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ミーナの行進
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ミーナの行進の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.43pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全72件 41~60 3/4ページ
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最初は本の分厚さに負けそうでしたが、杞憂に終わり2日ほどで読み終えました。 この時代の事はよく分かりませんが、私にも年下の可愛い従妹がいて、 もちろんミーナ程すごい境遇ではありませんが、都会に住んでいて何でも買ってもらえて、 小さい頃は遊びに行く度にすごく羨ましかった事を思い出しました。 ポチ子に乗って登校!?とかツッコミ所も満載でしたが、このお話だったらそれもアリですね。 最後は意外にあっさり別れてしまい、ただのいい思い出になっていくのかな・・・と 寂しい気持ちになりましたが、ちゃんと続いていて安心しました。 伯父さんの事とか最後まではっきりしなかった部分は残りますが、それはそれで 良かったのかなと思えます。 ポチ子、光線浴室、乳ボーロ、フレッシー、バレーボール、マッチ箱の物語・・・。 この物語に出てくる全ての物がきらきらしていて素敵な物語でした。 | ||||
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こんなに、穏やかで、物哀しく、キュートな物語は他にないと思う。 この本を読んでいると、周囲のせかせかした人々を可哀そうに思うほど。 そして、自分が異空間にトリップしたような感覚に陥る。 物語は、小学生の朋子が、母親の伯母の家に居候することになり、その体験を懐古したもの。兵庫の芦屋に位置するその洋館はあまりに豪華。元動物園だったという広い庭を所有し、ペットはカバの“ポチ子”だったり、プールあり、六甲山ホテルからのケイターあり、とにかく裕福な家庭。 そして、そこの娘がミーナでした。身体が弱くてすぐに発作を起こしたり、入退院を繰り返したりする女の子。ドイツ人のおばあさんの血を引いてるからか、 深い栗色の髪で、色白で「女の子なら誰もが、こんなふうにありたいと願うような美少女だった」そしてミーナはポチ子の背に乗って小学校に通っていました。想像するだけで、なんて、キュート。 他にも、食事の風景やダンディな伯父さんとのやりとり、小さなマッチ箱の秘密や、 “光線浴室”なる健康器具、などなど、ファンタジーあふれてて、でもそれが、まるで本当に実在していたかのような錯覚に陥る。その作風が、村上春樹のと似ているなあ、とさるきちは思ったりもする。 精神的に弱っていたさるきちをすくいあげてくれた本。ぎゅっと抱きしめたくなるような、そんな素敵な本です。 | ||||
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読んでいる間も、読み終わって名残惜しくて本をぱらぱらめくってる間も、ずっと幸福感に包まれている、そんな本。もう一度読み直してもやはり、読書中の幸福感は変わらない。 ほとんどの人が知らないうちに通過してしまう、無条件に愛され守られていた子供時代を、読者は知らず知らず反芻しているのだろう。 小川洋子作品独特の毒はないけれど、この作者の毒って、はっきり言って、たいしたことなかった。毒を失ったのじゃなくって、作家として成長してそんなところから抜け出したんだと思う。 作品がすばらしいのでつい褒め忘れてしまうけれど、装丁・挿画の寺田順三さんもすばらいい。本棚にずっと置いておくだろう1冊。 | ||||
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小説の主人公の少女たちとほぼ同世代(大阪万博のとき小6だった私の方が少し上だが)で、神戸市東灘区で育って芦屋にも時々買い物やプールで遊ぶためにしばしば出かけ、その後芦屋で暮らし、今は芦屋を離れて年1回程度帰省し、初詣は坂道を上って芦屋神社へ行く私にとって、山と海に挟まれた芦屋の街の空気と四季の移り変わりがヴィヴィッドに描きこまれたこのような作品は、芦屋への思いがかきたてられて胸が熱くなる。作品中に登場する開森橋や高座川、実名の推測がつくY小学校やY中学校、阪神芦屋駅の近くのA洋菓子店、山手のお屋敷町、そしてこれは東灘区にあるのだが甲南病院、等の様子が手にとるようにわかるだけに、心を芦屋に残してきた者にとって本作は格別だ。特に打出にある「とっくりさん」が司書を務めて本を貸し出してくれる芦屋市立図書館(インターネットで検索すると今は打出分室になっている)は受験のときにお世話になった施設で、本当に懐かしい。あの古い建物の、人を思索的にする雰囲気も的確に捉えられている。私が通っていた頃には図書館の近くの公園に鳥だったか猿だったかの動物の檻があったのを覚えている。今もあるのか知らないが、もしかするとあれがフレッシー動物園のヒントになったのでは? 少女と少年という違いはあるものの、1972年の阪神間という時代背景に共感できる本書は私にとってかけがえのない1冊であり、細雪の愛読者にその後の芦屋のたたずまいを伝える本として薦めたい。そういえば、カバのポチ子は戦前に阪急芦屋川駅の近くに来たことになる。細雪の四姉妹、特に三女(雪子)と四女(妙子)ならフレッシー動物園に遊びに行ったかも、と想像を膨らますだけで楽しいではないか。 | ||||
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淡々とした物語の中に自分の少女時代を思いだし、不覚にも涙がこばれてしまいました。誰の心にも去来する過去の思い出。それはなんともいえない、季節や匂いと共にふいに訪れては遠ざかっていく。二度と帰れる事のない青春期。主人公と共にタイムスリップしたような奇妙な、せつなさを感じました。今毎日の仕事や家庭に終われ、くたびれたおばさんになりつつある私にも確かにあった光輝く少女時代。思い出とは誰の心の中にある、甘くせつない幻のようなもの。それは色褪せる事のない残像となり一生を終えるまでけして消える事はないでしょう。 主人公の朋子の心にいつまでも残り忘れられない芦屋での思い出と同じように。 | ||||
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ノスタルジックな内容に、なぜかじんじん来ます。 そんなに凄いことが起きるわけではないのに。 ちょっとしたエピソードの積み重ねが心をつんつんとつつきます。 寺田さんの絵が、この本に彩を加えています。 とっくりさんが言います。 「何の本を読んだかは、どういきたかの証明でもあるんや。」 | ||||
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芦屋、西宮、苦楽園…私が長く親近感を抱く地名が次々出てきましたし、ミュンヘンオリンピックの 時が中2だったので、猫田、森田、横田、大古、南…懐かしい名前にジワーンとなりました。 余談ですが、女子バレーでは生沼さんが美形でしたよね。 小説も現実も、死や別れを避けて通ることはできず、もちろん川端康成さんの死もはっきり覚えて いますが、ポチ子を始め別れの場面もあり、悲しかったです。 入院を繰り返していたミーナまで逝ってしまうのではないかとドキドキしました。 けれども、なんだ、彼女ヨーロッパで颯爽と活躍中なんですね。 朋子も元気だし、ほっとする終わり方で、楽な気持ちで本を閉じることができました。 | ||||
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毎日これでもかと伝えられる陰惨な事件や 街なかで出くわす胸の悪くなるようなシーンばかりに囲まれていると、 この国はいったいどこへ行こうとしているのかと暗たんたる気分になる。 個人的にはめざしている国が悪いのだろうと考えているが、 ここはそれを述べる場所ではない。 だからこそ、 作者は1972年にまでさかのぼらなければならなかったのかもしれない。 この年、私は主人公の朋子と同じ中学1年生、 バレー部には入部希望者が殺到していた。 そう、札幌五輪での日の丸飛行隊の歓喜のあと、 夏のミュンヘンは間違いなく男子バレーの大会だった。 日本代表の森田淳悟さんのお宅が同じ市内だったので、 厚かましくも友人たちとサインをもらいに押しかけた記憶がある。 (いま思えば、幸運にもご不在だった。) で、『ミーナの行進』だ。 この小説ではご近所での火事騒動をのぞけば、ほとんど何も起こらない。 登場人物も皆いい人ばかり。 それでも人の死をもてあそんで涙を誘う最近はやりの作品群のように、 病弱な従妹のミーナが象徴するガラス細工のような幸福な時間が いつ壊されてしまうのかという不安が背後にずっと流れていて、 最後までハラハラもさせられる。 いずれにしても、この時代にこそふさわしい、 胸の奥がほんのりと暖かくなる素敵な作品である。 女性なら感激しそうなアイテムが随所にちりばめられているし、 最近ストレスがたまってるなぁという方はぜひ一読を──。 私は真っ先に、妻に勧めた(笑)。 | ||||
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本書の舞台となった街は、私の生まれ育った街であり、 本書の舞台となった時代に、私はちょうどミーナの年の頃だった。 つまり、あの時代のあの場所の空気を全身全霊で知る私にとって、 本書は思いっきりノスタルジィに浸れる素敵な1冊だった。 今は無きあの時代の芦屋の風景を幾度も私の内面に展開させてくれた筆者の見事な筆致に、 終始、読みながら賞賛の拍手を送りつづけたことをまずは述べたい。 そう、あの時代の開森橋から高座の滝へ続く、芦屋川沿いは小説の通りだった。 重い扉を開くとどこからともなくひんやりとした空気が漂った打出の図書館も、小説のままだった。 山の手の洋館の暮らしぶりも相当に上手く描ききれている。 小川洋子が描く小説が、ファンタジーでありながら現実から逸脱せず、多くの読者の心を掴むのは、 こうした小説の舞台を厳密に設定し、一糸たがうことなく再現してみせようとするその姿勢によるものだと気付かされ、その手腕に頭を垂れるしかなかった。 そして、あの優美な場所に「カバ」を登場させるという大胆な発想に、小川ファンタジーの真髄を見た気がした。 Y小学校につづくあの坂道を、少女を背中に乗せた小さなカバに登らせるなんて、一体誰が思いつくと言うのか。 奇想天外ともいえるその大胆さが彼女の小説に躍動感を与え、読者に迫る印象を残すことに成功していると言えるだろう。 この1冊によって、私の胸に大切にしまわれていた「聖地」が懐かしい場所としてだけではなく、小川の手によって一気に新しい世界の舞台として登場した。 読後、怖ろしい小説家だと驚嘆しきりだった。 回想から現実にフェードアウトしてゆく終わり方もかなり心憎い。 おかげでいつまでも心に残る1冊になってしまったではないか。 私的に思い出すだけでワクワクする最高のファンタジーであることは間違いない。 ぜひ、あの「時」を共有する人々に読んでもらい、この感動を分かち合いたいものである。 | ||||
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「博士の愛した数式」で一気にブレイクした小川さんですが、我が家にはもうかなり前から何冊もありました。 私の最初の頃の小川さんの印象は、なんというか... 「見ちゃいけないものを平気で見せたりする女の子」。 きっと、この人はムシを分解してみたり、かさぶたをはがして、たら〜っと垂れる血をずっと見ているだろうな。 そんな思いがしていました。 ところが、「博士の愛した数式」では、『この人、もしかして子どもでも産んだ?』と思えるほど柔らかな視点で驚かされました。 本を閉じた時、幸せな満足感いっぱいのため息をついて、いい本見つけちゃった。と思ったものの、あっという間に世の中に知れ渡れ、ちょっと残念な気持ちにすらなりました。 「ミーナの行進」は、「博士」と同様、温かさいっぱいのお話です。 ミーナの細く、柔らかな髪が、ゆるい風に舞う様子まで、目に浮かんでくるような美しい描写。 トモコがあこがれの人と話す時、かけられる言葉への罪悪感を覚えつつも、押さえられない小さなときめきの描写。 図書館の匂い。ドイツ人という、お屋敷のおばあさんの描写....。 なんて、小川さんは表現が上手な人なんでしょう。 このお話もきっと、「映画にしてみたい。映画で、緑や風を表現してみたい。」と思う監督が多くいるだろうけれど、映画化してほしくないなー。 | ||||
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このせりふは、主人公の朋子がいつもはこころがそれぞれのところへいってしまっている親友ミーナの家族が揃って海水浴へいった貴重な幸福すぎたある夏の日の写真をみてつぶやく言葉です。 小川洋子さん独特の世界が静かに柔らかに展開されるなかで、この言葉でもう切なくてたまらなくなってしまいました。私の年代(40歳です)になると、祖父が逝き、祖母が逝き、子供が親離れをしていき、兄弟が不通になっていきます。その代わりに、得るものも確かに多いのですが、子供の頃に大切だったものとは明らかに違います。 その愛おしさを思うと、この朋子の大丈夫、と言った言葉が本当に自分の胸に本当に響くのです。 子供の頃に、いろいろへんてこだったことが実は当たり前のことだったり、普通だったことがとても贅沢なことだったりしたことに思いが巡る、これまでに最も心に静かにそっと深く深く響いた作品の一つです。 | ||||
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時代は大阪万博、ミュウヘンオリンピックがあった昭和のよき時代。 中学一年の主人公が、従姉妹のミーナが住む芦屋の豪邸ですごした、 思い出深い1年間の話。 虚弱とはいえ、小学校に“カバ”に乗って通学するミーナ。 昭和のお金持ち生活が、破格過ぎておもしろい♪ 家族みんながそれぞれに、小さな悲しみや寂しさ不満を抱えつつも、 心を保ってお互いを思いやっている姿がほのぼのとして、安心感を与えてくれます。 生まれているはずもないのに、記憶のどこかで同じような体験をした覚えがあるような ノスタルジックな想いにさせられる一冊。 | ||||
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小川洋子さんは「博士の愛した数式」しか読んだことがありません。あちらもよかったですが、私はこちらの方がハマりました。 初めの方のおじさんに連れられて初めて「クレープシュゼット」を食べるシーン。私の子供時代、外食はまだまだイベントになるくらいの贅沢でした。幼い頃に喫茶店に入ってクリームソーダやパフェを食べたことなど、今でも鮮明に覚えています。初めて「クレープシュゼット」を目にした朋子の描写が、その時のさくらんぼの味やソーダの鮮やかな緑色を瞬時に頭の中に蘇らせてくれました。 途中まではノスタルジックなムードで進むのですが、ミュンヘンオリンピックの日本男子バレーへの傾倒あたりから、物語がダイナミックに動き始めます。ミュンヘンオリンピックの記憶はありませんが、ちょうど映画「ミュンヘン」を見た直後だったせいもあるのでしょうか、とても臨場感がありました。 ○○さんのデートシーンをミーナが目にしないように奮闘したり、おじさんのいるマンションまで行っちゃったり…。私もすっかり、自分が小さく世界が大きかった頃、友達とケンカしちゃった程度のことが世界の終わりのように思えた小さい女の子に帰ってしまいました。 前の方が書いておられた「大人の童話」という言葉が本当にピッタリですね! | ||||
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2006年谷崎潤一郎賞受賞作、「博士の愛した数式」の小川洋子さんの作品です。 家庭の事情で芦屋の伯母さんの家に預けられることになった中学1年生の朋子が、そこに住む人々と過ごした1年間の日々の物語です。 ミーナと使用人の小林さんとポチ子の威風堂々とした行進(・・・本のタイトルはここからきています)。 江坂ロイヤルマンションの駐車場に停まる伯父さんのベンツ、ポチ子の死、水曜日の青年、とっくりさんとの別れ・・・ 切なくなるような出来事もありましたが、朋子がミーナと過ごした日々は、美しい思い出となりました。 この物語のような、ゆったりとした時間の流れの中に、身をおきたくなりました。 そして、私もポチ子の背中にまたがってみたくなりました♪ とっくりさんが朋子に言った「何の本を読んだかは、どう生きたかの証明でもあるんや。」という言葉・・・ へ〜って思いました。 | ||||
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小川洋子さんの文と寺田順三さんのイラストが絶妙なハーモニーを奏でている。 小川さんのひんやりとした文体が、何かもの哀しくて、それなのにほのぼのしている。 年代的にドンぴしゃりの人は懐かしくてたまらない気持ちになるだろう。 私自身は、ミュンヘンオリンピックのことなどピンとこないことも多かったが、 ミーナがマッチ箱のイラストをモチーフにお語を創ってストックしていたというエピソードと お話そのもの(実際に何話か登場する) そして寺田さんが描くマッチ箱にノックアウトされた。 おそらく小川さんの夢がいっぱい詰まった物語で、実際にはありそうもないような 内容もあるのだけれど、それを信じさせるだけの筆力はさすが。 | ||||
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母子家庭に育った朋子は小学校を卒業後、母と離れて芦屋の伯母夫婦のもとから中学に通うことになった。一緒に暮らすのは、フレッシーという清涼飲料水メーカーの社長でもある伯父、ドイツ人の祖母、そして喘息を持病にかかえる従妹ミーナ。 これは今から30年以上も前、1972年の春から一年間の朋子の成長の記録。 中学一年生という子供と大人の間に位置する年頃に、朋子は様々なことに触れていきます。川端康成の自殺のニュースに心震わせたり、ミュンヘン五輪で金メダルを目指す日本男子バレーボールチームをテレビで熱く応援したり、パレスチナゲリラによるイスラエル人選手虐殺事件に心痛めたり、ジャコビニ流星雨を待って人生初の徹夜をしたり。さらには、気立てがよくてダンディな伯父の秘密や、それを知っていながらあえて触れようとしない家族の姿を目の当たりにしていきます。 世の中が清く正しいことに満ち溢れているわけではないことにうすうす感づいていく朋子は、どうにももどかしく思いながらも、人生は白黒つけることだけがすべてではないことを学んでいくかのようです。 小川洋子の筆づかいはそうした少女の成長過程を、激しく外界へほとばしるような抵抗の物語としてではなく、また内界へと陰にこもる苦悩の物語としてでもなく、恬淡とした回想記として描いていきます。物語に大きな上下の振幅がないぶん、食い足りないと思う向きもあるかもしれません。 しかし、私は自身が70年代に中学時代を送っているだけに、あの時代の自分を包んでいた空気のようなものを、この小説の中に懐かしく感じ取ったような気がしているのです。 一人で人生を切り開くにはまだ幼すぎ、それでも今から振り返れば自分の人生が緒につく瞬間のようなものを確かな手ごたえとして感じたあの頃。そうした自分の記憶に思いを馳せることのできた書であったということはいえるのです。 | ||||
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イラストも素敵だし、なんと言っても 著者の温かみのある書き方に ほのぼのとした気持ちにさせられました。 昭和40年代後半と言えば、まだ 日本が経済的に成長しつつあったころ。 その時代に、思春期を共に過ごした少女と従姉妹。 裕福な家庭に育った従姉妹の家に、1年間居候することになった少女が観察した家族の姿が 実に 人間味を持って書かれています。 本の終わり方が なんとなく唐突で物足りない感じがしましたが、読む価値は十分あると思います。 従姉妹のミーナがマッチ箱の中に書いていく小さなストーリーも可愛くて読むのが楽しかったです。 | ||||
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この本を読んでいる間、どれほどの幸福感と不安感を味わえたことだろう。 ハンサムで大金持ちの叔父様の芦屋の邸宅での一年間。 13歳の朋子がひとつ年下の感性豊かな従妹の美少女ミーナと過ごす日々は、「ミュンヘンオリンピックの男子バレーボール」への熱中や、「異性への憧れ」など、ごく普通の少女達と同じような日常が詳細に描かれていて、かつて少女だった人だれにでも、なつかしく温かい気持ちを思い出させるものとなっている。 その一方、ミーナの喘息発作や彼女がマッチ箱の図案から紡ぎだす美しく奇妙な物語の数々が不安な通低音となって読者を小川洋子独特の世界へと導く。 先の展開が全然読めず、最後まで不安と緊張と幸福感を味わえました。 そして、ユーモアもたっぷりなのです。 文章も素晴らしい。 文学好きの方はもうとっくに読んでいらっしゃるでしょうが、「赤毛のアン」以来少女小説から離れてしまった人にもおすすめです。 私は83歳の母のために買いました。 | ||||
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「ミーナの行進」は、13歳の少女がおばの家に預けられ聡明で美しく病弱なひとつ年下の従妹と暮らした一年間の物語。 コビトカバが出てくる。従妹のミーナの住む芦屋の洋館にはカバのポチコのための池があり、喘息持ちのミーナはそのコビトカバのポチコに乗って小学校へ登校するのだ。ミーナは排気ガスに弱くひどく車に酔う。芦屋の急な坂道を歩く体力がない。父親の手作りの鞍をポチコに取りつけてミーナは星座をしてその鞍に座る。庭師の老人小林さんがポチ子のタッセルをひいて小学校までの行進が始まる。 コビトカバが登場する時点で、悲しい気配を感じてしまう。カバのポチ子のユーモラスな表情の描写になぜだかさびしくなるのだ。夜、庭のベンチに頭をのせて夜空を眺めているポチ子… 登場する人々の各々の孤独が淡々とした日常の中に語られていく。それぞれが孤独ゆえに、心の触れあう瞬間を少女たちは愛おしみながら小さな物語を紡いでいく。 小川洋子の小説はいつも力が抜けていて、それでいながらぐいぐいと読者を引き込む魅力にあふれていて期待を裏切らない。 力んでいないところがいい。 さらりと寂しい。 すっきりと美しい。 | ||||
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帯に「ぼくは、この作品に出会えた幸せを、いま噛みしめています」とありますが、まさにこのとおりのあたたかみのあるお話でした。芦屋の洋館に住む病弱で聡明なミーナと彼女をとりまく人々。とくに、書き出しがすばらしくてセンチメンタルなのに憂鬱じゃない、これから素敵なおとぎばなしでもはじまるような、子供のころ以来経験しなかったような期待でいっぱいになりました。繰り返しよんで、この洋館の人々を語り手の朋子のように自分の心に住まわせてしまいたいほどのなつかしさ。そして、挿画がすばらしいのです。この本にぴったり、美しさと懐かしさを封じ込めて、時間のとまったような、かつポップでかわいい絵です。本と同時に挿絵も十分楽しめます。年齢、性別を問わず、すべてのかたに。 | ||||
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