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華氏451度
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華氏451度の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.08pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全60件 41~60 3/3ページ
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主人公のモンターグは焚書官だ。耐火素材で作られた家屋を燃やす。その中にある本を燃やす。 それが、本の舞台の政府の方針だからだ。 人は本を読んではいけない。知恵を身につけてはいけない。自分の頭で考えてはいけない。 それが唯一の心の平和を保つ方法だと謳って。考えるから不安になるのだから。 代わりに与えられた、人々を考えさせないようにする装置は、壁面のテレビと、耳に差し込む<海の貝>という通信機器。 私もブログを書くし、SNSを利用しているが、携帯やPCを手放せない今時の生活を鋭く批判されたような気がして、その詩人の直観の鋭さにぞっとした。 この本が書かれたのは1953年。新聞も雑誌も書籍も、まだ力があったからこそ、この本は警句となりえた。 活字離れが進み、この本もまた情報の海に埋もれて読まれなくなることは、もっともっとぞっとする。 不朽であり続けてほしい本である。読んでよかった。そう思った。 | ||||
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主人公ガイ・モンターグの仕事はファイアマン(焚書官)。といっても、灯を消すのではなく、本を焼き尽くすことが仕事。仕事の手順は、まず密告。夜間職場に待機し、「誰それが本を隠匿している」と密告があると、石油(使用燃料が時代を表しているなあ)を搭載した輸送車で出動、本をすべて灰燼と化すまで燃焼させる。作品中では、本の所有は法律違反なのだ。 彼には妻がいるが、ただ「妻」と呼ばれる人が同じ家に住んでいるだけ。ベッドは別々、広い部屋の端と端に離れて置かれている。夫婦らしい会話は何もない。 では、人々は仕事以外の時間は何をしているのか。大型スクリーン(オーウェルのテレスクリーンのような人間監視機械ではないが)から一方的にわめき立てるヴァーチャル「家族」と団欒ごっこ、あるいは、内容もなくひたすら単純化された番組がひたすら垂れ流される。 耳には「海の貝」(イヤホン)をつねに取り付け、現実の人間とはまともな会話も交わさない。 この世界の人は、中身のない、単純で、想像力を刺激しようもない番組やスクリーンに登場する「家族」、ひたすら受け取るだけの映像と音声に満足している。 子供の頃からそういう環境におかれているから。 学校教育は、流されるフィルムを見ているだけで実技も学習もない。ただ映像を受け取ることに慣れるよう教育が仕組まれている。だから人々は何も考えない。 ところが、実はモンターグは、焚書をしながら少しずつ本を自宅に隠していたのだ。だが、妻に密告され、追われる身となる。しかし、本がこの世から消えることを憂える人々に助けられ、未来に知識を伝えるために進み出す。 本を読まず、想像力を広げることをせず、自分で考えず、学ぶことを身につけず、競争を経験していない現代の高大生。大学生活4年間、一冊の本も読まずに「卒業」していく学生がどれほど多くいるだろう。 本を読まず、読んだことに思いをはせることをしたことのない人間は、簡単に操られる。彼らはそれに気づく力をもたない。彼らにとって、努力のハードルはきわめて低い。みずからを向上させることを何もしてこなかったにもかかわらず、就職できないのは「社会が悪い」。 現代に焚書官はいないけれど、人々の行動それ自体が本を火にくべ、知識をこの世から抹消しているようだ。 | ||||
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アンチユートピア小説の中では、筋が追いやすく、読みやすい。SF社会の中の人々の、思考の滑稽さ=著者の危惧が伝わってくる。 ハッピーエンドなのは、救いが感じられる。1984は死にたくなるような(笑)ラストだったので、それに比べると少し物足りない鴨 | ||||
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1953年に書かれた、ブラッドベリの代表作です。 本と言う本が全て禁止された世界。 今の消防士が本を燃やす職業になっている、近未来の話。 当時、テレビが普及し始め、映像により人々が洗脳されていく社会が出来上がりつつある中、映像社会の危険性が訴えられています。 冷戦が始まり、核戦争の恐怖が認識され始めた時代でもあり、これらが併せて、恐怖として描かれています。 アニメの「図書館戦争」にも出てきましたが、朝日新聞やTBSをはじめとした大手マスコミの偏向報道や、アニメやマンガの表現規制が画策されようとしている今の世の中で、笑うことのできない小説です。 半世紀以上前の小説なので多少古臭くはありますが、珠玉のエンターテインメント作品でもあります。 | ||||
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物語がはじまった当初はなにかを期待させる要素がたくさんあるのですが、それがうまく活かされず、尻すぼみ的で中途半端な展開で終わってしまっているのは残念。ただし、それでも物語に引き込んでゆく魅力はあり、一気に読み終えました。 | ||||
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着想がおもしろいだけに残念な作品です。 しかし、それにしても登場人物が一面的で言動が浅はか。 重要だと思われた少女は一瞬にして死に、モンターグが焚書に疑問を持つ過程も不自然。 聖書複製を目論む流れは手に汗握るものですが、 その計画はあっけなく破綻し、博学だったはずの上司も犯人に火炎放射器を持たせるという 救いがたい不注意により死にます。 その後の浮浪者と乗り出す計画も中途半端。作者が存命中に書き直してほしいです。 | ||||
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深く思考すること、および知識を蓄積することは許されない。したがって、本の閲覧も所蔵も重罰に処せられる社会。許される娯楽は、刹那的な快楽の享受を約束してくれる<<テレビ>>の視聴とその中の<<家族>>との対話のみ。没収された本はすべて焼き尽くされる、そこに書かれてある内容とともに、華氏451℃の業火によって。 主人公モンターグは、書物を見つけ次第火炎放射器で焼き尽くす当の焚書官ではあるが、不思議な少女クラリスに出会ったことで、物事を「なぜ?」と疑ってかかる思考を取り戻す。そして本を一掃する自分の仕事、本を憎み焼き尽くす社会をごく当たり前のものとして受け入れていた彼の世界観にもほころびができてきて・・・。 レイ・ブラッドベリがSFを通して描き出すのは、まるで想像がつかないような遠い世界のようで、僕らの間近に迫っている問題のようにも思える。それは荒唐無稽なようで、僕らの生きる社会のゆがめられた戯画でないと誰が言えよう。 情報がその内容の質ではなく、膨大な量で計れるこの時代は紛れもなく情報過多である。 しかしそれら情報によって、僕らはより優れた選択をさせてもらっているというよりも、その情報のインフレーションの中で何も考えられない迷い子にはなっていやしないだろうか。そうだとすれば、パソコンのモニター画面に没頭する僕らは、<<テレビ>>に夢中になるミリーたちとなんら変わりない。 老教授たちが諭すとおり、答えは書物や情報の中にすでに収められているわけでは決してない。 あるのは答えでなく手段であり、あくまで僕らは自らの答えを、その思考をもってして紡ぎ出さなければならないのだから。 | ||||
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新聞記事より現代社会を映しているのでは、と思わせる小説。 本を持つことは罪、 本は焼かれ、読んだ人は焼かれ 人は単純な快楽を求める世界 本書の世界が想像のものだとはいえないのがとても残念。 一度は読んでもらいたい作品。 | ||||
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《わかるだおるな,モンターグ? これはけっして,政府が命令を下したわけじゃないんだぜ。布告もしなければ,命令もしない。検閲制度があったわけでもない。はじめから,そんな工作はなにひとつしなかった! 工業技術の発達,大衆の啓蒙,それに,少数派への強要と,以上の三者を有効につかって,このトリックをやってのけたのだ。今日となっては,むしろかれらに感謝しなければならない。おかげできみたちは,このように幸福でいられるんだ。連続漫画は見られるし,古い時代の懺悔録と業界新聞だけはこと欠かない。》(100頁) 不気味な未来図という意味で,ジョージ・オーウェルの「1984年」に近いものかと予想していた。確かに,不気味な未来図という意味では同じではあるが,「誰か」が国民を監視し,強要するのではなく,「自発的に」こうした不気味な未来が作られるのだという筆者の主張には,なんとも不気味なリアリティを感じた。 | ||||
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電車のなかで周りの人をふと見てみる。 寝ている人、携帯ゲーム機で遊んでいる人、耳にイヤホンをつけ音楽を聴いている人・・・そして、 本を読んでいる人がいる。上のように例えを挙げただけでも「携帯ゲーム機」、「携帯音楽プレーヤー」という 技術の発展により登場した媒介の存在が浮き彫りにされますね。 この小説は1953年、つまり50年以上も前に書かれたものですが見事に現代を予測しています。 人の欲望を満たす媒介がつぎつぎと生まれ、普及している。そしてそのうち本を媒介して何かを学ぶということ自体が 忘れ去られてしまわないだろうか・・・?そんな恐怖を著者は感じていたのだと思います。 本というものは厳密に言えば種類にもよりますが、大体は誰かが何かを伝えたくて書いたものだと思います。 言い換えれば、その著者の思う「大切な考え」が記されているのだと。次の世代には遺伝子以外にも伝えていかなければならないものがある。 その世代を越えても伝えなければならない普遍的なことはまさしく「大切な考え」なのではないか。 つきつめて言えばそれは「真実」なのだと思います。 この小説の中で主人公の妻はバーチャルの人間と会話もできる、壁に埋め込まれた大きな壁テレビというものに夢中です。 しかし、本当は満たされていません。夜は眠れず、睡眠薬を飲んで寝ています。そのまま人生が終わっていくのか。 そういった不安が彼女を眠らせないのでしょう。 この本は物質が満たされた現代で精神の必要性をいまいちど確認するよい機会になると思います。 この小説で50年以上前に架空であった世界は、既に今では現実になっている・・・・。 | ||||
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真実をつぶし、心をつぶし、見たくないものにはふたをする。 明るい未来なんて夢の彼方。 そんな監視と制裁につつまれた世界は見ているこちらを憂鬱にさせ、また同時に自分たちの世界との類似にぎくりともする。 未来を批判的にとらえた、ディストピア的な小説大作といえば、ジョージ・オーウェルの「1984年」がそうだが、オーウェルが徹底的に悲惨だったのに対して、ブラッドベリは何かしらの希望の余地を残してくれる。 印象的なのは、無機質な世界を反映した文章の中、はっとするような花の描写や自然の描写が入ってくるところ。 この目線の移行が、主人公の心の変化でもあるようで、ビルの中を歩いていてふと空の青さに気づくような、そんな気持ちになれる。 未来観、技術うんぬんへの批判はあるだろうが、いつだってSFを読む楽しさは、フェイクの中に真実の欠片を見出すことにある、と私は思っている。 未来世界は希望に満ちているとはもはや思えない現代だが、だからといって、悲観一辺倒の絶望主義にもなりたくない。 ブラッドベリの未来をみつめる目は、そんな感じではないかと思う。 | ||||
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本を自由に読める今の世界が本当に幸せです。 しかし、現実、本を読まない人が増えてきた。 《海の貝》と呼ばれるラジオが、この物語に出てくるが、これは間違いなく現実に似たようなものが存在し、自分の世界に没頭し、歩いている人がいる。 周囲の状況に目を配らずに、信号に気付かずに渡る人、身体の不自由な人に気付かなかったり…… そして、視聴率を取る為に嘘やデマを平気で流す現在のメディアに似た異様なTV。 この物語の世界が、間違いなく、現在の社会を見抜いていたように思われる。 この物語は間違いなく、現在社会に生きる人々の必読の小説と言えるだろう。 | ||||
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痛烈な現代批判であると思う。 山手線に乗っていてデナムの歯磨を思い起こさない人はいないだろう。 監視社会、 コマーシャリズムによる情緒の侵略、社会的紐帯の切断。 グロテスクに拡大された現代社会の特徴そのものだ。 でもやはり、 作者がおそらくそう願ったようにこの本が啓蒙の書となるためには、 not A but B のBがもっとはっきりと示されていて欲しかった。 彼が何をよしとし、またそれをよしとしなければならなかったのか。 確かに、 「そうだ!想像力を失ってはならないんだ!」 と思わせるものはある。 しかし、人や人の歴史への想像力によってどれほど人が幸福になれるのか。どれほど安心して、おびえずに暮らせるのか。 引用が唐突でありすぎるためか、 書物にどれほどのことができるのか、 今ひとつ説得力を欠いていた。 読者が渇望せずにはいられない、憧れずにはいられない何かが描かれている本では残念ながらなかったような気がする。 | ||||
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華氏451度――それは本のページに火がつき、燃え上がる温度である。 本という本が全て焚書官の手によって焼き捨てられ、本を隠匿する者の家は焼かれ、所持者は極刑に処される恐怖の世界。人々は軽薄なテレビ番組に溺れ、刹那的な快楽に身を委ねるようになっていた。 焚書官ガイ・モンターグは、人並み以上の幸せを享受しつつも、何か生活に満ち足りないものを感じていた。そしてモンターグは隣に越してきた少女クラリス・マックルランとの出会いによって、焚書官としての自分の仕事に疑問を持ち始める。モンターグは 本を密かに集め、読書を始め、ついには反焚書の組織結成を企む。ところが・・・・? 効率化と安定の名の下に人間らしさが切り捨てられていく現代社会に警鐘を鳴らすと共に、人間の理性・悟性への希望を謳い上げた、レイ・ブラッドベリの代表作。筋立てと抒情性において『火星年代記』にやや劣る気がするが、その分メッセージは強烈である。SFの古典として今なお残る名作。 | ||||
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書名の華氏451度は、日本で使われている摂氏に直すと約233度、紙に火がつく温度なのだそう。未来の世界、焚書官なる本を焼き捨てることを仕事とする男が主人公。 物語的には、焚書官の男がある少女と出会うことでその仕事に疑問を持ち始め、それが元で上司との争いがおこり・・・、といった、ありがちといえばありがちな話なのですが、そこはブラッドベリ、その独特の語り口で(訳者がうまいのか?)幻想の世界へと誘ってくれます。特に焚書官の男と少女の出会いと散歩するところは名場面、何度も読み返しました。 優しく切なく感傷的、その中に不安を滲ませながら語られる現代社会と物質文明への批判と警鐘の物語。傑作です。 | ||||
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まるで現代を見透かしたような物語と、意外に悲惨で荒涼とした 展開がいかにもブンガク的で秀逸。ただ、映像・音楽に比して書 物を特権化する観点は文学者としてのレイ・ブラッドベリならで はの限界。本書を映画化したトリュフォーを初めとするヌーベル・バーグの 監督たちは、映像もまた批判であり得ることを映像をもって示している。人を考えさせる書物があるのと同様に、人を考えさせる 音楽や映像も存在する。本書で引用される書物たちも名作ぞろいで、大いに啓蒙主義的な バイアスがかかっている。その意味では、本書そのものも古き良 き時代の名作の匂いがする。そもそも二十一世紀の今頃になって本書を手に取る人々が、僕自身も含めてブラッドベリの啓蒙主義的バイアスに共感できる人々 であるに違いない。たとえば巧妙なプロットだけで成立している ようなミステリーなど、読むだけ時間の無駄だといった意見に共 感できる人々であるに違いない。 | ||||
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この本でブラッドベリの描いた世界はまぎれもなく今の私達の世界ではないか。そこでは、ほとんどの人間は『TV』と『ドラッグ』と『海の貝』という携帯式ラジオの心地よさに身を任せ、現実から遊離し、ひたすら快楽を享受するのみ。人々の関心は最新式TVシステムやパーティ。認可発行されている書物といえば、マンガや娯楽・性風俗本に限られ、それ以外の知的な書物はファイヤーマンによって焼き払われてしまう世界。もちろん、痴呆症状一歩手前の住民はそれで十分満足しきっている。戦争が始まったのに、誰も心配などしていない。それはよその国のことで自分達だけは安全だと思い込んでいる。 | ||||
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書物を読むことは罪悪である。発見されると、本とともに人間までもが焼却される。異様な未来世界の物語。しかし、ブラッドベリの詩人としての透視力は、約50年前に書かれた小説の紙背から、現在を透視している。情報化社会に生きる私たちは、携帯電話とゲームによって、書物とそれを読む人々を、日本から静かに確実に消却しているのではないだろうか?ふと気が付くと、近所の新刊書店は閉店し、新古書店の棚は、がら空きになっている日が、来ているのかもしれない。 | ||||
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一気に一晩で読んでしまった。その世界、ストーリーに引き込まれます。 昔のSFなので極端な未来予想の世界ですが、今の時代と比較した時そのリアルさには笑えないものがある。文庫本の解説にあるように、この小説が映画化されてしまったこと自体、ブラッドベリにとっては大きな皮肉かもしれない。 | ||||
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「文化」が禁忌の対象となった未来を描いた小説です。主人公のガイはファイアマンですが、火を消すことではなく、本を所持している人の家を焼くことが彼の仕事です。ブラッドベリらしい技巧的で詩的な文章によってペシミスティックな未来像が語られています。この小説は50年前に書かれたものですが、現在の社会を描いているかのような描写があ時折あって、はっとさせられます。 | ||||
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