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レディ・ジョーカー
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【この小説が収録されている参考書籍】
レディ・ジョーカーの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.49pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全108件 61~80 4/6ページ
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すでに多くのレビューが絶賛されているところへ、 屋上屋を重ねることになるが、ぜひとも79翁の感想を書きたい。 なぜなら、この著作をもっともっと多くの人に読んだもらいたいから。 わたしは、上巻を読んだばかりで、これ以降にどんな展開になるのかは知らない。 「うん。これからどうなるの?」とページをめくろうとする衝動を抑えるのに苦心惨憺した。 周到に練り上げられた構成と、徹底した取材をベースに書き上げられたこの著作を、 一語一語、噛みしめて味読するのが、著者に対するわたしなりな勤めだと思ったからである。 超一級のすごい作品だと思う。 | ||||
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97年新潮社より刊行された作品の文庫版。いつものとおり大幅な改稿あり。単行本を読んでからかなりの時間が経過しているので初読のつもりで読んだ。いまさら言うまでもないが、この作品においても、登場する人物の誰もが心に闇や屈託を抱えて沈殿している。そして沈殿しつつも深く、本当に深く考える。その結果堂々巡りに陥り、自分自身が何をしたいのか、どうすればよいのかが判らなくなってしまう。また、その闇や屈託の理由が漠然とした曖昧なものであったり、たとえそれが最初のうちは明瞭であっても、ではどうすればよいのかということを考え続けているうちに思考の迷路に堕ちこんでしまう。そして、彼等は夫々の方法で出口を目指して喘ぎ苦しみ、時には開き直って(普通の人にとっては突飛な)何らかの行動を起こす(起こしてしまう)ことになる。この作品ではそんな人物達(レディ・ジョーカー)が計画実行した事件が大きな波を起こす。そして関係する多くの組織、登場人物すべてがこの波から逃れることができずに飲み込まれてしまう。レディ・ジョーカーも自らが起こした波に飲み込まれてしまう。合田も例外ではない(と、いうか一番先に飲み込まれそうだが)。その合田とレディ・ジョーカーの一人が最後に到達した世界は一種の狂気だ。「晴子情歌」「新リア王」「太陽を曳く馬」。これらの本作以降に書かれた作品を読んだ後で、本作を再読して強く感じたのは、著者にとって、事件は人間そのものを描き出すための単なる舞台装置に過ぎなかったのでは、ということだ。これほど練られた構成とストーリーに対し失礼であることも、前記三作で描かれる人間観や宗教観が圧倒されことによる思い込みであることも、極論であることも理解できるが、どうしてもそのように感じてしまうのだ。ただ、わたしは、前記三作に圧倒されつつも人間観(特に宗教観)の描写に純化していった作品(特に「太陽を曳く馬」)に対して、ついてゆくことの辛さと多少の窮屈さを感じた記憶がある。比較して「レディ・ジョーカー」は、人間が描かれることとストーリーの巧みさやおもしろさがバランスよく同居した見事な作品だと思う。 | ||||
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高村薫は文庫化の際大幅に「書き替える」ので有名なクセ者だ。自糞をイジるかブランドに狂う如きミテクレ自己愛過剰な文庫化は無視し、映画化時点の原作たる本作・毎日新聞社刊上下巻のみをベースとしたいが、「毎日新聞社」は意味深だ。確か今は無き「噂の真相」がグリコ事件を追求した「一橋文哉」の名を「一橋のブン屋=毎日記者」暗号と看破したが、ブン屋描写がリアル過ぎる点から一橋文哉「ネタ元」説も浮かぶからだ〜だがブン屋含め本作諸人物には真のリアルとは違う「リアルっぽさ」が漂う。エンタメならOKなのか、マンサラデカのルサンチマン塊に過ぎぬ半田が「発狂」する展開こそは、心理系研究者なら怒り狂うだろう超デタラメだ。高村は石原慎太郎との対談で「世代」を理由に本作頻出の「存在の不確かさ」を頻発したが、正直理解不能だ〜しかし理不尽極まる経緯で孫を亡くした物井はじめ「親族を失った喪中」の者が主に集って犯罪集団に至る心理過程こそ、真にリアルな「人生の鬼」(物井)=狂気のリアリティが極まる!「喪中」をこそ癒す珠玉の1冊! | ||||
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これ以上、日本の現代文学において生きることの意味を問うた作品があるだろうか。 大企業家、政治家、警察、マスコミ、そこに寄生する世界、こぼれ落ちた人々の住む世界。 戦後の日本が有耶無耶にしてきた、闇と光の間合いのような世界(その象徴が競馬場か)で、登場人物のそれぞれが傷を追い、それまでの人生で抱えてきた痛みと理不尽さを内包し、うまく分かち合うこともできずに、それでも自分がこの世に生を受けた意味を問う。なぜ生きるのか。なぜ人とかかわらないと人は生きていけないのか。答えなど見つかるはずがないのだ。人それぞれの営みの隣で動く、巨額な金、陰謀。気づかずにそこに巻き込まれている私達。それでもこの世に生きてきて、我々が生を全うする意味を、高村薫は全身全霊で描き出してくれる。山村でのラストシーンに震え、号泣した。 | ||||
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こんなに夢中になるとは予想していなかったが とにかくおもしろくてぐいぐい引き込まれた。 シリーズものとは知らず、誰が主人公なのかがはっきりしないまま 物語が進んでいったので変な感情移入もなく客観的に物語が楽しめた。 | ||||
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1997年に「グリコ・森永事件」をヒントに執筆され単行本が、今回全面的な改訂を行い文庫化されたものだ。巨大ビール会社を脅迫する犯人とその事件に関わる人物の生き様を丹念に描いている。 犯人は競馬仲間だが、それぞれ生きていく上で鬱積したフラストレーションが溜まっている。物井の実兄はビール会社に勤めていたが、退職後は報われない人生を送り亡くなった。孫はビール会社の就職活動中に事故死した。脅される側のビール会社にも、その社長にも人に言われぬ負い目がある。捜査する警察にも、新聞社にもいろんな事情があり、いろんな人物がいる。人それぞれに過去があり、不満があり、固執するものがあり、ということだろう。 タイトルの「レディ」とは、犯人の一人の身体障碍者の娘のことであり、「ジョーカー」とは、トランプのジョーカー、つまりババのことである。運命とはいえ身体障碍者として生まれた者、社会の底辺でしか生きられない者、・・、それらの不条理さがタイトルになっているような気がする。 また、個人が所属する組織や社会の中で演じなければならない自分と、そうでない本当の自分とのギャップを埋められない苦悩が、あちこちに描かれている。生きるということ、他人と関わるということは、結局ある自分を演じることではないかと考えさせられた。 高村薫の作品を読むのは初めてだが、心理描写の緻密さ、表現の多様さには驚かされた。単純明快に結論を出せる人は少なく、ああだこうだと心の中で反芻しながら何らかの結論を導き出すものだ。また、他人への怒りがだんだんと高まっていくときの心理描写もすごいと思った。 また、警察と新聞社の関係、地検特捜部の当事者との裏交渉、政治家と裏社会との関係なども、各所に織り込まれており、実際にもこういうことが行われて、報道され、捜査され、政治が行われているのだと感じた。 | ||||
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中巻の主人公は、城山社長である。 彼と合田の関係を中心に展開されるのだが、 LJを一編の小説ではなく、文学の域にまで高めているのが、 この中巻部分であろう。 「息詰まる」という言葉がぴったりだと思う。 ほかの方も書かれているが、 私などの中年職業人は、わが身を省みて、 考えることが一杯ある。 | ||||
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大阪人の私にとって、グリモリは万博と並ぶ特別なものである。 それを、大阪人の高村薫が書くとなると・・・ 単行本はすぐに購入。 確か3日ほどで読み終えた記憶がある。 内容もあまりはっきりとは覚えていない。 それは本の内容が悪いからではなく、 私たちぐらいの年代の大阪人にとっては、 それぞれにグリモリの犯人像やドラマがあるからだ。 単行本は、数度の引越しのため、今手元にない。 だからいつ文庫化されるのかと待ってましたよ。 まだ上巻まで読んだところですが、重厚な語りに圧倒されることは確か。 今読むべきは、「ファッション」本と化したあの人の本ではなく、 高村薫とずっと思ってきたのだけれど、 若い世代のどう受け入れられるのか。 本の内容とともに、レビューも気になります。 | ||||
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多くは書きませんが、何と言っていいのか・・・ 何気ない発端があちこちでいろんな事・人・感情・事件を巻き込み 最後はうねりのような得体の知れない生き物のように展開します。 この方の著書は読むのにとにかく体力が要りますね。 | ||||
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グリコ森永事件をモチーフとした長編。文庫本化に際して、高村薫氏恒例の改稿が施されている。 改稿前の作を最後に読んでからだいぶ経ってしまったので、曖昧な記憶しか残っておらず読み比べないことにはどこがどう変わったかというのは明確には言えないが、「マークスの山」、「照柿」、同様かなり手が加わっているように感じる。また全体的に文章が読みやすくなっている感がある。(と言っても冒頭の文体は変わらず) 登場人物の描写がかなり丁寧になっている気がし、本編たる企業テロだけに留まらず、部落問題や障害者など日本社会が見て見ぬふりをして過ごしている問題はこれまで以上に切り込んで深い描写がなされている。 1990年代前半の日本が舞台で、現在の日本が当時と比べてあまりに多くの物事が変わってしまったという感想を持った。9.11以降、テロという言葉が日常的に使われ、息苦しくぎすぎすした感が日常的になり、それに対して何の疑問ももたなくなっているが、90年代日本が舞台の本作を読んで、今の社会情勢がいかに現代固有の事象なのかということを痛感させられた。だから、初めて本作を読んだ時と、10年近く経って読んだ今では受け止める印象がかなり違ってくる。今となってはこの作品は初出が90年代だからこそ発表できた小説でないかとすら思える。 また、インターネットや携帯電話が今ほど普及していない時代の警察や報道陣の描写は、この10年、20年で技術が大きく発達したものだと改めて気づかされる。 改稿前を読んだ人は改稿箇所で楽しむこともできるし、我々の時代の変化による読み応えの変化でも楽しめる。初めての人は、改稿のことは気にせずに圧倒的な筆致による高村ワールドを存分に楽しんで欲しい。 | ||||
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オウム事件に題材を取った村上春樹氏の『1Q84』が話題になっているとき、 カルトのテロに揺れる90年代初頭の日本を舞台にしたこの傑作が文庫化されたことは 偶然とはいえ、感慨を覚えてしまいます。 昭和22年に書かれた冒頭の手紙に始まり、名もない庶民の戦後史と巨大企業の自己防衛が 運命的に絡み合って大きな事件に発展する上巻は、きわめてスリリングです。 事件が勃発してからの息詰まる展開、 戦後の日本政治・経済に向けられた批判的な視点、庶民の哀感としたたかさ、 財界・官界・マスコミ等、日本社会を動かしてきた機構と それをになう男達の迫真的で緻密な描写には、ただただ圧倒されます。 とりわけ心ならずも事件に巻き込まれていく日之出ビール社長城山恭介、 合田雄一郎をはじめとする警察陣、巨悪を探る根来記者などのマスコミ関係者といった ひとりひとりの葛藤と孤独と懊悩が、この作品に単なるサスペンスにとどまらない 奥行きと重厚さを与えています。 高村氏は、この『レディ・ジョーカー』以降、日本の戦後を鋭く見つめた優れた作品を 次々と生み出していきます。当代きっての書き手のターニングポイントとも呼べるこの傑作を 改稿された文庫で読むことができるのは、実に嬉しいことです。 | ||||
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1997年に発売された同タイトルの文庫化。 一心不乱に読みながら、興奮に手に汗を握り、あまりの悔しさや切なさや、また感動にのた打ち回るのは大学生だった当時も今も変わりはなかったが、思わず涙してしてしまったのは、改稿ゆえか、会社員という立場に変わったからか、単に年を取って涙腺がゆるんだからなのか。 ともあれ、人は変わるし、変わることの出来る生き物だということを信じていますよ、ええ。 以前の作品をご存知の方もそうでない方もぜひご一読を。 上巻は、誘拐事件まで。 本書の冒頭、昭和二十二年の「怪文書」に引き込まれたあなたに、眠れぬ夜がまっています。 | ||||
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高村薫の作品は読み手を選ぶとよくいわれます。私の場合は、体と心のコンディションが整った状態で能動的に読みにいくタイミングを計って読むように心がけています。本作品も購入後何ヶ月も積読状態の後、正月休みを利用して一気に読みました。 読み手を選ぶ要因にはその文体にあると思います。これでもかとディテールを書き込む、重厚とも粘着質ともいえる文体はそれだけで拒絶反応を示す読者が少なくはないでしょう。著者の文体には第一段階として、詳細は読み飛ばすことで人物とストーリーを先ず読んでみて下さい。さらに高村ワールドを体感したいのであれば、この文体を様式美としてそれ自体を味わうように読むことができるのではないでしょうか。その心積もりで読み進めれば、重厚なストーリーに詳細な人物描写にくわえて様式美としての文体を堪能することができると思います。それゆえ私はコンディションを整えて高村作品に向き合っています。 著者の人物描写についても触れておかなければなりません。本編では犯行グループ、自害企業、警察、検察、新聞社、総会屋、政治家と一遍の小説にしてはたくさんの人物が登場します。それぞれの主要人物の苦悩、虚無、狂気、再生が丁寧に描かれており、それぞれの視点からそれぞれ一遍の長編小説が成立する贅沢な作りになっています。かといってその詳細な人物描写がストーリーを侵食することなく不可欠な部品として配置されている点も見逃せません。高村作品の狂言回しを思わせる合田雄一郎の描写も全体から俯瞰すると主要であるが作品の部品に過ぎない点も好感が持てます。ただ下巻後半の犯人の狂気が合田とシンクロして終幕に突入する部分は圧巻でした。 それにしてもレディー・ジョーカーはいつ文庫化されるのでしょうか。文庫化に当たっては大幅に改稿をされるのが常ですので、文庫化の際はもう一度読んでみたいと思います。 | ||||
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おっさんに身近な世界で、しかも、読む者をおっさん化させるので、結局、 おっさんの哀愁が読む者みなに身近になる、うらぶれたダンディズムの入門書。 | ||||
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グリコ・森永事件をベースとしたビール会社の社長誘拐事件を題材にして、社会の諸問題を重厚かつ緻密に綴った骨太の作品。元の事件当時、一般人が(不謹慎ながら)興味を持ったのは以下の点であろう。 (1) 誘拐は狂言ではないのか ? 監禁の過程で裏取引があったのではないか ? 裏社会が絡んでいるのではないか ? (2) 犯人の狙いは本当に金だったのか ? 愉快犯ではなかったのか ? (3) 犯人像は ? 本作で高村氏は冒頭で殆どアッサリと答えを出しておき、事件そのものより、企業と裏社会の闇の係り、社会で弱い立場にある人間の悲哀と精一杯の反攻、組織における個人の埋没性などを執拗と言える程丹念に描く。高村氏は現在の日本のあり方、社会のあり方に深い疑念を持っており、それを本事件を背景に描こうとしているように思える。本の帯に「人質は350万Klのビール」などと扇情的に書いてあるが、物語の本質はそうしたハデな設定にある訳ではない。合田と事件の係らせ方も巧み。合田自身も組織から疎外されかけてる人間なのだ。事件のスケールの大きさと対比するように、被害企業、警察、検察、犯行グループ、記者連中などの関係者の個々人の苦楽・生きる事の意味の問い掛け・孤立性が鮮明に浮かび上がる。身代金受け取り方法に工夫が無いのが難点だが、大きな虚構の中で現実の社会の問題を抉る力量は高く買いたい。最近の文学賞の受賞作が卑近な私小説化して行く中、小説を読む醍醐味を堪能させてくれる力作。 | ||||
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「マークスの山」・「照柿」・「レディ・ジョーカー」と、合田刑事3作品を並べて気づくことがあります。描く世界の種類が増えているのです。「マークスの山」では刑事。「照柿」では刑事の世界のなかの不協音が増えて描き方が徹底され、それに工場労働の世界が加わったことで描く世界が二つに増えました。「レディ・ジョーカー」では、犯罪者たち・刑事世界・企業世界にくわえ、ジャーナリズムが加わりました。つぎは政治家か?と思いきや、5重テーマではさすがに分解するのか、「新リア王」で禅との二重テーマになりました(彰之という同音の名前・母の不倫で生まれたという背景からも中上健次への意識を強く感じます。そのせいか、榮の世界に比べて彰之の世界が借り物のようにどうしても感じてしまいます)。次作ではどの世界を見せてくれるのか、どの世界の匂いを嗅がせてくれるのか。ゴッホの絵の具のように盛り上がらんばかりに文字を重ねて、狂気寸前の理性を追求し続ける貪欲さに、満腔の拍手を送ります。 | ||||
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「マークスの山」で感動し「照柿」で圧倒されかつ閉口した、この著者の筆力と細部への拘り、そして心理描写の粘性。本品では、多様な背景をもつ関係者を絡ませた一連の事件の顛末を描く中で、さらに効果的に発揮されている。 特に、誘拐・恐喝事件に至るまでの「事情」の積み重ね方、犯人に振り回される捜査本部の緊張感、競馬仲間の関わり方や大企業上層部での微妙な会話のやり取りなど、ストーリーテラーの面目躍如たるものがある。 それに加えて、異なる職歴・年齢・人生観を持つ犯人側、被害者、捜査側の人物がそれぞれ己の内部を覗かせる部分は、ある程度まで人生を経た段階で人生を省みた人間が感じる、執着と諦観の間の揺らぎを見事なまでに表現している。 事件ミステリーの形を借りた抒情詩というとセンチメンタルに聞こえ過ぎようか。 | ||||
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自称評論家と素人がわいわいと楽しくやっている草野球のように、 草小説という世界があったとする。 チームの指南役が新人をつかまえ「短編というのは芸事だから、 肩の力を抜いた感じで軽うくな。で、オチの後は余韻がスーッと 残るようにやってみな」と指導し、それじゃ軽く投げてみますと答えた 高村投手がズドンと160キロ。 「おいお前はもう少し力抜くとかカーブを混ぜるとかできんのか」と 責められ、私はこのタマしかないんで、みなさん打つのが無理なら 50メートル離れてみましょうかと言ってまたズドン。 次第に周囲は、セオリーとかジャンルとかタイプとか、そういうハコに 押し込める行為自体が無意味な「絶対的な剛速球」というものが存在する ことに気づき、畏怖する。 日吉町クラブというアイデアのスケッチに、思う存分筆を振るうだけの フィールドと道具立てがそろっても、なお、剛球は剛球のままだった。 長大ではあるが過不足は無し。 社長、刑事、新聞記者、犯罪者、総会屋など、それぞれの職業人の むんむんと色気が漂うような描写を通して、雇う者と雇われる者、 脅す者と脅される者、差別する者とされる者など、あらゆる関係性を 緻密に切り取って、戦後という大風呂敷を畳んでみせる。 しかし、その視線はあらゆる物事を上から見る神のものでも、調べ 尽くす学者のものでもない。 「日の出のビールはうまかったなあ」 こんな台詞で日本人の戦後を語りきってしまう高村薫は、やはり 徹頭徹尾小説家であり、このテーマが小説で描かれたことに対し て心底誇りに思う。 | ||||
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この人のはやっぱり難解。専門用語の説明が物語の中にあまり無い。 「仕手筋」の証券株とか書かれていても、何のことだか…。新聞をよく読みましょう!って言われていたのはこう言うこと!?(-_-;) 冒頭の手紙の部分の旧仮名遣いを読むのにも苦労しました。時間がすごく掛かった… 「マークスの山」⇒「照柿」⇒「レディー・ジョーカー」と連続で、合田刑事の話を読んだけど、段々と刑事として彼の捜査を語る部分は減っていく、彼の『私』の部分を描くことが多くなっていった。 前・後編でP.1000を超える長編で作者が巧いだけに、読み応えが合って面白かった。 最後の締めが少し意外で、この人が死んじゃったの!?と言うのがやけにあっさり書いてあったり、過去の話でおなじみの人のその後がさっくり触れてあったり、やっぱりこう来るか!と言う所もあったりしました。 合田刑事シリーズは、もう書かれていないようで、それがちょっと寂しいかな? | ||||
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恥ずかしながら、推理小説というものをほとんど読まない私、 しかも映画を先に見て、何がなんだかよくわからなかったもので 本で確認、というなんともオソマツな入り方。 その名をとどろかす高村薫という作家についても、なーんにも 知らなかったわけですが。 読んでのけぞる思いでした。この人は何と圧倒的な筆力を持って いるのでしょうか。ただの博覧強記というレベルをはるかに超えて、 社会構造のさまざまな側面の本質を突き、人間の本質を突き、 登場人物とその背景を、極めて精密な筆致で描き分ける。見事です。 ご本人は嫌がられるかどうかわかりませんが、これが真の「社会派」 サスペンスではないでしょうか。 あれだけのボリュームの内容、取材や調査も並大抵ではなかったはずで、 その体力にも脱帽。いやあ、あれを映画化するのはしょせん無理な 話でしたね。じっくり描けるTVドラマだったらなんとか…ってやっぱり 無理かな。とにかく社会をじっくり見据える視線がないと、映像化は むずかしいでしょうね。 | ||||
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