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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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シリーズの大転換を迎えるとかねてから云われているボッシュシリーズ8作目の本書は今のところシリーズで唯一早川書房から訳出された作品だ。
事件はおよそ20年前に虐待されて殺害された少年の犯人を追うという、これまたかなり古い過去の捜査に当たるボッシュが描かれている。 その捜査において古い骨の鑑定が据えられている。これは恐らくアーロン・エルキンズのギデオン・オリヴァー教授シリーズの影響でもなく、またジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズのヒットによる影響でもなく、当時大いにヒットしていたTVドラマ『CSI:科学捜査班』の影響があったのではないだろうか。 そんな古い骨から判明する事実は少年が度重なる虐待を受けていたと思しき数々の骨折の自然治癒の痕跡。そして度を越した虐待が彼を死に至らしめたという実に憤懣遣る方ない過去の事件が炙り出される―骨の鑑定を行ったウィリアム・ゴラーの、鑑定で過去と悲劇がはっきりと判るのに、皮肉なことにその人が生きている時点ではそれが解らないのだという吐露が心に痛く刻まれる―。 ボッシュはかつてFBI心理分析官のテリー・マッケイレブと組んだ事件で名もない少女の死の事件を扱っており、結局その少女の身元が判明しないまま今日に至っている。この苦い経験が少年少女という無力な存在に圧倒的な暴力や変態的趣味で死に至らしめる現在の悪魔たちに対して異常なまでに憎悪を掻き立てるのだ。 勿論それは自身もまた孤児だった過去に起因しているだろう。自分を捨てたと思っていた亡き娼婦の母親が自分に多大なる愛情を注いでいたことを知って、業からは解き放たれてはいたが、それでもやはり孤児院で育ったという過去は変わりなく、それがボッシュの人生に翳を落としている。 そして今回は相棒のエドガーがいつもより前面に出てくる。既に離婚していながらも子を持つ親として虐待して子供を死なせた大人に対して憤りを露わにするのだ。そしていつもより前のめりで捜査に当たる。今まで見たことのない「熱い」エドガーが本書では見られる。 またボッシュは本書でもまた新たな女性と出逢い、恋に落ちる。彼女の名はジュリア・ブレイシャー。34歳でポリス・アカデミーに入った新人女性警官。過去に民事弁護士をしていたが、業務に嫌気が差し、世界を旅していろんな経験をした後に警官になる決意をした、変わった経歴の持ち主だ。 彼女が今までのボッシュと付き合った女性と違うのはボッシュがヴェトナム戦争でトンネル兵だった時に遭遇した恐怖を彼女が知っていることだ。ボッシュ達が戦争で赴いたヴェトナムではそのトンネルは観光名所となっており、観光客が金を払って入ることが出来るようになっていた。彼女はヴェトナムを訪れた際に、そのトンネルを潜り、奥深く入り、そしてボッシュが戦争時代に経験した“迷い光(ロスト・ライト)”に遭遇したことがあった。誰もが共有できない特異な過去をジュリアは共有した相手としてボッシュにとって特別な存在となる。 弁護士だった親の敷かれたレールを嫌って弁護士を辞め、世界を見て回った後、戻ったアメリカで警官募集の広告を見てすぐに応募して警官となった彼女は自分が何か特別な存在になりたかったのだ。そして彼女は評判は良くないものの、抜群の検挙率を誇るボッシュを見た時に彼に自分を重ねたのだ。 肩の銃の瑕を負ったボッシュはそれだけで周りにいる警官とは違う特別な存在だった。上昇志向の強い彼女は自分も早くそんな特別な存在になりたかった。 まだ前途ある彼女がなぜ自分を特別な存在としたかったのか? それはやはり同時多発テロという大量死が関係しているのかもしれない。それについては後述しよう。 さて事件は振出しに戻る。 この辺の展開は今までコナリーが敬意を払っているレイモンド・チャンドラーの諸作品よりもむしろハードボイルド御三家の1人、ロス・マクドナルドの作風を彷彿とさせる。 家庭の中に隠された悲劇がボッシュの捜査で明るみに出される。 虐待された少年の遺体から家族の中で隠され、守られてきた秘密が明かされる。 また本書が発表された時期にも注目したい。 本書の原書が刊行されたのは2002年。そう、あのニューヨークの同時多発テロが起きた翌年である。本書にも言及されているが、3000人もの人が瓦礫に埋もれて亡くなったテロ事件である。 そんな大量死の事件を経たからこそ、30年前に埋められた身元不明の少年の死の真相を探る事件が敢えて書かれたのではないか。 いわば一己の人間という尊厳が失われる大量死が実際に起きたからこそ、敢えて名もない少年の、30年前に埋められた少年の素性を探り、そしてそこに隠された真実を追い、そしてその骨を埋めた犯人を捕まえることがその少年の尊厳を守ること、そしてその死体に名を、人間性を与えることになるからだ。 ニューヨークの世界貿易センタービルの下には今なお瓦礫に埋もれて忘れ去られようとしている名を与えられていない遺体が沢山いることだろう。コナリーはそんな人たちへの鎮魂歌として掘り出された骨の、かつて人間だった少年を殺した犯人を探る物語を描いたのではないだろうか。 これはまさに笠井潔氏が唱えた『大量死体験理論』の正統性を裏付けるかのようだ。 やはり大量死の発生が1人の人間の死の真相を探り、尊厳を与えるミステリが書かれる原動力となるのかもしれない。 そして前述したジュリア・ブレンジャーが特別な存在になりたかった理由もこれである程度氷解する。 未曽有のテロで死んだ人は名もなきその他大勢。そんな集団の中の無個性な自分になるのが彼女は怖かったのではないだろうか。だからこそ個としての存在を主張するために、彼女はボッシュに将来の自分を見出し、そして早くそこに近づこうとしたのではないだろうか。 本書のタイトルもまたこの大量死から生まれたように感じる。 シティ・オブ・ボーンズ。骨の街。 本書では埋められた子供の骨が見つかった丘を方眼紙で区分けして骨が見つかった場所をプロットしていく作業を鑑識課員の1人がまるで道路やブロックを置いていくようで街を描いているように感じるから、骨の街と名付けたと話している。 しかしこの名前は同時多発テロ後のその時だからこそ付けられたタイトルではないだろうか? テロが起きたニューヨークの街は3000人もの人が亡くなった街だ。それはつまり数限りない骨が埋められた街を指している。 舞台はロサンジェルスだが、このような無差別テロが起きるアメリカはどこも骨の街であり、また骨の街になり得るのだと哀しみを込めてコナリーが名付けたように思える。 そんな大量死を迎えたがゆえに1人の少年の死に意味を与えるための捜査の結末は何とも煮え切られないものとなった。 これまでそのルールすれすれの、いや時にはルールすら破る危うい捜査を続けてきたお陰で、幾度となく辞職の危機に立たされていたボッシュ。しかし彼は結果を出すことでそれを免れてきた。 それは自身が刑事として悪と戦い、街を浄化することこそが生き甲斐であり、存在証明だと信じてきたボッシュの魂の砦だった。 従って警察上層部の、スキャンダルを葬り、穏便に事を済ませるために描いてきたシナリオに反発し、常に事件の真相を、真の犯人を捕まえることを信条としてきたボッシュ。 本書においても警察内部の者による捜査情報のリーク、またそれによって生じた容疑者の自殺、更に警官が捜査中に亡くなるという数々のスキャンダルが起こり、それに対して上層部の指示に従うように強要される。 しかしそれはこのシリーズの定番とも云うべき展開で、今回もボッシュはそれを克服する。 なぜか愛する者と長く続かないボッシュ。 かつてエレノア・ウィッシュ、シルヴィア・ムーアの2人と付き合ったが、いずれも自分を離れていった。しかし彼女たちは自らの意志でボッシュの元を去った。 ジュリアがボッシュにとって他の女性と違ったのは同じ暗闇を見た女性だったからだ。ヴェトナムの戦時のトンネルに入り、そして彼女は自分と同じ光、“迷い光(ロスト・ライト)”を見た女性だ。自分の人生に落とす闇の中で見出した光を見た女性という、ボッシュにとって彼女はこれまでになくかけがえのない存在だったと思う。 ジュリアはまさしくボッシュの「ロスト・ライト」、喪われた光だったのだ。 しかし何とも感傷的な幕切れだろう。そして何よりも実に歯切れが悪い。 そして何よりも本書は『CSI;科学捜査班』の影響とみられる骨や遺物の鑑定が今まで以上に前面に出ていること、そして同時多発テロの影響が色濃い事など、コナリー作品としては外部による影響がそれまでになく多く見られ、それがゆえに歯切れの悪さとバランスの良さを欠いているように思える。 しかしまだシリーズは続く。ボッシュが自らの暗黒に向き合うとき、闇の側に立つのか、それとも光の側に留まれるのか、そんな不穏な期待をしながら読みたいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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志水辰夫氏最初期の長編で4作目に当たる。高知出身の彼はなぜか北国を舞台にした作品が多く、本書も舞台は札幌。しかしこの氷点下の気温で雪が降りしきる北の街が志水作品にはよく似合うのである。
物語は盗まれた土地売買の契約書を取り戻してほしいと依頼されたヤクザの佐古田史朗が弟分の島と共に犯人を追って札幌に向かうが、当の本人はマンションで既に殺され、目当ての書類も無くなり、地元のヤクザとの対決に発展していくという話である。 ただこの佐古田史郎には北海道に纏わる過去があった。それはかつて彼が親元を去っていった地だったのだ。 飲んだくれの父親とそれに従う母親、早死にした2人の兄に家を飛び出したきり帰ってこない兄の6人家庭に生まれた佐古田史郎こと鈴木四郎は、中学の時に母親を亡くし、父の再婚相手とその連れ子の妹になる娘と暮らすようになった。1人の弟が新しく出来、幸せになったかと思った矢先、父親が多額の借金を残して失踪し、継母方の親戚の家に移る。しかし居心地の悪さから東京で職を得て家族を東京に連れていくと宣言して17歳の頃に上京するが、上手くいくはずもなく、お金も無くなり、痩せた、小柄なおじさんを見つけ、金を奪い取ろうとしたところを返り討ちに遭う。そのおじさんこそが佐古田史郎の育ての親となる会長で、その後そのまま会長の妾の家に連れられ、住み込みで働くようになり、今の佐古田史郎に名前を変えて養子になったという経歴の持ち主。 彼が土地売買の書類を取り戻しに行ったのは捨てた故郷の北海道は札幌で、偶然にも捨てた継母とその娘、そして失踪した父親と出くわすという、昔ながらの運命の悪戯を絵に描いたようなお話である。 そんな偶然が佐古田史朗の心に変化を生む。自分が捨てた義理の妹と弟の苦難に一肌脱ぐことを決意するのだ。 数十年経ってからの贖罪。しかもこれは自分勝手な贖罪だ。自己満足にしか過ぎない贖罪だ。 東京へ逃げ、極道の世界に身を落とし、自分を慕う弟子もでき、養子になって組の看板を担うほどにもなった。そんな裏の世界でのし上がった男が久しぶりに故郷に帰ってみれば借金に食い物にされて困っているかつての妹と弟の姿に出くわす。 昔は逃げることしかできなかった自分だが今は曲がりなりにも力がある。捨てた負い目を癒すために彼は自分の素性を隠して妹と弟、そしてその恋人の力になることを決意する。 それはかつて自分たちを捨てて失踪した父が自分の姿と重なったことも大きな一因だろう。勝手気ままに生き、実の母親を苦労で死なせ、再婚して更正したかと思えば小豆相場に手を出して失敗し、新しい家族を捨てて行方知らずとなった父親を憎悪した迫田はその実、居心地が悪くなって東京へ出ていった自分もまた父親と同じなのであることを悟り、そして恥じたのだ。 その父親が今では目も見えなくなり、捨てた妹が世話をして生きている。親だから世話をするのは当然と云わんばかりの傲慢さを持って。 それを目の当たりにしたことで佐古田は妹と弟の窮地を救う手助けをすることで父親とは違うのだと証明したかったのだろう。 何とも身勝手な男だ。しかし昭和の男とはこんな身勝手に生き、そして不器用だったのだ。 そう、この小説の時代はまだ昭和なのだ。 佐古田や島のストイックな生き様、さびれた場末でスナックを営むすみれこと鈴木陽子の、いつかすすきのに店を持つことを夢見ながらも借金や悪い男に騙され続けてきた、人生にくたびれた女性象、鄙びたアパートで同棲する佐古田の弟哲也と恋人の節子。節子は哲也の子供を妊娠し、大学を辞めて働いて所帯を持つことを決意した哲也に反対し、逆に子供の生めない身体になってしまった節子。 これらはまさに昭和のメロドラマを感じさせる。 そして舞台は北海道は札幌。タイトルにもあるように物語全編に亘って雪が降りしきる。史朗が外に出る時は常に雪が降っている。 雪。 それは史朗の心に降り積もる過去の澱。 父親同然に自分を育ててくれた家族を捨てた後悔の念が強くなるにつれて雪の降る度合いも増えてくる。雪は史朗の行く手を阻むかのように降りしきるので、史朗は目指すところに常に遅れてしまう。大金をせしめて追われる弟を、その弟の行方を追う妹を、その恋人を探すのだが、常にその道行には雪が降りしきる。 訪ねる先は常に雪。 それは彼にとって過去を償うための障害だった。 それまで身元を隠したやくざ者として振る舞ってきた史朗が別れ際の最後になって自分の正体が知れた時、彼は逃げるように東京へ向かう。 もう1つの史朗の物語、自分を養子にした組の会長が亡くなったからだ。 過去を悔いるならば恥をかかなければならない。恰好ばかりを気にする極道者が善行をやるにはそれ相応の代償を払わなければならないのだ。 しかしこの恥はいい恥だ。なぜなら愛すべき者に認識してもらってかいた恥だからだ。 恥をかいてこそまた男は1つ上の階段を昇るのだから。 史朗の組の跡目問題など物語に散りばめた色々な話が回収されぬまま、佐古田史朗、即ち鈴木四郎の過去の償いの物語で終わってしまった。 もしかしたら作者は続編として佐古田の東京での物語を想定していたのかもしれない久々に読んだ志水作品は非常に泥くさく不器用な男と北の寒さと雪が終始舞う寂しい物語だった。 幾分消化不良気味だがそれもシミタツの味として今は余韻に浸ろう。が、結局今も書かれていない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ハリー・ボッシュシリーズ7作目の本書の献辞にはこう書かれている。
“(前略)ふたりは第二幕が存在することを証明してくれた” つまり本書はシリーズ第二幕の開幕を告げる作品なのだ。 またその意気込みを見せるかのようにコナリーはノンシリーズの『わが心臓の痛み』の主人公、元FBI心理分析官テリー・マッケイレブ、同じくノンシリーズの『ザ・ポエット』の新聞記者ジャック・マカヴォイを登場させ、ボッシュと共演させる。まさにオールスターキャスト出演の意欲作である。 しかもこれが単なるファンサービスによる登場ではない。テリー・マッケイレブの捜査はハリー・ボッシュが扱う事件と同じ比重で描かれている。つまり本書はテリー・マッケイレブシリーズの第2作目であるとも云える。 今回扱われる事件は大きく分けて2つ。 1つはボッシュが法廷にその事件の担当刑事として出廷している映画監督デイヴィッド・ストーリーによる女優殺し容疑の事件。 もう1つはテリー・マッケイレブがロサンジェルス・カウンティ保安官事務所刑事のジェイ・ウィンストンに依頼されて調査を進めることになる家屋塗装工エドワード・ガン殺害事件だ。 まずボッシュは最初冒頭の1章に登場し、そこからはテリー・マッケイレブの許に殺人事件の資料の分析の依頼が来るところから幕を開ける。 そこからも主にマッケイレブの捜査にページが割かれ、主人公のボッシュは自分が挙げた殺人事件の犯人で映画監督のデイヴィッド・ストーリーの裁判に出廷する様子が断片的に描かれるだけである。 読者は果たしてこれはボッシュシリーズの7作目なのか、もしくはテリー・マッケイレブの第2作目の作品なのかと戸惑いながら読み進めていくと、上巻の後半にとんでもない展開が待ち受けている。 なんとテリー・マッケイレブが事件をプロファイルして絞り込んだ犯人はハリー・ボッシュだというのだ。 とうとう作者コナリーはシリーズ主人公をも容疑者にするという驚きを読者に与えてくれたのだ。 探偵役が事件の容疑者となるという話は実は昔からよくある手法で、それは主人公の視点で捜査をしている過程において、主人公自らが窮地に陥っていることに気付く構成である。しかしコナリーはそれをノンシリーズに登場した有能な元FBI心理分析官からの視点で捜査して容疑者を主人公へ導くという全く新しい手法を編み出した。 しかも主人公のボッシュは自分が容疑者として見られていることを知らないのだ。もしかしたら他の過去の作品群に同様の手法を用いた作品があるのかもしれないが、私は寡聞にして知らない。 そして知らないことが私にこのシリーズがミステリとして更なる飛躍を遂げたことを感じさせてくれた。なんと幸運なことだろうか。 しかし毎回このコナリーという作家はどれだけ緻密な物語世界を作っているのかと唸らせられる。 今回マッケイレブがジェイ・ウィンストンに請われて調べる事件の被害者エドワード・ガンは『ラスト・コヨーテ』でボッシュがパウンズ警部補を殴り、強制ストレス休暇を取る羽目となった、パウンズが誤って解放した取り調べ相手だった。 私も読みながらボッシュが取り調べをした事件に既視感を覚えていたが、まさかあの事件だったとは。 更にコナリーが素晴らしいのはボッシュが売春婦の息子であることの出自、そして母親を何者かに殺されたことで、かつて正当防衛とはいえ、娼婦を殺害したエドワード・ガンに対して母親殺しの犯人をダブらせているなど、更に常に反目しあっていた元上司パウンズが亡くなっており、それが早々にボッシュが嫌疑から外れていることなどの諸々がボッシュ=犯人として有機的に絡み合ってくる。 更に本書において特に強調されるのは闇。 人の死を扱う刑事、心理分析官は犯人の闇を見つめつつ、自らもまた闇から見つめられていることに気付く。それはまさに魂を削られていく作業で、それが殺人を追う仕事であれば延々と続く。 そしてボッシュはかつてヴェトナム戦争でトンネル兵士として常に暗闇を見つめていた男。その後もサイコパス達を相手にし、闇を見続けている。こんな第1作からの設定が7作目にしてなお効果的に働き、そしてボッシュが容疑者に置かれるという最高のピンチを生み出すことに成功している。 シリーズ作品を余すところなく料理し、1つも無駄にせず、その醍醐味を味わさせてくれるコナリーの構成力の凄さには7作目にしてなお驚き、そして惜しみない賞賛を送らざるを得ないだろう。 これは一方で読者はみすみすこのシリーズを読み飛ばすことが出来ないことを意味している。注意して読まないとこの辺のシリーズの醍醐味が味わえない。 それはつまり裏を返せば、ずっぽりシリーズに嵌ればあらゆる仕掛けをコナリーが施していることに気付き、実に愉しめるシリーズになっていることを意味している。 例えば今回でもノンシリーズで主役を務めた2人の他に、『エンジェル・フライト』でボッシュの捜査の支援を行ったジャニス・ラングワイザーがデイヴィッド・ストーリーの殺人容疑の裁判で次席検事補という立場ながら実質的に検事側の代表として登場し、絶妙な采配を振るっている。 その他検事のロジャー・クレッツラーと2人の上司である主席検事補のアリス・ショート。 昔、メキシコ・マフィアの事件を扱った際に有罪判決に腹を立てたマフィアの一味が暴動を起こそうとしたのを懐から取り出した拳銃で天井に一発撃ち込んで静まらせたとの逸話から“シューティング・ハウトン”という異名を持つハウトン判事に今回デイヴィッド・ストーリーの弁護を請け負った、その名前から“言い逃れ(リーズン)”の綽名を持つジョン・リーズン・フォウクスなども今後展開するコナリーによる法定サスペンス『リンカーン弁護士』シリーズで再会する可能性はあるのでここに記録を留めておこう。 また昔ボッシュが刑事ドラマのモデルになった時に知り合い、その後も警察捜査の専門的アドバイザーとしてボッシュが付き合っている映画制作会社のアルバート・セドも頭に留めておかねばならない人物だ。 テリー・マッケイレブとハリー・ボッシュの2人を繋ぎ留める楔として今回15~16世紀に活動した、今なお謎とされている画家ヒエロニムス・ボッシュの絵画が扱われる。そう、ハリー・ボッシュの本名の基となった実在の画家である。 レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロと同年代に活動しながら、希望と人間の価値観、精神性の礼讃とは真逆の、世界の終末と地獄と人間の罪という闇を描いてきた作家。題名の『夜より暗き闇』はこの画家ボッシュが見つめ、そして作品に遺した人間の闇を指している。 更にコナリーはこの謎めいた画家について筆を割き、各作品に悪魔のモチーフとして描かれているフクロウについて詳しく述べる。事件現場に置かれていたフクロウ像とボッシュの暗闇が交差する、非常に重要なパートである。特に本書で言及される『最後の審判』と代表作とされる『快楽の園』は本書のそれぞれ上巻、下巻の表紙に使われており、それを参照しながら読めるのは講談社のファインプレイだろう。 敢えて主人公の名をこの特異な画家と同名にしたことがこの8作目でようやく日の目を見る。当初の構想にこのモチーフが頭にあったのかは解らないが、1作目よりエドワード・ホッパーの「ナイトホークス」という絵画をモチーフに扱っていたほど、絵には造詣があると思えるコナリーのことだから、いつかは用いようと温めていた設定だったに違いない。 また本書では2人が知り合うきっかけとなった過去の事件についても触れられている。 名もなき少女がマルホランド・ドライブのゴミ捨て場に遺体となって発見されたその事件でハリー・ボッシュは当時FBI心理分析官だったテリー・マッケイレブに犯人のプロファイリングを頼んだのだった。そして容疑者を2人に絞り、片方の容疑者宅を2人で訪ねた際に、テリーは家の様子から彼がホンボシであると確信し、その場で逮捕して家宅捜索をしたところ、猿ぐつわを嵌められて監禁されている16歳の少女を救い出すことに成功した。 しかしその犯人は丘の上の名もなき少女の犯行については否定し、両親からの捜索願も出ないその少女にボッシュはスペイン語で“青空”を意味するシエロ・アズールという名を付けた。そしてマッケイレブはその名前を自分の愛娘に付けた。つまりマッケイレブにとってその事件とボッシュのことが忘れ得ぬことであったことを示している。 テリー・マッケイレブとハリー・ボッシュ。この2人の主役はそれぞれ光と闇を象徴している。 既にFBIを引退し、友人とチャーター船業を営むテリー・マッケイレブにはグラシエラと養子のレイモンド、そしてグラシエラとの間に出来たシエロという愛娘がいる。彼は引退はしたものの、かつて事件の闇を、深淵を覗き、そこから犯人を突き止める、FBI時代の仕事の魅力から逃れられず、当時の有能ぶりからかつて共に事件を捜査した面々から捜査の協力の依頼が来ると断れない。再び自らを人間の闇に投じながらも家族という還る場所がある故、彼はまだ光に留まっている。 一方ハリー・ボッシュは亡くなった売春婦の息子という昏い出自、元ヴェトナム戦争のトンネル兵士という闇の中で生死を潜り抜けてきた経歴ゆえか、どこまでも闇が付きまとう。彼は自身の母親が殺害された事件を解決することで自身が祝福されて生まれたことを知り、更にエレノア・ウィッシュという伴侶も得て一旦は日の当たる場所へ出るが、愛していた妻は去り、再び孤独に事件に身を投じる。 彼はいつも仕事が終わるとバルコニーでビールを片手に闇を見つめる。自分が正しいことをしていると確認するために。ただそこには闇が広がるだけ。 再び闇に向かうことを決意したボッシュの新章。 闇は彼を捕え、取り込むのか? もしくは彼が云うように犯罪という疫病の只中に身を投じ、自らを疫病の媒介者を退治する者としてそこに生きがいを見出していくのか。 本書はボッシュが犯罪者と紙一重であることを示唆することでまた読者を不安に誘う。 今回闇に沈むボッシュを留まらせたのは皮肉にも当初ボッシュを容疑者と睨んだマッケイレブだった。 現場に置かれたフクロウ像が契機となってボッシュの絵画に行き着き、そこからハリー・ボッシュ=犯人とマッケイレブは連想したのだが、ボッシュ自らによってもう一度事件を見つめ直すことを示唆され、マッケイレブは本命に行き着く。 「ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ」という言葉がある。 これはヘーゲルの『法の哲学』の序文に掲げられた言葉でこれは本来、哲学は今あるか、過ぎ去った時代精神を、後から概念に取りまとめて人に見える形で示す学問であるということを示しているのだが、この言葉は実に的確に本書を象徴しているように思える。 この言葉の梟が智慧の象徴であることを考えれば、それはマッケイレブその人。そして迫りくる黄昏がボッシュ逮捕であれば、窮地に陥ったボッシュを救ったのはマッケイレブだったという意味になる。 つまり闇に飲まれようとしたボッシュを救ったのはマッケイレブだったのだ。 もしくはヒエロニムス・ボッシュの絵に梟が多くモチーフとして使われていることから梟をボッシュと捉えることもできる。黄昏は夕暮れ、つまり夜が来る前、闇が訪れる前を指す。つまり彼は迫りくる闇に呑み込まれる前に飛び立つことが出来たのだ。 さて今後ボッシュはダークヒーローの道を突き進むのか。 また今回は単に物語のアジテーターの役回りに過ぎなかったジャック・マカヴォイは、ボッシュとマッケイレブ双方に縁があることが解ったわけだが、今後も彼らに関わっていくのだろうか。 常に読者の予想を超えるストーリーとプロットを見せてくれるコナリー。そして次はどんな物語を我々に披露し、そして驚かせてくれるのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書はまさに掘り出し物だった。
デビュー以来歴史ミステリを多く書いてきた鯨氏が今回テーマに挙げたのはとんちで有名な一休宗純。 一休との出逢いは子供の頃に放映されたTVアニメ「一休さん」が最初だったように思う。その後も一級のとんち話を集めた本を図書館などで読んだ記憶があり、子供心に一休さんの聡明ぶりにいつも胸躍らせたものだ。 本書はその聡明な坊主一休が金閣寺で起きた足利義満の密室殺人事件を解く話。 しかしとんちの効いた一休さんがその賢い頭脳で探偵役を務めるという安直な設定ではなく、一休さん、即ち一休宗純の隠された出自に纏わる将軍家との暗闘や当時の絶対君主だった足利義満の異常なまでの好色ぶりに端を発する義満に仕える士官たちの苦難と屈辱が織り込まれ、足利義満を死に至らしめるまでのそれぞれの思惑がじっくりと描かれる。 まずは今に伝わる一休の聡明ぶりを示す数々のとんち話が挿話として織り込まれ、過去に「一休さん」の名で親しんだ人は勿論のこと、初めて読む人もその頭の冴えが愉しめるような話の運びになっている。 まずは皆に嫌われていた人買いの山椒大夫が虎に殺され、その読経を和尚の龍攀に代わって挙げることになった一休。そんな悪人に対してきちんと弔いをすることを寄すように云われながらもしかし坊主の務めは果たさなければならない。そこで一休が採った行動とは仏に背を向けて後ろ向きに読経をすることだった。 こんな失礼な読経に対して、一休は実に頓智に満ちた回答をする。 また和尚が小坊主たちに毒だから食べてはいけないとこっそり食べていた水飴を皆で平らげたことに対する絶妙な言い訳や和尚の碁友達の商人を追い返すために案じた「皮着たる者、門内に入るべからず」の策を切り返した商人に対して更にとんちで切り返したり、和尚に届いた謎掛けの手紙を瞬時に解読し、有名な「はしをわたるべからず」のエピソード、夜な夜な京の町を迷い出ては人を困らせるという衝立の虎を退治する話など世に知られたとんち話がきちんと本書には登場する。 更に出家の身でありながら魚の肉を食べたことに対しての受け答え、更にそれを聞いて畳み掛ける斯波義将の、ならば武士も通るからこの刀を飲んでみよという無理な申し出も巧みな論説で切り返す。 一方で足利尊氏が天皇家を南に押しやり、北朝、南朝と都が二分された京都。その後の南北朝の戦いの後、足利義満が南北朝の合体を実現し、その際に当時の帝、後小松帝の皇位継承者を出家させ、京都の事実上の統治者となる。しかし義満の周囲を固める者たちはその傲慢ぶりゆえに結束は決して一枚岩のような盤石さを持っていない。 そんな当時の不穏な世相が物語には色濃く流れている。 まず何よりも物語の中心となる密室殺人事件の被害者足利義満の悪役ぶりが凄い。 天皇に慇懃無礼に振る舞い、一介の武士の出でありながら自身の子義嗣を帝位に就かせようと企む。その権勢があまりにも大きくなり過ぎた故に天皇家も逆らうことが出来ないでいる。 しかし何よりもその権力を自身の好色ぶりに行使し、若い女性を自身の妾として次々と交わる傍若無人ぶりに胸がむかつく。 義満の側近とも云える三管領とその下の四職の1人、山名時熙はその妻美濃が義満の目に留まり、妾として差し出すことに。義満の実弟満詮はその美濃と義満が交わっている最中にその妻誠子を褥に差し出すように要求される。そして四職の1人、一色満範はまだ16歳の愛娘紗枝の躰を差し出すように強要される。しかもその直前に紗枝は父親の目の前でストリッパーよろしく一枚一枚衣服を脱ぎながら能を踊ることを強要される。 とにかくこの足利義満、真の悪の権化として描かれている。 威丈高に振る舞う武士や侍たちはもとより、それらを遥かに凌ぐ地位にある現将軍足利義持、三管領の細川頼長、斯波義将と四職の一色満範と山名時熙達、更に現天皇の後小松帝らでさえ、逆らうことが出来ぬほどの圧倒的な権力を誇り、黒を白と云わせることも可能な足利義満という絶対的君主が憚る権力構造の中に、まだ弱冠15歳の一休が知恵と勇気と度胸で切り返す、反権力主義の姿勢が今読んでも痛快で、実に気持ちがいい読み応えを与えてくれている。 そして何よりも今回驚いたのは前掲したTVアニメの「一休さん」がその出自を含めて忠実に描かれていたところだ。 ただアニメの一休さんよりも年上の15歳であることから、一休を慕う少女がさよちゃんなのが茜であること、一休さんと一緒に修行に励む坊主の名前も微妙に違うこと、一休さんが仕えている寺がアニメでは貧乏寺である安国寺であるが、そこは幼き頃にいた寺で本書では臨済宗の高位に当たる建仁寺にいること、従って和尚もアニメでは外観であり、本書では慕哲龍攀であることなど設定に微妙な違いはあるものの、蜷川新右衛門や将軍様の足利義満は同じで、一休さんが母上様と慕っている実母がなぜ逢えないのかもきちんと再現されている。 一休さんは後小松天皇の庶子であり、つまり皇族の一員なのだが、足利義満の皇位簒奪によって出家させられたことになっている。勿論アニメではそれには触れていない。 そして一休をとんちで打ち負かそうとする将軍様こと足利義満は単に一休をギャフンと云わせることを生き甲斐にしているように思えるが、実は皇位簒奪者である義満は一休が天皇家の跡取りの権利があることを危惧し、一休が聡明な坊主であるとの評判を聞きつけて絶対的君主である自分のところに謁見させる栄誉を与えると共に、目の前で無理難題を吹っかけて粗相をさせることを大義名分として打ち首にしようとしていたのだった。 つまりあのアニメの「一休さん」は毎回一休さんのとんち比べととんちを武器に質の悪い大人たちを懲らしめる勧善懲悪的な面白さを見せながら、実はとんちによってその命を生き長らえるという九死に一生を得るスリリングな毎日が描かれていたと本書を読むことで読み取ることが出来る。 さてそんな足利義満による絶対的支配構造の京都で不意に訪れる義満自害の事件。状況はつっかい棒にて開くことの出来ない究竟頂の中に押し入ってみるとそこには足利義満が首を吊って事切れているというもの。その奥の襖の向こうは鏡湖池で、しかもその池の周りは警備の侍でぐるりと取り囲まれている。 誰も忍び込むことの出来ない密室状態で明らかに自害と思われる状況なのだが、我が子の帝位即位と紗枝との交わいを控えた足利義満が自殺するとは思えぬことから、とんちで名を馳せた一休にこの事件の真相を探る命が義嗣より下る。 犯行の動機は義満を取り巻く人物にそれぞれある。 義満の息子で現将軍の義持は自分をないがしろにして実質的な権勢を誇る父親を憎んでおり、しかも弟の義嗣を自分より高位の帝位に就かせようとしていることが堪らない。 後小松帝も帝家に俗物の血が混じることを快く思っていない。 細川頼長は後小松帝の忠実な部下であり、その本意を汲み取っている。 その宿敵斯波義将は忠実さを見せながらもかつては足利家と同等の武将であったため、その部下の地位に甘んじているのが積年の屈辱として積もっている。 山名時熙は自分の最愛の妻を妾として召し捕られ、一色満範は最愛の娘の貞節をまさに奪われようとしている。 そんな誰もが殺害する動機を持ち、刃を心に隠し持っている容疑者達の中で一休の推理によって判明した犯人は読んでのお楽しみだ。 しかし犯人は判明するものの、あくまで足利義満は病死として片付けられ、真相は闇に葬られることになる。それは真の悪を滅ぼしたことに誰しもが安堵と感謝を覚えていたからだ。 これだけ書くと本書はただの歴史ミステリのように思えるが、本書が優れているのはこの謎の解明に鯨氏は先に述べた有名な一休のとんち話を巧みに絡めて、それを推理の手掛かりとして有機的に結び付けるという離れ業をやってのけているところだ。 これには脱帽。どんどん真相が明かされていくたびにそれぞれのエピソードがぴたりぴたりと事件の背景、犯人の動機に収まっていく。 もうこれは見事としか云いようがない。 一休の賢さを引き立てる演出としてのエピソードが、しかも誰もが知っているであろうとんち話を密室殺人に絡めていく発想の妙とそれをやり遂げる構成力に甚だ感服した。 そして忘れてならないのは物語導入部に陰陽師の六郎太が一休の最後の愛人だった森女に尋ねた、足利義満が自身の死後に大文字の送り火をするように云い遺した真相もまた一休の強かさを印象付ける。大文字の送り火の由来は諸説あり、この真偽は定かではないが、これもまた鯨氏のオリジナリティ溢れた歴史解釈であり、最後の最後まで歴史の解釈の愉しさを我々に提供してくれる。 新説歴史短編集『邪馬台国はどこですか?』で鮮烈なデビューをしながらその後読んだ作品は歴史・史実の蘊蓄に溢れてはいるものの、作者自身の趣味趣向が先行して、はっきり云って読者を置き去りにするきらいのあった鯨作品だが、ここに来てようやく見事な歴史ミステリと出逢うことが出来た。 数多の歴史文献のみならず、巷間に流布する一休さんのとんち話をもミステリの枠に取り入れ、足利義満殺害、しかも犯行現場は世界に名だたる観光名所の金閣寺、更に密室殺人という三重のミステリ妙味を備えた長編を料理して見せた手腕は実に美事としかいいようのない。 デビュー作で魅了された私が読みたかった鯨氏による長編歴史ミステリの半ば理想形のような作品である。 そして奇遇なことに本書の冒頭で六郎太と静が森女を訪ねる大徳寺に私はこの正月、初詣に京都に行った際、ついでに訪れたのだ。それも偶々バスから降りた場所の近くに大徳寺があり、そこで枯山水を見たのだった。お土産に大徳寺納豆を買いもした。まさになんというタイミングでの読書であったことか。 題名が実に平凡であることで本書は大いに損をしていると思う。帯に掲げられた「宮部みゆき氏絶賛!」の惹句は決して伊達ではない。 天晴、一休! そして天晴、鯨統一郎!と声高に称賛しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ノンシリーズだと思われた『女王の百年密室』は実は「女王」シリーズとなっており、本書はその第2巻。エンジニアリング・ライタのサエバ・ミチルと相棒のウォーカロン、ロイディの2人がルナティック・シティに続いて訪れるのは周囲を海に囲まれた巨大な建造物からなる島イル・サン・ジャック。そう、もうお分かりであろう、フランスのモン・サン・ミシェルをモデルにした島が物語の舞台である。
長い間マスコミからの取材を遮断して、島民たちは閉鎖された島の中で、聳え立つ城モン・ロゼの城主であるドリィ家の庇護の下、暮らしている。但し病院も学校もなく、医師、看護婦、教師も全てモン・ロゼに待機しており、必要な時に対応してくれる。そんな特殊な閉鎖空間だ。 この一切の取材を断っていた島の王がなぜかサエバ・ミチルの取材の申し出を承諾する。 そして取材に訪れたミチルの前で起きる殺人事件。今回の事件はいわば開かれた密室物だ。 大きな砂絵の真ん中に首なし死体が転がっているが、そこに至る足跡は被害者と検屍をした医者の物のみ。果たして犯人はどうやって足跡を着けずに被害者に近づいて首を切り、そして持ち去ったのか? メインの殺人事件以外にも色んなエピソードに謎が散りばめられている。 本書の舞台となるイル・サン・ジャックは約30年前にそれまで森だった周囲が一夜にして海に変ってしまった不思議な島である。この一夜の不思議の謎と、いつしか島自体が一日で一回転して常に南に向いているようになったという自転する島の謎が仕込まれている。 本書の時代設定は2114年。前作は2113年だったからルナティック・シティの事件から1年後の話となる。既にクロン技術も確立され、ウォーカロンというアンドロイドが一般的に導入され、労働力にもなっている森氏による近未来ファンタジー小説の意匠を纏ったミステリである本書はその世界そのものに謎が多く散りばめられている。実際謎は上に書いた物だけに留まらない。 島民たちの不思議な振る舞いも謎の1つだろう。とにかく舞台、登場人物、風習、事件、それら全てにミステリの風味がまぶされている。 そして読者はこれが森ミステリであることを認識しなければならない。 その特徴はミステリの定型を裏切り、本当の謎は別のところにあることで、それは本書も同じ。 例えば長きに亘って取材拒否を行ってきた理由はドリィ家の忌まわしき過去にあった。 そしてミステリで云えば核となる殺人事件。砂の曼陀羅の真ん中に坐した老人の首なし死体。そこに至る足跡は検屍した医者のそれしかない、開かれた密室。 さらに第2の殺人も坐した老人の首なし死体。どちらも被害者が発見者に最初に現場に落ちている物を別の場所に捨てに行くよう頼み、その間に死んでいる。 この実に奇妙で不思議な事件。 これを皮切りにこのイル・サン・ジャックの壮大な謎がメグツシュカによって明かされていく。この謎こそが本書のメインの謎であった。 クラウド・ライツ、サエバ・ミチルの生き方、死に様から本書はサルトルの「実存主義」について語ったミステリであると云えるだろう。 存在しながらも非在であるというジレンマがここにはある。 それは既に人間というデータであり存在ではない。しかしウォーカロンという器で現実世界に存在している。 それは今や貨幣からウェブ上での数字でやり取りされる金銭と同じような感覚である。お金として存在はするのに実存せずとも数字というデータで取引が出来、そして実際に現物が手に入る。 この電脳空間で実物性がない中で実物が手元に入る感覚の不思議さを森氏はこのシリーズで投げ掛けているように思える。 金銭でさえもはや数字というデータでやり取りされ、成立するならばもはや人間も頭脳さえ維持されれば個人の意識というデータで生き、そして躰はウォーカロンという器でいくらでも取り換えが利くようになる。それは人間が手に入れた永遠だ。 しかしそこに存在はあるのか。その人は実在しているのか? そのジレンマを象徴しているのがサエバ・ミチルであり、そして本書の登場したイル・サン・ジャックの人々なのだ。 そんな驚愕の事実を森氏はサエバ・ミチルという特殊な存在を以て語る。 恋人のクジ・アキラをマノ・キョーヤの凶弾によって喪い、自身も瀕死の重傷を負ったことから、無事だった自分の頭部をクジ・アキラの身体に繋げて生き長らえている人造人間。更に彼は自分の意識をウォーカロンのロイディにアップロードして遠隔操作が出来るようになっている。 つまり彼自身の個体は頭を撃たれようが、心臓を刺されようがロイディがいる限りは消滅しない不死の存在なのだ。 しかし彼はそんな自分の身体と精神の乖離にしばしば疑問を持ち、自問する。 生きることとは? 死ぬこととは? 存在とは? 身体はなくとも精神があれば存在しているのか? 身体は所詮、単なる器に過ぎないのか? 作られた身体で感じる肉体性に時折喜びを感じながらも、どこか神経との繋がりに乖離を感じるミチルはしばしば自分の存在意義について問い掛ける。その姿は実は我々悩める現代人と何ら変わらないことだ。 何のために働く? 何のためにこんな苦しい思いをしてまで働く? 我々は何を生み出しているのか? などなど、ふと苦しい時に自問する我々のそれとミチルの自問は変わらない。 ただ本書で興味深いのはアンドロイドであるウォーカロンと人間の差がどんどん縮まっているとミチルが認識しつつあるところだ。 彼の意識を封じ込めたロイディは即ち彼自身であり、彼は人造人間の身体を持つ人間だ。ならば人間の意識を持つロイディもまた人間になりつつあるのでは?などと錯覚する。そして人工知能を備えたロイディはミチルが心を揺り動かされるほど人間らしく振る舞い、更に女王メグツシュカの侍女であるウォーカロン、パトリシアとなんだかいい雰囲気だったりする。そしてそのミチルとロイディの秘密を見破ったメグツシュカはウォーカロンが人間に近づくためのヒントがこのミチルとロイディの関係にあると説く。 さて森氏のミステリのシリーズにはファム・ファタールとも云うべきミステリアスな女性がシリーズ全体を通じて登場する。 S&Mシリーズではなんといっても真賀田四季だろう。Vシリーズは主人公である瀬在丸紅子がそれに当たるだろうか?各務亜樹良もまたその称号に相応しいが少し弱いか。 そして本書ではスホがそれに該当する。前作『女王の百年密室』のルナティック・シティの女王、50を超えているのに人生の半分近くを冷凍睡眠で過ごしているため、20代の若さと美しさを保っているデボウ・スホ。 本書ではその母メグツシュカ・スホが登場する。しかも彼女はデボウを超える年齢であり、しかも彼女のように冷凍睡眠もしていないのに美しさを保っている、美魔女である。いやそんな世俗的な言葉を超越した存在として描かれている。 現在、人工知能の開発はかなりの進展をしており、かつては人間が勝っていた人工知能と将棋の対戦も人間側が勝てなくなっている。そして人間型ロボットの開発もかなり進歩しており、見た目には人間と変わらない物も出てきている。更に人工知能の発達により今後10~20年で人間の仕事の約半分は機械に取って代わられると予見されている。 2003年に発表された本書は既に15年後の未来を見据えた内容、描写が見受けられ、読みながらハッとするところが多々あった。特に本書に登場する警察は人間の警官はカイリス1人であり、その他の部下はウォーカロンである。このようにいつもながら森氏の先見性には驚かされる。 そしてこの世界ではもはや人間は働く必要はないほどエネルギーは充足している。つまりもはや人間の存在意義や価値はないといっていいだろう。 永遠なる退屈と虚無を手に入れた人間は果たしてどこに向かうのか? ユートピアを描きながらもその実ディストピアである未来の空虚さをこのシリーズでは語っている。 正直私はまさかこのサエバ・ミチルの存在性がここまで拡散するとは思わなかった。精神性とどこか乖離した肉体性を備えた特異な存在であったサエバ・ミチルはメグツシュカ・スホが理想形とし、そして到達した究極のフィギュアである。 しかし壮大と思えたその実験の行き先は無限に広がる虚無でしかないと思えたのは私だろうか? 森氏の著作に『夢・出逢い・魔性』というのがある。これは即ち「夢で逢いましょう」を文字ったタイトルでもある。 また日本の歌にはこのような歌詞のあるものもある。 “夢でもし逢えたら素敵なことね。貴方に逢えるまで眠りに就きたい” メグツシュカが作り出したイル・サン・ジャックに住まう人々は永い夢の中で生きる人々なのかもしれない。彼らはそんな夢の中で永遠の安息と変わりない日々、つまりは安定を得て、日々を暮らし、そこに充足を感じている。それがメグツシュカが描いた理想のコミュニティであれば、なんと平和とは退屈なものなのだろうか。 このシリーズは次作『赤目姫の潮解』に続くわけだが、あいにく私はこの作品を持っていない。 本書で辿り着いた虚しさの行き着く先に森氏が用意したのは希望か更なる虚無か? 決して読むことのない続編の行く末は今後の手持ちの森作品で推測していくことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東京創元社が新しいミステリレーベル、ミステリ・フロンティアを創設し、それまで聞いたことのない作家たちの作品が累々と出され、あっという間に『このミス』や『本格ミステリ・ベスト10』が週刊文春のミステリベスト10などの各種ランキングを騒がせるようになり、一躍ミステリ読者注目の叢書となった。
伊坂幸太郎氏、米澤穂信氏、道尾秀介氏など今のミステリ界にその名を連ねる新しい才能が次々とこのレーベルからは出ていったが、それまでライトノベルの分野で作品を発表していた桜庭一樹氏が初めてミステリ界でその作品を発表したのが本書である。そして本書をきっかけにミステリ界にその名が知られるようになり、それ以降の活躍はご存知の通りである。 物語の舞台は山口は下関市の沖合にある離島で下関とは橋で繋がっており、島の人々は漁業で生計を立てる者がほとんどで、中学までは島の学校に通い、高校からは下関市の学校に通うのが一般的になっている。そして橋が出来たことで島民たちは中学生たちも含め下関市にショッピングや娯楽を愉しみに出かけるのが通例で、また島民の流出が始まっており、さびれかけている。最近できたマクドナルドが老若男女問わず島民たちの憩いの場となっている。 そんな地方のどこにでもある町に住む女子中学生2人、大西葵と宮乃下静香の、中学2年に体験した、青くほろ苦い殺人の物語。この2人はそれぞれの家庭に問題を抱えている。 美人でかつて東京で働いていた母親を持つ大西葵は学校ではいつも周囲を笑わせるムードメーカー的存在だが、父親を5歳の時に病気で亡くし、再婚した漁師の義父は1年前に足を悪くして以来、漁に出なくなり、毎日酒浸りの日々。もはや酒を飲むか、酒を買いに行くか、寝るかしかしない大男で狭心症を患っている。従って生計は母親の、漁港での干物づくりパートで賄っている。葵はこの義父がとても嫌いで死ねばいいのにと思っている。 宮乃下静香はその島の網元の老人の孫で従兄の浩一郎の3人暮らし。中学生になった頃から島に住み始め、それまでは祖父に勘当された母親の許で暮らしていたが、祖父がその行方を捜していたところを見つけられて引き取られることになった。彼女の母はその時既に亡くなっていたため、彼女のみ島に帰ることになった。そして浩一郎は祖父から嫌われており、なんとかなだめてその莫大な遺産を相続しようと画策している。そして遺言状が書き替えられ、遺産を相続することになった時こそ、自分が浩一郎に殺される番だと恐れている。 バイトで稼いだ小遣いをゲームに費やす大西葵、読書家でいつも鞄がパンパンに膨れ上がるほどの本を持ち歩いている、図書委員の宮乃下静香は作者本人の分身のように思える。 桜庭氏がかなりの読書家であることが知られており、また別名義でゲームシナリオも書いていることから恐らくゲーム好きであろうことが窺える。 この2人のうち、語り手の大西葵を中心に物語は進むわけだが、これが何とも実に中学生らしい青さと清さを備え、あの頃の自分を思い出すかのようだった。 私は男だが、彼女たちの女子中学生の世界観はそれでも理解できる。子供だった小学生から、肉体的・精神的にも大人へと変わっていくこの年頃の複雑な心境、そして理解されたい一方で、大人を嫌う、愛憎入り混じった感情、そしてもう日常を生きるのに精一杯で我が子を表層的にしか捉えていない大人の無理解に対する憤りなどが織り交ぜられている。 少女たちの日常は虚構に満ちている。 それは辛い現実から少しでも忘れたいからだ。 そして少女たちは今日もセカイへ旅に出る。 中学生になった彼女たちはバイトして自由に使えるお金も増え、そして身体も大きく成長し、自転車でそれまで行けなかった距離も延々とこぎ続ける体力を持ち、それまで親の付き添い無しでは乗れなかった公共交通機関も、恐れることなく、乗れるようになる知識を備えている。 それまでできなかったことがどんどん出来てくる彼女たちは世界がどんどん広がるのを実感し、万能感と無敵感を覚えていく。 一方で小学生までは一緒にゲームで遊んでいた男子もからだの発育と共に大人びていき、異性を意識し出して、これまでのように話しかけることが出来なくなる。特に女性の方が精神面の成長は早く、男性は遅いので、男子はいつものように話しかけるのに対し、女子はいつの間にかできた心のハードルを飛び越えて、決意を持って話さなければならないようだ。 この辺は私もなんだか思い出すなぁ。 小学生の頃によく話していた女子に中学になって一緒のクラスになったので以前のように話しかけようとすると素っ気なく、無口になってしまっているのに、何スカしてんだろうと気分を悪くしたが、あれはもしかしたら大西葵が抱いていたような異性を意識する心のハードルが合ったのかもしれない。 また学校では明るく振る舞う大西葵が家では母親と上手く話せず、無口であるのも思わず同意してしまう。 既に中学生は社会性を備えてTPOに合わせて仮面使い分けているのだ。友達用の自分と家用の自分。それはどちらも自分でありながら、作った自分でもある。そんな自分を大人たちは知らない、昔は自分も中学生だったのに。 そしてそんな仮面がふと外れて巣の自分が現れる時、ずっと同じように続いていくと思っていた友人との関係に罅が入る。他のことに気を取られて生返事したり、メールした後にその内容と違うところをたまたま見られたり。そんな他愛もないすれ違いで彼女たちの友情は壊れたりする。そんな脆さを含んだ世代だ。 こうでなければならないと小学生の頃に叩き込まれたルールを愚直なまでに守り、一方でそれを逸脱することに面白みを感じる、矛盾を内包した彼らは自分の行為で生じる矛盾を許せはするが、他人の矛盾行為は許せない。なぜなら万能感を手に入れた彼ら彼女らは自分こそが正義だと思うからだ。相手に合わせることを知りながらも、一方で自分の規範から外れた者を排除することを厭わない純粋であるがゆえに不器用な心の在り方が、全編に亘って語られる。 夏休みの終わりはまた日常の始まり。非日常の毎日だった夏休みに掛けられていた魔法は不思議なほどに解ける。 ゴシック趣味の服装をした宮乃下静香は再びクラスの目立たない女子となり、殺人幇助をした彼女を恐れていた大西葵は次第に自分を取り戻していく。 学校という基盤が少女たちをまた中学生に引き戻す。日常と非日常を繰り返す。それは非日常のダークサイドを日常の学校生活で浄化しているかのようだ。 学校生活という現実から逃れるためにゲームや読書と虚構世界の中を生きる彼女たちにとって殺人自体もまた虚構の出来事として捉えることで消化する。だからこそ宮乃下静香は古今東西の物語をヒントにした殺人シナリオを作り、大西葵は殺人をテレビで観たマジックとゲームに出てくる武器バトルアックスで実行する。それはどこか彼女たちにとって白昼夢の出来事。 しかし違いは身体性、肉体性があること。 そして彼女たちの生身の身体が傷つき、血を流すとき、ゲームは終わりを告げる。世界に絶望した自分たちが血を流すことで生を意識したのだ。 ゲームの世界ではHPという数値でしか見えなかった敵を斃すということ、傷を負うということが実際に血を流すことでリアルに繋がったのだ。 つまりそれは彼女たちが生きていたセカイからの脱却。 本書は自分たちの障壁となる人物を排除することでリアルを体験し、そしてセカイから世界へ向き合うことを示した物語なのだ。 義務教育という庇護下に置かれた状態で自分を獲得していくのが中学生活とすれば、そこに何を見出すかはそれぞれによる。 大西葵はゲームの世界に逃げ込み、ネットワークで東京や大阪といった中心都市に住む人たちとバトルを挑むことで自分の居場所を実感する。 しかしそれも虚構に過ぎなかった。彼女が得ていた万能感は限られたセカイの中での物でしかない。 宮乃下静香は本の世界、物語の世界に没入することで知識を得、それを実行に移すことにする。大西葵という自分と価値観を共有できると確信した同志を引き込むために彼女は今まで蓄積してきた虚構の物語を自分流にアレンジし、そして本で得た知識と方式を自己薬籠中の物にして、葵を引き込んで未来を拓こうとする。 しかしそれも現実に照らし合わせれば、ただの物語好きな子供のゲームに過ぎなかったことを思い知らされる。 彼女たちが成し得た事、大西葵が成し得たことは偶然の産物に過ぎない。しかしそれを成し得たことで彼女たちにはもう一度同じことが出来ると錯覚した。 彼女たちは失敗を経験することでまた一歩大人の階段を登ったのだ。 これは彼女たちにとっては非常に良かったことだと思う。もしこの失敗がなければ彼女たちの虚構の万能感はエスカレートしていっただろうから。 現実の厳しさに耐えるため、敢えて虚構に身を置き、それに淫することで自らの居場所と万能感を得た彼女たち。それは思春期を迎える我々全てが経験する通過儀礼のようなものだろう。 そこから脱け出して現実を知る者、未だに抜け出せず、虚構の主人公となろうと振る舞う者。 今の世の大人は大きく分ければこの2種類に分かれているように思える。 彼女たちが認識した世界は実に苦いものだった。これはそんな少女たちの通過儀礼のお話。 リアルを知った彼女たちは今後、一体どこへ向かうのだろうか。 もし彼女たちが虚構に生きることを望んでいたのなら、確かにこの殺人計画は「少女には向かない職業」だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2000年代初期に祥伝社から400円文庫として250~300ページ前後の作家書下ろしの文庫がいくつか刊行された。これはそのうちの1編で、ものの1時間で読めた。
本書は戯曲の体裁で書かれており、文章魔王というこの世から小説を無くしてしまおうと企んでいる電脳世界に住む魔王を小説家志望の女性がノートパソコン片手に戦いを挑むというストーリーである。 とにかく全編鯨氏独特のユーモア、そしてちょっぴりエロに満ちている。 まず主人公2人の設定が人を食っている。小説家デビューを目指し、日々創作しては新人賞に応募するミユキはそれまで1冊も本を読んだことがない。しかし文章が無尽蔵に湧き出る才能の持ち主。 一方彼女が師事する小説家大文豪は物語が無尽蔵に浮かぶのだが、文章を書くのが苦手でこれまで1編も小説を書いたことのない自称小説家。 この実に胡散臭い小説家とミユキのやり取りが実に面白く、さらに明らかにミユキに欲情している中年のいやらしさがにじみ出ており、まさに鯨印といったところ。 そして大文のケータイ小説と世の小説家たちをスランプに陥れている文章魔王が住む電脳世界へアクセスする文章魔界道への行き方も数々のエロサイトを潜り抜けなけれならないというバカバカしさ。当時はまだ電話回線によるインターネット通信で、携帯電話を介しての接続と時代を感じさせる場面もあり、懐かしさを覚える。 ミユキが文章魔界道に入りこんで、旅のお供となるのが漫才師の青空球児・好児の2人。実名で登場する2人はお馴染みのギャグを披露しながらミユキと行動を共にする。 なぜこの実在の漫才コンビが登場するのかは不明。鯨氏と親交があるのだろうか? ミユキが文章魔王とその部下である第一の番人と第二の番人と対決するのは文章による対決だ。 この対決の数々はまさに鯨氏の文章遊びをふんだんに盛り込んだ内容となっている。前の400円文庫で刊行された『CANDY』でも当て字やダジャレが横溢しており、文章遊びの嗜好の強さを感じたが、本書では更に拍車がかかり、存分にアイデアを、いや趣味の世界を繰り広げている。 例えば第一の番人との戦いは同音異義語を使って彼が繰り出す問題に回答する戦い。つまり「たいせい」という言葉ならば、「体制」、「耐性」、「大成」といった具合に、同じ音で意味の異なる単語を使って文章を作成して回答する、因みに第一の番人は『古事記』の編纂者である太安万侶。鯨氏はどうもこの太安万侶が好きらしい。これで何度この人物と鯨作品で出逢ったことだろうか。 そしてさらに最後に蒟蒻問答での戦いもある。これは作中の例を挙げれば、「パンを食べてても米国とはこれ如何に」という問いに対して同様に「米を食べててもジャパンというが如し」と同種の洒落を切り返すもの。 次の第二の番人は井原西鶴。彼との戦いは回文で問題に答えるという物。古今東西の作家をテーマに回文で切り返す。 そして最後の文章魔王との戦いは彼が書いたミステリを読んで、その内容の質問に同音異義文で応えるという物。例えば<今日は基地に帰る>に対して、<凶は吉に返る>と同じ発音でありながら意味の異なる文章で回答するゲームである。 驚くべきはこれらの戦いの分量の多さである。 第一の番人との戦いである同音異義語はさすがに4問程度だが、それ以降はとにかくすごい数だ。 蒟蒻問答では9つの問答が、回文ではなんと45個の回文が登場し、そして最後の魔王との戦いでは21の同音異義語文が応酬される。もはやこれは趣味の世界だろう。 最も面白かったのは回文対決。作家をモチーフにした問いの内容が非常に面白い。特に現代ミステリ作家では作家間で知られている内輪ネタを存分に披露しており、かなり笑わせてもらった。中には無理矢理回文にしたものもいくつかあるが、何よりもこれだけの物を作り出した鯨氏の執念に敬意を表しよう。 ジャンルを問わず書下ろしで中編程度の分量で400円文庫として刊行するこのシリーズでは『CANDY』の時もそうだったが、鯨氏は敢えて実験的な小説を意図的に書いているように感じる。こういう企画でしか刊行されないであろう小説を、昔からある日本語を使ったゲームを自ら創作して愉しんで書いているようだ。 しかし内容はふざけていながらも案外書かれている内容は深いものを読み取ることが出来る。 例えば本書で数々の敵を討ち斃す作家志望のミユキが武器にしているのはノートパソコンで、つまりパソコンの文章ソフトとインターネットがあれば色んな問題も回答し、さらに文章も作ることができる、つまりパソコンこそが文章作成の最良の便利ツールであることを暗に示している。 作中、大文豪が人間には三大欲の他にストーリィ欲というのがある。インターネットが普及して無限の小説が書けることになった。人々はストーリィを欲し、またストーリィを書くことを欲している。 かつて森村誠一氏も同様のことを云っていたことを記憶している。人々には表現欲という物があり、みな何かを表現したがっている。簡単にケータイやパソコンで文章が作れる現在はその欲望が一気に爆発している、と。 だが一方でその安直さこそが文章の乱立を助長しているとも云える。ミユキはまさにそんな現代の作家志望者のステレオタイプとして描かれた人物だろう。 また作中作として盛り込まれている大文豪の『小説とは何か』の内容も意味深い。 200年に小説が無くなり、ストーリィを作れなくなった人たちの社会で夢を売り物にしている会社を経営する2人の男女の会話で展開する物語だが、どんな物語も自分の想像で登場人物を設定できる夢があれば十分であり、ストーリィは小説でなく、これからは夢が代行すると書かれている。 これは恐らく当時問題になっていた活字離れに対する作者の考えを語った物だろうと思える。夢を見ることでストーリィ欲を満足させる社会は将来来ないと思うが、この2020年の現代で小説が無くなるという表現で思い至るのは昨今の電子書籍の普及である。 「小説」が無くなるのではなく、「紙媒体としての本」が無くなることを予見した内容とも取れる。厚みを手で感じ、ページを指で捲り、そして紙の匂いを感じ、目で文章を追い、読み終わった後も本棚でその書影を眺めるという五感で味わう読書をデータでしか行わなくなった味気なさを夢に置き換えると、まさにこの内容の未来が来ているように感じる。 流石に以前ほど全ての書物が電子書籍に取って代わられるという危機感は薄らいだものの、毎年減っていく全国の書店の数の恐ろしいまでのスピードを考えると果たして出版界の未来は?と不安に駆られてならない。 戯曲というスタイルもあって文章量も少なく、小一時間で読める内容と電脳世界での文章対決というあらゆる意味で軽い内容の本書だが、作中に収められたそれまで一編も小説を書いたことのない男が書いた小説を内容に照らし合わせれば、文章の持つ面白さ、そして小説が読まれることの意義などが暗に含まれており、なかなか考えさせられる内容である。単純に読み飛ばすだけに留まらない作品であると云っておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(3件の連絡あり)[?]
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コナリーの3作目のノンシリーズである本書はこれまでのコナリー作品とは色々と異なっているのが特徴だ。
まず主人公がなんと女性である。元窃盗犯で仮釈放の保護観察の身であるキャシー・ブラックが主人公だ。 そして今までは刑事ボッシュを筆頭に、新聞記者のジャック・マカヴォイ、元FBI捜査官のテリー・マッケイレブが主人公を務めたシリーズ物、ノンシリーズ物も含めて犯人を追う捜査小説だったが、今回の主人公キャシー・ブラックは女泥棒。つまりクライム・ノヴェルであることだ。 そして書き方や物語の進め方も以前の作品とは異なっている。このキャシーが女泥棒と判るのは案外物語が進んでからだ。それまでは彼女は一体何者で、どんな過去があったのかがなかなか語られず、仮釈放の身でハリウッドのポルシェのディーラーに勤める、人の目を惹く美人であることが解っているだけである。 前情報と知識がないまま物語は進む。そしてその中で断片的ながらキャシーの過去が浮かび上がってくるという、ちょっと変わった書き方をしているのが特徴だ。 今までのじっくり読ませる文体と違い、どこか軽やかな印象でクイクイと物語が進み、やもすれば物語の動向を十分に理解しないままにキャシーが物語のメインであるギャンブラーの持ち金掠奪計画まで一気に進んでいってしまうほどだ。訳者が今までの古沢嘉通氏と異なり木村二郎氏であるのも一因かもしれないが。 そのせいだろうか、どうも物語が浅いように感じられる。 故殺罪で刑務所に入った過去のある元泥棒の女性が、仮釈放でポルシェのディーラーに勤め、普通の生活を送っていたところにある事情から大金が必要になり、再び根城にしていたラス・ヴェガスで高額ギャンブラーをターゲットにしたハイローラー強盗を計画するが、その男はマフィアの金の運び屋で、その大金を持って帰ったことからトラブルに巻き込まれる。敵はホテルが雇った私立探偵だが、人格障害者である彼は凄腕の殺し屋でもあり、彼女を追う先々で次々と関係者を殺害していく。そしてその毒牙は彼女の大切な存在にも伸び、意を決した彼女はそれを救うために対決に臨む。そこはかつて自分の恋人が死んだホテルの部屋だった。 とまあ、実に映像向けのストーリーであり、起伏に富みながらもどこか深みを感じさせない。 コナリー作品の特徴と云えばハードボイルドを彷彿とさせる緊張感と暗さを伴った重厚な文体に、事件に関わらざるを得ない宿命のような物を感じさせる主人公がどこまでも謎を追いかけていく、泥臭さを匂わせる文体で物語を勧めながら、いきなり頭をドカンと殴られるような驚きのサプライズが仕込まれているという読書の醍醐味を感じさせる味わいなのだが、本書はなかなか主人公キャシーの氏素性と過去が明かされぬまま、物語が進み、訪れるべき終幕に向けて一気呵成に突き進む、疾走感がある文体で逆にそれが特徴である深みや味わいを逸している。 ただコナリー作品独特のテイストもないわけではない。占星術における十二宮のどこにも月が入らない時間帯は不吉なことが起きるヴォイド・ムーンというモチーフを用いて上手くいくはずの犯行を絶望的なトラブルに主人公たちを巻き込む。 また女泥棒のキャシーの造形も印象的ではある。 恐らくは男たちの目を惹く容姿をしている女性で、ヴェガスでブラックジャックのディーラーをしていたが、そこで出逢った強盗マックス・フリーリングと恋に落ち、そして彼の仕事を手伝ううちに一流の強盗の技術を身に着ける。出所後に大金が必要になり、仕事を紹介してもらうと、生活リズムを変え、必要な道具を揃え、万全の準備で臨む。 仕事もやるべきことを心得て躊躇がなく、不測の事態についてもあらゆる手段を熟知している。例えば隠しカメラでなかなか金庫のナンバーが見えなければ、もう一度金庫を開けざるを得ない状況を作るために、小火を引き起こして、ホテルの従業員に成りすまして避難を促し、金庫を開けざるを得ない状況を作り出すなど。これら一連の手口が詳らかに語られることでキャシーの凄腕ぶりが印象付けられていく。 更に仲介屋のレオ・レンフロのキャラクターもなかなか興味深い。迷信好きで古今東西の色んなまじないやジンクスを信じ、実践している。中国の風水、易経に占星術。ヴォイド・ムーンについて教えたのもこの男だ。 ジャック・カーチはキャシーの恋人マックスを罠に嵌め、死に至らせた私立探偵。そのことがきっかけで彼はホテルの当時警備課長で今は支配人となっているヴィンセント・グリマルディによって専属の探偵となり、色々な後始末を命じられ、どうにかこの状況から脱したいと願っている。 しかしこのようなキャラクターにありがちなうだつの上がらない男ではなく、躊躇いなく引き鉄を弾いて人を殺すことも厭わない。勿論証拠を残さないように細心の注意を払った上で。しかも車を見られた場合はナンバープレートを付け替え、追われないようにする。そして敵が手強いほど燃える男で常に人の優位に立って弄ぶことに喜びを覚える、人格障害者だ。 このしつこいまでに残虐な探偵もまた敵としては実に申し分ない。 これほどお膳立てがされながらもどこかB級アクション映画を観ているような感覚はなぜだろうか? やはりそれはコナリー作品の持ち味である、サプライズに欠けるところにあるだろう。 上述したように今回はキャシーが服役するようになった過去、そして仮釈放して真っ当な仕事に就きながらもいきなり大金が必要になる動機などが明確にされないながら物語が進み、次第にそれらが徐々に明かされていくというスタイルを取っている。 従って五里霧中で読み進めながら次第にキャシーの動機という霧が晴れ、全体像が明らかになっていくという謎が解かれていく面白みはあるのだが、正直インパクトはさほど強くなく、驚きよりも納得のレベルに落ち着いている。 一方でラス・ヴェガスという享楽の都に縛られた人々の話でもある。 キャシーは幼い頃からここに住み、そしてブラックジャックのディーラーとなって泥棒のマックスと知り合い、高額ギャンブラー相手の泥棒になった。 ジャック・カーチもまた父親がアメージング・カーチと呼ばれた、フランク・シナトラやサミー・デイヴィス・Jrとも何度も共演したことのある名のある手品師で、自身も子供の頃に父親のアシスタントとしてステージに立っていた男。 しかし彼の父親は酔っ払ったマフィアによって両手の指を粉々に折られ、再起不能のマジシャンにされる。また6年前のマックス死亡の事件で、《クレオパトラ》の専属の探偵となり、逆に当時警備課長で支配人に乗りあがったヴィンセント・グリマルディにいいように扱われる身となる。 ラス・ヴェガスで育ち、そしてラス・ヴェガスをこの上なく憎んだ男なのだ。 全てが6年前のあの日へと収斂する。因縁の過去が彼ら彼女らを引き寄せていく。 コナリー作品はこのように限定された人物たちが過去の因縁によって再び引き寄せられるプロットが好みのようだ。 あれほど広大なラス・ヴェガスでもう一度会いまみえる過去の因縁たち。それはどうやっても切っても切れない鎖のような絆で結ばれた運命の人々のように描かれる。 その宿命的な繋がりを断ち切ってこそ、過去に縛られた人たちに未来は訪れるのだというメッセージが込められているようにも思える。 その因縁に抗えない人たちはそのまま飲み込まれ、そこで死に絶える。犯罪に手を染めた者たちにとって因縁の鎖は容赦なくその身を縛り、そしてあの世へと誘う。そんな冷徹さが垣間見える。 やはりコナリーはコナリーだった。 だからこそ邦題の軽薄さが目に付く。 『バッドラック・ムーン』は本書のモチーフとなっている悪運に見舞われるヴォイド・ムーンを示しているが、本書ではそのままの名前で使われている。つまり原題と同様に『ヴォイド・ムーン』でよかったのではないだろうか?なぜならVoidという単語には他に虚ろなとか中身のないとかいう、空虚さ、虚しさが込められているからだ。 全てが虚しい享楽の夜の塵となった。 しかし唯一虚しい戦いに生き残ったキャシー・ブラックは孤独の道を行く。 彼女が目指すのは砂漠。しかし砂漠が海になるところだ。かつての恋人と幸せな時を過ごした場所へ。 キャシー・ブラック。彼女もまた壮大なボッシュ・サーガの一片であればいつかまたどこかで逢うことになるだろう。それまでこの哀しき女泥棒のことを覚えておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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私は死を意識したのはそう、中学生の頃だっただろうか。
自宅にいてなぜかふと突然、死を意識し、一人その恐ろしさに身悶えした記憶がある。 どうして人は死ぬのか。死ぬのであれば生きていることは意味がないのではないか。 この世からいなくなるとどうなるのか。 そんな無意味さ、無力感、そして虚無感に見えない死の先の暗黒を想像して一人悩んだ時期があった。 メイン州を舞台にした本書のテーマは誰しにも訪れる死。ペット・セマタリーという地元の子供たちで手入れがされている山の中のペット霊園をモチーフにした作品だ。 この作品も映画化されており、何度かテレビ放送されたが、なぜか私は観る機会がなく、従って全く知識ゼロの状態で読むことになった。 シカゴから大学付属病院の所長の職を得てメイン州の田舎町に引っ越してきたクリード一家。新しい家は申し分なく、しかも隣人のクランドル老夫妻は好人物で何かと助けてくれ、そしてすぐさま夜中の晩酌を共にするほど親しくなる。おまけに関節炎に悩まされているノーマ夫人の心不全の発作を適切な処置によって一命を取り留めることができ、ますます家長のルイス・クリードとジャド・クランドルの絆は深まるばかり。 そして職場の連中も気のいい連中ばかりでルイスに信頼を置いていると新生活としては順風満帆でこれ以上望むべくもない環境にある中、唯一の懸念は家の裏山に町の子供たちが世話をするペット霊園があることだった。 正直に云って題材は特段珍しいものではない。 引っ越してきたところの奥に山があり、そこにはペットの霊園がある。但しそこはかつてインディアンの種族の1つが埋葬地として使っていた霊的な場所で、そこにペットを埋めると生き返る。そんな矢先、最愛の息子が死に、悲嘆に暮れた父親は息子を取り戻したいがためにそのペット霊園に埋葬する。 典型的な死者再生譚であり、そして過去幾度となく書かれてきたこのテーマの作品が押しなべてそうであったように、ホラーであり悲劇の物語だ。 実際に本書の中でもそのジャンルの名作である「猿の手」についても触れてもいる。 そんな典型的なホラーなのにキングに掛かると実に奥深さを感じる。登場人物が必然性を持ってその開けてはいけない扉を開けていくのを当事者意識的に読まされる。 読者をそうさせるのはそこに至るまでの経緯と登場人物たちの生活、そして過去、とりわけ今回は死に纏わる過去のエピソードが実にきめ細やかに描かれているからだろう。それについては後で詳しく述べることにしよう。 さて一口に死と云っても色々ある。 大往生と呼べる自然死。 突然の災禍に見舞われる事故死。 重病に罹って苦しみながら死ぬ病死。 そんな色んな死についてキングは登場人物たちが体験したエピソードで死を語らせる。 主人公のクリード夫妻の妻レーチェルがたった6歳という幼き頃に直面した髄膜炎で亡くなった姉ゼルダの壮絶な死。半ば開かずの間のような部屋に寝たきりで、健常者である妹に対して逆恨みめいた憎悪を見せるモンスターに成り果てた姉の看病で疲弊し、そして最後に舌を喉に巻き込んで窒息死した姉の断末魔を目の当たりにしたために死に対してトラウマを抱える。 ルイスとレーチェルの娘エリーは隣人ジャドに連れられて裏山にあるペット霊園に行ったことで初めて死を意識する。手作りの墓碑に書かれたペットの名前と献辞を見て愛する猫チャーチが神の御許に行くことに強く反発する。 いつかは訪れる死を見つめる時。ジャドはあの霊園こそがラドロウの町の子供たちにテレビや映画で観る死を超越してリアルに感じさせる場であると説く。それはあたかもラドロウに住む子供たちにとっての通過儀礼であるかのように。 しかし一方でエリーは年老いた隣人ジャドの妻ノーマがハロウィンの夜に心不全の発作を起こしてルイスが適切な処置を施して一命を取り留めた時、ノーマの死に対してはいつか訪れるものだと、既定の事実のように受け止める。 更に娘に内緒で死なせた猫のチャーチをミクマク族の埋葬地の不思議な力で蘇らせた時、どこか生前と異なるチャーチを見て、それがいつ死んでも受け入れられると話す。 そしてクリード家をペット霊園に案内した隣人ジャドは子供の頃に飼っていた愛犬を喪った哀しみを知っている。その深い哀しみゆえに彼が犯した過ちもまた。 だからこそ彼は最愛の妻ノーマが亡くなった時に、その運命を受け入れ、あるがままにしたのだ。しかし一度禁忌の扉を開いた者はそれを誰かに教え、協力するようになる。その相手こそがルイス・クリードだった。しかしそれは自然の摂理に逆らった人間の傲慢さゆえの過ち。犯していけないタブーの領域に踏み入った時にさらなる災厄が降りかかる。 しかし最愛の息子を亡くした深い悲しみと喪失感からルイスがペット霊園に埋葬して再生しようとする展開にキングは安直に持って行かない。 ルイスの導き手として、また時には悪魔の囁きを施し、または神のように善意の忠告を行うジャドを介して、昔ラドロウで戦争で亡くなった息子を蘇らせたある男の話をする。それを延々20ページに亘って実におぞましくも恐ろしいエピソードとして語る。それはまさに人ならぬ道に足を踏み入れようとするルイスを留まらせるのに十分なほどの抑止力を持つ話だ。 しかしそれを以てしても禁忌の領域に足を踏み入れるルイスを実に丹念に描く。その心の葛藤の様に多くの筆をキングは費やす。 実際に息子を蘇らせた男が迎えた不幸。実際に甦った愛猫の変わり様。失敗することが目に見えているのにルイスはとうとう息子ゲージの再生に取り組む。 今度は上手く行くのではないか。先人が失敗したのは時間が経ち過ぎていたからだ。 猫のチャーチは確かに以前とは変わってしまったが、我慢できないほどではない。確かに蘇った動物たちは以前とは少し違う。少しばかりバカになり、少しばかり愚鈍になり、そして少しばかり死んだように見える。 しかしそれが何だと云うのだ。たとえ息子がそんな風になっても、知的障害者を育てると思えば問題ないではないか。 問題は息子がいないことだ。生きてさえいれば困難も乗り越えられる。もし失敗したら、その場で撃ち殺せばいい。 情理の狭間で葛藤する父親が、愛情の深さゆえに理性を退け、禁断の扉を開いていく心の移ろう様をこのようにキングは実に丁寧に描いていく。 判っているけどやめられないのだ。 この非常に愚かな人間の本能的衝動を細部に亘って描くところが非常に上手く、そして物語に必然性をもたらせるのだ。 つまりこの家族の愛情こそがこの恐ろしい物語の原動力であると考えると、これまでのキングの作品の中に1つの符号が見出される。 それはキングのホラーが家族の物語に根差しているということだ。家族に訪れる悲劇や恐怖を扱っているからこそ読者はモンスターが現れるような非現実的な設定であっても、自分の身の回りに起きそうな現実として受け止めてしまうのではないか。だからこそ彼のホラーは広く読まれるのだ。 デビュー作『キャリー』の悲劇はキャリーの母親が狂信的な人物だったことが彼女の生い立ちに影響を及ぼしていた。 『シャイニング』は癇癪持ちだが、それでも大好きな父親が怨霊に憑りつかれて変貌する恐怖を描いていた。 『ファイアスターター』は図らずも特赦な能力を持つことになった親子の逃走の日々の中、追われる者の恐怖の中でも強く持ち続ける親子の絆を描き、『クージョ』も狂犬に襲われた親子の、噛まれた息子を助けたい母親の強さを描いている。 『クリスティーン』はいつかは訪れる息子と両親との別離を車に憑りつかれて変貌していく息子というモチーフで恐怖を以て描いた。 超能力者、幽霊屋敷、怨霊といわゆるホラー定番のお化けや超常現象を現代風に描いたと云われているキングの本質は、普遍的な家族にいつかは訪れる避けられない転機そして悲劇を超常現象を織り交ぜて色濃く描いているところにあると私は考えている。それはどこの家族にもあり得る悲劇や凶事だからこそ、キングのホラーは我々の生活に迫真性を以て染み入るのだ。 仲睦まじい家庭に訪れた最愛のペットが事故で亡くなるという不幸。 同じく最愛のまだ幼い息子が事故で亡くなるという深い悲しみ。 本書で語られるのはこの隣近所のどこかで誰かが遭っている悲劇である。それが異世界の扉を開く引き金になるという親和性こそキングのホラーが他作家のそれらと一線を画しているのだ。 愛が深いからこそ喪った時の喪失感もまたひとしおだ。それを引き立たせるためにキングはルイスの息子ゲージが亡くなる前に、実に楽しい親子の団欒のエピソードを持ってくる。 初めて凧揚げをするゲージは生まれて初めて自分で凧を操ることで空を飛ぶことを感じる。新たな世界が拓かれたまだ2歳の息子を見てルイスは永遠を感じた事だろう。人生が始まったばかりのゲージ、これからまだ色んな世界が待っている、それを見せてやろうと幸せの絶頂を感じていた。 美しい妻、愛らしい娘と息子。全てがこのまま煌びやかに続き、将来に何の心配もないと思っていた、そんな良き日の後に突然の深い悲しみの出来事を持ってくるキング。物語の振れ幅をジェットコースターのように操り、読者を引っ張って止まない。 過去作品を並べたついでに本書における他作品とのリンクについても触れておこう。 メイン州を舞台にした本書では妻のレーチェルが車でローガン空港からラドロウに戻る道すがらに通り過ぎるのが『呪われた町』のジェルサレムズ・ロットであり、『クージョ』で起きたセントバーナード、クージョが狂犬病に罹って何人も死なせた事件が忌み事のように語られる。あの事件は『デッド・ゾーン』に出てきた殺人鬼フランク・ドットに由来するものだから、これらメイン州を舞台にした物語は1つのサーガのようになっているのだ。 それを証明するかのように、本書においてもある不可解なことをキングは潜り込ませている。 それは死者が生き返るミクマク族の埋葬地のことではない。ルイスの息子ゲージが亡くなった事故についてである。 ゲージを轢いたトラックの運転手は自分の犯した罪の重さに自殺を図ろうとする。彼はそれまで飲酒運転もしたことなくスピード違反もしたことがない模範的なドライバーだったのに、なぜかあの時は急にアクセルを思い切り踏み込みたくなったと述懐している。そのことを聞いてルイスはあの場所には力があると理解する。その力こそはフランク・ドッドの力ではないか。クージョを経て今度はラドロウの、クリード家の前の道路に地縛霊のように居座り、そしてペットを殺してはラドロウの人々たちに禁忌の領域に足を踏み入れさせているのではないだろうか。 そんなキング・ワールドの悪意に魅せられた不幸な主人公ルイスとレーチェル・クリード夫婦は5歳の娘と2歳の息子を持つことからも解るようにまだ若い。 一方隣人のジャド・クランドル夫妻は80歳を超えた老夫婦の2人暮らし。 片やまだ死の翳など見えもしない、未来ある家族。片やささやかな日課を愉しむ老夫婦でいつか近いうちに訪れる死が安らかであることを願う2人。 この2組の家族の対比構造によって死というものの重さを全く異なる風にキングは描く。 2組の夫婦はそれぞれお互いに対する愛情は深いのが共通項だが、クランドル夫妻は残りの人生の旅路のパートナーといった風情であるのに対し、クリード夫妻はまだ若いだけあって、愛情は求め合う欲望と等しく、従って夜の生活もお盛んだ。 この2人の夜毎のセックスをキングが述べるのは単にルイスとレーチェルの夫婦愛を示すだけではなく、セックスが新たな生を生み出す行為だからだろう。死を語ったこの物語においてこのルイスとレーチェルのセックスは生を意味しているのだ。 この新たな生をもたらす行為に対し、自然の摂理に逆らって取り戻した生に対して何も代償はないかと云えばそうではない。愛猫チャーチを取り戻したルイスは代わりに最愛の息子ゲージを亡くす。それはやはり神の理に逆らった天罰ゆえの代償だったのではないかとジャドは云う。 そう、これは自分の犯した過ちのために、人として踏み入れてはいけない領域に入ってしまったために代償を払い続ける物語なのだ。 最初は可愛い愛娘に嫌われまいという思いから死んでしまった愛猫を隣人の指示に従うままにその領域に踏み入り、生き返らせるという自然の摂理に逆らった行為をしてしまった。医者という人の命を扱い、そして死に直面することが日常的な職業に就きながらもそれが我が身に降りかかると理不尽さを覚えてしまう。それがルイスの弱さだった。 そして死せるものが甦る、その手法を、その禁断の扉を知ってしまったがためにルイスは坂を転がり続けることになる。 人はやはり本来あるべき方法で生を得るべきなのだというのがこのクリード夫妻のセックスが示していたのではないだろうか。 そうやって考えると本書は見事なまでに対比構造で成り立った作品である。 生と死。 若い夫婦と老夫婦。 死を受け入れるクランドル夫婦と受け入れらないクリード夫妻。 本来命を救う医者であるルイスが行うのは死者を弔う埋葬。 そして過去と未来。 ルイスはゲージをミクマク族の埋葬地に埋めて家に戻った時に、そこがかつて在ったクリード家を温かく包んでいた家とは思えなかった。既にもう何かが変わってしまったことに気付き、自分が取り返しのつかないところまで来ていることに気付かされていたのだ。 彼がもう戻れなくなってしまったのはいつだったのか。 ゲージを蘇らせようと決心した時? 愛猫チャーチを蘇らせてしまった時? 隣人ジャドと出逢ってしまった時? ラドロウに引っ越しした時? 我が身を振り返ると同じような感慨が時折起きることがある。どうしてこうなってしまったのだろうか、と。 本書の半ば、ジャドの妻ノーマの葬式で不意にルイスはこう願う。 神よ過去を救いたまえ、と。 せめて美しかった過去だけは薄れぬものとして残ってほしい。死んだ者は忘れ去られていく者であることに対するルイスの悲痛な願いから発したこの言葉だが、一方で今が苦しむ者がすがるよすがこそが美しかった過去であるとも読めるこの言葉。 しかし人は過去に生きるのではない。未来に生きるものだ。 彼が選んだ未来はどうしようもない暗黒であることを考えながらも、果たして自分が同じような場面に直面した時、もしルイスのように禁忌の扉を開くことが出来たなら、彼のようにはしないと果たして云えるのか。 キングのホラーはそんな風に人の愛情を天秤にかけ、読後もしばらく暗澹とさせてくれる。実に意地悪な作家だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Vシリーズもいよいよ終盤に差し掛かり、とうとうS&Mシリーズの西之園萌絵と国枝桃子が登場する、2つのシリーズが一堂に会することになった。その記念的作品が第8作の本書。
そしてこのVシリーズに仕掛けられた大きな謎について仄めかされる、森氏としても大いに踏み込んだ作品だ。 但しいつものメンバーが西之園萌絵らと逢うわけではなく、保呂草潤平のみが邂逅する。そしてこの3人が出逢う場所が保呂草がずっと追っている美術品エンジェル・マヌーヴァの所有者熊野御堂譲氏のその美術品を保管している別荘である。 今回の事件は2つの密室殺人事件に1つの盗難事件。1つの密室殺人事件と盗難事件はメビウスの輪をモチーフにした棙れ屋敷で起き、もう1つの密室殺人事件は別荘から棙れ屋敷の間にあるログハウスで起きる。 本書で最も目を惹くのはなんといってもメビウスの輪を巨大なコンクリート構造物として作った棙れ屋敷だろう。 36の4メートルの部屋で区切られた全長150メートルにも及ぶ棙れ屋敷。しかもそれぞれ部屋は傾いて作られ、折り返し地点の部屋は床が左の壁となる90度傾いた構造となっている。更にそれらはドアで繋がっており、入ってきたドアが施錠されると他方のドアが解錠される仕組み、つまり必ず1つのドアが各々の部屋で施錠されている状態になる。 そんなパズルめいた趣向を凝らした屋敷で事件が起こらぬはずがない。 そしてもう1つは何の変哲もないログハウスでの密室殺人。しかもそこで殺された熊野御堂譲氏は「この謎を解いてみろ」と発見者に挑戦状を叩きつけているくらいだ。 しかし予想に反してこれら2つの密室は物語のメインではない。謎とされた密室殺人は実にあっさりと解かれる。 そして今回これらの謎解きには推理がない。冒頭のプロローグの保呂草の独白に「探偵が犯人を言い当てる原理として、これほど風変わりな手法によるものはかつてなかったのではないか」と述べているが、確かに今までのミステリにはないかもしれない。 これらの密室殺人が上記の手法によって解かれるということから実は本書における主眼ではない。 本書のメインは保呂草がずっと追い求めていたエンジェル・マヌーヴァがいかにして持ち去られたかという謎だ。 鎖で棙れ屋敷最奥部の部屋の柱に繋ぎ留められた美術品の短剣エンジェル・マヌーヴァ。その鎖自体もエンジェル・マヌーヴァ本体の一部でそれだけでかなりの美術的価値がある代物。それを引きちぎらずに持ち去るのはやはり大盗賊保呂草潤平だった。この時の保呂草の気持ちは正確には書かれていないが、恐らく物凄く感慨深かったのではないか。 その美術品が出てきたのはシリーズ5作目の『魔剣天翔』からで、この8作目にしてようやく手に入れたことになるが、単に間に3作を挟んだだけの年月ではなく、実に長い年月で…と危ない、危ない。このくらいにしておこう。 しかし色々と惑わせてくれる森氏である。この保呂草潤平が今回偽る名前は1作目に保呂草潤平と称して登場した殺人犯の名前である。そして近くの刑務所から殺人犯が脱走したことがニュースで報じられている。 冒頭の保呂草による独白めいたプロローグが無ければ今回の保呂草はいつもの保呂草なのかそれとも1作目の保呂草、秋野秀和なのか、惑わされてしまう。これもシリーズに隠されたある謎を知らなければ素直に保呂草の茶目っ気と受け止めるのだが、知っていることが逆に不穏さを誘うのだ。 特に今回の保呂草の行動が案外いかがわしく、そして危険な香りを漂わせているだけに。 しかしこうやって読み終わってみると森氏にとって密室トリックや犯人やらは本当に些末なことであることが解る。 メビウスの輪を館として実物にした棙れ屋敷。この36の部屋で仕切られ、180度部屋が反転し、しかも両側に扉を設え、一方が施錠されないと他方が解錠されないという特殊な機構を持つ屋敷を提示しながらそこで起こる事件の真相は実に呆気ない物。 ログハウスの密室トリックは建築学の教授である森氏ならではの奇抜なアイデアが光るが犯人については寧ろ明確に語られずじまい。 エンジェル・マヌーヴァ掠奪の顛末は実にスリリングだが、柱に埋め込まれた美術品の持ち出し方法は案外拍子抜けするほどの内容だ。 つまり本書で語りたかった、もしくは読者に仕掛けたかった、もしくは明かしたかった謎は別のところにあるのだ。それについては後述することにしよう。 さて上にもちらっと書いたが、流石は建築学教授の森氏と思わされる内容が随所にあるが、一番感じ入ったのはこの棙れ屋敷が建築基準法に適っていないことが明確に示されていることだ。 二方向避難、無窓階など色々同法をクリアするのに必要な設備や開口が必要であるのだが、それを敢えて排除し、適法でないことを明確に示している。つまりはこれは建築物ではないことになるのだが、しかし部屋はあることで単なるオブジェとして扱われない。つまり違法建築のまま熊野御堂譲氏はこれを置いていることになる。個人の持ち物だから、建築基準法などどこ吹く風といった感じなのだろう。 またS&Mシリーズファンなら喜ぶであろうシリーズ後の近況が解るのも本書の特徴だ。 国枝桃子はN大学から異動になり、那古野市の私立大学の助教授になっていることが本書で明かされる。西之園萌絵はまだ大学院生だからシリーズが終わってすぐのことなのだろう。 また小ネタとして萌絵が国枝桃子に語る山小屋4人の話。寒さで眠らないように4人が四隅に立って真っ暗な部屋の中を壁沿いに歩いて次の角の人にタッチして、タッチされた人が同じように次の角まで歩いてそこに立っている人にタッチして、を延々と繰り返して寒さをしのぐ話が怖いと萌絵は云うが、国枝桃子はピンとこない。これは本当に起きたら怖いです、実際に。 さて本書の題名の英訳は“The Riddle In Torsional Nest”、つまり「捩れ屋敷の謎」という意味だが、HouseやResidenceとせずにNestとしたところに森氏の建築学教授としての矜持を感じる。 また邦題の「利鈍」は「刃物が鋭いか、鈍いかということ。賢いことと愚かなこと」という意味。 捩れ屋敷そのものは果たして聡い者による造形物なのかそれとも愚か者が作った役立たずの代物なのか。それは本書を読むことでそれぞれの読者が判断することなのだろう。 たった250ページ強のシリーズ中最も短い長編である本書を最後まで読んだ時、森氏がこのシリーズに仕掛けられた大きな謎について大いに踏み込んだことが解る。 実は私は既読者によってネタバレされているのでその驚愕を味わえない不幸な人間なのだが―頼むから森博嗣ファンの方々、そういうネタバレは止めましょうね―、逆にそれを知っていることで本書が実に注意深く書かれていることに思わずほくそ笑んでしまった。 まずこの棙れ屋敷が愛知県警管轄外の岐阜県にあること。今回なぜ小鳥遊練無と香具山紫子たちは出ずに保呂草と瀬在丸紅子だけなのか? そしてなぜ瀬在丸紅子は西之園萌絵を知っているのか、いや西之園家を知っているのか? それはあと残り2作となったシリーズ作で明らかにされることだろう。保呂草によって綴られたエピローグに書かれた驚愕の事実。それが解るのももうすぐである―だからネタバレは止めようね、森博嗣ファンの方々―。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2016年、『涙香迷宮』で『このミス』1位を獲得した竹本健治氏。それをきっかけに今過去の絶版となった作品や未文庫化の作品が次々と復刊、文庫化されてきている。
そしてその『涙香迷宮』でも探偵役を務めた牧場智久の初登場作が本書である。これと第2作の『将棋殺人事件』、第3作の『トランプ殺人事件』を合わせて「ゲーム三部作」と呼ばれている。 ちなみに私が読んだのは第2作の『将棋殺人事件』の方が先。なぜなら当時そちらが先に文庫で刊行されたからだ。角川文庫のやることはよく解らん。 さて『涙香迷宮』では数々のいろは歌を用いた超絶技巧の暗号ミステリが展開されるそうだが、最初期の作品である本書も題名に掲げているように囲碁の盤面が暗号になっているという凝りようだ。 本書が発表されたのが1980年。その時竹本氏は26歳でまだそんな年齢にも拘らず囲碁に精通している。 第1作の『将棋殺人事件』でも確か詰将棋の碁盤が出てきたように思うが、本書の囲碁の対局場面といい、珍瓏という盤面全体に及ぶ詰碁に鬼の意匠を凝らしたり、また盤面に暗号を隠す、更には2ページのみだが「囲碁原論・試論」と題した囲碁に関する考察論文を挟むなど、テーマに対して貪欲なまでにミステリを加味し、またそれを可能にする深い造詣を持っていることが窺われる。 本書のあとがきによれば大学時代に囲碁研究会にせっせと通い、10級で入部し、大学を辞める時には5段の腕前になっていたとのこと。その代わりに大学5年間在籍して取得単位はゼロというのだから、実に親不孝な学生である。 さて『ゲーム三部作』の第1作目である本書の探偵役は今に続く竹本作品で探偵役を務める牧場智久であるが、この時はまだ12歳ながらIQ208を誇る天才少年で囲碁の天才少年、昭和の小川道的と呼ばれるほどの人気ぶり、さらに周囲が振り返るほどの美少年ぶりというから天は二物も三物も与えたような誰もが羨む理想の探偵役として登場する。このシリーズは彼と姉のミステリ小説マニアの典子、そして彼女が助手を務める大脳生理学者須堂信一郎の3人が主要メンバーとして殺人事件に挑む。 今回彼らが出くわすのは棋幽戦という囲碁のタイトル戦の最中に首なし死体として発見された対局中の槇野九段と神奈川の村で発見された池袋で眼科医院を開業している斎藤敝二殺害事件。一見関係のない2つの事件と思われたが、後者の遺体の首に裂傷があったことから犯人が首を切断しようとしたところを誰かに見つかったため、途中で投げ出したと推理し、2つの事件を結び付ける。しかしこの2人に共通するのは囲碁をしている、その1点のみ。一方は名人。一方は玄人はだしの腕前を持つアマチュア棋士と普段は何の接点もない。こんな細い糸の連続殺人事件の真相は実に意外。 まず本書で驚いたのは12歳の牧場智久が犯人から危害を加えられることだ。あたかも犯人が被害者のように首を切って殺してやろうかとばかりに棋院で居眠りをしている間に首の周りに赤ペンで線を入れられたり、一人残された棋院で犯人に追いかけられたり、また街を歩いているところを犯人に追いかけられ、真夏の廃工場に閉じ込められたりと容赦ない洗礼を受ける。天才少年と持て囃されて殺人事件にまで手を出していい気になるなよという犯人の、いや世間一般の常識からのお仕置きとばかりの仕打ちである。 これはつまり世間の流布する素人探偵が殺人事件に容易に首を突っ込むことに対する警告とも云えるだろう。人の死が介在する事柄は自身もまたその渦中に入ること。つまり犯人を暴こうとする行為はその者自身もまた犯人の標的となり、そして狙われる危険を呼び寄せることを意味するのだ。 こんな死に目に遭うほどの仕打ちは12歳の少年にとってはトラウマになるだろう。これに懲りず探偵役を仰せつかっている牧場智久にとってこのエピソードは今後何か影響を与えているのだろうか? 盛り込まれた囲碁の歴史に残る名人たちのエピソード、ルールを巡った騒動など単にゲームに留まらない囲碁を取り巻く人間模様が実に面白い。 囲碁の正式ルールが昭和24年まで明文化されていなかったとは驚きだった。歴史が深い競技だと思いきや意外と近代囲碁の歴史は浅かったことが解る。それは囲碁が昔から日本人の生活と共に発展してきたことで口伝で、もしくは暗黙の理解的にルールが形成されてきたことを表しているのだが、それ故に地方性が色濃くなり、それぞれのルールが出来たことで統一ルールが必要になったのだ。それだけ囲碁の世界が発展してきたことの証だ。 本書で感心したのは大脳生理学の視点から犯人を解き明かすこと。 実はこれは第2作の『将棋殺人事件』でもなされていたが―すっかり忘れていた―、島田荘司氏が21世紀本格として2000年以来、御手洗潔をウプサラ大学の大脳生理学教授としてこの脳のメカニズムをミステリの題材に持ち込むことに積極的なのだが、既に1980年の段階でそれを竹本氏が実践していることに驚いた。つまり21世紀どこから20世紀に彼は島田氏が積極的に取り込む新しいミステリの先鞭をつけていたのだ。 正直囲碁に明るくない私にとって詰碁や囲碁の知識を謎解きに盛り込んだ本書を余すところなく楽しめたとは云えない。 本書には囲碁はたった5つの原則で成り立っているから実は覚えるのは簡単と書かれているが、その後に出てくる「石の死活」、「月光の活」、「仮生」などなどちんぷんかんぷんだった。 また槇野九段最後の名勝負の碁石の配置の妙味などもその凄さを全く理解できなかった。やはりまだまだ五目並べが私にとっては関の山のようだ。 しかしそれでも本書は上に書いたようにミステリとして小説としてなかなかに面白く読めた。たった1つの碁石で部分的には否とされていた物が全体的に見ることで有と反転する碁の深さは知識がなくとも解る。首を切られたかのように見えた鬼を模した珍瓏が全体を見ることで生を得る。それは即ちたった1つの手掛かりから全てが反転する美しいミステリを見ているかのようだ。それこそが竹本氏が本書でやりたかったことなのだろう。 さて続く第2作『将棋殺人事件』については既に今から約12年前の2006年に読了しているが、既に忘却の彼方だったので当時の感想を紐解いてみたところ、酷評だった。 私の感想によれば幻想小説風味が加えられており、案外文体も凝っていて私の嗜好に合わなかったようだ。大脳生理学者須堂による脳が人に及ぼす弊害によるミステリでもあるのだが、それは高く評価しているようだ。島田氏の21世紀本格として発表された同趣向の作品も同時期に読んでいながらこの評価をしているということはよほど合わなかったのだろう。しかし今読むとまた評価も変わるかもしれない。 とにかくこの須堂信一郎という「ゲーム三部作」ならびにそれに続く短編「チェス殺人事件」、「オセロ殺人事件」、「麻雀殺人事件」のみに登場する探偵には今回改めて興味を持った。この後の『トランプ殺人事件』もまたいつか読むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人間は感情の動物であるとかつて誰かが云った。本書はそんなことを強く思い知らされる作品である。
リンカーン・ライムシリーズ記念すべき10作目となる本書の敵はなんとアメリカ政府機関の1つ、国家諜報運用局(NIOS)の長官。バハマで隠遁中の政治活動家を暗殺した共謀罪で逮捕しようと計画するNY地方検事補のナンス・ローレルに協力する。 さらにコードネーム“ドン・ブランズ”で呼ばれる凄腕のスナイパーも捜査の対象だ。なんと2000メートルという驚異的な距離から標的を暗殺したほどの腕を持つ。 しかしアメリアによればスナイパーの最長狙撃記録は2500メートルらしい。まだ上の人物がいるのだ。 そしてライムたちの捜査の前に立ち塞がるのが殺し屋ジェイコブ・スワン。彼は秘密裡に情報を盗み取る技術に長けている。従って極秘裏に捜査していると思っているローレル地方検事補率いるライムチームの行動は既に筒抜けなのだ。しかも彼らはサックスの3Gのスマートフォンを盗聴し、ライムたちの捜査の先回りをする。 被害者ロベルト・モレノお抱えのリムジン運転手を先回りして殺害し、NIOSの密告者が情報をリークしたメールを送信したチェーン店のコーヒーショップを突き止めれば、先行してプラスチック爆弾を仕掛け、店内の防犯カメラの録画データをパソコンとサーバーごと破壊し、モレノお抱えの通訳を警察を装って訪ね、アメリアが訪問する前に拷問して殺害する。それはバハマでも同様で、事件のあったホテルの部屋はいつの間にか改修工事がされ、ライムたちが捜査を止めるよう、人を雇って脅したりもする。 更にサックス自身にもその魔の手を伸ばそうと尾行を続ける。 ジェイコブ・スワンは貝印の“旬”ナイフ―これはKAIという日本のブランドらしい―を愛用し、殺害対象を一気に殺さず、まず手刀で喉を潰し、声が出せなくなった状態で拘束し、料理をするようにじわりじわりと痛めつける殺し屋だ。料理を得意とする彼はまさに一流の高級料理を調理するが如く、対象者の肉を丹念に切り下ろす。 今回特徴的なのは犯行現場がバハマということで現場捜査を担当するアメリアもすぐには現場に行くことが出来ず、ライムと共に部屋で捜査を担当し、情報収集に徹する。 一方ライムは現場の遺物の情報を得ようとバハマ警察の捜査担当者に連絡を入れるが、これが南国の後進国特有の悠長さと捜査能力の不足から非常に不十分でお粗末な状況であり、全く有効な手掛かりが得られない。現場検証も事件が起きた翌日に成されているため、新鮮なほど有力な情報が集まる物的証拠が失われた可能性が高く、ライムはその捜査のずさんさに悶々とさせられるのである(しかしこのバハマ警察の担当者マイケル・ポワティエの愚鈍さはそのすぐ後に解消されるようになるのだが、それはまた後述しよう)。 このようにいつものように遅々として進まない捜査に読者はライム同様にストレスを感じさせられるようになる。 従っていつものようにお得意のホワイトボードに次々と新事実を埋めていくそのプロセスも滞りがちだ。しかも書かれた情報は人づてに教えられた情報と憶測ばかり。通常のライムシリーズとは異なる進み方で読者側もなんともじれったい思いを抱く。 そんな膠着状態を作者自身も察したのか、ライム自身がバハマに赴くことになる。 前作の『シャドウ・ストーカー』でライムはキャサリン・ダンスの捜査の手助けをするために自らフレズノに赴いたが、今回は更に海外まで進出する。リハビリと手術により指だけだった可動範囲も右手と腕が動かせるようになったことでずいぶんと活動的になったことが解る。 最新型の電動車椅子ストームアローに乗って野外活動に励むライムの進歩は同様の障害に悩む人々にとって希望の姿でもあるだろうし、また最新鋭の補助器具があれば重篤な障害者でも、介護士の補助が必要であるとはいえ、外に出て行動することが出来ることを示している。 優れたアームチェア・ディテクティヴのシリーズだった本書もまた科学と医学の進歩に伴い、その形式を変えようとしているのが解る。 しかし一方で現実はそんなに甘くないこともディーヴァーは示す。バハマ警察の上層部の意向に背いてライムに協力するポワティエ巡査部長と共に独自で捜査するライムたちを暴漢達が襲い、なんとライムはストームアローごと海に放り出されるのだ。 事件捜査という犯罪と紙一重の活動は健常者にも危害が及ぶ。まして障害者にとっては過分なことだと示すエピソードだが、それでもライムは屋外に、数年ぶりに海外に出たことが非常に楽しいようで、これからも外出したいと述べる。それほどまでに日がな一日屋内生活を強いられるのは苦痛だからだ。 ライムはニューヨークの自宅に戻り、新たな電動車椅子メリッツ・ヴィジョン・セレクトを手に入れる。それはオフロード走行機能も付いた機種で今回のバハマ行で外出の醍醐味を占めたライムの行動範囲が今後もっと広がることだろう。 さてこのバハマ行で彼らの有力な協力者となるのが愚鈍と思われていた捜査担当者マイケル・ポワティエ。経験が浅いながらも刑事という誇りを大事に上司の目を欺いてライムたちに協力する。それが上司にバレて異動を命じられるが、ライムの機転によってそれも解消される。ライムがアメリカに招待して自分のチームの一員に加えたいとまで思わせる好人物だ。 しかし一方でライムの手足となり、フィールドワークを担当していたアメリア・サックスは逆に今回のチームに加わった特捜部のビル・マイヤーズ部長から持病の関節炎を見透かされ、更に健康診断の不備により、捜査を外れることを通告される。 ライムの身体能力の向上と反比例するかのようにアメリアの関節炎は悪化してきており、逆に捜査活動に支障を来たす様になってきている。何とも皮肉な話だ。 またナンス・ローレルとライムたちが対峙するNIOSの長官シュリーヴ・メツガーはいつにも増して短気な人物である。自分の意にそぐわなければ怒鳴り散らし、物を投げつける。気分を害しただけでなく、その人物が気分を害するようなことをすると想像しただけで怒りが沸々と沸き起こる、異常なまでの癇癪持ちだ。店で買ったコーヒーが思いのほか熱すぎれば、店に車で突っ込んで営業できなくしてやろうかと本気で思い、軍人時代では自分たちを罵る酔漢を徹底的に傷めつけ、性的な快感を覚える。 従って他の職員は彼の姿を見ると視線を合わせようとしないし、ある者は方向転換をしさえもする。また家族はその怒りに怯え、離婚し、時たま会ってもソワソワし通しといった具合だ。 その怒りを抑えるために彼は沸き起こる憤怒を精神科医のアドバイスに従って具体的な物としてイメージする。その象徴が“スモーク”。かつて中学生の、まだ太っていた頃にキャンプファイアで隣に立っていた女子に煙から逃れるふりをして近づいて話しかけた時に、無碍に断られたことから想起したイメージである。この“スモーク”がメツガーの怒りのバロメーターとなっている。 キングの作品や他の海外作家の作品にはよくメツガーのような怒りを抑えきれない人物、衝動的な怒りに取り込まれ、我を失う人物というのは必ず出てくる。 どうもこのような癇癪を欠点とする人物はアメリカ人にとっては共通の特徴のようだ。テレビでも大きな声で怒鳴る姿をよく見るし、いい大人がテレビの前で怒りに駆られ暴力を振るい、喧嘩沙汰になったりするのを目の当たりにしたこともあるだろう。感情豊かな国民性は逆に怒りに対しても率直であり、おまけにそんな人たちが合法的に銃の所持を認められているのだから、やはり非常に物騒な国だ。 さて相変わらず真相は二転三転、三転四転する。 ただ振り返ってみれば非常におかしい部分もある。さすがにこれはどんでん返しを考えすぎて物語が破綻したとしか云えないだろう。 さらにディーヴァーはどんでん返しを仕掛ける。 価値観の反転はミステリとしては読書の愉悦を味わえるが、実際面としては実に恐ろしいと思わされる。 高度な情報を扱う仕事は常にその情報に隠された意味を考え、判断することに迫られている。しかしそこに感情が加わるとその情報は右にも左にも容易に傾く。それこそが本書のテーマであろう。 これらの人々は共に自らの信条に従い、正しいことをしていると思っていながら、実は好き嫌いという子供の頃から抱く非常に原初的な感情にその判断を左右されていることに気付いていない。そのことが彼ら彼女らをして情報を読み誤り、また読み誤ったと勘違いしたりする。そんな権力を持つ一個人の感情のブレで対象となる人間の生死をも左右されることが実に恐ろしい。 思えば本書は鑑識の天才リンカーン・ライムが現場から採取した証拠という事実だけを信じ、緻密に推理を重ね、論理的に事件を解決するところが魅力であるのだが、その実理屈っぽく終始不平不満を呟くライムの感情っぽいところ、つまり人間臭さがシリーズの魅力でもある。 そしてそのパートナー、アメリアもまたとにかく動き続けることで自分の生を感じ、またライムからそれを求められていることを生き甲斐にしている。そして気に食わない人には容赦なく冷たく当たる。 特に本書では感情の起伏を見せないナンス・ローレルに嫌悪感を示す。ライムの部屋に自分のパソコンを持ってきて仕事をするその姿を見て、自分の居場所の一部を取られたように感じ、その嫌悪感をますます募らせていく。丁寧な言葉が自分をかえって見下しているように感じる。そんな感情の起伏がローレルのアメリアに対する配慮を見誤り、衝突を繰り返すことになる。 そしてまた本書ではライムがバハマに赴いて地元の警察と捜査をしている間、アメリアはアメリカで捜査を続け、その距離がお互いを強く意識し合い、そしていつも以上に求め合うことになる。 緻密な論理を売りにしているこのシリーズは実は人の感情を実に豊かに捉えた作品であることを再認識させられる。またその感情ゆえに生れる先入観が登場人物のみならず読者の感情を動かし、どんでん返しへと導かれていくのだ。 実は本書は人気シリーズの第10作と記念的な作品ながらシリーズ作で唯一『このミス』で20位圏内から漏れた作品だった。ランキングがその面白さと比例しているわけではないとは解っているが、それはこのシリーズの特色である、ある分野に精通した悪魔的な頭脳の持ち主や超一流の技能を持つ殺し屋が登場しないことが他の作品に比べて魅力がないように思われる。 もしライムの敵が超長距離狙撃を完遂させる技能を持った殺し屋だとすれば、いつどこからでも狙撃する恐れがあるというサスペンスが味わえたはずだが、今回は政府機関のNIOSが相手ということもあって情報戦に終始し、いわゆるいつも感じるヒリヒリとした緊迫感に欠けたように感じた。 当時この作品のランキングを見た時にとうとうこのシリーズも終わりが来たかと、どんな作家でもいつかは訪れるアイデアの枯渇、品質の低下を想像した。 しかしその翌年ディーヴァーは復活する。ライムシリーズ次回作『スキン・コレクター』で『このミス』1位を獲得するのである。 確かに本書では上に書いたような不満を抱いたが、まだまだディーヴァーの筆は衰えていないことは既に立証済み。 どんなシリーズにもある谷間の作品として記憶するにとどめ、次作に大いに期待することにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングは過去の短編で機械が意志を持ち、人間を襲う話を描いてきた。クリーニング工場の圧搾機、トラック、芝刈り機など我々が日常に使う機械の、抗いようのない恐るべき力に対する畏怖をモチーフに恐怖を描いてきたが、この『クリスティーン』もこれら“意志持つ機械”の恐怖譚の系譜に連なる作品となるだろう。しかもこれまでは短編であったがなんと今回は上下巻併せて約1,020ページの大作である。
アメリカ人と自動車との関係の深さは日本人のそれよりももっと深いように思える。今でこそ日本車が世界中に輸出され、一大勢力となっているが、フォードが20世紀初頭に自動車の量産化に成功してから、巨大な自動車産業国となった。20世紀からのアメリカ人は自動車と共に成長し、繁栄してきたのだ。 更にガソリンが安いこともあり、広大な国土を持つアメリカを移動するのに、アメリカ人にとって自動車は無くてはならない生活必需品となった。特に日本と違い、アメリカではカーディーラーに行って気に入った車があると、そのまま乗って帰れるほど手軽に買えるようだ。 今までキングが“意志持つ機械”をモチーフに書いてきた物語においてその対象が自動車になるのはそんな背景を考えると必然的であり、そして満を持して発表した作品だと云えよう。ある意味本書は“意志持つ機械”譚のこの時点での集大成になる作品と云えるだろう。 但しそこはキング、意志を持った車が暴れ、人間たちを襲うと云った陳腐な展開をしない。このクリスティーンと名付けられた1958年型の赤と白の2色に塗り分けられたプリマス・フューリーがその本性を表し、人間に牙を剥くのは上巻の490ページの辺りだ。そこまでの展開は寧ろ少年と車との運命的な出逢いという少々色合いの違った話で物語は進む。 何の前知識もなく、最初にこの作品を読んだ時、これはトップの5%圏内に入るほどの頭を持ちながらも、優等生グループにも入れない、スクールカーストの最下層に位置する17歳の少年アーニー・カニンガムが1台の古びた車と出遭うことで負け犬的人生を変えていく物語であると思うに違いない。彼の自動車のメカに関する優れた知識は天からの授かりものになるだろうが、彼が出遭う58年型のスクラップ同然のプリマス・フューリー、愛称をクリスティーンという車もまた彼の人生を変える天からの授かりものになる。 そのおんぼろ車を自身で少しずつ再生していくうちにいわゆる負け組に属していたアーニーもまた生まれ変わっていく。ピザ顔とまで呼ばれていた吹き出物でいっぱいの顔は次第に綺麗になり、男ぶりも増していく。更に以前よりも度胸が増し、町の不良たちに絡まれても一歩も引かないようになる。更には学校で評判の美人の心も掴み、恋人にすることに成功する。 一人で一台の車を再生することが即ち彼の人生を再構築させていくことに繋がっていく。これはそんな一少年の人生を変えていく青春グラフィティなのだ。 また一方で主人公のアーニーが車中心の生活になっていくことで家族や親友との軋轢が生まれる。クリスティーンに一目惚れしたアーニーは少しでも早くその車を再生させ、走れるようにし、自分のパートナーとすることに執着する。しかしそれは親友であるデニスと過ごす時間が少なくなること、そして両親の懸案を増やすことになる。 大学進学のための貯金は目減りし、上位だった成績も下がっていく。大学講師である両親は自分の息子がいい大学に進学することを望んでおり、自動車の整備に執心して学業や疎かになる息子に不安と不満を抱く。 それらはいつまでも続くだろうと思われた友人関係、親子関係が、実は幻想であり、いつかそんな安定した関係が終わるその時が、アーニーとクリスティーンとの出逢いなのだ。 親友のデニスは子供の頃から一緒だったアーニーが、それまではフットボールの選手でそれなりにモテていた自分の引き立て役のように見えていた親友が、古びれた車をたった一人の力で再生し、そしていつしか犯罪者のような自動車整備工場のオーナーとも信頼関係を築き、更には不良グループにも一歩も引かない度胸を身に着け、終いには学内一の美人と付き合うようにもなり、それに羨望と嫉妬を覚える。 親は子供が自分の手を離れ巣立つことがまだ少し先のことだと思っていたが、実はもう息子はその時を迎えていたことを知らされる。今まで自分の云う通りに従っていた息子がだから車のことに関しては強く反発し、一歩も引かないことに驚きと失望を覚える。一方父親は夜、彼の整備した車でドライヴし、父と息子だけの男同士の対話をし、息子の成長を認めつつ、父として忠告をする。 アーニーの成長を通して変わりゆく生活の変化をそれぞれの心情を交えてキングは訪れるべき変化の時を鮮やかに語る。 それもただ彼の修理する車クリスティーンが命ある車であることを除けばのことだ。 キングが他の作家と比べて一段優れているのは、通常の作家ならば子供の成長時期に訪れる親子と親友との変化のキー、メタファーとしてスクラップ同然の車の修理の過程を使うのに対し、キングはその車自体をも生ある物、持ち主に嫉妬するモンスターとして描いているその発想の素晴らしさにある。 物に魂が宿るのは正直に云って子供の空想の世界だろう。女の子は人形を生きている自分の妹のように扱い、男の子は車の玩具やロボットの玩具に生命があるかのように自ら演じて興じる。 そんな子供じみた発想もキングの手に掛かれば実に面白くも恐ろしい話に変るのだから驚きだ。 更に『恐怖の四季』に収録されているキングの自伝的小説「スタンド・バイ・ミー」で培った青春グラフィティストーリーの手法が、見事に合わさっている。 どこをどうやって考えてもこの異質な2つの成分が合わさるようには思えないのだが、これがキングの手に掛かると実に見事に融合し、奇妙な味わいを持ちながらもほろ苦さを感じさせる小説へとなるのだから実に不思議だ。 さて物語がアーニーの思春期の通過儀礼とも云える親からの自立と反発というムードからホラーへと転じるのはクリスティーンがアーニーを目の敵としているバディー・レパートンたち不良グループにスクラップ同然にさせられるところからだ。そこから前の持ち主であるルベイとアーニーは無残なクリスティーンの姿を見て同調し、以前より増して2人の魂の親和性は強まり、アーニーはルベイの憑代となっていく。そしてクリスティーンもその怪物ぶりをようやく発揮し出すのだ。 そこからのアーニーとクリスティーン=ローランド・ルベイの独壇場だ。 最初は無人の状態で復讐を成していたクリスティーンだが、やがて亡くなった前所有者のルベイの屍が具現化して現れてくる。そこでようやく本書は『呪われた町』、『シャイニング』などのキング一連のモンスター系小説の系譜に連なる作品であることが解るのである。それは本書の献辞がジョージ・ロメロに捧げられていることからも解るように、ゾンビをモチーフにした怪奇譚であるのだ。 ところで今回キングは2つの叙述を使っている。まず第一部は主人公アーニーの親友デニス・ギルダーの一人称叙述で語られるが、第二部は三人称叙述、そして最後の第三部は再びデニスの一人称叙述に戻る。 まずこれは語り手であるデニスが途中フットボールの試合で重傷を負い、入院してしまうことからアーニーと一緒にいる時間がなくなるためであるが、このアーニーとデニスがしばらく疎遠になることがクリスティーンとアーニーの親和性を高めることになり、つまりアーニーが破滅への道を辿っていくのに大いに拍車がかかることになる。 つまりこれはデニスこそがアーニーが狂気に至る、いやクリスティーンに憑りつかれていくことを防ぐ護符のような役割を示しているように思える。 それを示すかのようにデニスが再びアーニーと対峙する第三部ではクリスティーンに魅せられ、そしてその前の所有者のローランド・ルベイの亡霊に憑りつかれ、性格どころか人格までもが変わっていくアーニーがルベイとクリスティーンの支配に抗って自分を取り戻そうとする。理解ある親友こそが墜ちていく自分を取り戻す最後の砦なのだ。 これは怨霊に憑りつかれたアーニーだけに限らず、我々の人生にも関係する部分でもある。自分の人生に躓いた時、支えとなってくれる存在を1人は持つこと。それを描くのにこの3部構成は必要だったのだ。 そういう意味では物宿る怨霊によって自分が自分で無くなっていくアーニーの姿は昔からある幽霊譚の1つのパターンであるが、また一方で私はこのアーニーの変化については我々の日常において非常に身近な恐怖がテーマになっているように思える。 例えばあなたの周りにこんな人はいないだろうか。 普段は温厚でも車を運転している時は人が変わったようになる、という人だ。それはある意味その人の意外な側面を表すエピソードとして、時に笑い話のように持ち出されるが、ある反面、これはその人の二重性が露見し、またそれを他者が目の当たりにする機会でもある。そしてその変貌が極端であればあるほど、それも恐怖の対象となり得る。 つまり本書の恐怖の根源は実は我々の生活に実に身近なところに発想の根源があるのではないかと私は思うのだ。 これはあくまで私の推測に過ぎないのだが、キングがこのエピソードを本書の発想の発端の1つにしていたのは間違いない。なぜなら同様の記述が本書にも見られるからだ。 上巻の406ページにアーニーがこの車に乗るとなぜか人が変わったようになると書かれている。そのことからもキングが本書を著すにこんな身近で、どちらかというとギャグマンガの対象になるような性格の変貌―マンガ『こち亀』に出てくる本田のような―を恐怖の物語のネタとしたであろうことは推察できるし、そのことからもキングの非凡さを感じる。 人の物に対する執着というのは物凄いものがある。 例えば私は読書が最たる趣味なのだが、気に入った作家の本は是非とも前作、それも発表順に読みたいと思うので、一時帰国のたびに古本屋に出向いては求める本がないか探している(家族はもうそれが当然のこととして諦めてくれているのが有難いが)。 私の場合はある1点物に対する執着ではないので、クリスティーンに対する執着とは性質が違うとは思うが、古来死者が生前愛でていた物に所有者の情念が宿るという怪奇譚は枚挙にいとまがない。その対象を58年型のプリマス・フューリーという実に現代的なアイテムに持ち込んだことにキングの斬新さがあると云えよう。 既に述べたが、自動車愛好家たちにとって本書の車に対する執着の深さは頷けるところが多々あるのではないだろうか。自動車産業国アメリカが生んだ意志宿る車による恐怖譚。 しかし車に対する愛情の深さはアメリカ人よりも深いと云われる日本人にとっても無視できない怖さがあった。たかが車、そんな風に一笑できない怖さが本書にはいっぱい詰まっている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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デビュー作である奇想天外な歴史観を綴った連作短編集『邪馬台国はどこですか?』を読んでその面白さを堪能し、その後読んだのは古事記を下地にした鯨版古事記伝の2冊と、異色の近未来小説『CANDY』と、どこかキワモノ感が濃い鯨作品を経て、読んだ本書は比較的まともなミステリであったことにほっとした。宮沢賢治の諸作と生涯をモチーフにした誘拐ミステリである。
私が抱いていた宮沢賢治は死後評価された童話作家・詩人というイメージで、有名な『雨ニモマケズ』の詩のイメージから朴訥かつ誠実な、清貧の人と思っていたが、それは全く違った。 質屋の息子として生まれ、裕福な暮らしをしながら、一方でそんな人に借金をさせて取り立てて生計を立てている父親の仕事を忌み嫌っていた。その明敏な頭脳で鉱石の研究から農業指導者、学校の先生に童話作家と様々な分野に手を伸ばし才能を発揮する。しかし農業指導では農家の有機肥料の設計書を無償で作成して渡したり、羅須地人協会なる農民のための勉強会を開いて土壌学、肥料学、植物生理化学から宇宙論にエスペラント語などを無料で教えていたりしていた。更に右翼に傾倒したり、浄土真宗の父親に対抗して熱心な日蓮の法華経信者になったりと特に父親に対しての反抗心が強い一方で逆に東京に出てからは宝石商を始めるために忌み嫌っていた父親から金の無心を何度もしていたというかなり矛盾の孕んだ人物である。 また禁欲主義者で、特に抑えきれない性の衝動と戦っており、代表作『春と修羅』は春、即ち回春、売春といった性欲との戦い、“修羅”をテーマにしているとの解釈がなされる。性欲を抑えるために童話を次々と書いていったが、晩年は禁欲主義は誤りだったと認めている。 そんな宮沢賢治の暗黒面がつぶさに描かれていく。 本書では宮沢賢治とは自分の理想と常に戦っている人と読み解かれる。父からデクノボーと呼ばれ、そのことを自覚しながら、不器用ながらも正直で誠実でありたいと書いた『雨ニモマケズ』は実はデクノボーである自分を讃えた詩であると解釈され、そして父親の強欲に対抗しながらも父のお金に頼る、禁欲と戦いながらも最後はそれを後悔する、童話を次々と発表するが世間には認められない、といった具合に常に内なる自分と戦いながらも結局敗れていった男なのだ。 明晰な頭脳で色んな分野に深い造詣を持ちながらもそれを活かさないばかりに不遇に見舞われた天才。その溢れる才能の使い道を間違った男というのが生前の宮沢賢治だろう。 今や国民的詩人、国民的童話作家と評されているがそれは彼の死後のこと。今なお彼の諸作が読み継がれ、信奉者を生み出していることから最終的にはその才能の使い道は間違っていないようだったが、当時生きていた宮沢家誰一人知らない事実である。 そして思うのはそんな多才ぶりを発揮するほどに昔の人は斯くもよく働いたものだということだ。常に知識に対して貪欲でそれを人に啓蒙することに情熱を燃やす宮沢賢治の意欲たるや、寝る時間をも惜しんで生きていた、そんなヴァイタリティに溢れている。 タイトルにある隕石は宮沢賢治が知っていたとされる七色のダイヤモンドの鉱脈は隕石ではないかという推察による。つまり隕石が持っているだろう幻のダイヤモンドを巡る誘拐事件、隕石誘拐というわけである。隕石から採れる鉱石・宝石は実際にあるようで、本書も一概に夢物語と一蹴できない真実性を孕んでいる。 その誘拐のターゲットにされる中瀬稔美の境遇はなかなか同情すべきところがある。 山師の父親に育てられ、上京して就職した損保会社で中瀬研二と社内恋愛の末、結婚し、主婦業に専念するが、突然童話作家になりたいと夫は会社を辞め創作講座にアルバイトをしながら通う。勿論それだけでは生計が成り立たないからSOHOでホームページ作成などを行っているが、生活は苦しく、下着も変えずにすり切れてボロボロになった物をずっと使っている。しかしその容姿は周囲が振り返るほど美しい。 そんな毎日に嫌気が差し、夫とは口論が絶えない。そんな中、宮沢賢治を信奉するカルト集団に拉致され、監禁され、潜在意識下に刷り込まされた七色のダイアモンドの在処を打ち明けるよう強要され、拉致グループにクスリを打たれ、レイプされてしまう。 ここまで書くと中瀬稔美の境遇には憐みを覚えてならないが、数々の薬を打たれ、性の奴隷に堕しながらも人一倍強きな性格で、どこかあっけらかんとした明るさを保っている不思議なキャラクターである。 そんなどこかエロティックで艶めかしい展開は昔の土曜ワイド劇場のような俗物的サスペンスドラマを彷彿させる。 その一方で稔美を拉致する十新星の会の面々は宮沢賢治を信奉し、<オペレーション・ノヴァ>というアルミニウムを摂取させることで全国民にアルツハイマー病にし、痴呆化を図り、日本全国民を支配下に置くという、秘密結社物のテイストもありと、なんともいびつな設定の下で物語が進んでいく。 いびつと云えば主人公の中瀬研二を助ける面々もまたいびつだ。 彼の隣人で妻稔美にコンピュータの扱い方を教えていた在宅勤務の児玉恭一、中瀬と同じ創作童話講座に通う白鳥まゆみは宮沢賢治に詳しいがゆえにメンバーに加わるが、夫を別れる決意をし、一方で中瀬研二に惚れている。 高校時代の同級生でフリーライターの伊佐土茂は昔中瀬の妻稔美を取り合った仲であり、稔美の窮地に助太刀を買って出る。 そしてもう1人の藤崎優次郎は昔からケンカが強く、今は武術の達人で忍者ショーの忍者を演じるほどの運動神経の持ち主で手裏剣で敵を攻撃する腕前を持つ。彼は中瀬の窮地に仕事を辞してまで協力する。 つまり中瀬を中心に隣人、片想いの女、かつての恋敵、そして仁義に厚い忍者と、通常ならば考えられないメンバー構成で話が進む。 本作が発表されたのは世紀末の1999年。つまりこのような世間に不安感が漂っている時代にオウム真理教に代表される新興宗教が蔓延っていたように、本書もそんな宮沢賢治を信奉し、国民総痴呆化を企むカルト集団による犯行というのは今読めば荒唐無稽だと思われるが、当時の世相を実は如実に反映した作品であると云える。 特に童話作家、詩人として名高い宮沢賢治の諸作を紐解くことで内なるコンプレックスを読み解き、そこから彼を神と崇める<十新星の会>なる狂信集団を案出したアイデアは鯨氏ぐらいしか思いつかないものではないだろうか。 誘拐物でありながら、宮沢賢治の文献から隠された秘宝の在処を読み解く冒険小説的妙味、さらに秘密結社による日本征服計画、そして拉致された人妻の凌辱劇とサスペンスにアドヴェンチャーにオカルトにエロと思いつくものをどんどん放り込んで物語を作った鯨氏の離れ業。その全てが調和し、バランスを保っているとは云い難いがこのような芸当に挑んだ鯨氏のチャレンジ精神は評価に値するだろう。 もう1つ忘れてはならないのは夢を追いかけて家族に貧乏を強いた夫婦の不和からの再生の物語であることだ。現在単身赴任中の我が身に照らし合わせても思うのだが、案外夫婦は距離を置くことでお互いの存在に改めて思いを馳せ、そして大切さに気付かされるのだ。いつも一緒にいると、やはり人間同士、どこか疲れて嫌なところばかりが目に付くようになる。中瀬夫婦のように誘拐されるような事態はごめんだが、離れることで絆が深まる気持ちは実に今ならよく解る。 そしてやはり鯨作品の妙味は過去の文献、史実から読み解かれる鯨流新事実の開陳にある。 本書で描かれる我々の知らない宮沢賢治の世界は本書のサブタイトルにあるようにまさに迷宮である。自由な発想と突飛な設定。次回もこの作者独特の物語を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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とある国立大学の工学部建築学科の、建築材料を専門としている、どっかで聞いたことのあるような水柿助教授が出くわす、日常の謎系のミステリ短編集。
「ブルマもハンバーガも居酒屋の梅干しで消えた鞄と博士たち」は水柿助教授が奥さんの須磨子さんとの会話、そして学会出席のために訪れた金沢で起きたある出来事について語るミステリである。 例えばまずブルマの謎は家の地区にある中学・高校一貫教育の私学、S女学園がこのたびブルマを廃止して短パンにしたことについて奥さんとの間に齟齬が生まれる話であり、ハンバーガの話は2つ買ったはずのハンバーガが家に帰るといつの間にか無くなっていたという謎、出張先の金沢で学生たちと入った居酒屋では呼んでもいないのに注文を取りに来る店員と逆に呼出ボタンを押したのになかなか店員が来ない奇妙な状況について語られ、梅干しは水柿助教授の上司、高山教授が昔ホテルで起こしたロビーに梅干しを散乱させた顛末が語られる。そして最後の消えた鞄は高山教授の鞄がホテルの部屋から忽然と姿を消した謎のことだ。 そのどれもがミステリの謎としては実に弱く、例えばブルマとハンバーガの件はミステリにもなっていないネタだ。 とまあ、実に散文的な話で、誰かの一人語りのような地の文からしてまだ当初は連作ミステリとして書かれることを想定していなかったようにも取れる内容だ。とりあえず書いてみて、また機会とネタがあれば続きを書いてみるか、そんな具合の、イントロダクション的作品。 第2話「ミステリィ・サークルもコンクリート試験体も海の藻屑と消えた笑えない津市の史的指摘」は水柿君がまだ三重県にあるM大学の助手だった頃の話で物語の舞台は題名にも謳われている津市である。 本作でも色んな謎となり得るエピソードが書き連ねてあるが、メインの謎は水柿君が修論のテーマにしていた鋼繊維補強コンクリートの試験体を使っての海水暴露実験がなぜ成功しなかったかというものだ。 海の近くに旧水門跡に置かれた試験体は嵐の日にそのまま海に流されてしまったが、大学の研究等の屋上にも置かれた100個もの試験体が無意味になるという事件が起こる。 その他学校の実験室の前にある空き地に突如現れたミステリィ・サークルの謎、はたまた好立地の水柿君の借家の家賃がなぜ破格に安かったのか、そんな大小、いや小さな謎が散りばめられている。 因みに本作のテーマは物理トリック、化学トリックとのこと。訊いてみれば他愛のないことだが、上の謎を提示された時に、この他愛のない真相に気付いた人はどれだけいるだろうかと森氏は投げかけている。 そうそう、酒豪の高山先生がいきなり生徒の目の前で自転車に乗ったまま消え失せたトリックはすぐに解りました。同じような風景を私も見たことがあるので。 はてさて困ったことにここに書かれているのは微罪や重罪にもなる犯罪の証拠だ。 しかし最後に森氏は書いている。あくまでも、これは小説なのだと。ウソつけ! とここまではどうにかミステリ風味が施されていたが、次の「試験にまつわる封印その他もろもろを今さら蒸し返す行為の意義に関する事例報告及び考察(『これでも小説か』の疑問を抱えつつ)」にはそのミステリ風味すらなく、水柿君が試験担当になったそれらにまつわるエピソードが語られる。 試験と云っても色々ある。通常の中間・期末試験、センター試験、そして二次試験。大学側の人間である水柿君が体験したそれらの試験で割り触られる諸々の役割、担当についてのお話だ。 試験の監督官になった時は大勢の受験者が思っている以上にカンニングしている様子が手に取って解ること、大学入試の監督官は事前に予行演習があり、ありとあらゆることを想定してケーススタディが行われていること。しかしそれでも想定外の事態が起こること。 試験監督者には2種類あり、教室で問題用紙の配布と監視を行う役ともう1つは控室で待機し、いざというときに出向く役があること。 採点委員というのがあり、試験問題の解答を作ることが要請されたり、また受験者たちの回答用紙を採点するが、筆記問題では回答の妥当性について話し合ったりして配点を決めたりすること。 そして問題作成委員があり、試験問題を作る役割があること。これは6月から始まり、決して秘密厳守でいなければならないこと、等々、我々一般人の多くが体験する大学受験、定期試験にまつわる、学校側のエピソードのそれらは、誰もが受ける側として経験しているのに試験を出す側のことは解らないものだなぁと案外面白い。 特に奇妙な受験者の話はどこまでが本当なのかと目を疑うものもあった(試験中に暑いといって服を脱ぎ出し、下着になって受けようとするのを止められて別室で受けたのは作戦だろうか。また着ぐるみを着ないと受験できない受験者はカンニングを隠すためなのでは?などと考えるのも面白い。私が()の中でこのように語るのは本作が故意にこのように演出している影響なのかもしれない)。 他には案外カンニングが成されていることに驚く。大学の先生というのはいい加減で、試験中に自分の論文を書いたりする先生や助手もいるようだが、自分の大学にもそんな人はいたかしらと思い出してみれば、確かにひたすら読書をしている教授がいたような記憶がある。堂々とノートと教科書を持ち込んでいい試験もあったりするらしいが自分の時はなかったと思う。 あとは現国の長文読解の問題の長文に妙に読み耽ってしまう、なんてあるあるネタは思わず同意してしまう。私は志賀直哉の「出来事」がいまだに印象に残っている。 だがしかし、全然ミステリがない。ほとんどエッセイである。「これでも小説か」と思わず自分で書くほどに何やら奇妙な話である。 更にミステリ風味は薄まっていく。次の「若い水柿君の悩みとかよりも客観的なノスタルジィあるいは今さら理解するビニル袋の望遠だよ」では若かりし頃の水柿君と妻須磨子との新婚時の話が出てくる。 今の妻須磨子さんが7番目に付き合った女性であること、それまでに付き合った女性のエピソードも語られる。その中の1人は大手貴金属商の娘で大金持ち。それがS&Mシリーズの西之園萌絵のモデルらしい。 更に合コンのエピソードにそれにまつわる大学の研究室のおかしな面々の話、そして須磨子との新婚の話が語られる。これらはもはや水柿君=森氏の懐かし話である。ミステリとしては先輩の鞄が合コンの夜、大学付近の歩道の真ん中になぜか置かれていたという謎が提示されるが、これが実話らしく、結局その原因は解らない。 最後の「世界食べ歩きとか世界不思議発見とかボルトと机と上履きでゴー(タイトル短くしてくれって言われちゃった)」では森氏、もとい水柿君の出張にまつわるエピソードに触れられている。 海外でも模型屋によることは欠かせなかったり、自分のお土産はすぐ開封するのに、妻への土産は1週間も放置したままだったり(こんなことあり得る?)、はたまた学校にまつわる全国の不思議事が紹介されたりしているが、もはや雑談と化している。 これら5話を通じて思うのは本書は森氏による、ちょっとしたミステリ風味を加えた自伝的小説なのか(これは反語表現である)。某国立大学工学部建築学科の水柿助教授はそのまま森氏に当て嵌まりそうな人物像である。 何しろ専門が建築材料であり、模型工作を趣味とし、読書とイラストを趣味にしている奥さん須磨子さんがおり、更に後々ミステリ作家になってデビューすることまでが1話目から語られるのだ。 これほど作者自身と類似した設定の人物は他にないのではないか。そして話が進むごとにミステリ風味も薄まり、どんどん水柿君と森氏が同化していく。 つまり本書は自分の教授生活の周囲で起きる出来事や見聞きしたエピソードの類を盛り込み、時々それらのエピソードに日常の謎系ミステリの味付けを加えた小説なのだ。 しかしその内容は、思いつくまま気の向くまま、取り留めのない日々雑感と云った趣で、建築学科の助教授水柿君の日常に起こっていることにミステリの種は結構あるんじゃないの?と書き連ねている体の話である。 しかしその傾向は正直第2話までで、第3話からはどんどん内容が水柿君の内側に、過去のエピソードに潜っていく。それらはミステリでは無くなり、本当に水柿助教授の日常話になってくるのだ。それは作者も確信的で最終話ではミステリィと見せかけてどんどんミステリィ風味を薄めていく、そういう「どんでん返し」を仕掛けていると述べている。 そして作中作者は事あるごとに「これは小説だ」、「これはフィクションだ」と述べているが、嘘つきが「嘘はついていない」というのと同様の信憑性しかない(と作者自身も書いていたような)。 つまり本当のことを語りつつ、それらの中には未だ事項になっていない軽犯罪、微罪、そして重犯罪になり得る危うさを孕んでいるからこそ、そのように作り話だと主張しているようにも取れる。その割に固有名詞が多く、イニシャルもほとんど本当の場所が特定できるほど安易な物であるのだが。そのあまりの自由闊達ぶりに正直苦情など来ていないのだろうかと思ったり。特に津市に関する記述はここまでこき下ろして大丈夫なのだろうかと無用の心配すらしてしまう。 やはりこれは水柿君の日常としながら、これらは全て同じN大学の建築学科の教授である作者自身が助手、助教授時代に経験した大学生活の思い出話、エピソード集なのだろう。従って水柿君の日常は「すべてが森になる」のだ。 ファンならば水柿君を通して森氏の過去が垣間見れるエピソードを愉しめるだろう。 しかしそうでない者にとっては文体、構成含め、単なる作家の悪乗りにしか取れない。この時期はS&Mシリーズで確固たるファン層を築き、そして続くVシリーズも好調で、おまけにブログも閲覧者数が凄かったから、何を書いても許されるだろう、何を書いても売れるだろうと思っていたのではないか。しかし書く方も書く方だが、それを許し、出版した幻冬舎の商業主義丸出し感にも腹が立つ。 既に本書において三部作構想も書かれており、恐らくは冗談だったのだろうが、それは形になっている。つまりこの後2つも続編が書かれたということはこの作風が世間に受け入れられたことだろう。商業ベースで成り立ったということである。 そう考えると作品の質よりも信奉者を作れば、その作者の全てを知りたいと思う読者が日本にはいることを示している。斯く云う私も注目作家の作品は全て買う、読む気質で、無論続編の2作も購入済みなので何も云えない立場なのだが。 小説ともエッセイとも判断しかねる奇妙な本書。従って読み方についてはかなり戸惑ったが、このテイストであることが解った今、次作からはそれなりに愉しめるかもしれない。 あくまでそれなりに。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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作者と同姓同名の登場人物が登場する有栖川有栖氏のシリーズ作品は、その趣向の祖であるエラリー・クイーンと同じくクイーン信奉者で同趣向をシリーズキャラクターにしている法月綸太郎氏と異なり、探偵役は作者と同姓同名の人物ではなく、別の人物が務める。それはデビュー作『月光ゲーム』で登場した英都大学の学生有栖川有栖が登場する、いわゆる学生アリスシリーズでは推理小説研究会の部長江神二郎であり、もう1つが本書がその第1作となる推理作家有栖川有栖が登場するシリーズ、作家アリスシリーズの、臨床犯罪学者の火村英生である。このシリーズはそのまま探偵の名で呼ばれているようだ。
このシリーズは先に文庫書下ろしで出版された2作目の『ダリの繭』を先に読んでいたので、前後したが、これでようやくシリーズの最初から触れることが出来た。 1作目であることから有栖川有栖の自己紹介、火村英生の氏素性、そして2人が出逢ったエピソードなどが語られている。本当に久しぶりの有栖川作品だったので『ダリの繭』に書かれていたかどうかも定かではないが、このシリーズでは有栖川有栖が本名であること(因みに有栖川の姓は日本に1世帯だけ。このことを知っていたら本当にこの設定にしただろうかと訝しむが)、元印刷会社に勤めていたサラリーマンで脱サラして専業作家になったこと、火村英生の肩書、臨床犯罪学者という呼称は有栖川氏の造語であること、2人の出逢いは英都大学学生時代で講義中にミステリの賞への応募作への執筆をしていた有栖川の作品を偶々横に座っていた火村が勝手に読み始め、授業後もその後を続きが気になると云ってそのまま一緒に昼食を食べたのがきっかけであったことが語られている。 この時のアリスが学生アリスシリーズと同設定なのかはまだほとんど2つのシリーズ作品を読んでいない私には不明だが、学生アリスシリーズで江神と学生時代の火村が邂逅するシーンは今後あるのだろうかと期待をしてしまう設定ではある。 そんなシリーズ第1作は日本ミステリの巨匠の別荘に新人の推理作家と担当編集者が訪れ、一堂に会するという何とも既視感を覚える設定で、そして「日本のディクスン・カー」、「密室の巨匠」と称されたその作家の別荘で密室殺人が起こるという本格ミステリの王道を行くシチュエーション。さらにその場所は北軽井沢という寒冷地。嵐の山荘物の様相を呈しているが、流石にそこまでの孤絶感はなく、警察も事件に介入する。 まず推理作家の面々がベテラン推理作家の家に集まる設定から想起されるのは私が読んでいる中では綾辻氏の『迷路館の殺人』だ。あれは家の中が迷路になっており、その中で創作活動を行って師匠であるベテラン推理作家が最も優れた作品と認めた者に遺産の半分を相続するという特殊な状況であったが、本書はそこまで特別な状況ではなく、恒例のクリスマス・パーティーに招かれた若手推理作家と担当編集者がそこで起きた密室殺人事件に巻き込まれる、と実にオーソドックスだ。 まずやはりこの推理作家の巨匠という設定は、本格ミステリをこよなく愛する有栖川氏にとって自身ミステリの知識と興趣をふんだんに盛り込むために用意されたような趣で、作者の夢と理想が散りばめられている。 現在日本のミステリは英訳の他にも各国の言葉に翻訳されて紹介されて好評を得ているが、本書が発表された1992年当時は勿論そんな状況は願うべくもなかった。しかしここに出てくる真壁氏の諸作は英訳されて英米に出版され「日本のディクスン・カー」の称号を頂いており、その名を証明するかのように23の長編全てが密室物と32の短編中22編が密室物とこれまで45本の密室ミステリを書いているという設定だ。 まず世界において「ディクスン・カー」と称されるほど、世界のミステリ界でカーの名が今なお喧伝されているかはかなり微妙でここはまさに有栖川氏の古典ミステリ好きが起こした勇み足のように思えて、思わず苦笑してしまう。 そしてその密室の巨匠が次の作品を持って最後の密室ミステリにすると宣言してから密室殺人が実際に自身の別荘で起きる。それこそは彼が最後の密室ミステリとすると述べていた最後のトリックなのか、つまり「46番目の密室」なのかというのが本書の設定であり、また題名の意味でもある。 そしてその事件を皮切りに表面上は普通に接している彼らの間に男女関係の縺れが実は隠されていたことが判明し、次第にドロドロとした雰囲気を伴ってくる。 まず独身のまま命を絶つことになった別荘の主で推理小説の巨匠真壁聖一の女性遍歴が彼ら彼女らの関係にある翳を落としていると云えよう。 推理作家の高橋風子と男女の関係だったこと、そしてブラック書院の担当編集安永彩子を単なるお気に入りの担当者以上の好意、もしくは関係があったかもしれないこと、そして後輩作家の石町と安永が交際していることを知らされて、嫉妬心が芽生えたこと、石町は実は安永と真壁の関係をそれとなく知っていたかもしれないこと、更に担当編集者の杉井の元妻との間にも男女の関係があり、それが原因で杉井は元妻と離婚したこと、と彼を中心に男女関係の縺れが露見していく。 それに加えて妹の佐智子が多額の負債を抱えた実業家と付き合っており、真壁の資産を目当てにしていたかもしれないこと、そして真壁の遺産はその娘の真帆に相続されることが決まっていることなど金に纏わる諍いの種も次第に解ってくる。 つまり全ては別荘の主、真壁聖一に対して有栖川と火村を除く全ての関係者が何らかの問題を抱えていたことが判明していく。密室の巨匠、日本本格推理小説の先駆は人格的にはなんとも問題のある人物だったのだ。 そしてそれはそのまま真相に繋がる。 私がここで面白いと思ったのはこれはいわゆる雪の足跡トリックの変奏曲であることだ。 セロテープとテグスによって掛けられる掛け金のトリックについては昔山村美紗氏が数多く考案され、もはや化石とみなされている「糸と針金のトリック」と揶揄される機械的なトリックであることは有栖川自身も自覚的で、作中でも「お前がそんなトリックを小説で使えば四方八方から石が飛んでくるんだろうが、」と火村の口から云わせている。 しかし私はこれこそ古今東西の本格ミステリを読んできた有栖川氏のミステリ愛ゆえのトリックだと感じる。彼は廃れゆく、この「糸と針金のトリック」を敢えて復活させたかったのだと。だからこそ探偵役の火村に上のように云わせてでも、敢えて採用したのだと思うのだ。 だからこそだろうか、本書にはまだ若かりし頃の本格ミステリに対して無限の可能性を信じて止まない有栖川氏の本格ミステリへの理想と夢が随所に込められているように思える。 まずやはり冒頭の真壁聖一の存在。世界に認められた日本本格ミステリの巨匠というのは日本の本格ミステリが世界にいつか通じるだろうと信じ、そんな未来を夢見ていた有栖川氏の理想の存在、いや自身が目指すべき目標であるように思える。先にも書いたがそれは現在実現しており、アメリカのエドガー賞に日本のミステリがノミネートされるまでになっている。 次に真壁氏が次の密室物を最後にまだ見ぬ「天上の推理小説」を書くと云った件だ。 これこそ有栖川氏自身の未来への宣言ではないだろうか。 「新本格」という目新しい呼称で十把一絡げに括られているまだ駆け出しの本格推理小説家ではあるが、いつかはかつて書かれてことのない物語を書いてみせる、といった若者の主張のように思える。そして今なお精力的に本格ミステリを著しては発表し、年末のランキングに作品が名を連ねている現状から見ても、この時抱いた有栖川氏の、高みへと目指す心意気はいささかも衰えていないように思える。 巷間に流布する既存のミステリとは異なる次元に存在する天上の推理小説。有栖川氏の定義する天上の推理小説をいつか読みたいものだ。 そして最後はやはり犯人だけが見た、真壁氏が遺した最後の密室「46番目の密室」だ。 犯人は云う。それは「まるで世界が、世界を守るためによってたかって一人の人間を抹殺するかのようなもの」だと。 これもまた有栖川氏が抱く、いつか書くべき最後の密室ミステリなのではないか。そんなミステリを読んでみたいと彼は思い、そして出来れば自分で書いてみたいと思っているのではないだろうか。 と、このようにデビューしてまだ3年の時に書いたこの作家アリスシリーズには本格ミステリ作家となった有栖川氏の歓びとミステリ愛と、そして野心が込められている、実に初々しくも若々しい作品なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これはいわゆるよくある記憶喪失物のミステリを最新の脳医学の知識と技術の方向から光を当てた、島田氏の持論である21世紀ミステリを具現化する作品である。
島田荘司氏が特に2000年代に入って人間の脳について興味を持ち、それについて取材を重ね、次作のミステリにその最新の研究結果を盛り込み、21世紀本格ミステリとして作品を発表しているが、本書もその系譜に連なる作品で、タイトルが示すように幻肢、つまり実在しないのに恰も実在しているかのように感じられる欠損した手足の存在を足掛かりにそれが引き起こす脳の仕組みを解き明かし、そして最新の医療方法によって、失われた記憶を呼び覚ましていく。 まずこの幻肢、つまりファントム・リムよりも幻痛、ファントム・ペインとして以前より知られており、私も興味があったが、本書ではその幻痛、いや現在では幻肢痛と呼ばれるこの現象についても最新の研究結果が盛り込まれており、大変興味深く読むことが出来た。 幻肢痛とは生まれながらに手足が欠損した人々も含めて、事故や病気で手足を喪った人々がその後もないはずの手足に痛みを感じる現象のことを指すが、これは脳が手足がないことを認識していないために起こる現象であると本書では説明されている。手足を動かす指令は脳から出されるが、それらを喪っても脳はそれを感知せずに通常と変わらぬ指令を出すためにこのような現象が起きる。この治療法として鏡を据えた箱に健全な方の手足を入れ、鏡に映った手足を無いはずの側の手足、例えば右手があれば右手をその箱に入れれば右手の鏡像が左手の代わりとなり、右手を動かすことで恰も左手が存在して動いているかのように認識され、その後このような幻肢痛は起こらないことが証明されているらしい。つまり視覚によってようやく脳がそれを感知するのだ。視覚から得る情報は8割にもなるというが、それを実証するかのようなエピソードだ。 しかし島田氏はそこからさらに幻肢の解釈を拡げていく。 幻肢とは即ち手足のみを示すのではなく、人の全身さえも幻視させることが出来るというのだ。心霊現象を人間に見せると云われている側頭葉と前頭葉の間にある溝、シルヴィウス溝に刺激を与えることで幻視が起こるというのが本書での説だ。 このシルヴィウス溝はアレキサンダー大王、シーザー、ナポレオン、ジャンヌ・ダルクといった歴史上の英雄やゴッホ、ドストエフスキー、ルイス・キャロル、アイザック・ニュートン、ソクラテスといったその道の天才らが癲癇もしくは偏頭痛を持っており、それがシルヴィウス溝に強い刺激を与えて、常人にはない閃きや神の啓示などを聞いたとされている。ここに蓄えられているのは過去に経験した、忘れられた記憶も呼び覚ますことになり、それがかつて存在した手足があるように錯覚させたり、もしくは人そのものをも存在しているかのように思わせたりする、そんな仮説から本来ならば鬱病の治療としてその原因とされている左背外側前頭前野のDLPFCに、経頭蓋磁気刺激法、即ちTMSという脳に直接磁気を当てて刺激して血流を促し、脳の働きを活性化させる治療法をシルヴィウス溝に適用させるという方法で遥は雅人の幻を見ようと試み、そして成功するのだ。それはまた遥が失った事故当時の記憶を呼び覚ますことにも繋がる。遥は雅人の幻とのデートを重ねるうちに雅人への愛情が甦り、「あの日」の記憶を懸命に呼び覚まそうとする。 彼女は今日も幻とデートする。 それは大学から自宅までのほんの数キロのデート。 彼女しか見えない彼はいつも彼女のアパートの前で消え去る。 その短い逢瀬が楽しければ楽しいほど、彼女の寂しさは募っていく。 それでも彼女は亡くした彼に逢いたいがために今日も自分の脳を刺激する。 そしてまた刹那のデートを繰り返す。 そんなペシミスティックなコピーが思いつきそうな感傷的な展開を見せるが、そんな切ない幻との恋愛も次第に様相が変わっていく。その展開についてはまた後ほど語ることにしよう。 上述のように遥が失った事故当時の記憶をTMSでの治療を重ね、雅人の幻との逢瀬を重ねることで徐々にその内容を明かしていくのが本書のメインの物語であるが、それ以外にも随所に織り込まれる最新の脳科学の知識のオンパレードが実に興味深く、素人でも理解できるよう非常に解りやすく書いており、内容は実に面白い。 例えば脳はそれ自体が電気を発するので絶縁体である脂肪で出来ていること、そして最も頑丈な骨、頭蓋骨で守られていること、記憶に不可欠な物質グルタミン酸は非常に興奮をもたらしやすい性質があり、神経細胞をも破壊する恐れがあるため、過剰分泌を抑えるため、アデノシンが分泌され、一時的に活動がストップされること、それが恰も電力使用量を超過した際に自動的に遮断される電気のブレーカーと実に似ていることなど、知的好奇心が促される。 そして脳の秘密を解き明かすことで、即ち昔から怪奇現象と思われていた不可解事の正体や上にも書いた神の啓示や天才の閃きなども解き明かすことに繋がる。つまり広い意味で古来から不思議とされていた事象の謎を解いていくことでもあるのだ。 それは脳という複雑でしかもコンピュータのように精緻な仕組みを持った特殊な機関が我々人間たちに負荷をかけないようにそれ自体が人間から都合の悪い事を見せないように騙し、また故意に忘れさせようと自己防衛機能を備えていることが興味を尽きさせないからだ。 記憶でも思い出の記憶であるエピソード記憶、体得した生活やスポーツでの動きを司る手続き記憶、そして物事の意味を覚える意味記憶と3種類に分かれ、エピソード記憶は海馬に送られ、2年程度保存された後、ある程度、出入力が反復されると大事な記憶として大脳皮質や小脳に送られ、手続き記憶や意味記憶として忘れらない記憶となると述べられている。 この忘れやすいエピソード記憶は即ち我々読書好きの人間にとっては常にその維持との戦いを強いられる。 私がこのように感想を書くのは読み終えた本を極力覚えておきたいからだが、無論それでも忘れてしまう。正直感想を読み返してもどんな話だったか思い出せない作品も確かにある。 だが一方で内容が衝撃的すぎる、もしくは大いに感動した物語は細部は忘れてもその強い印象はずっと残っているのだ。しかもそんな作品でもいつも誰かと話したり、ウェブで感想を読んだりしているわけではなく、インプット・アウトプットの頻度はさほどインパクトの強くない作品のそれとは変わらないように思えるのに、なぜいつまでも覚えているのか。そこの説明が上の内容では成立しないように思えるのだ。 まあ、とにかく読み終わった本を極力覚えているには、どうにか2年の間、海馬にある段階で頻繁にインプット・アウトプットしていくように努めなさいということになるだろうか。 と、このように記憶1つ取ってもこれだけ話が生み出される脳について語られる。従って、通常ミステリならば例えば館の見取り図が欲しくなったりするが、本書では脳のそれぞれの部位が成す役割を詳らかに語るため、脳の各部位を示した図が欲しいと思った。 海馬、大脳皮質、小脳、シルヴィウス溝、側頭葉、前頭葉とここに至るまでにそれだけの脳の部位が出てきた。更には記憶のルートは頭頂葉、側頭葉、帯状回を経由する、恐怖心や不安感をもたらす扁桃体、その中にある背外側前頭前野のDLPFC、等々が続々と登場する。これらそれぞれの部位を示した図があれば、それをもとに自分の頭に照らし合わせて読むとまた格別に理解できただろう。 さて遥が次第に事故当時の記憶を思い出していくごとに不穏な空気が漂ってくる。特に主人公の遥だ。どんどん感情的になっていき、周囲の目を気にせずに幻の彼、神原雅人に嫉妬心を募らせていく。そしてTMSによって思い出した事故当時の記憶はなんとも自己嫌悪に陥るしかない最悪の結果だった。 なんともバカげた真相である。島田氏の女性観はある種、独断と偏見を感じるところがあるが、この主人公糸永遥の性格と行動はまさにその独特の女性観が悪い方向に出たような形だ。 この糸永遥という女性、女性読者から見れば、確かに周囲にいそうな女性ではあるのだけれど、どんな感じで捉えられるのだろうか? しかしそんな真相の後にどうにか救いはあった。 しかし島田作品初の映画化作品として選ばれた本書。いや映像化を前提に書かれたのかもしれないが、亡くなった彼の幻との短いデートという儚げなラヴストーリーが、一転して事故の真相を知った途端に視聴者はどんな思いを抱くだろうか? 私は前述したようにもっとどうにかならなかったのかと思って仕方がない。機会があれば映画の方も見てみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングが怪奇コミックスの鬼才バーニ・ライトスンと組んで著したヴィジュアル・ホラーブック。
キングにしては珍しく、全編でたった200ページにも満たない。しかもその中にはふんだんにライトスンによるイラストが挟まれているため、文章の量もこれまでのキング作品では最少だ。 そんな試みで書かれた作品のモチーフは人狼。つまり狼男の物語だ。実にオーソドックスな題材である。 かつて『呪われた町』で吸血鬼を、お化け屋敷をモチーフに『シャイニング』をキングは書いたが、そのいずれもが上下巻の長編だったのに対し、人狼を扱った本書は上に書いた中編の部類に入る分量である。 物語も実にシンプルでメイン州の田舎町に突如現れた人狼による被害について月ごとに語られる。 鉄道の信号手、本屋の経営者、名も知らぬ流れ者、凧揚げに夢中になって犠牲となった11歳の少年、教会の掃除夫、食堂の主人、町の治安官、豚舎の豚、妻に暴力を振るう図書館員。毎月決まって満月の夜に惨劇は起きる。 その中で唯一の生存者が車椅子の少年マーティ。彼はおじから貰った爆竹で抵抗して命からがら逃げだすことに成功する。 1月から12月までの1年間を綴った人狼譚。キングにしてはシンプルな物語なのは話の内容よりもヴィジュアルで読ませることを意識したからだろうか。その推測を裏付けるかのようにバーニ・ライトスンはキングが文字で描いた物語を忠実に、そして迫力あるイラストによって再現している。 1月から12月まで、それぞれの月の町の風景と、人狼が関係する印象的なシーンを一枚絵で描いている。特に後者はキングが描く残虐シーンを遠慮なく描いており、背筋を寒からしめる。特に人狼の巨大さと獰猛さの再現性は素晴らしく、確かにこんな獣に襲われれば助かる術はないだろうと、納得させられるほどの迫力なのだ。 この小説で教訓があるとすれば、まず大人に対しては、子供の話にきちんと耳を傾けるべきであるということだろう。往々にして子供は大人が知らない世界を見ることが出来、そして真実を語ることがあることを忘れてはならない。 一方子供に対しては、大人に頼らず、子供には自分で始末を着けなければならない時があるということだろうか。人狼というまともに立ち向かえば勝ち目がない相手、つまり途方に暮れてしまうほどの困難に直面した時も知恵と勇気を使えば克服できる、既に少年はその能力を秘めているというメッセージが込められているともとれる。 小さな町に訪れた災厄を群像劇的に語り、そしてその始末を一介の、しかも車椅子に乗った障害を持つ少年が成す、実にキングらしい作品でありながら、決して饒舌ではなく、各月のエピソードを重ねた語り口は逆にキングらしからぬシンプルさでもある。そしてキングにしてはふんだんにイラストが盛り込まれているのもまたキングらしからぬ構成だ。 それもそのはずで、解説の風間氏によれば当初イラスト入りカレンダーに各月につけるエピソード的な物語として考案された物語だったようだ。しかしそんなシンプルさがかえってキングにとって足枷になり、7月以降はマーティを登場させ、人狼対少年という構図にしてカレンダーに添えられる物語ではなく、中編として最終的には書かれたようだ。 だからキングらしくもあり、またらしからぬ作品というわけだ。 一方シンプルな語り口と秀逸なイラストの組み合わせということで考えると、少年少女向けのキング入門書とも云うべき作品としても考えられるが、それにしては暴力夫が出てきたり、女性との性行為についても語られるので正直子供に読ませるには抵抗がある。いやはやなんとも判断に困る作品である。 しかしそんな考察は無用なのかもしれない。文章とイラストで存分に狼男の恐怖を味わうこと。それが本書の正しい読み方と考えることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ケーブルカーと云えばLAではなくサンフランシスコのそれが有名だが、LAにもあり、それが本書で殺人の舞台となるエンジェルズ・フライトだ。実は世界最短の鉄道としても有名だったが、2013年に運行を停止していたらしい。しかし2016年の大ヒット映画『ラ・ラ・ランド』の1シーンで再び脚光を浴びて運行が再開したようだ。
1冊のノンシリーズを挟んでボッシュシリーズ再開の本書は奇遇にも最近再開されたケーブルカー内で起きた、LA市警の宿敵である強引な遣り口で勝訴を勝ち取ってきた人権弁護士の殺人事件に突如駆り出されたボッシュが挑む話だ。 作者はやはりボッシュに安息の日々を与えない。今度のボッシュはまさに否応なしにジョーカーを引かされた状況だ。 警察の天敵で、何度も幾人もの刑事が苦汁と辛酸を舐めさせられた弁護士の殺人事件を担当することで、世論は警察による犯行ではないかと疑い、刑事も当初はその疑いを免れるために強盗によって襲われたものとして偽装する。現場の状況は警察が偽装した痕跡が認められた上に、射撃の腕前がプロ級であることから容疑者が射撃の訓練をしてきた人間である可能性が高いため、警察関係者にいる可能性も高まる。そしてボッシュはそんな事件を担当する刑事たちに嫌悪され、刑事と思しき人物から脅迫電話まで受け取る。 おまけに被害者は黒人であるのが実は大きな特徴だ。本書はスピード違反で逮捕された黒人をリンチした白人警官が無罪放免になったいわゆるロドニー・キング事件がきっかけで起きた1992年のロス暴動がテーマとなっている。作中LA市警及びハリウッド署の面々にとってもその記憶もまだ鮮明な時期で、エライアス殺人事件がロドニー・キング事件の再現になることを恐れており、少しでも対応を間違えば暴動になりかねない、まさに一触即発の状況なのだ。 作者自身もこのロドニー・キング事件を強く意識した物語作りに徹している。上に書いたように黒人であるロドニー・キングをリンチした白人警官が無罪放免になったのには陪審員が全て白人で構成されていたことが要因として挙げられている。一方エライアスが担当していたマイクル・ハリス事件もまた、事件に関わった警察及び検察官が全て白人であった。コナリーは実際の事件をかなり意識して書いていることがこのことからも窺える。 従って本書では特に白人と黒人の反目が取り沙汰されている。ボッシュ達がこの微妙な、いや敢えて地雷を踏まされたような事件を担当するのも、ボッシュのチームに黒人の男女の刑事がいることが一因であることが仄めかされている。しかしボッシュはそんな市警の上層部の意向に嫌悪感を示し、記者会見に彼の部下を同席することを良しとしない。2回目の記者会見でLA市警の誠実さを示すためだけに同席を強いられたエドガーとライダーはそうすることを命じたボッシュに対して反発心を見せる。彼らは1人の刑事であり、決して特別な「黒人の」刑事ではない。しかしそれを世間に示さなければならないほど、世紀末当時のLAはまだ根深い人種差別が横たわっていたことが描かれている。 ついでに云えば被害者の弁護士ハワード・エライアスの息子の名が黒人解放運動の牽引者である人物の名前がそのまま入ったマーティン・ルーサー・キング・エライアスであることも象徴的だ。 ところで本書ではエピソードとして2つの事件が挿入されている。1つは最近ボッシュが解決して有名になったハードボイルド・エッグ事件。もう1つはエライアスがLA市警強盗殺人課相手に裁判を控えていたブラック・ウォリアー事件だ。 前者の事件は自殺と思われた事件が冷蔵庫に冷蔵されていた固ゆで卵に書かれた日付によってそんなことをする人間が自殺するわけがないと閃いて犯人を捕まえた事件でそれはロサンジェルス・タイムズにシャーロック・ホームズ張りの名推理として紹介され、有名になったのだ。そして犯人だったストーカーは自分の犯行の証拠となる被害者の手記を後生大事に持っていた。 後者は誘拐された自動車販売王として有名なジャクスン・キンケイドの息子サムの一人娘ステーシーが捜査の甲斐虚しく、遺体として発見され、その発見場所がかつて住居侵入と暴行の罪で前科のあるマイクル・ハリスの近くだったことから容疑者として逮捕されたもの。当初はこの被害者家族に世間の目は同情的だったが、裁判でサム・キンケイドがサウス・セントラル地区に販売代理店がない理由を、1992年に暴動が起きた場所に店を構えるつもりなど毛頭ないと応えたことで黒人差別の気運が高まり、無罪判決で釈放された後、ハリス側が今度は自身がが不当な拷問を捜査官から受けたことに対してLA市警を訴えた事件である。そしてこの事件の裁判の直前に担当弁護士で辣腕を誇るエライアスが殺害されるのである。 この事件が実はエライアス殺害事件に大いに関わってくる。むしろボッシュはこの事件を解くことがエライアス殺害事件を解く鍵と信じ、捜査に協力するFBIの方にエライアス殺害事件の方を任せて、自分たちはその事件を追う。 余談になるが、アーヴィングと本部長の取り計らいでこのエライアス殺害事件の捜査はFBIと合同で行うようになる。それに派遣されるFBI捜査官がロイ・リンデルであるのが今回のサプライズでもある。彼はシリーズ前作『トランク・ミュージック』で登場したあの潜伏捜査官。なるほど、こんな手をコナリーは繰り出してくるのかと驚いたものだ。 もう1つFBIで云えば、本書では前作『わが心臓の痛み』が映画化されたことにも触れられており、しかもテリー・マッケイレブはかつてボッシュも一緒に仕事をしたことがあると述べている。これも思わずニヤリとするコナリーの演出だ。 話は変わるがネオ・ハードボイルド小説の代表作の1つにアル中探偵ローレンス・ブロックのマット・スカダーシリーズがある。1976年に始まったこの次世代ハードボイルドシリーズも90年になるとIT化の波には逆らえず、スカダーの仲間の1人TJがパソコンを駆使して彼をサポートするが、このボッシュシリーズでも同様に本書ではボッシュのチームのメンバーの1人、女性刑事のキズミン・ライダーが買春のウェブサイトから隠れサイトであった小児ポルノのサイトへのアクセスし、事件が急転回する。 しかしデビュー作ではまだポケベルで連絡を取り合い―それは本書でもまだ続いている―、その後携帯電話をボッシュが使うようになるが、とうとうインターネットまで登場するようになったとは。 本書は1999年発表だからそれは全くおかしなことではないのだが、ボッシュとインターネットというのがなんともそぐわなく、本書でもボッシュはネット音痴でキズミンがかなり噛み砕いてインターネットのウェブサイトの仕組みについて説明しているのに隔世の感を覚える。世紀末のあの頃のインターネットの認知度はまだそんなものだったのだ。 また今まで色んな苦難に直面させられてきたボッシュだが、『トランク・ミュージック』で新たなチームのリーダーとなり、またグレイス・ビレッツという理解ある上司に恵まれ、しかも運命の女性と感じていたエレノア・ウィッシュと結ばれ、ようやく人生の春を迎えつつあった。しかし本書でまたもや危難に見舞われる。 警察の敵を殺害した犯人の捜査だ。しかも犯人は警察の中にいるかもしれず、お互い理解しあったとされたかつての宿敵アーヴィン・アーヴィングは昔に戻ったかのようにボッシュをマスコミの生贄の山羊に捧げるかのように管轄外にも関わらず呼び出し、特別任務として捜査のリーダーに命じる。 味方の中にも敵がいるかもしれない、そんな四面楚歌の状況にボッシュはいきなり追いやられる。 更にエレノアとの結婚生活もまた破綻しかけている。元FBI捜査官でありながら、前科者という経歴で彼女はなかなか新たな職に就けないでいた。ボッシュも人脈を使って逃亡者逮捕請負人の仕事を紹介したりするが、エレノアはかつて捜査官として抱いていた情熱をギャンブルに向けていた。ラスヴェガスでギャンブラーとして生計を立てていた頃に逆戻りしていたのだ。 ボッシュはエレノアに安らぎと全てを与える思いと充足感を与えられたが、エレノアはボッシュだけでは充たされない空虚感があったのだ。 本書で特に強調されているのは「すれ違い」だろうか。事件の舞台となったケーブルカー、「エンジェルズ・フライト」をコナリーは上手くボッシュの深層心理の描写に使っている。 彼が夢でこのケーブルカーに乗っている時、まず最初に反対側のケーブルカーに乗っていたのはエレノア・ウィッシュだった。しかし夢の中の彼女はボッシュの方を見向きもしないまま、そのまま下っていく。 2回目の夢の時は反対側のケーブルカーではなく、同じケーブルカーに通路を挟んで相手は乗っている。それはブラック・ウォリアー事件の被害者ステーシー・キンケイドだ。彼女は悲しげで虚ろな目でボッシュを見つめている。 一度は近づきながらもやがて離れていくケーブルカー。これを出逢いと別れを象徴している。 一方同じ車両に通路を隔てて乗っている2人の関係性。これは同じ方向に進みつつも2人には何か見えない隔たりがある。 ケーブルカーをボッシュが関わる女性との関係性に擬えるところにコナリーの巧さがある。 夢で見たようにエレノアはボッシュを十分愛せない自分に耐え切れなくなり、しばらく距離を置くため家を出る。ボッシュはエレノアといることに至上の幸せを見出していたのに、それが一方通行でしかなかったことを知り、心が引き裂かれそうになる。 上に向かっていくケーブルカーに乗っていたボッシュとは裏腹にエレノアの心は下降線を辿って行ったのだ。 そしてステーシー・キンケイドもまた同様だ。今度は同じ車両に乗りながら通路を挟んで見つめ合う2人。 我々は同じ車両に今乗っている。ただまだそちらのシートには近づけない。そこにはまだ通路分の隔たりがあるのだと。 すれ違いと云えば、被害者エライアスの家族もそうなのかもしれない。 人権弁護士として貧しき黒人たちの救世主として名を馳せた辣腕の黒人弁護士。しかし彼はその名声ゆえに近づいてくる女性もおり、それを拒まなかった。元人権弁護士でLA市警の特別監察官となっているカーラ・エントリンキンもまたその1人だった。 しかしエライアスの妻ミリーは女性関係については夫は自分に誠実であったと信じていますと告げる。決して誠実だったとは云わず、自分は信じているとだけ。 これはつまりすれ違いをどうにか防ごうとする妻の意地ではないだろうか。世間に名の知れた夫を持つ妻の女としての矜持だったのではないだろうか。つまり彼女とハワード・エライアスのケーブルカーはそれぞれ上りと下りと別々の車両に乗ってはいたが、行き違いをせずにどうにかそのまま同じところに留まっていた、そうするように妻が急停止のボタンを押し続けていた、そんな風にも思える。 今回も多くの人々がボッシュの目の前から消え去る。 娘を亡くした忌まわしい過去を一刻も早く消し去りたいがために引っ越しながら、移転先では2人の死体が残され、そして以前の家では1人の死体が残され、そして誰もいなくなってしまった。 皆が集まる家もあれば、なぜか人が居着かない家もある。ずっと孤独を抱えていたボッシュの家は後者になるのか。 そしてアメリカの政財界にまで影響を与える自動車販売王の家もまた張り子の家庭だけが存在する、不在の家なのか。 事件を調べる者と調べられる者と対照的な2つの家に私はなんとも奇妙な繋がりを覚えずにはいられなかった。 コナリーは刑事を主人公としながら実は警察小説を書くのではなく、あくまでハードボイルドで警察に盾突く卑しき街を行く騎士としてボッシュを描いていることに今ようやく思い至った。 世紀末を迎えたアメリカの政情不安定な世相を切り取った見事な作品だ。 実際に起きたロス暴動の残り火がまだ燻ぶるLAの人々の心に沈殿している黒人と白人の間に跨る人種問題の根深さ、小児に対する性虐待にインターネットの奥底で繰り広げられている卑しき小児ポルノ好事家たちによる闇サイトと、まさしく描かれるのは世紀末だ。 では新世紀も17年も経った現在ではこれらは払拭されているのかと云えば、更に多様化、複雑化し、もはやモラルにおいて何が正常で異常なのかが解らなくなってきている状況だ。人種問題も折に触れ、繰り返されている。 そういう意味ではここで描かれている世紀末は実は2000年という新たな世紀が孕む闇の始まりだったのかもしれない。 そう、それは混沌。 死に値する者は確かに制裁を受けたが、それは果たして正しい姿だったのか。そして友の死の意味はあったのか。向かうべき結末は誰かが望み、そしてその通りになりもしたが、そこに至った道のりは決して正しいものではない。 結果良ければ全て良しと云うが、そんな安易に納得できるほどには払った犠牲が大きすぎた事件であった。 自分の正義を貫くことの難しさ、そして全てを収めるためには嘘も必要だと云うことを大人の政治原理で語った本書。その結末は実に苦かった。 そして本書では解かれなかった謎がもう1つある。それはマスコミ、TV屋のハーヴィー・バトンとそのプロデューサー、トム・チェイニーに警察の内部情報をリークしていた人物についてだ。つまり今後も警察内部に情報源を抱えて仕事をしていかなければならないことを強いられるわけだ。 ボッシュの息し、働き、生活する街ロス・アンジェルス。天使のような美しい死に顔をして亡くなったステーシーがいた街ロス・アンジェルス。 まさに天使の喪われた街の名に相応しい事件だ。 その街にあるケーブルカーの名前は「エンジェルズ・フライト」、即ち「天使の羽ばたき」。 しかし天使の喪われた町での天使の羽ばたきは天に昇るそれではなく、地に墜ちていく堕天使のそれ。 最後にボッシュは呟く。チャステインの断末魔は堕天使が地獄へ飛んでいく音だったと。 エンジェルズ・フライトの懐で亡くなったエライアスはこの堕天使によって道連れにされた犠牲者。 世紀末のLAは救済が喪われたいくつもの天使が墜ちていった街。そんな風にLAを描いたコナリーの叫びが実に痛々しかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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