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乳と卵
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乳と卵の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.31pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全68件 1~20 1/4ページ
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表題の「乳と卵」は芥川賞受賞作品で、最初、その独特の文体に慣れるのに時間がかかったが、慣れてしまえば逆に心地よいリズム感である。主人公の姉が何故そこまで豊胸手術にこだわるのか、最後まで明らかにされていないが、そこは読者を信じて読者の想像に任せているのかもしれない。あるいは、後半に姪が卵を自分の頭に叩きつけるシーンは、母親の豊胸手術に対しての拒絶感を表し、続いてこの母親、つまりは主人公の姉も卵を自分の額に叩きつけるシーンは、女性の”性”を否定したい気持ちを表し、「乳と卵」を対比させることによって、女性の”性”とは何かを読者に問いかける作者の試みである、と解釈するのはいささか深読みだろうか。一点だけ申し上げれば、同じ単語を何回も重ねる技法は、何度も使うと少しくどい感じがする。ただ、この作者の作風が歌手の椎名林檎さんの歌詞に似ていて、椎名林檎さんのファンがこの小説を読むと、楽しめるのではないか。短編の「あなたたちの恋愛は瀕死」は登場人物に名前がなくて、主人公と若い女がぶつかるシーンの描写が、わかりにくくなっている。もう少し、わかりやすい描写の方が、読者に対して親切であろう。 | ||||
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文章を書くのが苦手ですので悪しからず⁉️ | ||||
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この文体はかなり癖がある。これ自体に対して忌避的になる人もいるかもしれない しかし、純文学。これでいい。流れるようにすすむ文はまぁ、独特のきれいさを帯びている。 作品として、テーマは普遍的とも言えるが、母性とは、女性とは、という方向での一般化よりもこういう家庭が実はありふれた世の中になりつつあると思うとゾワッとさせる 言葉が足りん、っていうのは一種の現代社会の病理でもあるわけだけど、そういう意味で分かり合いとは、家族とは、と考えたりすると卵割りまくりには意味が見いだせそうで… 誰もが手を上げて推奨するというよりかは、考えさせるし好き嫌いも分かれるだろう。 でも読み終えて、あれはなんだったんだろうと片付ける時に後ろ髪を引かれるような、そんな作品。 | ||||
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ジャケットの赤白、タイトルの意味が読み進めると自分なりの理解ができる。ひとりの濃密な思考が知れて、とてもおもしろい。緑子や巻子が根ざす考えや価値観は何だろうか。 | ||||
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豊胸手術をする姉とその娘が妹の住む東京へ大阪からやってくる。妹のアパートでの2日間を、姉妹の会話と娘の独白で語られる。女にまつわるすべてがあけすけで時にどぎついほどの大阪弁そのままで描写される。筆談でしか母親とコミュニケーションをとらない思春期の娘の独白は、生理に表出される女の身体の変化が障壁となり他者との軋轢を引き起こしていることを告げる。母親の豊胸(乳)手術は、娘にとって信じ難いの女体の即物化である。生理的(卵)なものに、おおらかな少女の行動を束縛されている娘には、女の身体を客体化している母親は許し難い。 妹はほとんど狂言回しでしかない。姉の話を聞き、出来事の場を提供し、娘との相克をとりもとうとする。自分も女であるから、身体のことも親子ふたりの心もよく解る。生理処理のトリビアまで出てくる。全て、女、女、女である。男は全く入る余地がない。実際、男は出てこない。しかし、女が女であるのは、男がいるからだ。それは冒頭の最初の文に集約されている。「卵子というのは、卵細胞と呼ぶのがほんとうで、ならばなぜ子、とういう字がつくかっていうのは、精子、とういう言葉にあわせて、子をつけているだけなのです。」 大阪弁はこの小説の重要なファクターだ。標準語ではこの小説は成立しないだろう。句読もなく、会話文と地の文の隔たりがなく続く。これが3人に横たわる緊張感を演出している。 凄惨だが滑稽な最後の場面がカタルシスになっている。今、昨年のアメリカのアカデミー賞の作品賞(監督賞)をとった韓国映画「半地下の人々」を思い出した。上質の娯楽作品だった。でも、韓国社会を痛切に描写していた。この小説も、女として生まれて生きていくことを女体を通して描く。 小説的意匠に富んだ小説だった。 | ||||
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今頃になって読んでみた第138回芥川賞の受賞作品。ここ10年ほどこの賞を受賞した作品を読むたびに失望と落胆、選考委員の阿呆莫迦さ加減に憤りさえ覚えてきたが、この人の、この作品での受賞は頷ける。 大阪弁を交えた文章も知的だし、大阪から上京してきた巻子と緑子を巡る軋轢が最後の最後である種の和解にいたる終わり方も素敵。「才能アリ」というのはこういう作家をいうのら。 されどこれを何で映画や芝居にしないのであるか、不可解ずら。 | ||||
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何を伝えたいのか最初はよくわからなかったが読み進めていくうちに世界観にひたることができた。 | ||||
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衝撃だった。この人の文章が好きだと思った。 流れるようなセリフで、人間の言葉ってこんな風だよなと思った。 キャラクターではなくて、人間を描いていると思った。 三人の距離感によって生まれる、 間を埋めるような言葉たちが共感しかなくて、気持ちいい。 主人公をあまり描かない。名前もほぼ出てこない。 常に客観的な視点で親子を観ている一人称。 でも主人公は二人の拠り所なんだろうなと感じたときに、 描かれていないのに感じる、関係性。作家の力なんだろうなと思った。 あ〜もう一回読み直したい。と純粋に思う。 あと、「あなたたちの恋愛は瀕死」で、 横断歩道のことを「のんきなしましま」と呼んでいるのが好きだった。 | ||||
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月並みな表現だけど、このすさまじいドライブ感はなんだろう。 しかも上滑りするのではない、粘着質なドライブ感とでも言え ばいいのか。巻き込まれ感がすごい。おまけに泣ける。これま での作家では味わったことのない感覚だ。こんな天才をこれま で読まなかったことを少し後悔。他の作品をもっと読みたくな る作家だ。 | ||||
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表題作の中編(約100P)と短編(約25P)の二篇収録。 二篇ともにドロドロと溶けるような主人公視点の文体が特徴的でした。 『乳と卵』 東京の三ノ輪に住む私(夏子)のアパートに三日間の予定で大阪から姉と姪が訪れる。 姉の巻子は39歳、離婚しており娘を育てるために京橋の場末のスナックでホステスとして働いている。今回の上京は自身の豊胸手術のための調査を兼ねており、豊胸手術をするということに異様なこだわりを見せている。娘の緑子は、巻子、夏子に対してなぜか口頭での会話は行わず、筆談でコミュニケーションをとる。常に携えているノートに手記を残すことを習慣としており、そこには卵子への好奇心、初潮を迎えることへの少女の怖れや大人になることに対する嫌悪感などが綴られている。物語は私の視点で巻子、緑子の母娘を描写しつつ交互して緑子の手記を挿入するかたちで進められる。 一段落ごとが長めに取られ、地の文のなかに主人公視点による外面描写、三人の会話、それに些細な変化にもその都度反応する私の意識が溶け合うような文体に大きな特徴がみられる。会話文にはやや紋切型からはなれ、現実に即した現代の女性ならではの関西弁が用いられていることもあり、読みづらく感じる読者もいるかもしれない。 『あなたたちの恋愛は瀕死』 百貨店の化粧品売り場で、ティッシュを配られて、書店にて、さまざまな思いをめぐらす女性の意識が描かれる。ナンセンスにも読める。描写の特徴は表題作と共通している。こちらは関西弁ではない。 | ||||
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川上未映子は、物語の作り手としては今いちだけれど、ある種の身体感覚のシャープな描写にかけては、右に出る者はいない。女性の性愛の享楽jouissanceを言語化した『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』が、たぶん最高傑作だと思うが、この『乳と卵』も、産む性としての女性の肉体への激しい自己嫌悪を描いており、ネガティブな身体感覚の描写に傑出している。本作は、毎月の出血である月経がいかに気持ちの悪いものであるかが執拗に描かれ、その根本には卵子への激しい憎悪がある。決して目に見えない微小な大きさの卵子、だが卵子への激しい憎悪をここまで主題化した小説は稀であろう。姉が狂気のように自分の豊胸手術にこだわるのは、娘の緑子を産んで乳を飲ませた結果、液体の乳は全部出て行ってしまい、その結果、自分の乳房は、抜け殻になり、脱いだ靴下のようにみじめにぺちゃんこになってしまったからである。そして、娘の緑子は、母の乳房がそんな風になってしまったのは、自分を産んだからで、自分はこの世に生まれてこない方がよかったと、反出生主義になって母を憎悪する。乳房への憎悪、月経への憎悪、卵子への憎悪、それは産む性としての女性の身体への自己嫌悪である。それをかくも激しく描出したことに、この作品の稀な価値があるのだろう。 | ||||
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最初、この小説を読んだ時、芥川賞も・・・・直木賞と類例で、数年に一度は特定の出版社(冬幻舎?)からの出版小説を選出しなければならない、そんな縛りがあるのかな、と失礼な思考をしてしまいました。 それほどに、「何、この酷い小説」という心を抑えられませんでした。 ただ、この小説を繰り返し(2回目)読んでいる途中で、自分の不明、思考ロジックの単純さに思いが―――やっと―――至りました。 この小説に、わたしが素直なタイトルを付けるとすれば、『女、そして母と娘』 ということでしょう。小説の構成要素は、 ①母と娘の恩讐(怨讐?)と、そして和解。 ②少女から女になることの鬱陶しさ、怖れ、途惑い。 ③老いることへの恐怖と焦燥、そして哀しさ。 ということになるのでしょう。この小説は、たとえば、東野圭吾や林真理子といった人畜無害小説に慢性的に感染している人の治癒・治療になる可能性があります(いうまでもないことですが、当世稀代の売れっ子小説家お二人への悪口では、断じてありません。自身、精神が疲れた時、よく読んでおります)。 娘さんが追い詰められていることは《彼女が誰とも口をきかない》という状況で良く分かりますが、お母さんが精神的に追い詰められていることは、咳止めシロップ中毒(リン酸コデイン、エフェドリン)などの表現で、読者に分かるようになっている。 わたしごときが云うまでもなく(云う:著者の好んでつかう漢字)、彼女の小説には新規の視軸があり、表現法にも独自の筆法があります。 ただ、ずらずらと会話と説明が連続しており、パラグラフによっては、会話の部分が【「 」】でくくられなかったり、隣のパラグラフでは、会話の内容に【「 」】を丁寧に使用してくれたり、気まぐれですので、そこには少々閉口しました。ただ、そこには彼女なりルールがあるようで、誰かのセリフであっても、それが状況・場面の説明の要素を含んでいれば【「 」】無しで書いているような傾向はあるかもしれません。仮に彼女が、雰囲気で適当にやっているのなら、同類の性向が感じられ、楽しくはありますが。 世界の、ジェンダー・フリーの趨勢には反するのかもしれませんが、川上さんも男性的気質なのかも? とにかく、すばらしい小説であることには間違いありません。 | ||||
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"卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのがほんとうで、ならばなぜ子、という字がつくのか、っていうのは、精子、という言葉にあわせて子、を付けてるだけなのです。"改行なし、読点によって区切られ、延々と続いていく女性達の大阪弁が心地良い本書は、声に出したくなるリズミカルさ。 個人的には、何となく東京に滞在していると【懐かしく大阪弁に触れたくなる】と本書を手にとったのですが。夏に上京してきた親子と、それを迎え入れる女性との3日間を描いた本書は、各所に【化粧、豊胸、初潮、卵子、乳】といった女性を象徴する言葉を散りばめつつ、詩的な文章、言葉選びが素晴らしく残り、芥川賞受賞も納得の短編だとやはり感じます。 また、これは私自身が卵及び目玉焼きやオムレツといった【無類の卵料理好きだからか?】終盤の卵まみれになるユーモラスな展開はクライマックス的な感情の爆発に引き込まれつつも【卵が。。もったいない】と何だかそんな、割とどうでもいい事に感情がもっていかれてしまって、お腹がなったり。(なんかほんまにすいません) 音楽的な大阪弁のやわらかな魅力を感じたい誰かに、また女性性を感じさせる短編を探す誰かにオススメ。 | ||||
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純文学好きは読まないとダメ 凄い文章力だと思う、話の内容よりも文章の詩的で自由律な部分に感嘆した 合う合わないじゃない、否定するか賞賛するかだと思う 表題作と短編が入っているが短編の方が如実にそれを感じた 今まで好きだった小説家が馬鹿にされたような気がしたくらいで、腹が立った それくらい素晴らしい感性の文章 | ||||
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表現がとてもおもしろい小説でした。友人からのすすめで呼んでみました。 | ||||
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とても好きな小説のひとつです。 いろいろなレビューにも書かれているように、まどろっこしい長回しの文体にクセがあり、テーマとしても女性性というナイーブなものなので、身構えたくもなってしまいますが、、、そういったことは一旦置いておいて。 生き生きとした登場人物たちの描写/言動がいちいち笑えるし、長回しの文章も大阪弁の小気味良いリズムも相まって、するすると心地よい読書感覚に変わっていく瞬間があります。 文章の中身(テーマ)以上に、文章の身体(文体)という側面が前面化されていくのです。 人間(女性)の身体と文章の身体(文体)という 2つの「身体性」が巧妙に重ね合わせられている作品だということに気付かされ、作者の技巧には圧倒させられます。 「乳と卵」というタイトルにしても「父取らん」という別の意味が浮かび上がってきますよね。 言葉というものと向き合い尽くし作られた渾身の一作ではないかと思います。 | ||||
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あっははは、何ともパラノチックな滑稽さがあっておもしろいです。 言葉を発することを拒否し、ノートに言葉を書くことで思いを伝える緑子という娘とホステスをしながらシングルでその子を育てる巻子。その母と娘が東京暮らしの妹のところに上京してくる夏の三日間の話だ。 どういうわけか巻子は豊胸願望がありその手術を考えている。言葉と身体、この三人の女たちは切羽詰まった状況にありながらどこか偏執狂的なところがあって否応なく過剰な感情が露出する。それ故にシリアスでありながらも滑稽さがつきまとう。 そのような状況を描いたこの作品で芥川賞を受賞し川上未映子の名を知らしめたのだが、とりわけ言葉と身体を軸にした描写がなんとも言えないおもしろさがある。それは本当に見事でありほど良いリズムさえ感じさせる。 冒頭、緑子はこのようにノートに書いている。 卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのが本当で、ならばなぜ子、という字がつくのか、 っていうのは、精子、という言葉にあわせて子、をつけているだけなのです。(p9) などと図書室でいろいろ調べてはその度ごとにしらけきっている。 また、次のようにも書き記している。 クラスのだいたいに初潮、がきているらしいけど、今日はことばについて考えると初潮の初は初めてという意味でわかるけど、じゃあうしろのこの潮というのはなんで、と思いますに調べたら、初潮でははじめての月経、としか説明がなくてなんやごまかさされたような気分ですから、潮というのを調べたら、いろいろ意味がおおくて、書いてあることは月と太陽の引力のあれやこれやで海水が満ちたり引いたり、まあ動くこと、波、それのことで、いい時期、ともあって、んでわからんのがほかにはなぜか愛嬌、とかも書いてあって、愛嬌を調べたら、これにもいろいろあったけれど目にはいってきたのは、商店で客の気を引く、とか、好ましさ、を、感じさせる、とかがあり、なんでこれが、股んとこから血のはじめて出る、初潮と関係があるのかさっぱりわからんでなんとなくむかつく。(p16) とくるから、本当にいい子だなあと感心するし笑えてくるのである。 一方、豊胸手術を決意させるほどの願望をもつ緑子の母巻子の並々ならぬ思いは強烈なのだ。それはそれは妹や娘も及ばない徹底ぶりである。 「いわゆるシリコン入れるのと、ヒアルロン酸注射して大きくするのと、それから自分の脂肪を抜いてそれ使って膨らますやつ、で、シリコン入れる方法がやっぱいっちゃん高いねんな、んでこれ、これみたいに」・・・(p35) と捲し立てるようにいうのだ。 やれ男性精神だの男根主義だの、さらには化粧や儀式、文化や魔よけの知恵までもちだして胸を大きくしたい側とそれを冷ややかにみる側の論争(P40~44)もおもしろいのだが、一事が万事この三人のこだわりも相当なものでどこか共通するところがある。 巻子は湯に浸かってる間、風呂場を行き来する女々の体を舐めるように観察し、それは隣のわたしが気を遣うほど無遠慮に視線を打ち続けるので、ちょっと巻きちゃん、見すぎ、と思わず小声で注意するも、ああとかうんとかの生返事をして、その目は入ってくる体、出る体、泡にくるまれる体をじっくりとせわしなく追うのであった。(p51) 笑えてくるほどのこの巻子の体に対する執着がどこからやってくるのか定かではないが当然のことのように日常の混乱を招くことになる。 最後の場面、これまでの鬱憤を晴らすように捲し立てる描写、台所で二人して卵を自分の頭にぶつけて次々と割っていく過剰な感情表現はさすがに圧巻といっていい。 ああ、巻子も緑子もいま現在、言葉が足りん、ほいでこれをここで見ているわたしにも言葉が足りん、云えることが何もない、そして台所が暗い、そして生ゴミの臭いもするなどを思い、緑子の口の辺りの緊張した様子うぃ見ながらに、しかしこんなこと、なんかが阿保みたいだ、なんかがどうでもいいのだという気持ちがあって、わたしは台所の電気をぱちんとつければ蛍光灯が台所の隅々を浮かび上がらせ、巻子は真っ赤になった目を細め、一瞬まぶしそうな顔をしたが、緑子は自分の大股に手をぎゅっと押しつけたまま巻子の首のあたりをみつめ、突然に、お母さん、とすぐ隣に立っている巻子に向かって、大きな声を出した。(p97) おしまいには二人してまた大阪に帰っていくのだが全体的には何となくさわやかな滑稽さに包まれている。それゆえにと云うべきか読後には不思議な爽快感もあり応援したくなってくるのである。 また、大阪弁で感情を露わにする描写などこの作品に大阪的なるものがあるとすれば、大阪って何だろうとも思えてくるからもしかして厚みのある傑出した小説ということなのかも・・・ | ||||
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これは、本当にタイトルどおりの小説です。ファッションとか、日本が誇る「かわいい」、意識高い系、フェミニズム・・・とかを全て取り去って、まじ、女性・・という生き方というか、生活を、なまなましく、べったっとした感じで、大阪のおばさんとその娘に演じさせた、みたいな小説です。乳・・カッコ良い乳首とは。貧弱な胸はいやだ・・。卵。授精卵の話から、初潮、うっときそうな生理・・汚したシーツの洗濯とか。 サブテーマは、大阪の母子家庭の反抗期の娘。でも本当はお母さんを心配しているのがありあり。お母さんが病気らしいことも、それとなく記されています。夏の数日、東京の妹のアパートに来た数日間の母子の姿。 全く飾り気がなくて、大阪弁丸出し、ひらがなが多く驚くような作品でした。飾りを取った、女性の本丸、みたいなところをえぐっているので、すごいですね。庶民的な人達が主人公ですので共感を呼びます。おもしろい読書体験でした。 | ||||
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このような文体は饒舌体というのでしょうか、あまり読み慣れていなかったため衝撃でした。 頭の中にぶわっと浮かんだ言葉を脈絡など無関係に羅列していったような文章です。そういう違和感みたいなものも、混とんとした脳内で浮き沈みする言葉を並べれば当然なので、自分の思考の流れを読んでいるような妙なリアリティを感じました。比喩の表現などに作者のオリジナリティが感じられます。日本語の正しい文章になっていないこともありますが、作者は当然計算して書いているのです。 女性の体のパーツについて、辛辣な表現がありますが、さすがに女性作家!!とうなりました。極端なほど辛辣なのは故意でしょう。 豊胸さえすればバラ色の人生が取り戻せると胸に執着する姉の痛々しさ、第二次性徴への冷静な視点と潔癖さを抱えた姪(姉の子)は閉口する(文字通り)。不安や不満を口にせずにはいられない母としゃべらない子はとうとう爆発して消費期限の切れた卵まみれになります。 一つ残念な部分。消費期限の切れた卵を捨てようとしますが、あくまで生食の期限なので、火を通せばなんら問題はありません。期限切れはもう食べられないと断言されたような書き方だったので、それまで小説の中に埋没していたところを、すっと引き戻されてしまいました。 | ||||
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人が、たまたま女の体に生まれ、それはわかっていながらもこの体に執着してしまう、というようなところまでこの小説でかけているところがさすがだなあ、と思いました。女を考えるにあたって女が前提となってしまいがちですが、そこを回避しているのは知的ではないとできないだろうなあ、と思いました。 | ||||
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