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燃えつきた地図
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燃えつきた地図の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.90pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全19件 1~19 1/1ページ
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「都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ」 著者の他作品である『砂の女』『他人の顔』『箱男』『壁』などと同様、社会における「私」について考えさせられる、安部公房らしい一冊。「ここではないどこか」を願う思いは、いかにして満たされうるのだろうか。「私」は「私」を捨てて逃げ去ることができるのだろうか。筆者の言にもありますが、都市文明社会に生きる「私」の「私」からの解放の可能性について考えさせられました。 一冊の面白さ、安部公房文学への入り口という観点からは『砂の女』をおすすめします。 安部公房の作品をいくつか読んでみたいというのであれば、そのうちの一冊としておすすめです。 | ||||
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最近公房さんにハマってしまった。展開が面白くて止まらなくなるが最後が、?、って感じか。 | ||||
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たぶんネタばれあり。 読み始めは推理小説かと思ったが、それにしては不自然さが目立ってくる。この不自然さを解くカギはおそらく、失踪者の根室洋と主人公の私が同一人物と考えれば良いのだろう。つまり失踪した根室をその妻と弟が探したところ、根室が偶然か必然(心理的抑制)かで過去の記憶をなくしつつも興信所の調査員として働いているのを発見していたのである。そこでがみがみと真実を告げるよりも、自ずから自分が根室であることを悟ってもらおうと私に根室の捜索を依頼したのである。すなわち知らぬは本人ばかり、ということなのではないか。そう考えると不自然さの多くを説明できると思う。主人公は記憶を取り戻せたのか? それはお楽しみにである。 | ||||
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"探しだされたところで、なんの解決にもなりはしないのだ。今ぼくに必要なのは自分で選んだ世界。自分の意思で選んだ、自分の世界でなければならないのだ。彼女は探し求める。ぼくは身をひそめつづける"1967年発刊の本書は失踪三部作の1つ、前衛的にめくるめく都市社会を疾走する円環小説。 個人的には、失踪三部作の他ニ冊『砂の女』『他人の顔』が既読だったので、映画化もされている本書も手にとってみました。 さて、そんな本書は失踪した或るサラリーマンを捜索する興信所員『ぼく』が男の足取りをおって調査を進めていく様子が昭和の香り漂うハードボイルド探偵小説風に奇妙な人物たちと出会いながら展開していくも【謎解きはされず】それより、いつしか『ぼく』自身が表裏がひっくりかえるかのように名前や記憶の一切を失い、都市社会から失踪してしまうのですが。 まず。個人的には著者の作品は何冊か手にとってきましたが【回り道をあえてさせられているような細かい文章】が続く反復的、散文的な文体は、多少読みづらさこそあるものの"クセになる"というか。本書解説でドナルド・キーンも触れていますが冒頭の『アスファルトの道路』やラスト辺りの『電話ボックスに残された大便』や"油が乗っているから栄養になるかなあ"と『ゴキブリを肴にしてしまう男』など、映像的な【鮮烈なイメージに脳がハッキングされ、強制的に刷り込まれる】ような独特な魅力がある。とあらためて感じました。 また、それでも本作は展開としては失踪三部作の他ニ作、砂の中に埋められた家に閉じこめられる『砂の女』や他人の顔をかたどったマスクを被る『他人の顔』といった超常的な設定から唐突に始まる作品達と較べると、最初から【典型的、現実的な探偵小説のスタイルを与えられている】ので、とっつきやすいわけですが。やっぱりすぐに"あ、これは事件解決の望みはない"と気づいた後に【予想通りに異界へ連れさられていく】ような不安が与えられていく感覚。まんまと著者の思惑にのせられたような悔しさと楽しさ。控えめにいって最高です。 デヴィッド・リンチ監督のような映像的な作品が好きな人、都市社会の不安や孤独を描いた作品が好きな人にオススメ。 | ||||
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興信所に勤める探偵は、失踪した男の探索を依頼された。依頼人は男の妻だ。 手がかりが乏しい上に、妻の話は辻褄が合わない。 妻の弟と称する男が接近してきたが、調査は解決に向かうどころか五里霧中の混迷の中に踏み込む。 人間の蒸発が話題になり始めたころの作品だ。現代人の不安と孤独を寓話的に描き出したーーのだろうか。 作者の真意を社会や芸術と結び付けて論じるのは評論家の仕事なので、あまり深入りはしない。 いつものように単純に感想を書きます。 作者の長編の多くがそうであるように、プロットが堂々巡りして明快な解決には至らない。 では退屈かというと、とんでもない。やたらと面白い。 細部のディテールが妙に魅力的なのだ。 自販機の並ぶ底辺の居酒屋とか河川敷の移動式ラーメン屋などの佇まいが、脳裏に焼き付けられる。 依頼人の女性や探偵の別居中の妻は、性的な描写もないのにおそろしく艶めいた印象を残す。 弟とその子分たちの商売には唖然とさせられる。 細部だけで魅了された。力のある文章とは、これほどに凄いものか。 | ||||
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主人公は興信所の社員であり妻とは別居中。 大燃商事の課長である根室(34)が失踪。根室の妻(妊娠中)が失踪調査の依頼人。しかし、根室についてほとんど手がかりになりそうな情報をもらえない。この妻の弟、つまり、根室の義弟も自分で捜査したらしい。根室の後輩社員の田代は多少は何か知っているようだが、それでも手がかりになるようなものかはわからない。 義弟はヤクザで、調査費用は義弟から出る。義弟がなぜ根室を探したいのかもよくわからず。義弟は燃料店をゆすっているらしく、それは調査費用を稼ぐためだというし、もしかしたら、なにか悪事を成功させるためのアリバイ作りではないかと主人公は疑う。まったくもやもやしたところで義弟はヤクザの抗争で殺される。 義弟は家出少年をあやつる組織の組長だったらしい。また、義弟と姉の間には「愛」のようなものもあったらしい(よくわからない)。「この辺を、せっせと歩いている連中だって、考えてみれば、一時的な行方不明人みたいなもの」「一生か、数時間かの、ちがい」とは主人公のセリフ。 早暁、田代から主人公に電話がある。田代は電話をかけたまま自殺。これがきっかけとなって主人公は興信所を辞職。その後、主人公は何ものかに暴行され、これがきっかけで記憶の一部を失ったらしいが、本人としてはそういう感覚でもないらしい。誰だって、同じように、狭い既知の世界に閉じ込められているのだから。ただ、どうも道がわからない。 という捜索する人が捜索されるべき人になっていく、という話。 | ||||
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「・・・いや、もしかすると、ぼくが自分を落としたのではなく、ぼくが自分に落とされたのではなかろうか」 最初に読んだのは、約半世紀ほど前。映画が封切りになった年(1968年)でした。年がバレルね。 | ||||
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欲しいと言っていたので、買い与えました。本人は満足しているみたいです。 | ||||
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***このレビューでは、あえて“分裂病者”、“正常者”ということばを使っていますが、差別的な意味ではありませんので、どうかご了承ください*** 安部公房のいくつかの小説には共通点ともいうべきテーマがあります。主人公の男性はある日、突然迷路のなかに迷い込んでしまい、そこからなんとか脱出しよいとするが、結局うまくいかないというものです。 これはそもそも、このテーマ自体が、きわめて親分裂病的な性格を帯びています。 『砂の女』では迷路を構成しているのは“砂丘”で、最後、主人公は、迷路になぜか、違和感を感じることがなくなり、脱出を放棄してしまいます。 この『燃えつきた地図』は、読むうえで、『砂の女』とはことなり、ふたつの予備知識を要すると思います。 ひとつ目は、この小説で迷路を構成しているのは“都会”や“現代”などではなく、“坂の上にある町”、“勾配の町”、“台町”であることです。 “坂の上”というとなにか遠くまで見わたせるかのように思ってしまうのですが、それが住宅地であると、住宅の壁や屋根がちかくにせまるので、遠くは見えないのです。ランドマークとなるような駅前の高層ビルとか、へんてこな形をした建物などが見えないので、方向がわからなくなります。空はやたら高く、まわりは似たような住宅のくり返しとなるので、位置感覚も、方向感覚もなくなって、ゆえにゆえに“坂の上の町”は迷路を構成しえます。 ふたつ目の予備知識ですが、最初に“親分裂病的な…”という表現をつかいましたが、今度は精神分裂病の定義に相当するような概念についてです。 L. ビンスワンガーという有名な精神医学者がいます。彼の主著は『精神分裂病』という上下二巻の500頁にもなる大著です。その序論の7頁で、精神分裂病の基礎的な概念を述べています。 “(A)分裂病と診断された現存在経過の理解にとって基礎的な概念は自然な経験の一貫性の分解(原著では、この12文字は横に黒点)すなわち非一貫性であることが明らかとなった” 具体例をあげます。 私の知り合いのK君(男)の部屋では、きれいなテーブルクロスが敷かれた机のうえのガラスの小瓶に、細長いスティックシュガーがいれられています。そのスティックシュガーの紙の端に、よく茶色のマジックでポチが打たれているのです。このポチはなぁーに? とたずねると、ヒ素をいれられたスティックシュガーを区分けるために印をつけているのだ、と答えがかえってきます。 分裂病者が語る“毒”とはそれがどんな表現がされていたとしても、正常者が考える生理学的な“毒”とはまったく異なるものです。 分裂病者はどんなに見知っていて慣れ親しんだ風景でも、人物でも、事物でも、ある日ある瞬間を境に、中身(あるいは意味)がすり替えられてしまったかのような感覚をいだくのです。中身がかわってしまった“なにか”となって、目の前に出現する、ということもできます。 中身が変わると、その雰囲気も変わってしまいます。彼らの頭のなかでのすり替えられてしまった風景、人物、事物のかもしだす不気味な雰囲気、それを彼らは“毒”というのです。 文庫本版の291頁の“道の表面がアスファルトではなく…”は、この小説の冒頭と文章は同じです。文章は同じなのですが、中身と意味が違います。まさにL. ビンスワンガーのいう“自然な経験の一貫性の分解”がドラスティックにおきているのだと思います。 そう考えながら291頁以降を読んでいくと、 “考えてみると、こんな程度の記憶の中断なら、これまでにも幾度か経験したことがあるような気がする(293頁)”。 “けっきょく、この見馴れた感覚も、じつは真の記憶ではなく、いかにもそれらしくよそおわれた、偽の既知感にすぎなかったとすると…(296頁)”。“手品のように、たえず誰かが、消えた町の向こうに消えて行き、かわりに誰かが消えた町から現われる…(中略)…うまい具合に、顔見知りでも通りかかってくれるとありがたいのだが。もっとも台地の町と同様、見知っているはずの顔も、見知らぬ他人に変わってしまっているのだとすると…(296頁)”。 この296頁の叙述は、正常者の“あぁ~勘ちがい、デ・じゃめ・ビュ・しちゃた!”レベルではないと思います。“自然な経験の一貫性の分解”をさせたあとで、その印象を主人公に叙述させているのだと思います。 以上、自分でも独断にみちた読み方だとは思いますが、でも、僭越かもしれないけど、特にふたつ目の予備知識がないと、この『燃えつきた地図』の296頁までは読むのは、不可能だと思います。 | ||||
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あなたも、あいつもこいつも消えていなくなる。現代社会の迷路に迷い込んだ男の話、映画にもなっています。 | ||||
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一体誰を信じればいいのか。 そして次々に消えていく登場人物達。 探偵である主人公が失踪した男を捜索するうちに段々と自分を見失っていく物語。 ある種のミステリー性を孕んでいるのでスラスラと物語は頭に入ってくる。 唯、そこに含まれる安部公房独特の隠喩は難解に思える。 | ||||
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安部公房先生の作品を何点か読んだ事が有る方でしたら こちらのお話は箱男、カンガルー'ノート、友達、人間そっくり のテイストに似た例えるなら不条理系です。 そして1冊が400P近いので結構な長編かと思います。 文中地図や新聞の切り抜きの挿絵が何枚か入っているので読み疲れた時のちょっとした休憩にはなるかと思います。 解説はドナルド'キーン先生です。 物語は興信所で働く主人公(物語終始名前無し)に半年前行方不明になった夫の捜索をして欲しいと根室夫人から依頼が来るところから物語は始まります。 根室夫人が差し出した手がかりは 居なくなる前日にレーンコートに入っていたマッチ箱と夫である洋の写真のみ。 その僅かな手がかりを元に捜索を開始するのですが 道中出会う 夫人の弟、洋の部下田代、ゴキブリを食べる男だったり男娼だったりとどことなく気味が悪く胡散臭い人達ばかり。 依頼人である妻のりも情報が二転三転し、結果誰が本当の事を知っているのか、 この依頼は不明人を本当に探したいのかと色々考えさせられます。 結果めぐりめぐって調べ上げた洋の事はさておき主人公が、、、、となります。 物語彼の名前が出なかったのに納得がいきました。 ですが物語を読んで移動場面が少なく同じ様なところをぐるぐる回っている薮の中のもやもやした気持ちにさせる構成はすごいなと感じます。 | ||||
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この長編には、底本となった「カーブの向こう」という短編がある。『燃えつきた地図』のエピローグは、ほぼ丸々この短編が充てられている。『燃えつきた地図』の大半は、エピローグに読者を導くためのものだ。他の方のレビューに「だらだらと長い」とあるが、そのような感想を抱く読者がいてもおかしくない。 人探しを依頼された探偵が、街の中で自分を見失っていく。『燃えつきた地図』はそれだけの話だ。ストーリーなどあってないようなもの。意味ありげでウィットに富んだ(ような気にさせる)警句も、猥雑な街の描写も、会話という名のモノローグをつぶやく登場人物たちも、すべては色あせ、書き割りのように立ちすくむ。 それでも、私はこの長編が大好きだ。負け犬のダンディズムが匂いたつこの長編が大好きだ。 エピローグに至って、主人公は何もかもを失う。いや、そうじゃない。最初からすでに失っていたんだ。彼はやっと気付いた。自分の影に目をそむけ、せいいっぱい虚勢を張って、いっぱしの常識人のフリをして、襲いくる不安を振り払ってきた自分に。最後に彼は微笑むが、それはなんの解決にもならない。 なのに、ここに至って読者ははじめて感情移入を許される。それまで強固に突っぱねられつづけた感情移入を。 もちろん、ただ戸惑うだけの読者も多いだろう。あなたはこの小説に選ばれなかった。それはとても幸福なこと。もうこんな小説のことなど忘れたほうがいい。 残念ながらそうではなかった読者は、これから何度もこの小説を読み返すことになるだろう。そして読み返すたびになにかを発見するだろう。それは不幸なことだ。 でも、そんな不幸があってもいい。 | ||||
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ライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』 「人々は生きるためにみんなここへやってくるらしい。しかし僕はむしろ、ここでみんなが死んでゆくとしか思えない」。そんなマルテの書き綴った言葉を思い起こした。 行方不明になることは、逃亡であり、田代が言うように疑似自殺なのだろうか。自殺を選べない卑怯者がやることなのだろうか?いや、「彼」は迷ったのだ。「ここではみんなが迷ってしまう」。ここ、都会という場所では、地図はもはや役に立たない。地図は無効なのだ。無効な地図を片手に、迷い、自分を見失ってしまう。 「ぼく」は、行方不明者の「彼」を追う。追うことができるのは、「ぼく」が迷いながらも、まだ地図の有効性を信じているからなのだが、「彼」を追うことによって、その地図の無効性が露になっていく。地図は燃えつき、「ぼく」は「彼」になる。あるいは、「彼」が「ぼく」になる。たぶん「ぼく」が追っていたのは、「ぼく」自身なのだ。 迷い、自分を見失った「ぼく」=「彼」は、救済者としての「彼女」を拒否する。「彼女」が「地図の外からの使い」ならば、「ぼく」=「彼」を救うことはできない。地図は燃えつきたままだ。「ぼく」=「彼」は、迷い続けるだけのことだ。手探りで地図を描き、「彼女」に辿り着く。それだけが「ぼく」=「彼」の救済の道なのだ。安部は「絶望を語ったわけで」はない。「出発」を語ったのだ、そう私は思う。 安部はリルケからの決別を宣言したが、この小説は、リルケへのオマージュなのだ、そう私は感じたのだった。 | ||||
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迷路を彷徨いつつ、依るべき地図を持たないまま、決まった区画で生きて行かなければならない現代人の姿を象徴的に描いた作品。作中に挿入される、作者の手書きの地図も印象的。 主人公は興信所の調査員の<ぼく>。根室と言う失踪した夫の捜索を依頼して来た夫人のために仕事をすると言う冒頭の設定は普通の小説らしいが、以後の展開は小説の体裁を逸脱している。失踪人に係わりがありそうな、夫人の弟でチンピラの親分が主役級で出てきたかと思うと、暴力沙汰で殺されてしまう。また突然、<ぼく>の別居中の妻が出て来て、<ぼく>と失踪人の立場が「逃げたまま、戻れない」点で似ている事に気付かせる。更に、失踪人と最後に会う予定だった田代と言う男が、失踪人に関する嘘をついたかと思うと自殺する。「存在する」とはどういう意味なのか。読者は、カフカ「城」よろしく、<ぼく>が失踪人に会う事はないと確信せざるを得ない。それでも<ぼく>は僅かな手掛かりで失踪人を追う。もしかすると、<ぼく>が追っているのは<ぼく>自身かもしれないのだ。「メビウスの環」のような展開である。また、作者の常の如く、本筋以外の日常描写に関しても精緻かつ論理的である。特に人間の視線と女体に関しては。このため、却って物語の非日常性が高まっている。結末で、<ぼく>と失踪人が逆転したように思えたが、様々な解釈があるだろう。 小説としてのストーリー展開を敢えて崩し、不確かな地図の中で「存在する」事の意義を問い掛けた秀抜な実験作。 | ||||
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こういう読み方は正しくないのかもしれないが、憂鬱なときにぱらぱらと読んでいるとなんだかとてもホッとする作品。全体的に非常に重い不安感に包まれているが、それも含めて私にはぴったりくる(変な表現だが)。 散文詩といったら違うだろうけれども、ともかく筋の捕まえにくい作品だから、ストーリーの面白さを重視する人にはあまりお勧めできない。けれども、この作品の世界の核にいる、静止的、安定的世界を象徴しているような依頼人の女性の魅力。不安から彼女に引きよせられながらも、そこから抜け出して「自分の選んだ世界」を手に入れなければならないと自覚する主人公への共感、等々。とても自分にとって切実なテーマだとかイメージに満たされているような気がして、私は好きだ。 | ||||
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興信所に依頼が届く。1年半前に失踪した夫の行方を知りたい(「砂の女」(新潮文庫)が一瞬脳裏をよぎった)。主人公が事情を聞くために依頼主である人妻を訪ねるところから話が始まる。最初から波乱含み。錯綜が錯綜を呼ぶ。直線を歩いているに過ぎないのに、そこは絶対に迷子になる迷路のようで、しかも出口がない・・・という不気味な不条理感が全篇を覆っている。結末部は意表をつく展開で、デヴィッド・リンチ映画の呪いのような不思議さがあった。いかようにも解釈できる内容で、「解説」を読むと「ああ、そういう読み方もあるなあ」と思った(ので、「解説」は先に読まない方が良い)。ある種の混乱が楽しめる人にはすごく面白い小説だろう。理路整然は求めぬが吉。 | ||||
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現代人の心に潜む陰と倒錯が反映されていると思う。川端康成の「東京の人」の俊三同様、蒸発(失踪?)する人の心は複雑である。しかも、「たとえ、探し出されても、問題は解決されない」のである。「砂の女」同様、最後が衝撃的である。なぜなら、あれほど望んだ砂の家からの脱出を、最後の最後に自らの意思で後回しにした「砂の女」の主人公と同様、主人公はついに一線を越えてしまう。というより、もうとっくに超えていて、戻ってくるのをあきらめただけなのか…? | ||||
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『砂の女』『他人の顔』『箱男』などと並んで、本作は安部公房の代表作の一つであろう。 安部公房はご存知のように生前は「ノーベル文学賞」の有力候補としてあげられていた作家で、世界中で翻訳出版もされている。 主人公の私立探偵がある女性から依頼を受けて仕事を進めていくうちに、次第に「追う立場」から「追われる立場」のようなことになっていき、どんどん袋小路にはまり込んでいくというストーリーだ。 本書は「不条理」と「存在」が大きなテーマになっているように感じるのだが、読者も同様にそうした問いの只中に置かれるので、そういう意味ではかなり哲学的な問題意識を持って読むことも出来るし、逆にそれが面倒な読者には退屈な本になってしまう可能性があるかもしれない。 「不条理」や「存在」というと、カフカの諸著作を思い出すが、『燃えつきた地図』はカフカほど観念的ではない。 またアメリカにおいて『燃えつきた地図』は「ニューヨーク・タイムズ」の「外国文学ベスト5」に選ばれていることを考えても、小説の内容が極めて同時代的であるとして受け入れられていることがわかる。 本書の内容やテーマ性は現在も決して古びてはいないと思うし、世界中の人々に影響を与えている著作であることも間違いない。 私個人的には、安部公房の作品の中でも最も好きな作品だ。 | ||||
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