■スポンサードリンク
カラマ-ゾフの兄弟
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全554件 401~420 21/28ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本書から感じさせられること。 1.どのような人にも誠実な心根がある。 2.どのような人にもプライドがあり、それが大切なものである。 3.どのような人にも神聖なるものへの憧れ、畏れ、すがる気持ちがある。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
三度目の正直で世界最高峰と呼ばれるヤマ?の登頂に成功しました(笑) 上巻で幾度も無理なのか?と挫折しそうになりましたが中巻のあの事件以降、俄然読むペースが速くなり下巻はあっという間に読み終わりました。 下巻の裁判シーンの描写が圧倒的な迫力です。読んでいるというより体感しているようでした。 ロシアの文豪の傑作というといかにも難解極まりない印象ですが、個人的には昼ドラのドロドロ愛憎劇風なところも感じられ面白かったです。 三兄弟のキャラも興味深い。野獣(笑)の長男、ツンデレ(笑)の次男、美男子で人間とは思えぬ(笑)出来過ぎの三男。野獣は石井慧(笑)ツンデレは福山雅治、三男はあまりにも浮世離れしてるのでCGって感じでそれぞれイメージキャラクターを思い浮かべながら読みました(笑) 上巻を読破出来れば、かなりの確率で下巻の最終頁に辿り着けると思います。酔狂にもこの小説を読破しよう!と思っている方、今読めなくても読みたいという意思を持ち続ける限りいつか読破出来る日は来ます!私でも読破出来たのですから。 最後にこちらにレビューを寄せた皆様に感謝。挫けそうな時に励みになりました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
父殺しがテーマだが、殺しの場面は直接出てこないので、やはり裁判シーンがこの物語最大の見せ場ということになる。ただ、この4巻を読んで私が最も心引かれたのは、アリョーシャとドミートリーの接見の場面のやりとり。 ドミートリーの口から「もしも、神さまがいないとなりゃあ、人間が大地と世界の主人てことになるよな。悪くないぜ!ただし、人間は神さまがいないのに、どうやって善良でいられる?」 登場人物中もっともわかりやすいドミートリーから発せられる単純明快なセリフである。このフレーズだけでなく、作者は自分の主張をいろいろな所に埋め込んでいるように思う。読者は、これをどのくらい掘り出すことができるだろうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ついに、この第三巻で父親フョードル殺しが出てくる。章立ては「アリョーシャ」「ミーシャ」「予審」となっているが、予審の章はミーシャが主役だから、この第三巻は殆どミーシャを中心とした話であると言ってよいだろう。 グルーシェニカの愛を確信できた途端に、父親殺しの疑いをかけられたミーシャ。金銭については性格破綻者と言ってよい彼の行動・発言はなぜか心に響く。憎めないキャラクターである。 話は変わるが、当時のロシアの風俗や習慣のわからない読者にとって、大きな助けとなるのが巻末の読書ガイドである。翻訳の現代語化もさることながら、これまでの翻訳と大きく異なるのはこの点かもしれない。訳者が読者にずっと寄り添って、この長編の読破を助けてくれる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
フェラポント神父に始まり、スメルジャコフやスネギリョフ大尉などカラマーゾフを固める役者達が続々登場する。エピソードを通じて詳細な人物像が浮かび上がる。でもこの時点では、これが後半どのようなことに結びついていくのかはわからない。 わからないと言えば、「大審問官」も同じ。ゾジマ長老のアンチテーゼとして登場した感があるが、なぜかこの部分だけ邦訳そのものが難解。後半を読めば、第2巻でのエピソード群がどのような意味を持つのかわかるだろうと思いながら読み進めた次第。 一方、ミーチャの精神状態とフョードルとの関係はいずれも益々悪くなっていく。不安を抱えながら、第3巻へ突入する。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
過去、新潮文庫にドストエフスキーの作品が山脈のように連なっていた。「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」・・・・、いずれも大部で読破した作品もあるし、挫折した本もある。 カラマーゾフはその中でも特に長く、名作といわれながらこれまで読んでいなかった。 1巻目を読了したが、これまで読了を阻んでいた「呼称の複雑さ(正式名称や愛称、父称などロシア人の名前はややこしい)」「訳文独特のわかりにくさ」はかなり払拭されていて、読みやすかった。 また巻末に、当時のロシアにおける宗教の情勢やドストエフスキーの宗教的スタンスも記されており、作品自体の理解を助けている。 文章のつながりの悪いところがいくつもあるが、これは原文のせいであろう。ドストエフスキーは悪文家だったとどこかで読んだことがある。 それにしても、愛憎が錯綜するカラマーゾフの一家を巡る面々、これからどうなるのか非常に楽しみである。人物描写はさすが。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
5巻まで読み終えるのに優に3ヶ月を要した。人間の善悪の本質、キリスト教と無神教、高貴な心と醜悪な感情、重層に繰り広げられる壮大なドラマである。150年経っても、人間の本質はさほど変わらないということを思い返された。 →気に入った表現をいくつか 子供時代の、両親といっしょに暮らした時代の思い出ほど、その後の一生にとって大切で、力強くて、健全で、有益なものはない どうか人生を恐れないで!なにか良いことや正しいことをしたとき、人生って本当に素晴らしいって、思えるんです! 新約聖書と旧約聖書、とくにドストエフスキーに強い興味を覚えさせたのは、神のむごたらしい試練を受け、信仰を失わないヨブの話 極端に内気で人付き合いの苦手な若いころのドストエフスキー 政治犯容疑のドストエフスキーは、4年間、シベリアの流刑地で人生の奈落を経験 罪と罰 世界文学史上に燦然たる光を放つ小説 農奴解放後のロシア社会を襲った混乱 ロシアが国家としての推進力を失い、崩壊の道を辿りつつあるという、ナショナリストとしての漠とした絶望感 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
今、この小説の5度目の再読中。世界の文学作品中、真に読み継がれていくべき名作の1つであり、途中で止めるにしても、まずは読み始めてみることをお勧めします。読み進める中で、魅力的な登場人物達の各シーンでのセリフ、行動から、人間というものの多彩さについて読者は考えさせられます。 私にとって、上巻で(又は全巻を通じても)最も感動的なシーンはイリューシャ少年のエピソードです。主人公アリョーシャの長兄ドミートリイから、大好きな父親が受けた侮辱を少年はどうしても忘れることができない。最後には「パパ、ねえ、パパ、大好きなパパ、あいつはパパにひどい恥をかかせたんだね!」と父親と抱き合って泣いてしまう。2人の娘の父親として、自分の子供のこうした感情はなんともかわいそうで、何度読んでも、やり切れない気持ちになってしまいます。とても優しい少年の心に感動します。 これに対して、アリョーシャは、今になればドミートリイが自身の行為を悔やんで許しを求めるはず、とその父親に誓うのですが、高潔な精神を持つドミートリイは確かにそうするかもしれないと思います。しかし、そうしたシーンは結局出てこない。そこがまた、なんとも悲しい感じがしてしまいます。そうしたシーンがあれば、少年と父親も少し救われるように思うのですが。 上巻では「大審問官」のエピソードが素晴らしい、すごい、という話はよく聞きますが、私には、このエピソードの良さはよく分かりません。3人兄弟のイワンは単なる頭でっかちな男のように思えます。最初は、色々と深そうな難しいことを言うので、イワンに魅かれるのですが、結局、何がしたいのか、よく理解できません。大審問官のエピソードも同じ感じで、確かに深そうですが、何が素晴らしいのか、すごいのか、よく分からない。今後、もっとこの作品を読む中で、イワンについて違った理解ができるのかもしれないですが。イワンに関するエピソードであれば、私には、アリョーシャの前で、カテリーナに自分の思いを告げるシーンのイワンの方がいいように思います。 とにかく色々と感動できると思いますので、まだ読んでいない方は、是非、読み始めてみて下さい! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
2週間かけて読んだ。新訳は読みやすい、活字も大きい。 カラマーゾフ的なものとは清濁混沌とした人間性そのものなのだろうか。 百年以上経ってもこの小説は心に響く。インターネットが普及したぐらいでは、人の心のあり方なんてものは、そうそう簡単に変化するものではない。 →コーリャの存在感 めっぽう強いやつ 抜け目がなく、粘り強い、度胸もある、何かをすすんでやってのける気構えに満ちている 鉄道事件の後は、さすがに母と子は感極まり、まる一日、ひしと抱き合い、体を震わせて泣き通した 「プライドが高くて、目がぎらぎら光っている。そういうやつが大好き」 うちの学校じゃ、全科目一番の生徒 生活にまみれていない天性が、荒っぽい馬鹿げた話で歪められている 「たとえ一人きりになっても、きみだけはやっぱりみんなと別の人になるんですよ」 →散々な描かれ方のグルーシェニカが愛したポーランド人 乞食同然の恐ろしく貧しい暮らしぶり 連日、無心の集中砲火 →スコトプリゴニエフスク、町の名前、家畜追い込み町 父殺しの裁判をめぐる噂が、ロシア全国に隈なく広まっている →イワン モスクワから帰ると、カテリーナに対する燃えるような狂おしい情熱に、身も世もなくのめりこんでしまった →フョードルの死 後ろから後頭部のてっぺんめがけて、打ち下ろしました 二度、三度。三度目に、ぐしゃっと割れた手ごたえがありました。 →分裂した自分との会話、イワン 人はいずれ死ぬ身であって、復活はないことをしるので、死を、神のように誇り高く、平然と受け入れる 真理を認識すれば、新しい原則に従って、完全に自分の好きなように身の振り方を決めることが許される →弁護士、渾身の言葉 この世には、心を狭め、全世界を向こうに回して非難する人々がいます。しかし、そうした人々の魂を温かい憐れみで圧倒し、愛を与えてやれば、その魂は自分の行いを呪うようになるでしょう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「神の創ったこの世界がなぜ崩壊するのか?」 本の帯に書かれたメッセージですが、端的に この本の要点を言い表していると思います。 男女間の愛憎、親子、家庭の問題、信仰の問題、法廷劇、無神論、現世に対する失望、次世代に対する期待・・・様々な観点が書かれているこの小説は 読了後に 感動を与えてくれます。 その中でも、この巻に入っている「大審問官」が素晴らしい。世界、自由、生きる価値 についてを考えずにはいられません。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ドスト氏は、期待していた。アリョーシャがキリストの似姿として読者に読まれることを。私のおぼろな記憶が確かならば、物語の最後のほうで、アリョーシャが子供たちに囲まれて、何か語る場面があったはずだ。その囲んでいる子供の数は、確か、11、2人だったはずである。11、2人。イエスの弟子はイスカリオテのユダを除けば、11人、入れれば12人だ。確か、これを最後にアリョーシャの姿は、物語から消えてしまう。 太宰は、期待していた。「周さん」がキリストの似姿として、読者に読まれることを。「惜別」において、「周さん」は物語の最後のほうで、帰国して、民衆の精神を改革するため文芸運動を起こす決意を語り手に述べ、これを最後に「周さん」の姿は物語から消えてしまう。アリョーシャと「周さん」、両者は、何事かをなす前に読者を置き去りにして消えてしまうのである。「惜別」には、「周さん」が創作したとされる、難破した水夫の話が登場する。この話を井上ひさし氏は、『人間合格』において芥川「蜘蛛の糸」に出てくるカンダタの生前の行為とほとんど同じ話としてとらえている、と私は見る。つまり、どんな罪人でも、一生に一度は、よい行いをする、人間もすてたもんじゃない、そんな風にとらえているらしい。この読みが確かならば、「カラマーゾフの兄弟」が、太宰の「周さん」創造に影響を与えた、と読めそうである。確か、芥川「蜘蛛の糸」に登場するカンダタの行為は、「カラマーゾフの兄弟」中の挿話「一本の葱」に想を得たものではなかったか。とすれば、太宰の難破した水夫の話も「一本の葱」の影響を受けたもの、と言えそうである。さらに太宰の随筆に難破した水夫の話を含んだ「一つの約束」という作品があり、「一本の葱」との語呂の響きの類似から見ても、太宰が「カラマーゾフの兄弟」を意識しながら、「周さん」を創造した可能性はある、と私は思う(詳述は避けるが、水夫の話は「惜別」のミニチュアであるからだ)。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
下巻は大きく3つのパートからなっている。 まず二等大尉の子供で、死の床についているイリューシャと、以前仲たがいしていたコーリャとの心温まる友情の物語。コーリャのきわめて実用的なものの考え方とは見解を違えるものの、コーリャの行いを暖かくみまもるアリョーシャ。このアリョーシャと子供たちの話は、エピローグでもでてくるが、思想の派閥を超越した、わかりやすく純粋な、人間が決して忘れてはならないものを端的に説明している。それは「神とは何か」という議論に熱中するあまり、基本的な人間の幸せの源流をわれわれに改めて気づかせてくれるものだ。 そして2つめのパートは、次男のイワンの精神崩壊だ。カラマーゾフの兄弟全体で、正直、このイワンの幻想かつ自分自身を象徴したこの登場人物との会話が、もっとも難解だった。もう一度じっくりと読んでみたい部分ではあるが、中巻の大審問官の話がキリストとの対話であるのに対し、この部分は、悪魔との対話を表しているような気がするが、両方とも核となるメッセージは同じなのではないだろうか。 最後のパートが、裁判の成り行きで、ここは、じっくりと検事と弁護士との演説を味わいたいところだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
中巻は、おおきくわけて二部ある。一つは、ゾンマ長老の死にあたって苦悩するアリョーシャ、そして二つ目は、ドミトリーの破局(完全にそうなのかは下巻を読まないとわからないが)である。 ゾンマ長老の死については、死んだ後でも聖なる人は決して死臭がただようばかりか、かぐわしい香りがすると信じられていたことに、まずカルチャーショックを覚える。で、実際、当然のことながら死臭がするのだけれど、それによって、長老制度に反対する物や、生前ゾンマ長老をよく思わなかった人たちは、生前の長老の行いについてやれこれと中傷はすれど、科学的な意見はでてこないところをみると、その時代のキリスト教の浸透がいかに磐石であったかをものがたる。なによりアリョーシャはそれにひどくショックを受けるが、彼なりに最後に悟りに似たように目が開ける。自分的には、彼は、きっと教会内部の権威やしきたりに縛られるのではなくて、社会の人に尽くすことが大事であると悟ったのではないかと思えた。ここででてくる寓話が、芥川龍之介の「くもの糸」とそっくりなのに気がついた。ロシアではくもの糸の変わりに「葱」であるところが面白い。 つぎにドミトリーであるが、この人は、今の時代的に言うと「不器用な人間」というのだろうか、社会に生きる術を身に着けることに何の価値も見出さず、自分が「高潔」だと信じる生き方を自分なりに解釈して猪突猛進に突き進むタイプであり、親父のヒョードルよりもさらにたちが悪い。彼に親殺しの嫌疑がかけられたときの「予審」の章はおもしろい。ドミトリーがなにか発言すればするほどどんどん墓穴にはまっていく。ただ、読者は、彼が犯人でないことはほぼわかっているので、いったい誰が真犯人なのだろうかと考える推理小説じみた色合いもでてくる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
上巻の多くは、父フョードルと、三人の兄弟の性格を描写しつつ、かれらに関わる女性たちとの間の5角関係(?)に筆が割かれており、「この調子で全巻続くのか?」と思っていると、最後の章、「プロとコントラ」で内容がきわめて宗教的思想的になるのに驚いた。 三男のアリョーシャは、純粋に育てられた修道者であり、死期の近い老師は、彼に現実を見せるために敢えて彼を外へ出す。 そこでアリョーシャは、きわめて世俗的な彼の父親と長男ドミトリィ、そして現実から独自の思想を作り上げたクールでニヒルなイワンを助けるとともに、アリョーシャ自身、自分の家族とのつながりが苦悩の元に成長の基点となっていく。 上巻のハイライトは、生意気な召使のスメルジャコフに始まり、まずカテリーナとグルーシェニカのやりとり。カテリーナの部屋の描写が見事で、言葉遣いは丁寧なものの、相手の腹を読みながらのばかしあいは大人にしかわからない。 次におもしろいのは、アリョーシャの貧乏二等大尉訪問。ここでの独自のロシアの言葉使いを非常にうまく訳している。注釈も簡潔に理解を助けている。 そして、一番印象深いのが、「プロとコントラ」でのイワンの話だ。キリストが、人間を、より高尚な天のパンにむけて、より精神的に生きるように説いたのに比べて、ほとんどの人間はどうあがいても高尚には生きられないのだと断定する。そして彼ら何億という人間たちに幸福を与えるためには、服従させ地上のパンを与えることにしかならないと説く。 本作品が作られてから200年近くたつ今、この話は予言じみている。資本主義というのは、そもそも地上のパンの取り合いによりなりたつ社会であり、民主主義といいながら、グローバリズムにより巨大企業が与えている自由。 この話をしたあとイワンはアリョーシャの元を去っていく。中巻はどうなるのだろうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
以前、古典が古典たり得るのは時代を経て様々な読み方や解釈を内包していくからだ、という文章を読んだことがあります。これは逆に言うと、多用な解釈を受け入れ切れない作品は古典にはなり得ない、ということです。この観点から見た場合、「カラマーゾフの兄弟」ほど古典に”向いている”作品はなかなかないでしょう。完璧な構築物として壮大な物語が紡ぎ出されている一方、書かれるはずだった「第二の小説」が著者の死によって書かれないままになっている。これほど読者の想像力(妄想力)をくすぐる作品も珍しいです。 シューベルトの「未完成」とかのレベルじゃないんですよね。ベートーヴェンの「第九」を聴いた後に「これは実は第一部で、残り半分の第二部の方がメインなんです」と言われたようなもの。ああ、なんてこと。 もはやどこまでがドストエフスキーの思惑通りなのかわからなくなるほど、様々な読み方をなされてきた作品ですが、未だに新しい読み方や妄想を受け入れ続けているのには脱帽です。特に911テロ以降、テロル文学としての「カラマーゾフの兄弟」が注目されたりもしてますし。どんだけ懐広いんですかね。ホント恐れ入ります。 こういう古典文学は、やっぱり読んでおくべきだと改めて思い知らされました。読まずに一生を送るなんて絶対人生損してる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「ここに全てが描かれている…」 誰から聞いたんだっけな。 確か19歳の時だった。本屋でふと手に取ったのだけど、当時の僕はテンポの良さを求めており、どっぷり文学にはまる準備はできていなかったように思う。小説といえば現代ものばかりで、それよりもむしろ社会学や心理学、教育学、言語学、歴史学、音楽などの論文・研究書の方が僕の心のカタルシスを溶くのに最適だった。読み始めようとはしたものの、数ページで手放し、以来6年間、部屋の本棚に眠ることとなった。 しかし、今ようやく読み終えた。この書に全てが描かれているのは明白すぎるほど明白だ。ドストエフスキーの思想の集大成とよく言われるが、まさにその通りで非常に総体的な、つまり僕にとっては「リベラルアーツのまとめ」であろうと思う。見所は、大審問官、ゾシマ長老の説教、裁判弁論などなど多々挙げられるが、何よりもこの作品とチャイコフスキーの「交響曲第6番 悲愴」との奇妙な一致に昂揚せざるをえない。「カラマーゾフの兄弟」も「悲愴」も世界的名作で思想的頂点に立つ作品の一つだし、どちらも「あらゆる全て」が描かれていると言える。そして両方とも作者の死の直前に書き上げられたものであった。 畢竟するに、記号論的には「カラマーゾフの兄弟」は「悲愴」であり、また「悲愴」は「カラマーゾフの兄弟」と何ら違わない。・・・文章か音楽かの違いだけなのである。この読後感は他に比肩が無い。ぜひあらゆる人に読んでもらいたい一冊。 「何かしら正しい良いことをすれば、人生は実にすばらしいのです!…」(アリョーシャの言葉より) | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
新訳が話題になる前に、購入していたこの三冊。 ずっと本棚にあったのだが、海外出張を機会にとうとう手に取り読み進めはじめた。 読み始めたら、面白くてなかなかやめられない。 登場人物、おかれている状態が、複雑にからみあい、入り乱れ、本当に退屈しないし、人生の全てがここに濃縮されているかのような錯覚におちいった。 そして、あの長セリフ。異常に長いセリフなのに読み続けて追っかけてしまう。あきない。この不思議。 こちらの訳でも、まったく意味不明なところがあるわけでなく。読み進めにくい訳でもなく。 なんなら、新訳と読み比べてみたい位の気がしている。この先も楽しみ。こつこつ読み進めよう。 再読すると思うし、ぜひ勧めたいので、星5つ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「第十二編 誤審」においての 検事イッポリート・キリーロウイッチの論告 弁護士フェチュコーウィチの弁論 によりもたらされる強い感銘は、読者の心を小説の核心である「大審問官」へ回顧させる。 エピローグにおいて、子供達へ向けられたアリョーシャの演説、その強くて清らかな心。 自分の子供に読ませたい小説である。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
学生時代、カラマーゾフの兄弟も含め挫折したロシア文学は多数ある。最初は、書店でカラマーゾフの兄弟が評判の本として平積みされ、宣伝されているのを見て不思議に思いました。しかし、手にとったこの新訳の読みやすさに引かれて、すぐに購入しました。いくら読みやすいと言っても全巻読むのに時間はかかりました。しかし、巻末の解説が、それを助けてくれました。読みやすいから早く読むのではなく、読みやすいからこそ、じっくり時間をかけてこの大作を楽しむのもよいのではないでしょうか? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
(上巻のレビューから続く) そしてこの小説の「恐ろしさ」についてである。「哲学」というものは、自分の内面から湧き出てくる感情(愛情とか憎悪などのあらゆる感情)の源泉について、重ねて自らの内面に「質問する」ことによって織り成されると思う。けれど、質問というのは恐ろしいものだ。予期せぬものが起き上がってくる。この小説では、多くの登場人物が、自律的か否かによらず、この「質問」を自らに突きつけねばならなくなる。恐ろしいものが徐々に起き上がり、それを認識してゆく過程が描かれる。 登場人物たちは、この「質問」と「考察」を自らのモノローグだけでなく、他者との会話を行うことでも深く掘り下げていくが、その際、しばしば「鳥肌のたつ」ように恐ろしい瞬間が読み手を襲う。ものすごく深い絶対触れてはいけない核心のようなものが、ふと垣間見える。・・そして「狂」の存在。この小説では、「狂」とその認識についても語られていると思うが、「狂」とは、自分の中の「一種類の根源的な感情」のみによって行動論理が縛られる状態にあることを指すのではないだろうか。つまり誰でも瞬間には狂たりえるのだ。 「狂」は何も無知によって引き起こされるとは限らない。場合によっては、深く自己の内面について思索し、探求した結果、その領域に至ることもある。そこで善なるものが聴こえるはずだというのはカント的だろうか。しかし、それは外面的には「狂」となるかもしれない。この小説は、そんな恐怖を実地検分する怖さがある。登場人物たちが自己を探求するとき(そのようなシーンはしばしばあるが)自分でも、それまで考えてもみなかったような、根源的な「嫌なもの」が、しっかりと自分の内奥に存在している確かな予感を感じ、そこで、途方にくれて立ち止まるのである。その瞬間の「怖さ」は比類ない。 (下巻のレビューへ続く) | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!