屍鬼



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屍鬼〈5〉 (新潮文庫)

2002年01月31日 屍鬼〈5〉 (新潮文庫)

村人たちはそれぞれに凶器を握り締めた。「屍鬼」を屠る方法は分かっていた。鬼どもを追い立てる男たちの殺意が、村を覆っていく―。白々と明けた暁に切って落とされた「屍鬼狩り」は、焔に彩られていつ果てるともなく続いていった。高鳴る祭囃子の中、神社に積み上げられる累々たる屍。その前でどよめく群れは、果たして鬼か人間か…。血と炎に染められた、壮絶なる完結編。 (「BOOK」データベースより)




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屍鬼の総合評価:7.99/10点レビュー 252件。Sランク


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屍鬼の感想

長いですね…でも完読する価値ある作品です。仕事をしながらでしたが、10日もの間「人死に」に浸っておりますと、何やら精神が揺らぎはじめてきて、読み終わった時には安堵しました。
前半は閉じた村=人間主体の社会の中で生きるの人々心理や行動、個と集団の葛藤等が描かれ、後半は創造主である神の創りし世界の一部でしかない世界て生きる人間を、その死生感を通じて人間が人間として生きるためには、何を信じてどう生きるか…が、問題提起されていたように思います。
人間の限界、神との境界は人に寄って異なります。自分が人間である以上、種としてよりよく生き、生き続けるためには、どこまで守るべき範囲を広げ、どこに境界線=妥協点を設ければいいのでしょうか。他者を尊重するということは自分の尊厳を守ることだとしたら、対象となると他者とは一体なんなのでしょうか。種を越え類を越え、神の領域さえ越えていったらその先には何があるのでしょうか。まるで宇宙の終わりを目指す旅のようでした。
私としては、結論が出るわけはない問いの中をグルグル巡る無限地獄に放り出され、じっくり深く思考する有意義な与えていただけき、素晴らしい作品に出会えたと思っています。ストーリーもプロットも飽きのこない展開もとても面白いですし。お時間のある方はぜひお読み下さい。オススメです。
ただ、評価をマイナス2ポイントの訳をですが…こんなに哲学的な思索に耽ることのできた作品だつたのに、ラストのまとめが少女漫画的な薄いものになっており…少し残念でした。

はつえ
L7BVQMDY
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2020年現在の世相を反映しているかのよう

小野不由美氏による重厚長大と云う名に相応しい超弩級ホラー小説が本書。なんせ文庫版で全5巻。総ページ数は2516ページに上る。
そして本書を以て横溝正史が日本家屋を舞台に密室殺人事件を導入した第一人者であれば小野氏は日本の田舎町に西洋の怪物譚を持ち込んだ第一人者とはっきりと云える。それを今からじっくりと語っていこう。

本書は外場村と云う約1300人の村人が住まうある地方の村で起きた、村が壊滅するに至った惨事を綴った物語だ。

小野氏はその惨事について事の起こりとなった壊滅に至った山火事が起きる1年以上前の7月24日から物語を始める。

本書がスティーヴン・キングの名作『呪われた町』の本歌取りであることはつとに有名で、現に本書の題名に“To ‘Salem’s Lot”と付されている(Salem’s Lotは『呪われた町』の舞台)。私は幸いにしてその作品を読んだ後で本書に当たることができた―本書刊行時はキングなんて私の読書遍歴に加わると露とも思っていなかったから、すごい偶然でタイミングである。これもまた読書が導く偶然の賜物だ―。

丘の上に聳え立つ古い洋館。そこに引っ越してきた住民。それを機に村には怪奇現象が起き、やがて村中を覆い尽くすことになる。
それが『呪われた町』の話であり、そして洋館に住み着く住民とは吸血鬼であり、彼らが村中の人々を襲うことで次々に吸血鬼になっていくという話である。

翻って本書でも丘に聳え立つ洋館というモチーフは一緒で、ただそれは海外から移築された建物であり、かつて町の大地主であった竹村家のお屋敷を取り壊して作られた洋館であることと、完成後なかなか人が越してこないために村中の人々が村にそぐわない洋館についてまことしやかな噂が立てられている。

そしてようやく入居者が現れるのが1巻の300ページを過ぎた辺り。しかも応対するのはその桐敷家の使用人の明朗な青年辰巳という意表を突いた展開である。

夫婦2人と娘1人の桐敷家の妻と娘2人がSLEという先天的な病気を患っており、日中は全身を衣類で覆わないと外出できない体であることから田舎の外場村に越してきたのだった。他に専属の医者の江渕と家政婦1人を合わせた6人で住むようになる。

更にその桐敷家の一行は辰巳からどうも自分たちのことが村中の噂になっていることを聞くと、村に出て村民たちに挨拶回りをする。

家長の桐敷正志郎、千鶴、沙子の3人だ。都会的で洗練された彼らが村に変化をもたらす。

この洋館と云う共通のモチーフ以外はあくまで小野氏は日本のどこかにあるような人口1300人の閉鎖的な社会で村中の人々が親戚であるかのような小さな地域社会でお年寄りが日々誰かの噂話をしては、村唯一の医院が情報交換の集会場となっている、そんなどこにでもありそうな田舎の村を舞台にして、実に土着的に物語を進めているのが印象的である。

それは小野氏がこの外場村という架空の村について、日本のどこかにある村であるかのように丹念に語るからだ。

まず開巻の一行目はいきなり外場村が死によって包囲されている村であると強調される。渓流に沿って拓けた末広がりの三角形の形を成す外場村は周囲を樅の林に囲まれており、村はその樅の木から卒塔婆や棺を作ることを産業として発展してきた。
つまりまず外場村は死によって成り立ってきたのだ。

更に村には未だに土葬の風習が残っており、そして周囲を樅の山に囲まれていて孤立してきたが過疎には合わず、常に1300人前後の人口が保たれている。

元々寺院の領地に木地屋が入って拓かれたのが外場村の起源であることから寺が村の地位の上位にあり、その土地を村人に分配していたのが兼正、その寺と兼正の招聘に応じて村に来た医師が尾崎。従ってこの三家がいまだに村の三役として威光を放っていること。

その村を拓いた木地屋が竹村、田茂、安森、村迫の四家であり、それに広沢を加えた五家の子孫が今なお村に住んでいること。

斎藤実盛という武将が保元・平治の乱において稲の下部に躓いて敵に討たれた恨みから害虫になって稲を食い荒らすのを食い止めるために、実盛の別称である長井斎藤別当に因んでベットという藁人形を供養するために村を練り歩いて祠まで連れてくる虫送りと云う祭りの儀式。

土葬がまだ残る外場村で死者が甦る『起き上がり』を鬼と評する伝統。

上中門前、下外水口と呼ばれる、上外場、中外場、門前、下外場、外場、水口と云った集落の呼称とこれに山入と云う今では2軒のみとなった集落によって外場村が構成されていること。

人が死ぬと葬儀のために近隣住民が相互扶助を行う弔組という制度。

とこのように上に書かれた田舎ならではの村社会独特の風習は都会生活のみを体験している人間にしてみればワンダーランドのような設定に思えるが、一旦田舎生活をすればこのような昔ながらの風習やしきたりが今なお続いているのが常識として腑に落ちてくる。

これは小野氏が恐らく大分という地方出身者であることが大きいだろう。
私も四国に住んでいた時にこのような土着的な風習に参加する機会があり、寧ろまだ日本にこのようなしきたりが根強く残っていることに感心した思い出がある。そしてそれを体験したからこそ本書で書かれている外場村独特の文化が実によく理解できた。

さらにたった1300人の村人で構成される住民それぞれについても小野氏は深く掘り下げる。

物語の中心人物は室井静信と尾崎敏夫の2人だ。

村の旦那寺の副住職で小説家としても活動している室井静信。

その同級生で村唯一の医院を経営している尾崎敏夫。

この2人はそれぞれ父親が病で倒れたことで元々村にあった寺・医院を継いでいる。静信の父親は脳卒中で倒れ、以後寝たきりの生活となっており、母親の美和子が寺と父親の世話をしている。また小説家を兼業しており、学生の頃にリストカットで自殺未遂をした経験がある。

尾崎の父親は膵臓癌で倒れ、そのことがきっかけで大学病院から戻り、医院を継いだが妻の恭子は田舎暮らしを厭い、隣の溝辺町の市街地でアンティークショップを経営し、店の近くのマンションで暮らしては月に2、3度村を訪れては敏夫と生活を共にしている。

この僧侶と医者の2人は日常的に死に接しているがゆえに、彼らは死に対して敏感であり、従って最初に怪異の正体に気付く。

特に本書では静信が作中で綴る屍鬼を扱った小説の執筆と並行して進む。その内容は自分のせいで死に至った弟が屍鬼として蘇る兄と弟の物語だ。

断片的に語られるその小説の内容は次のようなものだ。
皆に慕われていた弟に嫉妬した兄が弟を殺すが、その弟が屍鬼となって甦って兄を追ってくる。兄は弟は自分を殺した兄を憎んでいるはずだと思い込むが、実は弟は兄に対してそんな感情を抱いていなく、ただ彼を追いかける。

そしてそれは旧約聖書の『創世記』に書かれているカインとアベルのテーマであると静信は桐敷沙子に指摘される。静信の過去の作品は全てこのカインとアベルがモチーフになっているとも。神に見放されたカインはアベルを妬んで殺害する。静信の書く物語は疎外された者の話であると。

神に仕える僧侶の静信が神に見放された者をテーマに物語を書き続けている、この非常に違和感を覚える静信の精神性。彼はどこか神に祈りながら、そこに神はいないのでは
ないかと心の中で思っている。

彼は学生の頃、出版社に勤める大学の先輩に云われるがままに小説を書き、そしてそれが出版されることで小説家になった。そして大学2年のコンパの後、彼は寮の風呂場でリストカット自殺を図る。ただそれは自殺をしたかったわけではなく、死ぬか試してみたと云うのが正直な心境だった。そして彼が自殺未遂をしたのは村人たちの間では周知の事実だった。

物語の中心はこの2人をメインに進むがそれ以外にも点描のように村の人々の話が描かれる。

尾崎医院のスタッフたち。橋口やすよ、永田清美、国広律子、汐見雪、井崎聡子ら5人の看護婦、レントゲン技師の下山、事務員の武藤と十和田、雑務のパート、関口ミキに高野藤代。
彼ら彼女らは貧血の様相、もしくは夏風邪の兆候のように倦怠感を覚える患者たちから、やがて同様の症状を訴える人々が次々と運ばれてきては、そのいずれもが決して回復することなく3~5日の短期間で多臓器不全によって亡くなっていく様をリアルタイムで、最前線で知る人々だ。
新種の伝染病かもしれないという不安の中にあって決して恐れをなして退散することなく戦うスタッフとして描かれるが、物語が進むにつれて彼らもまた安全地帯にいるわけではないことが解ってくる。

国道に面するドライブイン「ちぐさ」を経営する矢野加奈美とそれを手伝う友人の前田元子。村外で結婚したものの続かず、離婚して村に出戻ってきた矢野と小心者で国道を走る車の勢いに怯え、いつも自分の2人の子供が事故に遭いはしないかと心配ばかりをしている前田元子。
特に前田元子は父親が病気一つせずに頑強な身体を持ち、それがまた性格をも頑固にさせているお陰で彼女は家庭の中でも委縮して肩身の狭い思いをしながら生活している。このドライブインは外場村壊滅の元凶となる桐敷家の引っ越しに最初に接触した場所でもある。

また村にあるクレオールは外場村の女性を奥さんに貰って村外から引っ越して来た長谷川が経営するジャズの流れる昼は喫茶店、夜は酒も出すレストランという店でそこで結城、中学教師の広沢、村唯一の電器屋を経営する加藤実と同じく書店を経営する田代たちの社交場となっている。
結城は1年前に越してきた最も新しい新参者。彼は木を使って家具を作ったり、糸を染めて布を織ったりする工房で生計を立てている。変わっているのは妻小出梓とは夫婦別姓を貫くため、籍は入れずに生活している。子供は高校生の息子夏野がいる。
新参者の彼にそれらの人物が雑談で彼に語ることで外場村の伝統や伝承、情報などが語られる。

その結城は田舎暮らしに憧れて都会から引っ越して来て1年経つが、閉鎖的かつ排他的な村社会に溶け込もうと村祭りの最終日にある虫送りの儀式のユゲ衆に参加したり、土葬の風習が残る外場村でそれらを取り仕切るそれぞれの集落で形成される弔組にも入ったりと積極的に参加するが、どこか壁を感じている。物語中盤では外場村での生活を厭う自分の息子が村の田中姉弟と親しくなっていることで地縁が出来ていることを驚きながらも嫉妬したりもする。
村に溶け込むことを望みながら一方で村人のようになるのに深い嫌悪感を持つ、自己矛盾を内包した彼はつまり自身が都会から「来てやった」、まだこんな田舎者がいたのかという村民たちを高みから見るような感覚があったからではないか。
だから村人とは上手くやるが決して村人のようにはならないと彼の中で線引きがなされており、田中姉弟が息子と仲良くすることで自分の生活圏を、価値観を壊しに来ているような感覚であったのではないか。彼は田舎に憧れながらもその実、暮すには向いていない人種だったのだ。

尾崎医院で事務を務める武藤の家は高校生仲間の溜まり場でもある。同級生の武藤保と姉の葵、そして既に村外に就職している徹が結城夏野の気の置けない友人であり、そこに村迫米穀店の末息子、正雄が加わる。
村迫正雄は結城夏野のクールな佇まいと決して感情的にならずに論理的に物事を見定める話し方、そして何よりも1つ年下でありながらもタメ口を利き、更には自分の方が年下のように思わせる彼の頭の良さに常にイラついている。

逆に竹村タツが経営する村の入口にある雑貨店タケムラは村の年寄達の溜まり場だ。佐藤笈太郎、大塚弥栄子、広沢武子、伊藤郁美が訪れては四方山話に花を咲かせる。村の入口にあるため、村の出入りに詳しく、また口さがない村の老人たちによる情報交換の場である。「おい、知ってるかね?」がいつもの会話の口火だ。

そこにたむろする伊藤郁美は村の中でも変人として見られており、しかもケチで村の立ち飲み屋でもお金を持って行かず、いつも他人の奢りで飲んでいる老人だ。しかし彼女は村の死人続発が起き上がりによるものであり、そしてその元凶が桐敷家であることを素早く見抜いた人物だ。しかし日頃の行いを村人たちは疎んじて見ており、また彼女の性格自体も決して社交的かつ親しみのあるものではないため、話半分でしか聞かれない。

そんな詳細な背景が設定された外場村とその村民たちを襲う、着々と訪れてくる死の翳。死に囚われた人々は何かに遭遇し、その後は表情が一様に虚ろになり、何かを問いかけてもはっきりしない。しかも食欲もなくなり、ぼぉっとしたまま、ひたすら眠りを貪りたくなる。そしてある日突然褥の中で冷たくなっているのを発見される。
それら一連の連続死は新種の疫病の発生かと思われたが、村に伝わる伝説、死者の起き上がりによる屍鬼の仕業であることが解ってくる。それらのプロセスをじっくりと小野氏はかなりの分量を費やして描く。4部に分けて書かれた物語のそれぞれの流れについて以下に少しばかり詳細に書いていこう。

第1部は閉鎖された変化のない村、外場村の村民たちの日常生活の風景と文化が上に書いたように描かれる。いわば村民たちのイントロダクションだ。そして外場村に訪れた新参者の登場とそして例年とは異なる猛暑が続く夏の日々の下、これまた例年ではありえないほどに村人の死が相次ぐことが示される。いわば終末への序章だ。

第2部は更に死者の発生に拍車がかかる。1節ごとに死人が出てくるほど、次から次へと村人が亡くなる。老若男女の区別なく。そして一方でこれら一連の連続怪死に対する探究が医者の尾崎敏夫を中心に。貧血、夏風邪と誰もが経験する猛暑の中で起こる身体への異変。それがこの一連の死に共通する兆候。これを尾崎敏夫は未知の伝染病の仕業ではないかと推測する。
そしてこの病気が具合は悪いが病院にかかるほどでもないという月並みな症状で始まり、ある日を境に急激に多臓器不全を引き起こす。始まりが緩やかに、そしてあまりに普通であるために気付けば手遅れと云う怖さを秘めていることが強調される。

更には夜逃げの如く村から引っ越す人々も出てくる。それも唐突に周囲への挨拶もなく、いきなり引っ越すのだ。しかも夜中に。
それらの家族は例えば例の奇病に罹ったと思しき家族がいる家だったり、また何の脈絡もなく、村から逃れるかのように引っ越す一家がある。しかも家財道具をほとんど残して。例えば典型的な人好きのする村の駐在さんだった高見も突然亡くなると、残された高見の妻と2人の子供は病院から戻るとその夜家を出てそのまま戻ってこなくなる。そして夜中に引っ越し屋が彼の荷物を運び出し、そして彼の後任として独身者の佐々木と云う人間が配属される。

一連の奇妙な引っ越しに共通するのは夜中に引っ越してきた桐敷家と同じく全て高砂運送が行っている。

更には死人の中には突然直前に辞表を出して職場を辞した者も現れる。それも突発的に。しかもそれらの人々は押しなべて辞表を出した後、3日間ぐらいで亡くなっている。それも例の奇病が発症して。

更にそれら引っ越しをする人々と亡くなった人との間に奇妙な符号が見えてくる。

山入と云う村の中でも特に山の奥まったところにある集落にそれぞれが家を持ち、あるいは山を所有していた一家が全ていなくなってしまったこと。更に村人を山から排除するように夏の終わりに降り続いた大雨によって土砂崩れで山入への道が寸断されたこと。

更に唐突に辞職した人たちは外場村の外に働きに出ていた者たちばかりであること。ただ高校教師だったり、NTTに勤めていたり、溝辺町の役所に勤めていたり、と職業の区別はない。

そして唐突に引っ越した人間の中には逆に外場村の外から村に働きに来ていた者たちも含まれていること。外場村の小学校の校長だったり、村の図書館司書だったり。

村の境界に置かれていた道祖神たちが何者かによって壊され、そして村のウチとソトとの結界のような物が無くなり、桐敷家と云う新参一家が入村し、ウチとソトとの境が曖昧になったかと思えば、逆に村内と村外と人の出入りが始まる。それも唐突かつ加速度的に。

私はこの段階でいわゆる動物たちの危機回避行動を想起した。大地震や天災の前触れを動物たちが察知して事が起こる前に行う集団避難だ。
さらに身内に罹患者を持つ家族はレミングの群れを想起した。今ではデマと云われているが、集団行動を行い、そして集団自殺をすると云われていたあのネズミたちを。

そして死ぬ前に唐突に辞職する者たちは象の墓場の逸話を思い出した。象は自分の死期を悟ると群れから外れ、象の墓場と云われる場所に向かい、そこで死を迎えるのだというあの話を。

人も動物である。人が他の動物と一線を画しているのは理性と卓抜した知能を持っているからである。
しかし村で蔓延する奇病がそれら理性と知能を排除し、人を他の動物同様にするものであれば、人もまた上に挙げた動物の習性に従うのではないか。

読者の目の前にはいかにも怪しい要素が眼前に散りばめられているのに、なぜかそれが線となって結ばれない不安感をもたらす。

丘の上の兼正の屋敷が取り壊された跡に移築された洋館と遅れて真夜中に引っ越してきた桐敷一家。

村でまるで伝染病の如く次から次へ村人の命を屠る正体不明の病。

そしてなぜか村で頻発する夜逃げのように夜中に村から引っ越す人々。

駐在員の死と共に速やかに後任として村に来た佐々木と云う巡査。

そして突然勤めを辞めたかと思うと急死する人々。

それが第3部で一気に明らかになっていく。いわば現実的レベルからの飛躍の章だ。

爆発的に増えゆく死者とそしていきなり村からいなくなる失踪者。そこから尾崎敏夫が導くのは村に残る言い伝え、死人が墓から起き上がり、村へ下りてきて祟りをなすと云われている「起き上がり」が起きていると云い放つ。つまり一連の怪事はこの非現実的な、昔話的言い伝えによって全て筋が通るのだと主張する。そしてそれを裏付けるが如く、村人たちの中に人外たちの視線を感じる者が出てきたり、死んだはずの人間を見かけたりする。

つまり第3部は物語の核心への突入だ。外場村では古来甦る死者、即ち「起き上がり」のことを鬼と呼ぶ。そう、起き上がる屍、即ち屍鬼。ようやくタイトルの意味がここで立ち上る。

そして尾崎敏夫と室井静信との会話で一連の奇病による突然死が吸血鬼のキーワードで結びつく。この辺りのロジックは極めて興味深い。医学的専門知識という現代の知識の中でも最上位に位置するであろう医学の見地から吸血鬼による疫病の蔓延を解き明かす、このミスマッチの妙が見事なバランスで絶妙に溶け合っているのだ。
更に静信が話すヨーロッパのヴァンパイア伝説の起源についても現代医学の知識で当時の人々が死人が甦り、生者の生き血を吸って生きていたとしか思えない現象を鮮やかに解き明かす。
つまり小野氏は本書にて現代医学の見地から吸血鬼のメカニズムを語るというこれまでにない吸血鬼怪異譚を生み出したのだ。

さらに安全地帯と思われた尾崎医院にもとうとう犠牲者が出る。

そして屍鬼の侵略は加速する。

そして最後の第4部は戦いの、そして村の終末の部だ。狩られる側の人間が屍鬼の存在を認知し、狩る側に転じる。村が殺戮の場と化し、そして終末へと向かう。

一転村民たちは自分たちの身内が屍鬼に殺されたことを認識する。いやそれまで敢えて目を背けていた事実に向き合うのだ。

最後の部に相応しい心揺さぶられる物語だ。屍鬼対人間の攻防。しかし単純な二項対立ではない。
屍鬼の側には彼らを理解する人間もおり、そして人間の側にも屍鬼を屠るのに躊躇う者もいる。中には戦いもせずに村を離れることを決意する者もいる。

かつては自分の身内だった者を屍鬼だからといって割り切って殺せない村民。村民のほとんどが家族・親戚のように近しい関係であるため、生前の彼・彼女のことを知っているがゆえに躊躇う。
しかしほとんどの村民は最初はそんな忌避感に囚われながらも、自分の身内が殺され、または屍鬼にされたことを思い出し、その怒りと遣る瀬無さをエネルギーに変え、杭を急所に討ち振るう。

また私が読んだのは文庫版で上にも書いたように全5冊から成っている。そして各巻の表紙絵は藤田新策氏によるもので横に並べると両脇に書かれた樅の木の幹を境に繋げるとさながら一枚絵のように見える。

1巻は深夜のトラックが訪れる場面で、即ち村への怪異の訪れを示し、2巻は夜明けのように見える丘に聳える洋館、桐敷邸とそこへ至る坂道を上る1人の女性の姿、そして野犬が2匹描かれた図柄で、怪異との接触と表出を表しているように見える。

3巻は黄昏時の村を丘から眺める高校生と思しき青年の後ろ姿と収穫の終った稲田と農小屋が描かれ、そして4巻ではとうとう村が漆黒の夜に包まれ、その中を屍鬼と思しき村人が所々に佇む姿が描かれる。

最終巻の5巻は炎上する村を背景に立つ少女の姿だ。この少女は桐敷沙子だろう。物語の、外場村の終焉を謳っている。

また芸の細かいことに1巻では青々としている樅の葉が3巻を境に枯葉色に変わっていき、そして4巻でとうとう全てが枯れ果てた色に変わってしまう。樅の葉の色で屍鬼の侵食具合を示しているようだ。

このようにそれぞれの部について語るだけでもこれだけの内容の濃さである。そしてもちろんその物語には様々に考えさせられるテーマを含んでいる。

例えば二極対立による対比構造もまた本書の特徴の1つだ。

上にも書いたが、閉鎖された村である外場村は今、日本中の地方村が抱えている過疎化とは無縁であるが如く、人がいなくなっては外から補充されるように常に一定の人口で保たれている。つまり変化のない村と見なされながら、実はその村の中には新たに介入する転入者によって微小ではあるが、変化はもたらされているのだ。

外場村に先祖代々住み着き、根を張っている地元民と外部から村へ引っ越してきて田舎暮らしを始める新たな村民。昔ながらの村民は村の中心から奥まったところに家を持ち、新しく来た村民たちは山を頂点に上中門前と呼ばれる集落を中心に住んでいるのに対し、扇状に形成される外場村の末広がりの部分、国道にほど近い外部と接した集落、下外水口と呼ばれる場所に家を構える。

下外水口に住む人々は村の人々が昔から旦那寺である檀家ではないことから、ここの風習や寺至上主義の村民の考えに疑問を持っている。
もともと村に地縁のある者は外部から来た者を余所者と呼び、なかなか仲間に引き入れない強い排他性を持つ。それをいわゆる余所者はそういった村社会の妙な結束に嫌悪感を抱く。地元の人々は寺を敬うが余所者は寺を悪し様に云う人もいる。特に村の人々は自分の思ったことを口に出すことに抵抗がない。それが寧ろ隠し事がない点でいい意味であり、他者に対する配慮に欠ける悪い意味でもある。

そして一方で若者と大人という二つの価値観の違いもまた存在する。

変化のない、家と外が地続きのようでちょっと出かけるのに普段着である村人たちに嫌気が差し、鬱屈感を抱えて日々ここではないどこかを望む、都会生活に憧れる若者たち。

村の気兼ねない生活と村民みなが家族のようで、それぞれの家庭に関する噂話に事欠かない大人たちは村に骨を埋め、村から出ることなくそのまま村で死ぬことを望む。

特に大川篤、清水恵、結城夏野の3人が特徴的だ。
大川篤は溝辺町の高校に通い、卒業後就職先もなく、親の酒屋を無給で働かされている。口うるさく頑強な父親に怒鳴られながら使われる毎日を疎ましく思い、昔から素行が悪く、小さい頃に地蔵様の賽銭箱から小銭を盗んでいたことをまるで昨日のことのように云われ、何かが起これば自分の仕業ではないかと後ろ指を指される日々にうんざりしている。給料を払ってもらえないから自由になる金もない、外に出るのに車もないし、高校時代の友達は進学または職を持っているが、自分は親の仕事を否応なく手伝わされているだけと面白くない毎日を送っている。

清水恵は都会の暮しに憧れ、高校を卒業した村の外で暮らすことを夢見ている。そんな中、都会から引っ越してきた結城夏野の、明らかに村の高校生たちとは違う洗練さに魅かれ、彼と手を取って外に出ることを望んでいる。部屋着にサンダル履きで家の中と地続きのように外出する幼馴染の田中かおりとは違い、ちょっとの外出でもいつも身綺麗にして誰に見られてもいいように、自分もまた都会の人々と一緒に行動してもおかしくないようにと振る舞っている。だから1つ下ながらいつまでも幼馴染として親しく近寄ってくるかおりを疎ましく思っている。ダサい田舎暮らしから早く出たいと願っている。しかしそのために外の大学に通うための勉強をやっているというわけでもなく、願望と行動が伴っていない、今どきの女子高生である。

そして結城夏野は両親の田舎暮らしへの憧れに付き合わされた環境の犠牲者だと思っている。都会人特有の他者無関心・無干渉の考えが徹底しており、常にクールに振る舞う。いつも一緒につるんでいた年上の武藤徹が亡くなっても涙一つ流さず、その状況をありのままに受け入れるほど、他者との距離感を保っている。その思考はニュートラルで父親のこうでなければならない、こうであるべきだという正義と良識を盾にした論理に対して、では自分の意思を無視して田舎暮らしを強いた決定はどうなのだという、いわゆる思春期の高校生が抱く正論をいつも胸に抱いて鬱屈している。そして都会の大学に出てこの村を離れるために勉強を頑張っている。

地元民と余所者、村を離れたい若者と村に根差した大人たちといった対比構造は即ち「ウチ」と「ソト」の2つで解釈が出来る。

その「ウチ」と「ソト」の概念は都会と村では定義が異なる。都会では文字通り自分の家の扉・門が「ウチ」と「ソト」とを隔てる境界であり、扉を出た途端、人は外向きの顔になる。

しかし村では余りにその隣人関係が近いがためにいつしか村全体が1つの家族・親戚であるかのように錯覚し、お互いが気兼ねなくお互いの家を訪れ、自分の家のように上がり、振る舞い、世間話をする。村の各所に置かれた道祖神は「ウチ」と「ソト」の境の神であり、外敵から村を護るために祀られたものだが、もはや村の「ウチ」は家の「ウチ」と同義になり、村全体が村民の家の「ウチ」と同化する。だからこそ村民たちは老若男女問わず、外出するのにも普段着どころか部屋着の類でつっかけ履きで歩くのが当然となっているし、外出するのに戸締りもしない。なぜなら村が家だからだ。

更に物語が進むに至り、その「ウチ」と「ソト」は即ち「生者」と「死者」、いや「屍鬼」とに分かれる。

本書に出てくる屍鬼はそれぞれが生前の姿を保ち、そして生前の記憶を持ったまま起き上がる。異なるのは既に生命活動がなされていないことと、人の生き血を吸わないとその状態を保てないこと、そして日光に弱く、皮膚が焼け爛れてしまうことだ。

従って彼らは夜のみ行動する。夜はさながら一般人が日中普通に生活しているかのように彼らが村中を跋扈する。

外場村というコミュニティの中で昼と夜の世界が生まれ、そして生者と死者とに分かれる。更に屍鬼はその家の者に招かれないとウチに入れない。

更に静信はその生者と屍鬼とを自分の小説のテーマとしているカインとアベルの関係に桐敷沙子によって擬えさせられる。2人の兄弟の父母であるアダムとイヴは禁断の実を食べることで楽園であるエデンを追放された。彼らが住む外界を流刑地と呼ぶならば、弟殺しの罪でその流刑地を追放されたカインは即ち楽園へ戻ったことになる。
アダムとイヴは人間の起源である。即ち我々生者は流刑地に住んでおり、その世界から逸脱した屍鬼たちの住む世界は即ち楽園ではないかと静信は諭される。
「ウチ」と思われた人間界こそが「ソト」であり、「ソト」と思われた屍鬼の世界こそが静信が信仰する神の世界、即ち「ウチ」となるという価値観の反転がなされる。

本書は外場村という閉鎖的な村を舞台にしながら、二極分離された世界、その中でもとりわけこの「ウチ」と「ソト」についてあらゆる側面から描いた作品だと認識した。

村の中に「外」という言葉を持ちながらも村全体をウチとして捉えるどこにでもあるような田舎村。しかしその名前が示すように実はウチではなく「外の場」だったのだ。
カインとアベルの物語に擬えられるならば、生者が住む村は屍鬼が蔓延ることによって流刑地、即ち「外の場」となり生者村本来の姿に戻ったのだ。

そして最後に行き着く二極は生者と屍鬼。
生き残った村人たちはいつしかそれとなく起き上がった鬼たちの存在を知覚し、夜に出歩くことをしなくなる。一方増え続ける屍鬼たちは次第に山入だけに留まらず、下山し、空き家となった民家に大胆にも住むようになる。引っ越したように思われた屍鬼たちは恰もまた村に出戻ったかのように振る舞い、明らかに人であった頃の氏素性とは異なるのに、名前を偽り、さも以前からその名前で村にいたかのように振る舞う。そして彼ら彼女らは夜を行脚し、もはや羊と呼ぶ生者たちの生き血を吸うために活動する。

生者と屍鬼は即ち昼の種族と夜の種族とも云い換えられる。

そしてこの2つの種族の対立は物語の最後で主客転倒する。
今までは人間が屍鬼の食糧にされ、単にモノ扱いされているのに嫌悪を覚えていたところに、尾崎敏夫をリーダーとして屍鬼狩りが始まると、逆にその人間が屍鬼に対して行う処刑がより陰惨になるのが皮肉だ。

屍鬼が人間を襲うときは皆がよく知っているように吸血鬼同様、人間の皮膚を嚙み、生き血を吸ってその意識を支配する。

しかし屍鬼はどんな劇薬も効かず、どんな傷を与えてもたちまち再生してしまうため、心臓を杭で打ち抜くか首を飛ばすか頭を潰すしか方法がない。その有様は実に異様である。傍目には人と変わらぬ屍鬼を村民たちが次から次へと杭を身体に打ち込み、大漁の血液を流させ、または首を切り飛ばし、あるいは頭を槌で潰していく光景はまさに地獄絵図だ。
作中でも一番怖いのは人間だと誰かが述べる。しかし人は自分を護るためならば残酷にもなれるのだ。この屍鬼狩りの陰惨さは結局人間の生への執着の凄さをまざまざと見せつけられるシーンだ。

どれもこれもが怪しいのに村にカタストロフィをもたらす怪異の正体像を結ぶにはそれぞれの要素の位相が異なる、妙な歪みを持つがため、読者は終始答えの解らない不安感を持って読み進むことになる。

そして不安と云えば村から人が次々といなくなるのもそうだ。

毎日のように葬式があり、村の外から通っていた図書館司書や小学校の校長先生、駐在所のお巡りさん、昔からある米穀店の家族も亡くなり、シャッターが閉められたまま。村で唯一のガソリンスタンドもまた引き払って引っ越す。そして「外場は怖い」とふと呟く。

更に学校に行けばただでさえ少ない生徒が日を追うごとに少なくなっていく。亡くなった者もいれば、突然村外に引っ越した者がその大半を占める。しかも唐突に引っ越すことになったとだけ告げられ、必要な手続きをせずに学校を去る生徒たち。

村唯一の医院では次々と来る奇病に罹った患者が致死率100%で亡くなるのを目の当たりにし、やがて医院で働く者の中の家族に犠牲者が出ると、村外から来ていたレントゲン医師、事務員、パートのおばさんが次々と辞める。

昨日まで一緒に遊んでいた友達が亡くなったり、急にいなくなったりする。
これは喪失感と云うより変わらないと思っていた日常がどんどんおかしくなっていく不安感、そして世界が終っていくような焦燥感に他ならない。

外場村壊滅という結末から始まっている本書は悲劇が約束された物語である。
しかし尾崎敏夫、室井静信、そして伊藤郁美が元凶の真相に肉迫していく様は結末は解っていながらも、どうにか救われるのではないかと思わされ、しかしそれでもあと一歩のところで屍鬼たちに出し抜かれるため、常に絶望感が漂う。

日本のどこかにある山奥の村の、核家族夫婦、母子家庭夫婦、親子三代が同居する、嫁姑の関係が良好な家族もあれば、そのまた逆の家族もあり、村外で結婚したものの、夫婦生活が上手くいかずに離婚して親元に戻ってきた親子家庭とどこにでもいながらも多種多様な村人たちの日々の暮らしが屍鬼の侵略によって脅かされる様を、ただただ読者はその破滅への道のりを全5巻かけてじっくりと読むしかない。

しかし読書の奇縁と云うものを今回も感じてしまった。
先にも書いたがこの1998年に書かれた作品を20年後の今、本家キングの『呪われた町』を読んだ後に手にしたことが本当に良かったと思う。小野氏は『呪われた町』の本歌取りを公言しながらも、吸血鬼に侵略される閉鎖的社会の恐怖をより学術的に、よりミステリアスに、そしてより日本的に掘り下げて書き上げ、見事に成功したからだ。
もし本書を読んだ後で『呪われた町』を読んだならば、本家キングには申し訳ないがより浅薄に感じられたことだろう。まさに本歌あっての本書だった。

そして最も驚いたのは屍鬼が脳生の死者であることだ。本書の前に読んだ東野氏の『人魚の眠る家』が心臓が動いているのに脳が死んだ状態である脳死を人間の死として受け入れるか否かを扱ったテーマであったのに対し、翻って本書に出てくる屍鬼は人の生き血を吸って活気を取り戻す血液を注入された人間であること、それは心臓は死んでいながらも脳は生前と同じ生きている、脳生心臓死の人間であることが明かされる。それもまた生ではないかと議論がなされる。

まさに裏表のテーマを扱った2つの作品を全く同時期に読んだこの奇妙な偶然に私は戦慄を覚えざるを得なかった。

吸血鬼という西洋のモンスターを象徴するモチーフを日本の、しかも高層ビルやマンション、レストランといった西洋の建物らしきものがない、日本家屋が並び立つ山奥の田舎村を舞台にあくまで日本人特有の風景と文化、風習に則って土着的に描くことに成功した本書は和製吸血鬼譚、純和風吸血鬼譚と呼ぶにふさわしい傑作だ。

吸血鬼、即ちヴァンパイアが既知の物であるとした上で、誰もが知る吸血鬼の特色を科学的、論理的にアプローチしているのが斬新だ。

吸血鬼が血を吸うことで仲間が増えゆく状況をまずは村人たちに次々と死をもたらす原因不明の疫病という形で表す。その疫病についての詳細な記述を施す。貧血ないし軽い風邪のような症状から始まり、3~5日以内に急激な多臓器不全を巻き起こすこの奇病について作者は医者尾崎によって医学的専門知識を用いてその不可解性を詳細に述べる。そして感染症や伝染病における行政の対応の違いなども語り、我々に現在の日本の新病対処法の手間と遅さ、そして冷徹さを説く。

そこから村の外へ情報が漏洩することに対して楔を打ち、更に尾崎が屍鬼になった妻を実験台にして吸血鬼のシステムを解き明かす。人の血を吸うことで活性化する異常な血液の病気だというアプローチの仕方。そして杭を打つか、首を刎ねるか、頭を潰すしかしないと死なないと気付かせる実験の数々。

それだけではない。

例えば断片的に語られる桐敷家と地元民たちの交流のエピソード。使用人の辰巳も含め、村人たちの誰かが彼らと接触し、言葉を交わす。そして社交辞令のように「今度遊びにいらっしゃってください」と声を掛ける。

確か映画『ロストボーイ』だったか、吸血鬼を扱った映画に吸血鬼がその家を訪れる条件としてその家の人に招待されることで吸血鬼はその家を出入りできるという話があった。私はこの桐敷家と村人たちが話す場面と上のように交わされる会話でそのことをふと思い出した。
このありきたりな社交辞令こそが彼らが跋扈するトリガーであり、そして村人にとって禁忌を自ら破る行為なのだ。

つまりこれは起き上がりを作る吸血鬼たちにとって道祖神やお払いの儀式などの呪術が有効であることを指しており、従って西洋のヴァンパイアたちへの武器となる十字架や仏具もまた彼らにとっても具合の悪いものであることが解ってくる。

更にそれについて小野氏は突っ込んだ解釈を室井静信の口から語らせる。それは屍鬼が元々人間であることを記憶しているがために屍鬼になることで世界の調和から外されることを意識して、そこに介入するのに許可が必要なのだと。
つまり彼らは十字架や仏が怖いのではなく、その背後にある人間の存在を意識させられるがゆえにその調和から締め出された自分の孤立を悟り、恐怖するのだ、と。

実に観念的な話ではあるが、やはり屍鬼が人間とは似て非なる存在と云うのが大きいだろう。

我々が牛や豚、鳥や魚、野菜に果物といった様々な生ある物を食べて生きつつ、罪悪感を覚えないのはそれらが人間の言葉を解さないからだ。そして直接意思疎通を行わないからというのは大きな理由の1つだろう。

従って犬や猫といった愛玩動物は人の言葉は話さないにせよ、人間と近しい存在であり、意思疎通を図れるからこそそれを食べようとは思わない。

私は畜産業を経験したことがないので、牛や豚などの家畜を育てている人が、ではそれらの肉を食べないかと云われれば決してそうではないだろうが、少なくとも自分たちが育てた牛や豚は食べないかもしれない。

そう考えると屍鬼が人を襲うことの罪深さ、そして人が屍鬼を駆逐することの罪悪感も理解できる。お互い意思疎通ができ、つい最近まで一緒に話をし、同じ村で暮らしていた人々を自分たちが生き残るためにという理由で捕食し、または虐殺しなければならないという業が本書には横溢している。

襲う側の屍鬼も辛いというのが本書に深みを与えている。人の血を吸わないと死ぬほどに苦しいから吸わざるを得ない。

それぞれのドラマが非常に濃い。そしてそんなドラマを吸血鬼譚にもたらした小野氏の着想が素晴らしい。

そして桐敷沙子。
彼女は自分もまた犠牲者だと訴える。お腹がすくからそれを満たすために人間を襲っただけ。それが何が悪いのかと何度も訴える。

そして自分がその存在を隠しながら数百年も生きてきたこと。家族愛に飢えていること。常に逃げて生きてきたこと。安住の地を外場村に求めたこと。

彼女が望んだのは誰もが願う幸福の形だ。しかし彼女は屍鬼と云うだけで、人間を襲わないと生きられない化け物というだけで忌み嫌われる。

そして仲間が増えることで食糧となる人間が減るがゆえに必然的にマイノリティにならざるを得ない存在。

つまり屍鬼もまた環境の犠牲者であるのだと。

そしてこの物語を語るには最後のジョーカーとなる室井静信について語るざるを得ないだろう。

正直この室井静信と云う男、読者の共感を得にくい人物である。

仏に仕える身でありながら神の存在に疑問を持ち、また自身の命に執着がなく、学生時代に自殺を図った男。

しかし屍鬼が村に連続する怪死現象だと解ってくると屍鬼もまた生きる権利があるとし、人が生き残るための屍鬼の殺戮を厭い、結局何の手立てもしない。

実に矛盾に満ちた人物だ。

彼自身が最も罪深い。こんなに腹立たしい登場人物もなかなかいないのではないか。

ただこの変容こそが、矛盾こそがまた人間なのだと思う。

最初に意識していた小野不由美版『呪われた町』などという思いは最後には吹き飛んでしまった。この濃密度は本家を遥かに上回る。
単純に長いというわけではない。
上に書いたように本書が孕むテーマやドラマがとにかく濃く、実際これほどの感想を書いても全く以て書き足らない思いがするのだ。

マイノリティに向ける小野氏の眼差しはそれが人間にとっても害であってもその存在を認めるべきだという包容力を感じさせる。
一方で怪異が起きているのに今は常識が邪魔をしてそれを正視しない大人たちばかりになってしまった世の中を批判している。だからこそのあの結末だろう。

ゆめゆめ油断なさるな。21世紀の、平成になった世にもまだ怪異は潜んでいる。
それを信じる大人になってほしい。それがために物語はあるのだから。

まさに入魂の大著と呼ぶに相応しい傑作だ。そしてこんな物語が読める自分は日本人でよかったと心底思うのである。


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Tetchy
WHOKS60S
No.5:1人の方が「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

上巻Good、下巻並

上下の単行本で読みました。
とにかく長いです。
どちらも700ページを超えています。
さらに、活字が小さく、普通の文庫本の活字より一回り小さいです。
よって、文字量が半端なく非常に多い。
空いた時間をを利用して、2冊読み終えるのに1週間超かかってしまいました。

内容については、上巻が秀逸です。
何か解らない不可解な現象。これが怖いです。ヒリヒリとした不安感を煽ります。
自然現象なのか、疫学的なことなのか、事件・事故なのか、それとも非日常の超常現象なのか?
それが解らないので、緊張感をもって一気に読み進められます。
上巻だけで評価すると、9~10点ですね。

▼以下、ネタバレ感想

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マッチマッチ
L6YVSIUN
No.4:
(8pt)

日本では珍しいヴァンパイア物

とても長いお話でしたが飽きずに楽しめました。登場人物が多いので相関図が必要です。

わたろう
0BCEGGR4
No.3:1人の方が「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

また読み返したいと思える作品

小野不由美さんの作品はこれが一番好きです
上下巻で読みましたが、全く飽きずに最後まで読めました



AYA
U7WWQHA8
No.2:1人の方が「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

屍鬼の感想

(一)小野不由美のホラー大作第1巻。雰囲気があった。

(二)第2巻。ミステリーというより、ホラーな展開が続く。

(三)第3巻。物語を引っ張る力はさすがの一言。

(四)第4巻。クライマックス近し。心がざわついた。

(五)ついに最終巻!なるほど、そういうことかと納得。ミステリではないが、ホラーとしてこれからも語り継がれる名作だと思う。

ジャム
RXFFIEA1
No.1:2人の方が「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

屍鬼の感想


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アルバトロス
CRRRDTJB
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