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羊をめぐる冒険
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羊をめぐる冒険の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.22pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全204件 61~80 4/11ページ
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本当に久しぶりに、村上春樹の第3作目の作品である「羊をめぐる冒険」を再読し、上巻を終え、下巻も読み終えた。村上氏のこの“鼠シリーズ”とも呼べる初期の三部作は、いずれも初々しい一方、最新作である「騎士団長殺し」に至るまで取り扱われている題材が、あちらこちらに、と言うよりは村上氏の作品を鳥瞰するには、この3部作をすべて読んでおかないと、村上氏の作品を理解できないと感じてしまうほどだ。 そしてこれ以降の作品に通じる村上氏の有する世界観が、やはりこの作品には存しているのではないだろうか。例えば羊の名を借りているが、村上氏の描こうとしているもののひとつは、この世に構築された‟権力機構”であるようだ。この権力機構は、「ねじまき鳥クロニクル」、「1Q84」で描かれており、有名なJerusalemでの演説でも述べられたものではないだろうか。それからこの3部作以降の作品で描かれている謎めいた世界の構成も、既にこの作品の中に萌芽している。。また「風の歌を…」、「1973年の…」について、村上氏は『自分が未熟な時に書いた』として、海外での翻訳をなかなか認めなかったのに対して、「羊を…」については、上記2作よりも先に翻訳を許可したのも自作に対する自信の表われだろう。 ところで、なぜ主人公である僕の親友の名が“鼠”とされていることが、漸くこの第3作の最終盤になって、分かった。直接この本の内容に触れないので言及してしまって、差し支えないだろう。昔時、村上氏の作品の解説書にも書かれていたようなのでご存知の方もいると思うのだが、“鼠”が1948年のネズミ年の生まれだからである。そしてもう少し、述べてしまおう。この作品で、主人公である“僕”は、“鼠”よりも少し後で30歳の誕生日を迎えることになっている。その理由は、村上氏が“鼠”の誕生年の翌年1949年の1月12日に生まれているからである。と言うことで、この作中の“僕”は、村上氏の分身である、と考えても問題ないだろう。そして“鼠”と“僕”は、同学年と言う設定になっていることになる。 何はともあれ村上氏は、この3部作の最終作品にふさわしい内容、そして以降の彼の作品を語るにおいて避けて通れない内容の小説を書き上げた。そして詳しくは本書を手に取ってほしいのだが、“鼠”をはじめとして、それなりの運命を登場人物に与えることに成功している。 | ||||
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本当に久しぶりに、村上春樹の第3作目の作品である「羊をめぐる冒険」を読み始めた。上巻だけで、これまでの「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」のいずれよりもページ数が多くなっている。これまで主要な登場人物であった鼠とジェイも、みたび現われる。“鼠シリーズ”の集大成と言ったところでは、ないだろうか。 本当に不思議なもので、主人公である‟僕”は、小説が始まって間もなく、離婚してしまう。これ以降の作品でも、村上氏は「ねじまき鳥クロニクル」で主人公の妻が家出してしまう、或いは最新作の「騎士団長殺し」でも主人公の男性が離婚してしまう、と言う設定を取っている。村上氏にとっては、妻の消息不明、または離婚、と言うのが大きなテーマになっているようだ。 最初に読んだ時は恥ずかしながら気づかなかったのだが、1970年11月25日に三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説している場面がテレビに映っていると言う描写が冒頭に出てくる。村上氏は、あの時代に生きた文学好きの青年だったら一度くらいは手に取ったであろう三島については、ほとんど関心がなかったと述べているようだ。その一方で、どこかエッセーで記していたのだがショーロホフの「静かなるドン」とドストエフスキーの「罪と罰」は三回ずつ読んだそうで、この「羊を……」の僕もこの両作品を三回ずつ読んだことになっている。登場する作家の好みからすると、村上氏は三島のことを余り気に入っていなかったのかもしれない。 題名通り、主人公である僕は、ある女性と羊を探しに出かける、その出発までのいきさつが、上巻の内容である。けれども、これ以降の村上氏の作品がそうであるように、いろいろな仕掛けが備えつけられているのだろう。それを楽しみながら、読み返したい。 | ||||
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村上春樹はストーリーだけ追っても詰まらない。この下巻もやはりイマイチすっきりしたラストではない。主人公や鼠は結局自分探しの旅を終え、学生時代から続いたモラトリアムと決別した、と言う事なのだろうか? 今巻で印象に残るのはやはり羊男。ちょっと不条理な絵本だと思えば一番納得出来た。きっとそれで良い。とても読み易いし、人生の哀感みたいなものが良く伝わってきた。それで十分ではないか。 | ||||
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初期三部作だそうで、確かに登場人物などの設定が繋がっており、そこは素直に楽しめた。やはり基本的にあの時代の雰囲気を楽しむ類の小説かと思ったら、後半羊の謎を追うミステリに変わる。そこで「え? これってどうだっけ?」とページを戻って確認読みをしたのは私だけだろうか。上巻だけの感想だけど、本格ミステリでないのは間違いない。恐らく謎が解明されてスッキリする事なんてないだろう。が、エンタテイメント性を取り入れるためのミステリ要素と思えば腹も立たない。 羊の謎を解明するため、使いの男に飼い猫の世話を依頼するエピソードが、上巻の中では一番面白かった。いや、そんなの本筋と関係ないだろ、と言われればその通りだが、村上作品はそういう読み方で間違ってないと私は思う。あくまで雰囲気勝負の作風で、テーマ性やストーリーにこだわってはこんな退屈な作家もない。細部の洒落た文章表現やユーモアを楽しめばそれで良いのだ。 | ||||
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大好きな作品です。 ~「ダンス」まで、合わせてもう何度読んだか分かりません。 「ノルウェーの森」と「ハードボイルド」と「羊シリーズ」で、ぶっちゃけ村上春樹は完成されています。 その後、三人称への挑戦やら、技巧の掘り下げ等有り、名作「ねじまき鳥」や迷作?「1Q84」等が生まれていますが、幹は出来ていたのです。 と、勝手な解釈ですが、それくらい好きです。 | ||||
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失うものなど何も無いはずだった「僕」の冒険。自発的な選択によって進んできたかに見えた旅も、 物語の終盤では様子が変わり、無力感とある種のカタルシスに包まれます。 そもそも私たちの人生には自由意志の余地など残されていないのではないか?という無力感。 羊をめぐる冒険(下)では、運命に立ち向かう人々の物語から始まります。 【十二滝町の誕生と発展と転落】 貧しい18名の開拓民とアイヌの青年の苦難から十二滝町の歴史は始まる。 開拓民たちは夜逃げ同然に故郷の村を出て、人目につかない未開の奥地を探し求めていた。 僕と彼女は98年前に彼らが辿ったのとほぼ同じ道のりで、列車を乗り継ぎ彼の地に辿り着いた。 「せっかく苦労して土地を開拓して畑を作ったのに、とうとう借金からは逃げきれなかったのね」 【風の特殊なとおり道】 「鼠は何かを理解している。」「あの黒服の男も何かを理解している。」 自分が辿ってきた全ての行動が黒服の秘書の思惑通りであったことを知り僕は落胆する。 「彼らが利用し、しぼりあげ、叩きのめしたものは、僕に残された最後の、本当に最後のひとしずくだったのだ。」 【時計のねじをまく鼠】 「羊の代償は気が遠くなるほど美しく、そしておぞましいくらいに邪悪なんだ。」 「もう少し遅かったら羊は完全に俺を支配していたからね。最後のチャンスだったんだ」 鼠は羊の差し出す運命を拒否して自ら死を選んだ。 自殺が彼に残された唯一の自由意志の発露だったのかどうかは分かりません。 それでも十二滝町の歴史の始まりが名も無きアイヌの青年の情熱であったように、 鼠の葛藤が発火点となって「僕と鼠の物語」が生まれ、今や世界中の読者に読み継がれています。 それはまるで鼠が生み出した神話の世界を目撃しているような錯覚を私は覚えます。 | ||||
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羊をめぐる冒険(上)では、主人公が冒険の入り口へ立つまでの過程が描かれています。 「僕」は過去と未来を全て失い、困惑しながらも徐々に運命を受け入れていきます。 それは鼠の招く異界へ辿り着くための条件でもありました。 【水曜の午後のピクニック】 大学時代の彼女の死の知らせが届いた。 「彼女が僕に求めていたのは優しさではなかったのだろう」 【彼女の消滅】 部屋に戻ると妻が泣いていた。 「あなたと一緒にいてももうどこにも行けないのよ」と告げて妻は出ていった。 【鼠の手紙】 鼠が手紙を通じて僕にある頼み事をしてきた。 そのことをきっかけに僕は街に戻るが、自分が帰るべき場所が何処にもないことを実感する。 「もう誰も僕を求めてはいないし、誰も僕に求められることを望んではいない」 【三つの職業を持つ女】 妻と別れた直後に、耳専門のモデルのガールフレンドと知り合った。 「あなたは本当に何もわかっていないのね」 「それはあなたが自分自身の半分でしか生きていないからよ」 彼女に導かれて僕の「羊をめぐる冒険」が始まる。 「僕」は「いとみみず宇宙」のような奇妙な世界に立たされながらも、 現実の今の瞬間を生きる自分自身を確認しながら対応していきます。 「風の歌を聴け」「1978年のピンボール」で確立した彼の世界観がここでは試されているように思えます。 | ||||
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私にはこの小説はまったくわからない。意味がではなく価値が。村上春樹氏の小説は突飛な話が多いようだが内容が有るのか無いのか私には残念だが分からない。 | ||||
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『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』とリンクしているようなので こちらも読んでみようと思います。 本書だけでも充分楽しめましたが、続けて読むと数倍楽しめそうです♪ 順番に読んで、もう一度「羊を~」も読もうかな。 | ||||
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スタイリッシュな文体、しかしリアルな現実が伝わってきて、なかなか自分にはとてもハードな小説でした。 | ||||
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「風の歌を聴け」で小説家としてデビューした村上春樹氏でしたが、「1973年のピンボール」までは当時経営していたバーと並行しての執筆でした。 毎晩遅く、バーの仕事が終わってから台所でこつこつを書き上げたそうです。 その後小説家として生きていく決心をした氏は、ジャズバーを売り払い、専業の小説家になりました。 当時バーは軌道にのっていたので、それは易しい決断ではなかったそうです。 私は本作が、村上春樹氏の小説家としての真のデビューとなったと思います。 私は「風の歌を聴け」も好きですが、この作品はどうもふわふわしているというか(そこが魅力でもありますが)、非常に短い章から構成されていて、一冊の小説を読んでいるというよりは小説の断片的なものを読んでいるような気になります。 たくさんの短い章は、リチャード・ブローティガンやカート・ヴォネガットからの影響なのかもしれません。 いずれにせよ、このときは村上春樹氏はまだ自分のスタイルやテーマを模索していく中の手探り状態にあったと言えると思います。 「羊をめぐる冒険」からは、物語がより強い芯を持つようになりました。 短い短編的な章の寄せ集めではなく、ここにはひとつの物語があります。 タイトルの指し示すように、本作は一匹の特別な羊をめぐる冒険です。 冒険、つまり何らかの目的があって、そこに至るまでの過程が描かれているのです。 この冒険が我々読者に与えてくれるのは経験です。 主人公の視点を通し、我々は読書という体験を通してひとつの冒険を潜り抜けます。 本を読む前の我々と、本を読み終えた我々は厳密な意味合いにおいては別の人間なのです。 もし氏が「羊をめぐる冒険」を書き上げることができていなかったら、多くのデビューしたての小説家のように、氏も文学界からひっそりと消えていたかもしれません。 物語の終盤で、鼠がああなったのは、やはりまだ完全とは言えなかった最初期の「風の歌を聴け」と「ピンボール」への別れだったのかもしれません。 | ||||
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30年前にこの本で出会い、北海道への強い憧れを抱いた。就職後札幌に拠点を移し、道内の都市や市町村へ訪れる機会も得た。 あの感動を再び・・と思いキンドル版発売を機に読み返してみた。 30年分の知識や経験は、10代の感受性を鈍くしてしまったのかもしれない。或いは北海道のことを知り過ぎたせいかもしれない。当時の感動がそのまま訪れることはなかった。 が、やはりいろんな意味で懐かしい。 10代の自分が感じていた世界を少し思い出した気がした。 | ||||
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使用感があるとのことでしたが良品とのコメントでした。紙質は全体的に焼けているようで古本としては標準、又はその下の状態と思います。 | ||||
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大学一年の時に出て割と話題になったのですぐ読んだが、さほど面白くはなかった。というのは私は村上春樹に批判的だがそれとは別に面白くなかったのである。蓮實重彦『小説から遠く離れて』で批判されているが、探した結果見つけたのが昔の自分だというのは「エンゼルハート」の原作のヒョーツバーグ『堕ちる天使』のパクリで、このあとでオースターもやっているやつではないのか。 | ||||
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主人公の「僕」は失踪した友人の「鼠」から郵送されてきた羊の群れの写真を、仕事でパンフレットに使った。その後、パンフレットを見て主人公のもとに訪れた男に「この写真に写っている羊を探してほしい」と依頼される。 主人公と友人の鼠は「風の歌を聞け」から出てくるおなじみのキャラ。出だしはスローペースで、主人公が羊を探しに出かけるまでがけっこう長いが、春樹らしい文章のリズムで楽しく読める。 やがて主人公と鼠は再会するが、それは酷く物悲しく、そしてほとんどが主人公の内面世界で起こったことか、あるいは幻影のようなシーンである。主人公の中ではその事実ははっきりと実感できるもので、1つの結論に至り、話は終わる。 しかし、これで何かの事実が確認できたとたぶん大方の読者は思わないのではないか。急に消えてしまう登場人物や解決に至らない筋もあるし、えっこれで終わり?的なのだが、しかし主人公の中では心理的に結論が出ているらしいし、主人公の周りの人物も納得しているし、小説もそこで終わりなのだから仕方がない。それにとにかく彼の悲しみとか感情の余韻は、解決のないまま宙ぶらりんになった疑問符と共に強い印象を残すのだ。一面の霧の中で何も見えないけれどその霧のひんやりした感じは解る、そしてその景色は美しくさえある。そんな感じがなんというか春樹らしい。 | ||||
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ここ数年、この作品が村上春樹の最高傑作かもしれない、と思っている。上巻の最初からお行儀よく読んでいくと挫折する可能性があるので、まずは上巻は斜め読みにして、この下巻をしっかりと読んでほしい。北海道の地図を参照しながら読むと想像力が鍛えられ、すごく面白い。自分の考えでは、《羊》というのは、人間のなかに潜む、残酷で「(価値中立的な意味で)純粋」な「美学」(近現代美学の祖であるバウムガルテン的な意味というよりも、むしろプラトン・アリストテレス・中世ヨーロッパ美学の皮相な誤用・悪用の意味で)の象徴的動物(あるいはユングの言う「元型」)だと思うし、自らの内に潜む《羊》(「羊男」)に負けてしまったのが鼠、負けそうになりながらも、「なんとか克服」して生き延びたのが主人公なのかもなと思う。すべての人の内面には、そのような意味での《羊》という要素がある、というのがポイントなんでしょうね。 | ||||
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いまから約25年前に人から勧められて読んだのが、デビュー作の「風の歌を聴け」そして続編ともいえる「1973年のピンボール」。 残念ながら同時期に読んだ「ノルウェーの森」同様に自分の心の琴線には響くものはなかった。 あれから四半世紀。青春篇の最終章と位置づけられており、評判も良かった本作に挑戦してみたが、村上文学に対して「不導体」で ある自分を再認識したに過ぎなかった。 初期作品に限られることかもしれないが、作品には常に「セックス」「酒」「タバコ」そして「死」の香りが付きまとい、学生運動が 終焉を迎え、どこか退廃的な空気が当時の若者たちのあいだに漂う70年代を懐かしむと同時に、その時代に対するレクイエム(鎮魂歌) を捧げるのが三部作のテーマのようにも感じた。 | ||||
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本書の時代背景である1978年は、単行本化された当時は数年前のことであったが、今となっては時代は遡っているのだから、幾分古めかしい用語も登場する。「テクニカラー」、「テレビのスイッチをつけて、チャンネルをひととおりまわして」、「部屋にはテレビ・ゲームが四台」、「ブックシェルフ・スピーカーとアンプとプレーヤー」などです。 「テレビで『バックス・バニー』の再放送」、「ナット・キング・コールが『国境の南』を唄っていた」、「パーシー・フェイス・オーケストラの『パーフィディア』」、「ベニー・グッドマン・オーケストラが『エアメイル・スペシャル』を演奏」、「チャーリー・クリスチャンが長いソロを取った」 などは、当時の読者は分かるだろうが、後の読者は何だかわからない。しかし2005年以降くらいだろうか?YouTubeの存在が、どういった曲なのか読者は知ることが出来るようになりました。今はそういう便利な時代です。 村上春樹の代表作「ノルウェイの森」などと比べて本書は軽くて読みやすい。でもこの作品は軽いがゆえにかえって腑に落ちない点が幾つかあるのです。63頁「夢の中に羊が現われて、私の中に入ってもいいか、と訊ねた。」 いったい羊に憑かれるとは何なのでしょう?ある人の解釈によれば、羊は悪魔である。そのようなものと考えれば合点はゆきます。そして上巻に戻りますが、耳のモデルの彼女はなぜコールガールという設定なのでしょう?耳のモデルという設定で十分ミステりアスではないでしょうか?まず日本にコールガールなどいるのでしょうか?フランスでは、地位の高い要人を相手にターゲットとしたそういった職業があるそうですが、日本ではソープランド嬢、本書の時代背景である1978年では、トルコ嬢と呼んでよいでしょう!多分そういった呼称が使われれば、下品なものになってしまうからコールガールなどという呼び方にしたのでしょう?そして、戻って下巻では、この耳のモデルの彼女は山を下ります。どうやって下山したのでしょうか?歩いて下山できる距離ではありませんし、ヒッチハイクできる車が付近を往来しているわけでもありません。そして、一旦、ドルフィン(いるか)ホテルに戻った彼女は、「行き先はおっしゃいませんでした。体の具合がお悪そうで」とは、何を意味しているのでしょう? そもそも、羊男と鼠との関係は、何なんでしょう?同一人でしょうか?下巻の167ページには羊男のイラストが掲載されています。この絵はすごいインパクトです。上下巻で絵はこの頁だけ掲載されている。そもそも掲載される必要があったのでしょうか?またこれほど印象深いキャラクターを絵として造形し創造したのは、誰なのでしょう? 最後に、結末のほうですが、××によって、羊男・鼠と黒服の男はどうなってしまったのでしょうか?自○なのか?それとも事故に遭遇したのか?そうでないのか?なんだかわかりません。消化が良いと思い食べたものがそうでなく未消化でいる気分で満ちているのです。 | ||||
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本書の時代背景である1978年は、単行本化された当時は数年前のことであったが、今となっては時代は遡っているのだから、幾分古めかしい用語も多く登場する。 「東京都の区分地図」、「国電」、「アルバムを開いてみると彼女が写っている写真」、「テープデッキのリール」、「近所にあるオーディオ・メーカーのショールームで新譜のレコードをひとかかえ聴いて時間をつぶし」、「運転手は座席の下から手さぐりでカセット・テープを選び出し、ダッシュボードのスイッチを押した」、「公団住宅」、「トランシーバー型の受話器」、「デジタル時計」、「ピンク電話に十円玉を三枚入れ」など。 「ジョニー・リヴァーズが『ミッドナイト・スペシャル』と『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』を続けて唄っていた。それから『シークレット・エージェント・マンになった。』」、「レコードはビル・ウィザーズに変り」、「メイナード・ファーガソンの『スター・ウォーズ』を聴きながら」などは、当時の読者は分かるだろうが、後の読者は何だかわからない。しかし2005年以降くらいだろうか?YouTubeの存在が、どういった曲なのか読者は知ることが出来るようになりました。今はそういう便利な時代です。 さて、この作品を読んで良いとか面白いとか評価をする人がいます。本書は1982年に単行本化されて1985年に文庫本化され、以後何度も再刷りされて発行が続いています。このことは、きっとそういった評価の結果なのでしょう。でも最初自分はあまり面白くありませんでした。何故かと思い巡らせば、後の彼の作品にあるような過激な性描写がここにはない、Aパート・Bパートと交互に物語が進行する形を取っていない、それ故に緊張感や興奮度が少ないといったのが原因ではないかと。「羊をめぐる冒険」という標題も何かしらスリリングな『冒険』を期待されて読んだのですが、冒険というにはたいしたこともなくその期待はかわされてしまいました。後の作品だと、ときには性描写が嫌悪するほど激しく吐き気がするほどでも、本書では、243頁のように「我々はソファーの上で抱きあった。~僕は彼女のシャツのボタンを全部はずし、手のひらを乳房の下に置いてそのまま彼女の体を眺めた。」とおとなしい目の表現です。 しかし、よく読むと「やれやれ」と呟き、「猫」がでてきて、知り合った女性が葛藤もなく主人公とまぐわってしまう。間違いなくここでは「村上ワールド」の方法論が成立しています。春樹作品を読み続けている読者にとって、数々の作品の成立の過程を知る点で「羊をめぐる冒険」は興味深い作品でしょう。「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」は羊四部作で、デビュー作「風の歌を聴け」からは、本作は3作目です。作者村上春樹がジャズバーを売却して専業作家となって書き上げたはじめての長編小説です。 ただこの作品だけを単独に読む読者にとっては、ある種の緩いいいかげんさが良いと感じるのか、それとも緩い設定の非整合性が、消化の悪いものを食べたあとのもたれと感じるのか、単独では評価は難しいです。 | ||||
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とにかくさびしい小説だ。 とても渇いている。 ストーリー展開はとても面白いし、最後にはしっかり落ち着くべきところに落ち着く。 羊男や鼠や黒服の男の会話はアフォリズムに過ぎているから、書きとめて人生の参考にしたいぐらいだけれど、そのせいでストーリーが難解に進んでいる気がする。 それでも、とても面白かったし、あっという間に読み終わった。 ただ。 やっぱりさびしい小説だ。 運転手やいるかホテルの支配人が優しいから、主人公のさびしさが引き立つし、読者である自分のさびしさも突きつけられる気がする。 面白いけど、さびしい。 | ||||
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