■スポンサードリンク


Tetchy さんのレビュー一覧

Tetchyさんのページへ

レビュー数1418

全1418件 121~140 7/71ページ

※ネタバレかもしれない感想文は閉じた状態で一覧にしています。
 閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
No.1298: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

濃厚でギラギラした昭和日本のミステリをどうぞ

エラリー・クイーン存命中、アンソロジストとしても活躍していたアルフレッド・ダネイ氏の許に日本版『黄金の12』を選出する企画が始まった。東京にEQJM(エラリー・クイーンズ・ジャパニーズ・ミステリー)委員会が編成され、1970年以降に発表された短編ミステリの中から厳選された作品を英訳し、クイーンの許に届けられ、更にそこからクイーンのお眼鏡に適った12編を基に組まれたアンソロジーが本書である。
その後この企画は3回続き、全3巻のアンソロジーとして刊行されている。

その第1集が本書である。カッパ・ノベルスとして刊行されたものの文庫版が本書で、ノベルス刊行時は1977年。70年に活躍したミステリ作家の歴々がその名を連ねている。
それは平成の今なお映画・ドラマなどで映像化された際に番組名にその名が冠として付く錚々たる面々であり、今なお売れ続けているベストセラー作家たちもいる。やはり彼らのネームヴァリューは伊達でなく、本格ミステリの伝説的存在クイーンにも、いや世界にも通用する実力を兼ね備えていたことを証明するようなアンソロジーでもある。

さてその幕を開けるのは石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」だ。
石沢氏の小説は初めて読んだが、実に面白く、読み応えがあった。クイーンの短評で知ったが、寡作であるが1作1作が十分練られており、丁寧な準備の下で書かれているため優れているというのは本当だろう。
本作は社内でも評判が良くもなく悪くなく、家庭円満で近所の評判もいい一人事課長が定年を迎える1年前の忘年会で毒殺されるという奇妙な事件が題材となっている。しかしその可もなく不可もない性格ゆえに周囲は自分たちが胸に抱える秘密や困り事を打ち明けるのに最適の人物となった。従って上司部下の上下問わず、彼には色んな秘密が打ち明けられる。
隠密裏に進む合併計画、社長妻との浮気、ホモ志向である自分の性癖、うやむやになった轢き逃げ事件、家族ある社員との不倫とその結果招いた中絶。
どこかで聞いたような、外に出せない秘密の数々である。そんないわば心の澱を抱える社員たちの駆け込み寺となっていたのが宇佐美であった。
彼はただ聞くだけだが、裏返せばそれは様々な社員の秘密を知っている事情通となる。
この前に読んだコナリーの『スケアクロウ』でも強調していたが、情報を扱うのはセキュリティも大事だが、最も大事なのはそれを扱う人だ。
会社の内情という組織の秘密と個人の秘密が見事に溶け合い、全く無駄のないミステリ。開幕投手として申し分ない。

さてその勢いはビッグネーム松本清張氏の「奇妙な被告」に至っても衰えない。
本作で登場する犯人はもっとも恐ろしい犯人である。本作もまた人への信頼を揺らがさせられる、興味深い作品だ。

続く三好徹氏の「死者の便り」は題名通り、死者から手紙が届くという奇妙な発端で幕を開ける。
新聞社に送られてきた2ヶ月前の消印が押された死者からの手紙という本格ミステリの導入部としては実に魅力的な謎で幕を開ける本作は石沢氏や松本氏の作品同様、実に社会的なテーマへと繋がっていく。
そして本作の真相は実に皮肉だ。

森村誠一氏も昭和を代表するミステリ作家の1人だが、彼もまたクイーンのお眼鏡に適った。「魔少年」はアンファンテリブル物である。
アンファンテリブル、つまり恐るべき子供の物語で、餓鬼大将でクラスの友達に先生に告げ口されたり、お願いを断られたことを逆恨みしてその子たちの大事な物を奪い、もしくはその身を危険に晒すように強要する少年の悪戯がエスカレートする様が描かれるが、この真相は読んでいる途中から解った。
いわば大人社会でも起こりうる話を小学生の世界に落とし込んだ話だ。子供が残忍なことを計画し、実行することで事件の恐ろしさが否応なしに増すのはやはり子供に純粋さを望む大人の心理が働くからだろうか。

さて次も大御所が選ばれている。夏樹静子氏の「断崖からの声」は世捨て人とその妻との間に陥った男が遭遇する事件を扱っている。
自分の事故で芸術家の命でもある視力が損なわれた主人のために一生を捧げることを決意した女。東京から福岡へ隠遁生活を続ける夫はしかしそんな単調な生活に耐えられなくなり、東京に再び出るための資金を得るため、妻が海で遭難するという偽装工作を企てる。

またも大御所の登場。西村京太郎氏の「優しい脅迫者」は先の読めない展開で実に読ませる。
子供の轢き逃げをしてしまった理髪店主が目撃者に強請られる。しかも定期的に訪れて、そのたびに金額は倍増する。まるで蟻地獄に陥ったかのような絶望の中、脅迫者を調べると売れない俳優でなんと前科も何もない、根っからの善人であることが解る。更にとうとう思い余って殺してしまった際に、まるで店主を庇うかのような言葉を発して亡くなる。
この理解しがたい状況が最後脅迫者の遺書で雲散霧消する。ただ「その時」が来るまでの理髪店主にとってはその毎日は悪夢以外何ものでもない。私はこの物語には続きがあるようにしか思えない。そう、脅迫者の真意を知った理髪店主の次の行動が気になって仕方がなかった。

大御所の作品が続く。佐野洋氏の「証拠なし」はいわばリドルストーリーのような作品だ。
どこから見ても事故としか思えない事件。しかし調べてみると関係者には動機となるような理由があるが、果たしてそれが殺人へと発展するかと云えばそうでもない。更に調べていくうちに容疑者の女関係が明るみに出て、そのうちの1人を殺すための予行演習だったのでは、などと警察捜査本部の面々は推測を立てていく。そしてそれぞれの場面で不能犯に該当する、過失犯だ、いや正当防衛だと議論が紛糾していく。
なお不能犯とは、殺意はあるものの、直接的にそれが死に至るほどではない刑罰の対象とならない行為、つまり未必の故意のある犯人を指す。死ねばいいのにと夜毎藁人形で釘を打ち立てるようなものだと当時の広辞苑には書かれていたようだ。
過失犯は過った末に罪を犯してしまった犯人を指す。よくあるのは交通事故で人を轢いてしまい、殺してしまう過失致死が該当する。

さてかつて昭和のミステリガイドブックにはこの作家の作品が必ずと云っていいほど取り上げられていた。木枯し紋次郎でお馴染みの笹沢左保氏もクイーンのお眼鏡に適った。「海からの招待状」は差出人不明の手紙で幕を開ける。
「海」と名乗る匿名の人物から送られたオープンしたての豪華ホテルの貴賓室への招待。世の中上手い話があるわけないが、行ってみたくなるのは世の常。しかし招待されたのは自分だけでなく、他に4人の男女がいた。そしてそれぞれにはある共通点があった。
何とも魅力的で謎めいたシチュエーションである。彼ら彼女らはいつしかある事件の犯人の1人であることが判明し、推理が行われる。決して閉ざされた部屋ではないので、望まなければ出て行くことも可能だが、そうすれば逆に疑いを招くだけという人間心理の妙も楽しめる。
現れぬ招待主が招待客の中にいるのは別段驚く真相ではないが、折角犯人を捕まえることができたのに虚しさだけが残る招待主の心情が印象的だ。
なおクイーンは短評で笹沢左保氏の作風をルブランやクリスティ、そしてクイーンなどの影響が感じられてると述べているが、私見を云えば本作は寧ろ謎めいた導入部とある事件に共通する人物の中でのドラマという点ではウールリッチの作風を想起させられた。

草野唯雄氏も笹沢左保氏同様、既に他界された昭和を代表するミステリ作家だが、彼の作品もまた12席の1席を与えられた。「復顔」はゴミ焼却所で見つかった頭蓋骨から物語は始まる。
ウールリッチの『幻の女』と死んだ女が蘇って事件解決に手を貸すといったミステリアスな内容の物語。
しかし35歳で頭蓋骨研究の権威とされている主人公だがその博識ぶりはあまり発揮されず、寧ろそれまで独身で女の色香にすぐにほだされてしまう情けない男という印象だけが残ってしまった。最後に復顔の手伝いをした女性の正体を突き止め、彼女の許を訪れたのは単に彼が真相を知りたかっただけでなく、一夜限りの交情が忘れらなかったことが大きいだろう。何とも未練たらしい男である。

江戸川乱歩賞作家でシャンソン歌手という異色の経歴の戸川昌子氏も当時は全盛期でクイーンも選出せざるを得なかったのだろう。「黄色い吸血鬼」は異色の幻想ミステリだ。
吸血鬼の餌として建物に監禁されている複数の男女というファンタジーかと思いきや、ある不正を被害者の視点で描いたものだ。幻想的で匂い立つエロスを感じさせるのがこの作者の長所だろうか。
しかしこういった社会の底辺の落伍者たちを家畜のように扱う輩は21世紀の今でもまだ続いていると思うとこの問題は大変根深いものだと痛感する。

本格推理小説の重鎮の1人、土屋隆夫氏の作品も選ばれた。「加えて、消した」は突然の妻の自殺に直面した男の物語だ。
流産を苦にした妻の突然の自殺というショッキングな展開から、遺書もあり、なおかつその夫は京都へ出張中であるという全く事件性のない事件が遺されたたった4行の遺書の中にある違和感と当日の夫の不審な行動から隠された真実を掘り起こす、たった2人の問答で繰り広げられる物語は実にロジックに特化した内容で面白い。
特に自殺前に姉に電話した妹が姉の通話越しに聞こえた引き戸の音と親しげな姉への呼びかけから何がそこで起こったのかを解明する件は生活感もありつつ、ロジカルで実に面白い。
なお遺書の中の違和感については私も感じていた。
何とも遣る瀬無い真相。

最後を飾るのはやはり現代を代表する大作家の1人、筒井康隆氏の「如菩薩団」だ。
さすがは筒井氏。シュールでありながらある意味リアルな設定の物語でクイーンの12席に選ばれた。
8人の主婦たちによる強盗団。主人たちが出払った平日の昼に集まり、目を付けた金持ちの邸を訪ねて、そこで強盗を働く。
本作の初出時期を調べると1974年頃とあるから、第1次オイルショックの真っ只中。そんな世相を反映してか、主婦強盗団の面々は大学出の夫を持ちながらもサラリーマンで薄給と日々高騰していく物価に苦しむ中間層の人たちばかり。団地に住み、子供の塾代に苦慮し、夫と子供の服を優先して購入し、自らは2年前に買ったブランド品ばかりを身に着けるといった、どこにでもいるような主婦たちだ。
彼女たちがある水準の教育と躾を学んだ女性たちで形成されていることが特徴的だ。それがこの一種奇妙な強盗譚をどこかで本当に起こっていそうな話に思わされる、そこはかとない恐怖を沸き起こさせる。


欧米その他海外諸国のミステリは積極的に翻訳され、日本に紹介されているものの、逆に日本のミステリが全く海外に向けて発信されていない現状があった。世界への門戸は入ってくるばかりの一方通行であったのだ。
そんな現状を変えるためにクイーンの鑑識眼を通して、海外ミステリの名作・傑作と遜色ない作品を世界に問い、発信するための試金石となるのが本書編纂の大きな目的でもあった。

私が感心したのは篩分けを行うEQJM委員会が評論家ではなく、ミステリのコアなファンや推理小説通として認められている経歴の持ち主5人によって構成されていることだ。
往々にして評論家や研究者が選びがちな、作品の背景に隠された歴史的意義や当時の作者の心境など深読みしなければ、もしくは時代背景や私生活にまで踏み込まないと解らないような行間の読み方をすることで得られる読書の愉悦にこだわった作品ではなく、純粋にミステリとして面白い作品がファンの立場で選ばれていることがいい結果に繋がっているように思う。それほどまでに本書収録の各短編のクオリティは高い。

そんな粒ぞろいの短編集。全く駄作はない。全て水準を超えており、中には一読忘れられないほどの印象強い作品もある。

1作目の石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」と2作目の松本清張氏の「奇妙な被告」はそれぞれ警察と弁護士が主人公であるが、その内容は表裏一体だ。

石沢氏の作品では警察のカンによる捜査が改めて問題視されており、敬遠されている風潮があるが、やはり経験から基づく第六感というのはあるとし、それが事件解決に効果的に働いている。

一方松本氏の作品は事件現場の状況、目撃者の証言から容疑者を特定し、警察のカンによって敗訴する様が描かれている。

この2作は捜査員のカンという題材で以ってまさに70年代当時の警察捜査が直面している問題を浮き彫りにしているようだ。

またこれも時代だろうか、男性作家の女性に対する描写も生々しく、平成の今なら書かないであろう一線を超えて、本能を露わにして書いているように感じた。
艶めかしく、色香が溢れ、女性の欲求不満ぶりや男を惑わす身体をしていると云った、性的描写が濃厚。中にはセックスシーンをも盛り込んでいる作品もある。

あとやはり高度経済成長期を経たことで誰もが一番を目指すことを要求された学歴社会による弊害から生まれた作品もあれば、その後の第1次オイルショックといった急激な物価上昇を経験した時代であることから、将来を約束されたものと思われた大学出のサラリーマンが経済苦に瀕し、高卒の商売人が裕福になるといったいびつな経済格差社会を反映した作品もあり、また生命保険殺人など、世相を色濃く反映しているものも見られ、昭和の時代を知る意味でも興味深い側面があった。

また当時を知るという意味では松本清張ブームで推理小説が活発化している時期であったことも興味を惹かれる。
クイーンによる序文によれば商売繁盛どころの騒ぎではなく、毎月平均30冊、40編の短編集が出版され、年間2,000万冊以上の販売数であるとのこと。ウェブ社会の発達で書籍離れ、もしくは紙の本から電子書籍へ移行し、年々閉店と倒産が続く出版業界の現在を思うとまさに時代の花形であり、夢のような時期だったことが解る。

しかし70年代の、つまり昭和の時代の作家の筆致は何と濃厚なのだろうか。ミステリ作家と呼ぶには軽すぎて昔ながらの推理作家の呼称の方がしっくりくる。
行間から立ち上る登場人物の息吹や生活臭がむせ返るほどに濃密で高度経済成長期で整備が追い付かない未舗装路から巻き起こる土埃やエアコンのない時代の蒸し暑さと汗ばんだ皮膚から発散される体臭までもが感じられるようだ。

登場人物皆がギラギラし、人と人との距離が近く、暑苦しささえ感じる。

そしてそれぞれの家庭に独特の生活臭があるように、それぞれの作家の短編の1ページ目を開ければそれぞれ異なる色合いと風合いを感じさせる。

例えば石沢氏の作品に登場する主人公の刑事光野はかつてギャンブルにのめり込み、高利貸しから金を借り続けて借金まみれになり、それを当時の上司に助けられた過去がある。そうしたエピソードを付け加えることで当時の警察の規律のいい加減さや光野という登場人物に厚みをもたらしている。

それはまだやはり作家たちに終戦が経験として地続きであることが起因しているのではないか。実際本書においても終戦直後のことが盛り込まれた作品もあり、それを知らない戦後世代との会話も登場する。
この戦後の混乱を経験した作家に根付いた人間に対する観察眼はやはり非常に土着的で、そして野性的であるように感じる。それが登場人物に厚みと汗臭さをもたらしているのではないか。

平成は醤油顔が奨励され、濃い顔の男たちはソース顔と揶揄され、敬遠されたが、各編に出てくる登場人物たちはそんなあっさりとした面持ちを持たず、日々成長する当時の日本社会を象徴するかのように野心を持っており、翳を備えて、陰影に富んだ濃い顔の持ち主ばかりだ。

さてそんな珠玉揃いの短編。石沢英太郎氏の「噂を集め過ぎた男」、松本清張氏の「奇妙な被告」、土屋隆夫氏の「加えて、消した」が印象に残ったが、個人的ベストは西村京太郎氏の「優しい脅迫者」だ。
じわりじわりと強請りの金額を吊り上げる脅迫者と絶望感に苛まれる被害者。溜まらず最後の一線を超えた先に見えた意外な真相。読中は脅迫者のねちっこい強請りに終始心が粘っこくなるような嫌悪感を覚えたが、読み終えた時はその結末の温かさに思わずため息が漏れてしまった。初期の西村氏の作品には傑作が多いと云うが、本作もまたその中の1編であると云えよう。

まさに当代きっての日本を代表する推理作家が揃った短編集であるが、冒頭の本書刊行の経緯を記したEQJM委員会の序文によれば傑作でありながも日本独特の言語・習慣・歴史・風俗に基づいた作品は敢えて外されたとのこと。これも70年代当時の世界からの日本の認識度から考えれば仕様のないことだが、COOL JAPANとして外国人への日本文化の関心と認知度が増した現代ならばどうなっていたかと興味深いところではある。

また昭和の本格ミステリ界を支えてきた鮎川哲也氏と高木彬光氏の作品が選出されていないのは意外だった。
このアンソロジーはこの後2冊刊行されているが、今回の選考漏れから奮起してその名に恥じない傑作にて選出されていることを期待したい。

世界に日本のミステリを!その第一歩となった名アンソロジスト、エラリー・クイーン編集による短編集は期待値以上の読み応えがあった。
この後まだ2冊も残っている。つまりあと24編あるわけだ。
24回、読書の愉悦を堪能できる、なんとも贅沢なその時を待つこととしよう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
日本傑作推理12選 (1) (光文社文庫)
No.1297:
(8pt)

運命の2人、再び!

これは『ザ・ポエット』第2章か?
詩人の事件でコンビを組んだ新聞記者のジャック・マカヴォイとFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが再びタッグを組み、連続殺人鬼スケアクロウに立ち向かう。20世紀の敵、詩人(ザ・ポエット)と違い、21世紀の敵、案山子(スケアクロウ)は更に強力だ。スケアクロウことウェスリー・カーヴァ―は平時はデータ会社の最高技術責任者の貌を持つ男で、ウェブ世界を自由に行き来し、各会社のサーバーに容易に侵入し、個人情報を盗み出す。ジェフリー・ディーヴァーの『ソウル・コレクター』に出てきた未詳522号を髣髴とさせる。

従ってそんな敵に独り昔ながらの方法で取材を続けるジャックはいつの間にかクレジットカードを無効にされ、携帯電話は使用不可になり、個人のメールアカウントさえも乗っ取られてしまい、更には銀行口座も空にされ、まさに八方ふさがりの状況に陥る。

その一部始終も詳細に書かれている。スケアクロウは自分が行っている犯罪トランク詰め殺人に興味を持つ人間が集まるサイト、トランク・マーダーサイトを立ち上げ、それを捕獲サイトとしてアクセスした人のIPアドレスを入手し、それを別のサイト、デンスロウ・データに転送してそこから犯人はIPアドレスを捕獲する。そうすることでトランク・マーダーサイトから逆に自分のIPアドレスを探られるのを防いでいた。

そして転送されたサイトから入手したIPアドレスからアクセス元を辿り、そのパソコンにアクセスして個人情報を盗み見て、そこから更にその人物が使っているであろうパスワードを推測し、その人物が利用しているポータルサイトにアクセスして、成りすましてサーバー内に侵入する。それからはまさに独壇場。本人が送ったメールは削除され、誤導する内容のメールを送付して、自分の思うがままに周囲を、本人を操る。クレジットカード、メールアカウント、携帯電話、銀行口座などウェブを介して変更、更新が出来るものは全て意のままに操れる。

特にスケアクロウことウェスリー・カーヴァ―がジャックの後任アンジェラのブログ記事から飼っている犬の名前をパスワードにしていると推測して勤務先の新聞社のサーバーに彼女に成りすまして侵入していく有様はいかに我々一般人がウェブに関して無頓着に自ら重要な情報を明かしているのをまざまざと見せつけられる思いがした。

また今回の事件がトランク詰め殺人であることでどうしても同様の事件である『トランク・ミュージック』を想起させられてしまう。作中でもジャックの後任のアンジェラが過去のデータベースを引っ張った際に、ボッシュが担当したこの事件について言及される。
つまり本書は同時期に書かれた『ザ・ポエット』と『トランク・ミュージック』に21世紀という時代を掛け合わせた作品と云えるだろう。

さて今回の敵スケアクロウが殺害した女性はストリッパーであり、背が高く、長い脚と引き締まった身体つきをしており―FBI曰く、キリンのような女性―、膣と肛門を異物で何度もレイプした後、裸でビニールにくるまれて、その上から紐で首を絞められて窒息死させられる。そして下肢装具愛好者で拷問中にそれを被害者に付けていたと思しき痕跡が見られる。正真正銘のサイコパスだ。

そしてウェブサイトを自由に行き来できることから、そこで自分の好みに合った女性を見つけ、犯行に及ぶ。ジャックと取材していたアンジェラもスケアクロウの願望に見合ったがために、その毒牙に掛かってしまう。

そんな恐ろしい敵に挑むために再びタッグを組むことになったジャック・マカヴォイとレイチェル・ウォリングのそれぞれの状況は『ザ・ポエット』と本書では全く状況が異なる。

一介の地方紙の新聞記者に過ぎなかったジャックが『ザ・ポエット』の事件によって一躍注目を浴び、ロサンジェルス・タイムズ紙の記者になる立身出世の物語だったのに対し、本書は一度の離婚を経験し―なんとその相手はボッシュシリーズでお馴染みの新聞記者ケイシャ・ラッセル!―、そのロサンジェルス・タイムズ紙から解雇勧告を受けた立場であり、後任の新聞記者の引継ぎと教育を兼ねて最後のヤマとして取材している。
つまり上昇気流に乗っていたジャックに対し、本書では下降線を辿る新聞記者の起死回生の物語となっている。

一方レイチェルはFBIの花形部署、行動科学課のプロファイラーとして詩人の事件を担当していたが、ジャックとの件で新聞記者と寝た女というレッテルを貼られ、末端支部に左遷されてしまう。その後ボッシュと何度か組んだ事件でロスに再び戻り、諜報課勤務を続けている。但しそれは彼女の本分ではない部署ではある。

そして彼女は再び窮地に陥る。業務と称してマカヴォイの手助けをした際に専用ジェットを使用したことで経費濫用の罪に問われ、FBIを辞職させられる。

しかしその後ジャックの提案で独自で事件のキーとなるウェスタン・データ・コンサルタント社を捜査し、犯人の証拠を掴むことで再度FBIに復帰するのだ。

一方ジャックも事件の当事者の1人となることで一旦復職を許されるものの、その契約内容は収入減と各種手当が付かないという内容で、ジャックはそれを一蹴する。

ジャックもレイチェルも一旦は職を失いながらも、自分が見つけ、関わった事件で運命を変える。それは起死回生のチャンスだが、ジャックはそれでも自分に見合わない条件としてそれを蹴り、一方レイチェルはそれを受け入れ、再び殺人事件捜査の第一線へと戻る。

今回最も私が驚いたのがレイチェル・ウォリングのことだ。彼女は詩人の事件でジャックと恋仲になったことをFBI内に知られ、左遷され、長い間心が塞いでいくような閑職に追いやられた身だ。つまりそれは自らが招いたこととはいえ、ジャック・マカヴォイこそが彼女の輝かしい未来へのキャリアを棒に振る大きな要因だったことだ。そんな忌まわしい記憶が残る中に再びジャックに加担する理由が、彼女にとってジャックが“一発の銃弾”だったということだ。

これはボッシュがレイチェルに語った、誰でも1人忘れられない運命の人、心臓を撃ち抜かれた一発の銃弾のように、という説だ。つまりボッシュにとってエレノア・ウィッシュがそうであるようにレイチェルにとってそれはジャック・マカヴォイなのだ。

私はこれが非常に驚いた。ジャックはFBI女性捜査官の心を奪うほど人間的に魅力のある人物とこれまで思わなかったからだ。
新聞記者でいつもよれよれのコートを着て、煙草のヤニの匂いを漂わせて、警察やFBIに嫌悪されているような人物と想像していたからだ。私の中では俳優のマーク・ラファロのような風貌で、レイチェルは肩までのブロンドの髪をした細身の顔のクールビューティな感じで若い頃のティア・レオーニを想像させるような人物像である。
レイチェルがこれほどまでに惚れるジャックはよほどハンサムで魅力的なのだろうが、これにはどうも違和感がある。いや、単に私にとってお気に入りのキャラクターであるレイチェル・ウォリングがジャックに心底惚れていることに嫉妬しているだけなのかもしれないが。

ジャックの一人称で紡がれる物語は新聞記者の特性が実に深く描かれている。自身地方の新聞記者からロサンジェルス・タイムズ紙に引き抜かれたコナリーにとってジャック・マカヴォイは自らが色濃く反映されたキャラクターだろう。そこに書かれているのは新聞記者たちがいかにスクープを物にし、のし上がろうと貪欲に事件を追いかけている有様とそのためには他人を出し抜くことを厭わない不遜さを持っていることだ。

解雇通知を受け、後任となったアンジェラは事件記者としては新米ながらもジャックが追いかけることになったスケアクロウの事件を既にキャップと話してジャックの記事ではなく、2人の共同記事にすることをとりなして、一刻も早く大きな事件を扱えるように画策すれば、ジャックは自分の記事がセンセーションを巻き起こすことを期待して掴んだ手掛かりはいつまでも持っておく。更に自分が当事者になることで記者から取材対象者になると、解雇通知を受けたジャックに同情を寄せていた同僚は嬉々としてジャックに訊き込みを行う。
そんな生き馬の目を抜く、上昇志向の塊のような集団が新聞記者たちのようだ。即ちこれはコナリー自身の回顧録でもあるのかもしれない。

一方で顕著なのは花形とされていたメジャーメディア会社であるロサンジェルス・タイムズ紙が斜陽化してきていることだ。インターネットの発展でウェブ化が進み、新聞の発行部数は軒並み減少。従って経費削減としてリストラを行わなければならず、その憂き目にあったのがジャック・マカヴォイなのだ。
高給取りのベテラン記者を排し、安い月給の新人記者に取って換えようとする。実際ロサンジェルス・タイムズ紙は経営破綻し、会社更生手続きの適用を申請したそうだ。
コナリーも巻末のインタビューで応えているように、この新聞界を襲う未曽有の経営危機が本書を書く動機になったようだ。それは新聞界に向けたエールであると同時に鎮魂歌でもあるのかもしれない。

本書の題名であるスケアクロウ、即ち案山子はデータ管理会社におけるセキュリティ責任者の俗称だ。田畑を荒らしに来る害鳥たちから守るために付けられる見張り役、案山子のように、ウェブ世界の中を徘徊するハッカー、特許ゴロ、コンピュータ・ウィルスたちを見張り、データを守る存在だ。ウェスタン・データ・コンサルタント社でその任に当たるウェスリー・カーヴァ―がこの連続殺人鬼であることから題名は来ている。

一方ジャックの上司であるドロシー・ファウラーがその名前から『オズの魔法使い』の主人公に擬えられていること、そしてこの作品にも案山子が登場していることは何らかのメタファーなのかと思ったが、これが本当にそうだった。

しかし今回もまたストリッパーに絡んだ事件だ。コナリーの物語は本当にこのストリッパーや売春婦たちが巻き込まれる事件が多い。
そしてウェスリー・カーヴァ―はハリー・ボッシュと同様に母親がストリッパーである。ストリッパーが母親でありながらもボッシュは悪に染まらず、罪を裁く側の人間となった特別な存在だと強調するかのようだ。

しかしディーヴァーの『ソウル・コレクター』の時もそうだったが、今回は実にリアルで寒気を感じた。情報化社会でもはやウェブがなければ生活できない我々がいかにインターネットに、情報端末に依存して生きており、そして自分たちの秘密をそこにたくさん放り込んでいることに気付かされた。
そしてそれがある意味自身の生活を、いや自分自身のアイデンティティそのものを容易に侵す可能性を秘めていることも改めて思い知らされた。

ブログやツイッター、ラインにフェイスブック、インスタグラムなどに代表されるSNSに我々はいかに無防備に自分をさらけ出していることか。悪意あるハッカーたちやクラッカーたちが虎視眈々と狙っている付け入る隙を自ら提供しているようなものである。

しかしこれからはキャッシュレス化が進んでいけば、更にこのウェブで生活や仕事達の大半を処理していく傾向は強まることは避けられない。
そうした場合、何が問われるかと云えば、本書でも言及されているように、堅牢なシステムは無論の事ながら、それを扱う人間の資質だ。他人を盗み見ることが常態化し、悪い事とは思えなくなってくる、いや寧ろ他人の情報すらも容易に手中に出来ることで自らを一般人とは上位の存在、神と見なして他者を単なる名前やIDだけの文字だけの存在としか認識しなくなる怪物が育ち、悪用されるのが恐ろしい。
某通信教育会社がデータ管理会社の社員によって金になるという理由でユーザー情報を流出して売り払らわれていた事件を目の当たりにし時と同じ戦慄を覚えた。なんでもそうだが、結局行き着くところは「人」なのだ。

つまりこのウェスリー・カーヴァ―は単に創作上の怪物ではない。本書は実際に起こりうる事件であり、ありうる犯人であるからこそリアルで恐ろしいのだ。

しかしコナリーのストーリー運びには今回も感心させられた。特にジャック・マカヴォイが事件の結び付きを発見していくプロセス、レイチェルが行うプロファイリングの緻密さ、畳み掛けるように起こる2人への危難とそれを打倒する機転。それらは実に淀みなく展開し、全く無理無駄がない。よくあるデウスエクスマキナ的展開さえもない。全てが必然性を持って主人公の才知と読者の眼前に散りばめられた布石によって結末へと結びつく。

ジャック・マカヴォイとレイチェル・ウォリング2人が最高のコンビであることを再度確信した。

悔しいが、こんなに面白く、そして知的好奇心を刺激され、なおかつ爽快な物語を読まされたら、2人はお似合いであると認めざるを得ないだろう。再びこのコンビでの活躍を読みたいものだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
スケアクロウ(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリースケアクロウ についてのレビュー

No.1296:

ZOKU (光文社文庫)

ZOKU

森博嗣

No.1296:
(8pt)

まさに世代ど真ん中でした

犯罪未満の壮大な悪戯を世間に仕掛けて喜ぶことを目的とした黒古葉善蔵率いる非営利団体Zionist Organization of Karma Underground。通称ZOKU。

それに立ち向かうのは木曽川大安率いる科学技術禁欲研究所Technological Abstinence Institute。通称TAI。

この2つのチームの戦いを描いた連作短編集が本書である。

まず第一話「ちょっとどきどき」では暴音族なる騒動が世間に起こっていることが語られる。
まずはイントロダクションとも云うべき1編。お騒がせ悪戯集団ZOKUの悪戯の数々とそれを防ぐTAIの面々の顔合わせだ。

続く「苦手な女・芸術の秋」ではTAIの木曽川大安の秘書、庄内承子が初登場する。
なんと本書ではTAI所員のヒロインの永良野乃がエース揖斐純弥に惚れてしまうという事態が起こる。単にシリーズを続けるだけでなく、登場人物たちに発展を見せる、流石は森氏。エリート然とした揖斐のやや子供っぽい側面と思いもかけないところから来るプレゼントに恋愛経験の浅い永良野乃がほだされていく一部始終が描かれていて好ましい。

「笑いあり 涙なし」ではZOKUにも新キャラクターが登場する。
前回で揖斐に興味を、いや恋心を抱き出した永良野乃の揖斐へのアタックは本書でもまだ続く。いやむしろ前回では意識し出して手探り状態だったところに、最後揖斐が全く野乃のことを意中にないことが判明しただけに逆に野乃のプライドに火が着いて自分の方に気を向けさせようともっと積極的に、明らさまに気持ちを出していく様が描かれる。
一方ZOKUではバーブ・斉藤というまた濃いキャラクターが登場する。秘密兵器として満を持しての登場だが、直接ロミ・品川とケン・十河との絡みがないのでまだまだイントロダクションと云ったところだ。

展開に捻りが利いているのが「当たらずといえども遠からず」だ。
封筒に書かれた内容通りに従うと馬券が当たり、福引で特等が当たるという、ミステリとしても非常に興味深い題材。そして永良野乃の望みが巨大ロボの操縦という途方もない物だったことから、なんと計画が頓挫してしまう。実に意外な展開だ。
しかしそれよりも30半ばのロミ・品川と新入社員の20代半ばのケン・十河のジェネレーションギャップ溢れる会話が実に面白い。スカートめくりの件は爆笑もの。しかしスカートめくりかぁ。既に私が小学生の頃でも1,2人、しかも低学年の時にそんないたずらっ子がいただけである。本当に学校で流行っていたんだろうか?

最後の「おめがねにかなった色メガネ」は森氏らしくツイストが効いている。
敵同士が仲がいいとこんなツイストの効いた展開をも起こりうるのか。機関車好きの木曽川と派手好きな黒古葉。しかしそれぞれの所有する乗り物に密かに憧れを抱いていたことを率直に打ち明け、それぞれの立場を一日交換して思いを果たそうという、何とも子供じみた、いや少年の心を失わない大人たちの遊び心が横溢している。それを果たすためにそれぞれがお面を被ってやり過ごすのが面白い。黒古葉は縁日で売っている類の鉄腕アトムのお面を被り、一方木曽川は頭からすっぽり被るスペクトルマンのマスク―実にマニアックだ―を被る。逆にこの2人がそれぞれTAIやZOKUでやり過ごす様子と少年の頃のように機関車、ジェットの操縦席に座って胸躍らせるシーンが印象強くて、正直今回の悪戯についてはどうでもよくなってしまう。


さてこれは森版『ヤッターマン』とも呼ぶべき作品か。

犯罪にまでには至らない被害の小さな、しかし見過ごすには大きすぎる悪戯を仕掛けるZOKUとそんな悪戯に真面目に抵抗し、阻止せんと追いかけるTAI。

それは「ヤッターマン」における、ドロンボー一味とヤッターマンを観ているかのようだった。

さてそんな「まじめにふまじめ」を行うZOKUのメンバーは、黒幕の黒古葉善蔵にロミ・品川、ケン・十河、バーブ・斉藤で構成されており、プライベートジェットを根城としている。

一方「ふまじめをまじめ」に阻止しようとするTAIは白い機関車を基地にしており、木曽川大安を所長に、揖斐純弥、永良野乃、庄内承子が主要メンバーである。

木曽川と黒古葉はお互い実に親しい幼馴染でいがみ合っていない。寧ろ顔を合わせた時にはお互い談笑する仲だ。昔から悪戯好きだった黒古葉とそれを真面目な木曽川が少年時代から尻ぬぐいしてきた仲である。つまりこれは2人の大富豪が日本全国を舞台に繰り広げる壮大なお遊びなのだ。

各編の悪戯は暴音族、暴振族、暴図工族、暴笑族、暴占族、そして暴色族。

ある特定の場所のみに騒音を発生させる、振動を発生させる、色んな制作物を置いて、そのまま放置する、笑う場面でない時に笑いを起こす、占いで未来を当てて、次には大外れを食らわす、希望した色とは違う色が出てくる。

物によっては軽犯罪にも該当するし、子供の悪戯の延長でしかないことを費用と労力を大いにかけて全国に亘って行う、それがZOKUだ。

それを阻止するために警察に協力して彼らを追うTAI。

このような善対悪の物語は総じて悪の方に魅力があるのだが、流石はキャラ立ちの森作品、そのキャラクター性は双方勝るとも劣らない。

まずTAIの面々はそれぞれ苗字が河川、それも中部地方を流れる川の名前になっているのが特徴(永良野乃だけ漢字が異なるが)。
そしてTAIの頭脳、揖斐純弥と木曽川の孫でヒロインである永良野乃との恋の駆け引きが本書の読みどころの1つとなっている。とはいっても永良野乃が一方的に揖斐を好きなだけで自分に振り向かせようと揖斐にモーションを掛けるが発明好きの揖斐は朴念仁で気付いているのか気付いていないのかまともに取り合わない。彼にとっては野乃は単に所長の孫でTAIのメンバの1人でしかないのだろうが、例えば靴をプレゼントするが、それに合う服がないので野乃が履かないでいるとその靴に合う服を買ってあげるよ、なんて云われれば女性はその意外な提案に自分に気があるのかと思うはずである。こういうやり取りが女性のみならず、私のような男性も思わず微笑んでしまうのだ。
なお永良野乃は敵ZOKUのメンバーの1人、ケン・十河がファンになるほどの容姿の持ち主である。

揖斐と野乃の歳の差は12歳で揖斐の方が年上。犀川と萌絵の関係や、保呂草と紫子の関係のように森氏はこの年上男子に年下女子が一方的に恋をするという設定がどうも好きなようだ。

またZOKU側の面々の名前はカタカナ表記の名前に日本の苗字と一昔前の芸能人のようなネーミングが特徴。ロミ・品川とバーブ・斉藤はその元が解ったがケン・十河は解らなかった。

そして年増の―といっても30代半ばらしいが―ロミ・品川もまた揖斐に潜在意識下で恋心を抱いていることが判明する。

そしてこの30代半ばのロミ・品川と新入りのケン・十河のジェネレーションギャップによって起こるトンチンカンな会話が実に面白い。特にスカートめくりの件は爆笑ものだった。ちなみに私はロミ・品川に近い側の人間。

最初の3編はZOKUとTAIの真っ向勝負やTAIの野乃がZOKUにさらわれる、野乃が囮になってZOKUたちをおびき寄せる、といった真っ当な善対悪の構図で物語は描かれるが、4話目になると野乃の意外な希望から思った以上に金がかかり、計画が途中で頓挫したり、双方のボスが一日交換ボスになるといった森氏ならではの展開を見せる。そう、このTAIの所長木曽川とZOKUのボス黒古葉もまた実に憎めない人物なのだ。

一大財を成し、遊ぶお金と自由な時間を手に入れた2人が始めたのは日本全国を巻き込んだ正義と悪の対決ごっこ。こんなワンアイデアから生まれた本書は稚気に満ちていて実に愉しい読書の時間を提供してくれた。

そして作中に出てきたZOKUの数々の悪戯は恐らく森氏が日ごろから想像している「やってみたら面白い事」の数々であるに違いない。大人になって出来なくなったこれらの悪戯、いや大人にならないとできないが実際やれば逮捕されてしまうから出来ない悪戯を森氏はZOKUの面々に託したのだろう。

幸いにしてこの後もシリーズは続き、この憎めない輩たちと再会する機会があるようだ。次作を愉しみに待つとしよう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
ZOKU (光文社文庫)
森博嗣ZOKU についてのレビュー
No.1295: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

ある意味作者自身の未来を予見した作品

二階堂作品で初めて『このミス』ランクインしたのが本書。二階堂蘭子シリーズとしては3作目に当たるが文庫刊行順としては2冊目なのでこちらを先に手に取った次第。

第1作目の『地獄の奇術師』は乱歩の世界が横溢した作風で、昔ながらの本格ミステリ復興への意欲が迸った作品だったが、見え見えのミスディレクションに見え見えの犯人、そして最後に後出しジャンケンのように出される観念的な動機の応酬に辟易したので、この作者に対する印象はいいものではなかった。

そして第1作目読了から11年が経った今、ようやく2冊目を手に取ったわけだが、一読非常に読みやすく、更に本格ミステリ趣味に溢れていながらも警察の捜査状況も、慣例事項など専門的な内容も含めてしっかり書かれており、意外にも好感が持てた。

文庫本にして約600ページ弱に亘って繰り広げられる本書には本格ミステリのありとあらゆる要素がぎっしりと含まれている。

世俗とは一線を画すカトリック文化の中で生活をする修道院の面々。

その中で起きるヨハネ黙示録に擬えた連続見立て殺人。

過去の情事という過ちで出来てしまった娘に逢いに来たアメリカ人司教は首を切断された上に全裸で枝垂桜に吊るされている。

≪修道院の洞窟≫と呼ばれる門外不出の文書が収められた地下洞窟。

数々出てくる暗号はそれを解くことで地下洞窟に導かれる秘密の抜け穴へと繋がる。

そして暗号の解がなければ一度迷い込めば出ることが叶わぬ地下の大迷路。

夜な夜な繰り広げられていたとされる修道院長による悪魔的儀式。

その儀式に使われていたとされる、イエス・キリストの遺骨とも云われている幻の水晶の頭蓋骨。

さらに3つにも上る暗号。

江戸川乱歩や横溝正史、はたまたジョン・ディクスン・カーが織り成すオカルティックな本格ミステリの世界観を見事に盛り込んだ作品を紡ぎ出している。

ケレン味という言葉がある。
それは物語をただ語るだけでなく、作者独特の世界観に読者に導くはったりや嘘のような演出のことだ。先に挙げた乱歩や正史、カーや島田荘司氏などの作品はこのケレン味に溢れている。

そしてまた二階堂黎人氏もまたケレン味の作家である。上に書いたガジェットの数々は自分が面白いと感じた古今東西のミステリの衣鉢を継ぐかのように過剰なまでにケレン味に溢れた作品世界を描き出す。

しかし残念なのは探偵役の二階堂蘭子がまだまだ類型的なキャラクターに感じられることだ。

警視庁副総監を父親に持つことで一大学生が警察の捜査に介入できる特権を持っているというご都合主義の設定に、昭和40年代で200万円以上の高値で取引される画家二階堂桐生を叔父に持つ。

この辺りの設定は二階堂蘭子及び黎人2人の主人公たちをいけ好かないブルジョワ階級の、我々庶民である読者とは隔世の存在としているため、どこか親近感を抱くのを阻んでいる感じがある。

とはいえ昨今の本格ミステリは有栖川有栖氏の臨床犯罪学者火村然り、警視を親に持つ法月綸太郎然り、どこも似たような感じであるから、受け入れるべきなのだろう。

しかし今回この万能推理機械のように思われた二階堂蘭子に弱点が発覚する。そのことで本書で初めて二階堂蘭子が類型的な万能探偵から一歩抜きんでた思いがした。

さてその蘭子たちが出くわす聖アウスラ修道院に纏わる謎は二階堂氏のケレン味溢れたサーヴィスによって実に多彩だ。

まずは物語の発端である、二階堂蘭子たちが聖アウスラ修道院に招聘されることになった密室状態の≪尼僧の塔≫から落下した太田美知子という生徒の転落死。

突如落盤した≪修道士の洞窟≫で生き埋めとなって亡くなった前修道院長マザー・エリザベス。

枝垂桜に首なし死体となって逆さ吊りの状態で遺棄されたトーマス・グロア司教。

≪尼僧の塔≫の再び密室状態の≪黒の部屋≫から火を着けられたまま何者かに落とされて亡くなったシスター・フランチェスコ。

水車に巻き込まれて亡くなった厨房係の梶本稲。

トーマス・グロア司教殺害の容疑者とされていたその息子梶本建造は突然の失踪するが地下の≪修道士の洞窟≫の中の棺の中で遺体となってみつかる。

しかしこれらの事件がそう簡単な構造でないことは読み進むにつれて明らかになってくる。

終わってみればまさに惨劇であった。

ただ本書はこれら連続殺人だけを語るわけではない。これら一連の事件を彩るケレン味が面白いのだ。

更に地下洞窟にその道筋を辿る暗号解読の妙味と、作中でも引用される二階堂氏がこよなく愛する古典ミステリの傑作へのオマージュがとことん詰め込まれている。

ど真ん中の本格ミステリをこよなく愛するがゆえに、その愛が深いだけに亜流や境界線上の本格ミステリに対して「○○は断じて本格ミステリではない!」、「本格ミステリとは斯くあるべきだ」と持論を強硬に展開するあまり、本格ミステリ論争まで仕掛けて、論破されそうになると正面からの抗議を避け、外側の部分で議論を煙に巻くという愚行に出た二階堂氏。私はこの「『容疑者xの献身』本格ミステリ論争」における氏の無様な姿に大いに失望した。

更にその後島田荘司氏を旗頭として掲げつつ、『本格ミステリ・ワールド』というムックを立ち上げ、いわゆる『俺ミス』と揶揄されるようになる、自身の認める本格ミステリを「黄金のミステリー」と題して選出するようになった。
その結果、このムックはほどなく休刊に至る。

ミステリという宗教の中で本格ミステリのみを信奉し、それ以外のミステリを排するようになり、そして世間の目がやがて自身の好む本格ミステリから外れた作風へ嗜好が変化しそうになると、それを認めず、自分好みのミステリ選出をしてご満悦に至る。

折角これほどまでにたくさんの本格ミステリガジェットと豊富な知識を盛り込んだ面白い作品を書けるのに、それを他に強いるのは愚の骨頂である。
作者は己の信じるものを自身の作品で語ることで答えにすればよいだけだ。それを絶対的真理や定理のように強要するのは決してやるべきでない。

聖アウスラ修道院の惨劇は数年後に自らが招いた二階堂黎人氏の惨劇になってしまった。
彼があの日あの時、本書を読んでいたらあのような愚行は避けられたのではないか。
未来の自分を予見したのは実はあの論争を引き起こす12年前の自分であった。実に皮肉な話である。



▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
聖アウスラ修道院の惨劇 (講談社文庫)
二階堂黎人聖アウスラ修道院の惨劇 についてのレビュー
No.1294: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

戦時下に乗り合わせた名のある乗客たちのミステリ

HM卿シリーズ11作目の本書は1999年に国書刊行会から刊行されたものの改稿版。約19年を経てようやく文庫化となった。

そんなディクスン作品でも希少な部類に入る本書の舞台はなんと船上ミステリ。第二次大戦下のニューヨークからイギリスへ渡航する大型客船で起きる殺人事件を扱っている。

本書の冒頭で作者のディクスンは自身が第二次大戦開戦直後に経験したニューヨークからイギリスへの船旅の経験を基に作られたことが記されている。1本の作品にするほどこの船旅は作者の印象に強く残ったそうだ。

更に本書は第二次大戦下での客船の大西洋渡航という設定がミソとなっている。それはつまり大型客船でありながら、イギリスへの軍需品を輸送するミッションを負っているため、乗船が許されたのは喫緊にイギリスに渡る必要のある9人しか乗れなくなっているのだ。つまりこれは海上の館物と云っていいだろう。

その9人のメンバーは以下の通り。

主人公を務めるマックス・マシューズは元新聞記者で乗船した客船の船長フランシス・マシューズの弟。彼は火災現場の取材中に事故に遭い、片脚に大怪我をしたが、幸いにして全快したものの、取材に同行していたカメラマンを事故で喪い、そしてそのまま辞職した。そして新天地ロンドンで新たな職にありつくために渡航している。

ジョン・E・ラスロップはニューヨークの地方検事補で、ある殺人犯を追っている。しかも凶悪な恐喝犯カルロ・フェネッリのお目付け役でもある。

トルコ外交官夫人でもうすぐ離婚する予定の妖艶なエステル・ジア・ベイ夫人。

イギリスの実業家ジョージ・A・フーパーは息子が重病のため、急遽帰国することになった。

その他医師のレジナルド・アーチャーにフランス軍人のピエール・ブノア。謎めいた若き女性ヴァレリー・チャトフォードと貴族の子息ジェローム・ケンワージー。

そして最後に隠密裏にイギリスへと戻るHM卿ことヘンリ・メリヴェール卿。

しかし上に述べたようにそれぞれの乗客に急遽イギリスに戻らなければならない、のっぴきならない事情があるとは明確に書かれていない。今回の事件でエドワーディック号に乗船した本来の動機が明らかになるのはブノア、チャトフォード、ケンワージーぐらいである。

第2次大戦時下という緊迫した状況下での軍需品輸送の密命を帯びたイギリス渡航中の客船を舞台にディクスンが仕掛けた謎は船上での殺人現場に残された指紋に船内に該当する人物がいないという実に奇天烈な物。単に船内の登場人物に限定しない第三者の介入と、更に陸地にある館とは異なる、どこからも部外者が侵入できない船上で第三者の介入がなされたという不可解な謎を用意しているのだ。

更に殺人事件はそれだけに留まらず、第2、第3の殺人が起きる。

久々に読んだカーター・ディクスン作品だが、謎また真相は小粒でありながら全てが収まるべきところに収まる美しさが本書にはあった。同じ客船を舞台にしたドタバタ喜劇が過剰な『盲目の理髪師』よりもこちらを私は買う(ところで本書でも客船での理髪師とHM卿のやり取りが殊更ユーモアに書かれている。これは前掲の作品に呼応したものだろうか?)。

特に指紋のトリックは21世紀でありながら私は本書で初めて知った。

また犯人特定の鍵に使われた様子のない髭剃り用のブラシに着目するところはクイーンのロジックの美しさを感じさせる。

つまりある意味カーター・ディクスンらしからぬロジックの美しさが感じられる作品なのだ。

また注目したいのは本書の舞台が第2次大戦時下というところだ。
複数の国を巻き込んだこの世界大戦において無数の人間が死ぬ状況。そんな中で軍需品輸送の密命を帯びた客船に同乗した9人の乗客とその船員たちはそれぞれに名を持ち、そしてそれぞれに使命を、希望を、そして思惑を持っている。大量に人が死ぬ時代に9名の人間が意志ある人間として描かれ、そして殺人劇が繰り広げられているところに本書の意義があるように思える。

世界中で人が次々と死に、誰がどこでどのように死んだのかの確認が後手後手になり、結果、名もなき兵士たちによる死屍累々の山が築かれる中、名を持った人間たちが戦争に加担する船に乗り込み、そして命を落とすところが意義深い。

しかしこうも順調にジョン・ディクスン・カー及びカーター・ディクスン作品が新訳刊行されていることは非常に喜ばしい。
HM卿シリーズで未読の作品は残すところ3作品となった。そのいずれもが早川書房からかつて刊行された作品であるが、もはや著作権は切れているのでこの際東京創元社から引き続き新訳刊行してもらいたいものだ。ギデオン・フェル博士シリーズも、その他歴史ミステリ、いやカー作品を全て網羅してほしいものだ。

私が生きているうちにカー作品コンプリート出来ることを願っている。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
九人と死で十人だ (創元推理文庫)
カーター・ディクスン九人と死で十人だ についてのレビュー
No.1293:
(7pt)

バチバチにやり合おうぜ!

ボッシュシリーズと並ぶコナリーのシリーズ物として現在も作品が発表されているリンカーン弁護士ミッキー・ハラーシリーズ第2作。1作目が好評で映画化もされたが、コナリー自身もこの作品をもう1つの彼の作品の主軸にするためか、磐石の態勢で2作目を送り出した。

そう、2作目で早くもボッシュとハラーが共演するのである。しかも『ザ・ポエット』で主人公を務めた新聞記者ジャック・マカヴォイも登場させている。さらに物語半ばでは『バッドラック・ムーン』のキャシー・ブラックらしき女性がかつての依頼人であったことも仄めかされている。
これはコナリーがこのミッキー・ハラーをボッシュ・ワールドにさらに積極的に取り込むことで、もう1つのシリーズの軸として成立させようと本書にかなり強い意気込みを掛けていることが解る。

異母兄弟でありながら、刑事と弁護士という水と油の関係の2人。
ボッシュはしかも刑事の中でも犯罪者の悪を許さず、組織の中で予定調和的解決がなされようものならば、それに逆らい、辞職の危機に追い込まれてもなお、徹底して悪を断ずる姿勢を崩さない、いやむしろ法が悪を裁けない場合は自らの手を汚してまで成そうとするほど、自分の正義を貫く男だ。

一方ハラーは依頼人が実際に罪を犯していることを知っても、あらゆる方面から捜査の粗を見つけ出し、その無効性や不当性を主張し、事件そのものが起きなかったぐらいにまで陪審員を説き伏せ、依頼人の無罪を勝ち取り、報酬を勝ち取ろうとする男だ。彼にとって明らかに正義よりも自身の富と名声のために弁護士をやっているような男だ。

作中でも「コインの裏表のようなもの」とお互いを評しているほど、こんな相反する男たちがどうやって協力し合うのか。さすがは物語後者のコナリー、実に上手い設定を導入する。

ボッシュが捜査をするのはハラーの依頼人の事件ではなく、ハラーに依頼人をもたらすことになった彼の友人の弁護士が殺害された事件の捜査なのだ。つまりハラーは友人の無念を晴らすために犯人を捕まえることを求めているため、2人の向くベクトルは全く同じなのである。なんと絶妙な筆捌きではないか。

しかしそれもやがて崩れてくる。ボッシュの捜査はやがてエリオットの方にも手が伸びてくるのだ。
確かにこれは必然といえば必然。殺害された弁護士が衆目を集める裁判を担当していたとなればそこに事件の火種があると思うのは当たり前だ。したがってこの異母兄弟は次第にお互いの仕事と任務を護るために反発しあうことになる。

さてそのハラーだが、前作で担当したルイス・ルーレイの事件で負った拳銃で撃たれた傷の治療を受け、十分傷が癒えないまま仕事に復帰したことで痛みが再発し、再手術の後、再度療養期間をおいて2度目の復帰を果たしたばかりで2年間仕事をしていなかった。しかもその期間には鎮痛剤による薬物依存に対するリハビリも含まれていた。つまり彼は弁護士として薬物依存のキャリアという弱みを持つことになった。それが今後彼の経歴や仕事で爆弾として発動するのかも読みどころだ。
またその経験が同じく治療中の鎮痛剤の依存症に陥って窃盗容疑を掛けられた元プロサーファー、パトリック・ヘンスンを助けることに繋がる。ハラーは怪我でプロサーファーの道を断たれ、一度はコソ泥の身まで落ちぶれた彼が更生している姿を見て、その中に復活しようとする自分の姿を見出したのだろう。ヘンスンを助け、自分のお抱え運転手として雇うことにする。
ハラーとヘンスンがどのようなタッグを組むのか、これもまたシリーズの今後の読みどころの1つになりうるだろう。

また前作でルーレイに殺害された刑事弁護調査員ラウル・レヴンの後任となるシスコこと、デニス・ヴォイチェホフスキーは大柄で威圧感のある、ハーレーを乗り回す元暴走族という異色の経歴の持ち主。しかし彼は逮捕記録もなく、もめごとも一切起こさなかったクリーンな人物でハラーは彼に絶大なる信頼を寄せている。そしてハラーの元妻で秘書のローナ・テイラーと付き合っている。

このように1作目から登場人物も刷新され、一旦リセットされた感もある。つまり前作はイントロダクションとすれば本書がシリーズの基礎を作り、そして本格的な始まりを示す作品であると云えよう。

やはりこういうリーガル・サスペンスで面白いのは我々一般人では未知の世界である法曹界の常識や戦術などが垣間見られるところだ。
人は感情の動物である。いかに論理的に説明しても感情的に割り切れなければどうしてもそちらに引っ張られてしまう。陪審員制度では法律の素人である彼らの心をいかに掴むかが重要になってくる。つまり人間心理を熟知するものこそ法廷を制するのだ。
そこには正義よりもむしろ法廷を支配線とする情熱が勝るといっていい。したがってハラー達弁護士、起訴する側の検察はいかに陪審員たちに印象付けるかに腐心する。長々と主張することが必ずしも彼らの興味をひくものではなく、簡潔かつ明瞭に説明する方が印象に残る。さらにとっておきの仕掛けは法廷が閉まる直前に放つことで陪審員に印象づかせて翌日まで持ち込ませるなど、自分の味方につけさせるために彼らはありとあらゆることを仕掛ける。

また今回最も読み応えがあったのは検察側と弁護側がそれぞれ陪審員を選定するシーンだ。延々30ページに亘って描かれるその攻防は人を読む目が試されるプロセスが詳細に書かれている。
日本も裁判員制度が採用されたため、本書に書かれていることはまさに他所事ではなくなった。日本でも同様なことが行われているのだろうか?
そしてもし私が裁判員に選ばれたとき、私は法廷に立つまでに至るだろうか、など考えさせられた。

今回ハラーが弁護を担当するウォルター・エリオットは映画会社会長兼オーナーといったセレブ。彼は妻の浮気の現場を目撃して感情に駆られて妻と間男を射殺した疑いで訴えられている。

しかし終わってみればこれまでのコナリー作品のキャラクターが登場する割にはさほど大きく関わらなかったという印象だ。
まずジャック・マカヴォイはほとんど蚊帳の外的な扱いだったし、ボッシュも節目節目で出てくるとはいえ、いつものような押しの強さが少なかったように思う。特に物語の主軸であるエリオットの事件に関わると見せながらも最後までその核心には迫らず、外周を廻ってハラーの動きを見ていた、いわば裏方的な存在だった。
これはどこまでシリーズキャラクターの共演を期待するか、読み手側の受け取り方によって本書の感想は大いに変わるだろう。

それで私はと云えば、やはり初の2大シリーズキャラクターの共演と謳うならば、もっとゴリゴリお互いの立場を主張して争ってほしかった。上にも書いたが、いかなる犯罪者も自分の手を汚してまで裁くことを厭わないほどの極端な正義感の持ち主である警察側のボッシュと、その人自身が犯罪者か否かは問わず、弁護士として成り上がるためにはいかなる手練手管も尽くして依頼人を無罪に持ち込もうとする弁護側のハラーという、自分の道を信じる男同士の熱いぶつかり合いとその中で生まれる友情を見たかったのが本音である。すでにボッシュがハラーを異母弟と認識していたことで彼が敢えて身を引いて、寧ろ擁護者的な立場でハラーを見守っていたのが私にはボッシュらしくなく、また物足りなく感じたのだ。

今後はもっとゴリゴリボッシュとやりあうことを期待しよう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
真鍮の評決 リンカーン弁護士 (上) (講談社文庫)
No.1292: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

良き友と悪夢との再会と再戦と

少年時代は忘れ得ぬ思い出がいっぱい。良い物も忘れたいような悪い物も全て。
本書は自分のそんな昔の記憶を折に触れ思い出させてくれ、そしてその都度私は身悶えするのだ。羞恥心と未熟さを伴いながら。

刊行された1992年、本書が当時それまでに刊行された著書の中で最大の長編作品だった。単行本では上下巻、文庫では全4巻とかなりの分量なのだが、その後もキングは折に触れ『ザ・スタンド』、『アンダー・ザ・ドーム』、『11/22/63』といった大長編を著し、この『IT』もその中の1冊となってさほど珍しくなくなってきた。しかし当時はその分厚さに面食らったものである。

さて文庫版にして全1,886ページに亘って繰り広げられるお話はデリーという架空の町で起きる、26,7年ごとに甦る“IT”と呼ばれる人殺しピエロとの戦いの話だ。子供の頃に“IT”と対決した子供たちが28年前に交わした血の誓いに従い、、28年後に現れた“IT”と再び相まみえる、と非常にシンプルな内容の話だ。

たったそれだけの話になぜこれだけの分量を費やすのか?
大きく分けて3点特徴が挙げられる。
1つは物語が1958年に“IT”と戦う7人の子供たちのキャラクターの背景と彼ら彼女らが出逢うまでの顛末が語られるからだ。

2つ目は“IT”との戦いを経た7人の子供たちそれぞれのそれまでの人生を語るからだ。彼らが誰と結婚し、何をしているのかが詳細に語られる。

3つ目は1958年の“IT”との戦いと1985年現在の彼ら彼女たちの戦いとが交互に語られるから。
不思議なことに大人になった彼らは仲間のうちマイクから“IT”復活の電話が掛かってくるまで彼らが少年時代に行った“IT”との戦いについてはすっかり忘れていた。そしてそのことを思い出してもどうやって戦い、そして勝利したかを思い出せないでいる。従って彼らは過去の戦いの様子を思い出しながら“IT”と対峙していく。
さてそんな物語の発端は28年前にデリーで起きた6歳の子が“IT”に襲われる話があり、その後、時は1984年に飛び、“IT”が再びデリーに現れたことが語られ、そしてデリーに住むマイク・ハンロンから28年前に“IT”と対峙した仲間たちへ招集が掛けられる様が描かれる。

招集が掛けられたのは次の面々だ。

市場調査会社を営むスタンリー・ユリス。

お得意の声帯模写を活かしてDJになったリチャード・トージア。

斬新なデザインで注目を浴び、ヨーロッパとアメリカを行き来する建築家のベン・ハンスコム。

セレブ専門のハイヤーの運転手エディ・カスプブラク。

ファッション・デザイナーのベヴァリー・ローガン。

ベストセラーを出し、注目のホラー作家ビル・デンブロウ。

唯一デリーに留まっているマイク・ハンロンは図書館員だ。

しかしそのうちのスタンリー・ユリスは“IT”の悪夢に耐え切れず、マイク・ハンロンからの連絡の後、すぐに浴室に入り、自殺してしまう。

しかしその他の彼らは28年前の悪夢に対峙するのを恐れおののきながらも、仲間と交わした血の誓いに従って、全てを擲ってデリーに戻る。それぞれ明日の仕事や今やらねばならない仕事を抱えながら、それらを全てキャンセルしてまで、デリーへと向かう。

ところでキングの短編に「やつらはときどき帰ってくる」という作品がある。

それは高校教師の許に少年時代にいじめられた不良グループが再び当時の姿で舞い戻ってくるという作品だ。

28年前の悪夢との対峙を扱った本書は単にその時町を恐怖に陥れた怪物の対決のみならず、過去の自分とそして自分の忌まわしい記憶との対峙でもある。

人は最悪の時を迎えた時、時が過ぎればそれもまたいい思い出になる、笑い話になる、そう願いながらその最悪の時をどうにか耐え抜き、やり過ごそうとする。何もかもが順風満帆な人生などはなく、そんな苦い経験、忘れたい屈辱などを経るのが大人になることだ。
時がそんな負の思い出を浄化し、いつしか他人に語れるまでに矮小されていくのだが、そんな苦い過去を想起させる出来事が再び起きた時、それはつい昨日の出来事のように思い出される。

そして自問するのだ。あの時の自分と今の私は少しは変わったのか、と。

例えばベン・ハンスコムは今は注目のハンサムな建築家として周囲の耳目を集める存在だが、彼の小学生時代は「おっぱい」と揶揄されるほどのデブで、しかも周囲に友達がおらず、いつも一人で図書館に行って、本を借りて楽しむのが習慣となっていた。

エディ・カスプブラクは喘息持ちで大女で過剰にエディの健康に干渉する母親の支配下にあった。

ビル・デンブロウはどもりの激しい少年で嵐の後に自分が作った紙の舟で遊びに行った後、死体となって見つかった6歳の弟を自分が殺したと思い込み、またその弟の死で家庭が一気に冷え込んだことを憂いていた。

リッチー・ドーシアは歯科医を経営する、息子に理解ある親の許で育てられた、比較的裕福で恵まれた子供である。

そして彼らにはヘンリー・パワーズを筆頭にしたヴィクター・クリス、ゲップ・ハギンズらの不良グループたちという共通の天敵がおり、常にいじめの的にならぬよう、びくびくしていた。

そんなかつてとても怖かったいじめっ子と再び出くわすかもしれない恐怖、密かな想いを持っていた相手との再会。お互いそんなこともあったと笑って話せるほど、自分の中で折り合いがついているのか、と自分に問うことになる。

故郷に戻ることは即ち追いかけてくる過去に囚われることでもある。

但し過去は全て忌まわしい物ばかりではない。その時にしか得られない体験や友達が出来、それもまた唯一無二なのだ。

下水道のダム作りに関与したことでベン・ハンスコムは初めてビル・デンブロウとエディ・カスプブラクと知り合い、友人となる。更に彼らの共通の友人リッチー・ドーシアとスタンリー・ユリスとも。ようやく彼はベストフレンドを見つけたのだ。

どもりのビル・デンブロウは初めて自分の手持ちの金で買った中古の自転車をシルバーと名付けた。彼の体格では大きすぎるその自転車を彼は見事に乗りこなす。ビルはシルバーに乗っている時は無敵だった。

その無敵感は男の子ならば誰でも解る想いだ。自転車は初めて自分たちの世界を広げてくれる魔法の乗り物だった。そんな思いがビルの体験を通じて想起される。

最後に彼らの仲間に加わるマイク・ハンロンはデリーの町でも唯一の黒人で周囲から「そういう目」で見られている。
彼の父親ウィルは自分たちが「くろんぼ」と蔑まれる存在であることを自覚し、そんな蔑視や不当な扱いからは逃れられない運命であると受け入れ、そんな社会に負けないように息子に諭す、強い父親だ。

彼はビルたちとは違う教会学校に通っていたが、ある日親子ともどもハンロン家を忌み嫌うヘンリー・パワーズに追いかけられたマイクが逃げ込んだ荒れ地でビルたち仲間と遭遇し、ヘンリー・パワーズら悪童一味と戦い、勝利することで仲間になる。

この7人が、運命とも云える出逢いを果たし、仲間となるシーンが何とも瑞々しく、爽やかで無垢な人間関係が築けた私の少年時代の思い出を誘う。初めて出逢っても一緒に遊べばもう友達になっていたあの、楽しかった日々を。
そしてビル、ベン、リッチー、エディ、マイク、ペヴァリー、スタンらが出逢った時にまるでカチッとパズルが収まるべく場所に収まったようなあの想いもまた、仲間としか呼べない強い結び付きを感じさせるあの瞬間を思い出させてくれる。
そう、私にもそんな時期が、そんな出逢いがあったことを。

さてそんな彼らが対峙する“IT”とはどのような怪物なのか。この長い物語を読んでいる間、私は様々な想像を巡らせた。

最初に登場した時はボブ・グレイと名乗るペニーワイズと異名を持つピエロとして現れる。しかしそれぞれの目の前に現れる“IT”の姿は一様に異なる。

それらはつまり彼らの潜在意識下における恐怖の象徴ではないか。

そして大人になってデリーに戻り、再び“IT”と対峙する時、“IT”は彼らが少年あるいは少女だった頃に出逢ったおぞましい姿で現れる。

“IT”はつまり彼らが少年少女時代に抱いたトラウマなのかもしれない。

それが強調されるのは一同が28年ぶりに再会するデリーの<東洋の翡翠>という中華料理店で最後に皆でフォーチュン・クッキーを割るシーンだ。彼らが割ったフォーチュン・クッキーからは彼らが潜在的に意識していた当時抱いていたトラウマそのものが現れる。

そしてそれは彼ら6人以外には見えない。特別な絆を持つ彼らしか見えないのだ。

この“IT”が巣食うのはデリーの街の下水道の奥の奥。もはや迷路と化した地下の大下水道網に潜んでいる。そして彼はそこから街の川や排水口から現れて子供たちをさらって、あるいは殺していく。

人々の営みをクリーンに保つならば、不浄なるものを集める場所が必要であり、排水施設はその1つだ。つまり下水道は街が、そして人々が清潔に暮らしていくためにそれら負の要素を一手に引き受けた場所だと云えよう。
昔から蓄積された不浄なるものは即ち町の暗部であり、人々の排泄物や汚物が集まる場所はある意味人々が表面をクリーンに取り繕うための掃き溜めとも云えるだろう。それはどこか後ろ暗いところを感じさせ、そんな負の要素を“IT”は食らい、それをまざまざと人に見せつけて恐怖を誘い、餌にして街を周期的に恐怖に陥れる。
ある意味“IT”は人々が長く続く平和のために忘れがちなことを思い出させてくれるリマインダーのような役割を果たしているのかもしれない。
そう人々が戦争の愚かさを忘れないために敢えて戦争を起こすような、逆説的に教訓を与える、一種の体罰のように人々の心に恐怖として心に深く刻みつけさせるように。

しかしなぜ彼らは再び戻って“IT”と対決しなければならないのか。
彼らが少年時代にそうしたように、第2のビルたち<はみだしクラブ>がデリーに現れ、彼らに任せてもいいのではないか。
しかもマイク・ハンロンからの電話がなければ彼らは“IT”のことはすっかり忘れていたのだから。

まだ純粋さが残っていた彼らは再び“IT”が戻った時、「そうしなければいけない」という義務感に駆られたからだ。

しかし時間は人を変える。少年時代の約束を未だに守ろうとすること自体、難しくなっている。それはそれぞれに生活が、守るべきものがあるからだ。

しかし彼らは1人を覗いてそれまでの暮しを、仕事を擲ってまでも集まる。つまり“IT”とは子供の頃を約束を愚直なまでに守る大人たちがまだいてほしいというキングの願望によって生み出された作品なのではないだろうか。

キングは冒頭の献辞にこの物語を捧げていることを謳っている。その結びはこうだ。

“―魔法は存在する”

この魔法とは30年弱の周期でデリーの街に現れる“IT”と呼ぶしかない災厄を少年少女が討ち斃す奇跡を指していると捉えるだろうが、忙しい現代社会で人間関係が希薄になりつつ昨今において、少年少女時代に交わした約束を守り、大人になったかつての少年少女が再会し、再び対決すること自体がキングにとって“魔法”だったのではないか。
30年近くの歳月を経ても再会すればかつての気の置けない気軽な友人関係に戻る、これこそが友情という名の魔法ではないだろうか。

私はキングが自分の子供たちに魔法は存在するのだから今の友達を大切に、とそれとなくメッセージを込めているように思えた。

このデリーの街はキング作品にはお馴染みの街で当然ながら他の作品とのリンクも見られる。
まず同じく架空の街キャッスル・ロックの気の狂ったおまわりが女性を何人も殺した事件は『デッド・ゾーン』のフランク・ドッドのことだろう。
そしてマイク・ハンロンの父ウィルが軍隊に入っていた頃に知り合った炊事兵ディック・ハローランは『シャイニング』の舞台≪オーバールック≫ホテルのコック、ハローランのことだ。

また目に見えない絆で結ばれた7人の友達。彼らの溜まり場である荒れ地。悪童一味との決闘。これらを読んでいくうちに同作者の傑作中編「スタンド・バイ・ミー」との近似性が頭をよぎる。あの作品に横溢するノスタルジイを存分に描きつつ、それをベースとしてキングお得意の原初体験を絡め、そして大人になった仲間の再会と共通の敵との戦いを描くにはキングにとってこれだけの分量が必要だったのだ。

ただそうはいってもやはり本書は長い。冗長と云ってもいいだろう。
私は本書に先んじて本書よりも長大な『ザ・スタンド』を読んでいたが、同書はいくつも展開が起き、悪対正義の構造を根底に置きながらパンデミック小説、ディストピア小説、ロードノベル、また閉じられたコミュニティの中で起きる人間関係の軋轢など、場面展開や物語の趣向が変わるなど、変化と起伏に溢れた作品だった。

しかし本書は物語の構造としては実にシンプルであり、舞台もデリーがメインであまり動きがない。1つの場所で繰り広げられるのは1958年の過去と1985年の現在の話。そして今回はディテールに筆を割き過ぎているきらいがあり、なかなか前に進まないもどかしさを感じてしまった。
作者の狙いは過去と現在の主人公たちの“IT”との戦いをシンクロさせることで大人の彼らが徐々に戦い方を思い出し、そして打ちのめされそうになった時に再び過去を思い出して力を得るという構造を打ち出したことでそうなったのだが、正直全てのエピソードが“IT”との最終決戦に寄与したかと云えば、やはりかなり無駄な話もあったように思える。

私はエピソードは嫌いではない。寧ろ歓迎する方だが、1,900ページ弱もの分量を必要としたかは今回は疑問に感じた。

“IT”はキングの長い作家生活の中で数あるターニング・ポイントの1つとして挙げられる作品だろう。確かにそれは感じたが、それは決していい意味ではない。
キングをあまり好きではない読者はその冗長さを挙げることが多いが、私はそれまでそのことを感じなかった。確かに普通の作者ならば省略するであろう時間の流れをキングはじっくり書くが、それが冗長とは思えず、物語を膨らませるために必要な要素として描かれ、またそのエピソードも読み応えがあった。

しかし本書で私は初めてキング作品を冗長と感じた。
書きたいことが沢山あり、恐らくキング自身がこれらビル、ベン、エディ、リッチー、ペヴァリー、マイク、スタンら7人に愛着を抱いていたことから色々と詰め込んだのだろうが、それら全てに必然性があったとは思えなかった。

“IT”。
このシンプルな代名詞はその時の会話や場面で示すものが、意味が変わる。たった2文字の中に宇宙よりも広い意味を持つ。
そして“それ”とか“あれ”とか“IT”を示す言葉が会話に多くなった時、それは健忘症の兆しだともいう。本書の主人公たちも“IT”の存在は忘れてしまい、そして戦いに勝利した後もまた忘れていっている。

“IT”とは私たちが老いと共に大事な何かを忘れていくことの恐ろしさ自体を現した言葉なのかもしれない。そして40も半ばを超えた私にもこの“IT”に当たる、忘却の彼方にある、何かがあるのではないか。
そう、それこそが“IT”なのだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
IT〈1〉 (文春文庫)
スティーヴン・キングIT(イット) についてのレビュー
No.1291: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

第4森ミステリ問題集

森氏はシリーズのそれぞれ5作目、10作目と5作ごとの節目で短編集を刊行する。本書はVシリーズ10作目の節目に刊行された短編集だ。

口火を切るのは「トロイの木馬」。
本書でまず驚かされるのは2002年時点で書かれたとは思えない情報技術の世界の先駆的内容だ。
ネットワーク世界を舞台にすると虚実の境が曖昧になり、何が現実で非現実なのかが解らなくなってくる。21世紀では既にそのような作品が映画、ドラマ、小説も含めゴマンと出ているが、本作はそれらに系譜に連なる作品だ。

私は常々森氏は短編では文学的抒情が引き立つ作風になる傾向があると第1短編集から思っていたが「赤いドレスのメアリィ」はその傾向が顕著に表れた作品だ。
かつて裏に自分のレストランがあったビルにあるバスの待合所に来る日も来る日もメアリィさんと呼ばれる老婆が待っていたのは、その昔愛した男だった。
妻子ある、その常連はメアリィと呼ばれる女主人に最愛の妻の若かりし頃の面影を見ていただけだった。しかしそれがために彼は女主人に好かれるようになり、妻の嫉妬を買うようになって、ついに諍いが起き、メアリィさんが亡くなるという事態が起きた。遺体は川に遺棄したが、発覚する前に主人は恐れをなして自首した。
色んな憶測が語られる中で物語は閉じられる。
人を待つ。何ともシンプルな行為だが、これほど孤独を感じさせる行為もない。しかもその行為が長ければ長いほど人はその人の待ち人に対する思いの深さを思い知らされる。
数多あるこの種の作品がいつも胸を打つのは待っている人の想いの深さが計り知れないがゆえに感銘を打つからだ。そして本作もまた同じだ。
老いてなお若かりし頃の衣装を身に着け、バスの待合所に一日中座るその老婆はしかし最後どこを見るでもなく、老人を迎えに来た運転手に手を取られて去っていくが、もうその頃には本来の意味、誰を何のために待っていたのかは彼女の中では解らなくなり、ただ毎日その行為をしなければならないという本能だけが残っていたのではないか。
やがて人に忘れられる町の片隅の神話。そんな物語だ。

「不良探偵」はサトル君と呼ばれる人物の一人称叙述の作品だが、サトル君とは云っても30代の新進作家である。
知覚障害者の従兄シンちゃんを持つ、図らずも書いた作品がベストセラーになり、一躍有名になった作家サトル君の恋人が殺される事件の真相について語った話だ。
但しシンちゃんが知的障害者で一般の人よりも能力が劣っていることが語られるが、この語り手であるサトル君も人に関する興味や好奇心を持つ感情が非常に薄い人物で彼もまた他の人たちとは違っているようだ。恋人の真由子は彼にとっては単に親しいだけの友人のようにしか捉えてなく、作家になって有名になり、色んな美女がサトル君の許を訪れ、勝手に泊まり込みで世話をするようになっても、彼自身はその女性に対しても興味もなく、また真由子がそれに対して気分を害しても特段気にしない、非常にドライな性格である。
題名の不良探偵とはシンちゃんのことを指すのか、それともサトル君のことを指しているか。恐らくどちらもだろう。
無関心であることがクールと思われている時代だが、それも限度を超える全く人の気持ちなどが解らない人間になってしまう。本作は無関心さが招く罪を描いた作品とも読めるだろう。

非常に私的な内容だと思えるのが「話好きのタクシードライバ」だ。
多分に森氏のタクシーに関する思いが吐露された、半ばエッセイとも云える作品だ。仕事で電車やバスではなくタクシーを利用する語り手はその内容からも森氏自身と云っていいだろう。物語の核心である高齢のドライバが語る昔話に至るまでのタクシードライバのエピソードの数々が非常に実感を伴って面白い。
そして高齢ドライバのまだ高速が開通していない頃の名古屋から岡山まで乗せることになった話もなかなか面白い。実際の話ではないかと思われる。
そして最後のオチもまた同様ではないだろうか。しかしそれがミステリとなっていることは確か。まさにこれは作者自身が遭遇した“日常の謎”ミステリだったのではないだろうか。

「ゲームの国」はとあるセメント会社の社員食堂を切り盛りしている星茂一家と祖父から受け継いだ丸味スープ会社を経営するリリおばさんが社員食堂で起きた殺人事件を解き明かす話だ。
ミステリとしては実に簡単な部類に入るが、三重県にあるセメント会社の社員食堂が舞台と妙に設定が細かいところが妙におかしい。
そんな非常に狭い人間関係の中でアクセントとされているのがリリおばさんが会長を務める回文同好会の作品数々。その数も内容も様々でしかも各登場人物の特徴がよく表れるように色んなパターンと内容の回文が横溢する。特にリリおばさんの作品は会長だけあって単に文字を無理矢理並べただけでなく、意味もそして文章も含めてもはや芸術の域にある。全て作者が考え付いた作品なのだろうか。

「探偵の孤影」はハードボイルド調の私立探偵小説だ。
なぜ海外を舞台にしているかは不明だが、失踪人捜しという典型的な私立探偵小説のスタイルを取りながら、最後に森氏ならではのツイストを利かせているのがミソ。
唯一妹を殺した東洋人の後に来た銃を撃った男が結局何者だったかが解かれないまま謎として残る。

最後の1編「いつ入れ替わった?」はS&Mシリーズの短編である。
衆人環視の中での消失トリック、または入れ替わりのトリックは昔からある、いわば「開かれた密室」トリックであり、本作のトリックもそのヴァリエーションを再利用しているだけであるが、タクシーを運搬の道具に使っているところが斬新。
しかし何よりも本作はシリーズのその後が補完されていることで、とうとう西之園萌絵と犀川の仲に進展が見られることが読者にとって最も大きなサービスとなっている。


森氏は既にいくつかの短編集を出しているが、本書はいわゆる森作品の本流を成すS&Mシリーズ、Vシリーズの幕間劇的に5作目ごとに刊行される短編集に連なるもので4冊目に当たる。

私は遅れてきた森作品の読者だが、逆に今だからこそ書かれている内容が理解できるものがある。そう、森作品に盛り込まれているIT技術は刊行当時最先端のものだからだ。

それが電脳世界を舞台にした1作目の「トロイの木馬」。この作品は島田荘司氏が21世紀初頭に当時生え抜きのミステリ作家たち数名に新たな世界の本格ミステリ作品を著すとの呼びかけにて編まれたアンソロジー『21世紀本格』に収録された作品で、システムエンジニアを主人公とした物語だが、一読、これが2002年に書かれたものであることに驚愕を覚えた。
ここに書かれている在宅勤務による電脳世界―この用語ももはや死語と化しているが―を介しての仕事、ネットワークトラップである「トロイの木馬」のこと、更には小型端末と表現されたモバイル機器と16年後の今読んでも全く違和感を覚えない現代性がある。いやむしろ発表当時に読んでも全く何を書いているのか解らなかったのかもしれない。IT社会として情報化が進み、タブレットやスマートフォンが流布した現代だからこそ理解できる内容だ。

また今回初めて気付いたが、収録された作品のほとんどが一人称叙述で書かれていることだ。7作中6作が一人称叙述だ。しかも三人称叙述で唯一書かれているのがS&Mシリーズの1編だけであり、それ以外のノンシリーズ物は全て一人称叙述なのだ。

以前も書いたが長編が非常にクールかつドライで一定の距離感を持った、理系人間が書く論文めいた作風であるのに対し、短編は幻想的かつ抒情的でセンチメンタリズムを感じさせる、文学趣味が横溢した作風と趣が異なっているのが特徴だ。
長編が左脳で書かれた作品とすれば短編は右脳で書かれた作品とでも云おうか。そしてどこか非常に森氏の日常や感情が短編には多く投影されているように思える。いわゆる森氏の人間的エキスが色濃く反映されているように思えるのだ。

例えば「不良探偵」は語り手のサトル君の恋人だった真由子との別れの話だが、他者に対してさほど関心を持たない彼は真由子が自分が養うから気に食わない仕事だったら辞めてしないなよとまで云うほど、彼のことを慕っているのが明確なのに、彼はそれを友人としての忠告としか受け取らず、そして作家となって売れ出した時に他の女性が家に入ってくることを拒まず、さらにはその中の1人と一緒に映画にも云ったりするほど、真由子の想いに対して鈍感だ。そしてその真由子はそんな現状に絶望して彼の前を去るわけだが、この物語にも森氏の若かりし頃のある女性との思い出が反映されているように思える。

最たるは「話好きのタクシードライバ」だ。これはもうほとんど森氏自身の話と云っていい。エッセイとも云えるタクシーに纏わるエピソードの物語だ。ここではほとんどグチのような内容が書かれている。

またどこまで本気なのか解らないが内容にそぐわないタイトルである「ゲームの国」は『今夜はパラシュート博物館へ』にも同題の物があり、それは森作品のタイトルのアナグラムが横溢していた。そして今回は回文。つまりタイトルのゲームの国とは恐らく言葉のゲームに親しむ作者自身の稚気を優先した作品世界そのものを指しているようだ。

ちなみに前回は森博嗣氏のアナグラムである礒莉卑呂矛が探偵役でしかも磯野拡の事件簿1と副題についていたが、今回はリリおばさんの事件簿1と付いている。今後本当にそれぞれアナグラムと回文を扱った遊びに淫したミステリが書かれるのか、森氏の気まぐれというか遊び心の1つと取って期待しないでおこう。多分また新たなシリーズ探偵が出てくることだろう。

そして何よりもボーナストラックとも云うべきはS&Mシリーズの「いつ入れ替わった?」だ。本作では上にも書いたように引っ付いては離れ、または平行線を辿るかと思えば、接近していくが寸前のところで決して接しない反比例の双曲線とX軸、Y軸のような2人の関係に進展が、それも大きな進展が見られる。

シリーズ本編の最終作で肩透かしを食らった感のある読者は本作を必ず読むことをお勧めする。

さて本書のベストを挙げるとすれば「赤いドレスのメアリィ」となるか。何とも云えない抒情性を私は森氏の短編に期待しているが、それに見事に応えてくれた作品である。
ただある女性の長い待ち合わせが終わりを告げたことだけが事実として残る。

恐らくはシリーズファンにしてみれば「いつ入れ替わった?」は渇望感を満たす1編になるだろうが、やはり私は西之園萌絵にそれほど好意的ではないのでベストとまでには至らない。

しかし本書のタイトルは何を示すのだろうか。英題を直訳すれば「隙間だらけの行列の逆数」となるか。しかし使われている単語はいずれもコンピュータ用語にも使われる物で「ボイド形態となったマトリックスの逆数」となるか。
いずれにせよ深読みさせて、結局何の意味もないというのが森氏の真意なのかもしれない。

しかし全てを明かさないスタイルは本書も健在。読者はただ単純に読んでいると本書に隠された謎や真意、真相が見えなくなっている。もしかしたら私がまだ気づいていない仕掛けがあるのかもしれない。
作者のこの不親切さはある意味ミステリを読む姿勢が正される思いがして、うかうか気が抜けない。読者もまた試されている。そういう意味では森氏の短編集は問題集のようなものになるかもしれない。

さて次回の演習も私は十分説くことができるだろうか。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
虚空の逆マトリクス(INVERSE OF VOID MATRIX) (講談社文庫)
森博嗣虚空の逆マトリクス についてのレビュー
No.1290:
(8pt)

チャンドラーの文体でロスマクの緻密なプロットで物語を紡いだ理想のハードボイルド小説

探偵沢崎シリーズ第2作。
今回沢崎はいきなり事件の渦中に巻き込まれる。低い声の女性から家族の行方不明についての相談という依頼の電話で指定の場所を訪れるといきなり誘拐事件の現金の運び屋として指定されるのだ。そしてそのために沢崎自身も誘拐事件の共犯者の1人として警察に目を付けられる。

本来依頼人が来て事件を調べていくうちに、事件の関係者から脅迫を受け、またいわれのない誹りを被る、更に自身にも危険が及ぶというのが作者原尞氏が尊敬するチャンドラーのハードボイルド小説だが、今回作者が選んだのは沢崎自身をいきなり事件の真っ只中に放り込み、そして警察から犯罪者の1人として疑われる、ノンストップで訪れるハードな状況なのだ。
しかもそれら一連の流れは実にスピーディ。冷静な沢崎を翻弄する犯人の手際の良さ、そして沢崎に訪れる不測の事態、更にそれによって起こる誘拐された少女の死と原氏は次々と沢崎にピンチを与え、休む暇を与えない。
そしてそれは読者もまた同じで、次から次へと繰り出される犯人の工作に沢崎同様にどんどん事件に引きずり込まれていく。

物語の流れは実に淀みがない。
起こりうるべきことが起き、そして巻き込まれるべき人が巻き込まれ、そして沢崎もまた行くべきところを訪れ、全てが解決に向けて繋がっていく。そしてじっくり練られた文章は更に洗練され、無駄がない。
無駄がないというのは必要最小限のことだけを語った無味乾燥した文章ではなく、原氏が尊敬するチャンドラーを彷彿させるウィットに富んだ比喩が的確に状況を、登場する人物の為人を描写する。特に対比法、類語を重ねた描写がそれぞれの風景や人物像を畳み掛けるように読者に印象付けていく。
真似して書きたくなる文章が本書にはたくさん盛り込まれている。

そして第1作からも徹底されていることだが、毎朝新聞や読捨新聞といったどこかで聞いたような名前の架空の新聞名、チェーン店名を使うのではなく、原氏は現実にある新聞社や雑誌名、店舗名を作中に織り込む。それがリアルを生む。
更に沢崎が読む新聞記事の内容に実際に起きた事件や出来事を織り込むことによって物語の時代が特定できるようになっている。作中では決してある特定の日付を挙げているわけもなく、調べればそれが出来ること、またそれが沢崎が我々の住まう現実にいるようにさせられるのだ。

例えば競馬のエピソードで一番人気のサッカーボーイが日本ダービーで15着に終わるという実に不本意な結果だったことから1988年5月29日前後の事件であることが解る、と云った具合だ。

そして失踪した沢崎のパートナー渡辺賢吾が過去に絡んだ事件も明らかになってくる。

そして偶然にも沢崎は容疑者を追っている最中にこの渡辺と邂逅を果たす。それは一瞬の間のことだ。彼はその一瞬で渡辺と目が合い、また離れていく。
その一瞬にそれまでの彼らの足取りが凝縮されたような印象的なシーンだ。

また本書が作者自身が身を置く音楽業界が一枚噛んでおり、物語の至る所にそれらの情報や知識、はたまた音楽論などが散りばめられて興味深い。

ヴァイオリニストの少女に纏わるクラシック音楽界の話、音大を出て音楽の世界に進むそして作者自身が身を置くジャズの話。
特に登場人物の1人でロック・ミュージシャンをやっている甲斐慶嗣の話は音楽業界に精通した原氏が知る人物の断片を垣間見るようだった。音大の教授をしている父親の指導でヴァイオリンを始めるが挫折してその親へ反抗するかのようにロック・ミュージックの世界に身を置き、その日暮らしを続けるような身。音楽イベントを企画するが採算が取れなく数百万単位の借金を抱えるが、それを返済するだけの、色んなバンドやアーティストのバックバンドとして引き合いで演奏する技術と信頼がある。

さて私が前作を読んだのはちょうど11年前。まだ30代だった頃だ。当時の感想を読むとその時の私とはこの探偵沢崎シリーズを読んだ心持はいささか異なっている。

定義云々は別にして原氏の紡ぐ作品がハードボイルド小説の前提で話すと、ハードボイルドとはつまり自分を貫くために人に嫌われることを厭わない生き方と云えるかもしれない。
そして夜の世界に生きる人々の話であるとも。

それは作者自身が夜に生きる民族の一員であるがゆえにこのような世界が書けるのだ。
作者が本書の主人公沢崎のように自分の矜持を貫くがゆえに警察に疎まれ、調査に関わる人々に嫌悪感を示されるような人であるとは思えないが、作者の中に沢崎は確実にいる。
それはミステリマガジンで14年ぶりの新作『それまでの明日』刊行記念で組まれた原尞特集での過去から今まで至るインタビューからも原氏のどこか一般人と異なる生き方や性格からも推し量れる。つまり原氏は昔ながらの作家なのだ。

そして改めてこの探偵沢崎の物語を読んで今まで読んできたチャンドラー、ハメット、マクドナルドの系譜に連なるハードボイルドの探偵というのはなんと罪深き職業なのだろうかと感じた。

他人の依頼で人の生活に土足で立ち入り、あれやこれやと聞く。そして全てを疑い、手練手管を駆使して相手の弱点を掴むとそこに付け入り、協力を強制する。

自分が疑われることを好む人は決していないだろう。従って探偵が事件の調査のために出逢う人は決して良い感情を持たない。いや寧ろ災厄の運び手としてご容赦願いたい存在だ。
更にどんどん付け入り、そして知られたくない家庭の事情まで云わされる。

沢崎もまたそうだ。探偵という職業が長い彼もそういった人の心の隙間に付け入り、情報を得る、もしくは利用する術を心得ている。

しかしそうすることでまた彼も何かを失っているように思える。それは自分という人間に対しての好意であり、代わりに自己嫌悪を得るのだ。

かつて大沢在昌氏はある小説で「探偵は職業ではない。生き方だ」と述べたが、まさにそれは沢崎そのものを指しているようだ。
そして彼は探偵という生き方しかできないから、他人の目を憚ることなく、自我を通し、そして畢竟、自分を嫌うしかないのだ。

他者におもねることなく、誰がなんと思おうが自分の信じる道を貫き、そして自分が知りたいことを得るためには周囲が傷つこうが構わない、そんなハードボイルドの主人公の姿にかつては憧れを抱いたものだが、私も歳を取ったのだろう、そんな生き方をする沢崎が何とも不器用だと感じざるを得なかった。
探偵とは他人が今を生きるために隠してきた過去や取り繕ってきた辛い現実を炙り出してまで真実を知ろうとする執念を貫く生き方だ。そしてその代償として自分の中の大切な何かを失う生き方だ。

特に今回沢崎が自分がまるで突然絡まれた事故のように関係した少女誘拐事件において、自分のヘマで身代金を渡すことができなかったがために殺されることになった少女に対して一種の引け目を抱いているだけに、被害者の家族関係者に容赦なく立ち入っては、無礼なまでに踏み込んで質問し、そして嫌われる。

特にそれが顕著に表れるのが被害者真壁清香の告別式に出席した時だ。沢崎にとっては言いがかりでしかないが、身内を、しかも幼い身内を無残にも殺された遺族のやりどころのない怒りが自分に向くのを知りつつも出席し、そして予想通りに清香の母親恭子とその従兄たちであり、また沢崎自身が調査した伯父の甲斐正慶の息子3人に献花を差し戻されて退出するよう促されながらも、そんなことを強要される覚えはないと再度清香の棺に花を捧げ、乱闘を引き起こす件は沢崎の愚直なまでの自我の強さを印象付けるシーンだ。
以前ならばこの沢崎の対応をカッコいいと感じただろうが、40半ばを過ぎた今の私は大人気ないと感じた。

しかしそうでもしないと事件は解決しないのだと最後まで読むと悟らされる。人の感情を揺さぶるほどに他者のプライベート・ゾーンに土足で入り込むほどタフでないと明かされるべき真実は白日の下に晒されないのだ。

真相に行き着くまでの関係者たちそれぞれが抱える大小の家庭の問題。

表面では解らないそれぞれの生活における負の要素が浮き彫りにされる。

本書は従ってチャンドラーの文章を備えたロス・マクドナルド的家庭の悲劇をテーマにした私立探偵小説だ。つまり本格ミステリ的要素を備えたロスマクのプロット力をチャンドラーの魅力ある文章で紡いだ、理想的な私立探偵小説なのだ。

これだけの物を著すのに数年かかるところを本書は第1作の翌年に出版されている。そしてその後短編集を出した後、6年ぶりに長編第3作を、そして9年ぶりに長編第4作、14年ぶりに第5作とそのスパンはどんどん長くなっている。

しかし私の読書もまた同じようなものだ。次の短編集『天使たちの探偵』を読むのは恐らく同様の歳月を経た後だろう。その時の私がどんな心持で探偵沢崎と向き合うのか。

私にとって探偵沢崎シリーズを読むことは沢崎と私自身の人生の蓄積をぶつけ合うようなものかもしれない。
前作を読んだ時は沢崎は憧れだった。しかし今回読んだ時は沢崎は若気の至りをまだ感じさせる矜持を捨てきれない男だと感じた。

次に出逢った時、私は沢崎にどのような感慨を抱くだろうか。

沢崎は変わらない。ただ私が変わるのだ。
私がどう変わったかを知るためにまた数年後読むことにしよう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
私が殺した少女 (ハヤカワ文庫JA)
原尞私が殺した少女 についてのレビュー
No.1289: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

これは別の世界のミステリ

現在エラリー・クイーンの諸作の新訳が創元推理文庫のみならず角川文庫からも相次いでなされており、本書もその一環として刊行された。
通常私はこういった新訳版は既読作品では手を出さなく、本書も最初はそのつもりだったが、旧訳版では収録されていなかった「いかれたお茶会の冒険」と序文が収録された、完全版であると知ったため、改めて入手して読むことにした。

従ってそれ以外の短編については感想は書かず、ここでは未読作品である「いかれたお茶会の冒険」とその他旧訳版との相違や当初気付かなかったことについて述べていきたい。

さてその「いかれたお茶会の冒険」はエラリーが友人のリチャード・オウェン邸に招かれたところから始まる。
邸の主人の失踪事件が本書のメインだが、正直この事件の犯人は読者の半分は推測できるに違いない。そしてその動機も読んでいると自ずと解る、非常に安直なものだ。

しかしそこから死体の隠蔽方法、更にエラリーの犯人の炙り出しが面白い。

アリス尽くしのガジェットに満ちた作品なのだ。

派手さはないがクイーンの見立て趣味とまた犯人を特定するためには罠をも仕掛ける悪魔的趣向などが盛り込まれた作品でエラリーがロジックのみでなく、トリックも施すことを示した作品だ。

今回この「いかれたお茶会の冒険」以外は再読だったが、改めて読むとクイーン作品のリアリティの無さに再度苦笑せざるを得なかったと云うのが正直な感想だ。

およそ現実の警察捜査とは思えない、パラレル・ワールドで繰り広げられているエラリーの特権的立場がどうしても今読むと違和感を大いに覚えてしまう。父親が警視としても素人に堂々と事件現場を入らせて、手袋もせずに証拠となりうる物品を触らせたり、移動させたりすることは到底あり得ないし、更には警察と同等の職権を保証する許可証を持っているといった飛び道具まで登場する。そんな探偵、いや推理作家はどこを探してもいないだろう。
子供、学生の頃であればそんなエラリーを特別な存在として尊敬し、その超人的頭脳によるロジックの美しさに感嘆もするだろうが、やはり今この歳で読むとあまりにも受け入れ難い。もしかしたら私自身古典の本格ミステリを受け付けなくなってきているのかもしれない。

さて冒頭にも述べた旧版との比較をここからしてみよう。

まず「アフリカ旅商人の冒険」ではエラリーを大学に招いた教授の名前が旧訳版ではアイクソープ教授となっているのに対し、本書ではイックソープ教授と表記が改められている。 “イッキィ―退屈でつまらないと云った意味”、“イック―いやな奴という意味がある―”といった洒落が出ていることから恐らくはこちらが正しいのだろう。

また旧版とはタイトルが若干変えられているのもあり、冒頭に挙げた未収録作品だった「いかれたお茶会の冒険」は当時は「キ印ぞろいのお茶の会の冒険」となっている。このキ印という言葉、2018年の今ならばほとんど死語だろう。「きちがい」の隠語として使われていたが、今となってはそんなことを知る人も少なくなり、また「きちがい」もまた差別用語となっているから、変えざるを得なかったのだろう。

また「三人の足の悪い男の冒険」も旧版では「三人のびっこの男の冒険」だったが、これも同様に「びっこ」が差別用語に指定されていることによる改題だろう。

また久々にクイーンを読んで気付かされるのはエラリーが事件を介して美女と出逢う機会が多く、そして明らかに口説こうとしている節が見られるところだ。

「ひげのある女の冒険」で住み込みで働く看護婦クラッチの連絡先を知りたがったり、「見えない恋人の冒険」で絶世の美女と評される容疑者の恋人アイリス・スコットにはもう少し早く出会いたかったと他人の恋人であることを嘆き、「七匹の黒猫の冒険」で出逢ったペットショップの店長ミス・カーレイもその大きな瞳に惚れ、助手よろしく彼女と共に事件解決に乗り出す。また最後の短編「いかれたお茶会の冒険」でも女優のエミー・ウェロウズといい雰囲気になって一緒に列車に乗っていく。

そしてご存知のようにそれら全ては行きずりの女性であり、エラリーはニッキー・ポーターという相性のいい女性と何作か組みながらも結局生涯のパートナーを得られずにシリーズを終える。つまりはエラリー・クイーンにはロマンス要素を持たせるのはあくまで読者の興味を惹くための一要素として扱うに留まり、それを発展してクイーン自身の人生と事件とを結びつけるまでには至らなかったということだ。

その後のクイーン作品がロジックと探偵の存在意義について長く思考を巡らせていくことからも解るように、人間としてのエラリー・クイーンの深みをもたらせるのを捨て、ミステリそのものについて考えを深めていくことになった。それが日本の本格ミステリファンにとってクイーンの絶対的存在性を高めることになったのは事実だが、逆に本国アメリカでほとんど忘れられた存在となっているのがこのキャラクター小説としての深みに欠けるからだろう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
エラリー・クイーンの冒険【新訳版】 (創元推理文庫)
No.1288:
(7pt)

まだまだキング初期の短編集なのに各登場人物の鮮烈さに驚く

『骸骨乗組員』、『神々のワード・プロセッサ』との三分冊で刊行された短編集『スケルトン・クルー』の最後の三冊目であるのが本書。

まずは本書のタイトルにも掲げられているミルクマンの話から始まる。

「ミルクマン1(早朝配達)」は不穏な空気だけを纏った作品だ。
本作はスパイクと云う名の牛乳配達員“ミルクマン”が顧客が玄関前に掲げたメモ通りに注文の品を置いていく様が描かれるのだが、それぞれの品は呑むと死に至る毒類が入っている。タランチュラが入れられた空のチョコレート牛乳のカートン、酸性ジェルを詰めた多用途クリーム、ベラドンナ入りのエッグノッグに有毒のシアン化ガス入りの牛乳瓶。
夜明け前の澄み切った空気感の描写が鮮明なこの作品はそんな不穏な空気さえも朝の爽やかな空気で吹き飛ばしてしまう妙な爽快感がある。

次もミルクマンの話だ。「ミルクマン2(ランドリー・ゲーム)」はしかし、更に一層不穏な感じのみ漂う作品だ。
1作目はまだ色々想像を働かす余地があったものの、2作目の本作は本当によく解らない。1作目でもスパイクの口から出てくるランドリー工場の従業員ロッキーが本作の主役。
色々解らないことだらけの作品だが、その妙な雰囲気と理屈の通らなさが余韻を残す。

「トッド夫人の近道」は実に奇妙で、そして心くすぐられる作品だ。
こんな奇妙で美しい話はまさにキングしか書けないだろう。車を乗る人達は目的地にどのルートを辿れば一番早く着くかというのは最大の関心事の1つだろう。
斯く云う私もその1人で東京在住は日常的に渋滞する道路にうんざりし、出かける時は極力渋滞のない、またはスムーズな車の流れのあるルートを探したものだ。そして私が得た結論はずばり「信号が少ないルート」こそが一番の早道であるに至った。
思わず脱線してしまったが、トッド夫人もその例に漏れない人物で彼女はメイン州のキャッスル・ロックからバンゴアまでの最短ルート探しを趣味にしていた。156.4マイルのルートを見つけたかと思えば、次は144.9マイル、そして129.2マイルまで縮まるルートを見つけたと喜びを隠さない。やがてそれはどんどんエスカレートし、直線距離、つまりキャッスル・ロックからバンゴアまでを地図上で直線に引いた距離79マイルよりも短い67マイルのルートを見つけるに至る。
何とも奇妙で何とも美しく、感動させられる物語。こんな物語を書くからキングは止められない。

次の「浮き台」はお得意の怪物もの。
キングお得意の怪物譚。油の塊のように湖に浮遊する黒い円。その正体は不明だが人間を襲い、喰らい、そして成長する怪物のようらしい。湖の只中にある浮き台に10月下旬と云う、朝晩冷え込む季節に思い付きで泳ぎに行った大学生4人が下着姿で取り残される絶望を描いている。
昨今小さな島に取り残された女性1人が周囲がサメだらけといった絶望状況を描いた映画があったが、それを彷彿とさせる。
但し本書は一切の容赦がない。キング作品には必ずしもハッピー・エンドがあるわけではないという情け容赦ない作品だ。

「ノーナ」は電気椅子での死刑を控えたある男の告白譚。
語り手の男が話すのはノーナという行きずりの女性と共にヒッチハイクをして目的地であるキャッスル・ロックに行くまでの物語。しかし彼が刑務所に入れられ、まさに処刑されようとしているのはその道中で次々と人を殺していったからだ。
かつては町の不良に目を付けられ、全く歯が立たなかったくらい腕っぷしには自信がなく、また喧嘩が大嫌いだった彼がなぜそのような行動を起こしたのか?
また本作には「スタンド・バイ・ミー」の登場人物が2人ほど登場することから裏「スタンド・バイ・ミー」とも取れる。
オーガスタからキャッスル・ロックを目指す2人の男女のロード・ノヴェル。食堂で出逢った彼らは運命的な物を感じ、そして一路キャッスル・ロックを目指す。
こういう風に書くと何ともドラマチックな恋物語のように思えるが、彼ら2人の道行は死屍累々の山が築かれる血塗れのヒッチハイク。

器用な作家であると思った矢先の次の作品はSFだった。「ビーチワールド」は一面砂の海原に包まれている星に不時着したパイロット2人が救援を待つ話だ。
不定形の物体が意志を持つというのはこの短編集『スケルトン・クルー』に収録されている意志を持って街中を覆い尽くす霧の存在を描いた「霧」があるが、本作はそれに続いて生きている砂が支配する星の話。
砂、いや一面に広がる砂の海原、即ち砂漠は何かのメタファーなのか。地球温暖化で大陸が死に絶える先は砂漠化だ。つまり砂原こそは人生の終焉の場。ランドにとって砂原が広がるその惑星は人生を終えるのに格好の場所だったと見なしたのかもしれない。

次の「オーエンくんへ」は詩だ。しかしその内容はあまりに抽象的すぎてよく解らない。学校の生徒のことをフルーツに譬えるオーエンくんが見た日常風景を描いた詩なのか。毒がありそうな雰囲気ではあるのだが。

次の「生きのびるやつ」は無人島で遭難した男のサヴァイヴァル小説。と書くと『ロビンソン・クルーソー』を想起するが、キングの漂流記は一味も二味も違う。
ヴェルヌの作品にも確か『チャンセラー号の筏』という作品で岩礁に漂着した人々が生き残る話があるが、あれは実話をもとにした作品で内容はヴェルヌ作品らしからぬほど凄惨さに満ちていた。
本作もまたそうで幅190歩、長さ267歩という実に狭い岩場ばかりの島に漂着した主人公がどうにか生存する物語だが、無論草木もなく、魚も捕れない、食べられる物はカモメと蟹と蜘蛛の類。悪循環、負の連鎖、無間地獄。実にブラックな『ロビンソン・クルーソー』である。
本作のテーマは冒頭に掲げられた文章、それに尽きる。「(前略)患者というものはどのていどの外傷性ショックにまで耐えうるのか、という疑問である。(中略)肝心の答えのほうは煎じ詰めると、(中略)当の患者がどれほど切実に生き延びたいと思っているか?」
最も生きようと願う者はその身を食い尽くすほどの狂気に陥った者である。上の文章の答えの1つが本作だ。

貴方には家族親戚に苦手な人はいないだろうか?もしいたらその人と2人きりで留守番しなければならなくなったらどうする?そんな実に身近な避けたい状況を描いたのが「おばあちゃん」だ。
家族の中、いやあるいは同じ職場の中にどうしても馬が合わない、もしくは苦手な人物が誰しもいるかと思う。そんな相手と2人きりにならなければならなくなったら?という非常に身近な避けたい状況に加え、11歳の少年が寝たきりの老人の世話を何かあった時に母親がしていたようにしなければならないというちょっとばかり大きな重荷な任務を授かった状況。こういうところに恐怖を感じさせるのがキングは実に上手い。
しかし物語は次第にそんな身近な領域から逸脱し始める。
更に加えてラストの意外性。
全ての伏線が余すところなく物語に寄与した素晴らしい作品。

最後の「入り江」は三分冊化されたこの短編集の最後を飾るに相応しい作品だ。
島で生まれ、島で育ち、一度も島から出たことのない老婆が島を出たのは死を悟ったときだった。彼女にとって本土はまさに彼岸だったのだ。そこに行く時は死ぬときだ、と決めていたのだろうか。長く生きているうちに島で親しかったご近所たちが老境に差し掛かり、次から次へと亡くなっていく。またはそれらの息子・娘たちを大きくなり、島で育つ者や島から出て行く者もいる中で、不慮の事故でまだある未来を喪う者もいる。そんな色んな死を見てきて、親しい者たちが少なくなってくる中、いつの間にかあの世の方に友人たちがいっぱいいることに気付く。そして彼ら彼女らは自分に向かって手招きをするのだ。
もはや自分がいるべきはこの世ではなく、あの世だ。


キング三分冊の短編集の最後である本書はヴァラエティ豊かな作品集となった。

得体のしれない男ミルクマンの話2編にファンタジックかつロマンティックな男女の話を描いたもの、そして謎めいた怪物が湖に巣食う話、次々と人を殺しながら目的地に向かう男女2人の物語、漂着した惑星の生きた砂の話に凄まじく狂った漂流者のサヴァイヴァル小説、苦手なおばあちゃんと留守番する話、そして人生の終焉を迎える話。

不条理な話から定番の未知なる生物、暴力衝動、殺人衝動に駆られる人、極限状態に置かれた人間、一人で病人と共に留守番しなければならない子供、一度も島から出たことのない老婆、いずれもモチーフは異なりながら、そのどれもがキングらしい作品ばかりだ。

そしてそれぞれの作品にはその設定と何気なく書かれた文章で読者に想像力を働かせる仕掛けが施されている。

また「浮き台」は湖に怪物が現れ、4人の大学生を襲う話だが、登場人物の一人が湖の管理人が凍結する直前まで浮き台が片付けない、またはそのまま湖に残して凍り付かせてしまうのは職務怠慢だと述べるが、それはその管理人がその怪物の存在を知っているからこそ、危険がないその時期を選んで浮き台を回収している、いやもはや回収せずに置いているように解釈できる。既に怪物の存在をキングはさりげない台詞で伝えているのだ。

さて本書においてもキング・ワールドのリンクは見られる。既にキングの物語の舞台でおなじみとなったキャッスル・ロックは本書でも登場する。

本書では「トッド夫人の近道」と「おばあちゃん」、そして「入り江」をベストに挙げる。
「トッド夫人の近道」はワンダーを描きながらこれほどまでに清々しい思いをさせられる、キングならではの唯一無二の傑作。

「おばあちゃん」は少年が幼い頃に怖くて仕方がなかったおばあちゃんと一緒に留守番をしなければならないという、誰もが経験ありそうな実に身近な嫌悪感やちょっとした恐怖―怯えという方が正確か―を扱いながら、最後は予想もしない展開を見せる技巧の冴えに感服させられた。

短編集の最後を飾る作品でもある「入り江」は死出の旅立ちの物語だ。島で生れ、島で育ち、一度も本土に渡ったことのない老婆が初めて本土に渡る時は死を覚悟した時だ。
ある死者は云う。生きていることの方が苦しいんじゃないか、と。
私は最近こう思う。もし癌や重篤な病に侵され、生命維持装置や植物人間状態になった時、それで生かされていることはもはや人生なのかと。人生の潮時を見極め、そして自ら選択する、そんな風に自分の人生は始末を付けたいものだ。

しっとりとした読後感が心地よい余韻を残す。この作品が最後で良かったと思わせる好編だ。

短編ではかつてワンアイデアで自身が抱いていた原初的な恐怖を直截に描いているのが特徴的と思われたが、『恐怖の四季』シリーズを経た本書ではワンアイデアの中に色んな隠し味を仕込んで重層的な味わいが残るような感じがする。「トッド夫人の近道」なんかはその好例で作者が意図しているにせよしてないにせよ私の中で想像力が広がり、余韻が増した。
もしかしたら他の短編もまだ消化不十分で後日ふと隠し味が蘇ってくるかもしれない。

しかし彼の頭の中にはどのくらいのキャラクターがいて、そしてどのくらいの人生が詰まっているのだろうといつも思わされる。
そしてまだまだキング作品としては序盤に過ぎないのだ。まだまだこの後も、そして今も新たな物語を紡ぎ、そして新たな人生が描かれているのだ。彼の頭にはヴァーチャル空間のセカンドライフが接続されている、そんなように思わされた。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
スケルトン・クルー〈3〉ミルクマン (扶桑社ミステリー)
No.1287:
(8pt)

色々含めて、ある意味ブラックすぎる!

ボッシュシリーズ13作目。
エコー・パーク事件を経たボッシュは未解決事件班から殺人事件特捜班へ異動。政治的な問題が絡んだり、有名人が関わっていたり、またはマスコミの注目を浴びて騒ぎ立てられるような事件を担当する部署とのこと。極めて困難で時間のかかる、趣味のように捜査が続くような事件を担当する部署とも云われている。執念の男ボッシュに相応しい部署だ。
そしてボッシュも本書で56歳になったことが判明する。白髪の面積が茶色地毛のそれを凌駕し始めているが、その体形は維持されており、衰えを感じさせない。

そして前作での宣言通り、エコー・パーク事件で重傷を負ったキズミン・ライダーは捜査の最前線での職務から離れ、元いた本部長室に配属になり、内勤業務に携わる。そして新たなパートナーはボッシュの20歳年下でキューバ系アメリカン人のイギーことイグナシオ・フェラス。

更にエコー・パーク事件で再会したFBI捜査官レイチェル・ウォリングも再び関わってくる。前作の事件から6カ月経っており、その時は元心理分析官の技量を買われ、プロファイリング方面での活躍だったが、今回は現在所属している戦術諜報課の一員としてボッシュと医学物理士殺しの事件の捜査を共同で行う。

そしてFBIと共同で捜査する事件はなんとテロ事件。医療に使われている放射性物質セシウムを強奪した犯人を追うノンストップ・サスペンスだ。

しかも犯人は中東訛りを持つ複数の人物とされており、まさにこれは9.11のニューヨークの悲劇をテーマにした作品と云えるだろう。
但し舞台はニューヨークではなく、ロスアンジェルス。つまりイスラム系過激派によるテロがロスアンジェルスで行われようとしているという設定だ。

そしてこのテロという規模の大きい事件がボッシュの捜査の前に大きく立ちはだかる。
彼が担当するスタンリー・ケント殺害事件はそのまま犯人と目されるアラブ系テロリストによって企てられようとするテロ事件を未然に救うための事件に大きくクローズアップされ、FBIによって事件そのものを奪われようとされる。しかも彼らが狙っているのはテロリスト並びにセシウムであり、殺人事件の犯人ではないのだ。

つまりここで描かれているのは9.11後のアメリカの姿だ。滑稽なまでにテロに関して、特に中東アラブ系のアメリカ人に対して過敏になり、真偽不明の噂やタレコミを信じて警察はじめ政府の組織が総動員される。まさに大山鳴動して鼠一匹の感がある。9.11の6年後だからこそ当時混迷していたアメリカの姿を描くことが出来たのかもしれない。

また天敵のFBIからどうにか捜査から弾き出されまいと孤軍奮闘するボッシュの捜査は相変わらずルール無視、いや己のルールに従う自分勝手な行動が目立ち、新パートナーのイグナシオ・フェラスも早々とコンビ解消を申し出るほどだ。
それがまた大局を見つめるFBIのレイチェルとそのパートナー、ブレナーたちの知的かつ冷静さを際立たせ、ボッシュの独りよがりさが読者にある種嫌悪感を抱かせるようになっている。この辺りの筆致は実に上手い。信頼のおける孤高の刑事ボッシュを我儘に自分の事件だとして勝手気ままに振る舞う解らず屋のロートル刑事に見立てさせるコナリーのストーリー運びの何たる巧さか。

また一方で上述したように9.11の同時多発テロ以降、テロに敏感になり、警察はじめ政府の捜査機関、情報機関が過剰に反応する風潮が当時のアメリカには蔓延していた。それは周囲もまたそうだった。

またミットフォードが携えていた小説がスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』だったというのもある意味暗示めいている。新しいインフルエンザの蔓延によってほとんどの国民が死に絶えるアメリカを扱ったディストピア小説であるこの小説は、もしセシウムが悪用された時のロスアンジェルスの状況を示唆している。ただこれについては既読済みと未読済みの読者で受け取り方は異なると思うが。

私も同時多発テロの影響で観光事業が冷え込むハワイが激安価格で旅行プランをサービスしていたのに便乗してハワイ旅行に行ったが、その時のピリピリした通関審査の状況を思い出した。

9.11に関与したアラブ系、イスラム系外国人への失礼なまでの注意深い眼差し、放射性物質や液体爆弾などのテロの材料となりうるものに神経を尖らせていたそれらアメリカの機関の対応と当時のアメリカの世相を嘲笑うかのような真相は繰り返しになるが9.11が起きた2001年から6年経ったからこそ書ける内容なのだろう。

色々含めて、いやあ、ある意味ブラックすぎるわ。

そんなことを考えると原題の意味するところが非常に深く滲み入ってくる。
“The Overlook”は名詞では「高台」を示しており、即ち事件現場となったマルホランド展望台を指すが、動詞では「見晴らす」、「見落とす」、「見て見ぬふりをする」、「監視する」といった正の意味と負の意味を含んだ複雑な意味合いの単語となる。邦題では「見落とす」の意味合いを重視し「死角」としているが、本書はその他どれもが当て嵌まる内容なのだ。

しかし冒頭にも書いたがボッシュももう56歳であることに驚かされる。歳を取ったことに驚くのではなく、56歳にもなるのにその傍若無人ぶりはいささかもデビュー作以来衰えないからだ。
歳を取ると人間丸くなるとよく云うがそれはこのハリー・ボッシュことヒエロニムス・ボッシュには全く当て嵌まらない。むしろ自分のやり方を新しい相棒にレクチャーし、継承しようとしている感さえある。
自分の生活を守るためにルールを重んじ、馘にならないように考えている新相棒イグナシオ・フェラスは彼に貴方が欲しいのは相棒ではなく使い走りだ、そしてそれは俺には当て嵌らない、だから誰か他の人間を貴方と組むよう上司に相談するとまで云わせる。
更にFBIに有利に事を進めさせないために情報の提供はせず、目撃者を隠すことまでする。また更にFBIに捜査から外させないよう、直属の上司を飛び越え、出勤前の本部長を訪ね、FBIに口添えすることまで依頼する。
常に彼は自分の目の前の悪を捕まえることに執着し、その気概は年齢とは無縁である。

しかし本書でなんとボッシュがレイチェル・ウォリングとタッグを組むのは3回目だ。もはやエレノア・ウィッシュを凌ぐコンビになりつつある。そして彼ら2人は会うたびにお互い似たような匂いと雰囲気を持っていることに気付かされ、心の奥底では魅かれ合っているのに、あまりに似ているがために一緒になれず、いつも苦い思いを抱いて袂を分かつ。
それは自分の中の嫌な部分を相手に見出すからだ。お互い危険な状況に身を置く職業であり、レイチェルは常に心配をさせられるのが嫌だとかつては云っていたが、本当の理由はレイチェルはボッシュに、ボッシュはレイチェルに見たくない自分を見るからではないだろうか?

そして常に事件で出逢った女性と浮名を流すボッシュが長く関係を持つのがエレノア・ウィッシュとレイチェル・ウォリング、つまり2人がFBI捜査官の女性である、もしくは“だった”ことだ。仕事の上でボッシュはFBIの介入を心の底から忌み嫌う。自分たちの事件を横からかっさらい、または協力者と思わせていつの間にか蚊帳の外に置かれる彼らのやり方が気に食わないからだ。

しかし人として向き合った時に好感をボッシュは抱く。敵対する組織にお互い身を置きながら魅かれある男女。つまりコナリーはボッシュシリーズを一種の『ロミオとジュリエット』に見立てているのだ。
障害があるからこそ男女の恋は一層燃え立つ。コナリーはそれを現代アメリカの犬猿の仲である警察とFBIを使って描いている。

今までのシリーズの中でも最短である事件発覚後12時間で解決した本書はしかし上に書いたようにミステリとしての旨味、登場人物たちの魅力、テロに過剰反応するアメリカの風潮などがぎっしり凝縮されており、コナリーの作家としての技巧の冴えを十分堪能できる。特にレイチェルはコナリーにとってもお気に入りのようで、ボッシュとの縁は当分切れそうにない。

物語の最後に彼ら2人が再びエコー・パークを訪れるのは2人にとって袂を分かつことになったそれぞれの過ちを解消するためにスタート地点に戻ったことを示すのだろう。

レイチェル・ウォリングは決して新キャラクターではなく、彼の5作目に登場した人物である。そしてボッシュの扱う事件も―本書は違うが―過去の未解決事件が多く、常に過去の因縁が付きまとう。

にもかかわらず我々の前に見せてくれるのは新しい刑事小説の形だ。コナリーの視線は常に過去に向いていながらもそれを現代アメリカに見事に融合させている。

また訳者あとがきによればコナリーは短編も素晴らしいとのこと。長編も素晴らしく、短編もまたとなれば、まさに死角なしの作家である。
現在までコナリーの短編集は刊行されていない。どこかの出版社―もう講談社しかないのだが―でいつか近いうちにコナリーの短編集が刊行されることを強く望みたい。

私は今本当にとんでもない作家の作品を読んでいるのではないかと毎回読み終わるたびに思うのだ。それは今回もまた変わらなかった。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
死角 オーバールック (講談社文庫)
マイクル・コナリー死角 オーバールック についてのレビュー
No.1286: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

2020年現在の世相を反映しているかのよう

小野不由美氏による重厚長大と云う名に相応しい超弩級ホラー小説が本書。なんせ文庫版で全5巻。総ページ数は2516ページに上る。
そして本書を以て横溝正史が日本家屋を舞台に密室殺人事件を導入した第一人者であれば小野氏は日本の田舎町に西洋の怪物譚を持ち込んだ第一人者とはっきりと云える。それを今からじっくりと語っていこう。

本書は外場村と云う約1300人の村人が住まうある地方の村で起きた、村が壊滅するに至った惨事を綴った物語だ。

小野氏はその惨事について事の起こりとなった壊滅に至った山火事が起きる1年以上前の7月24日から物語を始める。

本書がスティーヴン・キングの名作『呪われた町』の本歌取りであることはつとに有名で、現に本書の題名に“To ‘Salem’s Lot”と付されている(Salem’s Lotは『呪われた町』の舞台)。私は幸いにしてその作品を読んだ後で本書に当たることができた―本書刊行時はキングなんて私の読書遍歴に加わると露とも思っていなかったから、すごい偶然でタイミングである。これもまた読書が導く偶然の賜物だ―。

丘の上に聳え立つ古い洋館。そこに引っ越してきた住民。それを機に村には怪奇現象が起き、やがて村中を覆い尽くすことになる。
それが『呪われた町』の話であり、そして洋館に住み着く住民とは吸血鬼であり、彼らが村中の人々を襲うことで次々に吸血鬼になっていくという話である。

翻って本書でも丘に聳え立つ洋館というモチーフは一緒で、ただそれは海外から移築された建物であり、かつて町の大地主であった竹村家のお屋敷を取り壊して作られた洋館であることと、完成後なかなか人が越してこないために村中の人々が村にそぐわない洋館についてまことしやかな噂が立てられている。

そしてようやく入居者が現れるのが1巻の300ページを過ぎた辺り。しかも応対するのはその桐敷家の使用人の明朗な青年辰巳という意表を突いた展開である。

夫婦2人と娘1人の桐敷家の妻と娘2人がSLEという先天的な病気を患っており、日中は全身を衣類で覆わないと外出できない体であることから田舎の外場村に越してきたのだった。他に専属の医者の江渕と家政婦1人を合わせた6人で住むようになる。

更にその桐敷家の一行は辰巳からどうも自分たちのことが村中の噂になっていることを聞くと、村に出て村民たちに挨拶回りをする。

家長の桐敷正志郎、千鶴、沙子の3人だ。都会的で洗練された彼らが村に変化をもたらす。

この洋館と云う共通のモチーフ以外はあくまで小野氏は日本のどこかにあるような人口1300人の閉鎖的な社会で村中の人々が親戚であるかのような小さな地域社会でお年寄りが日々誰かの噂話をしては、村唯一の医院が情報交換の集会場となっている、そんなどこにでもありそうな田舎の村を舞台にして、実に土着的に物語を進めているのが印象的である。

それは小野氏がこの外場村という架空の村について、日本のどこかにある村であるかのように丹念に語るからだ。

まず開巻の一行目はいきなり外場村が死によって包囲されている村であると強調される。渓流に沿って拓けた末広がりの三角形の形を成す外場村は周囲を樅の林に囲まれており、村はその樅の木から卒塔婆や棺を作ることを産業として発展してきた。
つまりまず外場村は死によって成り立ってきたのだ。

更に村には未だに土葬の風習が残っており、そして周囲を樅の山に囲まれていて孤立してきたが過疎には合わず、常に1300人前後の人口が保たれている。

元々寺院の領地に木地屋が入って拓かれたのが外場村の起源であることから寺が村の地位の上位にあり、その土地を村人に分配していたのが兼正、その寺と兼正の招聘に応じて村に来た医師が尾崎。従ってこの三家がいまだに村の三役として威光を放っていること。

その村を拓いた木地屋が竹村、田茂、安森、村迫の四家であり、それに広沢を加えた五家の子孫が今なお村に住んでいること。

斎藤実盛という武将が保元・平治の乱において稲の下部に躓いて敵に討たれた恨みから害虫になって稲を食い荒らすのを食い止めるために、実盛の別称である長井斎藤別当に因んでベットという藁人形を供養するために村を練り歩いて祠まで連れてくる虫送りと云う祭りの儀式。

土葬がまだ残る外場村で死者が甦る『起き上がり』を鬼と評する伝統。

上中門前、下外水口と呼ばれる、上外場、中外場、門前、下外場、外場、水口と云った集落の呼称とこれに山入と云う今では2軒のみとなった集落によって外場村が構成されていること。

人が死ぬと葬儀のために近隣住民が相互扶助を行う弔組という制度。

とこのように上に書かれた田舎ならではの村社会独特の風習は都会生活のみを体験している人間にしてみればワンダーランドのような設定に思えるが、一旦田舎生活をすればこのような昔ながらの風習やしきたりが今なお続いているのが常識として腑に落ちてくる。

これは小野氏が恐らく大分という地方出身者であることが大きいだろう。
私も四国に住んでいた時にこのような土着的な風習に参加する機会があり、寧ろまだ日本にこのようなしきたりが根強く残っていることに感心した思い出がある。そしてそれを体験したからこそ本書で書かれている外場村独特の文化が実によく理解できた。

さらにたった1300人の村人で構成される住民それぞれについても小野氏は深く掘り下げる。

物語の中心人物は室井静信と尾崎敏夫の2人だ。

村の旦那寺の副住職で小説家としても活動している室井静信。

その同級生で村唯一の医院を経営している尾崎敏夫。

この2人はそれぞれ父親が病で倒れたことで元々村にあった寺・医院を継いでいる。静信の父親は脳卒中で倒れ、以後寝たきりの生活となっており、母親の美和子が寺と父親の世話をしている。また小説家を兼業しており、学生の頃にリストカットで自殺未遂をした経験がある。

尾崎の父親は膵臓癌で倒れ、そのことがきっかけで大学病院から戻り、医院を継いだが妻の恭子は田舎暮らしを厭い、隣の溝辺町の市街地でアンティークショップを経営し、店の近くのマンションで暮らしては月に2、3度村を訪れては敏夫と生活を共にしている。

この僧侶と医者の2人は日常的に死に接しているがゆえに、彼らは死に対して敏感であり、従って最初に怪異の正体に気付く。

特に本書では静信が作中で綴る屍鬼を扱った小説の執筆と並行して進む。その内容は自分のせいで死に至った弟が屍鬼として蘇る兄と弟の物語だ。

断片的に語られるその小説の内容は次のようなものだ。
皆に慕われていた弟に嫉妬した兄が弟を殺すが、その弟が屍鬼となって甦って兄を追ってくる。兄は弟は自分を殺した兄を憎んでいるはずだと思い込むが、実は弟は兄に対してそんな感情を抱いていなく、ただ彼を追いかける。

そしてそれは旧約聖書の『創世記』に書かれているカインとアベルのテーマであると静信は桐敷沙子に指摘される。静信の過去の作品は全てこのカインとアベルがモチーフになっているとも。神に見放されたカインはアベルを妬んで殺害する。静信の書く物語は疎外された者の話であると。

神に仕える僧侶の静信が神に見放された者をテーマに物語を書き続けている、この非常に違和感を覚える静信の精神性。彼はどこか神に祈りながら、そこに神はいないのでは
ないかと心の中で思っている。

彼は学生の頃、出版社に勤める大学の先輩に云われるがままに小説を書き、そしてそれが出版されることで小説家になった。そして大学2年のコンパの後、彼は寮の風呂場でリストカット自殺を図る。ただそれは自殺をしたかったわけではなく、死ぬか試してみたと云うのが正直な心境だった。そして彼が自殺未遂をしたのは村人たちの間では周知の事実だった。

物語の中心はこの2人をメインに進むがそれ以外にも点描のように村の人々の話が描かれる。

尾崎医院のスタッフたち。橋口やすよ、永田清美、国広律子、汐見雪、井崎聡子ら5人の看護婦、レントゲン技師の下山、事務員の武藤と十和田、雑務のパート、関口ミキに高野藤代。
彼ら彼女らは貧血の様相、もしくは夏風邪の兆候のように倦怠感を覚える患者たちから、やがて同様の症状を訴える人々が次々と運ばれてきては、そのいずれもが決して回復することなく3~5日の短期間で多臓器不全によって亡くなっていく様をリアルタイムで、最前線で知る人々だ。
新種の伝染病かもしれないという不安の中にあって決して恐れをなして退散することなく戦うスタッフとして描かれるが、物語が進むにつれて彼らもまた安全地帯にいるわけではないことが解ってくる。

国道に面するドライブイン「ちぐさ」を経営する矢野加奈美とそれを手伝う友人の前田元子。村外で結婚したものの続かず、離婚して村に出戻ってきた矢野と小心者で国道を走る車の勢いに怯え、いつも自分の2人の子供が事故に遭いはしないかと心配ばかりをしている前田元子。
特に前田元子は父親が病気一つせずに頑強な身体を持ち、それがまた性格をも頑固にさせているお陰で彼女は家庭の中でも委縮して肩身の狭い思いをしながら生活している。このドライブインは外場村壊滅の元凶となる桐敷家の引っ越しに最初に接触した場所でもある。

また村にあるクレオールは外場村の女性を奥さんに貰って村外から引っ越して来た長谷川が経営するジャズの流れる昼は喫茶店、夜は酒も出すレストランという店でそこで結城、中学教師の広沢、村唯一の電器屋を経営する加藤実と同じく書店を経営する田代たちの社交場となっている。
結城は1年前に越してきた最も新しい新参者。彼は木を使って家具を作ったり、糸を染めて布を織ったりする工房で生計を立てている。変わっているのは妻小出梓とは夫婦別姓を貫くため、籍は入れずに生活している。子供は高校生の息子夏野がいる。
新参者の彼にそれらの人物が雑談で彼に語ることで外場村の伝統や伝承、情報などが語られる。

その結城は田舎暮らしに憧れて都会から引っ越して来て1年経つが、閉鎖的かつ排他的な村社会に溶け込もうと村祭りの最終日にある虫送りの儀式のユゲ衆に参加したり、土葬の風習が残る外場村でそれらを取り仕切るそれぞれの集落で形成される弔組にも入ったりと積極的に参加するが、どこか壁を感じている。物語中盤では外場村での生活を厭う自分の息子が村の田中姉弟と親しくなっていることで地縁が出来ていることを驚きながらも嫉妬したりもする。
村に溶け込むことを望みながら一方で村人のようになるのに深い嫌悪感を持つ、自己矛盾を内包した彼はつまり自身が都会から「来てやった」、まだこんな田舎者がいたのかという村民たちを高みから見るような感覚があったからではないか。
だから村人とは上手くやるが決して村人のようにはならないと彼の中で線引きがなされており、田中姉弟が息子と仲良くすることで自分の生活圏を、価値観を壊しに来ているような感覚であったのではないか。彼は田舎に憧れながらもその実、暮すには向いていない人種だったのだ。

尾崎医院で事務を務める武藤の家は高校生仲間の溜まり場でもある。同級生の武藤保と姉の葵、そして既に村外に就職している徹が結城夏野の気の置けない友人であり、そこに村迫米穀店の末息子、正雄が加わる。
村迫正雄は結城夏野のクールな佇まいと決して感情的にならずに論理的に物事を見定める話し方、そして何よりも1つ年下でありながらもタメ口を利き、更には自分の方が年下のように思わせる彼の頭の良さに常にイラついている。

逆に竹村タツが経営する村の入口にある雑貨店タケムラは村の年寄達の溜まり場だ。佐藤笈太郎、大塚弥栄子、広沢武子、伊藤郁美が訪れては四方山話に花を咲かせる。村の入口にあるため、村の出入りに詳しく、また口さがない村の老人たちによる情報交換の場である。「おい、知ってるかね?」がいつもの会話の口火だ。

そこにたむろする伊藤郁美は村の中でも変人として見られており、しかもケチで村の立ち飲み屋でもお金を持って行かず、いつも他人の奢りで飲んでいる老人だ。しかし彼女は村の死人続発が起き上がりによるものであり、そしてその元凶が桐敷家であることを素早く見抜いた人物だ。しかし日頃の行いを村人たちは疎んじて見ており、また彼女の性格自体も決して社交的かつ親しみのあるものではないため、話半分でしか聞かれない。

そんな詳細な背景が設定された外場村とその村民たちを襲う、着々と訪れてくる死の翳。死に囚われた人々は何かに遭遇し、その後は表情が一様に虚ろになり、何かを問いかけてもはっきりしない。しかも食欲もなくなり、ぼぉっとしたまま、ひたすら眠りを貪りたくなる。そしてある日突然褥の中で冷たくなっているのを発見される。
それら一連の連続死は新種の疫病の発生かと思われたが、村に伝わる伝説、死者の起き上がりによる屍鬼の仕業であることが解ってくる。それらのプロセスをじっくりと小野氏はかなりの分量を費やして描く。4部に分けて書かれた物語のそれぞれの流れについて以下に少しばかり詳細に書いていこう。

第1部は閉鎖された変化のない村、外場村の村民たちの日常生活の風景と文化が上に書いたように描かれる。いわば村民たちのイントロダクションだ。そして外場村に訪れた新参者の登場とそして例年とは異なる猛暑が続く夏の日々の下、これまた例年ではありえないほどに村人の死が相次ぐことが示される。いわば終末への序章だ。

第2部は更に死者の発生に拍車がかかる。1節ごとに死人が出てくるほど、次から次へと村人が亡くなる。老若男女の区別なく。そして一方でこれら一連の連続怪死に対する探究が医者の尾崎敏夫を中心に。貧血、夏風邪と誰もが経験する猛暑の中で起こる身体への異変。それがこの一連の死に共通する兆候。これを尾崎敏夫は未知の伝染病の仕業ではないかと推測する。
そしてこの病気が具合は悪いが病院にかかるほどでもないという月並みな症状で始まり、ある日を境に急激に多臓器不全を引き起こす。始まりが緩やかに、そしてあまりに普通であるために気付けば手遅れと云う怖さを秘めていることが強調される。

更には夜逃げの如く村から引っ越す人々も出てくる。それも唐突に周囲への挨拶もなく、いきなり引っ越すのだ。しかも夜中に。
それらの家族は例えば例の奇病に罹ったと思しき家族がいる家だったり、また何の脈絡もなく、村から逃れるかのように引っ越す一家がある。しかも家財道具をほとんど残して。例えば典型的な人好きのする村の駐在さんだった高見も突然亡くなると、残された高見の妻と2人の子供は病院から戻るとその夜家を出てそのまま戻ってこなくなる。そして夜中に引っ越し屋が彼の荷物を運び出し、そして彼の後任として独身者の佐々木と云う人間が配属される。

一連の奇妙な引っ越しに共通するのは夜中に引っ越してきた桐敷家と同じく全て高砂運送が行っている。

更には死人の中には突然直前に辞表を出して職場を辞した者も現れる。それも突発的に。しかもそれらの人々は押しなべて辞表を出した後、3日間ぐらいで亡くなっている。それも例の奇病が発症して。

更にそれら引っ越しをする人々と亡くなった人との間に奇妙な符号が見えてくる。

山入と云う村の中でも特に山の奥まったところにある集落にそれぞれが家を持ち、あるいは山を所有していた一家が全ていなくなってしまったこと。更に村人を山から排除するように夏の終わりに降り続いた大雨によって土砂崩れで山入への道が寸断されたこと。

更に唐突に辞職した人たちは外場村の外に働きに出ていた者たちばかりであること。ただ高校教師だったり、NTTに勤めていたり、溝辺町の役所に勤めていたり、と職業の区別はない。

そして唐突に引っ越した人間の中には逆に外場村の外から村に働きに来ていた者たちも含まれていること。外場村の小学校の校長だったり、村の図書館司書だったり。

村の境界に置かれていた道祖神たちが何者かによって壊され、そして村のウチとソトとの結界のような物が無くなり、桐敷家と云う新参一家が入村し、ウチとソトとの境が曖昧になったかと思えば、逆に村内と村外と人の出入りが始まる。それも唐突かつ加速度的に。

私はこの段階でいわゆる動物たちの危機回避行動を想起した。大地震や天災の前触れを動物たちが察知して事が起こる前に行う集団避難だ。
さらに身内に罹患者を持つ家族はレミングの群れを想起した。今ではデマと云われているが、集団行動を行い、そして集団自殺をすると云われていたあのネズミたちを。

そして死ぬ前に唐突に辞職する者たちは象の墓場の逸話を思い出した。象は自分の死期を悟ると群れから外れ、象の墓場と云われる場所に向かい、そこで死を迎えるのだというあの話を。

人も動物である。人が他の動物と一線を画しているのは理性と卓抜した知能を持っているからである。
しかし村で蔓延する奇病がそれら理性と知能を排除し、人を他の動物同様にするものであれば、人もまた上に挙げた動物の習性に従うのではないか。

読者の目の前にはいかにも怪しい要素が眼前に散りばめられているのに、なぜかそれが線となって結ばれない不安感をもたらす。

丘の上の兼正の屋敷が取り壊された跡に移築された洋館と遅れて真夜中に引っ越してきた桐敷一家。

村でまるで伝染病の如く次から次へ村人の命を屠る正体不明の病。

そしてなぜか村で頻発する夜逃げのように夜中に村から引っ越す人々。

駐在員の死と共に速やかに後任として村に来た佐々木と云う巡査。

そして突然勤めを辞めたかと思うと急死する人々。

それが第3部で一気に明らかになっていく。いわば現実的レベルからの飛躍の章だ。

爆発的に増えゆく死者とそしていきなり村からいなくなる失踪者。そこから尾崎敏夫が導くのは村に残る言い伝え、死人が墓から起き上がり、村へ下りてきて祟りをなすと云われている「起き上がり」が起きていると云い放つ。つまり一連の怪事はこの非現実的な、昔話的言い伝えによって全て筋が通るのだと主張する。そしてそれを裏付けるが如く、村人たちの中に人外たちの視線を感じる者が出てきたり、死んだはずの人間を見かけたりする。

つまり第3部は物語の核心への突入だ。外場村では古来甦る死者、即ち「起き上がり」のことを鬼と呼ぶ。そう、起き上がる屍、即ち屍鬼。ようやくタイトルの意味がここで立ち上る。

そして尾崎敏夫と室井静信との会話で一連の奇病による突然死が吸血鬼のキーワードで結びつく。この辺りのロジックは極めて興味深い。医学的専門知識という現代の知識の中でも最上位に位置するであろう医学の見地から吸血鬼による疫病の蔓延を解き明かす、このミスマッチの妙が見事なバランスで絶妙に溶け合っているのだ。
更に静信が話すヨーロッパのヴァンパイア伝説の起源についても現代医学の知識で当時の人々が死人が甦り、生者の生き血を吸って生きていたとしか思えない現象を鮮やかに解き明かす。
つまり小野氏は本書にて現代医学の見地から吸血鬼のメカニズムを語るというこれまでにない吸血鬼怪異譚を生み出したのだ。

さらに安全地帯と思われた尾崎医院にもとうとう犠牲者が出る。

そして屍鬼の侵略は加速する。

そして最後の第4部は戦いの、そして村の終末の部だ。狩られる側の人間が屍鬼の存在を認知し、狩る側に転じる。村が殺戮の場と化し、そして終末へと向かう。

一転村民たちは自分たちの身内が屍鬼に殺されたことを認識する。いやそれまで敢えて目を背けていた事実に向き合うのだ。

最後の部に相応しい心揺さぶられる物語だ。屍鬼対人間の攻防。しかし単純な二項対立ではない。
屍鬼の側には彼らを理解する人間もおり、そして人間の側にも屍鬼を屠るのに躊躇う者もいる。中には戦いもせずに村を離れることを決意する者もいる。

かつては自分の身内だった者を屍鬼だからといって割り切って殺せない村民。村民のほとんどが家族・親戚のように近しい関係であるため、生前の彼・彼女のことを知っているがゆえに躊躇う。
しかしほとんどの村民は最初はそんな忌避感に囚われながらも、自分の身内が殺され、または屍鬼にされたことを思い出し、その怒りと遣る瀬無さをエネルギーに変え、杭を急所に討ち振るう。

また私が読んだのは文庫版で上にも書いたように全5冊から成っている。そして各巻の表紙絵は藤田新策氏によるもので横に並べると両脇に書かれた樅の木の幹を境に繋げるとさながら一枚絵のように見える。

1巻は深夜のトラックが訪れる場面で、即ち村への怪異の訪れを示し、2巻は夜明けのように見える丘に聳える洋館、桐敷邸とそこへ至る坂道を上る1人の女性の姿、そして野犬が2匹描かれた図柄で、怪異との接触と表出を表しているように見える。

3巻は黄昏時の村を丘から眺める高校生と思しき青年の後ろ姿と収穫の終った稲田と農小屋が描かれ、そして4巻ではとうとう村が漆黒の夜に包まれ、その中を屍鬼と思しき村人が所々に佇む姿が描かれる。

最終巻の5巻は炎上する村を背景に立つ少女の姿だ。この少女は桐敷沙子だろう。物語の、外場村の終焉を謳っている。

また芸の細かいことに1巻では青々としている樅の葉が3巻を境に枯葉色に変わっていき、そして4巻でとうとう全てが枯れ果てた色に変わってしまう。樅の葉の色で屍鬼の侵食具合を示しているようだ。

このようにそれぞれの部について語るだけでもこれだけの内容の濃さである。そしてもちろんその物語には様々に考えさせられるテーマを含んでいる。

例えば二極対立による対比構造もまた本書の特徴の1つだ。

上にも書いたが、閉鎖された村である外場村は今、日本中の地方村が抱えている過疎化とは無縁であるが如く、人がいなくなっては外から補充されるように常に一定の人口で保たれている。つまり変化のない村と見なされながら、実はその村の中には新たに介入する転入者によって微小ではあるが、変化はもたらされているのだ。

外場村に先祖代々住み着き、根を張っている地元民と外部から村へ引っ越してきて田舎暮らしを始める新たな村民。昔ながらの村民は村の中心から奥まったところに家を持ち、新しく来た村民たちは山を頂点に上中門前と呼ばれる集落を中心に住んでいるのに対し、扇状に形成される外場村の末広がりの部分、国道にほど近い外部と接した集落、下外水口と呼ばれる場所に家を構える。

下外水口に住む人々は村の人々が昔から旦那寺である檀家ではないことから、ここの風習や寺至上主義の村民の考えに疑問を持っている。
もともと村に地縁のある者は外部から来た者を余所者と呼び、なかなか仲間に引き入れない強い排他性を持つ。それをいわゆる余所者はそういった村社会の妙な結束に嫌悪感を抱く。地元の人々は寺を敬うが余所者は寺を悪し様に云う人もいる。特に村の人々は自分の思ったことを口に出すことに抵抗がない。それが寧ろ隠し事がない点でいい意味であり、他者に対する配慮に欠ける悪い意味でもある。

そして一方で若者と大人という二つの価値観の違いもまた存在する。

変化のない、家と外が地続きのようでちょっと出かけるのに普段着である村人たちに嫌気が差し、鬱屈感を抱えて日々ここではないどこかを望む、都会生活に憧れる若者たち。

村の気兼ねない生活と村民みなが家族のようで、それぞれの家庭に関する噂話に事欠かない大人たちは村に骨を埋め、村から出ることなくそのまま村で死ぬことを望む。

特に大川篤、清水恵、結城夏野の3人が特徴的だ。
大川篤は溝辺町の高校に通い、卒業後就職先もなく、親の酒屋を無給で働かされている。口うるさく頑強な父親に怒鳴られながら使われる毎日を疎ましく思い、昔から素行が悪く、小さい頃に地蔵様の賽銭箱から小銭を盗んでいたことをまるで昨日のことのように云われ、何かが起これば自分の仕業ではないかと後ろ指を指される日々にうんざりしている。給料を払ってもらえないから自由になる金もない、外に出るのに車もないし、高校時代の友達は進学または職を持っているが、自分は親の仕事を否応なく手伝わされているだけと面白くない毎日を送っている。

清水恵は都会の暮しに憧れ、高校を卒業した村の外で暮らすことを夢見ている。そんな中、都会から引っ越してきた結城夏野の、明らかに村の高校生たちとは違う洗練さに魅かれ、彼と手を取って外に出ることを望んでいる。部屋着にサンダル履きで家の中と地続きのように外出する幼馴染の田中かおりとは違い、ちょっとの外出でもいつも身綺麗にして誰に見られてもいいように、自分もまた都会の人々と一緒に行動してもおかしくないようにと振る舞っている。だから1つ下ながらいつまでも幼馴染として親しく近寄ってくるかおりを疎ましく思っている。ダサい田舎暮らしから早く出たいと願っている。しかしそのために外の大学に通うための勉強をやっているというわけでもなく、願望と行動が伴っていない、今どきの女子高生である。

そして結城夏野は両親の田舎暮らしへの憧れに付き合わされた環境の犠牲者だと思っている。都会人特有の他者無関心・無干渉の考えが徹底しており、常にクールに振る舞う。いつも一緒につるんでいた年上の武藤徹が亡くなっても涙一つ流さず、その状況をありのままに受け入れるほど、他者との距離感を保っている。その思考はニュートラルで父親のこうでなければならない、こうであるべきだという正義と良識を盾にした論理に対して、では自分の意思を無視して田舎暮らしを強いた決定はどうなのだという、いわゆる思春期の高校生が抱く正論をいつも胸に抱いて鬱屈している。そして都会の大学に出てこの村を離れるために勉強を頑張っている。

地元民と余所者、村を離れたい若者と村に根差した大人たちといった対比構造は即ち「ウチ」と「ソト」の2つで解釈が出来る。

その「ウチ」と「ソト」の概念は都会と村では定義が異なる。都会では文字通り自分の家の扉・門が「ウチ」と「ソト」とを隔てる境界であり、扉を出た途端、人は外向きの顔になる。

しかし村では余りにその隣人関係が近いがためにいつしか村全体が1つの家族・親戚であるかのように錯覚し、お互いが気兼ねなくお互いの家を訪れ、自分の家のように上がり、振る舞い、世間話をする。村の各所に置かれた道祖神は「ウチ」と「ソト」の境の神であり、外敵から村を護るために祀られたものだが、もはや村の「ウチ」は家の「ウチ」と同義になり、村全体が村民の家の「ウチ」と同化する。だからこそ村民たちは老若男女問わず、外出するのにも普段着どころか部屋着の類でつっかけ履きで歩くのが当然となっているし、外出するのに戸締りもしない。なぜなら村が家だからだ。

更に物語が進むに至り、その「ウチ」と「ソト」は即ち「生者」と「死者」、いや「屍鬼」とに分かれる。

本書に出てくる屍鬼はそれぞれが生前の姿を保ち、そして生前の記憶を持ったまま起き上がる。異なるのは既に生命活動がなされていないことと、人の生き血を吸わないとその状態を保てないこと、そして日光に弱く、皮膚が焼け爛れてしまうことだ。

従って彼らは夜のみ行動する。夜はさながら一般人が日中普通に生活しているかのように彼らが村中を跋扈する。

外場村というコミュニティの中で昼と夜の世界が生まれ、そして生者と死者とに分かれる。更に屍鬼はその家の者に招かれないとウチに入れない。

更に静信はその生者と屍鬼とを自分の小説のテーマとしているカインとアベルの関係に桐敷沙子によって擬えさせられる。2人の兄弟の父母であるアダムとイヴは禁断の実を食べることで楽園であるエデンを追放された。彼らが住む外界を流刑地と呼ぶならば、弟殺しの罪でその流刑地を追放されたカインは即ち楽園へ戻ったことになる。
アダムとイヴは人間の起源である。即ち我々生者は流刑地に住んでおり、その世界から逸脱した屍鬼たちの住む世界は即ち楽園ではないかと静信は諭される。
「ウチ」と思われた人間界こそが「ソト」であり、「ソト」と思われた屍鬼の世界こそが静信が信仰する神の世界、即ち「ウチ」となるという価値観の反転がなされる。

本書は外場村という閉鎖的な村を舞台にしながら、二極分離された世界、その中でもとりわけこの「ウチ」と「ソト」についてあらゆる側面から描いた作品だと認識した。

村の中に「外」という言葉を持ちながらも村全体をウチとして捉えるどこにでもあるような田舎村。しかしその名前が示すように実はウチではなく「外の場」だったのだ。
カインとアベルの物語に擬えられるならば、生者が住む村は屍鬼が蔓延ることによって流刑地、即ち「外の場」となり生者村本来の姿に戻ったのだ。

そして最後に行き着く二極は生者と屍鬼。
生き残った村人たちはいつしかそれとなく起き上がった鬼たちの存在を知覚し、夜に出歩くことをしなくなる。一方増え続ける屍鬼たちは次第に山入だけに留まらず、下山し、空き家となった民家に大胆にも住むようになる。引っ越したように思われた屍鬼たちは恰もまた村に出戻ったかのように振る舞い、明らかに人であった頃の氏素性とは異なるのに、名前を偽り、さも以前からその名前で村にいたかのように振る舞う。そして彼ら彼女らは夜を行脚し、もはや羊と呼ぶ生者たちの生き血を吸うために活動する。

生者と屍鬼は即ち昼の種族と夜の種族とも云い換えられる。

そしてこの2つの種族の対立は物語の最後で主客転倒する。
今までは人間が屍鬼の食糧にされ、単にモノ扱いされているのに嫌悪を覚えていたところに、尾崎敏夫をリーダーとして屍鬼狩りが始まると、逆にその人間が屍鬼に対して行う処刑がより陰惨になるのが皮肉だ。

屍鬼が人間を襲うときは皆がよく知っているように吸血鬼同様、人間の皮膚を嚙み、生き血を吸ってその意識を支配する。

しかし屍鬼はどんな劇薬も効かず、どんな傷を与えてもたちまち再生してしまうため、心臓を杭で打ち抜くか首を飛ばすか頭を潰すしか方法がない。その有様は実に異様である。傍目には人と変わらぬ屍鬼を村民たちが次から次へと杭を身体に打ち込み、大漁の血液を流させ、または首を切り飛ばし、あるいは頭を槌で潰していく光景はまさに地獄絵図だ。
作中でも一番怖いのは人間だと誰かが述べる。しかし人は自分を護るためならば残酷にもなれるのだ。この屍鬼狩りの陰惨さは結局人間の生への執着の凄さをまざまざと見せつけられるシーンだ。

どれもこれもが怪しいのに村にカタストロフィをもたらす怪異の正体像を結ぶにはそれぞれの要素の位相が異なる、妙な歪みを持つがため、読者は終始答えの解らない不安感を持って読み進むことになる。

そして不安と云えば村から人が次々といなくなるのもそうだ。

毎日のように葬式があり、村の外から通っていた図書館司書や小学校の校長先生、駐在所のお巡りさん、昔からある米穀店の家族も亡くなり、シャッターが閉められたまま。村で唯一のガソリンスタンドもまた引き払って引っ越す。そして「外場は怖い」とふと呟く。

更に学校に行けばただでさえ少ない生徒が日を追うごとに少なくなっていく。亡くなった者もいれば、突然村外に引っ越した者がその大半を占める。しかも唐突に引っ越すことになったとだけ告げられ、必要な手続きをせずに学校を去る生徒たち。

村唯一の医院では次々と来る奇病に罹った患者が致死率100%で亡くなるのを目の当たりにし、やがて医院で働く者の中の家族に犠牲者が出ると、村外から来ていたレントゲン医師、事務員、パートのおばさんが次々と辞める。

昨日まで一緒に遊んでいた友達が亡くなったり、急にいなくなったりする。
これは喪失感と云うより変わらないと思っていた日常がどんどんおかしくなっていく不安感、そして世界が終っていくような焦燥感に他ならない。

外場村壊滅という結末から始まっている本書は悲劇が約束された物語である。
しかし尾崎敏夫、室井静信、そして伊藤郁美が元凶の真相に肉迫していく様は結末は解っていながらも、どうにか救われるのではないかと思わされ、しかしそれでもあと一歩のところで屍鬼たちに出し抜かれるため、常に絶望感が漂う。

日本のどこかにある山奥の村の、核家族夫婦、母子家庭夫婦、親子三代が同居する、嫁姑の関係が良好な家族もあれば、そのまた逆の家族もあり、村外で結婚したものの、夫婦生活が上手くいかずに離婚して親元に戻ってきた親子家庭とどこにでもいながらも多種多様な村人たちの日々の暮らしが屍鬼の侵略によって脅かされる様を、ただただ読者はその破滅への道のりを全5巻かけてじっくりと読むしかない。

しかし読書の奇縁と云うものを今回も感じてしまった。
先にも書いたがこの1998年に書かれた作品を20年後の今、本家キングの『呪われた町』を読んだ後に手にしたことが本当に良かったと思う。小野氏は『呪われた町』の本歌取りを公言しながらも、吸血鬼に侵略される閉鎖的社会の恐怖をより学術的に、よりミステリアスに、そしてより日本的に掘り下げて書き上げ、見事に成功したからだ。
もし本書を読んだ後で『呪われた町』を読んだならば、本家キングには申し訳ないがより浅薄に感じられたことだろう。まさに本歌あっての本書だった。

そして最も驚いたのは屍鬼が脳生の死者であることだ。本書の前に読んだ東野氏の『人魚の眠る家』が心臓が動いているのに脳が死んだ状態である脳死を人間の死として受け入れるか否かを扱ったテーマであったのに対し、翻って本書に出てくる屍鬼は人の生き血を吸って活気を取り戻す血液を注入された人間であること、それは心臓は死んでいながらも脳は生前と同じ生きている、脳生心臓死の人間であることが明かされる。それもまた生ではないかと議論がなされる。

まさに裏表のテーマを扱った2つの作品を全く同時期に読んだこの奇妙な偶然に私は戦慄を覚えざるを得なかった。

吸血鬼という西洋のモンスターを象徴するモチーフを日本の、しかも高層ビルやマンション、レストランといった西洋の建物らしきものがない、日本家屋が並び立つ山奥の田舎村を舞台にあくまで日本人特有の風景と文化、風習に則って土着的に描くことに成功した本書は和製吸血鬼譚、純和風吸血鬼譚と呼ぶにふさわしい傑作だ。

吸血鬼、即ちヴァンパイアが既知の物であるとした上で、誰もが知る吸血鬼の特色を科学的、論理的にアプローチしているのが斬新だ。

吸血鬼が血を吸うことで仲間が増えゆく状況をまずは村人たちに次々と死をもたらす原因不明の疫病という形で表す。その疫病についての詳細な記述を施す。貧血ないし軽い風邪のような症状から始まり、3~5日以内に急激な多臓器不全を巻き起こすこの奇病について作者は医者尾崎によって医学的専門知識を用いてその不可解性を詳細に述べる。そして感染症や伝染病における行政の対応の違いなども語り、我々に現在の日本の新病対処法の手間と遅さ、そして冷徹さを説く。

そこから村の外へ情報が漏洩することに対して楔を打ち、更に尾崎が屍鬼になった妻を実験台にして吸血鬼のシステムを解き明かす。人の血を吸うことで活性化する異常な血液の病気だというアプローチの仕方。そして杭を打つか、首を刎ねるか、頭を潰すしかしないと死なないと気付かせる実験の数々。

それだけではない。

例えば断片的に語られる桐敷家と地元民たちの交流のエピソード。使用人の辰巳も含め、村人たちの誰かが彼らと接触し、言葉を交わす。そして社交辞令のように「今度遊びにいらっしゃってください」と声を掛ける。

確か映画『ロストボーイ』だったか、吸血鬼を扱った映画に吸血鬼がその家を訪れる条件としてその家の人に招待されることで吸血鬼はその家を出入りできるという話があった。私はこの桐敷家と村人たちが話す場面と上のように交わされる会話でそのことをふと思い出した。
このありきたりな社交辞令こそが彼らが跋扈するトリガーであり、そして村人にとって禁忌を自ら破る行為なのだ。

つまりこれは起き上がりを作る吸血鬼たちにとって道祖神やお払いの儀式などの呪術が有効であることを指しており、従って西洋のヴァンパイアたちへの武器となる十字架や仏具もまた彼らにとっても具合の悪いものであることが解ってくる。

更にそれについて小野氏は突っ込んだ解釈を室井静信の口から語らせる。それは屍鬼が元々人間であることを記憶しているがために屍鬼になることで世界の調和から外されることを意識して、そこに介入するのに許可が必要なのだと。
つまり彼らは十字架や仏が怖いのではなく、その背後にある人間の存在を意識させられるがゆえにその調和から締め出された自分の孤立を悟り、恐怖するのだ、と。

実に観念的な話ではあるが、やはり屍鬼が人間とは似て非なる存在と云うのが大きいだろう。

我々が牛や豚、鳥や魚、野菜に果物といった様々な生ある物を食べて生きつつ、罪悪感を覚えないのはそれらが人間の言葉を解さないからだ。そして直接意思疎通を行わないからというのは大きな理由の1つだろう。

従って犬や猫といった愛玩動物は人の言葉は話さないにせよ、人間と近しい存在であり、意思疎通を図れるからこそそれを食べようとは思わない。

私は畜産業を経験したことがないので、牛や豚などの家畜を育てている人が、ではそれらの肉を食べないかと云われれば決してそうではないだろうが、少なくとも自分たちが育てた牛や豚は食べないかもしれない。

そう考えると屍鬼が人を襲うことの罪深さ、そして人が屍鬼を駆逐することの罪悪感も理解できる。お互い意思疎通ができ、つい最近まで一緒に話をし、同じ村で暮らしていた人々を自分たちが生き残るためにという理由で捕食し、または虐殺しなければならないという業が本書には横溢している。

襲う側の屍鬼も辛いというのが本書に深みを与えている。人の血を吸わないと死ぬほどに苦しいから吸わざるを得ない。

それぞれのドラマが非常に濃い。そしてそんなドラマを吸血鬼譚にもたらした小野氏の着想が素晴らしい。

そして桐敷沙子。
彼女は自分もまた犠牲者だと訴える。お腹がすくからそれを満たすために人間を襲っただけ。それが何が悪いのかと何度も訴える。

そして自分がその存在を隠しながら数百年も生きてきたこと。家族愛に飢えていること。常に逃げて生きてきたこと。安住の地を外場村に求めたこと。

彼女が望んだのは誰もが願う幸福の形だ。しかし彼女は屍鬼と云うだけで、人間を襲わないと生きられない化け物というだけで忌み嫌われる。

そして仲間が増えることで食糧となる人間が減るがゆえに必然的にマイノリティにならざるを得ない存在。

つまり屍鬼もまた環境の犠牲者であるのだと。

そしてこの物語を語るには最後のジョーカーとなる室井静信について語るざるを得ないだろう。

正直この室井静信と云う男、読者の共感を得にくい人物である。

仏に仕える身でありながら神の存在に疑問を持ち、また自身の命に執着がなく、学生時代に自殺を図った男。

しかし屍鬼が村に連続する怪死現象だと解ってくると屍鬼もまた生きる権利があるとし、人が生き残るための屍鬼の殺戮を厭い、結局何の手立てもしない。

実に矛盾に満ちた人物だ。

彼自身が最も罪深い。こんなに腹立たしい登場人物もなかなかいないのではないか。

ただこの変容こそが、矛盾こそがまた人間なのだと思う。

最初に意識していた小野不由美版『呪われた町』などという思いは最後には吹き飛んでしまった。この濃密度は本家を遥かに上回る。
単純に長いというわけではない。
上に書いたように本書が孕むテーマやドラマがとにかく濃く、実際これほどの感想を書いても全く以て書き足らない思いがするのだ。

マイノリティに向ける小野氏の眼差しはそれが人間にとっても害であってもその存在を認めるべきだという包容力を感じさせる。
一方で怪異が起きているのに今は常識が邪魔をしてそれを正視しない大人たちばかりになってしまった世の中を批判している。だからこそのあの結末だろう。

ゆめゆめ油断なさるな。21世紀の、平成になった世にもまだ怪異は潜んでいる。
それを信じる大人になってほしい。それがために物語はあるのだから。

まさに入魂の大著と呼ぶに相応しい傑作だ。そしてこんな物語が読める自分は日本人でよかったと心底思うのである。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
屍鬼〈5〉 (新潮文庫)
小野不由美屍鬼 についてのレビュー
No.1285: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

その愛は深い母性か、それとも狂気か

東野圭吾氏が今回選んだのは脳死をテーマにした人の死について。以前『変身』では他者の脳が移植された男の実存性について語ったが、今回は脳死とは本当に死なのかについて語られる。

実に、実に解釈の難しい物語だ。人の生死について読者それぞれに厳しく問いかけるような内容だ。

物語は娘瑞穂が突然の水難事故で心拍停止状態に陥り、回復したが脳の機能が停止した植物人間状態になった播磨夫妻の、娘の回復に一縷の望みを掛けた苦闘の日々が語られる。

まず脳死とは脳死判定を行った上で脳死であると判定された時点で見なされる状態。その時心臓はまだ動いていても、即ち臓器が生きて活動していても脳が機能していなければ脳死、即ち死人と見なされる。改正された臓器移植法ではドナーカードを持っていれば即ち患者の意志と見なされて臓器移植へのドナーとなり、一方ドナーカードを持っていなくても患者の家族が脳死判定をすることに同意し、脳死の判定が下されればドナーとなる。
また一方で脳死判定に同意しなければ当然判定は行われず、従って死亡したとみなされることはない。臓器移植法とは実に奇妙な法律である。本書では人工呼吸器に繋がれて生かされていたとしても脳死と判定されればそれが抜かれることで文字通り息の根を止められるような思いがすると当事者家族の思いが生々しく語られる。

播磨夫妻は一旦それを受け入れるが、お別れの際に握っていた瑞穂の指がピクリと動いたと感じたことからそれを翻し、娘の回復に望みをかける。

つまり本書における瑞穂の状態は正確には脳死ではないのだが、便宜上ここでは彼女の症状、状態について敢えて脳死という言葉を使わせていただく。

物語の中心であるこの播磨夫妻のパートを読めば、本書は脳死と云う不完全死に挑む夫婦の物語として読める。そして別居中の夫が脳と機械を信号によって繋ぐことで人間の、障害者の生活を改善する技術を開発している会社の社長とであることから、最先端の技術を駆使して脳死状態の人間を徐々に健常者へ近づけるよう努力をするのだ。
これを本書の第一の視点としよう。

つまり本書における脳死患者と家族の戦いは播磨夫妻のような富裕層でないとできない戦いなのだ。
私はこれについて金をつぎ込まないと奇跡は起きないと云っていると解釈しない。東野氏のミステリのテーマとして常にある、最新技術を駆使したミステリを描くこと、即ち最先端の技術で人はどのように脳死を乗り越えることが出来るのかを語った物語として読んだ。

しかし上に書いたように本書はそんなたゆまぬ夫婦の努力を描きながら、どこか歪な雰囲気が全体に纏われている。

それは瑞穂の母親である播磨薫子の造形だ。通訳の仕事をしているだけあって彼女は通常の主婦以上に理知的だが、一方で頑として譲れないところがある女性だ。自身そんな自分を陰険だと評している。

そして自分の目的のためには周囲をとことん利用しようと考える女性でもある。
夫の浮気に気付き、解消した後もその後の人生でその悪しき出来事を思い出すのが嫌なために別居だけでなく別れることにしながらも植物人間状態となった娘の生存維持のため、多額なお金をかけて生かすために敢えて離婚を選択せず、しかし一方で別居はそのままとしたところ。

また夫の会社の社員星野が植物状態となった娘の身体を磁気による刺激によって人為的に動かす装置を発明したことで、その後も娘を少しでも健常者に近づけるために、彼が自分へ好意を持っていることを知りながら利用し、そして囲い込もうと企みもする。

但し、そんなことを企みつつも悪女でないという実に不思議な魅力を持った女性である。
それは何よりも全てが娘の回復という奇跡のためにささげられているからだ。

つまり彼女は娘の回復を願うあまりに自分が魅力的であることを自覚しながらそれを最大限活用してとことん他者を利用し尽くす、一つの目的に対して貪欲なまでの執念を持った女性であることが見えてくる。

それは彼女の母千鶴子もまたそうだろう。
自分の不注意で瑞穂を預かっている最中にプールで溺れさせ、植物人間状態にしてしまった負い目を一生背負うことを覚悟し、その後娘の子供を預かることがトラウマになりながら、孫の介護の協力を娘から申し出られると、そのことにその身を捧げることを決意し、それが自分に与えた罰への唯一の償いとして身を擲つ。
しかし彼女の場合はもし同じような境遇にあった場合、それしか選択肢はないようにも思える。

そしてまずは横隔膜ペースメーカー、即ち気管切開せずに横隔膜に電気刺激を与えることで見た目普通の人と変わらぬように呼吸ができる技術AIBSから始まり、先に述べた磁気刺激装置で筋肉を刺激して動かす人工神経接続技術、即ちANCを導入し、さらにそれを発展させ顔面の表情筋をも動かすまでに至る。

しかし一方でこの播磨夫妻が物云えぬ人形のような瑞穂を機械の力で動かすところを見て戦慄を覚え、神への冒瀆だとまで云う人々もまた現れる。
これが本書の第二の視点だ。

脳死状態で本来なら手足も動かせない我が子に電機や磁気で刺激を与え、動かすその行為そのものに親の愛情に狂気を見出し、悲鳴を挙げて逃げ出す、その技術を施したハリマテクスの社員星野祐也の恋人川嶋真緒。

電気仕掛けで動く孫に衝撃を覚え、そうすることを選んだ嫁の行為に嫌悪感を抱く播磨和昌の父多津朗。

脳死と云われているのに大金を投じて手足を動かす薫子を異常だと評する薫子の妹の夫。

それだけではなく、瑞穂の弟生人は小学校の入学式で母親が瑞穂を連れてきたおかげで周囲からいじめを受け、瑞穂が死んだと云わざるを得なくなり、それによって生人の中で瑞穂への見方が変わってしまう。

さらに先天性の病気で臓器移植を待つ幼い娘を持つ家庭のことも描かれる。
これが第三の視点だ。

もし脳死判定によって死亡が確定し、ドナーが現れれば助かったかもしれない命。それを待つ側の夫婦の話が描かれる。

このように植物人間となった少女1人を通じて物語はそれぞれの取り巻く状況を深く抉るように描かれる。

そして瑞穂のところに特別支援学級から定期的に派遣される特別支援教育士の2人。

最初の米川先生はどうにか瑞穂に意識を戻らせようと音楽を聞かせたり、話しかけたり、楽器を演奏してみたりと積極的に関わる。

一方その代わりに来た新章房子はひたすら本を読み聞かせ、薫子が席を外している時はそれさえも止めてじっと娘を見つめる無表情な女性。

この2人の対照的な教育士の話は実に興味深い。

こういう端役にも厚みを持たせるエピソードを持たせる東野氏は実に上手いと唸らされる。それが登場人物の造形を深くする。
上に挙げた以外にもまだあるので少し述べよう。

まず思わず目頭が熱くなったのは播磨夫妻の娘瑞穂の四つ葉のクローバーのエピソードだ。

そしてアメリカでの娘の臓器移植手術に一縷の望みを託す江藤夫妻の話もそうだ。

上にも書いた瑞穂の許に派遣される特別支援教育士新章房子が瑞穂に話す童話の話。この何気ない物語に隠された新章房子の真意とそして薫子が生んだ誤解。

随所に挟まれるこれらのエピソードが登場人物に厚みを持たせ、そしてそれぞれの行動原理に意味を持たせ、物語全体を補強する。物語巧者として匠の域に達した感がある。

それだけではなく、臓器移植法について単に法律を紹介するだけでなく、それに向き合う医師の言葉で解釈を据えるのもまた物語を補強する要素となっている。

上に書いたように脳死判定で脳死と判定されれば患者は死んだとみなされ臓器移植が成される。しかし一方で心臓は生きているため、完全死ではない。そこにこの法律のジレンマがあるが、その基準となる竹内基準を人の死を定義づけるものではなく、臓器提供に踏み切れるかどうかを見極める境界を決めたものだという解釈だ。

ポイント・オブ・ノー・リターン。つまりそこに至れば今後脳が蘇生する可能性はゼロである。
つまり正式には「回復不能」、「臨終待機状態」と称するのが相応しいが、役人たちは「死」にこだわったため、脳死という言葉が出来たようだ。

この話は私の中でようやく脳死判定に対する解釈が腑に落ちた感がした。
心臓が生きているから死んでないと解釈するからややこしいのであってそこからは回復が望めないと判断される境界であると実に解りやすく解釈すれば、受け取る側も理解しやすい。
やはりこういうデリケートな内容は医師を中心に法律を決めさせたらいいのではないかと思う。

介護をされながらも生きることは介護をする側に負担を強いることだ。それは介護する側の精神をすり減らし、いつ終わるかもしれぬ無間地獄を強いることでもある。
どんな形でも生きてほしいと望みながら、いつこの苦しみは終わるのだろうといつしかその死を望むようになる。それが現代介護の厳しい現実なのだ。

そうやってまで生きること、生かされることに価値があるのか?
寧ろ上にあるようにもはやそこからは回復できないと判断された時は自分を「生かす」のではなくせめて他人のために「活かし」てほしい。そのための臓器移植法だと我々は解釈せねばなるまい。

本書の最大の謎とは播磨薫子と云う女性そのものだったと読み終わってしみじみ思う。
子供の愛情が強く、少しでも可能性があるのならばいつか回復するものと信じて娘が脳死と見なされることを拒否し、生かそうとする。

ここまでは普通の母親の姿だが、そこから更に彼女は夫の会社の技術と財力を利用して娘に最新技術による人工呼吸法、磁気で刺激して手足を動かし、更には顔の表情まで作ろうとする。そしてそれを介護の成果として周囲に見せるが、そんな状態を見てただの親のエゴによる自己満足に過ぎず、子供を玩具にしているものだと嫌悪される。

一方で幼き娘に臓器移植の手術をアメリカで受けさせるために寄付を募るボランティアに参加し、脳死判定と云う曖昧な基準で幼児の臓器移植が一向に進まない日本の現状について議論を吹っかけ、更に臓器を待つ両親にその気持ちを問い質す。

更に娘を完璧に近づけようとするが、やがて周囲の目が娘を死人とみていることにショックを受け、警察を呼び、自ら包丁を持って、娘を今目の前で刺したら殺人になるのかと問う。
その有様はほとんど狂える母親にしか見えないのだが、云っていることは論理的で矛盾がない。その圧倒的な迫力に気圧される。

しかしその一件で何か憑き物が落ちたかのように一転して今度は自分一人で娘の世話を見ることを決意する。もはや周囲に娘が生きていると納得させることも放棄したかのように。
その姿はしかし世捨て人や隠遁者と云った雰囲気ではなく、悟りを開いた、そう菩薩のように見える。

娘の死を受け入れた以降は娘の葬儀の準備に奮闘する。

彼女がふと漏らすのは母親は子供のためには狂えるのだという言葉だ。それを本当に実行したのが彼女であり、そのことだけが彼女の謎への解答となっている。

しかし播磨薫子は周囲を気にせず、全て自分の意志で行い、そしてそれを貫いた。
彼女はただ納得したかったのだ。周囲の雑音に囚われず、娘がまだ生きていることを信じ、そのために出来ることを全てした上で結論を出そうとしていただけなのだ。
それは飽くなき戦いであり、それを全うしただけなのだ。
これだけは云える。彼女は信念の女性だったのだと。

倫理観と愛情、人の生死に対する解釈、それによって生まれる臓器移植が日本で進まない現状。
子を思う母親の気持ちの度合い。
難病に立ち向かう夫婦と現代医学の行き着く先。

そんな全てを播磨薫子と瑞穂の2人に託して語られた物語。色々考えさせられながらも人と人との繋がりの温かさを改めて感じさせられる物語でもある。
情理のバランスを絶妙に保ち、そして我々に未知の問題と、それに直面した時にどうするのかと読者に突き付けるその創作姿勢に改めて感じ入った。

子を持つ親として私はどこまでのことをするのだろう。読中終始自分の娘の面影が瞼に過ぎったことを正直に告白しよう。我が娘が眠れる人魚にならないことを今はひたすら祈るばかりだ。
こういう物語を読むと遠い異国の地で家族と離れて暮らす我が身に忸怩たる思いがする。これもまた東野マジック。またも私は彼のマジックに魅せられたようだ。



▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
人魚の眠る家 (幻冬舎文庫)
東野圭吾人魚の眠る家 についてのレビュー
No.1284: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)
【ネタバレかも!?】 (1件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

闇をのぞき込むボッシュもまた闇の深淵から覗かれる

前作でロス市警に復帰し、未解決事件班に配属されたボッシュは本書でもそのままキズミン・ライダーとコンビを組んで過去の未解決事件に当たる。それは折に触れ独自で再捜査を重ねていたマリー・ゲスト失踪事件。それは1993年に当時ジュリー・エドガーと共に担当し、衣類まで見つかりながら彼女自身が見つからずに今に至っている事件だ。それが思わぬ方向から犯人と思しき男が浮上し、ボッシュは否応なくその捜査に加わることになる。

たまたま深夜に職質されたことで車内にあったゴミ袋に2人の女性のバラバラ死体が入っていたことで捕まったレイナード・ウェイツが2件の未解決事件の犯人であることとまだ表出していない9件の殺人事件の犯人であることを供述する代わりに死刑を免れるよう司法取引を申し出る。そのうちの1つがマリー・ゲスト殺害だったというもの。
つまりボッシュは13年間追ってきた事件の犯人を思いも寄らぬことで知ることになるのだが、それは彼に正統なる法の裁きを与えないことで解決するという、皮肉なものだった。

さて前作から恐らく作品世界内では1年くらいしか経っていないと思われるものの、色んな変化が見られるのが特徴だ。

まず未解決事件班の頼れる班長であるエーベル・プラットはなんと4週間後に25年間の警察勤務から引退し、カリブ諸島のカジノの警備関係の職を得て第2の人生について思いを馳せているところ。従って前作よりも警察の仕事にあまり身が入っていない印象を受ける。

そして前作でロス市警からの退職を余儀なくされたアーヴィン・アーヴィングはなんと市議会選挙に立候補し、恨みを晴らさんとロス市警の改革を選挙公約として掲げている。

また本書を前に刊行されたリンカーン弁護士ことミッキー・ハラーも本書の事件の最有力容疑者であるレイナード・ウェイツの過去の事件の担当弁護士として名のみだが登場する。

またリンカーン弁護士がらみで云えば、ハラーが弁護を請け負うことになったルーレイの顧問弁護士セシル・ダブスもボッシュがマリー・ゲスト殺しの容疑者と睨んでいるアンソニー・ガーラントの父親、石油王トマス・レックス・ガーラントの顧問弁護士事務所として登場する。

更に最も忘れてはならないのは『天使と罪の街』でボッシュとコンビを組んだFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが登場し、ボッシュの捜査をサポートすることだ。

件の作品で干されていたレイチェルがFBIのロス支局へと栄転したが、その事件でお互い分かち合えた2人は一旦物別れする。しかしボッシュはレイナード・ウェイツと面会するに当たり、彼の為人を知るためにプロファイラーであったレイチェルの助けを借りるのが再会のきっかけとなる。

一旦ボッシュからウェイツの資料を預かり、概要的なプロファイルを行ってその夜ボッシュの家を訪れ、資料の返却と彼女のプロファイリング結果を話した後、なんと2人は寄りを戻してベッドインするのだ。
前回はレイチェルが意図的に仕組んだあることで自らボッシュの前を去った彼女はやはりボッシュへの好意は尽きていなかったのだ。この2人は似た者同士で魂で引き合っている人間なのだ。

さてそのボッシュとレイチェルが対峙するのは絶対的な悪である。レイナード・ウェイツは良心の呵責など一切感じない、人を殺すことが自分をより高みに上げると信じる、正真正銘の悪人だ。しかも深夜にたまたま職質されるまで、それまで行ってきた9人もの女性の殺人が発覚しなかった慎重かつ狡猾なシリアルキラーだ。

このレイナード・ウェイツは本書の前に書かれた『リンカーン弁護士』に登場するルイス・ロス・ルーレイに通ずるものがある。

そして捜査を進めるうちにボッシュはその絶対的悪人こそがもう1人の自分であったことに気付かされるのだ。

ボッシュはレイナードをもう1人の自分であると悟る。YES/NOの分岐点で分かれることになったもう1つの人生こそがレイナード・ウェイツだったのだと。

闇の深淵を覗き込む者はいつしか向こうから自分が覗かれていることに気付く。
これはこのシリーズで一貫したテーマだが、まさに今ボッシュは自分の人生で抱えた闇を覗き込んで向こうから自分を見る存在と出逢ったのだ。

ハリー・ボッシュという男を彼が担当する事件を通じて彼が決して逃れない闇を背負い込んでいる、業を担った存在として描くのは12作目にしても変わらぬ、寧ろまだこのような手札を用意していることに驚きを禁じ得ない。コナリーのハリー・ボッシュシリーズに包含するテーマは終始一貫してぶれなく、それがまたシリーズをより深いものにしている。

さて今回の題名『エコー・パーク』はロサンゼルスに実在する街の名だ。このエコー・パークはかつて貧困地区であり、再開発によって中公所得者層が住まう、カフェや古着屋や食料雑貨店や魚介料理屋がひしめく、おしゃれな街へと変貌していった場所で、かつての主であった労働者階級とギャングたちが追いやられた街だ。

なぜこの街の名を本書のタイトルに冠したのか、私はずっと考えていた。確かにその場所は長らくシリアル・キラーとして女性を殺害していたサイコパスの連続強姦魔レイナード・ウェイツが初めて警察に捕まるミスを犯した場所である。

深夜自身の経営する清掃会社の名前を付けた車でエコー・パークを通りかかったために不審に思った警官が職務質問をし、その際に車内を調べた後、そこに2人の女性のバラバラ死体の入ったゴミ袋が見つかったことが彼の逮捕に至った。

しかし彼はそこから更に9件の、警察の知らない殺人事件を犯していると云っていることから、今まで巧みに警察に知られぬように暗躍していた狡知に長けた殺人鬼だったとみなされていた。

また彼の生い立ちを調べていくうちに孤児だった彼を引き取った里親のうち、最も長くいたのが、彼が偽名として使っていたサクスン夫妻の家で、その家があるのがエコー・パークだった。そして彼が殺害した数多の女性死体を隠匿していたのがそのサクスン夫妻の家のガレージの奥に作ったトンネルだった。

狡猾な連続殺人犯が偶然ながら捕まった場所であること、孤児の時に最も長く住んだところ、そして彼が殺害した女性を埋め、また装飾したトンネル、つまり彼の王国があったところ。エコー・パークこそウェイツが辿り着いた園(パーク)だったのだ。

そして一方で単なる地名でありながら、本シリーズ第1作で作家コナリーのデビュー作である『ナイトホークス』の原題 “Black Echo”と同様に“Echo”という単語を使用した題名でもある。

“Black Echo”とは即ちボッシュがヴェトナム戦争時代にトンネル兵士だった頃に経験した地下に張り巡るトンネルの暗闇の中で反響する自分たちの息遣いのことを指す。

そしてボッシュは逃亡したウェイツと対峙するために彼が拵えた死体を隠し、埋め、また装飾した隠れ家兼王国であるトンネルに入る。ヴェトナム戦争でヴェトコンと対峙したのと同じように今度は連続殺人犯と対峙し、そこに捕らわれているまだ息のある女性を取り戻すために。

この類似性は敢えて意図的にしたものか。私は本作でFBI捜査官レイチェルがサポートして捜査するボッシュの構造と同じくFBI捜査官だったエレノア・ウィッシュと共同で捜査する第1作がダブって見えて仕方がなかった。
やはり同じ“Echo”という名を冠したことにコナリーは意図的であった、そう私は思いたい。

また本書ではボッシュの相棒キズミン・ライダーが瀕死の重傷を負うショッキングな展開がある。現場検証の際にオリーヴァスの銃を奪って逃走したウェイツに彼女は撃たれて頸動脈に傷を負い、一時は生死の境をさまよう危ない状況に陥る。
意識を取り戻した彼女がボッシュに告白するのは思いもかけない内容だった。

ボッシュが自分の復職の条件として自分の相棒となるよう要請したほど刑事としての資質を認めていた彼女の弱さを思い知らされたシーンだ。これはシリーズ読者にとっても驚きの告白だった。

そして事件の真相はまたも衝撃的だった。

未解決事件、いわゆる“コールドケース”と呼ばれる事件の関係者たちは何年経っても事件の記憶は消えず、その中に家族が当事者である人々にとっては犯人が見つかるまでは終わらないもので、ボッシュも13年間追い続け、その都度事件の捜査経過を家族に連絡していることが描かれている。
失踪したマリーの母親アイリーンはその連絡の後、ボッシュに「幸運を」と投げ掛ける。それはボッシュが無事犯人を見つけられるようにでもあるし、自分たちの娘が無事、もしくは最悪の形であれ見つかることを祈念してのメッセージだろう。

FBI捜査官という緊張を強いられる仕事で安らぎを与えてくれる存在を求めていた彼女は同じ魂の匂いを感じるボッシュにそれを見出すが、彼が逃亡したウェイツの居所を発見して応援要請を待たずに犯人の待つ暗いトンネルへと突き進むのを見て、レイチェルは彼が現場でやっていることを目の当たりにする。それは彼女にとっては安らぎを得られるものではなく、寧ろその帰りをいつも心配して待たねばならない姿だったからだ。まさに似ているからこそ一緒になれない存在だ。

コナリーの作品を読むと人と人の間には絶対はないと思わされる。特にボッシュの場合、その執念とまで云える悪に対する憎悪が周囲の人を慄かせるから、彼が真剣に取り組めば取り組むほど人が離れていってしまうという皮肉を生み出している。

シリーズはまだ続く。毎回思うが、次作への興味が本当に尽きないシリーズだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
エコー・パーク(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリーエコー・パーク についてのレビュー
No.1283: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

物語を書くことの極北か

3分冊で刊行された作品集『スケルトン・クルー』の第2弾。

まずは珍しくキングの手による詩「パラノイドの唄」から始まる。
これはその題名が示すように、強迫観念の強い男の妄想で綴られた詩だ。常に誰かに見られていると思い込み、窓の外にはトレンチコートの男がいて、街を歩けばタクシー運転手も新聞を見ている風に装って見張っている。
食事をすれば塩だと云ってそれが自分を殺すために持ってきた砒素だと思い、電話は誰かに盗聴されていると信じ、決して使わない。

さて次の表題作はなんと書いた文章が現実となるワープロの話。
打った文章が現実となるワード・プロセッサ。それはもはや我々日本人にしてみればドラえもんのひみつ道具のようなお話である。
この子供向けアニメのような題材をキングが書くと実に素晴らしい内容になるから不思議だ。
子供の頃から自分を支配し、屈服させてきた暴力的な兄。しかもその妻ベリンダは元々自分が最初に付き合った彼女でそれを兄が横取りして結婚したのだった。更にそんな粗暴な兄から生まれたジョナサンは機械いじりが大好きで、自分がワード・プロセッサを欲しいと云ったことを覚えており、僅か15歳にして手製のそれを作るほど聡明。しかしそんな家族3人は飲んだくれ兄の飲酒運転による交通事故で亡くなってしまっている。
一方自分の家族を振り返れば作家志望の高校教師である自分をはずれ籤を引いたとばかりに愛想を尽かし、日々太り醜くなっていく妻と勉強せず下手くそなギターの練習に明け暮れ、成績はどうにか落第するかしないかの辺りで留まっている愚息が1人いるのみ。
そんな現状を変えたいと願う彼の許に書いた文章を現実のものとするワード・プロセッサが現れる。
ドラえもんならばそれを使うことでエスカレートするのび太に天罰が下るが如く、痛烈なオチが待ち受けているが、キングはそうした報われないリチャードの決断を叶えて終わる。
これはワード・プロセッサで書いた文章によって変化をもたらされると世界そのものも変わるのがミソで、何かを消し去ればそれ自体が元々なかった世界に置き換えられ、何かが手に入れば同様にそれが最初からそこにあった世界へと切り替わる。
この結末には是非があろうが、今の人生、やり直せるならやり直したいという願望を叶える読者の願望を形にした作品だ。

意志持つ機械というのはキングの恐怖のテーマの1つだが、「オットー伯父さんのトラック」もその系譜に連なる作品だ。
共に事業を大きくしていったパートナーと経営方針の違いから仲たがいするようになり、それが殺意にまで発展して、事業拡大の鍵となった1台のトラックで殺害したことで、そのトラックが自分を殺しに近づいてきていると考えるようになる。
一見パラノイドの狂言のように思える話だが、それは現実となる。ただ彼を殺しに近づいたのはトラックそのものではなく、その幻影のような存在。
機械や雑貨などに霊的な物が宿り、人を殺すというのはキングの作品でたびたび描かれるが、そこではいつも理由はなく、ただそれが起こり、エスカレートしていく様が描かれる。
しかし本作では因果関係も描かれるものの、逆に被害に遭うオットー伯父さんの真意はそれとなく仄めかされる。

次の「ジョウント」はキングにしては珍しいSFホラーだ。
アルフレッド・べスターの『虎よ、虎よ!』に登場するテレポーテーションの名前からそのまま借用されたテレポーテーションシステム、ジョウント。扉を開けるとすぐさま遠方へ移動できる、いわばどこでもドアのような装置だと解釈できる。
ただ発明者のカルーンが無生物では何ら支障なく転送できるのに、なぜか生命体は移動するとすぐさま亡くなってしまうという問題に対して、色々試行錯誤する様が描かれる。
それは覚醒状態であればジョウントをくぐると永い時間を過ごすことになり、一気に老化現象が進んで死に至るのに対し、昏睡状態であればその悠久の時間を経験することなく、通常の状態で移動できるというものだった。
逆にその老化現象を利用して犯罪者の処刑に使われていたという都市伝説めいた逸話があることも紹介される。
ついつい余計なことまで話してしまう父親の性分。
ダメだと云われると逆にやりたくなる、少年の反抗心。
どこにでもいる家族の日常がこんな悲劇を生み出す、キングならではの味付けがなされた作品だ。

「しなやかな銃弾のバラード」は処女作がヒットする幸運に恵まれた若い小説家夫婦の許に集まったエイジェントの夫妻と編集者の間で交わされる、ある若い作家が狂気に至って死に至った物語だ。
「狂気はしなやかな銃弾なのだよ」
このあまりに魅力的で蠱惑的な風合いを讃える一文。この一文のためにこの作品は書かれた、そう思わせる作品だ。
この表現はマリアンヌ・ムーアがしばしば自動車か何かを描写するのに使った言葉だと本作の中で語られている。調べてみるとマリアン・ムーアなる詩人が実在したことは解ったが彼女がこのような表現を使っていたかは解らなかった。
ともあれ、このしなやかな銃弾とは作中で登場する狂気に駆られた作家レグ・ソープ自身が放った弾丸のことだ。
私はこの作品はある意味創作に携わる小説家にとっては真実の物語なのだと思う。たった一度きりの人生しかないのに、その手から生み出されるのは他者の人生であり、また見知らぬ世界の物語だ。そんな物語を日々生み出すのは頭の中のアイデア以外の、人智を超えた何かがあると思っているのではないか。

さて本書の最後を飾るのは原書の表紙に描かれているシンバルを持った猿の人形の話「猿とシンバル」だ。
シンバルを持ち、ゼンマイを巻くとコミカルな動きで音楽に合わせて両手のシンバルを叩く、子供の玩具として知らぬ者もいない猿の人形。しかしそんな愛らしい人形もキングの手に掛かれば恐怖の人形へと化す。通常は壊れているかのようにゼンマイを巻いても動かないこの猿の人形が、まるで意志を持っているかのように突然動き、シンバルを叩くと身の回りの誰かが亡くなるのだ。つまりこの猿の人形は死の宣告者なのだ。そしてそれは猿の意志ではなく、ゼンマイを巻き、シンバルを鳴らすことを持ち主にも強いる。アットランダムに殺人が行われるデスノートのような代物だ。
とはいえ、これはある意味今まで数多書かれたホラーの典型である。この猿の人形が捨てても捨ててもなぜか主人公の近くに戻ってくる怪奇現象もまた同じくホラーの典型で、敢えてキングは典型的なホラーを描くことを選んでいるかのようだ。
それは物語の舞台の1つにクリスタル・レイクを選んでいることからも推測できる―クリスタル・レイクは映画『十三日の金曜日』の舞台―。
ただ最後のオチは予想外だった。


本書は前巻『骸骨乗組員』と次の『ミルクマン』の三冊で構成される原書『スケルトン・クルー』の中の1冊なのだが、共通したテーマを備えた短編集だと感じた。

それは狂気。

本書の各編に登場する人物はなにがしかの狂気を抱いていることだ。

まず最初のキングにしては実に珍しい詩の内容からして狂気が横溢している。何しろ「パラノイドの唄」、つまり被害妄想者の妄想を綴った詩であり、狂気ど真ん中だ。

続く表題作は神々のワード・プロセッサなる夢のような道具によって報われない人生を変えるハッピーエンディングの話でありながら、主人公が取る自身の家族を削除し、自分のお気に入りの甥と義姉を手に入れる、これは願いを叶える道具が未完成ゆえに使用限度があるという設定ゆえに狂気の一歩手前で成り立っているのだ。もしこれが何年も使えるようであれば、主人公は万能な機械を手に入れた狂気の独裁者のような行動を取るだろう。

「オットー伯父さんのトラック」も普通人としての生活を捨て、トラックが自分を殺しに来ると思い、日がな一日家の中の同じ場所に座って待っている妄想者の話だ。これもその妄想が現実化することで一般人にとって狂人に見えるオットー伯父さんがそうならなかっただけの話だ。この作品に収められているオットー伯父さんの所業の数々から人々は次第に「変わっている」から始まり、「奇妙な」、「おっそろしく奇態」、「トチ狂っている」、そして「危険性がある」と彼への評価をどんどん吊り上げていく。つまり他者にとって彼は狂人にしか見えないのだ。

「ジョウント」は細やかな誰にでもある、狂気だ。

云わなくてもいいことをどうしても云ってしまう父親とダメだと云われると逆にやりたくなる好奇心旺盛な少年が辿る不幸な結末だ。
これは性(さが)なのだ。やってはいけないと頭ではわかっているがそれを抑えきれないのだ。

「しなやかな銃弾のバラード」は純粋に狂人の物語だ。狂人と付き合ううちに自らも狂気の渕に立ち、そして陥りながらも一歩手前で死を免れた人が目の当たりにした狂人の末路の物語だ。

最後の物語もまた狂気、いや凶器の物語か。動くとそのたびに人が死ぬ、恐ろしい猿の人形。しかもその人形に魅入られるとその人は自らゼンマイを回して猿を動かし、誰かを殺さずにはいられない。狂気を呼びこむ凶器の物語だ。

ただこれらの狂気は誰しもが抱えている狂気のように思える。決して特別な狂気ではない。ストレス社会と云える現代ではこれら登場人物が囚われる狂気は我々もまた持ちうるのだ。

常に誰かに見られているのではないか?

こんな現状を誰か変えてほしい!


他者にとってはおかしいと思われようが自分の過ちを報わなければならない。

どうしても喋らずにいられない。

ダメだと云われたら余計したくなる。

自分の才能以外の不思議な何かが今の自分を支えているのではないか?

俺の周りに不幸が訪れるのはあのせいだ!

そんな我々が抱く不平不満やエゴを肥大化させたのが本書の登場人物であり、彼らが抱いている負の感情は実はほとんど大差ないのだ。

またキングの作品にはキング自身が色濃く反映されているといつも思う。

例えば表題作ではゆくゆくは作家として生計を立てたいと考えながらヒットに恵まれず、高校教師を続けているリチャードと云う人物が出てくるが、これはベストセラー作家にならなかったキングを反映したものだろう。彼はチャンスを手にし、そしてそれを物にしたことで今の人生があるのだが、それが出来なかった場合の人生をリチャードに投影しているように思える。

また「しなやかな銃弾のバラード」ではデビュー作が大ベストセラーになった作家の狂気が描かれているが、これはまさにキング本人そのものではないか。もしそれが起こったら?という創作者自身が常に抱いているスランプへの恐怖を色濃く表しているように思えた。

それを裏付けるのが最後の結びの部分だ。

小説家は、<言葉>というものが本当はどこから生まれるのだろう、といぶかることが時々―いや、しばしば―あったのだが、きっぱり言ってのけた。「(妖精なんて)絶対にいないよ」

創作に携わる者はどこか自身の理解を超えた別の場所からアイデアが降ってきて、それを自分と云うフィルターを介して書かされているのだ、それはどこから来るのか、そんな葛藤が垣間見れる一文である。

また本書でも例に漏れず、他作品とのリンクがある。

もはやキング作品ではお馴染みとなった町キャッスル・ロックが「オットー伯父さんのトラック」では物語の舞台となっている。おまけにあの『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドも名のみ登場する。本書ではその父親ビリー・ドッドがオットー伯父さんと親しいレッカー業者として登場するが、語り手は「いかれたフランク」とフランク・ドッドを評している。後の事件に繋がるさりげないが見過ごせない一文だ。

随所にキング本人とそしてキングがこれまで紡いできた「キング・ワールド」の断片が覗けた短編集だった。

そして私もまたこうやって感想を書いているわけだが、後日読むと、まるで別人が書いた文章のように感じられることがままある。それは自分がその作品を読んで抱いた感想が思いも寄らなかった内容だったり、もしくは自分の才能以上のことを書いていたりすることに気付かされる時があるのだが、もしかしたら私のパソコンにも本の感想を書く手助けをしてくれる妖精が潜んでいるのかもしれない。

そう考えるとあながち本書に収められている狂気の物語は単に作り話として通り過ぎるのが出来ないほど、心に留まり続ける、そんな風に思えてならない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
スケルトン・クルー〈2〉神々のワード・プロセッサ (扶桑社ミステリー)
No.1282: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

自分が自分であるために選んだ道とは?

井上夢人氏第2長編となる本書は登場人物の手記もしくは証言をもとにした文書をコンピュータで作った文書ファイルとして構成されたミステリ。

それはかつて井上氏がウェブ上で展開していた『99人の最終列車』を彷彿とさせる群像劇のようだ。

それは東京のマンションで起きるある若夫婦の殺人事件を発端にした、男女5人の事件を巡るそれぞれの奇妙な道行を描いた内容となっている。

5人の男女、即ち向井洵子、高幡英世、奥村恭輔、若尾茉莉子、藤本幹也の手記もしくは供述で構築されていく物語はそれら登場人物たちの話によって逆に事態が収束していくわけではなく、謎が謎を呼び、そしてそれぞれのアンデンティティがどんどん歪みを増していく。

まず向井洵子の手記ではもう1人別の自分がいることが示唆され、そして自分自身が殺害されるという新聞記事に出くわす。
そして出張から帰ってきた主人の裕介にはいきなり突飛ばされ、昏倒した後、目が覚めると自分のマンションの目の前の部屋の住人本多初美の部屋にいることが判明する。その後どうにか自分の部屋に戻るとそこには半ば腐乱した夫裕介の死体が転がっているのに遭遇する。

奥村恭輔は向井洵子と同じマンションの同じフロアの住民で小説家。しかし彼はドアポストに入れられていたフロッピーの中に保存されていた向井洵子の手記を読んだことで向井洵子の事件を単独で追うようになる。
そして手記の向井洵子がやがて偽物であることに気付き、やがてその手記で語られている隣人の本多初美の部屋を無断で侵入したことで若尾茉莉子なる人物の履歴書と彼女の高校の卒業アルバムを拝借し、彼女たちの足取りを辿っていく。

やがて2人の同級生から若尾茉莉子が本多初美とのドライブ中に高校卒業後間もなく大事故に遭って亡くなったことを知り、更に本多初美は藤本鋭二という、暴力夫と結婚し、毎日暴力を受けていたこと、そしてその夫も一緒にドライブに行った際に、酔っ払い運転で河に落ちた車から初美だけが助かり、鋭二が死んでしまったことを知る。そして本多初美は若尾茉莉子が成りすました人物ではないかと推理を巡らせていく。

そして若尾茉莉子は本多初美と一緒の部屋に住んでいる彼女と同郷の元同級生だ。彼女はしかし同級生の本多初美との生活をどうにか解消したいと思っている。
北海道から上京したものの、その容姿は男性の興味を惹きつけるようで、事あるごとに転居を繰り返しており、今のマンションは3番目の引っ越し先だった。そして勤めていた喫茶店を自分に云い寄る店長の誘いを頑なに拒んだがために反感を買い、馘首になり、そしてまたお客の1人に見つかったことから彼女はマンションを出て故郷の札幌に戻る。しかしそこには高校卒業後に間もなく遭った交通事故で自分を助けてくれた桑名雅貴にばったり出遭い、強引な誘いを受ける。

藤本幹也はいわゆるごろつきで若尾茉莉子と共生関係にある。彼は茉莉子に惚れてはいるものの結婚しようとは思っていないが彼女のピンチになると助けに来る男で、これまで彼女の犯罪の片棒を担いでいた男だ。彼女の障壁となる人物は悉く葬り去ってきた。

これら4人の手記や供述により、この4人に話に出てくる本多初美も加えた5人の関係性が次第に浮かび上がってくる。

そして唯一上で語っていない語り手、高幡英世は彼女彼らの観察者であり、この4人の手記を、いや読み手を導くガイドの役割を果たしている。

本書は小説家自身を描いたミステリと考えることが出来るだろう。

岡島二人のコンビを解消し、作家井上夢人として世に問うた作品『ダレカガナカニイル…』では女性の人格が主人公に入り込み、その女性を殺害した事件の真相を探る物語だったが、本書はさらにそれを発展させ、複数の人格によって語られる相矛盾する話を統合していく話だった。
つまり井上氏は人格とは何なのか、人一人に唯一無二の人格でなく2つ以上の人格が宿ることで生まれる、アイデンティティそのものがミステリという作品を描くことに興味があったようだ。

前作ではいささかファンタジー的な設定だったが、本書では現実的に起こりうる話として我々に問いかける。

本書の題名プラスティックの意味は最後に出てくる。

可塑的。つまり自由自在に形を形成できること。
つまり現代社会においてそれぞれ相手の性格や地位によって応対方法を使い分ける我々もまた可塑的な存在だ。
ただ感情の振れ幅と生まれた境遇が少しばかり普通だっただけで、我々もまたこの小説の登場人物の1人なのだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
プラスティック (講談社文庫)
井上夢人プラスティック についてのレビュー
No.1281:
(7pt)
【ネタバレかも!?】 (1件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

これはコロナ禍の世界の行く末か

ジョー・ヒル4作目の長編は竜の鱗状の模様が浮かび上がり、突如身体が燃え上がって死に至るという竜鱗病という奇病が発生し、世界中にパンデミックを巻き起こすディストピア小説である。

さてこの設定、やはり父親のキングの『ザ・スタンド』を想起させられずにはいられない。
軍の研究所から流出した殺人インフルエンザ<キャプテン・トリップス>によって大多数のアメリカ人が死に絶えたアメリカを舞台にしたあの大長編はロシア人が開発した胞子をイスラム過激派組織が散布したことで世界中に蔓延した竜鱗病によって世界中が炎に包まれていく様を描いた本書に大きな影響を与えていることは想像に難くない。

さらにそんな伝染病で生き残った人々が、いや竜鱗病患者であるにも関わらず全焼せずに済んでいる罹患者たちがトム・ストーリーなる人物が運営するキャンプ・ウィンダムなるコミュニティに集まっていくのも、<キャプテン・トリップス>に罹らず、生き残った人々たちが訪れるマザー・アバゲイルが管理する<フリーゾーン>なるコミュニティに集まっていくのと似ている。ちなみにマザー・アバゲイルに対してトム・ストーリーはファーザー・ストーリーと呼ばれているのも意図したことだろう。

また妻が竜鱗病に罹患したことで狂ってしまった夫ジェイコブが家のドアからチェーンのついたまま隙間から覗いて話しかけるシーンは父親原作の映画『シャイニング』も想起させる。

そして本書のメインとなる竜鱗病。皮膚に竜の鱗のような模様が出来、人間が発火して死に至る不死の病だが、その炎を自由に操るファイアマンことジョン・ルックウッドが現れるとこれまたキングの名作『ファイアスターター』の炎の少女チャーリーを思い浮かべてしまった。

さてこれらはジョー・ヒルがキングの息子であるという事実ゆえにもたらされる単なる先入観に過ぎないのだろうか。
いや私はヒルは敢えてそれを意識して本書を著しているように思える。

それが最も如実に伺えるのがハロルド・クロスという登場人物を眼にしたときだった。このハロルド・クロス。主人公ハーパーがキャンプに着いた時には既にいない。かつてキャンプに所属していたが、他のメンバーとは距離を置き、共同作業をさぼり、仲間の目を盗んで外出し、外部との連絡を取ろうとしていたために、キャンプの保安担当であるベン・パチェットによって射殺された人物だ。

所謂集団の中の爪弾き者で、常に他者を見下して斜に構えている、いけ好かない野郎だが、私は彼を出会った時にすぐに『ザ・スタンド』のハロルド・ローダーを思い出した。

このファースト・ネームが同じキャラクターは、優秀で美人な姉と比べられることで劣等感を抱え、それを克服するために知識を蓄えることに固執したため、尊大になり、周囲を見下すようになった少年だ。彼は誰かに認めてもらいたかった彼はそれが叶わない鬱屈した日々を手記に憎悪をぶつけて復讐の炎を滾らせる。

そして彼が最後に行動を共にするのが元教師のナディーン・クロス。そう、この性格と云い、手記を残す設定と云い、ハロルド・クロスはこの『ザ・スタンド』のハロルド・ローダーとナディーン・クロスから名前を取られた人物とみて間違いないだろう。

ただ『ザ・スタンド』と異なるのはコミュニティを形成する主人公たちが幸運にも<キャプテン・トリップス>の被害に遭わなかった人々、つまり健常者であるのに対し、こちらは逆に竜鱗病という未知の病に罹った人々であることだ。そして竜鱗病患者たちは健常者たちによって行われている焼滅クルーによる竜鱗病患者狩り、それは竜鱗病患者を見つけては虐殺するというまさに現代の魔女狩りの手から逃れて生きることを余儀なくされているところだ。

またヒルはキングが<キャプテン・トリップス>に罹患しなかった者の根拠を曖昧にしたのに対し、竜鱗病に感染するメカニズムについてきちんと述べている。

その詳細については作品に当たってもらいたいが、いやはやよくもこうしっかりと考えたものだ。この竜鱗病のメカニズムがしっかりしているがゆえに物語も無理が生じない。

またこの竜鱗病は何かの暗喩のようにも思える。
怒りや恐怖、ストレスなど心が乱された時に人は己の内から発する業火によって焼かれてしまうこの奇病。それは我々日常生活における感情に任せてしまうがゆえに生じるトラブルを指しているようにも思える。つまり発火の症状を抑えるのが竜鱗病の菌と同調し、対話をすることで逆に竜鱗病を炎を操る術としてプラスに転じることになるということは、我々日常においてもまず感情的にならずに一旦気を休ませ、自問自答することでなぜそれが起こったのかを理解し、そしてそれを相手に還元することで相乗効果を生み出す、つまりアンガーマネジメントを促す警句のようにも読み取れる。

一方、竜鱗病患者たちが身を寄せ合うキャンプ・ウィンダムが安住の地かと云えばそうではない。やはり閉鎖されたコミュニティの中で生まれる軋轢が存在し、ハーパーはルールを破って長く外出したことを咎められ、やがて孤立するようになる。ルールを破ったハーパーの行動は、たとえ足りなくなった薬や医療品を補充するために家に戻り、また重傷を負ったファイアマンの様子を見るためとは云え、大幅に約束の時間を逸脱しているので確かに褒められたものではないが、そのことに対して罰を優先させて秩序を守ろうとするキャンプの面々とそれを頑なに受け入れようとしないハーパーとの間の関係性が歪みだし、やがてハーパーこそ悪だと決めつけてリンチさながらの好意に発展していく様はどこかの宗教集団、もしくは共同体における集団心理の暴走を想起させる。

ただハーパーがこのコミュニティに全面的に身を委ねることに忌避感を覚えていることで、今まで秩序と理解の上で成立していた集団生活を乱す行為を、まさか自分のような大人を小学生のように罰したりしないだろうと高を括って、平気で約束を破る彼女自身の行動も認められるべきではないため、一概にこの集団がハーパーに対して行おうとしている処置は悪いわけではない。集団のために良かれと思って取った行動が結果的に身勝手なそれになってしまった個と頑なに秩序を守ることに固執する集団の価値観が乖離によって物事がエスカレートしていく様をヒルはじっくりと描いていく。

そして豊かな父性を以て住民たちを指導してきたファーザーに対して全ての人物が心酔していたのではなく、最もそれに反発をしていたのが実の娘キャロルだった。

両者は共通しているのはコミュニティの住民を愛していたことだったが、父トムが住民がどんな行いをしても赦すことから始め、決して厳罰を与えない対応を取るのに対して娘キャロルはその寛容さを甘すぎると考え、ルールに従わない者は時に罰を与え、繰り返すようならば追放も辞さない、いや情報漏洩を恐れて粛清することも必要だと考える。

コミュニティに対する愛情が強すぎるがゆえに、誰もが自分に従うことを強要するようになった、支配者たちが陥る強迫観念を伴う独裁心の増長。それがキャロルが陥った罠だった。もはやそこにはまともな思考が出来る彼女の姿はなく、全てを自分に従わない者たちを罰するために利用するエゴの化け物と成り果てた狂信者の姿である。

そして頑なに周囲からの罰の強要を拒んでいたハーパーもやがて度重なる虐めとリンチに屈して罰を受け入れる。母親となりつつあることでその強さを手に入れたハーパーもまたその母性ゆえに大切な者に対する愛情が強すぎて自らを犠牲にし、また屈することを受け入れる、弱さを兼ね備えた女性なのだ。

そう、忘れてはならないのはハーパーと元夫ジェイコブの関係だ。妻をこよなく愛し、君こそ人生の宝だと妻ハーパーを褒めそやしていたジェイコブ。しかし彼は妻が竜鱗病患者になったことを知ると一転して、汚らわしい物でも見るかのように彼女を罵倒する。そして別居を選んだ後、家に舞い戻り潔く死を選ぶことを強要するのだ。
その表情は怒りでも狂気でもなく、どんな感情さえもない無だ。つまり彼はあまりに針が振り切ってしまったためにそれが当然だと思うことになったのだ。

キング作品もそうだが、アメリカ作家の作品には感情の起伏の激しい人物、特に男性が登場する作品が多い。そしてその激昂する父親こそが恐怖の根源となっている作品も多く、キングは特にその傾向がある。それは彼の生い立ちに由来しているようだが、その息子ヒルでさえも同様に狂える夫というテーマを描く辺り、やはりこの親子にもキングが送ってきたような父と息子の諍いがあったのだろうか。

そして自分を愛してくれる夫こそが全てと思っていたハーパーも彼の許を離れることで今まで結婚生活で夫が正しいと思っていたことが単に彼のエゴを押し付けられていたことに気付かされるのだ。結婚生活とは病気の一つに過ぎないことに感染してから気付いたとまで云い放つ。

しかしそれでも恋をするのが男女だ。

ジョン・ルックウッドは愛したセーラのことが忘れられないが新たに仲間に加わったハーパーに惚れてしまい、セーラから彼女に心が移ることを恐れて距離を置く。

ハーパーもこのカッコつけしのジョンを鼻白みながらも魅かれていく自分に気付かされる。そしてやはり2人は恋に落ちる。もう一度人生をやり直す伴侶としてお互いを選ぶのだ。
結婚生活が一種の病気だと悟りながらも人は一人では生きていけない、どうしても誰かを恋し、愛してしまうものなのだ。

やはり本書はヒル版『ザ・スタンド』と云っても過言ではないだろう。但し彼はその衣鉢を継ぎながら自分なりのパンデミック&デストピア小説を紡いだのだ。キングが書かなければならなかった『ザ・スタンド』同様、本書はヒルにとって書かなければならなかった物語なのだ。

但し彼が書いたのは『ザ・スタンド』とは表裏一体の物語だ。『ザ・スタンド』では生存者たちの集落が<フリーゾーン>であったのに対し、キャンプ・ウィンダムは竜鱗病患者たち感染者たちのコミュニティだ。

先にも書いたがコミュニティの指導者が母性を象徴する“マザー”アバゲイルに対し、本書は父性を象徴する“ファーザー”ストーリーだ。

そして『ザ・スタンド』が生存者たちでマザー・アバゲイルを中心とした善側の人々と“闇の男”と呼ばれるランドル・フラッグ率いる悪側の人々との戦いと、同じ生存者という立場で善と悪に別れた集団との争いだったのに対し、本書は竜鱗病という正体不明の不治の病の感染者対それらの脅威から逃れ、焼滅クルーなる殲滅部隊にて健康と安全を守ろうとする健常者の生き残りを掛けた戦いで、本来恐ろしい存在となる感染者の立場から描いている。

また『ザ・スタンド』で爪弾き者だったハロルド・ローダーは最後に皆への復讐心から爆弾を仕掛けて複数の死傷者を出してコミュニティを後にする、いわば最後まで憎まれる役回りだったのに対し、本書では同様の役回りであるハロルド・クロスは逆にキャンプのある人物の策略によって射殺されざるを得ない状況に追い込まれた人物で、しかも主人公のハーパーは彼の書いた竜鱗病に関する医学的な考察に読み耽り、彼の研究を高く評価する。
つまり本書のハロルドは孤独に研究をし、ある程度病気の仕組みを解き明かすところまで来ており、更に新たな生き方を始めようとした矢先に殺された道半ばでその命を奪われた犠牲者として描かれている。

しかし何といっても最も『ザ・スタンド』と顕著に表裏一体であることを示しているのは主人公の設定だ。

『ザ・スタンド』は群像劇の様相を呈しており、各登場人物のドラマの比重が等しく語られるが、ほとんどが男性中心の物語である。闇の男との戦いに挑むのは選ばれし4人の男たちであり、最後に生き残るスチュー・レッドマンがその作品の最たる中心人物と云えるだろう。

そして彼は<フリーゾーン>への道行で合流するフラニー・ゴールドスミスと恋仲になり、そしてフラニーはスチューの子供を妊娠する。

一方本書のハーパー・ウィロウズもまた妊婦であり、しかも主人公なのだ。彼女は竜鱗病に罹った後に狂ってしまう夫ジェイコブの許を離れ、ファイアマンこと竜鱗病患者でありながら炎を操ることのできるジョン・ルックウッドと恋に落ちる。

ジョー・ヒルはこの身重の女性を妊婦には到底厳しいと思える環境に置き、ハーパーに困難を与える。しかし彼女はそれらに耐え、次第にシンパを作っていく。

それは看護婦と云う死と向き合う職業から来る、人の生死に対して冷静さを保てる心の強さもあるが、やはり子供を宿した母親としての強さが彼女を掻き立てるのだろう。つまり母性の強さを本書では強調する。

母性の象徴である<フリーゾーン>という安住の地で男性性を強調し、男たちの戦いとした『ザ・スタンド』と一方で豊かな父性でコミュニティの住民たちを温かく包み込むキャンプ・ウィンダムを舞台にそこで集団心理が巻き起こす狂気の中でやがて生まれてくる赤ちゃんのために何が何でも生き抜こうと上を向く母性を強調した本書。
この見事なまでの対比構造はやはりこれがジョー・ヒルが父親に向けた自分なりの『ザ・スタンド』に対する返信なのだと解釈せずにはいられない。

逆に云えば、彼はもう開き直ったのではないか?
自分の思いついた物語が既に父キングによって書かれていることに気付き、寧ろ自分がキングの息子であることから逃れられないことを悟り、敢えて父親と比べられることを覚悟の上で「俺の○○」として書くことを選択したのではないだろうか。

今まで息子ジョー・ヒルの本書と父親キングの『ザ・スタンド』との類似性を強調してきたが、私が件の『ザ・スタンド』を読んだのは約1年半前になる2017年の1月から2月に掛けてだった。その時に抱いた感想は壮大な世紀末叙事詩という感慨だけが残った。

しかし本書を今読み終わった時、この竜鱗病患者が世界中にパンデミックを引き起こし、世界が健常者と感染者とに二分され、そして健常者によって焼滅クルーによる集団虐殺や迫害され、行き場を失い、世間の人々の目を逃れ、隠遁生活を強いられるこの光景は今の日本の風景と重なり、単なる絵空事ではないように思えた。

昨今日本では東日本大震災を皮切りに毎年どこかで震度5を超える大地震が起き、集中豪雨に晒され、そして大型台風被害に見舞われている。以前ならばそれは一過性のものとして、「その後」には普通の生活がまた始まっていたが、今の日本ではそれらの災害で土砂災害、浸水、液状化などが相次ぎ、インフラがストップし、生活困難者が続出し、仮設住宅での避難生活を強いられる人々が増えている。つまり今までの「その後」ではない、以前送っていた普通の生活が「その後」続けることができない人々が増えてきているのだ。

そして今年訪れたコロナ禍の世界。

本書は竜鱗病という作者が想像した感染症から普通の生活を護ろうとする健常者とそんな健常者たちの迫害から身を隠すように生活を強いられる感染者たちの、二分化された世界を描いたディストピア小説であるが、この二分化された世界は別の形で既に日本に訪れているのだと痛感した。

そして連続する天災が地球温暖化に起因することであるとすれば、既に手遅れになっているとは思わず、我々が地球に対してすべきことは何なのかを今まで以上に考えなければならないだろう。

ファイアマンの世界は実はもうそこまで来ているのかもしれない。本書とは違う形で。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
ファイアマン (上) (小学館文庫)
ジョー・ヒルファイアマン についてのレビュー
No.1280: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

依頼人を信じる弁護士が抱えるジレンマ

ハリー・ボッシュシリーズを主軸としたコナリーのもう1つのシリーズ作品であり、今なお作品が発表されている刑事弁護士ミック・ハラーの、いやリンカーンを事務所にした一風変わった弁護士、「リンカーン弁護士」シリーズ。本書はその幕開けの第1作である。

さてこのミッキー・ハラーことマイクル・ハラー。実はこれまでボッシュシリーズで名前が登場したことがある人物だ。
まずこのマイクル・ハラーという名前だが、ボッシュの実の父親の名前でもある。彼が売春婦だったマージョリー・ドウとの間に作った子供がハリー・ボッシュ。そして本作の主人公ミッキー・ハラーは彼が再婚したラテン系のB級映画女優との間に作った子供で、父と同じ名前を持つ弁護士。つまりボッシュとミッキーは異母兄弟に当たるのだ。

犯罪者を捕まえ、刑務所に送る刑事と容疑者の無実を信じるようが信じまいが、無罪を、もしくは刑の軽減を勝ち取ろうと手練手管を尽くす刑事弁護士。お互い水と油の関係である2人が奇しくも血の繋がりのある兄弟という設定にコナリーの着想の冴えを感じさせる。

父親は伝説的名弁護士としてその名を遺しているが、このミッキー・ハラーは貧乏暇なしとばかりに複数の案件を請け負い、法廷から法廷へ走り回る。
マリファナ栽培で挙げられた密売人ハロルド・ケーシーの事件を扱ったかと思えば、その足で今回のメインの事件となる不動産会社経営のルイス・ロス・ルーレイの婦女暴行容疑事件の法廷に出廷し、保釈金を払って保釈することに成功し、そして更に無償で弁護を行っている売春婦のグロリア・デイトンの麻薬所持による起訴を検察と交渉して、取り下げさせる。コンプトン裁判所に行って麻薬密売人ダリウス・マッギンリーの代理人として判決の言い渡しに立ち会ったかと思えば、刑事裁判所ビルに向かってインターネットでクレジットカード番号と識別データを収集してそれを売り渡す常習詐欺犯サム・スケールズに有罪答弁を促す。さらに麻薬常習者のメリッサ・メンコフの捜査に不手際があったとして証拠の排除を申し立てる。

まさに東奔西走を地で行く走る弁護士だ。そして彼の最大の特徴は上にも書いたが事務所を持たず、高級車リンカーンを事務所にしているところだ。

いや100万ドルのローンが残っているハリウッドの100万ドルの夜景が眺められる自宅をホームオフィスにしているが、彼の秘書は自宅のコンドミニアムを仕事場としており、そして彼の仕事のファイルが収められている倉庫は過去に弁護を担当した依頼人の父親が経営している貸倉庫で、弁護料を賃貸料代わりにして借りている。しかも4台のリンカーンを所有し、走行距離10万キロに達するまで使った後は空港送迎用のリムジン・サービスに払い下げようと考えている。ちなみに今は2台目を乗りつぶそうとしている。そんな根無し草的なライフスタイルの弁護士だ。

そして彼の有能な調査員ラウル・レヴンは元警官でそのコネを利用して素早く警察から事件に関する資料を手に入れることが出来る。

そしてこのミッキー・ハラー、仕事も速いが私生活も速い。既に2回の離婚を経験している。1人目はヴァンナイス裁判所に配属されている地区検事補。彼女との間には8歳になる娘ヘイリーがいる。2人は時に一緒に食事をし、そして週末には娘に逢うことを許せる仲だ。

2番目に別れた妻はローナ・テイラーでハラーの秘書をやっている。彼女との間には子供はいない。

かつて生活を共にしながらも別れた相手と仕事を一緒にし、また裁判所で逢っても気まずくない関係を築けるハラーは女性から見て魅力のある男なのだろう。
しかしこれら2つの結婚が破綻してしまった彼はどこか生き急いでいるような感じがする。

また本書ではハラーの一人称叙述を通じて、裁判を有利に運ぶ、いわゆる法廷術とも云うべきノウハウが語られる。

まずは陪審員の選出で聖書を携えた人物がいることに気付き、売春婦という職業に嫌悪を抱くはずだと選出されるように便宜を図ったり、とにかくメモを取る記録係と称する人物に印象付けるよう話したり、自分の言葉を心に浸透させるための間の取り方や効果的な証拠の出すタイミングなど、いわゆるメンタリストが得意とする人心操作術が開陳される。それらを駆使するハラーはまさにプロフェッショナルだ。

上に書いたように登場するや否や複数の事件を抱え、リンカーンでロサンジェルス中を走り回り、依頼人に有利な判決を勝ち取ることに専念するハラーは、作中で述べているように自分の依頼人が有罪か無罪かには頓着せず、むしろ誰もが有罪であると考え、検察が掲げた証拠の山の中に潜むひび割れを見つけ、いかに覆すか、もしくは依頼人への刑をいかに軽減できるかに腐心する、いわばやり手のビジネスライクな弁護士のように最初は映る。

自分が豊かな生活を送るために半ば売名行為のように依頼を受け、成功すればその名を犯罪者に知らせてほしいとばかりに宣伝する。

しかしそんな彼も変わってくる。
かつて担当した婦女暴行殺人事件で有罪となったジーザス・メレンデスが無実であることを確信し、そして真犯人が依頼人である可能性が高まった時、彼は初めて自分が依頼人を見ずに状況証拠と検察からの書類だけを見ていただけだったこと、そしてそれが無実の人間を刑務所に追いやったことを悟るのだ。

弁護士が主人公であるリーガル・サスペンスは通常自分が担当する裁判において依頼人の身元や事件を調べていくうちに意外な事実・真実が浮かび上がり、真相が二転三転するのと、圧倒的不利と思われた裁判を巧みな弁護術で無罪を勝ち取る構造であるのに、主人公に多大なる負荷を掛け、ピンチに陥れるのが常のコナリーは弁護士ミッキー・ハラー自身にも刑事ハリー・ボッシュ同様に危難に見舞われる。

以前の彼ならばそれを仕事と割り切って平然とやり遂げただろうが、冤罪者が彼の依頼人の1人であり、そして友人とも云える調査員を亡くした今では自分の職業が呪わしく思えて仕方がない。彼は初めてルーレイという邪悪な者を前にして、正義を意識したのだ。

悪を撲滅するには法を逸脱した捜査を厭わないボッシュに対し、悪人であろうが無罪を勝ち取る、もしくは少しでも刑を軽減することを信条に法を盾に正義をかざしてきたハラー。悪を食いぶちにしてきたハラーはルーレイの事件で目が覚めるのである。

「無実の人間ほど恐ろしい依頼人はない」

これはハラーの父親が遺した言葉である。弁護士にとって理解しがたい言葉がこの瞬間ハラーに重くのしかかる。彼はジーザス・メネンデスという無実の人間を冤罪で刑務所に送り、人生を台無しにした重しを課せられたことを悟るのだ。

さてもう1つのコナリーの新シリーズの幕開けとなった本書だが、ふと気づいたことがある。それは2つのシリーズに共通して娼婦に焦点が当てられていることだ。
ボッシュが花形のLA市警から警察の下水と呼ばれるハリウッド署へ左遷させられる原因となったのが娼婦殺しのドール・メイカー事件であり、また彼の母親も娼婦であり、4作目で母親が殺害された事件を探ることになるが、このミッキー・ハラーシリーズの幕開けが娼婦殺害未遂事件、そして過去に娼婦殺しの罪で服役した依頼人が冤罪であったことなど、コナリーは娼婦に纏わる事件を多く扱っているのが特徴だ。ノンシリーズにも同様に娼婦を扱った『チェイシング・リリー』という作品もある。

元ジャーナリストであったコナリーがボッシュの人物設定に作家ジェイムズ・エルロイの母親である娼婦が殺害された「ブラック・ダリア事件」を材に採っているのは有名な話だが、それ以後の作品においてこれほど娼婦を事件に絡ませているのは何か別の要素があるのではないか。
身体を売ることで生活の糧を得ている彼女たちはしかし、女優を夢見てハリウッドに出て、夢破れた美しき女性も多いはずで、押しなべてコナリー作品に出る娼婦はそんな美貌を持った者たちである。

単に現代アメリカの犯罪、社会問題をテーマにするのに社会の底辺に生きる彼女たちが題材に適しているだけなのか、それとも彼がジャーナリスト時代に娼婦たちを取材することがあり、そこで彼の心に作品を通じて訴える何かが植え付けられたのかは不明だが、裁判を担当する検察官テッド・ミントンの口を通じて、こう語られる。

「売春婦も被害者になりうるんだ」

私はアメリカ社会において売春婦がどのような扱いを受けているのかを知らないが、自分の身を売る、よほど蔑まされた存在としてかなり見下されているようだ。そんな人間でも裁判を受ける権利があり、相手は法の下で裁かれるべきだと謳っているように思える。

今まで一連の作品を加え、今後コナリー作品を読むに当たり、これは新たな視座が得られるポイントなのかもしれない。

またコナリー作品の主人公の特徴に彼らが一生抱えていく業を持っていることだ。
ボッシュは自身の生い立ち、ベトナム戦争に従軍した経験から心に暗い闇を持ち、自分が悪という闇を見つめながらも、いつか自分がその闇の中から覗いている自分を見る側に堕ちてしまうことを畏れている。

そしてミッキー・ハラーは今まで全ての人は有罪であるとみなし、彼は彼らを色んな法的手段を駆使して無罪にし、もしくは刑を軽減することを信条としてきた。しかし彼はルーレイという弁護を請け負う自分にも危害を及ぼす真の邪悪の存在に遭遇したことで自分がやっている弁護士という仕事の意義に揺らぎを覚え、そしてルーレイの代わりに無実のジーザス・メネンデスを有罪にして刑務所に収容したことを今後自分が一生抱えていく罪、業として再び弁護士の仕事に臨むことを決意する。
そこにいるのはかつてのミッキー・ハラーではなく、社会的弱者を救う正義の弁護士になった彼だ。それはつまり今まで超えられない壁として彼の前に立ち塞がっていた偉大なる父親であり、伝説の弁護士とされたマイクル・ハラーをミッキー・ハラーが超えるための第一歩の始まりとなるのかもしれない。

彼の卓越した弁護技術がこの後、真に救われるべき被告人に対してどのように披露されるのか。

息もつかせぬ一進一退の法廷劇のコンゲーム的面白さと、そして犯罪者の疑いのある人々を弁護することの意味と恐ろしさをももたらす、コナリーの新たなエンタテインメントシリーズ。
またも読み逃せないシリーズをコナリーは提供してくれたことを喜ぼう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
リンカーン弁護士(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリーリンカーン弁護士 についてのレビュー
No.1279:
(3pt)

覆面作家が最期に作品にしたのは…

2005年に亡くなった覆面作家トレヴェニアン。これは彼の遺作となる、2005年に発表された小説。
ニューヨーク州オールバニーの、貧民層が暮すパールストリート238番地を舞台とした、主人公の少年ジャン=リュック・ラポアントの一人称で語られる、彼の少年時代の回想記。
しかしその内容からジャン=トレヴェニアン本人と推察される。つまりこれは彼自身の回想記とも云える自伝的小説だ。

私がまず驚いたのは主人公の少年のラストネームがラポアントだということだ。そう、私がトレヴェニアンの中でも傑作と思っている『夢果つる街』の主人公の警官クロード・ラポアントと同じ苗字なのである(厳密に云えば『夢果つる街』の主人公は「ラポワント」だが、原書の綴りは一緒であろう)。
珍しい名前なので私はてっきり『夢果つる街』が関係しているかと思ったが、単に苗字が同じだけのようだ。寧ろ最後にこの苗字を作者が自伝的小説の主人公のラストネームとして選んだのは、やはり『夢果つる街』が作者にとっても特別な作品だったのかもしれない。

恐らく作者自身が死期を悟り、最期に残す作品として自身の生い立ちを綴りたかったのではないかと思われる。

ただ、その内容は思いつくままに語られ、小説としてのいわゆるストーリーがなく、ジャンが人生で出くわした出来事や人々たちの思い出をその時に思い出したかのように語っている形式となっている。従って本書の内容について概要をまとめると非常に取り留めのないものになり、いや正直に云えば、概要をまとめることができないほど、その内容は縦横無尽だ。

まず題名となっているパールストリートのクレイジー女たちとは主人公ジャンの母親ルビー・ルシルも含めたとりわけ個性的な女性たちのことだ。

パールストリートというスラム街に住みながら、まるで掃きだめの中の鶴のように、他の母親たちとは一線を画す美しさと活発さ、そしてフランス人とインディアンの混血という特殊な血筋の荒々しさで街でも目を惹いた母親ルビー・ルシル。しかしその荒々しく、頑なな性格は周囲の人々との軋轢を繰り返し生み、ジャンと妹のアン=マリーはそれに苦労させられる。

近所に住むミーハン家のミセス・ミーハンはミーハン一族の中で唯一血の繋がりのない女性で知的障害者の施設から連れられて、そのまま一族たちの家事をすることになった女性。彼女は時々物から手が離せなくなるという奇妙な問題が発生する。

戦地に行った夫を待つミセス・マクギヴニィ。彼女は街の雑貨屋ケーンの店に行く以外、ほとんど外出せず窓から街を眺めて一日を過ごす。その彼女とジャンはひと時交流を持つ。クッキーとココアを用意してジャンと取り留めのない話をするのが彼女の人生に少しばかりの彩りを与えることになるが、幼いジャンはそれが次第に憂鬱に感じ、ある日彼女の呼びかけを完全無視してしまう。それが彼女との交流の幕切れだった。

そんな“普通じゃない”パールストリートでジャンを中心に物語は進む。
チビなジャンがスラムに生き抜くために知恵を絞り、一目置かれるようになったこと、女性への目覚めやラポアント家の生い立ちのこと―インディアンとの混血であることから差別意識が激しかった当時、彼の祖母がそんな祖父と結婚したことで街の人々から避けられていたことやそれを解決するために祖父が行った殴り込みのエピソードは心に残る―、アパートの最上階に住み着いた流れ者のベンと母との馴れ初め―性格はいいのに、酒を飲むと暴力的になることで数々の失敗をやらかすベンは物語後半の主要人物だ―、やがて訪れる第2次大戦とベンの出兵、そして彼の帰還と母との結婚を機に生まれ育ったパールストリートを離れ、新天地カリフォルニアでの新生活の幕開け、そして挫折と新たな旅立ち。

そんな中、ところどころに挿入される、少年ジャンの視点でのノスタルジックな描写はどことなく心をくすぐる。

女の子のする縄跳びには暗黙の性的タブーによって男の子たちは加われないとか、ラジオは部屋を暗くしてダイヤルだけが琥珀色に光る中で聴くのが最高だとか、プチ家出を繰り返している最中に気付く、自分が将来漂流者になるであろうという悟り、一人空想ごっこに耽る日々、そしてある日目覚める幼年期からの目覚め、等々。

とにかく自分の生きている間に少しでも多くのことを語り、そして記録しようとしているのか、改行が非常に少なく、見開き2ぺージに亘って文字がぎっしりと埋め尽くされている。1ページを1分以上掛けて読む小説に出逢ったのは久々だ。

読むのにかなり手こずったことを正直に告白しよう。そして読んでいる最中はあまりに書き込まれたディテールとあちこちに飛ぶジャン=リュックの話に気疲れがしたことも。

しかし読み終わった後に振り返ると、トレヴェニアンの生い立ちと重ねることで興味深いエッセンスが散りばめられていることに気付かされる。

まず先に挙げた『夢果つる街』の舞台となる街「ザ・メイン」。これは主人公ラポワントの名前も含めてパールストリートがモデルになっているのは想像に難くない。、これは読んでいる間、ずっと思っていた。

また物語の途中で起きる第2次大戦。
最初はドイツの猛攻が語られていたが、この時はまだアメリカは参戦しておらず、対岸の火事のようだったが、日本軍が真珠湾攻撃をしたことでアメリカは参戦するため、従って本書の中で日本人は当時使われていた差別用語であるジャップ呼ばわりされ、またジャン=リュックもまた日本人を敵とみなし、軽蔑している。更にカリフォルニアへの移動の車中で新聞でヒロシマとナガサキに原爆が落とされ、多数の犠牲者が出たことを知り、居合わせた帰還兵と共に驚喜する。

そんな彼が後に日本人の禅の精神とわび・さびをテーマにした『シブミ』を著す。彼にとってこの第2次大戦における日本人への感情は決していいものではなかっただけにこの日本人独特の精神性を敬い、そして深い造詣を示すこの作品を書くようになった心境の変化はいかがなものだったのだろうか。それが語られていないだけに実に興味深い。

それらを含めてなぜこのような取り留めのない自伝的小説をトレヴェニアンは書こうとしたのか。正直云って私にとってこの内容はそれまでの彼の作品に比べても出来が良いとは云えず、散文的で纏まりを感じない。この纏まりの無さは上に書いたように、どうにか生きている間により多くの、自分の人生を語り尽くしたいという思いからだろうが、この分量は異様だ。

私はトレヴェニアンが―ほとんどその正体は知られていたとはいえ―覆面作家だったことが主要因ではないかと考える。このラストネームだけのペンネームでスパイ・冒険小説、幻想小説、詩情溢れるハードボイルド系警察小説、ウェスタン小説など、その都度思いもかけないジャンルを選択し、物語を紡いでいた彼が最後に残そうとしたのは自分の人生の証、痕跡だったことは想像に難くない。母のこと、父のこと、母の再婚相手のこと、妹のこと、そして彼の家族を取り巻く人々のことも含めて。

作品は知られているが、その実態を知られていない彼が、最期にトレヴェニアン自身を作品にしたのだ。

トレヴェニアン。本名ロドニー・ウィリアム・ウィテカー。覆面作家の厚いヴェールの下にはこんな人生が隠されていた。
正直万人に勧められるほど、物語として面白いわけでは無いが、彼の作品に親しんだ一読者としてけじめをつけるために読むべき作品だったと読み終わった今、そう思う。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
パールストリートのクレイジー女たち