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(短編集)
道化師の蝶
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道化師の蝶の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.30pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全32件 1~20 1/2ページ
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風景描写とややアロバティックな設定に感心した。 今度は、長編を読みたい。 翻訳されやすそうな作家と感じた。 | ||||
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選考委員の皆さんが本作を難しいとおっしゃる・・・。 発表当時、流行していたいわゆる『ループもの』の中でも、本作は美しく、良質。そしてとてもわかりやすい。はっきり言って簡単な方である。 選考委員の高名なる文士の方々は『STEINS;GATE』とか『魔法少女まどか☆マギカ』とか『涼宮ハルヒの憂鬱』とか見ないんだろうなぁ〜と思わず苦笑い。 | ||||
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『道化師の蝶』(円城塔著、講談社文庫)は、従来の小説の枠から大きく逸脱した作品だが、私には面白く読めました。 作品に負けず劣らず面白いのは、芥川賞選考委員たちの選評です。この作品の異端ぶりがよく分かるからです。Kは、「作品の中にはいって行くのが誠に難しい作品だった」、もう一人のKは、「日常の言葉では語り難いことを、どうにか日常の言葉で語ろうとしつづけているこの作者の作品は、読むことも大変に困難です」、Tは、「(受賞に一票を投じたのは)決して断じて、この作品を理解したからではない」、Mは、「私には読み取れない何かがある」と語り、Iに至っては、「こうした言葉の綾とりみたいなできの悪いゲームに付き合わされる読者は気の毒というよりない。こんな一人よがりの作品がどれほどの読者に小説なる読みものとしてまかり通るかははなはだ疑わしい」と辛辣です。一方、好意的なのは、Yの、「この小説の向こうに、知的好奇心を刺激する興味深い世界が広がっているのが、はっきりと解る」、Oの、「描かれた着想の一つ一つはどれも、『銀線細工の技法』により織られた網で捕獲したもののように、魅惑的だった」、Sの、「(妄想小説と括れる本作は)そこまで『わからん』作品ではない。こういう『やり過ぎ』を歓迎する度量がなければ、日本文学には身辺雑記とエンタメしか残らない。いや、この作品だって、コストパフォーマンスの高いエンタメに仕上がっている」と、明らかに少数派に止まっています。 こういう賛否両論が巻き起こったことを知り、著者の円城塔は、にんまりとほくそ笑んでいるのではないでしょうか。 希代の多言語作家、友幸友幸の小説『猫の下で読むに限る』を翻訳した「わたし」は、A・A・エイブラムス私設記念館に雇われて、「生年不明。生地不明。世界各地を転々とし、現在のところ生死不明」の友幸友幸の追跡調査を任務とする多くのエージェント(人員)の一人だが、「A・A・エイブラムス私設記念館は、ただ網を振り回し捕獲物を郵送せよとエージェントに求める他は一切の説明を行わず、業務は個人の意思に任せると扉を閉て切っている。・・・(エージェントの)募集要項は英国諜報機関よろしく堂々と公表されている。必須事項の欄を埋めて古式ゆかしく郵送すると、捕虫網が一つ送られてくる。わたしの場合は、千米ドルと、捕まえたものを送れというぶっきら棒な指令書も添えられてきた」。銀線細工の技法で織られた小さな銀色の捕虫網は、着想を捕まえるためのものなのです。私がここまで書いてきたことが本当に正しいのか、自信がなくなってしまいました。 何人もの「わたし」が登場し、時と場所と状況が瞬時に入れ替わり、物語の展開は行き当たりばったりで、いったいどこに辿り着くのやら――というはちゃめちゃぶりです。こういう読み手を翻弄する小説が存在してもいいのでは、と私は考えています。 | ||||
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楽しめばいいんです。文学だ、なにか高尚なことが書いてあるんだ、と騙されることなく。 エクリチュール論だの、言語論であり、フィクション論だのといった島田雅彦さん達の言葉を真にうけてはいけません。賢く見られたいつまらない見栄からの言葉、あるいは小説に対して怠け者になった老人をだますための言葉にすぎません。 そもそも、「論」というのは明示的に「なになにはこれこれである」と主張して、それを誰にでも理解可能なように提示するべきもので、それはこの小説から一番遠いものなんじゃないでしょうか? だからといって、「詩的な言葉、美しい文章が不思議なイメージをつくっていて、理解できないけど楽しい」という、身に沁みない楽しみかたにこだわる必要もありません。わたしには、この小説の言葉は「詩からはとても遠い」という気がするのです。一つ一つの言葉は結構具体的な対象を具体的な狙いを持って選択されているということです。一文一文が本当に軽い。これは現代のニッポン文学の特徴だし、この作品も例外ではないと。 たとえば、V章の最後のあたりに「鋼鉄製の鳥が飛ぶのへ引き寄せられる」とか、訳の分からない箇所がでてきて「もうダメ」とか思いかけたけど、これって単に「飛行機」のことでしょ。この類、この程度のことしか文章のレベルではやってない。構造のレヴェルは結構入り組んでいるぶん、文章のもつ情報は負荷を下げているんだとここで気づいたんです。 本作が芥川賞受賞作でなく、ジャンル作家の作品で「2011 ベスト本格ミステリー10」に収録されていたなら「ああ、入り組んだ倒叙もんだ」とおもって、ここまで「わからない、わからない、なにかすごいことが書いてある」とはならずに、デヴィット・リンチの「マルホランドドライブ」や「ツインピークス」みたいに接するんじゃないですか?そうやって楽しめばいいんです。少なくとも私はそう楽しみました。 手掛かりとしては、明確な章立て(章毎の導入部が非常に大事)があるので、この章ごとの「わたし」って誰だろう?から始めてみればいいんじゃないでしょうか。その「わたし」と措定される人物は、エイブラムス同様に性別なんかも固定していないけれど、日本語が「繰り返し語られ直すエピソードが、互いに食い違いを見せるたび、文法の方が変化していく言語(IV章)」でない以上そのその都度必ずやヒント、言及がなされていて「フェアな態度で晦渋」に書いてあります(円城さんが目指しておられるだろう作家R.A.ラファティ、彼の長編の晦渋ぶり(ジョークのキレも)はこんなもんじゃありません)。 作家ナボコフ(たまたまこの小説に登場しますが、それはクスグリです。わからなくても全然問題ない。つまるところこの作家にはクスグリしかないのです。浅薄な知識・見識を糊塗するために難解な外見を装う。それを「かろみ」と受けれない狭量な態度はいけません)の文学講義でいう「よき読者」に必要とされるの以下の四つです。 7 読者は想像力をもたなければならない。 8 読者は記憶力をもたなければならない。 9 読者は辞書をもたなければならない。 10 読者はなんらかの芸術的センスをもっていなければならない。 入り組んでいで記憶、想像しにくければメモ、ノートをとり、分からないことがあれば調べるんです(台所ではなく辞書で!)。そうやって注意深く文章を追い、無矛盾(なんらかの統一性)が実現するよう何度も行ったり来たり、仮説をたて、ひっくり返され、また新たな鍵を見つけることを愉しむんです。たとえ、芥川賞の選考委員である石原慎太郎先生や、黒井先生がそうしていなかったとしても。良き読者となってみるんです。そんな風に手間をかけて楽しでどうしていけないんでしょう?ゲームなら時間をかけてレヴェルをあげ、地図を書くことを厭わないのに。 「既に見てきたように、『猫の下で読むに限る』から数学的な内容を読み取ることはできそうになく(II章)」とあるのは、この作品が文芸誌の読者を想定していて(おそらく芥川賞候補にあがることを強く意識して)、今作は数学・物理なしで楽しめますよというサジェスチョンだと思えます。多くのひと(愉しみには少しばかりの手間はまあ付き物だと考える)に言葉と観念だけでこれだけ楽しめるんですよと示してみせたちょっとした作品(おそらくこの作家の最良の部分ではない)だと思う次第です。そして、「なんらかの統一性」に「書くこと(読むことよりも)のなんたるか」を据えてみるのも読む人の楽しみ方のひとつ、自由だとも。 | ||||
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非常に魅力があり大変満足しています。次作に期待しています。良かったです。 | ||||
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円城塔作品としては異例の読み易さにまず驚いた。ひょっとしてまさか普通の小説なのかと言う疑問が浮かんだが、そんな事はなく、やはりいつもの内容が理解出来ない円城塔だった。ただし、何となく具体的な映像が頭に浮かび何かを理解出来そうであり、遊びめいた言葉の使用が洗練されて美しく、読み手に対して優しい感じはした。連作2篇のうち「松ノ枝の記」の方がより一層とっつき易いと思う。 あえて想像するなら、この作品は円城塔が芥川賞を狙って書いたのではないかと思う。ハードなSFらしさをオブウラートに包み、一見叙情的な美しい言葉でより読み易く受け入れられるように書いているのだ。だが彼の作品の本質は変わらず、通常の小説のように何らかの意味ある内容を求めると理解不能となってしまう。恐らく難解な現代詩とか抽象絵画を鑑賞するつもりで読むといいのである。 | ||||
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友人に勧められて買いました。不思議な読書感を味わいました。おもしろかったです。 | ||||
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この作者普通の書き手ではない。 とりあえず分かりそうで分からない。 いや分からないようで分かりそうでもある。 そんなかゆいところに手が届きそうで届かない、 いや届いてないようで届いているような絶妙な感じ。 感想すらなんとも堂々めぐりになってしまうが、 それがまたこの人の狙いどころなのかもしれない。 でもひとつ言えるのは、新しい。 小説が飽和している現在、 新しいというのはただそれだけで素晴らしいことだと思う。 | ||||
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芥川賞ということで楽しみに読んだのですが、言葉の羅列、私には難しかったです | ||||
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個人的には、非常に脳を揺さぶられる感があり、とても楽しめた。 時空を飛んで、鏡の中を行き来するようなそんな錯覚を覚えるような、話の展開。 年に一冊くらいこんな本に巡り合えたらどんなにか楽しいか。 良作だと思いました。 | ||||
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表題作が芥川賞受賞作品ということで読んでみた。本書は表題作を含む2作品からなる。円城塔の作品は、わざと主題にからむことを省略することで、読者にいろいろ考えてもらおうとしているのではないかと感じた。もしそうだとしたら、読者に教養を提供しているのかもしれないが、読みにくくなっているのも事実。慣れれば作者の意図を理解しやすくなるのだろうが、理解する前に挫折するケースも多いと思う。読み手を限定してしまうのは少し残念ではある。 以下、個別の作品の感想。 ◎道化師の蝶 不思議な物語。きちんと理解したわけではないので私個人の解釈であるが、“わたし”が、様々な視点だったり人物というかオブジェクトになるので、なかなかわかりづらい。例えるなら、宇宙から地球を見ていたのが、視点がぐっと日本に近づき、東京の街を歩いている人が見え、その人の体内に忍び込むかのように“わたし”が動いているようだ。そのようなズームインとズームアウトを繰り返しながら日本と米国を往復するかのような動きも加わった感じがする。私の書いていることをわけが分からないと思うだろうが、わけが分からないのを表現したのだから、わけが分からないのは仕方がないと思う。と同時に、このわけが分からないレビューを読んで共感している人もいらっしゃると思う。また、蝶は“わたし”であり、“わたし”が追っているもの(対象)でもある。存在が確定していない蝶ではあるが、それが“わたし”の正体なのだと思った。 ◎松ノ枝の記 こちらはまだ読みやすい。表題作と比較してのことではあるけれど。私と、私が訳した作品の作者、私とやり取りする彼女の存在を整理できれば、この作品を楽しめると思う。主題は別のところにあるのかもしれないが、私の読解力で分かったのはこの程度。もっと精進が必要だと思いました。 | ||||
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表題作だけ読んでこれを書きだしてしまってはほんとうはいけないのかもしれないけれど、なによりきれいでうつくしくって感動的で。芥川賞の銓衡会で授賞が決まりそうになって退席し、のちに退任した石原慎太郎の最後っ屁のような会見も印象的だったけれど、ほんとうにほんとうにほんとうに、とろけちゃうようにうっとりしちゃう良質な小説ではないか。文章だって読みやすくってリズミカル。逆にこれがむつかしいわからないで務まるほどの銓衡委員など願いさげだし、なによりはっきりいってどこもむつかしいところはないしよくわかる作品なのに、この程度で難解だ読者を考えてないとのたまうアマゾンのレビュアーなんかは読書に向いてないんだと思う。いっそ本なんか読まなきゃいいのに。荒唐無稽なところなんてひとつもなくて、ちゃんと読めばどういう作品だったのか、なにも評論家きどりで解説しようなんてしなくてもあらすじくらいは説明できるし、よっぽどこれくらいのことがわからないような人間ばかりが量産されていく日本の国語教育にはあきれかえってしまうわけだけれど、作家先生からして無能なのでなにを嘆いたっていまさらなのだ。これのひとつまえに読んだ小島信夫の短篇『馬 または政治』のほうがわけのわからなさでいったら勝っているのに、これだって新潮文庫ほかに収録されて、初期の代表作になっているわけだし、この五十年で日本人の読解力が相対的にさがったのかしら、なんてのはまったくの見当違いで、もちろん小島信夫の短篇にケチをつけた批評家だっていたのだし、それこそむつかしいわからないと投げた読者だっていただろう。とはいえ文章が読めない馬鹿でもレビューを書きこめるアマゾンがあるかないかは大きくて、それによって変な先入観でも抱かれてしまったら著者にしてみればやるせないだろう。ただほんとうに、これがわからないといわれちゃ、書いている当人からしたらほんと、せつないくらい虚しくなっちゃって書くということが馬鹿馬鹿しくなっちゃうんじゃないだろうか。 | ||||
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蝶に始まり蝶に収斂していく、美しい物語である。 芥川賞なぞ取ってしまっているので、いささか不安だったが、読み始めると いつもの円城塔で安心した。 円城塔作品としては比較的わかりやすい部類に入るので、入門書として読んでみるのもいいかもしれない | ||||
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芥川賞を受賞した作品だけあって難解です。 ですがこの本に収録されている2編が言葉を巡ると言うテーマを理解した後に、 再読するとまるでパズルのピースが埋まっていくかのような不思議な魅力に気がつきます。 解説でもあげているように、まるで自分も登場人物の一人になった気持ちです。 ですがテーマが難解ですので万人にはオススメは出来ませんが、 あらすじなどに惹かれた方は是非とも手にとっていただきたい。 そんな不思議な魅力に満ち溢れている作品です。 | ||||
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文庫になっていない作品の文庫化を!! ☆評価・・。 取り急ぎ・・文庫になっていない作品の文庫化を!! | ||||
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道化師の蝶、松の枝の記のどちらもとても楽しかった。 松の枝の記で自分も文章を書こうと思った。 | ||||
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あまり小説を読みませんが、表紙が奇麗だったので買いました。 前のページの内容もすぐにあやふやになる私には、なんというか刹那的に読めて良かったと思います。 文章が美しいとか知的とか面白味があるかと言うと少し物足りないんですが、 でも自由というかふわふわして何でもありで結構楽しかったです。 深く何も考えずに読んだので、たぶん本当の楽しみ方はしてませんが、、。 | ||||
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「不機嫌メガネ男子」との異名を図らずも勝ち取った 田中慎弥さんの芥川受賞作品『共喰い』を読むために 文藝春秋3月号をそもそも買ったのである。 でも序盤のほうで、町や川の描写を読み続けるのに 飽きてしまい読むのを放棄してしまった。 純文学が好きと言いながら、描写にあまり関心がない(自分がんばれよ)。 話自体は好きだから、そのうち読む。 で、 すっかり手をつけずに放置しているのも もったいないから、今頃になって、もう一人の芥川受賞者、 円城氏の『道化師の蝶』をなんとなく読んでみた。 私がいままで(おもに日陰で)生きてきた中で 言えることは、 自分にとっての良い発見はいつも 自分の興味の範囲外に転がっているということだ。 思っていたよりずっと興味深い小説で、食い入るように読んだ。 最初は 「言語のナンタラをナンタラしてある、とにかく専門的で難解な実験小説」 との噂を聞いていたので敬遠していた。 そんなものは高尚な弁論を得意とする教養人同志が 土下座する庶民の頭を踏んづけながら 楽しく読むのが正しいと思っていた。 (そして、そんな庶民様の土下座している足の指をお拭きするのが 私をはじめとする奈落底の住民である) 学問的な解釈で納得するのは難しいとしても、 文体がわかりやすいので、 とりあえず何が書いてあるかはわかる。 要は、 非常に多くの言語を会得し、その言語で書いた文章を残しては 次の町へと姿をくらますある小説家の 行方と素性を探るという内容だ。 この小説には「わたし」が複数出てくる。 観念的なことではなく、実際に章ごとに違う人物が「わたし」と交代して語るのだが、 よくある「語り手バトンタッチ制」小説とは異なる点がある。 その「わたし」たちは、登場人物の誰かであることは間違いないのだが、 わざわざ名前を名乗らないし、 まるで「まったく名乗る必要もない」というように淡々と話を進める。 だからといえど、神視点と呼ばれる、ただの出来事俯瞰文章でもない。 その人物がつけた「記録」の集合といえば一番近いだろう。 軟弱精神嫌悪家でおなじみの石原東京都知事さまは この小説を「一人よがりで、読まされる読者がかわいそう」と評していたが、 少なくとも近年食傷ぎみとされる「軟弱ボクチン」パターンの小説ではない。 かぎりなく「自分濃度が薄い小説」といえる。 | ||||
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タイトルから想起される通り、胡蝶の夢とか、バタフライ・エフェクトを小説のモチーフにしてみました、といった掌編。 個人的には視点が滑らかに移り変わっていく語りのトリックから、エッシャーの騙し絵を連想した。 本作はデビュー作の『Self-Reference engine』あたりに比べればわりとシンプルな構成で読みやすいと思う。 まぁ、結末で謎解きがされるとか、オープン・エンディングでいくつかの解釈ができるという類のリーダブルな小説ではないけれども。 一応謎の作家を追跡するというプロットの軸らしきものはあるが、閉じた円環というかウロボロスの蛇が連なって尻尾を飲み込んでゆくような仕掛けになっているので、ストーリーの起承転結を追えばいいという読み方には馴染まないだろう。 作者のくり出す語り=騙りの詐術に翻弄され、様々なイメージの連なり(架空の蝶・スパイス・刺繍・言葉・数式)の美しさに酔いしれる、そんな読み方で楽しめばいいと思う。 本作が一種の言語遊戯だというのはその通りだが、それを楽しめるかどうかはあくまで読み手の側の問題かと思う。 「衒学的で鼻持ちならない文章だ」式の評価が出てくるのは止むを得ないにしても、円城氏が小説という表現の可能性を存分に使い尽くすだけの技量の持ち主であるのは間違いないだろう。 たしか円城氏はインタビューで「純文学リーグ向けにはいくらか平易に書くように意識している」主旨のことを言っていたように記憶しているが、それでも本作が芥川賞をとったのは快挙だと思う。正直なところ、これまで芥川賞の選考に関心を持ったことはほとんどなく、優れた作品がきちんと評価されるような仕組みではないと感じていた。今回の受賞で、芥川賞を少しは見直してもいいかという気にさせられた。 ご本人は作品が難解といわれることに当惑気味のようだが、SFにせよ純文学にせよ既存のジャンル小説の枠に収まりにくい作風なので、芥川賞作家になったとはいっても、広く人気を博すような書き手にはならないだろうと思っていた。ところが新作の『屍者の帝国』は20万部突破だそうで、一気にメジャーになったのには驚いた。盟友であった故伊藤計劃の遺作を引き継いだという経緯も関係あるのだろうが、珍しくかなり直球のSFだとか。その気になればエンタテインメントの枠組み内でも書けるということか? 今のところ未読なので、非常に楽しみにしている。 | ||||
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レビューの長さの関係上、とりあえず、この場では表題作の「道化師の蝶」について述べることにする。 この作品、ストーリー/プロットやテーマ性などにおける小説の約束事に対する問題意識の故なのか、 それらにはかなり捻りが加えられていて、それが難解さにもつながっているが、 かといって純粋な言葉の遊戯に自閉している訳でもない。 むしろ「言葉」と「概念・事物」との関係性がテーマとして設定してあり、 それに基づいて作品全体が極めて明確な構成意識によって周到に構成されている。 加えてそのテーマが「作家が作品を書く行為」にもリンクしていくメタ作品、という趣もある。 ストーリー自体は一応、「冒頭の作品内小説の作者は誰か?」という、 まさにストーリー展開の原動力として要請された謎を追求する形で進む。 さて、物質的な網で架空の蝶を捕まえて経済的成功を企むという作品内小説の筋は、 文学に対する資本主義的発想の、いかにも意地の悪いパロディのという印象があるが、 言葉の網で、言葉になる前の着想・インスピレーション、という蝶を捕まえる、という営み自体は、 架空の物語を編む物書きのみならず、真実の把握を試みる学者にも、それから 言葉にならない感情を表現したいと悩むごく一般の人間にもごく自然にあてはまることだろう。 さて、ここで作品の重要な主題として現れるのは、以下の疑問だ。 「どんな言葉なら、確かな、真なる着想を捕えることができるのだろう?」 それは、書き手が随意に振る舞えて、「思うところをそのまま表現できる」理想的人工言語なのか。 いやいや、言葉以前のものを理想的な状態で捕まえるとかそういう問題ではなくて、 むしろ土地や歴史に根ざした自然言語の模様をなぞり、 言葉のテクスチュアを織る行為そのもののなかで、 着想の卵は孵化し、やがて蝶へと羽化するのだろうか。 とはいえ、固有の自然やら文化やらの堆積をくぐりながら模様を追う作業は時に重苦しい。 作品内小説の作者と目される『友幸友幸』もその不自由さは折に触れて吐露していて、 だからこそ、彼女はひとつ所には長く留まらず、放浪のうちに生を送るようだ。 しかしその土地土地それぞれが持つ匂いの多彩さ、 テクスチュアに用いる技法や模様の種類の恐ろしいほどの豊穣を楽しんでいるようでもある。 ただしその多様さは、決して一つの真なる模様に収斂せしめられようとはしないし、 真なるものに近づくための前提となる経験の蓄積というプロセスとか 記憶というものを、はなから問題にしていない。 だから当然ながら彼女は日々作りだす文字の連なりに執着することも、 それが文学作品と呼ばれるかどうかも顧慮せず、 いわんや経済的なサイクルに乗っかるかどうかを期待することもない。 しかし彼女は、少なくとも蝶を求める者にとっては、 金の恵みをもたらす蝶と同様に探索すべき対象であるようだ。 移動と変化と忘却を人生とする彼女は、しかし誰とめぐりあうことを望むのだろうか。 それが叶ったとするなら、そのときは蝶が繁殖するような時なのか。 「作者の意図」などというものをこの種の作品から穿鑿するのは、 それこそ作者の仕掛けた罠に進んで嵌まりに行くようなものだが、 それでもこの点につき少々思いを致すならば、 思考・概念・感性などの普遍性よりは個別性・固有性を志向し、しかも常にそれを越境移動し続けることを 作家の宿命として提示するとともに、 小説家の作為・人為じたいを自虐的に皮肉っている、ということになるのだろうか。 ともあれ、テーマと噛み合った形で非常に精緻に組み立てられた作品であり、 抑制された文体にもまさに玲瓏たる風骨が感じられた点、これらはすなおに評価したい。 ただ、「言語と事物」の関係性という問題を、このような高踏的な手法で表現するのも一つの方法ではあるが、 それをもっと現実のに生きる人々の切実さとリンクさせて読者の心に響かせることができたはず、とも思う。 これはもはや個人的好みの領域ではあるが、 「言語」という、哲学的理論的対象として扱うことができる一方で 我々一人一人が個別の人生を背負った「自分」として成立するという事態にもダイレクトに関わる問題を、 どこまでも思弁的な装いのもとに展開させてしまったことはやはり勿体ないと感じられ、若干憾みが残る。 ここまでを記すにあたって、「小説」なる一ジャンル名を用いて本作品を呼称するのにどうも逡巡させられたのも、 その辺りが一因のようである。(よって星4つ) ★ ★ (以下、作品の結末に関わる記述があるので注意) ★ ★ それにしても、そもそもあの小説を書いたのは、以前その言語を用いる「国」にいた彼女自身なのか、 時と世界を自由に行き来できるらしい「男」なのか、 あるいは、堅固なものに固着し、小説の作者を仮構することで 翻訳者の立場におさまろうとしたのかもしれないエージェントなのか、という問いは、 それが作品内世界の中に生まれ落ちることになった理由や動機とともに、結局開かれたままのようだ。 ただともかくも、この小説を介して人工言語の荒涼たる森に導かれた友幸友幸は、 この罠ともいえる世界でも見事に手仕事をやってのける。 それは蝶を捕まえる網でありながら、 実質的に蝶を捕獲状態から解放し、誰にも捕まえなどさせないことを運命づけるもの。 彼女が「第一の網」を制作したことで、 「現実世界」を微妙にずらしつつトレースした無活用ラテン語の言語世界に包含される作品内小説の世界でも混乱が生じ、 益体もない人工物の蝶で溢れかえる結果になっていたのだけれど、 その網が作中終盤、作品内小説が再度語りなおされる場面にて 少々捕獲能力に劣る網にすり替えられることで、そうした混乱状態の発生は食い止められ、 その世界に孤独に閉じ込められたほんものの蝶も、雄にめぐり会い繁殖できた模様である。 この実り少ない世界でも、新たな着想が生じ、文字として現実化するようになるのかもしれない。 このすり替えは、A氏が蝶を決して捕えられないにもかかわらず永遠の探索を続ける、 という呪いの発動をもまた意味すると思われるのだが。 | ||||
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