、一見不条理劇のような装飾が施されていながら、 結末では、じつはスタンダードな成長物語であることに判明する、 といったものでした。 そのオリジナルだろうチェスタトンの本作も、 基本的には同じ構造のように思います。 正直、「神」や「宗教」といったことと無縁な生活を送る私には、 チェスタトンが抱えるアンビバレントな宗教的苦悩を正確に 推し量ることはできません。 しかし、なんとなくですが、理性によっては人は救われず、 己自身の空虚さに狂わされていくのみだ、といったことを 本作を通じて表現したかったのではないかと感じました。 | ||||
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翻訳のせいか、読みにくい話しのはずなのに読みやすかったです。 また、話しが一転、二転、三転とし、最後まで息つく暇もありません。 そうでありながら、中身の薄っぺらな物語とはやはり違います。 さすが20世紀初頭のイギリス小説!という雰囲気がたっぷりと つまっています。 ブラウン神父を彷彿とさせる逆説がもり沢山。 日本の今のくっだらない三文ビジネス本もどきを読む時間があるなら、 やはりこれらの中身がたっぷり、充実した本を読んでいこうと 2009年初頭、気持ちを新たにしました。 いい読書体験ができます。 | ||||
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チェスタトンというのは本当に不思議な作家だ。スパイ小説というジャンルが生まれる前に、スパイ小説の究極のパロディを書いてしまったのだ! この本1冊読めば、どんなスパイ小説も結局はこの本をなぞっているだけということが分かる。スパイ小説いらずになる本。 | ||||
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ブラウン神父シリーズは途中挫折した、というか全部は読んでいない程度のチェスタトンファンだが、本書は雰囲気が全く違い、混沌とした独自の世界が広がっていて、モロ好みである。 あまり著者の細かい経歴まで調べたりしないたちなので、他の方のレビューのそういう部分はとても参考になった。そうなのか、面白いね。全く無自覚だったけど、思想性のあるものが好きなんだな、私は。 読まないで死ぬと損をする作品の一つだと思う。 | ||||
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「人生はアップでみると悲劇だが、ロングでみれば喜劇である」 というチャップリンの言葉があるが、本書を読んでそれがあたまにうかんだ。 なるほど、この作品に書かれていることは、主人公であるサイムにとっては悪夢にちがいない。 しかし読者にとっては、グレゴリーとの議論をはじめとする、サイムと登場人物たちの逆説やユーモアに みちたやりとりは楽しいし。「木曜日」と「金曜日」による暗号のやりとりはギャグであるし。 物語の中盤からくりひろげられる逃走劇と追走劇はまさにドタバタ喜劇である。 ほかのレビュアーのかたが書いているように、本作品から哲学や作者の苦悩をよみとることも可能である。 しかしまた、本作は良質なエンターテイメントでもあるのだ。 これから本書を読もうというかたも、小難しいかもとは思わずに、気軽に手にとっていただきたい。 | ||||
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ブラウン神父シリーズでおなじみ、また思想家としても有名なチェスタトンの、なんともまあ不思議な長編小説です。外形的には無政府主義組織の爆弾テロの企みをめぐる一種の冒険譚、ですが、とてもそれだけでは語り尽くせません。まずは御用とお急ぎでない方はご一読あれ! とにかくいろいろな読み方ができます。冒頭からの、あれよあれよという展開(しかも最後に唖然とすることうけあい)を普通に楽しんでも良いでしょう。著者ならではの、ユーモアと逆説に満ち満ちた会話(男ばっかりの登場人物がやたらと飲み食いしながらしゃべるしゃべる!)や文章、そして思想を味わうのも一興。あるいは同時代的な文学状況のなかで、カフカやジョイスなんかと並べてみることもできるかもしれない。さらにはちょうど百年前の、世界戦争も社会主義国も知らないが、しかしすでに爆弾テロを知っている欧州、について考えるのもあり。などなど。 おまけ的に最近出たこの南條竹則訳と、古典といってよい(?)吉田健一訳のそれぞれの特長(徴)をそれぞれのページに載せてみました。原文と比較対照したわけではないし、さらっと一読しただけなので不完全で一方的な印象ですが。 こちらは吉田訳に比し価格は若干高いですが、文字は大きく読みやすい。吉田訳では割愛されている、著者の友人あての序詩も訳され、末尾の訳者解説で解釈もされています。人名表記なども含め正確さの度合いではおそらく南條訳の方が上かと。必要なところには訳注も加えられています。文体的には、原文にあわせたのとおそらく南條氏自身の文体と両方でしょうが、若干擬古調というか、結構古いボキャブラリーも使われ、吉田訳との半世紀近い差は意外に感じられませんでした。が、やはり会話にしても地の文にしても、ぎこちなさはなく読みやすい。読みやすさ重視の場合はこちらでしょうか。 | ||||
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