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スプートニクの恋人
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スプートニクの恋人の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.94pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全188件 81~100 5/10ページ
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ぼく・すみれ・ミュウ。このメインの登場人物三人は、それぞれ孤独を抱えている。 ぼくはすみれのことが好きで、すみれはミュウのことが好きで、ミュウはすみれのことがちょっと好き。 でも、それぞれはすれ違い続ける。結びつけば楽なのに、孤独ではなくなるのに、くっつきそうでくっつかない。 何かが起きそうで起きない、終始、切なくもどかしい。 なのに、おもしろくてすらすら読めてしまう不思議な小説。 荒野の中に一人いるような誰からも孤絶した孤独ではなく、 友達はいるけど、孤独。セックスフレンドはいるけど、孤独。夫はいるけど、孤独。 この「軽い孤独」が現代にあっているのかな。 舞台のギリシアの描写もとてもいい。孤独だけど。 | ||||
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この物語に登場してくる人物は、主に僕とすみれ、そしてミュウだ。 アンバランスな人物ミュウの出現により、僕とすみれの運命は巡り出す。結果僕とすみれは成長し結ばれるのだが、ミュウは… 私は三人の中でミュウに一番自分を重ねてしまいました。 喪失や不全を抱えているために、自分にはこれ以上望むべくもない何か… ミュウという存在は僕とすみれを再び巡り会わせる為のトリガーに過ぎなかったのでしょうか。 とはいえ、若い男女がささやかだけれど真の絆を見つける事が出来たのだから、素敵な物語だとも思いました。 二人の絆の結合が地球を、ミュウがスプートニクを現しているのかな、と私は解釈しました。 「素直に生きる」というのは、なんて孤独で儚いのでしょう。 | ||||
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日本人離れした巧みな比喩とユーモアが全編を覆っている。どのページを無作為に開いても気の利いたセンテンスが必ずあって、これらは翻訳によってスポイルされることがないだろうから、村上春樹があらゆる言語で愛されている理由のひとつになっていると思う。 彼が大きな影響を受けたトルーマン・カポーティも比喩の巧みな作家だった。そして、本書に出てくる女性すみれは、カポーティの『ティファニーで朝食を』の主人公ホリー・ゴライトリーに少し似ている。ホリーが自分の名刺に「トラヴェリング(旅行中)」と刷っているように、すみれは家の留守電に「旅行中です」とメッセージを吹き込んでいる。すみれは同性のミュウを「スプートニクの恋人」と呼ぶ。スプートニクは英語で「トラヴェリング・コンパニオン」の意味。ふたりは文字通り、長い旅行に出かける。 ギリシャのある島の別荘で、引き上げるタイミングを計って「わたしとしてはいつまでもこうしていたいけれど」というミュウに、すみれが答える台詞が暗示的だ。「でも仕方ないわね。すてきなことはみんないつか終わるもの」 断定的なことをいうと熱烈な春樹ファンに怒られるかもしれないけれど、これは「トラヴェリング」の小説であり、トラヴェリングとは「揺らぎ」なのだと思う。ドッペルゲンガーやパラレルワールドの描写を幻想譚としてとらえることもできるが、僕は人間が持つみずみずしい(そして厄介な)揺らぎを描いているのだと読んだ。 物語の語り手である「ぼく」は、本や音楽を最良の友として、とりたてて寂しさも感じず、「人間というのは、結局のところ一人で生きていくしかないもの」と諦観していた。それが、すみれに会い、「ひとりぼっちであるというのは、ときとして、ものすごくさびしいことなんだって思うようになった」。ここにも人生の「揺らぎ」、魂の「トラヴェリング」がある。 「ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさんの水が海に流れ込んでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ」。村上春樹を読む喜びと哀しみは、こうした比喩にこそある。 人生は何度でも揺らぐ。そのたびごとに、僕たちは出会いや別れを繰り返し、理解や共感や諦観や寂寥を味わう。決して同じところにはとどまれない。とどまりたければ、ひとつの夢を延々と見つづけるしかない。 「ぼくらはこうしてそれぞれに今も生き続けているのだと思った。どれだけ深く致命的に失われていても、どれほど大事なものをこの手から簒奪(さんだつ)されていても、あるいは外側の一枚の皮膚だけを残してまったく違った人間に変わり果ててしまっていても、ぼくらはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ。手をのばして定められた量の時間をたぐり寄せ、そのままうしろに送っていくことができる。日常的な反復作業として――場合によってはとても手際よく。そう考えるとぼくはひどくうつろな気持ちになった」。生きていくとは、そういうことなのかもしれない。 | ||||
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これ、一番完成度が高かった気がします。 てか、今がこれ? すごくよくわかるよ。 ある種の人間にとっては救いになる場面があります。ある映画で私も救われましたが、ああそういえばこの作品でも救われてた、と思い出しました。 出逢って良かった一品でした(^-^) | ||||
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この本の題名に、主人公とその想い人の名前を挙げるのではなく、第三者を使っている事がおもしろい。 でも、読んだ後に印象に残っているのは、あの奇妙なミュウのイタリアでの経験と、その後のミュウ。 彼女は、主人公とすみれが、社会を遠く感じているよりも、もっともっともっと遠くに感じているのではないかな?と思う事ができる。一番悲しいのはミュウ。 ミュウは、あっちの世界ととても近い所にいる。 かろうじて生の世界に残って繋がることのできた二人、主人公とすみれ。 すみれはミュウに惹かれた。ミュウが、その消えてしまった猫に惹かれるように。 主人公が、ギリシャの小島ですみれが小さな井戸に落ちて出られないのではないかと心配したように。 しかし、すみれは、生と死の世界をダイナミックに行き来して、結局主人公の前に姿を現す。 ミュウのストーリーがあれば、読みたい。 なぜ彼女はそうなったのか? とても不吉でした。 | ||||
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発売当初に読んで捨ててしまって、また読みたくなって再購入。 あまり好きではない部分はそのままなのですが、全体の印象は少し変わりました。 こういうのもいいのではないか、と。 あまり村上春樹が好きではなかったけど、ほかの作品も読み返してみようと思います。 | ||||
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人は孤独として生きるしかない。得たと思ったものも、いつのまにか失われ静かにいなくなったことを告げてくるだけ、という非実在論的主張。孤独であるが故に、自身の問題と向き合い、「己の真の、隠されたる力を知ることとなる。」これは孤独に対する諦観か。「ぼく」と「すみれ」と「ミュウ」の3人の、交わったと思うと離れる、孤独がテーマの物語。題名は「スプートニク」の方が合う気がしてならないが、わからない。「理解とは、誤解の総体にすぎない」のだから。 | ||||
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この物語のタイトルである「スプートニクの恋人」。 スプートニクは、永遠に交わることの無いぼく・すみれ・ミュウの存在を示唆しており、 なんとも切ない気持ちにさせられる。 すみれという人物の描写から幕をあけるこの物語は、とても幻想的で不思議な話しだった。 現実と幻想が交差し、村上作品に慣れていないという点では多少理解しづらい部分もあったが、 読了後には何とも言えない喪失感を感じ、夢を見ていたような気分にさせられた。 「ぼくはもう二度と、これまでの自分には戻れないだろう(中略) 夜が明けたら、今のぼくはもうここにはいない。この身体にはべつの人間が入っている。」 島を後にした主人公の言葉だが、この部分は非常に私にとって孤独を感じる部分であり共感できた。 何かを失った時、過去の自分が現在とは全く別の人間であるように感じ苦しくなる。 周りから見ればいつもとなんら変化が無く見えても、実際は抜け殻なのだ。 読了後もずっと気になっていることは、あちら側の世界は一体どこにあるのか、 すみれとぼくは本当に再会することが出来たのか?ということ。 とにかく幻想的な物語だった。 | ||||
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世界から一歩ひいた雰囲気のある二十代半ばの「ぼく」が物語の主人公だ。 彼が片思いしている「すみれ」とは、不思議な友人関係が続いている。 小説家を目指している突拍子ないすみれだったが、彼女が初めての恋に落ちたのは年上の女性だった。 すみれが想い人につけたスプートニクの恋人というあだ名が物語のキーワードになっている。 精神的な話と現実的な話の絶妙なミックスって村上作品の特徴のひとつだと思う。 特に今回は井の頭公園とか出てくる場所が自分の生活圏とかぶっているので余計に現実的に思えた。 だからこそ最初にこの物語を読んだときには、ストーリーの非現実的なところが気になってよくわからなかった。 しかししばらくたって読み直したとき、感覚が遊離しているような不思議な感覚があった。 自分という殻の中に確かに存在するひとつの世界を認識させられた。 それを誰かと共有できると思うことが幻想で、実際にはスプートニクのように何もない空間に浮いているかのようなものなのだろう。 入ってくるのは通信の断片でしかない。 そばにいると思っていても、たまたま軌道が交わっただけにすぎない。 空虚感なんだけど、ラストにそれだけじゃないものがあった気がする。 | ||||
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まず、最初に言えば、これは恋愛小説ではない。 恋愛を通じて、途方もない喪失を描いていく小説であって、主題は喪失のほうにある。 内容を読めばわかる事だが、主題からして、ぴったり寄り添うことができないということを物語っている 物語の構造は「向こう側」と「こちら側」の二重構造で描かれ、その分離に巻き込まれるという複雑かつ不気味な物語だ。 これは村上氏が一巻して扱ってきたテーマであって例えば1Q84は月が二つある世界が向こう側で、世界の終わりとハードボイルドワンダーランドは、やみくろの住む世界(もしくは脳内の一角獣の住む世界)が向こう側、ねじまき鳥でも、ダンス・ダンス・ダンスでも、海辺のカフカでもそういう「向こう側」にいったりきたりする。 そのこと自体を良い悪いと言っても仕方ないし、その構造解説は「村上春樹を読みつくす」に詳しいのでそちらを参考してほしい。 主人公はその二つの世界の狭間で好意をよせた女性すべてをただなすすべもなく失っていく。 このなすすべもなく、というのが本作が不人気な理由なのではないかと思うのだが、本当に主人公は何もしない。 ただその場に出向いていって、泣いている人、苦しんでいる人を慰めるだけだ。 だから喪失の物語であって、恋愛にもなっていない。 その喪失は、独特の比喩と独特の文体で、上手に描かれてはいるけれど、ここまで放棄してしまってはたして文学としてどうなんだろう?とさえ思う。 すみれも、ミュウも、ガールフレンドもその後、会おうとも、探してもいない。ぴったり寄り添わない物語だから、と言うにはあまりに無責任ではないだろうか。 登場人物としても、物語としても。 ということで★3つです。 | ||||
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中盤から速読してしまいました。 まともに読んでられる代物ではありません。 お金と時間の無駄です。 | ||||
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私の文章力では皆さんのようにうまく表現できませんが、村上作品の中で一番好きです。 ラストのすみれと主人公の会話のシーンがとてもせつなく、何度読んでも身体のどこかが震えます。 きっと死ぬまで何度も読み返すと思います。 | ||||
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高校生の頃に読んで以来、久しぶりに読んでみた 印象的な場面が多く、読んだ後に心に残る 前に読んだ時は、ミュウの観覧車の場面が印象的で、ドキドキして読んだのだか、あれから8年経って読んでみると、そういう非現実的な世界よりも、日常のエピソードの方が心にしみた 特に、担当の生徒が万引きをした後でその生徒、にんじん、に自分の子供だった頃の話をする場面で、ひとりごとの様に自分が感じている事を話し、にんじんが万引きした鍵を渡した場面が印象的で、何か(上手く言葉には出来ないのが、もどかしいのだが)を象徴している様な気がして心に残った もしかしたら、にんじんは、主人公が子供だった頃のもう一人の自分、今でも心のどこかには存在しているもう一人の自分、に重ねて話していたのかもしれないな、と思った。 そして、もう一人の自分も、今の自分の状況を、ある程度受け入れ、心を赦してくれたのなら、良いなと思った 多分、これからも何度も読み返して、その度に色々な事を考えたくなる作品だ | ||||
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この小説の根底に流れているテーマ、それはやはり“孤独”だろう。 このテーマは、「軌道をひとりきりで周回し、近くに仲間がいても決してお互いに触れ合うことは無い人工衛星」に投影されていると感じられる。 「人はひとりで生まれ、そしてひとりで死んでゆくもの」と言われることがある。 これは“人は本質的に孤独な生き物である”ことを意味している。 賑やかな街に生き、多くの人と関わりあいを持ち、幸せに生きていくことに慣れすぎると人は、人が孤独な生き物であることなど信じられず、又、 例えそれに薄く気付いていたとしても、人は皆、それを忘れてしまう。 本作は、主として僕とすみれ、そしてミュウの3人の関わり合いの中で生まれるドラマが話のスジになっている。 彼らはそれぞれお互いが、密接に関わりあっているようでいて実はその繋がりは頼りないほどに細く、薄く、そして切ない。 この作家独特の文体及び表現が、後を引く読了感に繋がっています。 万人向けの作品とは思えませんが、典型的な独特の比喩や人物描写や表現などがこの作品にも随所に散りばめられており、村上春樹を知る 上では非常に良い作品だと思います。なぜなら、この作品は(特に、初期の)作者の完成形のひとつともいうべき作品であるからです。 (補足) この作品もそうですが、多くの村上作品の場合(違うものもある)、作品の中でおこる事件や事象、そしてそれらの繋がり自体のリアリティーは さして重要ではなく、むしろそれらの物理的な矛盾に捕らわれたり、突飛さに疑問を抱いてしまったりすると恐らく、一番の主題・本題を見失う 結果となります。(従って、リアリティー重視で物語を楽しむ読み方をされる方には、多くの場合、不向きな作家だと言えるでしょう。) それらの事件や事象に対して人物がそれらをどう考え、精神的に理解し受け入れようとするのか、そして人物同士がその事件・事象を通して “精神的な意味で”どう繋がっている/繋がっていくのかこそが、作品にとって最も重要な生命線なのです。 事件や事象などリアリティー部分だけに注目して物語として読んでも“なんか変な物語だよね?”程度の疑問はありながらも一応の読了はできますが、 描かれている人物同士の精神的な結び付きや心の奥底の動きまで理解して読めるようになると(村上作品が“難解”と言われているとすれば、まさに この部分のことでしょう。合わない方には全く理解できないはずです。)作品の根底に流れる孤独や陰鬱さを一層、強くそして深く感じるようになります。 非常な寂寥感や空虚感、そして切なさを伴うことの多い村上作品(特に初期の作品)は、私は実はかなり苦手であまり好きではありません。少なくとも 何作も続けて読むことは耐え難く憚られるのですが、各作品が訴えかけてくるものは非常に強く、それは決して心地良い物では無い乍らも何故か確かに 魅力的で、結果としてこれまで数多くの村上作品に触れてきています。 (個人的には、“どう考えても好きではないのに何故か強く魅かれる・・・” といった矛盾を抱える唯一の作家が村上春樹なのです。) 村上春樹の作風は、どちらかといえばあまり一般に広く受け入れられるはずのものでは無く、現在のバカ売れの状況は“本来、それを受け入れられる 素地のある人達”以外の非常に多くの人達に支えられてのものであると思います。 多くは宣伝戦略の大勝利とも言えますが、やがて、本来の形に落ち着くだろうと思っています。もちろん、“受け入れられる素地”があるかどうかは、 読み手が優れているかどうかの問題では無く、単に“合うか、合わないか”の問題です。 | ||||
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前半の、僕とすみれの出会い、すみれとミュウの出会いでは、淡々とした始まりからすみれとミュウが親しくなるにつれて、僕とすみれとの関係がより深くなっていきます。そして、すみれとミュウが海外に出かけることで、新たな出会い、つまり、僕とミュウが出会うことで、話は大きく展開します。僕やすみれと同じ程度、あるいはそれ以上にミュウのことが全体の大きな割合を占めるようになることで、ストーリーはどんどん大きくなっていき、惹き込まれていきます。 3人の中で最もしっかりしていると思っていたミュウが、実は壊れていた人物であったり、すみれは心配していたけど、案外確り生きていたりと、ストーリーの意外性が興味を引きます。 でもでも、最後にミュウは死ななかったし、すみれも僕の所に戻ってきたのですが、本当にそうなのか、村上ワールドだから非常に気になります。最後にすみれが戻ってきたシーンでは、「あー、戻ってきて良かった」という感情は湧かず、「何故こういう結末にしたの?」という疑問で一杯になりました。 実は、僕がすみれがこちらの世界に戻ってきたと誤解をしていて、ミュウもすみれも既にいなくて、僕が『あちらの世界』に行ってしまって、その結果として、ミュウを見かけ、すみれと話したのではないかと考え込んでしまいます。それから、何故僕は先生である必要があったのだろうと疑問です。にんじんは今頃どうしているんだろうなぁ。僕のアドバイスで立ち直ったのだろうか。。。 | ||||
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1999年、私はこの本の発売日に、この本を購入し、そして、途中でやめました。 それはすみれが私と年が少し近く、私も精神的に大人ではなかったために、読むことが苦しくなってきました。 でも、ふと、昨日、本の整理をしていて、読んでみようと思ってページを開くと、あっという間に1日で読めてしまいました。 とても、ミステリアスな物語ではあるけれど、心に深く染み入る話しだったと思いました。 とても、面白く、深みがあり、やさしくて、かなしくて、弱くて、そして強い、そういう生きていく手がかりになるような物語だったような気がします。 あの、買った日に、読んでおけばよかったなぁとおもいました。 | ||||
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途中、退屈に思いました。すみれの文章の辺りです。しかし、その後、一気に盛り上がり、読後感は非常に心地良いです。世界の一人一人の人生がより大切に感じられました。それぞれの人間関係がかけがえのないものだと感じさせてくれました。途中の退屈ささえも”人生の中には退屈な面もあるけど、それもひっくるめて全て大切だ”と思わせてくれました。終わり方も好きです。自分にとっては、最高のハッピーエンドだと感じました。村上春樹さんの作品群は、他の方々とは違うものを感じさせてくれます。奇をてらうのではなく、ショッキングな事が起こるのでもなく、技巧だけに走るのでもなく、さりげなく、人生の深さを感じさせてくれていると思います。これからも読んでいきます。 | ||||
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村上春樹さんは、2010年もノーベル賞受賞できませんでしたね。もはや、「受賞するかしないか」ではなく「いつ受賞するのか」というレベルで語られるほど作家としてあまりにも有名すぎるため、辛口の批評も多くなりがちです。でも、この作品は村上春樹作品のなかでは、どちらかというと万人受けしやすいストーリーとラストなのでは。明示されてはいないけれど、「救い」を感じさせる終わり方だと思いました。 | ||||
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気になるのはすみれの所在/不在だ。責任ある回答は次のようなものであろうか。 'すみれは海岸で猫を追っていくうちに、係留されている漁船の船倉に閉じ込められてしまう。漁船は出港してしまう。帰ってきたのは数ヵ月後だった。 'すみれは海岸で瀕死の老婆に出会う。世話を焼いているうちに老婆の家族の住む大きな家から離れることが出来ずに数ヶ月を過ごしてしまう。 | ||||
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こういうストーリーはアリだと思うが、物語序盤の指針と、実際の結末と、文庫版裏表紙煽り文句の齟齬が少々気になった。「これはすみれの物語であり、僕の物語ではない」と五章冒頭で断っておきながら、結局中盤から終りにかけてほぼ"僕"の物語になってしまった気がする。"すみれ"が"スプートニクの恋人"に対して抱いたという強い恋心も、中盤以降はこの作家の好む「お決まりのストーリー展開」および「存在の虚実・正閏に関する小理屈」に紛れ、用を為さなくなってしまったように見える。少なくとも「ラブ・ストーリー」ではない。むしろ「恋愛を道具のひとつとした存在論ストーリー」でありましょう。「ラブ・ストーリー」なら、最後まで主に恋愛という要素を通して人間を描くように思われるから。 | ||||
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