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スプートニクの恋人
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スプートニクの恋人の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.95pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全190件 61~80 4/10ページ
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| 私事だけれども、ぼくはしばらく小説とは遠ざかっていて、ぼくの読書はここ数年来、岩波文庫の青帯のような、思想系の本に偏っていた。それでも、昔熱心に読んでいた村上春樹を再読したいという思いはもう五年くらい続いていて、何度も村上春樹を再読したいと思いつつも、それを実現できないことで、フラストレーションを感じていた。いちばん目立つ机の本棚には岩波文庫の青帯を並べていたけれど、それを丸ごと、村上春樹の本と交換した。村上春樹の文庫本だけで30冊、あるいは40冊くらいあるだろうか。自分の視界の真ん中に村上春樹の本がずらりと並んでいるのを眺めているだけで、満足感、充実感のようなものを覚えた。 そして、前置きが長くなったけれども、まずこの『スプートニクの恋人』から読み始めた。今回で通読は三回目くらいだ。ぼくはこの本の内容全体についてまとまったレビューを書くことは、少なくとも現時点ではできない。けれども、今回久し振りに小説というものを一冊読み通してみて思ったのは、混沌たる、不条理な現実を前にして、安易に白黒と結論をくだすのを先送りにして、ただ観察することに徹することは、とても大切なことだし、こうした能力は、小説を読むことで鍛えられるのではないか、ということ。 本書の主人公の「ぼく」は、「あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある。それがぼくの経験則だ。誰かが言ったように、一冊の本で説明されることなら、説明されないほうがましだ。つまり僕が言いたいのは、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということだよ」と言っている。また、村上春樹の『約束された場所で』のなかでは、「現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです」、「そして一見整合的に見える言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除できたと思っても、その排除された現実は、必ずどこかで待ち伏せしてあなたに復讐することでしょう」と言っている。 また、最近読んだ鷲田清一の『哲学の使い方』(岩波新書)という本にも、これと同じ問題について書いてある。 「さらにそれは、すぐにはわからないことにわからないままつきあう思考の体力といいかえてもいいし、すぐには解消されない葛藤の前でその葛藤に晒されつづける耐性といってもいい。 というのも、個人生活にあっても社会生活にあっても、大事なことほどすぐには答えが出ないからである。いやそもそも答えの出ないことだってある。だから、人生の、あるいは社会の複雑な現実を前にしてわたしたちが紡ぐべき思考というのは、わからないけれどもこれは大事だということを見いだし、そしてそのことに、わからないまま正確に対処することだといってもいい。」(鷲田清一『哲学の使い方』、岩波新書、p64) ともあれ、この『スプートニクの恋人』を読み通して、こうした「思考の肺活量」を身につけるためには、小説をたくさん読むことが大切だということがわかった。ぼくがしばらく思想、宗教の本、例えば西田幾多郎、鈴木大拙、木村敏などを熱心に読んでいたのは、かつて自分の置かれていた状況、いま自分の置かれている状況を言葉で理解したいという思いからだった。実際、自分の体験を言語化するために、こうした思想、宗教の本を読む時期は、ぼくにとって必要だったのだと思う。 以上、自分語りが過ぎたな、と反省してはいるが、結論として、個人的に、この小説を読み、混沌とした不条理な現実を前にして、結論を出すのを先送りにして、ただ観察を続けるというような「思考の肺活量」を身につけるために、小説をたくさん読むことは有用なのだということを、改めて感じたということが、ぼくの言いたかったことだ。 | ||||
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| すでに以前購入していて電子書籍化してあるのですが、やはり紙媒体で持ち歩きたいとおもい購入。ところが間違えて単行本を買ってしまい結局無駄になりました。ネット購入の落とし穴。最後に購入ボタンを押すときに再度よくみることが大事ですね。 | ||||
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| GOODGOODGOODGOODGOODGOODGOODGOOD | ||||
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| 村上春樹さん、あんまり好きじゃないけど二作目読んでみた。一作目は何だったか忘れたけど、スラスラ読めて内容もお洒落で(片手がない女の子が出てきたような)まあ可もなく不可もなく。今回は、うーん。ミュウが私は半分どうのこうの言い出した時点で私的には雲行きが怪しくなったな?という感じで、読むのをやめようか悩んだのですが、とりあえず続行。煙のように消えてしまったの。あれれ?そして最終的にファンタジー。あちらとこちら。うーん。ミュウのエピソードについてもいまいちしっくりこないし、父親の美貌、母親の不在、少女にとってコンプレックスだということは理解できたけど、そのコンプレックスが少女を作り上げる上でどのように作用したのかがいまいち。まあ小説の内容すべてをきれいに解釈しようと思うのは私の都合なんですが。でも少女が恋に落ちたのはミュウであって、ぼくにではない。あちらの世界に行ったのはミュウが欲しかったから。ぼくが欲しいのであれば現実世界で手に入る。だから、少女があちらの世界に行って求めたものがぼく?という展開にハテナ。話をファンタジーで解決してしまうのは、卑怯なんじゃないかなあと思ったり。ラブストーリー!!じゃねえよ、と突っ込んでみたり。伏線がファンタジーに向かいつつある予感を抱きつつ、あーやっぱり、読んで損したー!という感じです。途中まで真っ当に苦悩を描きつつ、後半は全部放り投げちゃってるのでそれもガッカリだなあ。きれいにまとまってますよー!っていうのも違うかなとは思うんですが。 | ||||
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| 筋の展開に少し違和感を覚える。 すみれの行方不明の原因やその後の様子が分からない。 | ||||
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| これ書いてるとき、村上春樹には在日韓国人の彼女がいたんだろうな。韓流ブームもなかった当時に唐突に謎の韓国アゲ。ここからハッキリあっち側に逝っちゃったんだな。それくらい意味不明の設定。ミュウが在日韓国人である必要性は?必然性は?ないだろんなもん。そして韓流ドラマと同じであり得ない人格設定(笑)こんな洗練された韓国人なんか存在せんわ。そもそもこのミュウという女は物語に必用だったのか?だって最後は赤の他人になって、それっきりじゃん。 話自体も意味わからん。すみれはレズだったのに、数週間だか消息不明になったあと帰ってきたらノンケになってるじゃん、何よこれ。てかいい歳して22歳が主人公の小説なんか書いてんなよ村上春樹。年相応の主人公にしろよって無理か。やっぱこいつ商業作家だわ。ノーベル賞?ヘソが茶を沸かす(爆) | ||||
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| 小説を読み始めて、小説の世界へ引き込まれる過程で、ずいぶん現実の呼吸感と離れているなあとおもいました(うれしい意味で!)。 小説に合わせるに連れて、脳味噌の普段使っている部分がしだいに休憩していきます。村上さん独特の文脈や呼吸感の影響もあると同時に、時代的なものもある気がしました。 小説が出版された1999年といえば、インターネットはかろうじて使われている程度。フェイスブックやツイッターはおろか、mixiすらありません。 戦後間もなくの小説ではなく、ほんのちょっとネット時代の前の小説だからこそ、大きく変わった空気感、自覚させてもらった気がします。もっとも、これは村上さんの小説独特の世界であることのほうが大きい気がしないこともない。 村上春樹さんの小説は、まだクロニクルしか読んだことがありません。あと何冊か読んでみたいです。 | ||||
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| この本の前に読んだもの 町田康 夫婦茶碗 山崎ナオコーラ 論理と感性は相反しない 藤永茂 闇の奥の奥 なかなか凝っている。『ダンス・ダンス・ダンス』以来に読むと、ずいぶんと洗練された印象。ちょっと人物に話させ過ぎな気がする。旅の連れは、旅が終われば別れていく。猫の話は以前に短編になっていた。冒頭から電話での記号と象徴までを、また、「にんじん」の15章も、短編にしてもいい。(ただ、すみれの父の話と「にんじん」の話は対応しているだろうけれど) 「新しいフィクションの枠組み」の中に身を置くことは、「今手にしているすべてのもの」をなくすかもしれない。その無くしたものは何か。 恋する人の喪失は、頻繁に扱われたテーマだけれども、ここではすみれが何を無くしたかが重要だろうと思う。「ぼく」が電話で記号と象徴の話をしたときには、すみれの持つ何かが失われていた。(それは、政治性でないことは確かだ。) 「彼女の書く文章には独特の鮮やかさがあり、自分の中にあるなにか大事なものを正直に書ききろうというまっすぐな心持ちが感じられた。少なくとも彼女のスタイルは誰かのイミテーションではなかったし、手先だけで小器用にまとめられたものでもなかった。」鮮やかさ、正直さ、独特で荒唐無稽といったところが失われた。書くことをやめ、考えることをやめ、新しいフィクションの枠組みのなかへ自分をはめ込んだ。恐らく、それは正しいことなのだろう。その正しさを前にして「ぼく」は、凡庸に佇む。凡庸に佇むことに「芸術的天啓」や「呪術的な洗礼」は必要ない。 以前、すみれは言葉を探していた。「おそらくは根拠不確かな人生を、曲がりなりにも支えてくれる、軸となり柱ともなる言葉を」探し求めていた。しかし、ミュウ(なにかアルゲリッチを思い浮かべさせる)の秘書になることで、幾分か確かな人生となるように見える。しかし、ミュウの体験をきき、すみれの失恋により、トルコに近いギリシャの孤島で(ヨーロッパとアジアの境で)すみれは孤絶した荒野へ消える。(イスラム過激派になっていたわけではないだろう。そうすると、正しさは政治性に変換される。) 何もすみれだけが、言葉を探し求るわけではない。「自分の感情を正当な意味を含む言葉に換えること」は(或る人々には)困難だ。 すみれの父は無味乾燥な人物描写をし、「ぼく」はすみれの代わりにガールフレンドを抱き、ガールフレンドは皮肉を言う、そして「にんじん」は万引きをする。「ぼく」と「にんじん」は、じっくりと話し合うことはない。「にんじん」は一言も喋らない。(鍵を棄てる場面はとてもいい) 「芸術的天啓」や「呪術的な洗礼」を渇望する人々がいる。それが手に入ったり、他のことに忙殺されればひとまずの解決となるだろう。冒頭の小説指南は、小説家志望から批評を求められるからだろうか。 「『いろんなイメージや、情景や、切れ切れの言葉や、人々の姿 ーー わたしの頭の中にあるときには、みんなまぶしく光って生き生きしている。』」短編のような頭の中の断片をより大きな軸でもってまとめるとこのような小説になるのか。 ギリシャに持っていったコンラッドは『闇の奥』と『ロード・ジム』だろうか。 「『俺は何だか君らに夢の話でもしているような気分だよ ーー 虚しいことをしているようなね。というのも、夢の中身をどう語っても、夢の感覚は伝えられないからだ。あの馬鹿らしさと驚きと当惑と反感の混ざり合った感じ。何か信じがたいものにつかまってしまったという思い。それこそが夢の本質なんだが…』 マーロウはしばらく黙っていた。 『…そう、それは不可能だ。どんな経験であれ、生でかんじたままを他人に伝えるのは不可能だ。 ーー 生の感覚こそが、その経験の真実であり、意味であり ーー 捉えがたい深い本質なんだが。不可能なんだ。人はみな独りぽっちで生きている ーー 夢を見る時に独りぽっちなのと同じように…』」 ジョセフ・コンラッド『闇の奥』(69〜70ページ)黒原敏行訳 | ||||
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| まったく問題ありません!期待通りの商品でした。感謝しています! | ||||
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| 宇宙船スプートニクに乗って宇宙を旅するライカ犬のように、地球に乗って有限の旅をしているのが私達である、というのがこの物語の主題なのでしょう。いつかは、我々も宇宙船ごと “プツン” と消えます(100%の確率で)。 村上春樹のいつもの主題として(普遍的な宇宙の動作原理でもあるのですが・・・)根底に流れているのは、私たしの生活しているこの世界がシンプル(リニアー)な三次元世界などではなく、時・空間の歪んだ(ノン・リニアーな)三次元、あるいは数式では表現できるが、映像としてのイメージとして表現し難い、多次元世界である、という原理・原則です。 “ぼく” の憧れであるすみれは、突然、隣の世界に行ってしまい、すみれの愛するミュウは15年前に、隣の世界へ足を踏み入れ、今は “この世界” と “隣の世界” に半分ずつ分かれてしまったのでしょう。このミュウの不完全さ理由(ゆえ)に、彼女はすみれの愛を受け入れることができないのでしょう・・・・・。すみれは、ミュウの本質が隣の世界に住んでいることに気付いて、入口を探し出し、実際に隣の世界に足を踏み入れてしまいます。 副流としての、すみれとミュウとぼく、三者の恋愛ストーリーとして読んでも・・・・例によって完結する物語ではありませんが、・・・・面白いです。 | ||||
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| このとりとめないエピソードは、μ(ミュー)なる女性に収斂してゆくのだが、『ノルウェイの森』ばりの悩ましさは本作にはあまりなく、むしろ流れに乗ってしまった側からする反動批判のようなところがある作品。 つまり、イルカホテルや乳牛、羊男やヤットコなど村上作品に不可欠な要素があるのだが、世界の捉えどころのなさにおいて、一時は虚無化していた何かが再びもたげてはかつ消える中、模索しあぐねている主人公や人々を象徴的に描いているのであって、それはむしろ「世界共通の普遍性」をもつもの。 『レキシントンの幽霊』におけるカチカチとグラスの触れ合う音や、ブラームスの甘美な協奏曲、あるいはフォークシンガーたちが凝った60年代の英国ロック、異様なほどのはかなさや透明感を以て現れる村上作品における女性たち。きわめて中性化されたエロスはまるで存在感がなく、抽象化・象徴化・純化されている。 これらの点で、村上作品群は一連のものとして括れ、心理とも歴史ともつかない何者かが言いようもなくカタカタと音を立て、ざわめきの文学の境地を拓いている。新人類に相応しいものとして、『1973年のピンボール』や『国境の南、太陽の西』、『遠い太鼓』、『ねじまき鳥のクロニクル』など他作品とともに幅広い年代相におすすめ。 | ||||
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| ある時期が来ると、読み返したくなる一冊です。春樹氏の世界観でよくある、人間の一部分の消滅や孤独が描かれている。 それは誰にでも起こりうる事柄であり、それこそ煙のように消えてなくなってしまうもの。 では、それは一体何か。人それぞれが、自分自身の存在を維持、証明するものなのかもしれない。 ミュウはある出来事がきっかけで「それ」を失い、すみれはその世界のミュウを求めてあちらの世界へと足を踏み込んでしまったのかもしれない。 そして、すみれを再びこちら側の世界に呼び戻してくれたのは、こちら側のすみれを受け入れ、愛している僕の存在だ。その存在がすみれを押し留めた気がする。 彼の小説の説明や感想は難しいものがある。しかし、その描かれる哀しみを知る者にとってはある種の切なさや共感を呼び込むのだ。 なぜだろうか? 何度読み返しても、その哀しみは僕の心の深い場所へと響き渡る。 最後に描かれている、先生の立場としての僕と生徒ニンジンの描写が、また何かこの物語に味わいを加えている。 | ||||
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| 最初に読むべき村上春樹の作品 ノルウェーの森、ねじまきは重すぎるが これはさっぱりな風を感じさせてくれた。 このご僕は村上春樹を全作品読めた。 | ||||
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| 著者のインタビューによると,本書は 「比喩を徹底的に多くしようというのがあらかじめ決めていた,突飛な比喩というのはもうあまり使う機会もないかもしれないから,とにかく洗いざらい虫干ししてしまおう」 というだけあって,印象的な比喩がいくつもあります。 いくつか抜粋してみると, 夜明け前の4時過ぎにかかってきた電話の相手すみれに対して, 「こうして受話器を手に持っていても,崩れかけた石垣を一人で支えている気分なんだ」 「元気だよ。春先のモルダウ川みたいに」 「かぼちゃ畑の真ん中で誰かがつぶやいている牧歌的な独り言みたいに聞こえた」 「カーディガンのボタンを掛け違えたみたいに,すべての物事が一段階ずつ現実との接点を失っていた」 「ひとりぼっちでいるというのは,雨降りの夕方に,大きな河の河口に立って,たくさんの水が海に流れ込んでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ」 「ぼくの心を,ほかのどんなものよりも親密に温めてくれた。茫漠とした夜の荒野を抜けていく汽車の窓から,遠くの農家の小さな明かりが見えるように」 また,比喩ではありませんが,印象的な文章をいくつか抜粋します。 「もし,不完全な人生からすべての無駄が消えてしまったら,それは不完全でさえなくなってしまう」 注意深くなるためにどうしたらいいかというすみれの質問に対して 「夏の午後の冷蔵庫の中にあるキュウリのことを考えてもいい」 「あまりにもすんなりすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある」 「世界のたいていの人は,自分の身をフィクションの中に置いている」 本書を読むのは三度目ですが,だいたい5年くらい間をあけて再読しているので,毎回新作を読むような気持ちで読書しています。 本書は「ねじまき鳥」や「海辺のカフカ」といった大作の合間に書かれたもので,「国境の南」や「田崎つくる」に近い中編といった分量で,少し地味な印象がありますが,文体に注意して読むと,なかなか,その文学的技巧には感心してしまいます。 | ||||
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| 著者は、京都市伏見区生まれ、早稲田大学第一文学部卒の村上春樹。 (2001/4/15 ? 2008/1/28 第28刷発行) 「ぼく」は友人であるすみれに恋をしたが、彼女は些か変わっていた。 すみれは、22歳になっても化粧品の一つも持っていなかったし、女の子らしい服も持っていない、そんなすみれが生まれて初めて恋に落ちた。 それは「ぼく」ではなく、すみれの17歳年上の女性だった。 村上春樹の小説を今まで読んだことがなく、本書を1冊目に決めた。 村上春樹の小説で思ったところは、圧倒的な状況描写だと思う。 「要るのかな?」と思うような、事細かに文字で描写された風景は、その描写によって鮮明に浮かびがり、村上春樹ワールドを深淵にすると共に、「彼は今までどんな経験を積み重ねてきたんだろう?」と首を傾げる。 まだ1冊目で、彼の耳目を集め続ける良さはまだ分からないけれど、彼の小説は絵画で言うと、薄い極彩色で描かれた水彩画のようだった。 理解や辻褄を必要としない世界観や文脈の進行、心理描写には他の小説にはない引き込まれるものが確かにあった。次作を読むのも楽しみだ。 | ||||
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| これからも一人ひとりの作品を出来るだけ続けて読んでいくつもりです。 | ||||
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| 『ねじまき鳥クロニクル』の後、『海辺のカフカ』の前。 振り返ってみれば、この作品はとても重要な位置づけにあるのじゃないかと思われます。 物語は前半と後半でガラリと雰囲気を変えます。 この小説で、村上春樹さんはある種の実験のようなものを試みたのではないかと感じています。 この小説の重要なキーワードは、「あっち側とこっち側」でしょう。 見えてるものと見えてないものの境目があいまいになった状況。 この世でたった二人きりの男と女。 ここで呈示されたテーマは、直接的には『1Q84』に引き継がれていったのではないかと思います。 村上さんの圧倒的な筆力で、見知らぬ街が目の前に出現したようです。 | ||||
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| 警備員が教職を羨ましがる場面が印象的だった。どれだけ多くの人間(自分も)が、同じようにぐれてるだろうと考えてしまった。まあ、ある意味、この警備員が一番まともであるともいえるけど。 そして、この人と、ミュウを見比べてしまう。 社会的に見れば成功者だが、彼女も、実際にはピアニストの道を諦めた挫折人間であり、今の生活も、親の会社があってのものであって、本質的には、警備員とたいして変わらないのかもしれない。 空虚感で満たされたような作品だが、最後の展開は中々意外だった。というか、これがなかったらあまりに救いようがないか。ねじまき鳥クロニクルとは逆の展開といっていいのかな?対照的な希望の残し方だと思う。 スプートニクを中心とした一連の構成も、素人が読んでもかっちり噛み合うように、良くできていると思う。でも個人的には、こういった純文学作品より、ファンタジーアクション的側面を出した村上春樹の方が好き。 | ||||
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| インタビュー集の中で筆者は「文章のネジを締めるだけ締めた作品」というようなことを語っていました。 筆者の文章への強いこだわりがこの作品となって現れている。 どこまでも実験的な作品を書き続ける村上春樹さん。 この「スプートニクの恋人」はストーリはあまり重要じゃない気がする。 すみれは結局どうなったのか、といった問いは不必要なのかもしれない。 「風の歌を聴け」でハートフィールドという架空の作家を ”ストーリは出鱈目だが、文章で戦うことのできる作家”と設定していた気がするが、 今回の村上春樹はまさしくそのハートフィールドになりきってみたのかもしれない。 気が向いたら適当なページを開いて、その洗練された文章に身を預けています。 | ||||
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| はじめて読んだのは、10年くらい前。タイトルに惹かれて古本屋で2冊300円で買った「羊をめぐる冒険」を読むにあたり、作品発表順に読んだ方がよいかも、と思い、「風の歌を聴け」から順々に読んで、鼠シリーズが終わり、ノルウェイの森も靄にかかったまま終わり、ここまで来た時で。 はじめて読んだときはとても鮮烈で爽やかに感動したのを憶えている。 ひとえに、「僕」である主人公の、すみれへのまっすぐな気持ち所以だろう。だって、ここまで一人の女性を一途に好きだった主人公は、村上春樹の小説にはこれまで出てこなかったように思うのだ。 そして、「すみれ」という世間一般からはみ出た女性になりきれてない女性像、書くことへの渇望のみが血管に流れているような突き抜け方が、私にはまぶしく見えた。 もっと、率直に言えば、村上春樹の小説ばかりかこれまで読んだ何よりも、「これは私だ」と思ったのだ。 次に読んだときは、「私はKだ」と思った。 だけど、次に読んだとき、「私はミュウなのでは」と思って、人知れず震えた。 今は、、どうだろう。 手にとる度に変わる印象。感動。 でもひとつだけ言えるのは、この小説に書かれている奇妙なことがほんとに起きることなんだ、って、私は今は思う。 だから、この作品を“小説”と割り切って読める人は、どうかお願いだから、 自分は幸せな人間なんだと、今ある居場所を大切にしてほしい。 わたしもできうるかぎり、今を大切にしていこうとおもっている。 ねじを締め上げて書いたと本人が語るとおり、無駄というものがなく、 だからこそ、これはほんとにあったことだ、と感じさせる前に、ぐいぐいと引っ張っていってくれる。 | ||||
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