(短編集)
ブラウン神父の無心
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特になし | ||||
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「ルビンの壺」と呼ばれる、よく知られた錯視図形があります。 見ようによっては大型の壷にも向き合った2人の人間の顔にも見える多義図形です。 向き合った2人の顔にしか見えないときは、そこに大型の壺は見えません。逆もまた同様です。つまり同時に両方の図形を見ることができないということです。 評者は、チェスタトンのブラウン神父ものを読むと、このルビンの壺を思い出します。 チェスタトンの小説では、なにか殺人のような事件が起こったとき、まわりの人間たちが大型の壷ばかり見ているところで、神父のほうは向き合った2人の人間の顔を見てとり、事件の様相をガラリと反転させ、事件の謎を解決するというわけです。 | ||||
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それこそ学生か高校生の頃、創元推理文庫で読みましたが、ちくまの新訳で再読です。 ホームズやポワロなんかと並び称されるブラウン神父の最初の短篇集です。 まあ、あまりにも有名な短篇集ですが、非常に独特な探偵術が展開されます。そこにはホームズのような科学分析もないし、ポアロのような出生にまつわる複雑な秘密も存在しません。ある意味、学習雑誌の付録にあるような推理ゲームのような謎解きが続きます。 そこにあるのは、一種の美学に基づく可能性の陳列です。 印象深いのは推理よりも、情景描写の巧みさだったりするわけで、特に思うのは、登場人物のほとんどすべてに宗教的バックボーンが明らかにされている点です。誰は無神論者だとか、長老派だとか、といった感じ。そして、神父は決して犯人を直接捕えないことです。彼は犯人と長時間にわたって話し合ったりして、要は懺悔を受け入れるわけですね。 このあたり、この作品のあと、英国教会からカトリックに改宗するチェスタトンの思想的背景を感じます。 いずれにせよ、短篇なのですぐ読めるし、推理も素晴らしく楽しめますよ。 | ||||
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本書『無心』は創元文庫の『童心』の新訳にあたる。ブラウン神父ものの記念すべき第一作である。かつてそのシリーズで読んだブラウン神父ものの小説としての印象はもうおぼつかない。それでも「落葉を隠すには森」とか「最も目にしているものこそ見えない」といった警句や逆説は頭に刻まれている。そういう奇抜な寓意をえて事足りてしまったのだ。わが脳みそにはその寓意を体する独特な人物や事件の背景はきれいに消えてしまっていた。 本書を読んで、わたしはブラウン神父にはじめて出会ったようにかんじる。その相棒にして鷹揚なる悔悛者フランボーにいたっては、そのえがたき存在感にはじめて気づいたといってもいい。そしてそれにおうじて犯人たちにおいても鮮烈なものをひしとかんじさせられた。たとえばフランボーはまるで山田風太郎の明治物で躍動する悪徳なる好漢そのものではないか。本書は第一篇「青い十字架」から読むべきである。その意味でも風太郎の作風をおもいおこさせられるのだが、その連作において「秘密の庭」じたいが役割としての善悪のどんでん返しを演じ、ついで「奇妙な足音」でその善も悪もふたつの足音にすぎないと相対化され、「流れる星」でまずはひとつの収束、悔悛をみるというぐあいである。こうして「善悪を真に知るのは人にあらず、むろん探偵(神父)にあらず、神のみ」とでもいうべきブラウンのイノセンスが各編でくりかえしかもされることになるわけだが、まあそういった箴言化は本書の魅力に対して余計であろう。いずれにせよ、このいかにも小説的な連作的エピソードを承知していなくては、本書の傑作「イズレイル・ガウの信義」「サラディン公の罪」「折れた剣の招牌」での対話者フランボーはただのワトソン役におさめられてしまう。むろんワトソンがそうであるように、フランボーは謎解きのひとこまなどではなく、ブラウンのアクロバティックな推理に必須な唯一無二の友なのだ。《「フランボー」とブラウン神父は言った。「あそこのベランダの下に長い腰掛がある。あそこなら、雨に濡れないで一服できるだろう。君は世界でたった一人の友達だから、話がしたいんだ。というより、いっしょに黙っていたいのかもしれんな」(「間違った形」)》この沈黙において、ブラウンは神父(探偵)という全知さの芯にある無力さ、やりきれなさを懺悔しているのである。 本書で触れずにはおけないのが「アポロンの目」である。ひとつの事件とおもわれたものが、ふたつの犯罪が複合しており、それを「大きい罪を犯した者が、小さい罪に邪魔された」とブラウンはみごとに解き明かす。だがここでブラウンは探偵としては正解しても神父としては錯誤していると、わたしは逆説を弄したい。なぜなら小さな罪は、そのタイミングで殺人が起こるであとうという未必の故意を前提にしていなくてはならない。小さな罪をなすものは殺人を予知し、利用したのだ。むしろこの小さな罪の、大いなる罪を不作為に作為した邪悪さこそが責められるべきなのではないだろうか。これにたいしてはブラウンの慧眼までも異教アポロンの太陽神の光に眩まされたというべきだろう。邪教を指弾する鮮やかすぎるラストでは、じつはブラウンのイノセンスさこそがゆらいでいよう。いやブラウンも一個の思惑(錯誤)を逃れられないというべきなのだ。こういった複合する複数の思惑、錯誤がうむ奇怪なひとつの事件というテーマは最終話「三つの凶器」でくりかえされる。「アポロンの目」にあったカタルシスはもうここにはない。やりきれない真相をといたブラウンの最後のことばは「さて、聾学校にもどらなければならない」と、かれは沈黙の世界に後退するのである。 さて新訳である本書の個人的な意義はもうくりかえすまでもないが、第一にあげれば生き生きとした会話にあるといえる。「透明人間」の事件前の一幕、青年のプロポーズ場面などは、たとえば「サラディン公の罪」の事件前のブラウンとフランボーの帆船での妖精をめぐるかけあいのたのしさとどうよう、チェスタトンが抜群の会話のテクニックを、ロジカルな謎の追求にかぎらずもっていることをあかしている。だがその童心めいた会話のたのしさは、結局、やはり沈黙とむすばれるのだ。《(恋人たちは楽しく語り合うだろう…)しかし、ブラウン神父は星空の下で、雪の降り積もった丘を殺人犯と一緒に何時間も歩きまわった。ふたりがなにを話し合ったかは、知るよしもない。(「透明人間」)》 | ||||
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ブラウン神父シリーズは5冊あって、本書は、その一冊目で、12の物語から成る、The Innocence of Father Brownの日本語訳。 それぞれの物語の扉のページに原作のタイトルが入っているのがうれしい。 面白かった。個人的には「奇妙な足音」と「透明人間」が気に入った。 原作の英語はかなり訳しにくそうだなと思って、探してみたら、Kindle版で色々出ていて、無料のものから、解説のついた有料のものまであります。 原文は、読めなくはないのですが、カトリックをはじめとする宗教の知識や、イギリスの地理、習慣などに対する細かな予備知識が必要です。本書には、頁ごとに脚注がついていて、助かりました。ただ、訳語の中にも知らない単語が出てきて、時には辞書では調べにくかったりしたので、星1つ減らしました。 | ||||
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