■スポンサードリンク
疾走
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
疾走の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.14pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全273件 101~120 6/14ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
もっと早くこの本に出会いたかった。できれば高校生くらいの時に。 シュウジ達に近い学生の時に読み、20代に読み、子供を持って30代・40代に読めば、その時々でまた思うことが違ったり見えないことが見えたりする本だと思う。 残念ながら学生時代を過ぎてしまった私は、シュウジに近いところまでは気持ちを重ねられない。 しかし逆に、シュウジの両親の脆さとずる賢さには腹立たしい。浜の大人たち・神父も同様だ。何故見て見ぬふりをするのか、シュウジを受け止めてやらないのか。彼はこんなにも自分に真っ直ぐで寂しい人なのに。 色んな思いが交差して心苦しいけれど、出会えてよかった一冊。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
読むと苦しい。あまりにも救いがなさすぎる。 それなのに、最後まで目をそらせなかった。そうしてはいけないような、気持ちになった。 実は表紙が怖くて、買ってから長いこと読んでいなかった。 重松さんの本は、あたたかくてせつなくて、泣けてくるのもあれば、この本のように、ほんとに、読んでて苦しくて、たまらなくなるものもある。私が初めて読んだ重松さんの本も、どちらかというとそうだった。この人は、人が見たくなくて目をそらしたくなるような心の奥底の、決してうつくしいとは言えない部分も、しっかり描き出すひとだなあと思う。だから、読みたくないときもある。とくに、この本は、なんでここまで・・・と思わずにいられなかった。架空のものがたりに思えなくて。だから、このあまりの悲惨さに、シュウジが架空の人物だと思いたくても思えないくらいの悲惨さに、息苦しくてつらかった。 それでも、そんな中に、光る、人の心の中のうつくしい部分が描かれて、惹きつけられる。 すごい本だと思う。・・・でも、もう一度読みたいとは、ぜったいに、けっして、思わない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
小説内でも何度も引用されて出てくるけど、 自分も「ヨブ記」を連想しながら読みました。 なぜ神は、ここまでこの人に試練を与え続けるのか。 ヨブ記を読んだ人も、これを読んだ人もきっとそう思うでしょう。 そうして、作中で問われたように 「本当に人間は平等なんだろうか?公平なんだろうか?」と思う。 作中に答えはあるが、でも、読めばやっぱりそう簡単には答えられない。 主人公の背負わされた家族の、最終的には街ひとつ分の (エリ風に言えば)人間の弱さの重さを思えば なぜ、この子だけがと思う。最後に重たさが強烈に残る。 全体として重松作品の中ではすごく異色だけど 家族というテーマや、現代人の苦しみに「つながり」を選んだとことか やっぱり、この人らしくも感じた。 軽々しくは読めないけど、読んでよかったなと思える作品だと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
今回、レビューの評価を参考にしてこの作品を読んでみました。 あまり、レビューに目を通しすぎると内容が分かってしまうので そこそこにして読んだのですが、とても暗い内容プラスセックス描写が生生しすぎて私にはむいていませんでした。いくどかでてくる聖書の引用もくどい感じがしました。 他の方の書かれているように、作者の筆力というところで(長い作品ですが)なんとか最後まで読ませていただきましたが、シュウジの不幸な境遇により堕ちていく姿はわかるのですが希望も無く当たり前の結末が待っているだけの作品と感じました。また、シュウジが犯罪に手を染めてしまう気持ちを理解してしまい、自分がそんな境遇に置かれたときに、犯罪を正当化してしまいそうで怖い気持ちにもなりました。人それぞれ感じ方が違うと思いますが、私にはあまり、有益をもたらせてくれる本とは言えませんでした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
重松清は語っている。「自分の小説が誰かの救いになるとは思えない」。 そう語る理由は、重松自身が「救い」「救われる」ことの難しさを知っているからだと思う。 重松清はずっと、「救い」について描いてきた作家である。 ときにユーモラスに、ときに救いを描かぬ形で、物語に「救い」を浮かび上がらせてきた。 ご都合主義的な「救い」ではなく、希望の光が差し込むか否かのリアルな「救い」を狙って。 「ナイフ」にせよ「ビタミンF」にせよ、「見張り塔から」でさえ、そうだ。 それでも、いやだからこそ「疾走」以前の重松は、究極の「救い」を描かなかった。 究極の「救い」を描くなら、救われる前の困難が本当の地獄でなければならないから。 その地獄を描くことは、時には嘔吐をもようすような、険しい道だから。 またたとえ地獄が描けても、それに見合った「救い」を描けなければ失敗となるから。 重松は、鋭敏な嗅覚で、それらのリスクを十分に知り尽くしていたに違ない。 そんな重松が、ついに究極を描こうとした。それがこの小説、「疾走」である。 なぜ描こうとしたのか。理由は、ただ一つだと思う。重松は、覚悟を決めたのだ。 では、果たして重松清は「疾走」を描くことで、究極の「救い」にたどり着けたか。 作中、主人公の心情の折り重なりが、ところどころぶれているように感じる。 そこまで上手く出来事が積み重なってなるものか、という部分もある。 それでもこの作品が相当の高みに達していることは間違いない。 おそらく重松清は、ギリギリまで自分を追いこんで、この作品を生み出したに違いない。 究極の「救い」が描かれているのかどうか、それは読んでみて、確かめてほしい。 日本屈指の手練である重松清の最高傑作に、私は「疾走」を推す。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
読んでいる間中、多分誰もが目撃したり体験したことのある不幸な大小の傷を ひとつに集め生傷のまま手加減なしに、「それを見続けろ」と言われてるような感覚でした。 あまり若いときに読んでしまうと、リアリティがありすぎるのと、消化方法がわからず、 ただただつらくなるかもしれないと思いました。 女性たちの内面描写でほんの少しの違和感を感じる部分もありましたが、暗くて救いがない話を軽々しく次々とページをめくることができたのは、全体を通したスピード感に飲み込まれていたからだと思います。 読後は「すっきり」というわけにはいきませんが、それぞれの登場人物のそれからを、祈りのような想像で余韻にひたる時間になりました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
これほど読了後沈んだ気持ちになる作品も珍しい。 ラストの数ページを『救い』と捉えて泣ける人がいるのも理解できるが、私は正直そこまでの主人公シュウジの歩んだ道のりが過酷で悲惨すぎて、よくもまあここまで主人公を痛めつけられるもんだと著者に嫌悪感を抱いていたから、ラストの感動も正直皆無だった。 そして結局、著者はこの作品で読者に何を伝えたかったのかあまり理解できなかった。『人とのつながり』?『人のぬくもり』?『人を許す心?』?おそらく著者は聖書に出てくる神に試される男の物語『ヨブ記』をモチーフにしているんだろうが、『ヨブ記』は神を信じて耐える男のお話だが、シュウジはそうは見えなかった。自分の悲惨な運命と戦ってるようにも見えなかった。苦しみ歪みなされるがまま愛し殺し傷を舐めあう・・・そんなシュウジの姿から著者は読者に何を汲み取れというのか?全く理解できないまま終わってしまったという印象だ。 ただ、何年かして私が今以上に人生経験を積んだとき、何か解かる知れないけど。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
壊れてしまった兄、目を背けひとりで逃げた父、ギャンブルにのめり込み借金を残して逃げた母。 唯一マトモに思えたシュウジでさえどんどん壊れていく。 泣けるシーンも笑えるシーンもなく、最後まで希望も救いもない。 とにかく暗い。 感情移入もできず、どんどん嫌な気持ちになった。 「疾走」を読む前に「流星ワゴン」「その日のまえに」の2作を読んでいたのだけど、同じ作家の本だとは思えないほど最後までとことん暗い話。 読まなければよかった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
冒頭数ページで読むのを止めた、怖いし、おまえばっかり出るし、表紙もやだし、角川文庫だし・・・合わなかった・・・ただそれだけ・・・。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
初めて本を読みながら泣きました。 これまではどんなに感動しても目が潤む程度だったのですが、この作品は自然に涙が眼から零れおちました。 主人公たちが使う方言も物語の見どころの一つだと思います。 是非、子供たちに読んでほしい作品です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
重松清『疾走(上・下)』角川文庫 前半は崩壊の話です。家族の崩壊、学校の崩壊、町の崩壊、シンボルタワーの崩壊、にんげん関係の崩壊、そして、おまえ自身の崩壊…。 どうしてこんなことになってしまうのだろう? おまえの周りに広がる景色は、哀しいことに、とても荒んでいる。絶望的に、と言ってもよい。中学生のおまえには、たしかに、きびしいだろう。おまえの頭が壊れても、仕方がない。それでも…。 そもそもの始まりから、なにかが間違っている、のだと思う。 でも、間違ってない世界なんか、ない、とも思う。 『疾走』は、とても息苦しい小説です。そしてきっと、悲しいけれど、ものすごく現実的な物語でもあるように思います。この息苦しさは、きっと、ぼくらがみんな、味わっているものでもあるように、感じるのです。 そして後半は、壊れたものを直そうと、ただひたすらに疾走するおまえの話です。でも、壊れてしまったものは、もとには戻らないし、あらたに作り上げることなんか、おまえには、できっこありません。だから、今度はおまえが、世界を壊す番なのです。おまえがひとを殺す番なのです。 だから『疾走』は、ほんとうに怖い小説でもあります。なんど目を伏せようとしたか。知らないふりをしたことか。やり過ごそうとしたことか。そしていま、それを忘れようとしていることか。そんな卑怯な自分を、まざまざと見せつけられる小説です。 だからいま、これは何かの間違いなんだと、むなしくも、願うだけです。ほらまた、目をそらしました。 そうでなくて、神父さんにならって、おまえのことを、ただひたすらに祈りたいと思います…。 でも、ぼくにそれができるだろうか…? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
こんな…信じられない…衝撃的です!こんなに本の主人公に引き込まれたのは、私の中で疾走が一番です。しばらく「シュウジ」がずっと離れません。 私はこの本を読んで重松清の大ファンになりました! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
家族、人と人とのつながりを一貫して書いてきた重松清が、 おそらく初めてそのすべてを断ち切った小説。この小説には一切の救いが、ない。 この小説は煉獄の人生を生きた15歳の少年の地獄の数年間を追った物語。 重々しく二人称で語られる体裁自体が重松作品の中では非常に異質で、発表時に騒然となったらしい。実際に読んでみて、問題作かつ衝撃作で各誌で絶賛されたのがよく分かる。 主人公は優秀な兄を持っていた。が、その兄がその集落で殺人を犯すよりも重い罪をおかしたことにより、歯車は狂いだす。家庭は荒れ、学校では極度ないやがらせにあい、親父は失踪し、母も壊れる。主人公は生きたい、それだけのために一人で大阪、東京へと故郷を出る。文庫本の裏表紙にある<孤独、祈り、暴力、セックス、聖書、殺人>という言葉の列挙がそのまま作品の内容だ。 普段の彼の作品ならば必ず「救い」は用意されている。もちろん安っぽい問題解決なんかはしない。けれども、作品の最後には何らかの、ほんとスイッチが入れ替わるだけのことだけど、それが一番の、救いが用意されている。今回はその一切を拒絶している。 突き放すように「おまえ」と語りかける様は異様で、何らかの作者の決意を意図しているようにも思える。クライマックスの間際に、語り部が誰にともなく弁解のように<わたしは、おまえの物語を語り続けてきた。おまえを救うためではなく、おまえを幸せに包み込むためではなく、だからわたしは、ひどく冷たい語り部なのだろう。>と付け足したように書かれている。ここが僕にとって印象的だった。なぜならここで著者は今までの著者自身に背を向けたから。 読めば分かる。そして、同時にこの作品から「重松清」を知ってほしくないとも、思う。 重松清は直木賞を受賞した時に自分で自分を分析していたのが印象的だった。「僕は文学を書けない」的なことを言っていて、その理由は「ひとり」になれない人間だから、と。「文学」とは孤独で「ひとり」の人間が共同体からはぐれて、それでも自分を表現することによって自分の存在確認、存在証明をすることによって生まれるものだと。いつも分岐点で一般人との最大公約数を選んできた自分には無理だ、とも同時に言っていたのだ。 また、「文学の資格」についても人一倍考えている人だ。自分にその資格がない以上、文学への畏怖とそれを書ける人への畏敬の念が強いらしく、自分を絶対に文学者とは軽々しく名乗らない。そして、やはり中上健次を別格のように尊敬している。早稲田文学時代に世話になったというだけではない「何か」を中上に与えられ、求められたのだとエッセイの数々を見れば気付く。そして中上文学を愛している人ならば「疾走」が重松清の中上健次へのオマージュであり、「挑戦」だということに気付く。そして、その挑戦は勝ったかどうかは僕には評価できないけれど、決して負けていない。見事に戦い抜いている。「ひとり」に苦しんで誰かと「ひとつ」になりたい孤独な主人公を最後まで描いている。 繰り返し、繰り返し、物語の中で「ひとり」「ふたり」「ひとつ」という言葉は踊り、うねる。 この作品は徹底した救いのない物語で、ここまでの覚悟で書いたからには安易な救いなんかは書いてほしくなかった。だから、物語の終着点はすごく満足だったし、目頭があつくなった。救いはなくても望みはあるんだな、と思えるものだった。 僕はひさしぶりに小説を「取り憑かれたよう」に読んだ。おそらく作者も「取り憑かれたよう」に小説を書いたんじゃないだろうか。「疾走」というタイトルは走ることに特別なものを感じ、生き抜こうとし、クライマックスでも文字通り駆け抜けた主人公を意味しているだけではなく、それを図らずと意味しているんじゃないかと思う。 最後まで自分勝手な書評だなと思うけれど、僕のように「ひとり」で生きられずに最大公約数を選んできた者の言葉などこんなものだと分かっている。それでも良いと思って書いている。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
主人公シュウジの周りからみんな離れ、死んで、消え、壊れてしまい、シュウジは「ひとり」になっていく 人は絶望し、からっぽになると穴ぼこのように暗い目になるという シュウジは「ひとり」であること、絶望、その人生から逃げようとする そして疾走る つながりを求める「ひとり」はどうなるのだろうか そんな物語は神父を語り部として終焉を迎える 人はなぜ生きるのか 考えさせる本です | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
クソみたいな本だと思った。 人間のみにくいところ、うつくしくないところだけをこれでもかこれでもか と書き続け、しかもラストまで救いが皆無。 『流星ワゴン』はいい話だったのに、この人はこんなのも書けるんだな。 うがああああああーーーーーっ 毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒ーーーーーーーーーっ!!! このクソのような本の記憶を消してくれえ、とまたすぐ別の本を読んだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
こんなに読んでいて気分が悪くなった小説はない。 なのに、ページをめくる手が止まらず、一気に読んでしまった。 読み終わった後は体が重く、一人で1日考え込み落ち込んでしまった。 主人公のシュウジに次から次に訪れる不幸。 あまりに救いようがなくて、ただひたすらかわいそうだった。 頑張れなんて思うことはできなかった。 睡眠薬とか飲んで眠るように死んだほうが彼のためなんじゃないか・・・ とか半分読んだ時点で考えてしまった。だって、彼に訪れる試練の数々は壮絶すぎる。 最後に希望が・・・とかいうレビューもあるようだが、私にはそう思えなかった。 『人間は公平に不平等』 本当にそうだと思った。 10代におすすめとか本の帯に書いてあったが、なるべく15歳以上の人に読んでほしいと思う。中学生には重過ぎるだろ〜。 あと、女性にはあまり好まれないかなとも感じた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
自分の読みたい小説を選ぶポイントは大きく分けて3つあると思う。 “タイトル”、“作者名”、“設定・テーマ”の3つだ。 僕がこの小説を手にした理由は間違いなく“設定”である。 普段作者名やタイトルやエンターテインメントを考慮して 選んできた僕にとってこの小説との出会いは“設定”であった。 下巻のキャッチに書かれた“誰か一緒に生きてください”の文を見つけたときに 上下巻ともに買うに至ったのである。 上巻は家族それぞれの心理描写が中心に描かれている。 不思議なことにシュウジに、そしてシュウイチにも感情移入することができた。 文章の一文一文が鋭く、キラキラと光り輝いています。 重いテーマですがタイトルの疾走の如くリズム感をもって読むことができた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
とにかく読み出したら止まらない。ずっとドキドキしていた。 考えさせられるよりも、共感した。 上下とも読み終えた今思うと、話の展開が読めたりで、ベタなのかもしれない。ありえないだろ?と思ってイライラするかもしれない。 しかし、現実的な部分は作者の体験談か?と思うほど、的確でもある。 それぞれの登場人物は実際にどこにでもいるだろう。 例をあげれば、徹夫のような奴に学生時代に出会った、もしくは、なってしまった人もいるのでは。 それを含めて学校のシーンがやけにリアルだったのが忘れられない。 傷ついているのに、なにをされても折れないシュウジがかっこいい。 なんでこんなに?と思うほど辛いことばかりだけれど、なぜか絶望感があまりない。 非現実的でもあり、現実的でもあるからだろうか? 少年の物語が終わるあたりは神父さんにほんの少し会ってからにして欲しかった。 白と黒に分かれた車が来たあたりから、覚悟を決めたシュウジならこうするだろうな、と想像できるような終わり方の方がよかったような気もする。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
下巻ではシュウジが動き出します。 タイトルの疾走の如く怒涛の展開がシュウジに待ち受けています。 ラストの数ページではむせび泣きました。 僕の読書経験の中で「疾走」は大きな点になりました。 本当にこの小説に出会えたことに感謝しています。 真実を持って生きるということは辛いことなのかもしれません。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
淡々とした語り通りの重い話だった。誰にも頼らずひとりを選択したシュウジの言葉、強さが印象的だった。シュウジの周りの人間はみんな人の顔色を伺って生きるような弱い人間だった。シュウジも弱い人間だったのだが、不幸な家族のせいで苦しみ、誰にも弱音を吐くこともできず強いひとりの人間、そして寂しい人間になっていく様子がとても悲しかった。人間、こんな状態になると猛烈に走りたくなる心情もよく伝わってきた。性行為に対する描写も具体的でちょっと気持ち悪くなるほどだった。最後は好きになった人を立ち直らせるため、自らを犠牲にした生き様は立派だったと思う。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!