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羊をめぐる冒険
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羊をめぐる冒険の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.22pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全204件 141~160 8/11ページ
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物語に、序破急は必ずしも、必要ない。 読中読後に、自身が内包されている世界の、時の刻み方、 密度といった基調が揺らぎさえすれば良い。 そんな、自身の感覚が澄む、少し憂鬱な気分を与えてくれるのは、 彼だけ。 | ||||
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知人によると現在の村上春樹のスタイルを形作ったのがこの作品とのことだが、自分は「ノルウェーの森」「1Q84」に続いて本書が村上作品の3作目なので、その辺りはよくわからず純粋に一つの小説として本書を楽しんだ。 「1Q84」の時も思ったがこの作家の比喩能力はものすごい。フランス料理のレストランで空の皿を「滅亡した惑星のような」と例えたり、「温度の違う淀みに足をつっこんでしまったような」不吉な感じの「嫌なカーブ」といった、村上氏でなければありえないような比喩が続出し、それだけで楽しい。 また登場するキャラクターもユニークだ。「美しい耳の彼女」には参った。こんな素敵な耳の持主には自分も是非お目にかかりたい。それ以外にも「羊博士」や「羊男」など、こんなキャラをどうやったら思いつくのだろう。 ストーリー自体は荒唐無稽だ。事実だけを抜粋したら読みたいと思う人は少ないかも知れない。でも村上氏の手にかかると、不思議なリアリティな生まれ、読者はその世界に引き込まれてしまう。20年以上前に「ノルウェーの森」を読んで以来、何故か氏の作品を手に取ることはなかったが、昨年来、「1Q84」に続いて本書を読み、どうやらこれから本格的に村上ワールドに浸かることになりそうな予感がしている。 | ||||
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本書は『村上春樹全作品 1979〜1989〈1〉 風の歌を聴け;1973年のピンボール』の続編である。 私は先行作品を先に読んだので、本書単独で楽しめるかどうかは分からない。たぶん、面白さが半減すると思われる。 文章は相変わらず読み易く、筋書きは起伏に富んで面白い。 前作および前々作が青年らの日常描写に近いのに対し、本作は冒険もののファンタジーとなっている。 あらすじは、とある羊の群れの写真に一頭だけ写り込んだ謎の羊を探して、 前作と前々作の主人公『僕』と彼のガール・フレンドが北海道を旅する、というもの。 推理要素はないものの、主人公らのしていることは探偵さながらである。 冒頭出てきてすぐに死ぬ『誰とでも寝る女』の存在意義のみピンと来なかったが、 あとは寸分の隙もないガッチリした構成が見られた。 | ||||
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映画ノルウェイの森を恋人同士で観てがっかりしたあなた、あなたは間違っている。 村上春樹の世界は、自分で読まないと見えてこない。 そしてノルウェイの森より先に、本作を含む最初の3部作を読むべきだろう。 ささやかな希望としては、中高生にこそ読んでほしい。 鬱を引き合いに出す人がいるが、真に感じるべきは自分の立ち位置、希望や道である。 そしてあなたは、どこに向かうべきか、初めて自分で解るのだ。 | ||||
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風の歌を聴け、1973年のピンボールに続いて読みました。 風の歌を聴けでは、”村上春樹さんが自分の方向性を決められずに迷っている”と感じました。 1973年のピンボールでは、最初の3/4まで”平凡な他人の日常生活はつまらない”と感じた後、残りの1/4で不思議な面白さを味わいました。 そして、この作品。 まず、面白かったです。特に、舞台の場所が変わった後は、”次がどうなるのか”を待ちきれずにノンストップで読みました。不思議な不思議な世界。わけも分からず、天国に連れて行ってもらった気分です。 他の作品も読んでいきます。 | ||||
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村上春樹の初期の頃の作品しか読んでいない。社会現象のように売れた「1Q89」を読んでいない。だから、わたしはなぜ、村上春樹の「ノルウェイの森」のような官能小説まがいの作品がノーベル賞を狙えるのかまったくわからなかった。しかし、ごく最近になり、初期三部作を読み、考えは百八十度変わった。性の解放以後の恋愛小説の基盤となるものを書いているのは、やはり村上春樹なのではないだろうか。それも、「風の歌を聴け」「羊をめぐる冒険」「ノルウェイの森」のような作品においてである。たまたま、最近偶然、文学の代表作「赤と黒」を読んだものだから、十九世紀において、不倫とその終焉である死が文学であったのが、村上春樹によって、新しい性の描き方が提示されたのだと思った。第一章がいちばん好き。この作品において、わたしは村上春樹を偉大な芸術家だと確信したのである。 | ||||
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書店で手にして家に帰って読み始めたら、「あっ、昔一度読んだことがある本だった」と気づいた。ところが、どんなストーリーだったか思い出せない。読み進めるたびに、「そうそう、この話だった!」と思うのだが、どうしてもその先が何だったかは思い出せない。その繰り返しがずっと続く形で最後まで読んだ。 不思議な読後感。。。後半で羊男が出てくるところで、訳が分からなくなってしまった。鏡を見ている自分について出てくるところが非常に引っかかったのだが、その先まで見通せず。。。その後、どうしても、もやもや感が抜けず、ネットでこの本の解釈について、あれこれと調べてみた。そうしたら、ネタバレ注意と書かれたブログに見事な解釈が載っていた。 そう、一度読んだ本なのに全然思いだせなかったのは、昔もそして今回も完全に間違った解釈をして読んでいたからだった。それぐらい、この本は物凄い作品だということを思い知らされた。本当は、何回も読んで、正しい解釈にたどりついた方がもっと快感が得られたかもしれないが、今の気持ちは、スッキリ感半分、もう一度どこで読み間違ったのか確認しようという気持ちが半分といったところ。 自分に気付くという点では『国境の南、太陽の西』のハジメくんと同じなのかなとも思いました。やっぱり村上春樹は面白くて、凄い。 | ||||
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物語としての完成度は非常に高い。多分、春樹作品としては最高傑作。ただ、彼の作品の根源的魅力が作品の多読性と不可知性にあるとするなら、それ故、「凡作」とも評価されうる。でも、まあ、それはどうでもいいや。 春樹作品を多くの人が、「よく意味がわからない」と言いながら読んでいる。それではナゼ読んでいるのか。単に作品自体をオシャレなファッションアイテムとして消費しているのか。多分そうではない。大事なのは恋愛なんだ。最初に恋愛があって、二人のデートとしての物語が発生する。デートだから何でもいいのだ。結末だってなんでもいい。破局は新しい相手との恋愛のスタートだから。大事なのは彼女の魅力なんだ。そして、それを感じる自分の感受性。 問題は、そんな素敵な恋愛が可能になる自分や彼女の思考スタイルだ。最近は「草食系男子」なる存在が注目を浴びている。これって春樹ワールドの主人公なんじゃないのか、と思う。草食系男子なら村上小説的恋愛を堪能できる。草食系男子なら女子の抱えるジレンマにも対応できるので女子的にも都合がいい。実際、この小説で恋愛対象になる女の子はコールガールだ。花の間を飛び回る蝶の生きたい今の娘には好都合だ。貞操なんて束縛なんかクソクラエさ。 自由に生きたい。そして愛されたい。そんなふたつの欲求は本来矛盾している。だって、愛は束縛だもの。でも、それが両立する可能性が村上ワールドだ。なんだ、単純な話じゃないかと早合点してはいけない。だって、この矛盾が本当に解消されるなら人類は進化したと表現できるぐらいの変化を遂げるはずだから。 | ||||
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読み終わった後、切ないけれど、どこか不思議なすがすがしさを感じる作品だった。 青春時代を一緒におくった「鼠」との別れによって、「僕」の青春も終わったのだのだと感じさせられた。 最後まで自分の弱さを捨てきれず、自分の弱さが好きだといって消えていった「鼠」の言葉に胸が熱くなった。 個人的に、村上春樹の作品の中でもっとも思い入れが強く、一番好きな作品だ。 | ||||
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この作品を見て北海道に旅に出たくなった お金に不自由せずにホテル暮らししてうらやましいなとも思った 羊男の言動に思わず吹いてしまう。 へんてこな冒険小説。 | ||||
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●1回目背中に星の斑紋をもった羊をめぐる冒険行が始まる。気だるく過ぎる時間の中に何らかの小気味よさを感じます。意味をもたない事でさえ、何物かのメタファーではないかと捉えてしまいます。「本当にしゃべりたいことは、うまくしゃべれないものなのね。そう思わない?」-----------------------●2回目「何が起ったのか自分でもまだうまくつかめないだけなんだよ。僕はいろんなことをできるだけ公平につかみたいと思っている。必要以上に誇張したり、必要以上に現実的になったりしたくない。でも、それには時間がかかるんだ」 | ||||
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デビュー作の「風の歌を聴け」から、「1973年のピンボール」と続く中で、 個人的には、「僕」が、(否応なしに)、初めて社会との関係を持った この作品は、村上さんにとっても転機となるものだったと思う。 物語の途中、黒服の男が登場するまでは、物語はいつもの展開で 進んでいくように見える。淡々とした日常の描写や、ごく親しい人間に 限定された関係性と、僕の内的な世界でのお喋り。 そして、「異物」である黒服の男が出現し、そこから運転手や先生など、 これまでの「僕」とは関わりあいのない世界で生きてきた人びとが 乱入してくることで、物語のペースが一気に加速し、複雑になる。 トンネルを抜けて、風景の見える道を楽しみながら進むように、 作品としての面白みは、これによって大きく増したように感じた。 ちなみに、本作に登場する「先生」のモデルは、児玉 誉士夫さんとの 説を耳にすることがある。真偽の程はわからないが、そのように重ねて 読むことで、見えてくる時代の一面もある気がする。 前半は、ちょうど主人公たちが北海道に渡る場面で幕を引くので、 その後の進展が気になって、下巻を読みたくなる内容だった。 ▼ 本 文 引 用 歌は終わった。しかしメロディーはまだ鳴り響いている。(144) 世界に対して文句があるんなら、子供なんて作るな。(231) ※このレビューは、出版年度の違う同名作品の欄にも掲載しています | ||||
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この作品から本当の意味での村上ワールドが始まった、と考えている。 青春3部作の完結編。 といってもこの後に「ダンス・ダンス・ダンス」が発表されて、結果として4部作になる物語の3作目。 始まりは前2作同様の雰囲気で淡々と静かにすすむ。 妻が他の男のところにシケこむことになって、離婚しても主人公の「僕」は動揺しない。 それが自分の知っている男だったとしても。 そして今度は双子ではなく(前作1974年のピンボールでは双子だった)、高級コールガールのバイトをしている耳モデルの女の子がガールフレンド。 いつものように静かに物語は流れていくのかと思いきや、ある日突然大物右翼の代理人と名乗る者が登場するところから話は転がりだす。 問題は、PRの仕事であるパンフレットに使用した羊の写真だった。 その写真は友人の鼠が旅先から送り、「人目につくように」してくれと頼まれた写真だった。 大物右翼の代理人は、「僕」にその羊の調査を命ずる。 従わなければ、生活をメチャメチャにすることくらい簡単だという脅しをつけて。 札束を渡され、猫の「いわし」を運転手に預けて、耳モデルのガールフレンドと一緒に札幌に飛び立つ。 ガールフレンドが選んだホテルはその名も「ドルフィン・ホテル」。 この「いるかホテル」からこの物語は加速度的に展開していく。 耳モデルのガールフレンド。 羊博士。 羊男。 独特の文体と雰囲気を残しつつ、まさしく「冒険」は続く。 読み終わった後もしばらく不思議な余韻が残る名作。 村上春樹の本領はこの作品から発揮される。 | ||||
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良い作品です。文章も良いし、構成的にもバランスが取れていて、破綻していない。 最後まで読みきれば、透明な悲しみで満たされます。 村上さんの作品の中では、上位のものと思います。 | ||||
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物語自体は、美しい耳のガールフレンド、羊という思念、羊男の存在など不思議な部分が多々ある。 この辺は突き詰めて考えるも良し、そんなもんかと軽い感覚で読み進めてもいいと思う。 読み終えてビックリしたのは、鼠という存在が私(読み手)の想像以上に大きくなっていたことだ。 風の歌、1973年のピンボールを読んでも、本書の終盤に至っても、鼠はそれほど大きな存在だと感じていなかったのだが。 それがラスト5行に到達したとき、形になった。 あるはずの所にあるべきものがないのは、とても辛い。 激しい喪失感を覚え目頭が熱くなった。 前二作と合わせて読み返していきたい作品である。 | ||||
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村上のデビュー作「風の歌を聴け」で同じく我々読者の前にデビューしたのが、三階建ての豪邸に住むリッチな"鼠"とジェイズ・バーのオーナーである中国人の"ジェイ"である。ジェイズ・バーは、その後何度か場所を変え、今でも"街"の埋め立てられた海の近くでちゃんとやっている(はずだ)。"鼠"は村上の二作目「1973年のピンボール」で我々の前から消え、本作の最終章に近いところ「羊をめぐる冒険V」で、突然、"僕"と我々の前に現れるのだ。 "鼠"曰く、「これ以上堕ちていく自分を人前に曝したくなかったんだ・・・・・」だと。 "鼠"も"僕"も今や30歳になっている。 ここで、初期三部作は終了する。 しかし、「羊男」と「羊博士」は、「クリスマス」と「ふしぎな図書館」でまたまた現れるのだ・・・・・。 佐々木マキ描くところの「羊男」のギャップが大きすぎるのはどう考えたらいいのだろう。 それとも、「羊男」ないしは「羊博士」なるキャラクターは、何らかの比喩か、そうだとすればそれは何? この初期三部作の三冊目を改めて読み返してみると、2008年そして今年2009年の二年連続して、期待されながら、しかし村上がノーベル文学賞が取れなかったその理由がなんとなくわかってくると言ったら・・・・・。 今、この時期に「1Q84」が圧倒的な興奮を世界中に呼び起こした2009年という今年、この三部作を再読してみるそれなりの価値はあると言ったら・・・・・。 | ||||
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大学時代に出会って,もう25年あまり。 あの頃はあまりにのどかで,北海道に来てしまったら連絡のとりようのない状態なんて当たり前だっただろう。 北海道は今でも広いが,高速道路ができる前は,本当にどこに行くにも遠かったのだ。 そんな北海道の大地で繰り広げられる話。 道産子にとってはうなずけるシーンが多いのだ。 羊男と鼠,そして主人公,耳のモデル。 今でも設定が斬新だし,海外で評価されるのもうなずける。 羊は日本にとって管理された家畜だった。 今では人間が情報に管理されてしまっている。 | ||||
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新作1Q84の発表で、村上春樹への関心がバブリーに沸騰している。私は彼の作品のうち、本作をあまり好きではない。連作のキャラクター達が登場するから、好きな人は好きなのだろうが、長い割に楽しめなかった。 固有名詞が一切出てこない作風は、彼の小説の普遍性を演出しているのだろう。そこがややキザな感じがするし、もったいぶった感じがするのだが。人から人へ渡り歩く観念的かつ実存的な「羊」については、いくらでも深読みできるだろうが、共通仮想敵のいない現代日本にとっては決定的な解釈がない。 これだけ長いが、読後の感想は「青春はいつか終わるってことか」という感じ。 | ||||
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村上春樹の3作目。第1章は、誰とでも寝る女の子がいて、語り手である主人公はその誰とでも寝る女の子と寝て、誰とでも寝る女の子はトラックに轢かれて死んだ。この章はまったく不必要。第2章は主人公が離婚するはめになる話。村上春樹には子供がいないらしいが、この章にもあとのいくつかの章にもその言い訳がましい言葉が何回か出てくる。この物語の登場人物には、村上春樹を除けば、誰にも名前がない。無名だ。誰も名前で呼ばないし誰も名前で呼ばれない。そういう世界だ。それがねらいだって?「百パーセントな耳」(!?)を持った女がでてくるあたりから、話はまったくでっちあげであることがまるわかりの内容になってくる。鯨のペニスの挿話もいらない。平凡、退屈、凡庸といった言葉を多用し、あいかわらずうんざりし、煙草を吸いまくる。あるいはビールをのむ。梅雨は初夏だと勘違いしている。前作までに比べると、苦労して花の名前だとか鳥の声を出しているが、季節感が凡俗なのでどれもちぐはぐ。風景描写は実に下手だ。「世界に対して文句があるなら子供なんて作るな。」だって。やれやれ、いいきなもんだ。第4章からは羊をめぐるインチキ話が延々と続きます。乞う御期待。(下巻に続く) | ||||
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『羊をめぐる冒険』というタイトル通り、 「羊」を主人公が探しに行きます。 でも、追いかけて確実に主人公が羊へと近づいているのに、 同じところをぐるぐる回っているような、奇妙でおもしろい気分を味わいました。 読んでいて、私なりに考えたことを書きます。 主人公の「僕」は世間に流されない印象を受けます。 この物語は第一章「1970/11/25」(上巻)から始まります。 三島由紀夫の死んだ日です。 けれども彼はこのことをたった一行ですませ、我々には関係ないこと、と言い切っています。 『羊をめぐる冒険』はほかの誰でもない、「僕」という個人の物語なのかな、と思います。 (同様に、十二滝町の歴史に登場する、アイヌ青年も私にとって印象的でした。 十二滝町の歴史の記述は、アイヌ青年の個人の物語でもあるのです。) 「僕」の物語に突然現れた「羊」は、僕という一人の確固とした個人の歴史に対し、 隠蔽された歴史、あるいは失われた歴史を表しているような気がします。 「羊」の大きな力により世界が左右されていることは、ほとんどの人が知り得ません。 そしてまた、この隠された歴史は、教科書に名を残すことのなかった個々の歴史にも 重なるところがあるかもしれません。 | ||||
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