■スポンサードリンク


贖罪の街



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
贖罪の街(上) (講談社文庫)
贖罪の街(下) (講談社文庫)

贖罪の街の評価: 9.00/10点 レビュー 2件。 Aランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点9.00pt

■スポンサードリンク


サイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
全1件 1~1 1/1ページ
No.1:
(10pt)

小説が、物語が書かれ、読まれる意味がここにある

今回もコナリーにはやられてしまった。もはやページを捲ればそれが傑作だと約束されているといっても過言ではない。

前作『燃える部屋』で図らずも停職処分を受けたボッシュは本書では再びハラーとタッグを組む。それは停職処分中に定年延長選択制度への支払いが停止し、その状態で異議申し立てをするとその手続きの間で退職を迎えてしまい、そうなると退職金も定年延長選択制度資金も貰えなくなることから、刑事を退職し、それらを得て処分が不当であると訴えを起こし、その弁護士にハラーを雇った。

一方ハラーは有名な市政管理官補レクシー・パークス殺害事件の容疑者ダクァン・フォスターの弁護を請け負っており、調査員のシスコがバイク事故で重傷を負って動けないことからボッシュに調査員になるように依頼する。

ボッシュの停職処分から余儀なくされた早期退職に対する訴訟、それを弁護するのが異母弟のミッキー・ハラー。そしてハラーはボッシュに自分の仕事の調査員になるように依頼する。
この2人の職業と関係性を十分に活用しながら実に淀みなくシリーズが展開する様にいつもながら感心する。コナリーはハリー・ボッシュ、ミッキー・ハラーという2人の男の人生を知っており、それを我々読者に提供している、そんな気がするほどの事の成り行きの自然さを感じさせられる。

しかし殺人課の刑事をしていたボッシュにとっていわば刑事弁護士は自分たちが捕らえた悪人の味方をする、忌まわしき存在で云わば敵対関係にある。そんな弁護士の手伝いをする調査員の仕事をすることは刑事仲間を裏切る行為になる。作中ではダークサイドに渡る(クロッシング)とまで書かれている。これはボッシュが調査員になるようになって初めて知った感覚だ。なぜならハラーのかつての調査員ラウル・レヴンもまた元警官で彼はその昔のコネを活かした調査能力でハラーの信頼を得ていたからだ。つまりラウルもまた刑事たちにとっては裏切者であり、それでありながら警察内に有力なコネを持っていたという実に優れた調査員だったことが解る。なぜならボッシュは調査員となることで刑事たちの不興を買うからだ。

一旦ボッシュが刑事弁護士の調査員になったことが知れ渡ると元同僚や不特定の警官から次から次へとボッシュの携帯に非通知の電話が掛かり、またテキストが送られてくる。彼をよく知っている刑事仲間はボッシュが一時的なものだという言葉を頼みの綱として信じようとするが、その他の警察官は彼を裏切り者として罵倒する。
やがてボッシュ自身も自分が向こう側に渡ってしまったことを意識し、背徳の念に苛まれる。

また本書ではそれまでと異なる描き方がされている。それは事件の犯人の行動が物語の冒頭から同時並行的に描かれていることだ。しかも彼らが刑事であることも判明しており、予め悪徳警察官であることが判っている。
これは非常に珍しい。なぜならコナリーはこの手法をサプライズに用いることが多いからだ。

しかしこの新しい手法はまた物語に新たな魅力を生み出している。この2人の行動が不穏過ぎて物語に常に緊張をもたらしているからだ。
彼らに監視されるハラーとボッシュ、そしてその他事件関係者たち。彼らが何をしようとしているのか読者は不安の中でページを捲らされる。その先を知りたくて。

今回久々にボッシュは『暗く聖なる夜』、『天使と罪の街』以来、刑事ではない立場にある。従って彼もまた警察の脅威を感じ、いや特権的立場を失っている状態にあることで正しい市民であろうとする。

例えば刑事時代では運転中であっても携帯電話で通話し、シートベルトの着用も疎かだったが、一介の市民となった今ではシートベルトはきちんと着用し、携帯電話はイヤピースを嵌めて通話する。

刑事時代では駐禁など気にしなかったのに今では普通に切符を切られてしまう。

ボッシュは今更ながらに刑事であったことの利点を痛感させられる。そしてそれは今回の事件の真犯人に繋がるファクターでもあった。それについては後述しよう。

前科者は必ず犯行を再発する。それは彼らが根っからの悪だからだと悪に対して執着的な怒りを覚えるボッシュ。

一方で人は変われる、やり直せる、だからそんな更生した人を偽りの犯行から護らなければならないと、かつての悪人の贖罪を信ずるハラー。

元刑事と弁護士の価値観の違い。それがいつしかこの異母兄弟の間に乖離を生む。

ハラーは弁護士として裁判に不利益や予断を与えるような情報をボッシュが警察側に与えるのを抑えようとし、警察側に対して非協力的であるのに対し、元刑事のボッシュは真犯人を捕まえるために自分の情報を与えたいと思う。ハラーにとって警察側は裁判での敵であるのに対し、ボッシュは元々そちら側にいた人間で仲間意識が強いからだ。

従ってボッシュはレクシー・パークス殺害事件の真相究明に積極的で刑事の血が騒ぎながらも、一時的でありながら弁護士の調査員という対立の立場にあることに苦痛をしばしば感じるのだ。

さて調査員として臨んだレクシー・パークス殺害事件の行方はスキャンダラスな事件へと繋がっていく。
この妙味。そしてボッシュという男の刑事としての勘の鋭さを感じさせる事件だった。

終わってみればエリスを含め8人もの死者が出た陰惨な事件となった。

私欲のために大勢の人の立場と人生を利用し、そして危なくなればゴミのようにその命を葬り去る。人の死を扱う仕事に就くことで人の死に対して鈍感になり、そして自分の仕事が庶民に対してある種の特権を持つことに気付き、いつしか王にでもなったかのような尊大な男が生んだ悲劇の産物が今回の事件だった。
一介の市民となったボッシュが刑事でないことの不便さは即ち彼ら2人の悪徳警官が刑事であるがゆえに覚えた特権だったのだ。

コナリーはシンプルなタイトルに色んな意味を、含みを持たせるのが特徴だが、本書の原題“The Crossing”もまた様々な意味で使われている。

まずは元刑事が刑事弁護士の調査員になることをダークサイドに渡る(クロッシング)という裏切り行為という意味で使われ、次は被害者レクシー・パークスが有名な市政管理官補であり、メディアにも多く登場していたことで不特定多数の人間に遭遇(クロッシング)していたことで容疑者特定の困難さを示す言葉として。更に被害者と加害者の動機と機会とを結びつける交差(クロッシング)する瞬間をも意味する。

しかし私はその言葉は次の一言に集約されると感じた。

The Crossing、それは即ち一線を越えること。

まずボッシュは元刑事としてはタブーとされる弁護側の調査員となる一線を越えた。
それは逆に彼が別の人間に冤罪を着せ、のうのうと生きている悪を野放しにしてはいけないという刑事の信念に駆られたが故であるのが皮肉なことに一線を越えさせた。

そして一連の事件の主犯であるハリウッド分署風俗取締課の刑事ドン・エリスとケヴィン・ロングは職務を濫用することが甘い汁を吸えることに気付き、刑事としての一線を越えた。

一線を越えた者たちの内、正しい方への一線を越えたのはボッシュだった。
しかしそれがゆえに彼は元仲間たちの警察官から裏切者のレッテルを貼られることになった。なぜなら彼は刑事を犯人として告発したからだ。

正しいことをしながら元仲間たちに蔑まされる。ボッシュの歩んだ道のなんと痛ましいことよ。
そしてその正しさを認めることのできない警察官たちの何とも愚鈍なことよ。
正義を司る者たちが仲間意識を優先して正しき進むべき道を見誤るようになってしまっている。コナリーは今までも正義を裁く側の人間を犯罪者として物語を紡いできたが、それをアウトサイダーになったボッシュによって裁くことでより一層警察組織そのものの歪みが浮かび上がらせることに成功したように思える。

この原題が非常に本書の本質を掴んでいるがゆえに今回は邦題の『贖罪の街』がなんともちぐはぐに感じてしまう。訳者はあとがきでその理由について述べているが、正直苦しい。
私ならば原題をそのままカタカナにして『クロッシング』にするか、それともボッシュも常に吐露している、事件の被害者たちが陥った『ダークサイド』もしくは『アザーサイド』か。
簡潔にして多種多様な意味を持つ言葉だけに日本語でそれを成そうとすると実に難しい題名だ。

さてここいらで本書に関して思ったことを書いていきたい。

まずシリーズ恒例のエピソードの進展について触れておこう。

まず私が本書のサブストーリーの中でも関心が高い、ボッシュの娘マディとの関係だが、ボッシュは思春期の微妙な年頃の娘の素っ気ない態度に苛立ちと戸惑いを覚えながら、メールのやり取りに一喜一憂しているという相変わらず不器用な父親振りを見せる。マデリンはボッシュが唯一敵わない相手にもはやなっている。

更に今回亡き母親エレノア・ウィッシュについて2人で話す機会があり、初めてマディが母親が恋しいと吐露する。同性として、そして少女から女性になりつつあるマデリンにとって良き相談相手となる母親の不在がここにきて響き、ボッシュも胸を痛める。

またロサンジェルスという映画産業の街を舞台にしたエピソードが多く盛り込まれているのもこのシリーズの特徴だが、本書で触れられているのは知事となったある映画俳優が行った権力濫用とも思える措置に対するエピソード。これはもうあのシュワルツェネッガー以外何物でもないが、彼が映画復帰してさほどヒットがないのもむべなるかなと思えるエピソードだった。

また事件の関係者である形成外科医のジョージ・シュバートによって明かされるキャッシュ・コールも興味深い。
有名人が整形をするのに、プライバシーを守るため、証拠を残さないために医療保険を利用せずにキャッシュで払う習慣があるとのこと。その中でマイケル・ジャクソンの死について触れられているが、まさかマイケルが自宅で整形治療の最中に死んだとは知らなかった。

そして本書の献辞はサイモン・クリステンスンなる人物に捧げられている。
今までコナリーは自分の創作の協力者や家族に献辞を捧げていたが、この人物はコナリーとの所縁はない。
では誰なのか?

それは書中で明かされる。その内容は本書を当たって頂くとして、色々含みを感じる献辞である。

さて何度目かのボッシュとハラーのコラボレーションとなった本書は双方の持ち味が十分に反映された作品となった。

ボッシュは刑事の職を離れ、一介の民間人というハンデを負いながらも生まれながらの刑事とも云うべき執念の捜査を続け、真犯人に辿り着き、そしていくつもの危難を乗り越えた。

一方ハラーはボッシュが集めた証拠とアドヴァイスを存分に活かし、法廷でハラー劇場とも呼ぶべき鮮やかな弁護を披露し、見事依頼人の無実を勝ち取った。

被害者は保安官補の妻でマスコミにも多く登場し、人望厚い市政管理官補。
被告人が黒人の元ギャング、一方真の悪は悪徳警察官。
つまりクリーンな立場の人間が無残に殺され、捜査上に浮上してきたのが悪人の先入観を余儀なく与える人物。
一方暗躍して悪事を重ねる警察官が真犯人であることが半ば自明でありながら面子を保つために司法の側の捜査は遅々として進まなく、このまま被告人を生贄の山羊として備えることを望むような雰囲気さえ漂う状況を覆す、四面楚歌の中での勝利はドラマとしても出来過ぎだろう。

しかし我々はもはや何が正しく何が間違っているのか解らない世界に生きている。
社会に秩序をもたらすために作られた精巧なシステムが正しくなければならない、誤作動するなどあり得ないと断じる、それを扱う側の人間たちによっていつしかその信頼性を守るために、いやミスを認めようとしないつまらぬプライドのために、正しいことがなされず、いつしか過ちがうやむやに葬り去ろうとされる、もしくは落としどころを付けるために弱者に標的を定め、犠牲として捧げる、そんな歪みが蔓延していた世界にいつしかなってしまった。

そんな世界だからこそ小説の、物語の中だけでも正しいことが正しく落着する結末であってほしい。そのために小説は、物語は書かれ、読まれるのではないか。

コナリーの描くボッシュサーガは正義を貫くことの困難さとそれを乗り越えた人々の、人生の充実を常に与えてくれる。
ハラーの物語はいつも結末は苦いが、今回はさすがに爽快感をもたらしてくれた。

さて未だ異議申し立て中で元刑事の一介の市民のままのボッシュ。しかも刑事から蔑まれる弁護士の調査員の仕事に手を染めてしまった彼の次の去就が気になるところだ。

そしてそれを描いた作品は既に出ている。次作『訣別』を手に取るのに何の障害があろうか。
ただ今は少しばかりこの最高の物語の結末の余韻に浸り、心を落ち着けて次作を手に取ろうか。


▼以下、ネタバレ感想

※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[]ログインはこちら

Tetchy
WHOKS60S

スポンサードリンク

  



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!