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日本沈没
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【この小説が収録されている参考書籍】
日本沈没の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.31pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全109件 61~80 4/6ページ
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書店では手に入らないSF古典ですが、今のハイテクにも十分に耐える内容は凄いなあと思います。 | ||||
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「SF読み」というのは、つくづく便利だなと思う。 常々、歴史改変ものやスチームパンク等読んでいるために、ある前提条件のもとに組み上げられる思考実験としての「世界」を体験することに慣れており、 そのままどっぷりと作品に浸ることができ、作品に描かれる世界と現実との違い悩まされたりすることがない。 作品は、1973年に出版され、日本沈没が起きる時期を1970年代後半ぐらいと想定して作品が描かれているため、 そこには1970年代、執筆当初に、筆者が想像した「未来の日本」が描かれており、 それが、もう一つの本作品の読みどころで、東京駅の開発や、全国に張り巡らせるリニアモーター超特急の基礎工事に携わる技師などが作品に登場しているが、 そのあたりの現実とのずれを、読者としてはスチームパンクや、平行世界もののように楽しめるといいなと思う。 ただ、都市で起きる震災の雰囲気、地震を受ける瞬間や、被災者たちの心に起きる変化の描写が、 あまりにも現実に神戸や3.11の震災で起きたことに近いので、「予言の書」として本書を読んでしまう読者も多いと思う。 私自身、3.11の震災にあい、窓から石油コンビナートの燃える焔が天空を焦がすさまを見、震災直後からの食料を含めた物資の不足や、 突然の日常生活の断絶に喘いだものとして、東京湾に広がった石油に引火して海が燃えるさまや、津波で街に押し流されたタンカーが点々とビルの合間に転がっている様を描いた描写等、 作者が時空を超えて、未来に行き3.11の震災を取材して作品を書いたのではないかと思える描写に満ちており、 小松という作家の持つ「想像力のすごさ」を改めて確認することになった。 また、読者は、皇室を含む、一億人の人間をどのようにして短期間で海外に移住させるのというプロジェクトの描写において、 作者が披見する膨大な知識の量に圧倒させられるはずである。 そして、特に、この作品の白眉は、「エピローグ 竜の死」で、日本列島を竜に例えて描き出した日本沈没の様子の美しさと、 荘厳な悲しさ。。。 この部分を読むと、読者は、作家としては日本推理作家協会賞とSF関係の賞しか生前に受賞がなかった小松が、 文筆家として、いかに今日まで、過小評価されて来たのかを改めて確認することになるであろう。 是非、「エピローグ 竜の死」、を読んでください。 ここに、小松文学の全てが収められています。 | ||||
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本作品は「日本滅亡」のタイトルのもと、1964年、東京オリンピックの年に書き始められ、その後、膨大な取材を通して、 9年の歳月をかけて、1973年に完成させられているが、1960年代のはじめにおいては、「大陸移動説」は一部の科学者が述べた仮説に過ぎず、 その動力学的な機序がプレートテクトニクスへと発展していくのは1960年代後半以降ということを知ると、 小松は、1964年という極めて早い時期に、プレートテクトニクスの重要性に気付いていたことになり、その先見性の素晴らしさには驚かされる。 本書は、1973年に光文社カッパ・ノベルスより書き下ろしで刊行され、その年に計385万部発行され「空前の大ベストセラー」と評された。 プレートテクトニクス理論を、地震発生のメカニズムとして、一般的な国民が、常識として、議論できる国は、 世界中で、日本以外ではありえないが、大陸の運動を、国民すべてが等しく理解できるように啓蒙したということにおいて、 この作品の歴史的な役割は、極めて大きく、 まさに、日本の歴史に残る、記念碑的な「国民文学」であり、「SF作品」だということになる。 小松は、本書執筆の契機についてのインタビューで、戦争を体験していなかったSFを書くことはなかったと語っている。 「あの経験をいろいろ延長していくと、そういったものを書く文学はSFしかなかったんだね。だって一億玉砕だもんな」 「それはどういうことになるのかという疑問がずっと残っていたし、国土が全部占領されたのち、日本がどう生きるかってことも考えていいんじゃないかと」 「終戦までのたった一週間で広島・長崎で何10万人が死んだろ。その前に飢餓や空襲で、もちろん戦場で兵士がたくさん死んでいる。 つまり、どうしようのないクライシスが終わって生き残った連中は、どう責任をとるかということなんだ。死んだ人のためにね。 それが僕の14、5歳からのテーマだったんだな」 たかだか、上下2巻の長さながら、作品には、小松の知識、哲学、そして作家として使命感の全てが渾身の力で叩き込まれており、 作品に提示される、あまりに膨大な情報量のために、読了までに疲弊してしまったり、作品の細部を読み飛ばしたという読者も多かったのではないだろうか? 私は、3.11の震災後、これまで2回、本書を通読してきたが、 今回新たに、kindle版の書籍として、約一か月かけて、検索機能を総動員させて本書を通読してみたが、 以前の通常の書籍による読書では、内容を3割ぐらいしか理解できていなかったことに気付かされた。 作品に描かれる情報の中で読者を疲弊させるのは、地名を含めた固有名詞の多さであろう。 例えば、 田所博士は眼をあげた。床柱をはさんで、床の反対側が違い棚になっており、その奥の柱に瓢箪の一輪ざしがかかっていて、 小さな、真紅の花が、濃緑の葉を2、3枚そえて、ひっそり開いている。 「侘助--ですな.....」と、田所博士はつぶやいた。 という文章でも、「違い棚」や、「瓢箪の一輪ざし」、「侘助」をgoogleで検索すると、その画像が掲示されて文意が明確になり、 小松が描こうとした世界がありありと目に浮かぶようになる。 同様に、 日本列島の中央部には、もう一つ、フィリピン海盆中心の湧昇塊によって形成されつつあるマントル不連続線の前線弧が、 南方から北方にかけてクロスする。マリアナ=小笠原弧だ。前線弧にそって火山列島ができ、その地熱流の高い弓状線から、 西へ204、50キロはなれた所を、前線弧と並行して、地下400キロもの深いところで発生する、深発性震源帯が走っている。 富士火山帯は日本列島中央部でとまっているが、深発性震源帯は、日本列島をよこぎってさらに日本海の下をウラジオストックまでのび、 そこで東へ殆んど90度折れて、沿海州海岸に沿ってオホーツク海までのびている。 以上のような文章でも、「フィリピン海盆」「マリアナ=小笠原弧」「富士火山帯」「ウラジオストック」「オホーツク海」といった言葉が、 検索により、地図や図、写真で示されると、突然、目の前に日本をめぐるプレートの状況がはっきりと理解できるようになる。 どうだろうか、私と同じように、以前の読書では、あまりの地名や固有名詞の多さに読み飛ばしてしまっていた読者は少なくはないのではないだろうか? 地名や固有名詞をおさえると、特に第1章の日本海溝の深海のシーンや、第5章の列島の動きをシュミレーションしながら繰り広げられる 列島沈没を引き起こす機序の仮説が示される過程のもたらす緊迫感は、「ハードSF]ファンには心が震えるような喜びをもたらしてくれるはずである。 今回iPad上で読了したが、電子書籍とその周辺の環境の整備により、書籍の本文から、シームレスに言葉の意味、画像、動画、地図検索を行えるようになり、 まさに、野崎まどが「know」に描いた、人造の脳葉〈電子葉〉の移植が義務化された世界と同様のことが可能な社会に突入したと感じた。 その意味で、超情報化社会における読書として、過大な情報をぶち込んだ作品である本書で、 小松が「本当は何を描き、何を伝えたかったのか」、 作品が伝えようとしたものの真価が、多くの読者に理解される時代に突入したといえるのではないか。 本書は、今こそ、電子書籍として改めて読まれるべき作品なのだと思う。 是非、電子書籍として再読されることをお勧めする。 | ||||
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本作品は「日本滅亡」のタイトルのもと、1964年、東京オリンピックの年に書き始められ、その後、膨大な取材を通して、 9年の歳月をかけて、1973年に完成させられているが、1960年代のはじめにおいては、「大陸移動説」は一部の科学者が述べた仮説に過ぎず、 その動力学的な機序がプレートテクトニクスへと発展していくのは1960年代後半以降ということを知ると、 小松は、1964年という極めて早い時期に、プレートテクトニクスの重要性に気付いていたことになり、その先見性の素晴らしさには驚かされる。 本書は、1973年に光文社カッパ・ノベルスより書き下ろしで刊行され、その年に計385万部発行され「空前の大ベストセラー」と評された。 プレートテクトニクス理論を、地震発生のメカニズムとして、一般的な国民が、常識として、議論できる国は、 世界中で、日本以外ではありえないが、大陸の運動を、国民すべてが等しく理解できるように啓蒙したということにおいて、 この作品の歴史的な役割は、極めて大きく、 まさに、日本の歴史に残る、記念碑的な「国民文学」であり、「SF作品」だということになる。 小松は、本書執筆の契機についてのインタビューで、戦争を体験していなかったSFを書くことはなかったと語っている。 「あの経験をいろいろ延長していくと、そういったものを書く文学はSFしかなかったんだね。だって一億玉砕だもんな」 「それはどういうことになるのかという疑問がずっと残っていたし、国土が全部占領されたのち、日本がどう生きるかってことも考えていいんじゃないかと」 「終戦までのたった一週間で広島・長崎で何10万人が死んだろ。その前に飢餓や空襲で、もちろん戦場で兵士がたくさん死んでいる。 つまり、どうしようのないクライシスが終わって生き残った連中は、どう責任をとるかということなんだ。死んだ人のためにね。 それが僕の14、5歳からのテーマだったんだな」 たかだか、上下2巻の長さながら、作品には、小松の知識、哲学、そして作家として使命感の全てが渾身の力で叩き込まれており、 作品に提示される、あまりに膨大な情報量のために、読了までに疲弊してしまったり、作品の細部を読み飛ばしたという読者も多かったのではないだろうか? 私は、3.11の震災後、これまで2回、本書を通読してきたが、 今回新たに、kindle版の書籍として、約一か月かけて、検索機能を総動員させて本書を通読してみたが、 以前の通常の書籍による読書では、内容を3割ぐらいしか理解できていなかったことに気付かされた。 作品に描かれる情報の中で読者を疲弊させるのは、地名を含めた固有名詞の多さであろう。 例えば、 田所博士は眼をあげた。床柱をはさんで、床の反対側が違い棚になっており、その奥の柱に瓢箪の一輪ざしがかかっていて、 小さな、真紅の花が、濃緑の葉を2、3枚そえて、ひっそり開いている。 「侘助--ですな.....」と、田所博士はつぶやいた。 という文章でも、「違い棚」や、「瓢箪の一輪ざし」、「侘助」をgoogleで検索すると、その画像が掲示されて文意が明確になり、 小松が描こうとした世界がありありと目に浮かぶようになる。 同様に、 日本列島の中央部には、もう一つ、フィリピン海盆中心の湧昇塊によって形成されつつあるマントル不連続線の前線弧が、 南方から北方にかけてクロスする。マリアナ=小笠原弧だ。前線弧にそって火山列島ができ、その地熱流の高い弓状線から、 西へ204、50キロはなれた所を、前線弧と並行して、地下400キロもの深いところで発生する、深発性震源帯が走っている。 富士火山帯は日本列島中央部でとまっているが、深発性震源帯は、日本列島をよこぎってさらに日本海の下をウラジオストックまでのび、 そこで東へ殆んど90度折れて、沿海州海岸に沿ってオホーツク海までのびている。 以上のような文章でも、「フィリピン海盆」「マリアナ=小笠原弧」「富士火山帯」「ウラジオストック」「オホーツク海」といった言葉が、 検索により、地図や図、写真で示されると、突然、目の前に日本をめぐるプレートの状況がはっきりと理解できるようになる。 どうだろうか、私と同じように、以前の読書では、あまりの地名や固有名詞の多さに読み飛ばしてしまっていた読者は少なくはないのではないだろうか? 地名や固有名詞をおさえると、特に第1章の日本海溝の深海のシーンや、第5章の列島の動きをシュミレーションしながら繰り広げられる 列島沈没を引き起こす機序の仮説が示される過程のもたらす緊迫感は、「ハードSF]ファンには心が震えるような喜びをもたらしてくれるはずである。 今回iPad上で読了したが、電子書籍とその周辺の環境の整備により、書籍の本文から、シームレスに言葉の意味、画像、動画、地図検索を行えるようになり、 まさに、野崎まどが「know」に描いた、人造の脳葉〈電子葉〉の移植が義務化された世界と同様のことが可能な社会に突入したと感じた。 その意味で、超情報化社会における読書として、過大な情報をぶち込んだ作品である本書で、 小松が「本当は何を描き、何を伝えたかったのか」、 作品が伝えようとしたものの真価が、多くの読者に理解される時代に突入したといえるのではないか。 本書は、今こそ、電子書籍として改めて読まれるべき作品なのだと思う。 是非、電子書籍として再読されることをお勧めする。 | ||||
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本作品は「日本滅亡」のタイトルのもと、1964年、東京オリンピックの年に書き始められ、その後、膨大な取材を通して、 9年の歳月をかけて、1973年に完成させられているが、1960年代のはじめにおいては、「大陸移動説」は一部の科学者が述べた仮説に過ぎず、 その動力学的な機序がプレートテクトニクスへと発展していくのは1960年代後半以降ということを知ると、 小松は、1964年という極めて早い時期に、プレートテクトニクスの重要性に気付いていたことになり、その先見性の素晴らしさには驚かされる。 本書は、1973年に光文社カッパ・ノベルスより書き下ろしで刊行され、その年に計385万部発行され「空前の大ベストセラー」と評された。 プレートテクトニクス理論を、地震発生のメカニズムとして、一般的な国民が、常識として、議論できる国は、 世界中で、日本以外ではありえないが、大陸の運動を、国民すべてが等しく理解できるように啓蒙したということにおいて、 この作品の歴史的な役割は、極めて大きく、 まさに、日本の歴史に残る、記念碑的な「国民文学」であり、「SF作品」だということになる。 小松は、本書執筆の契機についてのインタビューで、戦争を体験していなかったSFを書くことはなかったと語っている。 「あの経験をいろいろ延長していくと、そういったものを書く文学はSFしかなかったんだね。だって一億玉砕だもんな」 「それはどういうことになるのかという疑問がずっと残っていたし、国土が全部占領されたのち、日本がどう生きるかってことも考えていいんじゃないかと」 「終戦までのたった一週間で広島・長崎で何10万人が死んだろ。その前に飢餓や空襲で、もちろん戦場で兵士がたくさん死んでいる。 つまり、どうしようのないクライシスが終わって生き残った連中は、どう責任をとるかということなんだ。死んだ人のためにね。 それが僕の14、5歳からのテーマだったんだな」 たかだか、上下2巻の長さながら、作品には、小松の知識、哲学、そして作家として使命感の全てが渾身の力で叩き込まれており、 作品に提示される、あまりに膨大な情報量のために、読了までに疲弊してしまったり、作品の細部を読み飛ばしたという読者も多かったのではないだろうか? 私は、3.11の震災後、これまで2回、本書を通読してきたが、 今回新たに、kindle版の書籍として、約一か月かけて、検索機能を総動員させて本書を通読してみたが、 以前の通常の書籍による読書では、内容を3割ぐらいしか理解できていなかったことに気付かされた。 作品に描かれる情報の中で読者を疲弊させるのは、地名を含めた固有名詞の多さであろう。 例えば、 田所博士は眼をあげた。床柱をはさんで、床の反対側が違い棚になっており、その奥の柱に瓢箪の一輪ざしがかかっていて、 小さな、真紅の花が、濃緑の葉を2、3枚そえて、ひっそり開いている。 「侘助--ですな.....」と、田所博士はつぶやいた。 という文章でも、「違い棚」や、「瓢箪の一輪ざし」、「侘助」をgoogleで検索すると、その画像が掲示されて文意が明確になり、 小松が描こうとした世界がありありと目に浮かぶようになる。 同様に、 日本列島の中央部には、もう一つ、フィリピン海盆中心の湧昇塊によって形成されつつあるマントル不連続線の前線弧が、 南方から北方にかけてクロスする。マリアナ=小笠原弧だ。前線弧にそって火山列島ができ、その地熱流の高い弓状線から、 西へ204、50キロはなれた所を、前線弧と並行して、地下400キロもの深いところで発生する、深発性震源帯が走っている。 富士火山帯は日本列島中央部でとまっているが、深発性震源帯は、日本列島をよこぎってさらに日本海の下をウラジオストックまでのび、 そこで東へ殆んど90度折れて、沿海州海岸に沿ってオホーツク海までのびている。 以上のような文章でも、「フィリピン海盆」「マリアナ=小笠原弧」「富士火山帯」「ウラジオストック」「オホーツク海」といった言葉が、 検索により、地図や図、写真で示されると、突然、目の前に日本をめぐるプレートの状況がはっきりと理解できるようになる。 どうだろうか、私と同じように、以前の読書では、あまりの地名や固有名詞の多さに読み飛ばしてしまっていた読者は少なくはないのではないだろうか? 地名や固有名詞をおさえると、特に第1章の日本海溝の深海のシーンや、第5章の列島の動きをシュミレーションしながら繰り広げられる 列島沈没を引き起こす機序の仮説が示される過程のもたらす緊迫感は、「ハードSF]ファンには心が震えるような喜びをもたらしてくれるはずである。 今回iPad上で読了したが、電子書籍とその周辺の環境の整備により、書籍の本文から、シームレスに言葉の意味、画像、動画、地図検索を行えるようになり、 まさに、野崎まどが「know」に描いた、人造の脳葉〈電子葉〉の移植が義務化された世界と同様のことが可能な社会に突入したと感じた。 その意味で、超情報化社会における読書として、過大な情報をぶち込んだ作品である本書で、 小松が「本当は何を描き、何を伝えたかったのか」、 作品が伝えようとしたものの真価が、多くの読者に理解される時代に突入したといえるのではないか。 本書は、今こそ、電子書籍として改めて読まれるべき作品なのだと思う。 是非、電子書籍として再読されることをお勧めする。 | ||||
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初版本の印象が懐かしくこの度購入したが、作者の深い造詣と優れた科学に対する感受性は今も十分にキャッチ出来、少しも古くない点に驚かされ大変満足出来た。 火山活動の頻繁な当節、再読する価値は十分にある。 | ||||
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作者の想像力は凄いです。まるで今の日本です。作中では、箱根、大室山、浅間山。とにかくすべての火山が大地震と共に次々に噴火します。ある小島がたった一日で海に沈んでしまった事件から物語は始まります。現実に、ほら、日本の近海で、島がどんどん大きくなっているじゃないですか。まるで日本の未来を予言しているようで、怖くて下巻が読めません。上巻には原発の件は描かれていませんが、使用済み核燃料と共に本当に日本が沈んでしまったら、世界の沈没です。人類の未来を望むなら、一日も早く原発は止めるべきだとの思いを新たにしました。救いは、なんとか最悪の事態を食い止めようとする人々が描かれていることです。小松左京さん、最高です。 | ||||
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もはや古典的作品となった本書である。内容に文句などあろう筈がない。阪神大震災後20年と いう区切りの年、何となく原典回帰ムードが沸き起こって、40年前の大ベストセラーをもう一度 読み直そうという気になって購入。 折角だから、やはり当時何処の書店に行っても大量に平積みされていたカッパ版が良いと思って 敢えてカッパブックスを探していたら、これだけ商品評価「良い」となっていたので上下巻まとめて 購入した。 処が、やはりというか。経年変化甚だしく、とても手に出来るようなレベルではなかった。「可」 でもちょっと、というレベル。これは出品できる水準ではなかったという事で、商品レベル-7★、作品 評価5★という事で差引★2つ。この作品でなければ★ゼロどころかマイナスだったところだ。 やはりカッパノベルス版は無理か。とんだノスタルジイだったかもと反省。 | ||||
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作者の考えたというか、望まれたと云うか、日本沈没は、始まりました。 御嶽山の爆発、阿蘇山の爆発。 ここに書いてある通りに、今後、展開すると思います。 自分がこの災害から逃れるために、役立つかもしれません。 | ||||
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阪神大震災や東日本大震災を経験した今、改めて作者の被害予測が恐ろしいほど似通っていることに身震いした。 | ||||
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初めて読んだのですが、40年以上前に書かれたものとは、とても思えませんでした。自然の脅威という点だけでなく、社会情勢、国際情勢に関しても、実に予言的です。 これだけのビジョンが小松左京という独りの人間の頭脳から産み出されたのだと思うと、その天才振りに震撼すらさせられます。 | ||||
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日本沈没の初版を購入したのは高校生のとき。 もう40年近く前のことになる。 その内容は改めて語るまでも無いが、初版とまったく同じ装丁の本書が新品で手に入るとは思ってもいなかった。 この表示イラストを見ただけで、初めて本書を読んだときの衝撃と興奮が蘇ってきた。 | ||||
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上巻と共に、シンプルながらも日本沈没を象徴的に示す装丁がすばらしい。 もう手に入らないと思っていた初版が入手できたことはありがたい。 | ||||
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映画で観た為、まだ未読である。そのうち暇ができたら、読もうと思っています。 | ||||
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映画で観た為、まだ未読である。 そのうち暇ができたら読みたいと思う。 | ||||
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ある書評で「日本沈没 第2部」が挙がっていた。そんなのあったんだ、と思って、本書を読んでみた。公的図書館からの借り出し。借りた本の奥付では、初版からたった半年なのに300刷オーバーという、とんでもないベストセラーだったと実感した。1973年の映画をリアルタイムで観た年代だが、小説はエピローグの数頁しか読んでいなかったことを思い出した。 内容は非常に濃く、読後に疲労感を覚えた。前半は冗長な印象で、こんなストーリー削れば?と思うところもあった。しかし、第4章あたりからのスピード感は半端でなく、一気読みをしてしまった。ところどころ挿絵が入っているが、今時のラノベかと突っ込んでみたくなる。 国家の位置づけが、今とは大きく変わっていること、当時の脅威はソ連であり、中国はソ連を牽制する位置づけだったということを知った。そういえば当時は、常任理事国は中華民国だった?? それに比べて、地球全体は今でも同じ現象で説明できるという、スケールの違いを実感した。 もう一つ、こういった災厄に対して、小説では日本人は略奪に走ったりパニックに陥ったりした描写が見られたが、その後に発生した、少なくとも2つの大震災では、実際の日本人は全く違う反応だったなと、日本人の特殊性(?)を改めて認識した。 小松左京が著した「災厄」小説では、本書も素晴らしいが、やはり「復活の日」が最高と思う。 | ||||
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この作品に勝るリアリティを持った大地震・大災害小説には、まだ出会ったことがない。それほどインパクトが強くて、しかもきわめて現実に近い状況が書かれている作品。 描写が、災害時の人間関係だけに偏ることもなく、その災害から逃げだす描写だけに偏ることもなく、その後の描写だけに偏ることもない。もちろん主人公はいるのだが、その人間の描写だけに偏ることもないので飽きが来ない。登場人物それぞれの人生や背景までしっかり書かれているからだ。 大災害の前触れを、日常生活の中からじわじわと描き、その背後で、すでに動き出している国の対応策を描き、最初の大地震や大噴火を描き、来るべき悲劇的な結末を何とか最小限に抑えるために、しかも国民にはまだオープンにできない状況の中で国際的に対応を始めている人々を描き…。そして、破滅的な大災害の頻発…。気がつくと物語の世界に没頭し、これが現実だったらどうしようとまで思わせてくれる。まさに近未来SF小説だと思う。 | ||||
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東日本で未曾有の大地震と大津波が発生し,西日本においても,もういつ何時南海沖地震が発生してもおかしくないと言われる現実の現代社会。 もはや本書にかかれた内容のすべてが骨董無形であり得ないことだとは言いきれないような状況にある今,本書は今こそ読まれるべき作品だと思います。 もちろんこの作品中に起こる現象(日本がまるまるすべて沈没してしまう)がそのまま現実になるとは思いませんが,現実にそうなったときの状況やその立場に置かれた際の自分といったものが,今だとリアルに想像することができます。 たとえばこんな描写があります。 「被災地の中心部においては,人々はきわめて冷静だった。一つは一瞬の間に降りかかった大災害が一過したあと,ぽかんと憑きものが落ちたようになり,妙に平静な気分になってしまったからだ」 危機的状況にもかかわらず,暴動や略奪行為などが発生しなかった東日本大震災の際の東北の人々の振るまいは,世界の賞賛を浴びましたが,まさしくその状況を予測したような描写です。 そしてこれはもう立ち直ることはできないのではないかというほどの危機的状況においても,人間はしぶとく再びやり直すことができるんだという力強い想いが込められています。 また危機的状況を想定した政治のあり方についてもふれています。 「情勢の展開を待っていては遅すぎると思うんだ。むしろ客観情勢がおのずとそれを要求する以前に,趨勢を先取りして手を打つのが,それが政治じゃないかね。早すぎるための多少の犠牲や軋轢は覚悟の上で,かなり強引にレールを敷いていくのが,結局は日本のために,犠牲を少なくすることになるのではないかな。それが政治ってものだろ?」 日本を影で動かしてきた有力者である老人の言が象徴的です。 「これは日本民族が,否応なしにおとなにならなければならないチャンスかもしれん・・」 | ||||
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東北大震災から、僅か1年半。だからこそ地震大国の日本を見直そう。 東北を襲った悲劇。語りつくしても語りつくせない。それは当事者達、 ニュースを見、知った現状の僕ら。 そしてメディアが、想定される東海大地震、南海大地震。 それよりも、阪神淡路大震災からまだ20年も経過していない現実。 東北を覆う悲しみが、20年の時を経て再び大震災とならないか? 推定よりも、起きた現実を考えると不安になる。 SF『日本沈没 』は当時からも、有り得ると科学者が口を揃えた絶賛小説。 もし、仮に日本沈没が起きて生き延びた僕らが行き着く宛てはと 考えると目の前が真っ暗になる小説だ。 郷土と言うよりは祖国が喪失すると考え方で捕らえた方が良い小説だ。 この本がドラマ化された時、戦々恐々と観ていた覚えがある | ||||
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東日本大地震で何度も耳にした言葉は「想定外」であった。改めてもう一度読み直す気になった。フィクションの世界と言え、この小説を読み直すまでは、私にとっても、この大変動は本当に想定外のことだった。「あり得ない!」 しかし上巻を読むにつれ、ここに登場する科学者たちは(敢て一部の学者と言うが)日本のはるか南の海上に起こったわずかな変動を見逃さず、追求し続け、ついにあり得ない全くの想定外の「日本沈没」という現象を、完全に「想定内」の現象としてしまった。そして、想定しきったことに対し、日本の政府が国民に与える動揺を極力抑えつつ、密かに準備を進めていく。準備と言っても、1億2千万の人間を日本から脱出させる作業である。その苦難に満ちた過程が第1部の上巻である。 そして、下巻では、その想定したことが現実になってしまう。たとえどんなに想定し、準備を進めていたにせよ、それでも「想定外」のことが起こってしまう。いや自然の力の大きさにはその想定すら許さない。まるで人間の浅はかさをあざ笑うが如しである。 私は今この小説を読み終えて、改めて特に原子力発電に携わった人々(科学者、技術者、経営者、管理者、政治家そのたありとあらゆる人々)に、自分も含めて、「一体何を想定していたのだ!」と問いたい。お前たちは、何の根拠もなく、「原発は安全だ。何も起こらない」ことだけを想定していたのではないのか? 今からでも遅くはない。日本中のすべての人々にこの小説を読んで戴きたい。 この小説には、未だ重要な視点が抜けている。それは原発に係ることが一切触れられていない。小松左京さんがまさか電力会社の圧力を受けて逃げたとは思いたくない。 若し原発問題があったら、この災害に対する世界各国の対応も自ずと異なっていただあろうし、日本沈没後の第2部の展開も全く異なるものになっていたであろう。 このような弱点(小松左京氏に甚だ失礼とは思うが)にも拘らず、東海、西南海大地震が必然と言われている今の時点で、非常な現実性と導きを我々に示唆するSF小説である。これは、SFではない。Non Fictionだ。 そして、そこから、真摯に現実を見つめる姿をくみ取ることが出来れば、日本にもまだ救いがある。 | ||||
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