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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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マット・スカダーシリーズが今日のような人気と高評価を持って迎えられるようになったのはシリーズの転機となった『八百万の死にざま』と本書から始まるいわゆる“倒錯三部作”と呼ばれる、陰惨な事件に立ち向かう“動”のマットが描かれる諸作があったからだというのは的外れな意見ではないだろう。
本書が今までのシリーズと違うのはマットの前に明確な“敵”が現れたことだ。 彼の昔からの友人である高級娼婦エレイン・マーデルをかつて苦しめたジェイムズ・レオ・モットリー。錬鉄のような鋼の肉体を持ち、人のツボを強力な指の力で抑えることで動けなくする、相手の心をすくませる蛇のような目を持ち、何よりも女性を貶め、降伏させ、そして死に至らしめることを至上の歓びとするシリアル・キラー。刑務所で鋼の肉体にさらに磨きをかけ、スカダー達の前に現れる。 これほどまでにキャラ立ちした敵の存在は今までのシリーズにはなかった。 確かにシリアル・キラーをテーマにした作品はあった。『暗闇にひと突き』に登場するルイス・ピネルがそうだ。しかしこの作品ではそれは過去の事件を調べるモチーフでしかなかった。 しかし本書ではリアルタイムにマットを、エレインをモットリーがじわりじわりと追い詰めていく。つまりそれは自身の過去に溺れ、ペシミスティックに人の過去をあてどもなく便宜を図るために探る後ろ向きのマットではなく、今の困難に対峙する前向きなマットの姿なのだ。 それはやはり酒との訣別が大きな要素となっているのだろう。 過去の過ちを悔い、それを酒を飲むことで癒し、いや逃げ場としていたマットから、酒と訣別してAAの集会に出て新たな人脈を築いていく姿へ変わったマットがここにはいる。警察時代には敵の1人であった殺し屋ミック・バルーも今や心を通わす友人の1人だ。 平穏と云う水面に石を投げ込んでさざ波を、波紋を起こすのが物語の常であり、その役割はマットが果たしていた。事件に関わった人物たちがどうにか忌まわしい過去を隠蔽して平穏な日々を過ごしているところに彼に人捜しや死の真相を探る人が現れ、彼ら彼女らに便宜を図るためにマットが眠っていた傷を掘り起こすのがそれまでのシリーズの常だった。 しかし本書ではさざ波を起こすのがモットリーと云う敵であり、平穏を、忌まわしい過去を掘り起こされるのがマットであるという逆転の構図を見せる。マットは自分に関わった女性を全て殺害するというモットリーの毒牙から関係者を守るために否応なく過去と対峙せざるを得なくなる。 じわりじわりとマットに少しでも関わった女性たちを惨たらしい方法で殺害していくモットリー。AAの集会で何度か顔を合わせることで馴染みになり、たった一晩仲間たちと一緒に食事に行ったトニ・クリアリーもその毒牙に掛かり、さらには単純にスカダーと云う苗字だけで殺された女性さえも出てくる。 そしてマット自身もまたモットリーに完膚なきまでに叩きのめされる。さらには法的に人的被害を訴えることでスカダーを孤立無援にさせる邪悪的なまでな狡猾さまで備えている。 そんなスリル溢れる物語なのにもかかわらず、シリーズの持ち味である叙情性が損なわれないのだから畏れ入る。 特に過去に関わった女性に対して思いを馳せるに至り、マットは自分には常に自分の事を想う女性がいたと思っていたが、実はそんな存在は一人もいなかったのではないか、ずっと自分は孤独だったのではないかと自身の孤独を再認識させられる件には唸らされた。実に上手い。 そして追い詰められたスカダーはとうとうアルコールを購入してしまう。自ら望むがままに。 果たしてマットは再びアルコールに手を出すのか? この緊張感こそがシリーズの白眉だと云っても過言ではないだろう。 そしてこのアルコールこそがまた彼の決意を左右するトリガーの役割を果たす。酒を飲めば元の負け犬のような生活に戻ってしまう。しかしそれを振り切れば、正義を揮う一人の男が目覚めるのだ。この辺の小道具の使い方がブロックは非常に上手い。 話は変わるが本書ではそれまでの作品に登場した人物たちが物語に関わってくる。 まずはシリーズ1作目から登場していたエレインの久々の登場に『聖なる酒場の挽歌』からマットにとってもはや相棒のような存在とも云えるバー・グローガンのオーナー、ミック・バルー、『八百万の死にざま』に登場した情報屋ダニー・ボーイ・ベル、名前は出ないがチャンスもまたカメオ出演を果たし、さらにはマットの警官時代の旧友ジョー・ダーキン、AAの集会で助言者となったジム・フェイバーなどなど。 それはようやく8作目にしてシリーズの基盤となるキャラクターが揃い、マットを取り巻く世界に厚みが生まれたように思う。 また象徴的なのは『聖なる酒場の挽歌』で店仕舞いしたとされていたスカダーの行きつけだったアームストロングの店が場所を変えて新たに開業していることだ。これこそ恐らく一度はシリーズを終えようとしたブロックがリセットして新たなスカダーの物語を紡ぐことを決意した表れのように私は感じてしまった。 本書にはある一つの言葉が呪文のように繰り返される。それはAAの集会で知り合ったマットの助言者であるジム・フェイバーによって勧められたマルクス・アウレリウスの『自省録』という書物の一節、「どんなことも起こるべくして起こるのだ」という一文だ。 これが本書のテーマと云っていいだろう。 どんなに用心していようがいまいが起こるべきことは起こるのだ。 しかしその後にはこう続くことだろう。 起こってしまったことは仕方がない。問題はそのことに対してどう振舞い、対処していくことかだ、と。 マットが住む世界ほどではないが、我々を取り巻く世界とはいかに危険が満ちていることか。地震や津波であっという間にそれまでの生活が一変する事を我々は知ってしまった。 しかしそこで頭を垂れては何も進まない。そこから何をするかがその後の明暗を分けるのだ。 本書で描かれた事件はそんな天変地異や大災害のようなものではないが、書かれていることはいつになっても不変のことだ。 困難に立ち向かい、己の信念と正義を貫いたマット。今後彼にどんな事件が悲劇が起こっていくのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は長年お蔵入りしていた作品として発表時に宣伝文句として謳われていた作品だ。
バーテンダーの雨村が過去に起こした交通事故の復讐で被害者の夫に殴られ、意識昏倒の中、目覚めてみるとその事故の記憶がすっぽり忘れられており、周囲は忌まわしい記憶だから忘れた方がいいとなだめるが、雨村本人はなぜ今頃になって自分に復讐をしたのか知りたくなり、当時の事件を探っていくうちに奇妙な事実が判明していくと云うのが粗筋だ。 記憶喪失の主人公が過去を探る話と云うのはそれこそ世にゴマンとあるが、それが過去に起こした交通事故、しかも相手は亡くなっている事件であることが東野氏の着想の妙と云えよう。 通常ならば周囲の人間が勧めるように早く忘れた方がいい記憶であり、それが襲われたとはいえ、忘れる事が出来るのは非常に幸運なことだろう。実際、私の立場ならば忘れたままに放置するだろう。だから私はドラマの主人公に不向きであると云える。 それはさておき、過去を探っていくことで、寝た子を起こすことになるのは物語の常であるが、雨村の捜査をきっかけに彼の周囲にも変化が訪れる。 同棲相手の失踪、ファム・ファタールの出現、そして被害者岸中美菜絵の幽霊の出現と物語は一種オカルトめいた様相を呈していく。 交通事故と云うのは正直当事者の思い込みによって左右されることもあり、はっきりとした真相が曖昧になりやすくもある。実際私も2度ほど事故を起こしたことはあるが、それはどうにも納得できないことが残った。 走行の邪魔にならぬよう停止していたはずなのに、なぜかぶつけられ、ゼロヒャクの被害者だと思っていたら、進路妨害の加害者になったり、前車が急ブレーキしたのを見てこちらも急ブレーキし、ブレーキランプが消えたのでブレーキを解除したら、前車が再びブレーキをした―それはポンピング・ブレーキだったのだが―ために間に合わずオカマを掘ってしまった、などとどちらも十分に納得できない部分が残って今に至る。 それは運転と云う行為に癖や基準に明確な差が生まれるからだろう。黄色信号は「止まれ」の意味なのだが、人によっては急いで進めと理解しているだろうし、制限速度40km/hの道を40km/hで走る人もいれば、50、60km/hで走る人もいる。はたまた今や社会問題とまでなっている飲酒運転も、このくらいならば飲んだうちに入らない、自分はまだ酔っていない、まさか事故らないだろう、警察に捕まらないだろうとそれぞれが運転に対するハードルを持っているだけになかなか無くならないのが実状だと思える。 だからこそ交通事故には隠された真相が生まれやすいミステリとして宝の山とも云える。 実際本作でも事故の当事者と思われた雨村が、実際に被害者を轢き殺したのは別の車であったことが判明したり、さらに読み進めるうちに驚愕の事実が明らかになっていく。 銀座に高級バーを持つ男、事件をきっかけに大金をせしめて夢を叶えようとする男、社長令嬢の婚約者という玉の輿に乗ったゼネコン社員と社会の勝ち組(になろうとする人)たちへ慎ましくも幸せな暮らしを送っていた一介の主婦の怨念の乗り移った目こそが下した正義の鉄槌の物語は思いの外、心寒からしめる物語であった。 しかしなぜ本書が長い間お蔵入りしていたのか?道交法の改正によって物語の整合性が取れなくなったのだろうか? お蔵入りするには勿体ないクオリティであったし、きちんと刊行されたことを一ファンとして喜びたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズ3作目の本書の舞台は三ツ星館なるオリオン座の3つ星を模した館が舞台。そして犀川と西之園萌絵が相手をするのは館の主である天才数学者天王寺翔蔵。
実質2作目である本書でいきなりエキゾチックな人物が登場する。 今回の事件の謎は大きく分けて4つある。 まずは天才数学者天王寺翔蔵が仕掛けた高さ5mものある巨大なオリオン像の消失トリックの謎。 そして鍵の掛かった館の外で亡くなっていた天王寺律子の死の謎となぜか律子の部屋で密室状態で死んでいた彼女の息子俊一の死の謎。 そしてもう1つは12年前にオリオン像が消失した翌日に亡くなった小説家で翔蔵の息子である宗太郎の死の謎だ。 それらの謎にはそれぞれ怪しげな事象が散りばめられている。 現代の事件では使用人の鈴木夫婦の一人息子昇のバイクが何者かによって盗まれていること。 過去の事件では宗太郎が亡くなった日に使用人の鈴木彰もまた行方知れずになっていること。 そして使用人の鈴木君枝は過去オリオン像がもう一度消失すると誰かが死ぬと云う手紙を受け取っていた事。 そして物語が進むごとに更なる意外な事実が判明してくる。 とまあ、このシリーズはミステリの定型を見事に擬えている。 奇妙な館に特異な人物、もしくは特殊な実験室があり、そこで起きる密室殺人。事件に関係する人物たちの尋問と隠された過去の因縁や事件が明かされる。さらには謎の真相に貪欲な西之園萌絵は好奇心を抑えられず、犀川の目の届かない所で冒険に挑み、危難に遭う。 本書を読んでいるとアーロン・エルキンズのギデオン・オリヴァーシリーズを読んでいるような錯覚を覚える。それほどこの両者の物語構成は似ている。それはまさに数学の証明問題を解くが如く、ミステリのセオリーをなぞっているかのように見える。 そして肝心のオリオン像消失はまさかと思ったが、そのまさかの真相だった。 しかし最大の謎は天才数学者天王寺翔蔵そのものかもしれない。十年もの間地下室の自室に閉じこもったまま、数学の研究に日々を費やしており、他者には何の関心も持たずに生活している。 本書はその後に繋がるデビュー作で実質的には4作目となる『すべてはFになる』への萌芽が見られる。 山奥に建てられた三ツ星館という特異な館にどこか奇妙な雰囲気の拭えない怪しい人々、そして何よりも天才数学者天王寺翔蔵は天才科学者真賀田四季のプロトタイプのように見える。特に最後現れる子供と戯れる謎の老人は事件後の真賀田四季の生存を髣髴させるエピローグではないか。 本書の中で特に印象的だった言葉がある。 人類史上最大のトリック……? (それは、人々に神がいると信じさせたことだ) このあまりに鮮烈な2行は見えない物を見ようとし、謎に翻弄される本書の登場人物に対して見えない物を信じ、縋る人々の存在とは非常に対照的だ。 内と外、見える物と見えざる物。本書はその対立する2つの項を行き来する人間の愚かさを描いた作品か。 そして真理を見抜く者は目で見た物を信じない。 我々が見ているのは現か幻か。 なんだ、本書は実は江戸川乱歩に捧げた書だったのか! ▼以下、ネタバレ感想 |
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クリストファー・プリーストと云えば『逆転世界』、『魔法』や『奇術師』など我々の価値観を超える世界観を提供し、物語世界を理解するのが困難な物が多いが本書はなんとH・G・ウェルズの代表的な2作、『タイム・マシン』と『宇宙戦争』を本歌取りし、1作のSF作品として纏めた労作なのだ。非常に知られた題材であるせいか、非常に読みやすいのにびっくりした。
まず一介のセールスマンで主人公であるエドワード・ターンブルと科学者の秘書アメリア・フィッツギボンとの淡いロマンスから物語は始まる。 まず高名な科学者サー・ウィリアム・レナルズの発明した時空を旅する機械タイム・マシンに乗って旅をするうちに近い未来にアメリアが死ぬ場面を見たエドワードが無理に未来に行こうとしたために操縦桿を引き抜いてしまい、そのために火星まで行ってしまい、そこで火星を支配する16本足のタコのような異形な生物と出くわし、その生物と共に地球に帰還するが、それが火星怪物の地球襲来になるという物だ。 しかしただの本歌取りに収まらず、そこここにプリーストならではの味付けが成されている。16本足の生物は人間に似た火星人が滅びゆく運命にある火星人の運命を打破するために人工的に生み出した怪物であり、それがやがて火星人そのものを支配するようになったのだ。 そして火星に辿り着いた主人公の2人は火星人の伝説で彼らの苦境を救う救世主として祭り上げられるのだ。 また火星の描写はプリーストならではの奇想に満ち溢れている。 赤い植物壁に金属のまばゆいばかりの塔などはまだしも、人間に似ながらもどこか違う火星人の風貌、半球状の透明なドームに囲まれた都市―スティーヴン・キングの作品『アンダー・ドーム』はこれに由来するのか?―に三本足で“歩く”走行物に直径7mもある雪を降らせる大砲は実は地球に向けて宇宙船を発射する巨大な発射砲であることが後に解ってくる。 さらにこの2人に途中で関わってくるウェルズ氏。哲学者と云う設定だが、彼こそ後に『タイム・マシン』と『宇宙戦争』を著すH・G・ウェルズ氏である。 そう、本書はこの2つの名作が氏の体験によって創作された物としているのだ。 だが、プリーストならではの味付けは成されているとはいえ、基本的に物語は『宇宙戦争』のストーリーに添って終える。 昨今、『バッドマン』や『猿の惑星』といった今なお語り継がれているヒット作の前日譚がたくさん創作され、好評を博しているが、本書はまさにその走りと云えるのではないか。 ところで本書は邦訳されている他のプリースト作品に比べても格段に読みやすく、またモデルとなった小説があることから非常に解りやすいのが特徴だが、その後のプリースト作品の萌芽となるアイデアが垣間見られる。 それはスペース・マシンという時空を旅することが可能なマシンが持つ特徴だ。時間を旅することは勿論だが、空間、すなわち異なる次元に移動することで存在を希薄化し、周囲から見えなくすることが出来るのだ。これは数年後に発表される『魔法』で見せたグラマーという能力の原点ではないか。 さらに「瞬間移動」を得意とする2人の奇術師の戦いを描いた『奇術師』もまたここから発展した着想であるように思える。 即ちこのスペース・マシンこそがプリーストがその後の作品のテーマとしている存在や実存という確かであるがゆえに不確かな物を作品ごとに色んな趣向を凝らして突き詰めていく源だったのではないだろうか? そういう意味では私を含めたSF初心者の諸氏には名作と名高い『魔法』や『奇術師』にあたるよりもまず本書こそがプリースト入門に相応しいと思える。せっかく復刊されたこの機会を利用しない手は、ない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フィルポッツと云えば21世紀現在でも古典ミステリの名作として『赤毛のレドメイン家』を著した作家としてその名を遺しているが、実は彼にはそれ以外にもミステリの諸作があって、本書は私が前出の作品を初めて読んだ大学生の時には既に絶版で長らく手に入らなかった1冊である。実に初版から30年経ってようやく復刊フェアにてその姿を手にすることが出来た。
報われない人生を歩んできた一介の旅芸人が自殺のために訪れた断崖の洞窟で別の溺死体を発見したことがきっかけで、死者に成りすまし、別の人生を送る。 よくある、特にウールリッチの諸作に見られる設定の本書で、特に目新しさは感じないが、これがまず1931年に書かれたことを考えると、いわゆる身代わり殺人というモチーフの原型ではないかと思われる。 しかしありふれた物語だけに留まらないのが本書が2014年に至って復刊されることの証だと云えよう。なぜならこの他人の人生に成り替わったジョン・フレミングと云う男が愚直なまでに善人であることがその最たる特徴と云えよう。 不遇な芸人で宿賃も満足に払えなかった彼は他者に成り替わった後で、きちんと滞納していた宿賃も払い、おまけにお詫びの金も添えて返却する。彼は報わなかった自分の人生を変えるために他人になりすまして、生きることを選択したのだった。 しかしそんな入れ替わりも早々に破綻してしまう。なんと4章目にして失踪者ジョン・フレミングは追跡者メレディスによって発見されてしまうのだ。 全12章のたった1/3を過ぎたあたりだから、これはかなり早い段階だ。 そしてそこから新たな謎が生まれる。ではジョン・フレミングが成り替わった死体とは一体誰の死体なのか? メレディスは失踪人情報と財布のイニシャルからそれは骨董商ライオネル・S・ダニエルであると確信する。しかし彼には単なる骨董商だけの収入以上の裕福な生活をしており、彼のもう1つの人生への謎、そしてなぜ彼がダレハムの断崖で亡くなっていたかとさらに謎が重なってくる。 たった300ページ弱の厚みに謎の連鎖が詰まっている。 しかし最後まで読むと本書はミステリなのかと疑問を抱えてしまう。上に書いたように確かに謎は連鎖的に連なっていくが、肝心要の溺死人を殺害した犯人は探偵の推理ではなく、犯人からの自白で判明する。しかもその犯人は恐喝者であった犯人ライオネル・ダニエルを毒殺したことを罪と思っておらず、むしろ町のダニを駆除した善行だと思っているのだ。 そして最終章で探偵は一部始終を友人の警察署長に話してこの事件の始末を委ねる。 そして最終章の章題は「われわれも、おもしろがってはいないが」と掲げられている。これはつまり人の死をミステリと云う謎解きゲームの器に盛ったミステリ作家たちは罪を犯すことの意味という最も根源的な事を忘れて、知的ゲームに興じているのではないかという作者からの警句なのだろうか。 また本書ではところどころに主人公メレディスと友人の警察署長ニュートン・フォーブス2人の政治談議が挟まれるが、それがミステリ論議にもつながっている物もある。例えば死刑制度が無くなればミステリは潰えてしまうと断じている。 本書の原題は“Found Drowned”。つまり『溺死人発見』が正確な意味だが、溺れた者とはミステリというゲームに溺れた作家たちを指すのかもしれない。 そう考えると本書の題名はミステリ作家に対して何とも痛烈に響くことか。 本格ミステリの雄であるエラリイ・クイーンがロジックとパズルに淫した後に行き着いた先を既にフィルポッツは1931年の時点で警告していたと考えるとやはりこの作家は『赤毛のレドメイン家』のみで語られるべき作家ではない。文豪はやはり文豪と云われるだけの深みがあることを再認識させられた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『八百万の死にざま』で自らアル中であることを認めたマットのその後の物語が本書によっていよいよ動き出した。
在りし日々を振り返った前作『聖なる酒場の挽歌』でも語られていたように既にマットは酒を断っており、AA(アルコール中毒者自主治療協会)の集会に出ては時々司会を務めるようにもなっていた。そこでまた彼に新たな友人が出来る。 1人目はエディ・ダンフィ。AAの集会に出るようになって知り合った男だ。しかし素性は知れてはいないが妙にマットとは話があった。そんな彼が自分の「人には云えない過去」を打ち明けることを決意した時に、不審死を遂げてしまう。 もう1人はウィラ・ロシター。エディのアパートの大家の女性だ。彼女は若き頃に政治活動のグループに所属していた闘士の一人だった。そんな彼女の特殊な価値観と結局離婚した上、そうした活動に虚しさを感じて今の職に就いた。 今までもジャン・キーンのように捜査の過程で知り合った女性と懇意になるのはあったが、ジャンとの別れの寂しさが一層募り、酒を断ったマットは酒へ逃げることができないためか、前にも増して言葉を交わす女性に対して魅かれることが多くなったと述懐する。 そんな彼の前に現れたのがウィラ。昔警察の敵だった女と元警官。そんな奇妙な関係ゆえか、マットはエディの死を探る最中で逢瀬を重ねるようになる。それはかつての恋人ジャン・キーンの時よりももっと親密に。彼女はしかし酒飲みだった。それがマットに3年以上も続いた断酒の意志を削り始める。 今回マットが関わるのは2つの事件。 1つはインディアナ州で車のディーラーを経営しているウォーレン・ホールトキから失踪した女優志願の娘ポーラの捜索。 もう1つは上にも書いたAAの集会で知り合った友人エディ・ダンフィの死の真相だ。 1つ目の事件は意外な形で真相が判明する。前作『聖なる酒場の挽歌』はかつて酒飲みだったマットの回顧録であったが、その中に出てきていたミッキー・バルーなる巨漢の男がこの女性失踪事件のキーを握っていた。 田舎から出てきた女優志願の若き女性の末路としては言葉にならないほど哀しくも無残な結果。都会の片隅ではこんな死がゴマンとあるのだろうか。 もう1つの事件、エディの死の真相も意外だ。ここにもまた心を病んだ者がいる。 しかしこれは非常に危うい物語だ。断酒をして3年以上のマットだが、いつまたアルコールに手を出すのか終始冷や冷やさせられる。 原題“Out On The Cutting Edge”は作中の台詞でもあるように「刃の切っ先に立っている」状態、即ち断酒をしながらもいつまた酒を飲むか解らない不安定な心理状況を謳ったものだ。そして“Out”とはつまりそこから堕ちることを意味している。 そんな彼の前には飲酒で誘う因子が捜査の過程に付き纏う。 例えばミッキー・バルー。アイルランド系の用心棒から成り上がった通称“ブッチャー・ボーイ”と呼ばれたこの男はニューヨークの闇社会でドンと呼ばれる男の1人だが、かつての溜り場での常連だった縁ゆえか、長い間盃を酌み交わす―マットはコーラだが―ことで親密な関係を築き上げていく。 それは酒飲みだけが分かち合える時間と空間。そんな雰囲気がマットに酒への憧憬を甦らせる。 常に果たしてまたマットは酒を口にするのか? 『八百万の死にざま』で前後不覚になり病院に運ばれたマットに待ち受けるのは死であることを知っている読者は心中穏やかでない。 さらにかつては仕事の依頼を受けるとその報酬の1割を通りがかった協会に寄付していたマットだったが、今ではそれを止め、1ドル札に両替し、街行く先で出逢う物乞い達に渡しているのだ。 そんな以前の生活習慣を捨てたマットの物語はまさに新たなシリーズの幕明け宣言と云えよう。 思えばマット・スカダーシリーズは『八百万の死にざま』以前と以後とで分けられるのではないか。 シリーズ全体を読んだわけではないので、いわゆる“倒錯三部作”を読んだ後ではまたシリーズの転換期が訪れるのかもしれないが、それはそれらを読んだ時に検証することとする。『過去からの弔鐘』から始まり『暗闇にひと突き』までのマット・スカダーは警官時代に誤って少女を撃ち殺した自責の念からアルコールに逃げ場を求めながら、人生に折り合いをつけるために人殺しを仕方ないとする人たちを憎んでは断罪していた。 『八百万の死にざま』で初めて自分がアル中であることを認め、そこから古き良き時代を懐古する『聖なる酒場の挽歌』を経てこの『慈悲深い死』からはアルコールを断ったマットが始まる。 私には『過去からの弔鐘』でマット・スカダーという元警官の無免許探偵を見つけたブロックはその後3作の物語でこの男がどんな男なのかを探り、『八百万の死にざま』で彼がアル中でありながらそれを認めようとしなかった弱い男だったことを解き明かす、それがこのシリーズの流れのように思える。 そして『聖なる酒場の挽歌』でアルコールを介して知り合った仲間のエピソードを語ることでアルコールへの未練を断ち切り、過去を振り返っていた男が未来に向けたマットの物語をブロックが進行形で描き出したのが本作なのだ。 過去の過ちから酒に逃げていた男の物語として始まったマット・スカダーの探偵物語。云わばマットと云う人物の根幹を成す設定を敢えて放棄することで物語を紡ぐことは作家にとってかなり大きな冒険であろう。 その後シリーズは巻を重ねていること自体が今さらながら驚かされ、しかもそれらの作品群がシリーズの評価を高めているのだから畏れ入る。逆に枷を着けることで作者のチャレンジ精神が昂揚したということか。 何はともあれ、シリーズの新たな幕明けとなったいわばマット・スカダーシリーズ第2部が楽しみでならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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イスラエルの対外情報機関「モサド」は今やすっかりおなじみの存在だ。スパイ小説の類を読まない人でもハリウッド映画のアクション映画でも大敵として登場するくらいの知名度がある。そんな恐るべき存在として知られるこの組織の歴戦のスパイたちを綴ったのが本書。
まず宿敵イランの核兵器開発基地を悉く撃破し、イランが核所有国となるのを遅らせたこと、それらをCIAとMI6と共同で行ったなど、画期的な方法を用いた2003年に長官に就任したメイル・ダガンの功績が語られ、また時代は遡り、イサル・ハルエル長官時代の元ナチス高官アイヒマンの捕獲を成し得た顛末やフルシチョフの秘密の演説文書を手に入れた顛末などが語られる。 さらにはあわやイスラエル国内の宗教戦争に発展しかけた少年誘拐事件解決など我々日本人の価値観の尺度では計り知れない一触即発の出来事があったり、パレスチナのユダヤ人難民を現在に至ってまで救出しているモサドの活動などはそのために偽造のリゾート地を作り、ホテル経営まで行うなど、一国の諜報機関という一部門が行ったとは思えないほど大掛かりな物がある。 そしてモサドが関わった任務に登場する人々もまた実に個性豊かでドラマチックだ。 ラトビアのユダヤ人3万人虐殺に関与した“リガの殺し屋”ことヘルベルト・ツクルス暗殺の一部始終、エジプトの中枢にいながらモサドの最高機密スパイとして暗躍したアシュラフ・マルワンの生涯、イスラエルの核開発施設であるディモナ原子力研究センターの技術者ながら、自身の処遇に不満を持ち、重要な資料を携えて世界各国を放浪し、イギリスの≪サンデー・タイムス≫に売り渡す寸前でハニー・トラップに陥ったアトム・スパイ、モルデカイ・ヴァヌヌの奇妙な人生、長さ150メートル、重さ2,100トン、口径1メートルの射程距離1,000キロ以上というマンガのようなスーパーガンを開発した狂信的技術者ジェラルド・ブル、パレスチナ解放人民戦線代表のワディ・ハダドは大のチョコレート好きなためにモサドによってゴディバのチョコレートで毒殺される。 これらのエピソードはしかし実際に起きた命のやり取りの物語なのだが、我々の日常からかけ離れた非日常を生きるスパイたちの人生は実に劇的である。特に印象に残ったのはシリアで上層階級の仲間入りをし、大統領まで友人として取り込んだスパイ、エリ・コーヘンだ。 この今やイスラエルの英雄とされているスパイは最後の任務として臨んだ仕事で正体がばれ、逮捕されてしまう。しかもシリアのラジオ放送波を利用してイスラエルに情報を送っていたと、実に巧妙な方法を用いて長年に亘って気付かれずに済んだのに、偶々新型の通信装置に入れ替える作業のため、全軍の通信を24時間停止させていたその日に唯一生きていた電波がエリのそれだったという、まさに百万に1つの偶然が招いた失敗と云えよう。 このように一歩間違えば追う者自身の身を滅ぼすことになる極限状態での任務なだけに、読むこちら側も物凄い心的疲労を伴うのだ。 またモサドが成し得た作戦の大きな成功も全てが計画通りに行われたわけではなく、いかに偶然の産物であったかも詳らかにされる。それは単純に恋人との繋がりだったり、娘の付き合っている相手の話からだったりと実に様々だ。 しかし2010年にモサドによって遂行されたイスラム原理主義組織ハマスの指導者マフムード・アル=マブフーフ暗殺の顛末がドバイ中に設置された監視カメラでその一部始終が撮られることで、いわゆるスパイの暗躍は現代では実に難しくなったと溢してもいる。 だがこれら歴戦のスパイのドキュメントはバー=ゾウハーのアイデアの源泉となり得るだろう。 ソ連がモサドの工作員を勧誘して二重スパイに仕立て上げたり、ニューヨークのアクターズ・スタジオにて演技を学び、舞台を演じるようにスパイ活動し、脚本を書くように作戦司令を書き上げたスパイ、ツヴィ・マルキンなどフィクション上の人物ではないかと見まがうほど個性的である。 またミュンヘン・オリンピックでイスラエル選手団を襲撃したパレスチナのテロ組織“黒い九月”のリーダー、“赤い王子”ことアリ・ハサン・サラメ暗殺の顛末は映画化もされたあまりにも有名なモサドの任務失敗のエピソードだ。このエピソードはバー=ゾウハー自身も別著『ミュンヘン』で綴っているのだが、モサドの功績を纏めた本書では避けられない物だったのだろう。 本書の原書が刊行されたのは2012年。モサドの功績を綴った本書を著すことでバー=ゾウハーの創作意欲が刺激され、再び私のような読者の胸躍らす新作を発表してくれることを一ファンとして願っている。 |
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世界の黒い構造にメスを入れる服部真澄氏が今回その刃先を向けたのはODA、政府開発援助を巡る汚職の世界。その利権に群がる日本の開発コンサルタントとゼネコンのピカレスク小説だ。
まず本書は主人公が逮捕されるという実にショッキングなシーンから始まる。 40歳前後という若さで日本大手の開発コンサルタント会社の重役に登りつめ、ビジネス誌でも現代のジャンヌ・ダルク扱いの取材を受けた黒谷七波に一体何があったのか。このたった9ページの導入部でいきなり物語に引き込まれる。 物語は1988年、本書の主人公黒谷七波が日本五本木コンサルタンツの入社試験を受けている時期から始まる。時はバブル全盛期(しかし最近バブルの時期を扱った小説に当たることが多い。景気が上向いて業界がバブル再燃に期待しているからだろうか?)で誰もが前代未聞の好景気に浮かれている最中、黒谷七波は新潟の貧しい農家に生まれ、京大に進みながらもバイトをして自身の生活費のみならず家業の借金返済の少しでも足しになるために仕送りもしている苦学生の身であった。 しかしそんな背景を聞けば、昭和の香り漂う純朴な女学生を想像するが、そうではない。彼女の人生は虚構に満ちているのだ。 大学では化粧気のない野暮ったい風貌をした、田舎出の、女子大生と呼ぶには抵抗感がある女学生として振舞い、無知を装って自分の必要な情報を周囲から集める。そして夜は派手なメイクと服装になり、男どもの相手をしてはあしらうキャバクラ嬢と変身し、これまたバカな女性のふりをして客の上役連中から企業や業界の貴重な情報を手に入れる。 そんな情報を統合して彼女が目指したのはコンサルタント業界への就職。一兆円もの金が動く国際支援の舞台で数億を稼ぐ女性へと成り上がるために自分の富裕な生活という目標に向かってまい進する様が描かれる。 自身の生活費を切り詰めながらどうにか貯金を蓄えて豊かな生活を夢見るが、そんな幸せの端緒が見えた途端に訪れるのが実家の牧場が抱える借金の返済の請求の電話だ。しかも代わりに返済をしても状況は好転することはなく、寧ろその金額は年々増大し、しかも街金にも借りるようになる。 学生の頃からそんな貧しい思いを強いられた彼女にとっての幸せとは潤沢なお金だった。お金こそが彼女の幸せの象徴なのだ。 そして本書ではもう一人の影の主役がいる。それは七波が勤める日本五本木コンサルタンツの相棒とも云うべきゼネコン名栗建設の営業部長宮里一樹だ。彼は日本五本木コンサルタンツと共謀してODAを食い物にして巨万の裏金を都合するブローカーのような存在。国際開発援助資金をさらに国内の政治家への裏金にも都合し、実質的に名栗建設の屋台骨を支えている存在。 黒谷七波は彼を利用して社内でのし上がっていくが、宮里は七波の地位を押し上げることでさらに有利に自社に仕事が回ってくるように暗躍している。 七波が孫悟空ならば宮里は彼女を掌上で操る仏様とも云えるだろう。つまり自社に金が流れるよう、絵を描くのが宮里でそれを実現するために実務を担当するのが黒谷七波という構造だ。 しかし金稼ぎを、裏金作りを自身の幸福への至上の目的としていた七波も次第に心境を変化させていく。 巨額の金を懐に入れるためにベトナム事務所の所長になり、数十億もの金を自由に扱うことになった七波に現地スタッフの1人がベトナムの生活を豊かにしてくれていることに感謝の言葉を贈るのに動揺し、止めは大規模なプロジェクトであるソンバック橋の橋桁が崩落する未曽有の大事故が起きるにあたって、それが手抜き工事であり、しかもその原因が下請けから受け取ったリベートによる予算不足に起因するに当たり、七波は初めて罪の意識を感じる。 今まで当然と思っていた金の抜取が人の命を奪うまでに発展したことで、自身の手が血で汚れているように感じるのだ。 そして黒谷七波は巨悪を罰するために立ち上がる。それが冒頭の逮捕劇に繋がるのだ。 しかしそこから物語は混迷を極める。 外為法違反を自ら告白して警察の手に渡り、そこからさらに殺人を告白する。そして彼女が借りたレンタルルームからは冷凍された人肉のミンチが発見される、と云った具合に一転猟奇的な物語に展開する。 しかしそれは黒谷七波と宮里一樹が仕組んだ巧みな断罪劇だった。自らを法で裁かれるか否かのギリギリのラインにまで持っていくことでODAから生まれる巨額の裏金に集るゼネコンと開発コンサルタントを司法の手に委ね、そして資金源である国民の税金がそんな悪事によって搾取されていることを知らしめるための大きな芝居であったのだ。 結局法律の隙間を縫って黒谷七波と宮里一樹は自らの私腹は保ったままで、そこがまた憎らしいのだが。 しかしこの手の物語を読んで思うのは、最後に罰が下るとはいえ、彼らの蜜月は実に長く、その対価にしては釣り合いが取れないのではないか、と。確かに彼らの今後の行く末にはきつい道のりが待ち受けているだろうが、それでも彼らは誰もが羨む生活を送れたのだ。 実は得するのは悪の側なのではないか。真面目にやっている人間ほど馬鹿を見るのがこの世の中の構図ではないかと実に虚しさを感じてしまう。 ところで服部作品と云えば実在する社名が頻出することが特徴だが、題材が生々しいだけに本書では架空の社名で物語は進む。何しろゼネコンによる政治献金、裏金工作、架空請求など企業詐欺のオンパレードだからさすがに配慮は必要だろう。 しかし本書の一連のODAに纏わるゼネコンの贈賄と政治家との癒着の歴史を開発コンサルタントの女傑黒谷七波とゼネコンの裏資金調達人宮里一樹2人を軸に当時の世情を絡めて追って行けたのは同じ業界の一端に触れているわが身にとっても非常に勉強になった。海外のみならず日本でさえ、新幹線、東名高速や名神高速、黒部第四ダムなど日本のインフラの根幹をなす事業が海外諸国の国際援助によって建設されたことなど、恥ずかしながら本書で知った次第だ。 私自身一時期海外赴任をしていたが、この裏歴史を上っ面のみでしか知っていなかったあの頃は何とも初な人間だったことかと恥ずかしく思う。 発展途上国のインフラを整備し、豊かな生活を提供する一方で、巨額のブラックマネーを動かすゼネコン。この清濁併せ持つ業界に対してぶれない軸を持って接するために、本書は良き参考書となった。 しかしこのような歪んだ社会の構図はいくら暴かれ、断罪されようとも新たな汚職の構図が描かれ、同様の巨額のリベートが動くシステムが気付かれていくのだろう。 それは発展途上国を一見日本が食い物にしているように見えながら、その実欧米諸国に日本が食い物にされているのかもしれない。アジアの雄である日本、しかし欧米諸国はその悠久の歴史を持つゆえか、百年に跨って自国に有利に働く国際社会の絵を描くという。上には上がおり、そして民族や風習の違いから生まれる我々が想像だにしなかったカラクリが今後も、いや今そこに潜んでいるのかもしれない。 またも服部真澄氏は社会の暗闇にメスを入れてくれた。そしてまたもやその読後感は苦かった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『八百万の死にざま』でとうとう自身が重度のアルコール中毒であることを認めたスカダー。彼のその後が非常に気になって仕方のない読者の前に発表された本書はなんと時間を遡った数年前にスカダーが遭遇した事件の話だ。
今回はモグリの酒場モリシーの店に強盗が入った際、偶々スカダーが一緒に飲んでいた連中に纏わる依頼事を受ける、モジュラー型の探偵小説になっているのが今までのシリーズとは違う所だ。 スカダーが受ける依頼は3つ。 1つはモリシーの店の経営者ティム・パットからスカダーも居合わせた強盗事件の犯人の捜索。 2つ目はミス・キティの店の経営者の1人スキップ・ディヴォーから店の裏帳簿を盗んだ犯人の捜索。 3つ目はアームストロングの店の常連トミー・ティラリーの妻が殺された事件で容疑者として捕まった二人組が窃盗だけでなく妻殺しも犯した証拠もしくは証言を見つける事。 そのうち物語の中心となるのは2つ目の捜索。裏帳簿を片に大金をせしめようとする犯人との交渉はなかなか緊張感に満ちてサスペンスフル。しかし相手が完全なる悪ではなく、帳簿のコピーを取らないなど、脅迫犯にしてはクリーンなところがいささか物足りないが。 そしてこのようなモジュラー型ミステリの例に漏れず、3つの事件は意外な繋がりを見せる。 これは古き良きむくつけき酒飲みたちの物語。酒飲みたちは酒を飲んでいる間、詩人になり、語り合う。だから彼らは酒場を去り難く思い、いつまでも盃を重ねるのだ。 そんな本書にこの邦題はぴったりだ。まさにこれしか、ない。 しかしそんな夜に紡がれる友情は実に陳腐な張り子の物であったことが白日の下に曝される。もう彼らが笑いあって盃を酌み交わす美しい夜は訪れないのだ。 本書の原題は“When The Sacred Ginmill Closes”、『聖なる酒場が閉まる時』。 先にも書いたようにこれは遡る事1975年の頃の話である。つまりかつてはマットが通っていた酒場への鎮魂歌の物語だ。 この題名は冒頭に引用されたデイヴ・ヴァン・ロンクの歌詞の一節に由来しているが、その詩が語るように酔いどれたちが名残惜しむ酒場への愛着と哀惜、そして酒を酌み交わすことで生まれる友情を謳っているかのような物語だ。 そしてこのヴァン・ロンクは実在したアーティストで、題名の元となった歌「ラスト・コール」の詩が引用されているが、この詩が実にマット・スカダーの生き様を謳ったかのような内容で実に心に染み入る。 ところで書中、スカダーの探偵術について独りごちるシーンがある。彼は仕事を請け負いながらもどうやって犯人を推理し、謎を解くのかは解らないのだという。ただ街を歩き、人に逢い、そして何度も同じ場所を赴くだけだ。 警官時代、彼は暗中模索の中、いきなり有力な証拠が挙がって事件が解決に向かうパターンと犯人が最初から解っていて、それを証明するための証拠を見つけるだけのパターンがあった。しかしその過程は今でもどういう風にそこに至ったかは不明で、手持ちのカードを見つめ続けただけだった。それはジグソーパズルのように、当てはまらなかったピースが、ある時角度を変えた時にいきなり当てはまるような感覚に似ているのだという。つまり答えは常に目の前にあるのだというのだった。 短編「バッグレディの死」でもそうだったが、マットは確かに何か確証を持って捜査をするのではなく、とりあえず得た情報をきっかけに人に逢い、現場に向かうだけだ。 しかしそれを何度も繰り返すだけなのに、それが街の噂に上り、犯人が不安になって自ら馬脚を露すという不思議な味わいの作品だった。彼は自分が動くことで何かが変わることを知っているし、迷った時は発端に戻るという警官の捜査の鉄則に基づいて動いていることが解る部分だった。ちなみに件のバッグレディことメアリー・アリス・レッドフィールドも本書には顔を出す。 そして最後の1つの事件。トミー・ティラリーの妻殺しの真相もマットによって実に辛い結末を迎える。 マットは常に人殺しを許さない。それは自分が任務中の誤殺とはいえ、少女殺しであるからだ。彼は贖罪の為に警察を辞め、報酬を貰い、彼に助けを求める人たちへ便宜を図る。そんな暮らしを自分に強いているがために、人を殺してまっとうな社会に生きようとする人が許せないのだろう。 知らなくてもいい真実を敢えて晒すことで何か大事な物が壊れようともそれがマットの流儀ならば、彼は愚直なまでにそれに従うのだ。 物語のエピローグでは彼らの現在が語られる。彼が過去を振り返る現在ではあの頃飲み仲間だった連中は街を離れ、ある者は死に、ある者は別の地で新たな生業に就き、またある者は行方知れずとなっている。そして彼の街も様相を変え、今でも続く店もあるが、既に無くなった店の方が多い。なんとマット行きつけのアームストロングの店さえも、もうすでに無くなっている有様となっている。 シリーズがこの後も続いていることを知っている今ではこれがいわゆるマット・スカダーシリーズ前期を締めくくる一作である位置づけは解るが、訳者あとがきにも書かれているように、当時としては恐らく本書はローレンス・ブロックがシリーズを終わらせるために書かれた、酔いどれ探偵マット・スカダーへの餞の物語だったのだろう。 それくらい本書の結末は喪失感に満ちている。 しかしここからこのシリーズの真骨頂とも云うべき物語が紡がれるのだから、本当にブロックの才には畏れ入る。 まずは静かにアル中探偵マット・スカダーのアルコールへの訣別となるこの物語の余韻に浸ることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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文庫オリジナルで発刊された短編集。しかし収録作品にはある共通項があり、それは後で明かすことにしよう。
まず「シャレードがいっぱい」はバブル全盛期の頃の話。 メッシー、アッシー、ミツグくん、高級ワインにシャンパン、イタ飯、六本木カローラと呼ばれていたBMW、フェラーリ、そしてクリスマス・イヴに備えて高級ホテルの最上階のレストランとスイートルームを半年以上前から予約する、等々、バブル華やかなりし頃のミステリ。つくづく読んでて思うが、バブル期の日本はみな浮かれていて、無駄な事に大金を費やすことがステータスとなっていた、金の狂人たちの時代だったなんだなぁと思わず懐かしむような思いで読んだ。 主人公の津田弥生はそんなバブルの時代を謳歌している女性の1人で、その頃はどこにでもいた女性の1人なのだが、そんな彼女がどこか怪しいところのある尾藤と名乗る男と恋人の、いや友達以上恋人未満の北沢の死を探るミステリだが、ライトミステリながらもダイイング・メッセージを皮切りにシャレード、文字謎がたくさん含まれた作品。特に遺言状のトリックはなぜ気付かなかったのか、非常に悔しい思いがした。 「レイコと玲子」はタイトルから推測できるように多重人格者を扱った作品。 バブル時代に書かれた作品でベンツ、アルマーニ、セルシオ、グッチの財布と当時席巻していたアイテムがそこここに挟まれて、ライトミステリのように思えるが、読み応えは案外深い。 「再生魔術の女」は1つの部屋で繰り広げられるある復讐の物語。 よくもまあ、こんな恐ろしい発想が生まれる物である。 名作『秘密』の原型となったのが「さよなら『お父さん』」だ。設定はほとんど一緒と云っていいだろう。『秘密』がバスの事故で母の意識が娘に入り込むのなら、こちらは飛行機事故という設定の違いくらいだ。 当初は娘の心に妻の意識が入り込むことで生じる違和感を面白おかしく描くのが目的だったらしいが、本作でも『秘密』に通ずるそこはかとない哀しみが漂っている。本書を下敷きに『秘密』を著したのは正解だった。 ホームズのパロディ譚である「名探偵退場」は隠居生活に入ったかつての名探偵アンソニー・ワイクが自分が手掛けた事件の中で最も難易度が高く、印象深かった魔王館殺人事件の記録を著すところから始まる。 名探偵のジレンマとも云うべき永遠の命題を利用した物語の展開と意外な真相が実に印象的だ。しかしただ単純に面白いだけでなく、本格ミステリが孕む危険性を読者は感じ取ってほしいのだが。 「女も虎も」は題名通りリドル・ストーリーの傑作として名高い「女か虎か」の本歌取り作品。但し舞台は日本の江戸時代らしき設定。 殿様の妾に手を出した真之介が2つの扉ならぬ3つの扉のうち1つを選択することで運命が決まる。1つには絶世の美女が、1つには虎が、そして最後の1つに何が入っているのかは不明だった。そして真之介が選んだ扉には果たして…。 たった10ページのショートショートで、オチもまあ単純と云えば単純。 「眠りたい死にたくない」は監禁物。 睡眠薬を飲まされ、酩酊状態の中で監禁状態になった経緯を思い出す一部始終はある完全犯罪のそれだった。 最後の「二十年目の約束」はある夫婦の物語だ。 これは正直ピンと来なかった。最後の1編にしては今いち締まらなかったなぁ。 収録作品は雑誌に掲載されながらもある理由によって短編集として纏められなかった、作者曰く「わけあり物件」らしい。 例えば掲載されていた雑誌が出版社の倒産によって作品がお蔵入りしたり、有名になってしまった長編の原型だったり、単純に短編集に纏める機会がなかったりと、そんな落穂を拾うかのように編まれたのが本作だ。 だからといって駄作の寄せ集めではなく、そこは東野圭吾氏、水準をきちんと保っている。個人的には「再生魔術の女」の発想の妙を買う。被害者の胎内に残された精液から代理母に子供を産ませ、それを容疑者の養子として送り込み、復讐する。顔立ちが似てくれば容疑者が犯人だったことが解る、遠大な復讐だ。 このトンデモ科学のトリックとでも云おうか、鬼気迫る復讐者の執念、いや情念に畏れ入った。 収録作は89年から95年にかけて書かれた作品で、バブル景気に浮かれる日本を髣髴させるキーワードが物語に織り込まれていて感慨深い。特に顕著なのが、第1編目の「シャレードはいっぱい」と2編目の「レイコと玲子」。あとがきで作者自身が「もはや時代小説だ」というように、「バブルは遥かなりにけり」の感はあるが、これはこれでそういう時代があったことを知る貴重な資料にもなるのではないか。 しかしこのような長い創作活動の中で埋もれてしまった短編が再び日の目を見るように本に纏められるのも東野氏が今や当代一の人気ミステリ作家になったからこそだ。こんな東野作品もあったのだと、今の作品群と読み比べてみるのもまた一興かもしれない。 しかしやはりバブルは強烈だったなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回のマクリーンが題材にするのはスコットランド沖で暗躍する海賊たちと情報部員フィリップ・カルバートの戦いだ。但し極限状態の自然との闘いはなく、狡猾で悪賢い海賊一味たちに徒手空拳で一人の情報部員が戦いを挑むという、これまたアクション映画のような作品だ。
この主人公カルバートに襲いかかる危難はまず潜入した船で四方に敵を囲まれた状態から機転を利かせて逃れるところから始まり、消失した船を捜すために乗り込んだヘリコプターが海賊たちに撃ち落されて、これまた命からがら脱出、さらには相棒を船で亡くし、おまけに敵は世界有数の富豪で警官も含め町全体が彼の手先になっているという四面楚歌の状態。 さらにはヘリコプターに乗っては撃ち落され、命が1つでは到底足らないくらいの危難に見舞われる。 本書はいきなり主人公カルバートが銃を突き付けられるシーンから始まるが、映画のオープニングにしては申し分ないクライマックスシーンさながらの脱出劇が繰り広げられる。 しかしいきなり物語の渦中に放り込まれた読者は一体何のために主人公がこのような状況に追い込まれ、そしてなぜ主人公がそんな危険な船に潜入したのかがなかなか明らかにされないまま、物語は進む。 マクリーン作品をもう8冊目になるが、この小説作法にはなかなか慣れなく、しばらく据わり心地の悪さを強いられる。 この暗中模索の中、物語が進むのは非常に居心地が悪く、カルバートと伯父アーサーの行動原理が解らない為、感情移入も出来ず、また馴れないスコットランド沖を舞台にしていながら、略地図も付されていない為、主人公たちがどこをどう行っているのかまったく位置関係が解らなく、単に読み流すだけになってしまった。 また最後に怒涛の如く明かされるバックストーリーもあまりサプライズをもたらさなかった。なんせ物語の背景が解らないまま、渦中に追いやられているため、序盤から仕掛けられたカルバートと伯父アーサーの仕掛けも、単純に「へぇー」と感心するに留まってしまった。 『最後の国境線』以来、どうもこのなかなか物語の粗筋が見えぬままにいきなり話が進んでいくスタイルをマクリーンは取っているのだが、これが非常に私には相性が悪く、全く物語に没入できなくなっている。本書も含め『最後の国境線』、『恐怖の関門』、『黄金のランデブー』などガイドブックでは高評価の作品として挙げられているが、いまいち物語にのれないのだ。 あまり凝ったプロットは正直期待してはいない。『女王陛下のユリシーズ号』や『ナヴァロンの要塞』のように、明快かつ至極困難な目的に向かって満身創痍の状態で極限状態の中、任務に邁進し、その道中で挟まれる意外なエピソードを交える構成の作品が私にとってのマクリーン作品なのだろう。 しかしそのような先入観を持たず、まっさらな心で次作も手に取ることにしよう。免疫が出来ていればいいのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『すべてがFになる』から始まる犀川教授と西之園萌絵コンビのS&Mシリーズ第2作の本書は実はこちらが最初に書かれた作品らしい。
その節は確かにあり、犀川と西之園萌絵の現状や家庭環境などがきちんと語られ、イントロダクションとなっている。一応ところどころに真賀田四季の事件のことが挟まれてはいるが、どうも話からは浮いた感じがしてしまう。 今回の事件は犀川の勤めるN大学で、親友で同僚でもある土木学科の喜多教授が所属する極地研で起きた密室殺人事件に挑むというもの。 1作目も密室ならば2作目も密室。しかもどちらも一種特殊な建物の中での殺人ということで、いわゆる館物に属するが、森氏の作品に出てくる建物は大学の特殊な実験のために建てられたという点で現実的であることだ。 1作目の感想にも述べたが、森氏自身が建築学科の教授でもあるため、出てくる建物が特異であっても奇抜さは感じない。建築基準法に則した建物であり、更には犀川の視点を通じて意匠についてのコメントもあり、リアルさを感じる。 事件は実にシンプルな密室殺人なのだが、シンプル故になかなか謎を解明できない。 しかし私には本書の謎がさほど魅力的には映らず、地味な殺人事件を嬉々として解決しようとする西之園萌絵の無邪気さに半ば呆れ、半ば怒りさえ覚えたりもし、萌絵が事件の秘密を暴こうと極地研に潜入した際に犯人と思しき人物によって襲われた時は逆に溜飲が下がる思いがしたものだ。 ただそんな強い負の感情によって引き起こされた事件は解決編で明かされる真相を読む限り、数学的な論理的整然さを伴っており、方程式を解いたような小奇麗さを感じる。 1つの部屋に入ったのは4人。残っていたのはそのうち2人。さて残りの2人はどうやって部屋から自然な形で出て行ったのでしょう。 そんな知的パズルの解を見せられた思いがした。 ところでこの前に読んだ『氷菓』の折木といい、本書の犀川といい、事件の渦中にいながらも積極的に謎解きに関与しないのが昨今の名探偵の姿勢らしい。 確かにゆとり世代―これらの作品の登場人物の年齢よりはかなり下がるが―と呼ばれる最近の若者の妙に悟りきった考え方やあまり力を入れずに額に汗かくことを厭う緩さに共通する物があるように感じた。 このドライな感覚、つまり事件の渦中にいながらもどこか他人事のように冷めた視線で物事を見つめる視線は確かに名探偵の必要な要素ではあるが、大学教授である犀川はあまりにリアルすぎて探偵役としてなかなか素直に受け入れられないきらいがある。やはり本格ミステリの名探偵は浮世離れしたエキセントリックさが必要ということか。 正直2作を読んだ現段階ではなぜドラマ化されるまでこのシリーズが持て囃されるのかがまだ解らない。上に書いたように犀川のドライさ、西之園萌絵のお嬢様ゆえの他者のテリトリーに土足に上がり込むだけでなく、警察の本部長を務める叔父へ強引に協力を求めて捜査記録を拝借する厚顔無恥さはアラフォーになった今の私にはなんとも常識知らずとしか思えない。 しかし巷間数多溢れる本格ミステリの探偵とは元々そんな存在ではないかと一方で思う私もいる。 S&Mシリーズ全10作を読み終えた時にこのシリーズの真価が解るのかもしれない。 とにかく今結論を出すにはまだ早いのだろう。犀川と西之園萌絵にこれからどんなことが起き、そして彼らにどんな変化が訪れるのか、根気よく付き合っていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2001年に角川スニーカー文庫で発刊され、現在では角川文庫で刊行されて今なお版を重ねている米澤穂信氏のデビュー作はその人気ぶりが頷けるほど読みやすく、またキャラが立っており、しかもミステリ興趣に満ちている。
主人公の折木奉太郎はやらなくていいことはやらない、やらなければいけないことは極力手短にがモットーの省エネ人間、つまり事なかれ主義者なのだが、海外を放浪する合気道と逮捕術を会得したスーパー女子大生の姉供恵の命により廃部寸前の古典部に入部する。 部員の千反田えるは神山の四名家の1つである千反田家の出で、お嬢様ながら好奇心旺盛。友人の福部里志は減らず口の似非粋人でいつも笑みを浮かべている。幼い顔と低めの背丈で男子の耳目を集める伊原摩耶花は七色の毒舌を誇る女子、と古典部の部員は実に個性豊かだ。 しかしそれだけならば単なる読んで楽しい学園生活を追体験できるラノベに過ぎないのだが、本書の素晴らしい所は本格ミステリとして非常にレベルが高く、そしていわば理想の本格ミステリとなっていることだ。 ジャンルとしては北村薫氏に代表される「日常の謎」系だ。物語のメインの謎は33年前に神山高校の古典部のOBだった千反田えるの伯父、関谷純に幼き頃千反田が尋ね、大泣きしてしまった古典部に纏わる話の謎だ。この謎を主軸に物語には様々な小さな謎が散りばめられている。 入部初日になぜ千反田えるは鍵を掛けられて部室に閉じ込められたのか?毎週金曜日に昼休みに借りて放課後の返される本の目的は? 神山高校の文化祭はなぜカンヤ祭と呼ばれているのか? 以前は古典部の部室であったが、今は壁新聞部の部室となっている生物講義室で部長の遠垣内はなぜ折木たちを歓迎しないのか? たった210ページ前後の分量しかないのに、ほとんど全ての内容が謎に絡んでくる、実に濃厚な本格ミステリである。これが理想の本格ミステリだと前述した理由でもある。 デビュー作にしてミステリとしても実に高度なレベルに達した作品を放った米澤穂信氏が今なぜこれほどまでに評判が高いのかがこの1作で理解できる。 また技術だけでなく、物語としても心に響くものがある。特に物語最後に判明する本書の題名でもあり、古典部の文集の名前でもある『氷菓』に託した千反田えるの伯父で33年前に退学を余儀なくされた古典部OB、関谷純の思いは何とも云えないほど切ない響きを湛えていた。 幼き頃に関谷純にある質問をして号泣した千反田えるが長く抱えていた謎に十分応えるだけの重みがある。 さて本書ではまだまだ語られるべきエピソードが残っている。千反田家を除く神山の地の四名家、荒楠神社の十文字家、書肆百日紅家、山持ちの万人橋家とそれに続く地位を持つ病院長入須家はまだ名のみが出たばかりだし、さりげなく学校史『神山高校五十年の歩み』の1972年の出来事に書かれた古典部顧問の大出先生と同姓の人物の死などなど。 これらはおいおいシリーズの中で触れられていくことだろう。 とにかく何事もなく日常を過ごすことを至上としている省エネ高校生、主人公折木奉太郎が古典部の面々と彼らが持ってくる謎に関わることで彼の中で変化が起きてくる。何かに一生懸命になってエネルギーを費やすことに理解が出来なかった彼が千反田の旺盛な好奇心によって否応なく関わりを持たされることで彼もそんな仲間に加わりたくなる。 これは折木奉太郎が変わるための物語でもあるのだろう。 さてこれから古典部の面々がどんな事件に遭遇し、解決していくのか、最初からこのクオリティだと期待しないでおくなんて絶対できないではないか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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待ってました!
現代の数寄者、佛々堂先生が一風変わった風流を求めて全国を巡り、それに関わった人々のちょっといい話が並ぶ極上の短編集第2弾。いよいよとばかりにページをめくった。 本書では春夏秋冬の四季をテーマに4編収められている。まず始まりはやはり春。「縁起 春 門外不出」は奈良が舞台。 東大寺のお水取り、伊豆の韮山の氷割れの竹、利休竹など初っ端から風流が横溢する世界が繰り広げられ、佛々堂ワールドに一気に引き込まれる。 「縁起 夏 極楽行き」では佛々堂先生は全国を駆け巡る。 田辺に秘密の花園を見せるために仕組んだ佛々堂先生の物々交換の旅は宇都宮のサービスエリアで移動養蜂家かられんげの種を手に入れ、それを基にれんげ米コシヒカリなるれんげを鋤き込んだ米をつくる魚沼の農家からワラを仕入れ、さらにそのワラを金沢の畳床の職人と魚籠に交換し、それを福井の山中で石屋を訪れ、石と交換し、その石を松江のいま如泥と呼ばれる名工に渡して、伝説の盃と交換するという、実に愉しい行脚の旅を佛々堂先生と愉しめる贅沢な作品となっている。 そして田辺の亡き妻が夫に見せたかった場所とは白蓮が咲き誇るとある沼だった。花開く音は田辺のみが聞いた生命の力強さの象徴だったのかもしれない。 「縁起 秋 黄金波」は箱根の山中で植物と戯れる。 箱根の雄大な自然は実は人の手が悠久の時を経て作った風景であり、自然が創り上げたものではないことがまず驚きだ。 特に薄の話は実に興味深い。なるほど昔の移動手段であった馬が道中で活力を得るための餌として人為的に植えられたものだったとは。 箱根に生育する植物を愛でるあまり、外来種を毛嫌い、在来種の保存に精を出す友樹の母知加子はその熱意が高じて人の敷地に入っては手入れのされていない草木を失敬していた。彼女の夢である自然をありのままに再現した広大な原野が欲しいという望みとその持ち主である樺島浪美子の息子の願望を一気に解決するこれしかないという案は佛々堂しか成し得ないことだっただろう。 さて最後の短編「縁起 冬 初夢」では骨董界1年の締めくくりである納会が絡んでくる。 いやはや世の中にはまだまだ知らぬことがあるものだと感じ入った。鳩に図画の認識能力があるとは。視覚の優れた鳩は訓練で一流の鑑定士となるのである。粋人風見龍平が娘に託した鳩は利休の真筆を長年見させて真筆と右筆の違いを見分けることを可能にした鳩だった。 しかし利休の書状に右筆、つまり代筆が多数存在するというのも知らなかった。350通以上にも上る書状が市場に出てくるたびにその真贋が話題になっていることも。 さらには大福帳についての薀蓄も面白い。元々は商人の帳簿で取引記録を残す物だが、それゆえに揉め事が起きた時の貴重な証拠となり、大福帳は至極大事に保管されていた。それがために生半可な用紙で破れたり記録が水で読めなくなってはいけないため、長く消えずに残る墨で気球の材料にも使われた西ノ内和紙で書かれていた。そんな日本人古来の知恵と技を自己流で学んで遺した風見龍平という人物もまた一流の職人だといえよう。 “平成の魯山人”、佛々堂先生は今日も古びたワンボックス・カーで全国各地を駆け巡り、東に困っている人いればアドバイスを与え、西に悩んでいる人がいれば、粋な仕掛けを施していく。しかも自分も愉しみ、また消えゆく逸品を後世に遺すために。 そんな本書は四季折々の風流を織り込んだ日本の美意識を感じさせる短編集。 それぞれの短編が昔話をモチーフにされているのが面白い。 「門外不出」は『かぐや姫』こと『竹取物語』を、「極楽行き」では『わらしべ長者』が、「初夢」はなんとノアの方舟で有名な『創世記』である。 2作目ながらも全くその興趣溢れる彩り豊かな和の世界は衰えず、まさに文字で読む眼福といったところ。 東大寺の春の一大法要、お水取りに始まり、夏は蓮の開花、秋は箱根の山中、そして一年の締めくくり冬は骨董商の納会に除夜の鐘。 そんな四季折々の風景や祭事に織り込まれるのは正倉院で写経に使われていた円面硯、利休竹にれんげ米、如泥の盃、利休の書状、鏑木清方作の羽子板、西ノ内和紙などなど、ここには書ききれないほどの日本の技と美の結晶が隅々まで紹介され、物語を彩る。 特に本書は利休に始まり、利休に終わる。それはやはり風流人である利休の功績ゆえだろうか。 また前作にも負けず衰えず興味深い薀蓄が散りばめられているのが本書の素晴らしい所。 例えば東大寺のお水取りの松明にはそのための松明山が伊賀にあること、山椒は花山椒、実山椒、青山椒、割山椒に粉山椒と花から実まで1年を通じて味覚を楽しませてくれること、水底の土中に埋まっている種子は埋土種子といい、数十年経っても日の目を見れば発芽すること、寺の鐘には黄鐘(おうしき)、双調(そうじょう)、平調(ひょうじょう)、壱越(いちこつ)、盤渉(ばんしき)と5つの音色があること、などなど。 我々が何気なく使っている日用品や観ている景色、草木や花1つとっても実に深い世界が古来より備わっている。前述したように薄1本でさえ、歴史に裏付けされたその時代を生きた日本人の事情と知恵が由来している。そんな忘れ去られそうになる知識をトリビア、つまり役に立たない知識に風化させないためにも服部氏は佛々堂を生み出したのかもしれない。 しかし衣服に書架、食に植物、骨董だけでなく、色んな事物に詳しく理と真を知る佛々堂の博識ぶりには毎度頭が下がる。いやこれは作者服部氏の博識ぶりでもあるわけだが、今回もまた知らない世界を見せてくれた。 そしてこのような知識を得ることで今まで我々がいかに物を知らずに生きてきたかを痛感させられる。知識があるのと無いのとではこれほどまでに物が違って見えるのか。知らず知らず我々は無知ゆえに失礼な事や取り返しのつかないことをしているのかもしれないと思うと、恥ずかしくなる。 そしてそんな理を知る人が確かにいるのである。そんな世界を知らなかったことがなんとも悔しいではないか。 また本書では4編中3編に人の恋沙汰が隠し味となっている。「門外不出」では会社の上司の秘められた恋心が一連の課題に、「極楽行き」は亡くなった妻の隠された恋の話と、亡き妻が夫に託した思いが、「黄金波」ではプロポーズされた未亡人のある秘密とそれぞれの抱えた秘密や事情を佛々堂が意外な方向からアプローチし、解決する。 そしてまた風流人たる佛佛堂もそれに乗っかって自分の欲しいものを手に入れるのである。そして表題に掲げられた縁起とはすなわち仏教用語でいう因果論を指しつつも、あることが起こる兆しと云う意味を指す。つまり佛々堂こそが縁起“者”なのである。 さて本書では前作『清談 佛々堂先生』の1話目で登場した雑誌編集者の木島直子が登場するのだが、これは物語として輪が閉じることを暗示しているのだろうか? 1ファンとしては筆の続く限り、このシリーズを書き継いでほしいものである。 そして一人でも多くの読者が本書を読んでくれることを願いたい。読んだ後、身の回りの風景が1つ変わって見える事、保証しましょう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書はジェームズ・M・ケインが生前に遺した幻の遺作であり、よくぞ訳出してくれたとまずは新潮社の仕事に敬意を表したい。
私が唯一読んだケイン作品は『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で14年前に読んだ印象は愛欲ゆえに殺人を犯す2人の男女の話ながらも淡々としてあまり残っていない。 しかし本書のこの牽引力はどうだろう。特に派手な事件が起こるわけでもないのに、若き未亡人で周囲からも夫殺しの疑いを掛けられ四面楚歌となっているジョーンの健気さと一本芯の通った強さがどんどんページを繰らせる。 若き未亡人ジョーンがカクテル・ウェイトレスと云うちょっと露出度の高い制服を着て給仕をする職につくことで富豪の老人に出遭い、状況が好転していく様は『マイ・フェア・レディ』や『プリティ・ウーマン』の系譜に連なるシンデレラ・ストーリーとして読ませる。 しかしそこはケイン。「そしてジョーンはお金持ちと結婚して幸せになりました」的なお伽噺のようには物語は展開しない。 念願適い、富豪の妻となったジョーンはホワイト氏の情欲溢れる愛撫に耐えられなかった。人として好きなのだが、男としては単なる醜悪な老人としてしか接しきれなかったのだ。そしてホワイト氏と結婚した大きな目的である息子タッドを取り戻すことに失敗してからはさらにその気持ちに拍車がかかり、ハンサムな青年トム・バークリーへの恋情が募るばかりとなる。 しかし通常のケイン作品ならばここでトムと共謀して富豪を殺す計画を立て、巨万の富を2人占めにしようとするのが定石のように思えるが、ジョーンはあくまで自分を崩さず、ホワイト氏を富豪ではなく、一介の老人として毅然とした態度で振舞うのだ。 この主人公ジョーンは一見ダメな男に騙されて結婚を失敗した世間知らずの女性として登場しながらも弁護士の娘として紳士録にも載っているという家柄の良さなのか、彼女にレディとしての芯の強さを感じさせる。決して自分を安売りしない、強い女性像がジョーンには感じられた。 しかしそんな彼女を世間は、そして彼女の関わる周囲は悪女として悪意ある視線で見つめる。 まずは暴力夫が偶然事故によって亡くなることで妻による計画的犯行と思われる。その次はきわどい制服で店に出ていたところを富豪の老人に見初められ、結婚するが、老人には狭心症を患っており、老人はそれが元で亡くなり、またもや彼女は財産目当てで結婚したと思われる。 そしてさらに葬儀の後に訪れた一度関係を持ったハンサムな男性の許を訪れ、一夜を明かすという愚行を起こし、更にはその男性が亡くなることで連続夫殺しの汚名を着せられる。 正直主人公ジョーンにも周囲に誤解を招くような行動があることは否めない。幾度となく独白される自身の欠点、自制心が弱く感情に任せて云いたいことやつい手が出てしまうがためにさらに周囲への誤解に拍車がかかるのだ。 数々のファム・ファタール、悪女を描いてきたケインが最期の作品で書いたのはその容姿と状況ゆえに図らずも悪女に祭り上げられ、マスコミや周囲の好奇の的とされる不遇な女性の物語だった。不遇な女性の立身出世のシンデレラ・ストーリーはケインの手によるとこんなダークな色合いに変わる。 人の噂や風聞とは怖いものだ。対象となる人や物の実態を知らない者たちが心無い人の発言により口コミで伝達され、瞬く間にイメージが作られていく。 本書はそんな状況に巻き込まれた女性の手記の形で綴られている。 確かに手記ならばジョーンの告白には虚偽が挟まれている可能性もあるだろう。つまりジョーンは自らの犯行を隠ぺいするためにこの手記をしたためた、いわゆる信頼のおけない書き手であるかもしれない。 しかし私はそこまで読み込む、いや疑いの眼差しで読むことはしなかった。 本書をそのまま受け入れ、単なる伝聞での上っ面だけの情報だけでなく、その目で確かめて本質を見極めた上で自身の考えで判断なされよ。そんなメッセージが込められているように感じた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フリーマントルがジャック・ウィンチェスター名義で発表した本書は実にフリーマントルらしい運命の皮肉に満ちたスパイ物語となった。
オーストリアのユダヤ人であるフーゴ・ハートマンは多数のユダヤ人の例に漏れず、ナチに拉致され強制収容所で屈辱の日々を過ごした過去を持つ。そして解放後彼はKGBとCIAの二重スパイとして今に至る。 それが彼の類稀なる才能を引き出すことになった。つまり図らずも二重スパイはハートマンにとっては天職だったのだ。しかし人波の幸せを願う彼はこの稼業に終止符を打ちたがっていた。 これは優秀な二重スパイがいかにして国にボロボロになるまで利用され、果てには国の秘密を保持するために抹殺される運命から逃れる物語である。 たった270ページしかない作品ながら、ここには物語巧者であるフリーマントルによるサプライズが複数用意されている。 まずは主人公ハートマンと息子デイヴィッドとの確執である。 もう1つはラインハルト殺害時にハートマンが思わず溢す妻ゲルダに対してのある思いだろう。 そして最後のサプライズは後述する事にしよう。 原題は“The Solitary Man”。つまり世捨て人だ。ハートマンはCIAとKGBの二重スパイを辞めるために自らを葬り去ろうとする。この題名はこれから来ている。 通常のフリーマントルの諸作品に倣えば「自分を葬ろうとした男」といった具合になろうか。従って今回の邦題はあながち間違っていないながらもロマンチックに過ぎるような気がしないでもない。 物語の結末の皮肉さはフリーマントル作品を読み慣れた者ならばあながちサプライズとは感じないだろう。 決して幸せになれない人がいる。そんな男に対するフリーマントルの筆は今回も容赦はなかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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長編のみならず短編の名手でもあるローレンス・ブロックの第2短編集。
まず奇妙な味わいの1編「雲を消した少年」で幕を開ける。 虐待を強いられた子供は何か特別な力を得るとそれを精神の背骨とせず、今までの虐待から脱却するための力として行使しようとする傾向にあるようだ。 屑のような存在から何か特別な存在になったと錯覚し、それを誰かに試してみようと思う。今まで特に心入れることなく観ていた周囲の風景や人々が突然色づき始め、彼にとって意味を持ってくる。 しかしそれは必ずしもいい意味ではない。彼にとって生まれながらに持って与えられた底辺の生活から脱するための餌食に見えてくるのだ。 果たしてジェレミーの得た雲を消す力は他に応用できたのか?不穏な空気をまとって物語は閉じられる。 「狂気の行方」はおかしな振る舞いで精神病院に入れられた男の話。 「危険な稼業」は実にブロックらしい短編だ。 もしかしてこれはブロック自身の物語なのか? 「処女とコニャック」はある医者が主人公に語る奇妙な話。 なんとも人を食ったようなお話だ。ライバルとも云える2人の取引の間を取り持つ男が見事な知恵で上手く出し抜くという話は古来昔話やお伽噺などでよくあるが、まさか処女とコニャックがその対象とは実にブロックらしい。 もはやブロックの短編には欠かせない存在となった悪徳弁護士マーティン・エレイングラフが登場するのは「経験」。 依頼人の無実を晴らす為ならば手段を選ばない。悪徳弁護士エレイングラフのまさに典型とも云うべき作品。しかし単なる典型に陥らず、作者は意外なオチを用意している。 旅行に帰ってきたら空巣に入られて我が家が荒らされていた。「週末の客」はそんなシチュエーションで始まる。 いくつか貴重品も無くなっていたがいつまでもくよくよしてはいられない、とばかりに家の主人エディは早速同僚と仕事に出かける。被害を少しでも取り返すために…と、泥棒が自宅に盗みに入られるという間抜けなシチュエーションを扱った物。 「それもまた立派な強請」もまた奇妙な味わいの物語だ。 デイヴィッドが行ったのは困っているかつての恋人を助ける騎士道精神からだろうか? 彼の中で何かが変わったことは確かだ。読者はデイヴィッドの姿に一種の願望を見出すのかもしれない。 さらに輪をかけて奇妙なのは「人生の折り返し点」だ。 ロイスは狂人なのか? とにもかくにもある日自分の年齢に気付いて愕然とする瞬間と云うのは誰しもあるのだろう。その時今までの人生で自分は何かを成し得たのかと考える時が訪れるのかもしれない。そしてごく普通の生活を送り、そしてこの後の人生もまた同じことの繰り返しだと気付いた時、人は何を思い、そして何を決意するのか? 「終わりなき日常」に嫌気が刺し、一念発起して自分が生きた証を遺そうとする者、もしくは今まで出来なかったことをやろうと決意する者。本作の主人公ロイスは明らかに後者だ。 ある一線を超えた者の悟りを描いているのだが、そんな重い話ではなく、作者自身の声とも呼べる地の文のツッコミがとにかく面白く、独特な作品となっている。 「マロリイ・クイーンの死」はブロックによる本格ミステリだ。 ブロックによる本格ミステリと書いたが、その実態はアメリカ推理文壇をモデルにしたパロディミステリ。 そこここにモデルとなった作家や評論家が登場し、彼らが容疑者となって一堂に会する。そして狙われるのは雑誌発行人で、彼女は確かに書店やエージェント、作家たちの恨みを買うようなことをその権限で行っている。そして衆人の前で殺害された発行人の事件のあまりにも意外な真相は本格ミステリそのものを皮肉っているかのようだ。 ブロック特有のブラックユーモアの詰まった1作だ。 「今日はそんな日」もまた本格ミステリ趣向の作品。 これはある意味物事の本質を云い当てた作品なのかもしれない。現実に起こる出来事の真相はほとんど明らかにされることはない。従ってミステリとははっきりとした答えの出ない現実の不満を解消するために書かれ、読まれている物だと解釈できる。 何とも云えない味わいを残すのが全編手記という形で書かれた「安らかに眠れ、レオ・ヤングダール」だ。 しかしどこか実に人間臭い。 表題作「バランスが肝心」は公認会計士の許に一通の封筒が届くことから幕を開ける。 う~ん、実にバランスの取れた作品だ。 「ホット・アイズ、コールド・アイズ」はそのスタイルと美貌故にいつも男の視線を感じてしまう女性の話だ。 昼の貌と夜の貌。その風貌故に人の視線を感じる女性と云うのはいることだろう。そういう女性はそんな視線を厭わしく思うのだろうか? それは視線の主次第だろう。彼女は昼は貞淑な女性を務めているが夜はむしろ派手になり、男の視線を浴びることを快感に思うようになる。そしてさらに彼女には秘密があった。 ある意味ユーモアにも転じることが出来るプロットで、今までの流れからも感じる視線のオチとは他愛もないものだろうと思っていただけにこの結末は意外だった。女性のミステリアスな部分がさらに深まる短編だ。 風来坊の主人公がダブリンに住む作家の身の回りの世話をする「最期に笑みを」はまた一種変わったテイストだ。 街の長老と化したミステリ作家が簡単に事故として処理されそうになった事件の真実を解き明かそうと身の回りの世話をする青年を助手して捜査をする。しかしその様はいわゆる探偵小説のようなものではなく、あくまで淡々と街の人たちと会い、世間話をして様子を訊き、それを作家に報告するだけ。そして作家はその話を訊き、また指示を出す。それは死期が迫った老人の話を聞く青年との暖かい交流を思わせるのだが、次第に様相は変わり、最後はなんとも苦いものとなる。 センチメンタリズム溢れる好編だ。 一転して「風変わりな人質」では軽妙な誘拐劇が繰り広げられる。 現代っ子に掛かれば誘拐事件も一種のゲームのようになるのか。誘拐されたキャロルの立場は絶望的ながらも決してシリアスにならず、寧ろ状況を愉しんで犯人を出し抜くために知恵とそして女の武器を使って乗り越えようとする。なかなか痛快な1作だ。 続くは短編集でのシリーズキャラクターとなっている悪徳弁護士マーティン・エイレングラフの本書での2作目「エイレングラフの取り決め」では珍しく国の制度で斡旋される容疑者の弁護に携わる。 エイレングラフは有罪明白と思われる事件の裁判を未然に防ぐために容疑者の周囲の人々、事件の関係者と逢って真相をでっち上げ―作中では明白にでっち上げられたことは書かれてないが―真犯人の告白と自殺で事件を解決させ、高額な報酬を得るのが常套手段。本作もその例に漏れないが、まずは高額な報酬が望めない国の斡旋する貧しい容疑者の弁護を受けるところから異色。 しかしエイレングラフは動じない。彼はまた自分の信念に従って依頼人を無罪にするのだろう。 「カシャッ!」はシンプル故に最後の幕切れが強烈な作品。 最初の「ある意味では」というところから布石が始まっている。その被写体だけで戦慄の結末を悟らせるこの上手さはブロックしか書けない。 「逃げるが勝ち?」は浮気相手が大金を手にした暁に夫を殺害して海外へ高飛びしようと画策する話。しかしそこはブロック、巧みなどんでん返しが用意されているが、これは予想の範疇であったかな。 そして最後は本書中最も長い「バッグ・レディの死」。マット・スカダーが登場する中編だ。 これはマットじゃないと務まらない最上のセンチメンタリズムが横溢した作品だろう。 しばらく考えないと思い出せないくらい縁の薄い女性ルンペンからの突然の遺産相続という導入部のインパクトの強烈さ。そしてマットはそんな薄い繋がりが街の片隅で何者かに無残に何か所も刺され、死んだ事件の真相を、1,200ドルの遺産を依頼金として彼女が遺産を遺した他の相続人たちを渡り歩いて犯人捜しを行う。 こんなミステリの定型をある意味台無しにする結末なのだが、それを十分読者の腑に落ちさせるのはやはりマットの、自分に関わった人たちに対する誠実さゆえだろう。これはブロックの、しかもマット・スカダーシリーズでないと書けない事件であり、物語だ。 ブロックの第2短編集である本書はまたもや実にヴァラエティに富んだ内容となった。 まずファンタジーから始まるのが実に意外。そこから殺人、叙述トリック、詐欺、強請、狂気、本格ミステリのパロディ、リドルストーリー、小咄、サイコパス、探偵物、奇妙な味に更にはジャンル別不可能な物とよくもまあこれだけのアイデアが出るものだと読んでいる最中もそうだったが、今振り返って改めて感嘆する。 そしてここにはブロックしか書けない作品が揃っている。「処女とコニャック」、「それもまた立派な強請」、「人生の折り返し点」、「安らかに眠れ、レオ・ヤングダール」、「バランスが肝心」、「バッグ・レディの死」などがそうだ。 そんな極上の作品が並ぶ中で個人的ベストを敢えて挙げるとすると「人生の折り返し点」と「バッグ・レディの死」の2作になろうか。 「人生の折り返し点」は勝手に寿命を悟り、残りの半分の人生をもっと楽しく生きるために思い切ったことをやると決意した男の狂気を作者と思しき語り手の神の視点での語り口が物語に面白味を与えている。とにかくブロックにしか書けない作品の最たるものだ。 そして「バッグ・レディの死」はマット・スカダーが登場する1編。彼に遺産を遺したバッグ・レディ、つまり女性ルンペンの死を探る物語だが、最後に犯人が自らマットの許を訪れて自白して事件が解決する結末はある意味これはミステリの定型から脱した物語だろう。 しかしマットがあてどなく被害者である身寄りのない知的障害者の中年女性が遺産を遺した市井の人々を巡ることで誰もが彼女を思いだし、彼女を懐かしがり、死を悼むようになるがゆえにこの結末は実に納得のいく物になるのだ。そしてそれはうらびれた街角でボロ屑のようにめった刺しにされ、打ち捨てられるように亡くなった一人の女性に名を与え、警官でさえ捜査を辞めた事件を甦らせることで彼女の一人の人間にし、その死に尊厳を与えることになった。 また一種忘れがたいのは「安らかに眠れ、レオ・ヤングダール」。10数ページの小品でその内容は単なるバカ話にしか過ぎない話なのだが、こういう話こそ折に触れ繰り返し語られる不思議な力を持っているものだ。偶然の織り成すおかしみというものがこの作品にはある。 しかしなぜこうも印象に残る作品が多いのか。それは確かにアイデア自体も秀逸だが、ブロックの語り口がまた絶妙だからだろう。 例えば火曜日の朝に郵便物が届く事だけで、郵便物がその曜日の朝に届くこととはどういうことなのかを書く。こんな我々の日常にでも起こるようなことについてブロックは実に興味深く考察し、物語に投入し、読者は改めてそのおかしみに気づかされ、一気に物語にのめり込んでいくのだ。 さらにブロックは物語の結末を明白に書かず、読者の想像に委ねていることもまた強い余韻を残すのだろう。特にエイレングラフ物は決して彼が手を下したとは書いていないのに読者の心には彼が依頼人の無罪を勝ち取るならば殺人をも厭わない悪徳弁護士であると印象付けられている。 また「今日はそんな日」の何とも云えない曖昧な結末や「カシャッ!」の最後に一行の意味などは全てを語らないのに実に強烈な印象を残す。物語の幕引きのタイミングを心得ているのだね。 この第2短編集は第1短編集の『おかしなことを聞くね』よりも世間の話題を集めていないが、それに勝るとも劣らないほど素晴らしい内容だ。 限られた枚数でこれだけのヴァリエーションとアイデアに絶妙なオチをつける、まことに短編は「バランスが肝心」だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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おっさんスノーボーダーである東野圭吾氏が存分に自分の趣味を全面に押し出したのが本書だと云えよう。冬季オリンピックを題材にしたエッセイ『夢はトリノをかけめぐる』で述べられていたスノーボードをテーマにした作品『フェイク』とは本書のことではないだろうか。
しかし実業之日本社文庫創刊の起爆剤として文庫オリジナルで発表された本書は単行本で出してもコストパフォーマンスはよかっただろうと思われるクオリティに満ちている。 物語は新月高原スキー場に爆弾を仕掛けた犯人と経営者側の攻防を主軸に、1年前に起きた北月エリアでのスキー客死亡事故、その事件で閉鎖状態にある北月エリアの煽りをもろに受けて不況に苦しむ北月町の人々、そして間近に控えたクロス大会とそれぞれの事情を盛り込んで繰り広げられる。 この全てが見えない糸で導かれるかの如くに解き明かされるこのカタルシス。 いやいやこれが文庫オリジナルなんてどうしてどうして!物凄くコスパの高い作品ではないか! 物語の結末はちょっと苦い。 今回珍しく思ったのは全編にスキー、スノーボードの専門用語や俗語が横溢していながらもそれらについての細かい説明などはなかったことだ。それは日本人ならば当然だろうと、ウィンタースポーツの門外漢を置き去りにするが如くで、とにかく「俺はこれが書きたかったんだ」と作者が愉しんで執筆していることが行間から滲み出てくるほどだ。 物語の最初から終わりまで、まさにスキー、スノーボードの疾走感を覚えるが如く一気読み必至の1冊だ。 ドラマ化されたのも頷けるほどの出来栄え。録画しとけばよかったなぁ、ドラマ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(2件の連絡あり)[?]
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20世紀は情報化社会と云われて久しいが、服部真澄氏がこの高度情報化社会をテーマに小説を書くとこんなにも我々の想像を凌駕した世界が広がるのかと唖然、いや驚愕した。
今やウェラブル・カメラが販売されるようになった現在。その6年も前にほくろサイズの超小型ウェラブル・カメラと15テラバイトもの大容量記憶端末を体内に埋め込んで一生分の目にした画像を記憶する“ヴィジブル・ユニット”なる装置を創造した服部氏の慧眼にまず物語冒頭から開いた口が塞がらないほどの衝撃を受けた。 常に時代の先端を予見し、我々のまだ見ぬ世界を見せてくれる服部氏だが、今回もその期待は裏切らず、いやはるかに超えた高度情報化社会の光と影を見せつけてくれた。 ただこのヴィジブル・ユニットに関しては個人的には魅力を感じなかった。なぜなら365日24時間自分の行動が記録されることは自身の恥部や秘密なども記録されるからだ。 誰がそんなものを過去に残しておこうと思うのか?この価値観の違いに共感を覚えられなかったのは本書を読むのに終始違和感を抱く要素となった。 その違和感は物語の後半である大きな陰謀へと繋がるのだが、それについては後述する。 さてどんな一般人でもその人が一生の中で同時期に体験したことが貴重な情報となり、それが思いもかけない金のなる木になる可能性を秘めている。だからこそ企業は個人情報を欲しがり、不法な手段を使ってまでも手に入れようとするのだ。 しかしそんな文字上だけの情報ではなく、一人一人が目にした画像が一生分記録され、それがデータとして蓄積され、観ることが出来たら? そんな所から本書のアイデアは生まれている。いやもはやこれは世界の最前線に詳しい服部氏が既に得た確度の高い情報が基礎となっているのかもしれない。 今まで古い書物や残された手記、更には写真と云った媒体を介してでしか当たることのできなかった歴史。それが映像として記録され、再現されることになったのはまだ前世紀の後半になってからだ。そして物語の舞台となった2025年では誰もが歴史の生き証人となり、その目の当たりした画像が貴重な情報となっていく。 しかし企業はそれを買うのではなく、寧ろ料金を徴収してストックするサービスを行う。それは誰もが生きていた証を後世に遺したいという欲望を持っているからだ。この人間の原理に着眼し、新たなビジネスを創造した作者の発想の妙。 しかしいつもながら何と云う事を考え付く人なのか、服部氏は。 しかしそんな新しいビジネスにも影が潜んでいる。いつもながら服部氏は巨大企業のサービスの裏に潜む企みを一般市民の我々に痛烈に突き付けてくれる。甘い話には裏があるというが、この世の中には建前のカバーストーリーがあり、企業の真の目的は個人のプライヴァシーまで踏み込んで私腹を肥やすことにある。 上にも書いたが、あらゆる情報の中で個人情報ほど貴重な物は無いからだ。 人々が望んで自らの体内にカメラを埋め込み、自らの生活の一部始終を記録してくれることになった世の中で、そんな貴重なデータ蓄積装置を開発した会社が黙って放置するわけがない。それらは無料回収というリサイクル事業の名の下、企業に吸い取られ、蓄積され、個人が丸裸にされていく。知られたくない過去や性癖だけでなく、携わったプロジェクトや組織の公には見せたくない醜い争いと云ったものまでが白日の下に曝されるのだ。 高度情報化社会が進んだ行く末路の多大なる危険性を本書は警告してくれる。 しかし驚きはそれだけに留まらない。 思い出は美化されるの言葉の如く、人が記録した画像もまた美化されるように改竄される技術が生まれる。つまり記録された個人の動画から史実を再現する事さえもまた嘘に糊塗されてしまう可能性が生まれるのだ。 2025年から2119年の94年という永いスパンで語られる本書は高度化する技術の果てしのない騙し合いがいつの世でも繰り返される虚しさを物語っている。歴史の証言者たろうとした者が遺した記録媒体は100年後では改竄が当たり前になった世の中で真実であることさえも疑われる。真贋を判定するソフトにかけないと情報の真偽でさえ、偽の画像がリアルすぎるがゆえに判断できなくなってしまっている。 これぞテクノロジーのジレンマではないだろうか。 我々は人々のニーズに応えて色んな物を生み出してきたが、それは果たして本当に正しいものだったのか?ニーズがあるからそれがいけないことだと知りつつも開発され、生み出された物もある。しかしそれを求める人間、いや発想し具現化する者がいる限り、このテクノロジーの果てしのない愚かなゲームは終わらない。 『ポジ・スパイラル』でも服部氏は地球温暖化を解決する新たなビジネスモデルを案出したが、それに伴う危険性もまた容赦なく提示した。そして本書もまた今までにないビジネスモデルを創出しながらも、それが行き着く虚しいまでの袋小路と警鐘を示した。 とにかくその想像力の豊かさゆえにその先を見通す眼力は只者ではない。これは恐らく同じことを考えている人々に対する警告と利用するであろうユーザーへの警告を促しているのかもしれない。 我々はどこに向かい、そして何を得るのか。本書を読んでそんな思いを抱いた。 |
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泥棒探偵バーニイ・ローデンバーシリーズ第5作目の本書では抽象画モンドリアンが事件の中心に据えられている。
4作目ともなるとシリーズキャラクターが定着して読者はローデンバーの住む世界に還ってきた気になり、物語にすっと入り込める。 レズで泥棒のパートナーでもあるキャロリン・カイザーを始め、前回の事件で知り合った画家のデニーズ・ラファエルソンも再登場し、端役だった前回とは違い、本書では絵画がテーマでもあって、かなり重要な役割を果たすことになる。そして腐れ縁の警察官レイ・カーシュマンももちろん健在だ。 さてそんな連中が一堂に会する本書の事件とは意外にもキャロリンから端を発する。 キャロリンの愛猫アーチーが何者かに誘拐され、バーニイはキャロリンの力になるうちにモンドリアンの絵を盗むことになる。そんな最中に巻き込まれるのがモンドリアンの絵の所有者であり、バーニイに古書の鑑定を依頼したオーダードンク氏の殺人容疑に、町の芸術家ターンクウィスト殺害の容疑だ。バーニイは実際にオーダードンク氏の住む難攻不落と云われるセキュリティ厳重のアパートメント、シャルルマーニュに、別の盗みで忍び込んだ経緯もあって、またもやバーニイは自分の真の犯罪を隠すために殺人の容疑を晴らさなければならなくなるのだ。 しかしそんな本書の事件の真相は実に複雑。蓋を開けてみれば名画を巡る贋作、また贋作が飛び交う名画詐欺の全貌が見えてくる。 そんな事件の間に飛び交うのはなんと6枚のモンドリアン。そのうち5枚は贋作で1枚が真作。その5枚はもうどこにどれが行ったのか正直完全に理解していないほど複雑に人から人へと渡っていく。 そして真作の1枚はどこへ行ったのか。それは本書を読んでのお楽しみだ。 しかしシリーズを重ねるごとに事件の構造が複雑になってきて、読者側も理解するのに最後の解決シーンではかなりの頭脳労働を強いられてくる。 それもそのはずで、本書のもう1つの楽しみは古書店主であるバーニイの特徴ゆえに随所に古典ミステリに関する薀蓄やウィットが散りばめられている。それらがクイーンだったり、カーだったりスタウトだったりと日本の本格ミステリファンにはお馴染みの名前や作品が上がってくるのだ。特に最後ではキャロリン自身がレックス・スタウトの作品みたいに“モンドリアンが多すぎる”と称するのには思わずニヤッとしてしまった。まさにこれこそが本書に相応しい題名だろう。 しかし泥棒バーニイにとって巻き込まれる事件は2件の殺人事件の冤罪とよくよく考えるとかなり重い内容となるのに、このバーニイの軽快さは一体何なのだろう。危機を危機と思わずむしろ嬉々として状況を愉しんでいるかのように思える。 事件が重なるごとに彼の状況はさらに複雑になってきているが、次回もまた泥棒の七つ道具を右手に、そしてユーモアを左手に持って我々に楽しい本格ミステリと物語を見せてくれるに違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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