■スポンサードリンク
羊をめぐる冒険
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
羊をめぐる冒険の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.22pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全204件 81~100 5/11ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「ハルキスト入店禁止」そんな店があったらビックリするだろうが、ぼくの近所にそういう掲示物を張り出したラーメン屋が本当にある、店の外なら効果があるだろうに店主は気が小さくてそこまではできないらしい、脂汚れがひどいのでもうだいぶ前に張ったものなのだろう、入って左手の鏡の上にプラスチックのメニュー板があるのだが、欄外に「特製あんかけチャーハン」の短冊を掲げるようになり、その下にふと視線をずらしたとき、古びたポリ容器の陰に隠れるようにしてあるこの小さな張り紙にようやく気づいたのだ、 その日、昼の部の最後の客になったぼくは、財布を抜きながらその点をさりなく質してみた、無論「ハルキストではない」とことわりを入れた、店主は「読んでいて何にも引っかからねえ、そんなの文学といえるか」とかなりの詰問調で返してきた、ぼくのことを正真正銘のハルキストと勘違いしている、高齢の店主に言わせると、トルストイや司馬遼太郎、こういうのが本物なのだという、 このやりとりをきっかけにして、ぼくは村上春樹を初めて読む気になった、昨年10月のことだった、 うわさに高い「羊たちの冒険」、ターゲットは絞れていた、最近作は失敗続きだというし、恋愛モノは大の苦手としている、壮大な作品というのも骨が折れる、作家というのは初期作品に全貌が現れる、処女作を超えられない、という格言も選択の後押しをした、 ばかばかしい話だが、とにかく肩が凝らない、スムーズに話が進み、いろんな意味で読者の期待に素直にこたえてくれる、いい女がいる、射精する、料理を作る、音楽の話がある、飽きないのだ、下巻から読み始めたが所要時間はそれぞれ40分程度、計1時間半に満たなかった、これだけの時間的ロスで世の片隅でジメジメしていた人間が、明るい顔をしてふたたびメインストリームに立つことができる、劣等感と優越感のせめぎ合いのなかで敗北を余儀なくされ、かろうじて息をしている現代人――彼らにとっての必須の処方箋になり得る、効果はてきめんで、ふたたび息が詰まるころ新処方の「ココロの軟膏」が全国チェーンのドラッグストアにプロモーションとともに並ぶというわけだ、 初めての長編でこの水準に達したというのは、やはり驚異であろう、なぜなら小説を書くような人は、右とか左とかの思想に凝り固まっていたり、哲学的想念の高みに立っていてそこから降りようとしなかったり、いつまでも棟割長屋の原風景的なものにこだわりつづけていたり、何かに「染まっている」ものだが、そういうところがまったく見られない、抑えようとしても端々に出てしまい、抜けるのに時間がかかるはずなのに、この作家は最初から透明のままやって来た、万人に対して素通しの文章を書ける、これは削らなきゃという箇所がほとんど目立たない、余計なことはいっぱい書いてあるが、それは読者とのお約束であり、おしゃれ感覚であり、貧乏臭いこだわりが前に出るというのとは違う、推敲で辿りついたというより、第一稿からプレーンなテキストになるのだろう、 全編を通じては、北海道の自然のなかを走破するシーンがいい、車に羽がついているようだ、疾走感・浮遊感がある、これは意識を無意識のほうにスライドさせてできることなので、そういう意味では芸術家の風貌を垣間見せてくれている、ということはできる、 だが本作は芸術作品ではない、エンターテイメントだ、贔屓目でもコンテンポラリーアートの域にとどまる、度重なる既視感、ここは先行する小説、映画、テレビドラマのパクリではないか、という疑惑が次々に途切れない雲のように飛来してくる、そのたび投げ出そうか、と思うのだが、何しろ文章がさらっとしているので、そこまでの反発は抱かない、いや読んでいる間は抱けない、 冒頭の部分がチャンドラーの名作の出だしと同じだと指摘した評論家がいたのを思い出し、調べてみるとたしかにそうだった、しかしこの作家がこの名作の新訳を出して、それを闇に葬ってしまった、完全犯罪の成立?――いや、そういう後ろ暗さ、いみったらしさのないところがこの作家の持ち味だ、とはいえ意外に機を見る敏で目端が利く、気を抜いていると思い切った独断専行に走り、後手を踏まされる、後ろからチクっと刺される、あれっという思いがつきまとう、逆に言うと出し入れがウマイのだ、 誰かがコンテンポラリーアートはその時代の支配的な感覚を少しだけ先取りするが、その元になるのはまったくの新しさではなく、むしろ古い型の踏襲にあると言った、その人はベンヤミンを読んでいたのだろう「――大衆の音頭をとるのはつねに最新のものである。だが最新のものが大衆の音頭をとれるのは、実はそれがもっとも古いもの、すでにあったもの、なじみ親しんだものという媒体を使って現れる場合にかぎってのことなのである」 村上春樹という一つの容器はベンヤミンのこの一文のなかにすっぽりおさまってしまう、それほどに小さい、だからこそ打つべき次の一手が必要になってくる、売れっ子の彼には彼なりの焦りがあるのだ、それは芸術家の焦りではない、たった一人の広告代理店ゆえの焦りではないかとおもわれる、 文章にとどまらずこの作品の構造、骨組みの部分に型の踏襲がある、引っかからない文章の元にはコピーライティングの技術が隠れている、人物はブルーアイドイエローとでもいうべきか、登場人物たちが黄色人種の遺伝子ではありえない行動をとる、行動は社会化の一環でもあるから西海岸の二世であればいくらか納得がいく部分もあるが、ロスに舞台を移してもどうしても説明しきれない部分が残る、白人の属性を臆面もなく丸ごと東洋人に放り投げている、これは商業的アーティストとしての立場から理解できても、芸術家としての観点からは理解不能である、 つまり彼は人間を描くことがちっともできないし、最初からその気もない、アメリカ、ヨーロッパの既存のものに日本人の衣装を着せているに過ぎない、これと対になるであろう死に対する意識の欠如、こっちのほうがもっと深刻で致命的かもしれない、死を描けない作家は生を描けない、即物的な死はたっぷり用意されている、しかし自然死は見事に割愛されている、芸術に本当の生命が宿るのは死を突きつけている瞬間だけだ、自殺の多発は裏を返せば自殺以外に死ありえないという極論を熱心に説く伝道師の眉唾を根拠とした性質の悪い嘘だ、「透明の正体」は実はそれであった、 テレビコマーシャルに死の要素は盛り込まれない、購買意欲は死の意識を取り去ったところにしか生まれない、景気に水を差すのが死だ、老人だ、賢者の戒めだ、それを抜いたものが商品ということになる、数ある風邪薬で競争優位に立つのは宣伝上手の会社の製品と決まっている、パッケージングにこだわり、起用する俳優のイメージにこだわる、適度に効く、しかも誰にでも、副作用もない、安心、中身ではない、パッケージングの勝利、しかしココロが風邪を踏み外したとき村上流「ココロの処方箋」は記号を並べた紙切れになるしかない、フクシマ以降、日本人は「ココロが風邪を踏み外し」ているからバッシングの雨が降っているのだ、油断してはいけない、芸術家ではなくコンテンポラリーなアーティストは、大衆がふたたび風邪の守備範囲内に戻ってくるのを知っている、それを待っている、埃をかぶった古い誰かの処方箋がこの人の手にはいり、その手にかかって最新のものに化けて世に出ることになる、 ページをめくっていたぼくの興味は、物語からは失われていった、だが、登場人物が米を食うシーンがあるのかないのか、に興味が移り、かきたてられ、いつのまにか絞られ、それに引っ張られてエンディングに行き着いた(ぼくの場合は上巻の最終ページになるが)、彼らはついに米の飯を食わなかった、食べたことは食べた、だが、食べたのはたしかピラフだったと思う、意外な発見もした、 子供のころ、当時の二枚目俳優と美人女優が逃避行をして、山荘にこもり、しばらくして買出しに出て、いっしょに食事を作るという場面を見た、ぼくは衝撃を受けた、二人はいっさい言葉を交わさず、フランスパンを買い込み、牛肉を仕入れ、ワインを買い、野菜を調達して、手分けしてサラダとビーフシチューを作り、無言のままワイングラスを傾け、パンをちぎったのだ、この場面がそのままこの作品に使われていた、 偶然かもしれないし、本作の価値を少しも毀損するものではない、だが異なる作り手の意図が何かの次元で共鳴したことは間違いない、日本酒と肉じゃがと白飯では、いっぺんに興ざめしてしまう、では、醒めていない段階でわれわれが見ていたものは何だろう、ぼくは既にゴッホを知っていたし、新潮社のポケット版作品集で『馬鈴薯を食べる人たち』を見ていた、ドラマの一シーンとこの絵が重なっていたはずだ、いま「羊たちの冒険」を読み終わってそれにもう一枚が重なった 三か月ぶりにラーメン屋に行ってみた、店主はぼくのことを憶えていた、いつになく上機嫌で、他の客の麺をもみながら、こう言った「お客さん、あなた、ハルキストでしょ、顔見りゃわかるよ」 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
迅速なご対応有難うございました。 商品も予想以上にきれいで満足しています。 今後ともよろしくお願いします。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
久々に三島由紀夫の「夏子の冒険」を読もうと新しい版を買って読んだのち、巻末にこの作品が触れてあったので、上下買ってしまいました。 しばらく村上龍とも春樹とも意識せずページをめくってましたが何も共通点がない逆の趣味の小説で「上」の1/3で止めました。 これがこの作家の到達点のように書いてある方もいますがそうならば縁のない作家でしょう。 ごめんなさい低評価で。 でも三島作品の巻末に書いた人お金を返してくださいと言いたいです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「あらゆるものを呑みこむるつぼ。気が遠くなるほど美しく、そしておぞましいくらいに邪悪。宇宙の一点にあらゆる生命の根源が出現した時のダイナミズムに近いもの」(文庫下巻から引用) それが羊の象徴するものです。 この作品以降、村上春樹は、この「おぞましいくらいに邪悪なもの」とそれとの対立をテーマにした作品群を生み出していきます。 本作で羊の形をとっていたそれが「ねじまき鳥クロニクル」ではワタヤノボル、「海辺のカフカ」ではジョニーウォーカー、「1Q84」のリトルピープルと姿を変えて、より深く「邪悪なもの」が描かれていきます。 30年前に本作を初めて読んだ際には、とてつもない衝撃を受けた本作ですが、その後の村上春樹作品を読み進め、更に本書を何度も再読するにつれ、ますます本書がいかに画期的であったか、あらためて感心します。 本書は「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」同様の雰囲気を持つ物語としてスタートします。 ところがある地点から奇妙な雰囲気を醸しだし、その後の展開から、こんなにも深いテーマを包含する物語だったのかと衝撃を受けます。 前半部分では、村上春樹の優れた文学的技法のひとつである比喩の使い方に相変わらず感心してしまいます。 「本であればなんでもいいのだ。彼女はそれをとうもろこしでも囓るみたいに片っ端から読んでいった」 「僕は最も礼儀正しい酔っぱらいになる。いちばん早起きをするむくどりになり、いちばん最後に鉄橋を渡る有蓋貨車になる」 「のっぺりとしたアパートの群れは、父親の帰りを待ちわびている未成熟な子どもたちのようにも見えた」 「正直さと真実との関係は船のへさきと船尾の関係に似ている。まず最初に正直さが現れ最後に真実が現れる。巨大な事物の真実は現れにくい」 「道路はひどくすいていて、車は産卵期の鮭が川を遡るみたいに空港にむけてひた走った」 店を経営しながら執筆した前二作の後実施された,村上龍との対談集「ウォーク・ドント・ラン」によれば、「自分に一番欠けているもの、自分で難しい方法で長い小説を書きたい」と語っていた村上春樹。 「職業としての小説家」では、本書執筆にあたって店をたたみ、職業作家としてやっていく決心をしたこと、文体を重くすることなく、文体の気持ちよさを損なうことなく、小説自体を重いものにしていきたいとの構想を持っていたといいます。 確かに前二作の文体の気持ちよさを引き継ぎながらも、ずしりと来るテーマの重さが加わった本作は、村上春樹の構想が見事に結実した傑作だと言えるでしょう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
正直なところ、デビュー作"風の歌を聴け (講談社文庫)" 〜 "1973年のピンボール (講談社文庫)" はプログレッシブ過ぎて理解できなかった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
星印の羊=権力(国家権力、父親のようなもの)、という構図で物語は組み立てられております。主人公(狂言回し)の親友、鼠(本当の主役)は父親からの権力の継承を忌避して、「いるかホテル」で偶然見つけた、権力のシンボルである星印の羊=権力(父親のようなもの)と対峙すべく北海道十二滝町の牧場に行き着き、結局、そこで自らの死を以って父親(邪悪なもの)との関係に決着をつける。 鼠は世間の汚れとの距離感を掴むのに失敗したが、主人公を含む多くの若者は少しずつ汚れながら(目をつぶって)何とか人生を進んで行く選択をする・・・・権力者も、非権力者も行きつく先は、全員公平に同じであるにも関わらず・・・あたかも、自分だけは違う、とでも言いたげに。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
上下巻通しての感想。いや~、何か不思議な映画を観終わった感じがした。ハッキリ言って意味はよくわからない(毎度のことながら) だがこの作品は面白かった!「ノルウェイの森」→「風の歌を聴け→「1973年のピンボール」→「羊をめぐる冒険」と読んできた。上巻の3分の2くらいまでは、何だかよくわからないいつもの展開だったが、黒秘書が登場し、羊にまつわる話が出てきてから俄然面白くなってきた。どう考えても児玉誉士夫としか思えないフィクサー(先生)の話とか。今まで読んだ村上春樹の作品では味わえなかった、ワクワクする感じ。そこからは最後まで一気に読みきった。何故そうなるのかは意味がわからないが、自分が思った通りのオチだった(緑のコードを緑のコードに…予想通り) どうでもいいことだろうけど、背中に星形の班紋がある羊は悪魔なんだろうと思った。羊に入られた人間…過去に羊に入られた人間には一代で世界帝国を築いたあのジンギスカンが。もしや安倍首相は一度辞任した後に羊に会ったのか?なんて作り話と現実をごっちゃの妄想をしてしまった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
上下巻通しての感想。いや〜、何か不思議な映画を観終わった感じがした。ハッキリ言って意味はよくわからない(毎度のことながら) だがこの作品は面白かった!「ノルウェイの森」→「風の歌を聴け→「1973年のピンボール」→「羊をめぐる冒険」と読んできた。上巻の3分の2くらいまでは、何だかよくわからないいつもの展開だったが、黒秘書が登場し、羊にまつわる話が出てきてから俄然面白くなってきた。どう考えても児玉誉士夫としか思えないフィクサー(先生)の話とか。今まで読んだ村上春樹の作品では味わえなかった、ワクワクする感じ。そこからは最後まで一気に読みきった。何故そうなるのかは意味がわからないが、自分が思った通りのオチだった(緑のコードを緑のコードに…予想通り) どうでもいいことだろうけど、背中に星形の班紋がある羊は悪魔なんだろうと思った。羊に入られた人間…過去に羊に入られた人間には一代で世界帝国を築いたあのジンギスカンが。もしや安倍首相は一度辞任した後に羊に会ったのか?なんて作り話と現実をごっちゃの妄想をしてしまった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
運よく108円で入手できた。小説は1冊ものに限るかも。 ・まず、文章がまったく古くなっておらず、むしろ今でも未来的ってことに一驚。まあ、古典の最低条件、必要十分、絶対条件かもしれないが。 ・あと、タイトルの秀逸さ。パロディーにせよ、何度 引用されたことだろう。 ・あと、「調べもの」ってのが「世界の終り」との共通点か。 ・あと、ムラ神さんはどうも沖縄方面に向かわず北海道方面に向かう傾向があるかもしれない。そうゆう意味ではトーマスマン的な。 ・あと、けっきょく この小説を最初から最後までミッシリ読んだことがないことに気付いた。 ・つか、出だしの部分は前2作と同じ感じだったんだなあ・・・・・・・ | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
先日、著者の『走ることについて語るときに僕の語ること』(書評済)を読んだ。 その中で、著者は本書についてこのように書いている。 「この作品が小説家としての実質的な出発点」 「なにしろあとがないから、持てる力をありったけ注ぎ込んで書いた。持っていない力まで総動員したような気さえする。」 ここまで言われては、読まない訳にはいかない。 読んでみると、ミステリー小説のようで面白い。一応の解決はある。 でも次々になくしていく話でもあり、失う理由は明らかではない。 不思議な人々ばかりがでてくるが、一番のキャラクタは羊男。羊の毛皮を着ている。 評者は著者の本を読み出した早い時期に絵本『図書館奇譚』(書評済)で羊男には出会ってはいる。 『1Q84』(書評済)やチェーホフ『サハリン島』(書評済)を読んだ後は、羊男はギリヤーク人に思えてくる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
彼のつるっとした、陰影のない文体は苦手だったけれど、最近読みなおすとそれほど気にならない。この小説も現実感がなく、人物は名前がなく顔も見えない。あまり共感できない。できるとすれば、運転手とフロント係くらいかな。右翼の大物は児玉誉士夫がモデルか。前半は前作の延長で後半はサスペンス調。耳という表情のない器官、名前のない登場人物、ほとんど意味不明な比喩。共感や理解、認識といったものは、幻想だろう。この小説を読むと仏教的な思想を感じる。その辺が海外で受けてる理由じゃないかな。サリンジャーが幼いゾーイーか誰かに同じ家や家具、家を間違えたり家族を間違えたりするような生活のほうがずっと楽しい(良い?)とか、言わせてたのを思い出す。持っていたものを失くす、ではなく、持たないことを求める。余計なもの、表情や名前?、がないこと。拒否するのは、肩書き、組織、大金、同情、啓蒙とかかな。個人主義。ドストエフスキー的社会に「僕」が迷い込んだら、ますます影が薄くなり、見失うかもしれない。良いとか悪いとかの道徳は置いといて、目的があまりない。家庭、労働、冒険など(冒険が失敗したとして、何が失われるのか誰もわからない)。帰省しても、ホテルに泊まり、「このためにわざわざ来たの?」と言われる。自由意志や固有名詞への疑問は、現代的な気がする。羊をとらえることは、まだまだ先のようだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ミステリとファンタジーとノワールがミックスされたような他愛ないプロットが、情景・状況描写、比喩表現、一般論に落ち着きがちな諦観的人生観などで彩られ、主人公「僕」(村上春樹自身の代弁者ととれる)が、かつてのセフレ、前妻、旧友、新しいガールフレンドなど、それなりの関わりのあった人物たちを失っていく、喪失感が基調の作品。 読みどころの1つである比喩表現については、筆者の限られた読書経験の中では、チャンドラーの影響が強いと思う(プロット面でも、結末で旧友と再会するなど『長いお別れ』に通ずるものあり)。また、情景描写や価値観などには、1980年前後の時代性が色濃く反映されているため、風化も早く、今読むと古い(些細な点ながら、飲酒・喫煙シーンの多さも個人的にNG)。喪失感については、失われていく人たちとの関わりが希薄なので(少なくともそう描かれているので)、非常に希薄。おそらく村上の狙いなのだろうが、読書体験そのものも希薄で、印象に残りにくく、個人的には読まなくてもよかった作品という思いだ。 登場人物の中では、ファムファタール役の新ガールフレンドの扱いに疑問が残る。プロットにどの程度関わっていたのか、明示されず謎として残るのは小説技巧としては上手いものの、登場した時の知的でミステリアスな感が徐々に消え凡庸な女性に成り下がり、更には主人公「僕」とも強い絆を持たぬまま、あっけなく消えてしまう。作品の希薄さには貢献しているが、人物としては印象に残らない。それが村上の意図であるにせよ、読者としては、鮮烈な印象と共に消え、「僕」の喪失感を強めてほしかったところだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
20年以上も前に読んだ作品ですが、最近になって、猛烈に、再読したくなりました。 以前に読んだときは、よくわからないまま、ただ、もう、怖くて、不可思議で、よくわからないのに、深い印象として、残っていました。 いま、改めて読むと、羊に暗喩された闇の存在が、いまもなお日本を、地球を支配し、解決されていないことに、おののきました。 と、同時に、主人公が、個人として越えなくてはならない、大きな課題、すさまじい孤独と空虚感といったものが、故郷の原風景や、鼠や、妻や、耳の美しい恋人の喪失というメタファでもって、胸をずんと、締め付けてきます。 私たちは、ずっと失い続けているんだということ。 村上春樹が、ずっと、ずっと、向き合ってきたものの正体が、現在(いま)ほど、わかるときはないのではないか、と。 もう読んでしまった方も、たくさんいるかと思いますが、再読お勧めします。まだの方は、もちろん!お勧めします。 故人となってしまわれた、村上春樹が師として敬愛する河合隼雄氏が、この作品を評価されていたことを、付け加えておきます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
読み終えると、めちゃくちゃ 切なくなった。 去って行った鼠と、素敵な耳の女の子。 社会の枠組みにどこか相容れない、 風変わりな人々の 哀しいヴォイスが胸を打つ。 冷静な感想を述べるなら、 まだ作者に大きなフレームの中での. いわゆる社会(陳腐な言葉で申し訳ないが) を描ききる技術がないためか、 長編だが、ページ数も後の著作に比べれば抑え目で、 テーマも最後の最後に、小さく余韻のように響かせるにとどまっている。 だが気の抜けた一行など、どこにもないし、どのキャラクターもシーンも、確かな空気と息遣い、必然性を持っている。 アメリカンな文化の影響が色濃いが、 描かれるどこか幽玄な思想観は まぎれない和風のカラー。 特に鼠との再会と別れからは、 もののあはれを、強く、くさびのように心深くに刻み込まれた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
村上春樹の作品はどれも好きですが、 羊をめぐる冒険は読み返すことが多いです。 先日、村上春樹を読んだことのない知人に、 どうしても村上春樹の素晴らしさを知って欲しくて、 この本を貸しました。 読んでくれるでしょうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
やっぱりダメだ。 こんなの好きなの多いのが信じられんな。 読み始めて、1ページ過ぎて、耐えがたい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
まず羊を探す経緯がまともじゃない。 それに耳の特殊能力を持つ女も、共同経営者も、親友の鼠もまともじゃない。主人公の取り巻く世界がまともじゃないことで、彼は文字通り羊をめぐる冒険へ出る事になる。 不思議な会話のやりとりや文章の独特な流れは、春樹ワールド好きには最高の作品なのかもしれない。 鼠という主人公の唯一のたったひとりの大親友がこの物語の大きなキーである。鼠がその名に合わず、人間らしさとはなにかを教えてくれるのだ。鼠がその過程で苦しみもがいた姿を想像すると、胸が痛む。 親友はひとりいれば、それでいい。そういうことだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
作者が実際に北海道に滞在した経験から書き上げただけあり冬の描写がリアルです。雪国出身の人ならわかる季節感。 主人公の僕もいつしか厳冬期の世界に溶け込みます。 最後人知れず堰を切ったように泣く僕には一種のカタルシスを覚え、余韻が残りました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
村上春樹の小説は何も起こらない。最終的に自分で考えてというようなことなのだろう。でももう少し最後に、なにかほしかった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
非常にはじまりは、わくわくさせる内容でいいと思う。上巻は最高。しかし下巻はふつう。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!