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屍者の帝国
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屍者の帝国の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.36pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全114件 81~100 5/6ページ
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19世紀を舞台にした、ゾンビが技術化された架空の世界のSFです。 SFなので、独自の設定(ゾンビ作成可能)があり、 主人公は、SF諜報機関で、世界を舞台に、ゾンビの謎を追います。 フランケンシュタイン、聖書など、伏線が楽しいです。 ・死体にデータをインストールすることで、ゾンビを作る データなので、あくまでロボットのように生者の意識なし(ゾンビっぽくなる理由) ※本当にできそうですね そのゾンビをめぐる陰謀を、イギリス諜報機関が追います。 | ||||
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伊藤計劃の「虐殺器官」「ハーモニー」を読んだ人ならおすすめというコメントを見てて購入してみました。 最初の数ページのプロローグには、たしかに伊藤計劃はいましたが、そこにしか伊藤計劃はいませんでした。 彼の作品は「命」や「生命」という難しいテーマを、読みやすく物語にプロットにしていくことがとてもうまかったのでSFの域を出て万人に読ませる作品となってましたが、この作品(プロローグ以降)は、逆に簡単なことや言葉を小難しい表現にあえて変えてSFというものに無理やり仕上げた感じの作品で、文章や展開がとてもわかりにくく、私にはまったく受け付けないものでした。 円城さんの作品は、これが初ですが、むしろ円城さんの作品が好きな人が読むべき本だと思います。 少なくとも、私には円城さんのパートがまったく合わなかったため、7割くらいは我慢して読み進めましたが、耐えられず、私には珍しく、途中で本を置きました。 テーマが面白いものだっただけに、残念です。 | ||||
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伊藤・円城両氏の手になる人類の存在意義を問い掛けた壮大なスケールの作品。伊藤氏の執筆箇所はプロローグのみの由だが、全体構想は伊藤氏が立てたものだろう。死者の脳に"霊素"を注ぎ込む事によって、死者をフランケンシュタイン化した「屍者」を作製・使役する事が可能となった多次元世界(19世紀の大英帝国中心)を舞台に物語は展開される。導入部はアメリカによるアフガニスタン侵攻を多分に意識した気配を感じた。帝国主義批判の書かと......。 一応は、「屍者」作製の基になったと思われる暗号文書の秘密解明、「屍者」第一号であるザ・ワンなる人物の追走劇が物語の軸。そこに、円城氏が幾つかの物語を織り込んだ。その最たるものは、「カラマーゾフの兄弟」の幻の続編のテーマの再構成とも言えるアリョーシャによる「屍者の帝国」だろう(一時はこちらが本線かと思った)。この他、時空間、言語、進化等の考察、人(生者)が物語を必要とする理由、更には、上述の暗号文書が物語を紡ぎ出す(チューリングマシンは作家側ではないという円城氏の持論)と言った円城氏ならではの言説が披歴される。アシモフの"ロボット三原則"を模した"フランケンシュタイン三原則"が出て来た時には遊びが過ぎるかと思ったのだが、これも後で効いて来る。ただし、舞台を多次元世界明治時代の日本に移した辺りは流石に冗漫だろう。円城氏の手によって韜晦性とユーモア味とを加味した多角的展開になったとも言えるし、紆余曲折した展開になったとも言える。 しかし、舞台をアメリカに移した以降の展開は瞠目すべきものがある。それまでのストーリーがこうした形に結実するとは予想だにしなかった。この結末は伊藤氏が構想したと想像されるが、ここに到って、途中の円城氏の奮戦振りが改めて際立って映った。深いテーマ性と豊かな構想力とが融合した秀作と言って良いのではないか。 | ||||
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2人の作者の本は初めて読むので比較はできませんが、 正直、何を書いているのかが分かりにくい・・・ というか、分かりません。 場面の説明などは詳細でイメージが湧きやすいのですが、 特に登場人物の心情については、 説明が不足していて分かりにくいですし、 かなり唐突な印象があります。 (新型屍者に対する反応など。伏線が弱い?) 私は月に数冊は小説を読みますが(SFなども好き)、 久しぶりに途中で読むのを止めてしまいました。 個人的には、全くお勧めできないですね。 | ||||
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計劃氏によるプロローグから円城氏による1部以降、展開は滑らかで違和感がない。ただし決定的に異なる一点がある。それは<におい>だ。作家の個性というものは、隠しても滲み出る。 計劃氏によるプロローグには、屍臭が濃く漂っている。鼻の奥にいつまでも残るような腐臭がたちこめ、世界はどんよりと暗い。 その<におい>が1部以降では消えてしまう。 透徹した美しさにくるまれた、ファンタジーの趣が強くなる。屍者がいくら動き回ろうと骨が折れ肉が裂けようとも生々しさは薄く、生者が感じるであろう屍者への嫌悪感も淡い。香りはあるが<におい>はない。 それこそが作家の個性であるものか。 『虐殺器官』や『ハーモニー』を彷彿とさせるイメージが散見し、計劃氏が筆を運んだのではないかと錯覚させられる部分も随所にあった。しかし綿密な構想メモが残されていたとしても、メモの隙間にあるイメージを拾い上げて膨らませるのは、作家の資質個性によるもので、はからずも円城氏が自らの筆を押さえ、計劃氏が遺した物語を忠実に再現しようとする試みたことによって、二人の作家の個性が際立つことになったのは興味深い。 最期に詮無いことながら、伊藤計劃の『屍者の帝国』と円城塔の『屍者の帝国』の読み比べという贅沢を味わってみたかった。 | ||||
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プロローグではグイグイひき込まれた感を味わえたけど、本編に入ってからが長く感じる物語でありました。小説作品は、文体とかも堪能したいわけでありますから、一冊まるごと同一の作家さんでお願いしたいものです。ということではありますが、円城さんがこの作品を完成させたことで、伊藤さんという作家さんを知ることが出来たってことでありますし、本編の方もグッドジョブです。 | ||||
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今は亡き作者の面影をいつまでも追い求めることが不毛だとは重々分かっているのだが、プロローグに当たる衝撃の遺稿を読んで、やはりどうしても期待してしまっていた。タイトルからしても、この作品は、大英帝国の首都であるロンドンが物語の舞台に想定されていたのでは。冒頭部分では冷たく陰鬱な都の空気を感じ取ることができ、屍者たちもそこを蠢くことで凄みがあったように思う。円城氏による第一部以降、舞台が目まぐるしく変わり、そうした不気味さは感じられなくなった。カラマーゾフの登場人物たちもさすがに上手く配置されているが、深みが無い。ただあの遺稿をきちんと一つの作品にすることは本当に大変であっただろうし、円城氏には敬意と感謝を捧げたい。 | ||||
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伊藤先生絶筆の作品? やはりこれは円城先生の作品。もっと違った内容だったに違いない残念です。 | ||||
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これは円城塔の作品なのだ。そこに伊藤計劃の面影を探すのはなんというかひたすら不毛だと思う。 たしかに伊藤氏の作品は、圧倒的な映像喚起力がある。そればかりが「文章」を用いて「理論」を重ねていく円城氏が どう転んだって得られないものだ。だがそのロジックや洗練された文章には映像では得られない陶酔と、無限のイメージ の展がりがあるではないか! 文学や映像ネタ、歴史なトリビアや、はーこれとこれは同じ時代なのかという知的興奮、ゾンビパニックもののぼんくら男子随喜なの エモーションを『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』のシェア世界的なルールのフライパンで炒めて、 極上の料理を仕上げた円城塔には脱帽。 物語中盤で登場する歴史的な超大物のあつかいと、作者にその知性が憑いているとしか思えない語りには度肝を抜かれたしね。 執筆の背景や、作者の交代など、座組的な問題で本を読むべきではないが、 それらをひっくるめてもこれは傑作だ。 ワタクシ寡聞にして円城塔の作品は二、三しか読んだことがなく、そのワカラナサに撃沈したくちだが、 本作ではその円城が全身全霊をかけてエンタメに徹している。 円城塔という前衛をゆく作家の、100%の本気を見た気がして、ワタクシは震えた。 | ||||
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冒頭以外どこにも伊藤計劃はいなかった。 物語が継接ぎのフランケンになっていた。 ただ義務的に読んだ。 未完のままでよかった。 | ||||
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円城塔さんの本は1~2冊しか読んだことがありませんが、やはりこの二人の相性は悪いように感じます。 序盤の伊藤さんが描いている部分を受け継いでいるのは一部だけで、ほとんどは円城さんによるものです。 そのせいか複雑になりすぎている印象を受けてしまった。 伊藤さんのファンでこの本を読むという方はガッカリするかもしれません。 面白いですが、伊藤さんが生きていればこうはならなかっただろうなぁ。 | ||||
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伊藤計劃の遺作を円城塔が書き継いだ本作、大変楽しんで読んだ。 難解なスチームパンク的世界観も、直前にディファレンス・エンジンを読んでいたおかげで溶け込めた。 これで、伊藤計劃の作品はもう残っていない。 それは彼の才能を思うと大変に残念なのだけれど、それでもこの作品を完成させてくれた円城塔には感謝の念以外ない。 円城塔、ありがとう。 | ||||
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伊藤さんがもともと構想していた、「ゾンビと資本主義、国家」というアイデアは、本作の前半、地獄の黙示録的展開のあたりを、冒頭の試し書きのノリでより軽妙な社会SFに仕上げる予定だったのかなー、等と想像してます。一方、円塔さんは最終的には「虐殺器官」とは何だったのか、という辺りに話を持って行ったと思います。「虐殺器官」は小松左京賞を取り損なっているのですが、小松さんは「虐殺器官とは何か」が明示されてない事を理由にしていました。俺なんかは、あの小説の読ませトコロはそこじゃないじゃん!と思いますが。 円塔さんは今回、彼なりの解釈で、「虐殺器官」の謎解きをして、小松左京さんと伊藤さんに捧げているのだと思います。 | ||||
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いままで、SFの分野の本は読む機会がありませんでしたが、この本がきっかけでこの分野の本に興味をもちました。 | ||||
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フランケンシュタインの怪物の誕生が発端のSF伝奇ゾンビ小説の番外的傑作ではあるだろうが、じつに難解な節回しで語られる。これは作者が芥川賞作家であることもあるだろう。「虐殺器官」という一代の傑作をものにして(ほかの作品は読んでない)夭折した伊藤計劃の文体とどう折り合っているのかわからないが、アクションやスペクタクル場面の描写がどうも頭に入ってこない。非常に苦労して読んだ作品である。 屍者が社会の労働力・兵力として使われているところはロボットもののパロディか(アシモフのロボット三原則が屍者三原則として出てくる)と思ったり、かの「家畜人ヤプー」を連想したりした。そのほか不気味の谷という言葉が出てくると「デカルトの密室」、ドストエフスキーの王国への旅は「闇の奥(地獄の黙示録)」を思い浮かべた。 旧約聖書世界を現実のものとして、今につながる世界とは別な進化を遂げた1800年代のジュール・ベルヌ的文明世界を舞台にしていて、進化論の「怪物」ダーウィン、ドストエフスキー、明治天皇(皇帝)、オオムラ・マスジロー、南北戦争からはレッド・バトラー、(しかしネモ船長は登場せず)挙句の果ては女王陛下の007からその宿敵スペクターまで、いやいや主人公の超有名な相方まで最後に登場するという大盤振る舞い。 はじめ「霊素」を死者にインストールすると屍者になる、という疑似科学SFかと思ったら、途中から菌株というインベーダー(寄生体)の話になり、コリン・ウィルソンのSFみたいになってしまった。かまわないのだが、人間の意識はこの菌の寄生によって成長するというような話なのだから混乱する。たぶん一度読んだきりでは半分ぐらいしか理解できていないかもしれないが、菌の由来や説明を顕微鏡的にしてもらわないとどうもヘルシングではないが理解に苦しむところだ。 バン・ヘルシングが出てくるのにドラキュラという超有名な屍者が出てこないのはもったいない。菌の話なら南方熊楠を出して欲しかった。設定年代的に無理なのだろうか?また、なぜこの話に日本が舞台になる必然があったのだろう。こういう西欧的な大スケールの伝奇小説に日本が出てくると途端に話が萎む。むしろ香港や上海のほうが良かったのではないか。 | ||||
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若くして夭折した作家の遺稿を、芥川作家が書き継ぐ。 これだけでも、SF的なセンス・オブ・ワンダーに溢れています。 細かい内容は他のレビューに譲るとして、円城が伊藤の作風を真似る?よう 努力した跡がみられるなど、十二分にオマージュに溢れています。 そして、少しずつ作品の”核”に迫るわけですが、これが「ハーモニー」にも 繋がるような。屍者と生者の違いは何なのか? これは是非自分で。 円城の作品は、正直私は取りかかりにくかったのですが、今作ですっかり ファンになりました。 2012年を代表する作品になるでしょう。是非「虐殺器官」「ハーモニー」 を読んでから、お楽しみ下さい。 慌てなくても大丈夫です。もう、伊藤の作品は出てこないのだから。 | ||||
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円城氏と伊藤氏は才能ある作家だ。 だが本作に対する評価はあきらかに過大だ。 ここにあるのはぱっとしないSF的アイデアと緩慢なストーリーテリングがないまぜになった小説未満の代物だ。 世界観に魅力はある。ただ「ドラキュラ紀元」「リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン」、 あるいは数多のホームズものパスティーシュに見られるように“ヴィクトリア朝クロスオーヴァーもの”は もはやジャンルと呼んで差し支えのない、既存の、手垢のついた世界観でしかない。 本作がそこからなにか新しいアイデアの一歩を踏み出しているかといえば残念ながら「NO」だ。 物語に絡むでもなく次から次へと登場しては消えてゆく19世紀末期オールスターズの名前。 遅々として走り出さない物語。本作は優秀な設定資料集であり優秀な小説ではない。 これなら「ドラキュラ紀元」の巻末資料集を見れば充分であろう。 円城、伊藤両作家の才能に見合った仕事とはとうてい言えない。 本作の過大評価は、伊藤氏に対する評価が「センチメンタリズムとコマーシャリズムが合体したSF村の一大キャンペーン」 と捉えられかねない危険をはらむ。 冷静な評価を。 | ||||
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伊藤計劃氏が遺したプロローグを盟友円城塔氏が書き継ぎ完成を見た巨編。小説の成立過程を知っただけでも一読に値するのでないか。 時は19世紀。人工の命を吹き込まれ蘇った死者たちが溢れた世界で人類の存在意義が問われる。テーマは壮大、筋もいささか入り組んでいるが、主人公とその仲間たちの珍道中的な旅といい、歴史上の人物や文学作品の人物が多数登場するので、エンタメとしても十分楽しめる(SFというよりは、インディー・ジョーンズ的な冒険活劇としてかもしれないが) 伊藤氏が遺した短い(あまりにも)プロローグは実に魅力的。レンブラントの名作「テュルプ博士の解剖学講義」を彷彿とさせて絵画的だ。 そして、完成不可能と思われた小説を届けてくれた円城氏に感謝したい。 ただし、読者らしいわがままを言わせてもらえば、難解でペダントリーに満ちた筋立ては円城氏らしくて良しとしても、論理を新たな論理によって二度も三度も転覆させるのは作家の独善で、読者を置き去りにしてはいないだろうか。もう少しだけ、読者に歩み寄ってほしい。 ともあれ、この作品が奇跡の共著であることは間違いない。ぜひ多くの人に読んでもらいたい。 | ||||
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伊藤が残したわずか30枚のプロローグと執筆のメモを円城が引き継ぐことで完成させた作品。屍者というのは、ゾンビというとわかりやすいかもしれない。死者にプログラムをダウンロードすることで、ゾンビとして甦らせる技術が確立された19世紀が舞台。プログラムによって、屍者を自由にあやつることができるし、とりわけ兵士としては死を恐れないだけに、最強の兵士となる。 テーマそのものは、伊藤の「虐殺器官」「ハーモニー」を受け継ぐもの。それを円城がどのように具体化させるか、あるいは保留するか、ということになる。それは同時に、円城はどう考えるか、ということでもある。 それは、ものすごくトリッキーな形で、円城なりの解答を示したものとなったのではないだろうか。 伊藤にとって、意識を持った、生きている人というのは、どういった存在なのかということが、常に問われていた。直接的には「ハーモニー」で意識を失った、つねに合理的な決定ができる知能を持った人間が描かれる。その前の「虐殺器官」では、痛みを失うことで、死すら意識の外に置かれ、ひき肉状になるまで戦い続ける兵士が描かれる。 屍者はといえば、意識を持たない、プログラムされた存在だといえるだろう。では、生きた人間にプログラムをダウンロードしたら屍者になるのだろうか。 けれども、円城はこの問いに直接的に答えを示さない。円城がこれまで書いてきた小説の世界は、ある種の蓋然性の世界だとすれば、この作品では伊藤が描くようなもう少し身近なSF小説の線形に記述される世界であり、円城はその世界をあたりまえのように描いている。 もっとも、その記述には、伊藤/円城らしく、さまざまな知識/情報がはめ込まれている。屍者の由来や活躍する人物などをあげていけば、それだけで魅力的に感じるかもしれない。 円城が伊藤の小説を書き継ぐにあたって、トリッキーな設定を導入している。というのも、主人公に仕える屍者が、記述している、という設定になっているからだ。円城が屍者として、伊藤の小説を記述している、ということなのかもしれない。それは屍者ゆえに、生きていたときの伊藤による文章とは大きく異なっている。伊藤の小説の主人公は、ときおり、過剰に感傷的になる。その感傷こそ、生きている証なのだろう。けれども、屍者はそうした感傷は持たない。ただ、主人公の活動を記録するだけである。屍者には十分な知能があり、記述が可能であり、主人公の思考を外側からなぞることすら可能。けれども、意識はなく、感情はなぞれない。それが、本書の文章である。もっとも、この設定は、エピローグにも関わってくる。 という難しいことを考えなくても、アフガニスタン、日本、アメリカとかけめぐるゾンビ小説として、素直に楽しめるし、本当に前述のようなペダントリックな引用も彩を与えている。1+1が2とか3とかになったというよりも、iとかωとかになったような、そんな作品なのだと思う。 | ||||
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死体に擬似霊素をインストールする事で、労働をする屍者として「使役」する技術が発達している世界が舞台。 屍者の存在以外は地球の1878年の歴史がそのままあてはまる世界です。 ロンドンの医大生ジョン・ワトソンは英国の諜報機関の間諜として『屍者の王国』の調査を命じられボンベイ、アフガン、と旅をします。未知の制御系をインストールされた屍者の実在、『屍者の王国』を建設しようとする人物の目的とは何か? 19世紀末の世界を舞台に、新しい技術を持つ人物「ザ・ワン」を追いかけるエージェント達。 擬似霊素を上書きされた屍者と、それに対して浮かび上がる生きている人間のもつ「自分の存在」への疑問を抱え始めるワトソン。「ザ・ワン」に会うことで彼の疑問も解き明かされるのか? J・ワトソンが主役で登場し世界を又にかけて諜報活動と書くと、超娯楽作のように見えますが、「自己存在の証明」が平行して描かれていきます。 「擬似霊素をインストールされた屍者」にかかわる事件の数々に巻き込まれる中で、「自分の思考や自分と言う存在、人の魂」への考察を登場人物たちが繰り広げそれぞれが追求をしていくのです。 19世紀末の各国の風物や色々な物語の主人公達が現れ、ノーチラス号も登場します。 たくさんの物が盛り込まれた本でした。 | ||||
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