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(短編集)
道化師の蝶
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道化師の蝶の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.30pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全73件 61~73 4/4ページ
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円城塔の「道化師の蝶」を読了。一言でいって読者を限定する作品です。好きな人というか、本作を理解できる人と全く理解できない人の2種類しかいない、自分も理解できませんでした。でも理解したい気持ちでいっぱいです。本作はこれまでの小説のフォーマットと違う造りで構成されています。いうなれば「構成を楽しむ作品」でもあります。具体的には、章ごとに「わたし」が出てきますが、全て違う「わたし」なのです。一読しただけですが、全ての章が関係性を持っているように感じますが、本当かどうかはっきりしません。不思議な作品です。 でも日本人はこれまで様々な構成を愛してきました。様式美ともいうのでしょうか。型の美しさ、を感じる能力を持っています。本作は小説からの「型の美しさ」への挑戦であると思います。その挑戦に対して我々読者は感じるものがあるはずです。でも駄目なときは駄目でいいのです。きっとそういう作品なのです。 祝芥川賞。 | ||||
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出だしは面白そうでしたが、所々、辻褄が合わないような・・・・(自分の読解力不足?) 焦るばかりで、楽しめなかった。 専門書以外の一般図書で、こんなに文書を理解できなかったのは初めてです。 ただ、文章に不思議なリズム(韻)が有ります。 途中で「これは詩なのか?」と思い直し、でも、リズムに流されてるとストーリーが全然頭に入ってこないまま進んでしまったり。 とにかく、最後まで大変でした(トホホ) | ||||
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もしいま目の前に何の前知識もなく安部公房の芥川賞受賞作『壁―Sカルマ氏の犯罪』があったとして、自分にその価値が正しく評価できるだろうか、それはやはり自分でも自信がない。だからこの『道化師の蝶』も、本来なら自分には全く理解できない独り善がりな小説!と断定できるだけの勇気はない。選考委員たちの多くも「この小説には何かがあるかもしれない」とのことで、芥川賞受賞となった。でも、敢えて僕はやはりこの小説は前衛を気取っただけのつまらない小説だと断言したい。安部公房が、芥川賞受賞後、『砂の女』や『箱男』といった作品で前衛を貫きながらも分からないといった人たちをも唸らせてしまうという芸当が、この作者に出来るだろうか?前衛的だから分かる人にしか分からなくていいじゃなくて、「分からない人にも圧倒的世界観でねじ伏せてやる」といった情熱をこそ、この作者に求めたい。 | ||||
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円城氏の名前だけは以前から知っており、購入済みで未読の本もある。従って今回が著者の作品を初めてよむことになる。掲載紙の文藝春秋で読んだのだが、他のレビュアーの方々の指摘通り僕自身本作をどこまで解ったかは疑念がのこる。だが、言語論・着想の起点・フィクション論・らのモチーフから透けて見えてくるのはメタフィクションの手法によって「私とは誰か?」というテーマを様々な相対的な意匠をこらす事によって浮かび上がらせようとしている事が読めてくる。私とは何か?という問いはすなわち現実とは何かという問いと必然的に結びつき、両者の関係性の中にしか原理的に見出す事ができない難問だ。その点において円城氏の志は高い。だが作品全体としては--(無論意図的な仕掛けなわけですが)--とりとめがなく、様々な美しいガジェットの潜在構造の結びつきが弱い。そのため読むのになかなか苦労する作品だ。だが、著者はまだ発展途上にあるのだと思う。かつ、ここまでの前衛に芥川賞が授与されたのは、良い事だ。(文壇はどうしても保守的です)著者には頑張って頂き、トマス・ピンチョンなど凌駕するような凄い作品を書いて欲しい。 | ||||
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これは、私の直観でしかないが(まず、間違ってはいないと思う)作者は安部公房と云うよりも、確実にボルヘス、アゴタ・クリストフ、村上春樹らの影響下にある気がする。 芥川賞の選評では、高樹のぶ子氏が”メタフィクション”、島田雅彦氏の”言語論”、”フィクション論”と指摘していたが、彼らは表層を指摘しただけであって、実は何も語っていない。石原氏にいたっては、新しい文学をみる目の無い「節穴ぶり」を露呈している。 本作の語彙は、時に借り物で、こなれてない感じが散見するが、彼自身は、一つの才能である。同時受賞の田中氏が、まぎれもなく中上健次への先祖返りでしかないのに対して、円城氏のこの作品は、ある意味エポックメイキングであり、新しい世界文学の幕開けを予感させる。 平野啓一郎が芥川賞を受賞するなら、円城氏も獲って良いはずである。デビュー時の村上春樹の訳の解らなさよりは、遥かに万民に開けている作品であるし、あと20年後、どんな変身を遂げているか、楽しみな作家である。 ただ「受賞の言葉」の文章の稚拙感は、どうしたものだろうか(時間がなかったの?)? | ||||
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同時に芥川賞を受賞した「共食い」と比べると文体が読みやすく、そういう意味では取っ付きやすさを感じました。 一方で論理の展開が難しく、こういうのが(いわゆる理屈っぽいのが)好きな人には面白いのだろうなと思いました。 前半の飛行機内の二人の会話や、後半の蝶が出てくる場面は面白く感じましたが、途中の展開は一般のストーリー性を意識してると、つながりが意味不明で、最後まで読み切るのに苦痛を感じました。 オムニバス形式のような、場面場面を分割、独立しながら、「蝶」「刺繍」「捕虫網」というイメージでかろうじて繋がっているという、貼り合わせのような雰囲気を感じました。こういうのを現代小説というのか私には知識がありませんが、いわゆる読者に想像をゆだねる範囲の多い小説なのでしょう。 受賞作品ということで読みましたが、こういう作品があっても良いだろうと思う反面、雰囲気や格好良さだけで自己満足する作品を書く人が増えるのではないかと危惧します。こういう作品は自分の世界観の自覚がないと、そう簡単に書けるものでもないと思うからです。 | ||||
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同時受賞した「共喰い」の田中氏の作品とは対照的で一読しただけでは 作品の中に入っていくのが難しい作品である。 「わたし」の文章と他人の書いたとされる文章が入り組んで、出来事の 関係、人物の動きを追いかけるのが大変で難解すぎるというのが感想 です。 | ||||
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ジブリ映画で「ハウルの動く城」という作品があるが、知り合いが「難しい」と述べていた。どこが難しいと感じたのかを詳しくは聞かなかったが、その後自分が見てみて、特に難しいとは感じなかった。 ただ、その知り合い(女性)が「難しい」と感じたのは、呪いをかけられたヒロインのソフィーが老婆の姿になったり、若い女性の姿になったりというところかな、と思った。アニメーションの表現として、あるキャラクターが色々と姿を変えることで、ヒロインの内面的な部分を表現している、というのが自分のというか、一般的な解釈かなと思う。 「道化師の蝶」についても、一般的な小説としての読み方とは違ったものが求められるのは確かだが、たとえばエブラハム氏についても男性なのか女性なのか、といった具体的な次元で捉えるのではなく、より抽象的な存在として考えれば、いくらか腑に落ちるのかなと思う。フィクションの作品世界内では、キャラクターの存在の形態は変化するものなのだ。 ただ、本質的には「エブラハム氏」も「わたし」も、ある種の同一性を保持しているのは読むうちに感じられると思う。そういった部分でのずらしというか、読者の想像力が働く方向を分かっていながら、あえてずらして、ミスカシフィケーションとでもいった効果を生じさせ、最終的に、「小説」としての一つの像を作ろう、というのが円城氏の意図なのだろう、と思う。あくまでも私個人の解釈でしかないが。(あと、章が変われば、世界(観)が変わるという心構えでもいいかと思う) ただ、眠くなるという人がいるなら、完全に同意(笑)。通勤や通学の電車で読んで、続きが気になって電車を乗り過ごしてしまう、というようなタイプの小説ではなく、寝る前に少しずつ読み進めていく、そういうタイプの小説かなと思う。 蝶が舞って、抽象的な感覚を撒き散らす、そして眠くなる 追記:「とぼけたユーモア」と評されるが、「乳幼児向け満漢全席」だとかはくだらないし、それだけで真面目に読む気を失ってもおかしくない。ただ、何となく「東大の博士課程」という経歴から、意味があるかと真面目に読んでしまった。 小説の方法論としての前衛うんぬんより、そういった細部の趣味・嗜好が、読者を選ぶんじゃないかと思う。 | ||||
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道化師の蝶: 題名の通り、ひらひら飛んでいく蝶のようなテクストのダンス。捕まえようと網を持って、単語と一文に集中しようとするとふわりと、某大リーグボールのように逃げていく。これはストーリーではなくテクストの円環と羽ばたきを楽しむお話。 松ノ枝の記: こちらは打って変わってどんどん深みに高みに乱高下するメタ・メタ小説とでもよふべきお話。テクストが自ら勝手にテクストを生むような小説を書きたいのだろう、始まりのテクストのみが人間、いやいま書かれている人間はまさにテクストか、など考えさせながら人間とテクストの同一視と入れ替えに視点を頻繁な変更していると、やがて違いが曖昧になっていく。 どちらも、現代美術におけるインスタレーションのような小説でした。 | ||||
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作者の作品としては、「Boy's Surface」、「Self-Reference ENGINE」に続いて本作を手に取った。作者の作品の一番の特徴は「読んでも理解出来ない」点にあると思う。その上で、「作品を産み出すチューリング・マシンは作者ではなく、読者の想像力の方」という独創的哲学の下で執筆している姿勢が伝わって来る。 本作も難解である。どうやら、作家の一番の道具である"言葉"を題材にして、言葉を集め、組み合わせる事によってテンプレート作品を創り出すという作者自身が抱える悩みをユーモアを交えて自虐的に描いた物らしい。広く捉えれば、追い求める物は容易には捕まらないとのメタファーとも取れる。また、旅する手芸家と言う設定も作者のポスドク体験を想起させて面白い。視点や時間軸が目まぐるしく変化する構成は、作者自身の言葉を借りれば、位相幾何学的構成と言って良いのではないか。作者自身の投影である主人公が、作中のどのような時空間に存在しても同一点である様なトポロジーを想定しているのであろう。作中に出て来る表裏同一の幾何学模様を持った織物がそうしたイメージを膨らませる。 作者の作品としては色彩感に溢れているのも珍しい。理解しようとすると挫折する恐れがあるので、作者(あるいは作家一般)の苦衷を"想像"しながら楽な気分で読み進めるのが相応しい異色作だと思った。 | ||||
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読後、タイトルの通りの心境です。 ファンタジーか多重人格者か。 面白いといえばいろんなことが面白いんでしょう。 丹精を込めました。 好きに読んでください……という物語だったかと思います。 | ||||
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冒頭部の意外性につられ読んでみました。 友幸友幸の登場あたりから雲行きが怪しくなり 予想通りの残念な結果、という印象です。 あまりに読者を限定しているような作品。 ただ、この作者にしか語れないような物語が今後 生まれる可能性は否定できないとは思いました。 今回の作品はどこで読んでも同じ発色でした、私には。 | ||||
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恥ずかしながら、一度読了した程度では理解できませんでした。 はたしてこの作品は純文学なのか。 メフィスト賞に出しても違和感ないと思ったほどの非現実感。 場面の転回と、語彙と知識の豊富さで読んでいて頭が痛くなるような、いかにもスノビストが喜びそうな風味。 読者を振り回さんとするシュールレアリズム作品なのか、はたまた内容を追いかけることを無為とするダダイズム作品なのか。 自分は人よりは読解力があるだろうと思っていたが、勢い良く鼻を折られた。 ひょっとしてこの本は「逆立ちする二分間に読む本」なのだろうか? | ||||
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