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青銅の悲劇 瀕死の王
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青銅の悲劇 瀕死の王の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.00pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全21件 1~20 1/2ページ
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この本は、分厚い。 700ページくらいだろうか。 前作の「哲学者の密室」も同じくらいだったような気がする。 知っている人は知っているが、知らない人は知らない「矢吹駆」シリーズの、日本バージョン第一作に位置付けられている。 矢吹駆シリーズは、第一作の「バイバイエンジェル」、第二作の「サマーアポカリプス」以来、すべて読んでいる。 第一作が1980年代初期であったことを考えれば、このシリーズもすでに30年近く続いているいことになる。 この小説は、いわゆる「本格派」に属する。 本格的とは何かといえば、本格派の探偵小説ということである。 本格派とは、いわゆるトリックなどを駆使した謎解き型の探偵小説のことで、最近の宮部みゆきや大沢在昌などのいわゆるミステリーとはことなるジャンルに属する。 コナン・ドイルのシャーロックホームズや、エラリー・クインの作品、そしてアガサ・クリスティなどの作品が古典とされる。 ぼくも中学生から高校生までは夢中に読んだ。 ただ、成人するに従い、あまり本格派は読まなくなった、 緻密で論理を駆使したトリックとその謎解きよりも、人の世の現実を描いた方が謎が多い、という現代ミステリーの立場に惹かれたからに他ならない。 けれども、唯一、読み続けてきたのが、この笠井潔の矢吹駆シリーズなのである。 理由は、さて、何だろう。 そこで展開される観念劇に、同じ元左翼として何かしら共感というか、引き込まれるものがあったのかもしれない。 それはともかく、本作品は矢吹駆シリーズと銘打ちながら、矢吹本人はまったく登場しない。 思わせぶりな、巻頭言とともに、この分厚い著作が、さらに大きな物語の一部であることが示唆されている。 そして、この作品の中で、探偵小説論が語られているのが興味深い。 というか、もともと、矢吹駆は、現象学的本質直観で、謎の多い殺人事件を解決してきたということになっている。 それらの作品群を読み続けながら、現象学的本質直観が、推理の手法として有効というのは、どうしても理解できなかったのだけれども、それ自体が小説的手法にしかすぎなったと思わせるような記述も見られ、そこが興味深かった。 種明かしを少し、という感じだろうか? ただ、この種明かしが、また次の大きな物語の伏線になっている可能性もあって、そこがこの作者の油断ならない性格でもあるのだけれど。 この作品、以前の作品を読んでいなければ、面白さは半減以下。 何とも因果な小説であることだけは間違いない。 | ||||
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この本は、分厚い。 700ページくらいだろうか。 前作の「哲学者の密室」も同じくらいだったような気がする。 知っている人は知っているが、知らない人は知らない「矢吹駆」シリーズの、日本バージョン第一作に位置付けられている。 矢吹駆シリーズは、第一作の「バイバイエンジェル」、第二作の「サマーアポカリプス」以来、すべて読んでいる。 第一作が1980年代初期であったことを考えれば、このシリーズもすでに30年近く続いているいことになる。 この小説は、いわゆる「本格派」に属する。 本格的とは何かといえば、本格派の探偵小説ということである。 本格派とは、いわゆるトリックなどを駆使した謎解き型の探偵小説のことで、最近の宮部みゆきや大沢在昌などのいわゆるミステリーとはことなるジャンルに属する。 コナン・ドイルのシャーロックホームズや、エラリー・クインの作品、そしてアガサ・クリスティなどの作品が古典とされる。 ぼくも中学生から高校生までは夢中に読んだ。 ただ、成人するに従い、あまり本格派は読まなくなった、 緻密で論理を駆使したトリックとその謎解きよりも、人の世の現実を描いた方が謎が多い、という現代ミステリーの立場に惹かれたからに他ならない。 けれども、唯一、読み続けてきたのが、この笠井潔の矢吹駆シリーズなのである。 理由は、さて、何だろう。 そこで展開される観念劇に、同じ元左翼として何かしら共感というか、引き込まれるものがあったのかもしれない。 それはともかく、本作品は矢吹駆シリーズと銘打ちながら、矢吹本人はまったく登場しない。 思わせぶりな、巻頭言とともに、この分厚い著作が、さらに大きな物語の一部であることが示唆されている。 そして、この作品の中で、探偵小説論が語られているのが興味深い。 というか、もともと、矢吹駆は、現象学的本質直観で、謎の多い殺人事件を解決してきたということになっている。 それらの作品群を読み続けながら、現象学的本質直観が、推理の手法として有効というのは、どうしても理解できなかったのだけれども、それ自体が小説的手法にしかすぎなったと思わせるような記述も見られ、そこが興味深かった。 種明かしを少し、という感じだろうか? ただ、この種明かしが、また次の大きな物語の伏線になっている可能性もあって、そこがこの作者の油断ならない性格でもあるのだけれど。 この作品、以前の作品を読んでいなければ、面白さは半減以下。 何とも因果な小説であることだけは間違いない。 | ||||
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昔新左翼の理論的指導者だった為に、今でもアメリカの入国に苦労するそうですが、 数少ない本物の小説家だ。 | ||||
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率直に言って退屈である。出来事の発生や登場人物の行動よりも、その出来事についての検討の方に大半の紙幅が費やされて、読者は誰がどのようにして毒殺を試みたかの小田原評定に否応なく付き合わされる破目になる。およそ文字で表現するには不適当な犯罪状況が、瓶AだのBだの、αだのβだのという記述において果てしもなく考察され続けるくだりには心底うんざりする。 その考察の過程が「論理」であることは認めるが、読者は「学ぶ」つもりで本書を手にしたわけではない。エンタテインメント性に背を向けたこのような物語を、一体全体なぜ笠井は書こうと思ったのか。小森健太朗の解説によれば、これは〈後期クイーン問題〉に挑戦したものであり、「探偵の解決が真の解決であるということは証明不可能である」という問題への挑戦であるらしいが、で? それがどうしたの? という感想しか持てない。 「物語」は「現実の記述」ではないし、「作者の頭の中にしか存在しない世界についての報告」でもない。したがって探偵の解決以外の「真の解決」なるものがどこかにあるわけではない。あるとすればそれは、読み終えた読者の「物語を巡る思い」の中にのみ、である。「もしかしたら真相は……ではなかったか」という感想は、唯一読者のものである。作者がそうした思いを抱いたならば、それは物語中に(たとえ暗示的にであるにせよ)示されねばならないからだ。また逆に、探偵が「真の解決」をできないのであればそれはもはや探偵小説の体を成していない。 それゆえ〈後期クイーン問題〉などありはしない。この問題はひとえに、作中の世界を確固とした存在世界と混同するところに生じる。 であるから、緻密ではあるが退屈な論理の構築においてその問題を突破しようとした笠井の試みは、小森の言うように「壮大なる論理の大伽藍」ではあるがしかし、その基礎部分は砂でできているのである。 加えて「事件とは関係の薄い、学生運動に関する告白と懺悔」も鬱陶しい。笠井も含めて、その渦中にいた人々は機会を捕まえては「あの情熱とその崩壊」について口にしたがるのだが、そこに欠けているのは「行動主義」「体験主義」への反省であろう。経緯を見れば学生運動と1995年のあの宗教団体の事件は見事に相似形である。その相似性を形作っているのは上記主義であるだろうからだ。 | ||||
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本書の帯には、日本篇の第一作と記されている。しかし、印象としては、第一章というほうが適当なように見える。 語り手は、作者を想わせる小説家宗像。関東地方の鈷室山に出自を持ち、深い繋がりを持つ鷹見澤と北澤の二家。鷹見澤家は、古来一族の祀る鈷室神社の代々の神主を務め、北澤家は、現在日本有数の財閥を支配している。そこに一族の、かつての前衛画家にして現役の警察キャリア官僚、警察署長の蜜野、大学の教員となるナディア・モガール、画家にして北澤家の娘雨香と息子響が絡む。小説家宗像の作家となった経緯も語られる。雨香の双子の風視の周囲から立ち昇ってくる矢吹駆の影。その他登場人物には事欠かず、その人間像は未だ語られざる側面が多い。 昭和が終わる、天皇が死ぬ、ということも、これだけ? の感がある。「鈷室」という名辞も、天啓教も、まさかこれだけが出番だということはないと思うが。ありとあらゆることに、これはどうなるの? という思いが湧く。 事件がらみの部分では、時刻表トリックと同じで、とてもいちいちの事実を追う気にはならなかった。前提の設定で、推論はいくらでも成り立つということは自明であるし、前提の繰り込みの制限がなければ確定的な結果が得られないということも当然のことと思う。この小説中の推論の部分の量は、類書中最大に近いに違いない。『虚無への供物』を思い出した。とはいえ、推理を楽しめなかったわけではない。論理代数のような部分ではない、いくつかの発想の点では、面白かった。 シリーズものとして考えると、主人公が登場しない点に関して、? と感じるが、総てが導入部と考えると、日本篇の大きさに大いに期待して、まあ、いいか、と思ってしまった。 | ||||
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本書の帯には、日本篇の第一作と記されている。しかし、印象としては、第一章というほうが適当なように見える。 語り手は、作者を想わせる小説家宗像。関東地方の鈷室山に出自を持ち、深い繋がりを持つ鷹見澤と北澤の二家。鷹見澤家は、古来一族の祀る鈷室神社の代々の神主を務め、北澤家は、現在日本有数の財閥を支配している。そこに一族の、かつての前衛画家にして現役の警察キャリア官僚、警察署長の蜜野、大学の教員となるナディア・モガール、画家にして北澤家の娘雨香と息子響が絡む。小説家宗像の作家となった経緯も語られる。雨香の双子の風視の周囲から立ち昇ってくる矢吹駆の影。その他登場人物には事欠かず、その人間像は未だ語られざる側面が多い。 昭和が終わる、天皇が死ぬ、ということも、これだけ? の感がある。「鈷室」という名辞も、天啓教も、まさかこれだけが出番だということはないと思うが。ありとあらゆることに、これはどうなるの? という思いが湧く。 事件がらみの部分では、時刻表トリックと同じで、とてもいちいちの事実を追う気にはならなかった。前提の設定で、推論はいくらでも成り立つということは自明であるし、前提の繰り込みの制限がなければ確定的な結果が得られないということも当然のことと思う。この小説中の推論の部分の量は、類書中最大に近いに違いない。『虚無への供物』を思い出した。とはいえ、推理を楽しめなかったわけではない。論理代数のような部分ではない、いくつかの発想の点では、面白かった。 シリーズものとして考えると、主人公が登場しない点に関して、? と感じるが、総てが導入部と考えると、日本篇の大きさに大いに期待して、まあ、いいか、と思ってしまった。 | ||||
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久しぶりに笠井潔の矢吹駆シリーズの新作が出た。 最初に読んだのは多分高校生ぐらいだったはずだから、20年以上前。これほど新作が待ち遠しかったものもない。 以前の作品はパリ、フランスを舞台にしていたが、一転、日本に設定された。しかも人称もナディア・モガールから、作者の分身であろう作家に変更。ということで 大分雰囲気が変わった。 内容も以前と異なり、なんだか本格推理小説という感じで、前作までカケルがやっていた探偵役をナディアがやるようになったのも変わった。 はじめは違和感があったが、だんだんそれにも慣れ、700ページを超える超大作もあっという間に読み終えた。 でもカケルはどこに? | ||||
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久しぶりに笠井潔の矢吹駆シリーズの新作が出た。 最初に読んだのは多分高校生ぐらいだったはずだから、20年以上前。これほど新作が待ち遠しかったものもない。 以前の作品はパリ、フランスを舞台にしていたが、一転、日本に設定された。しかも人称もナディア・モガールから、作者の分身であろう作家に変更。ということで 大分雰囲気が変わった。 内容も以前と異なり、なんだか本格推理小説という感じで、前作までカケルがやっていた探偵役をナディアがやるようになったのも変わった。 はじめは違和感があったが、だんだんそれにも慣れ、700ページを超える超大作もあっという間に読み終えた。 でもカケルはどこに? | ||||
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このネタなら原稿用紙200枚程度が相応しいと思います。 事件に驚きが無いし、推理の過程、仮説に知的興奮が無く、しかも同じ事を延々と繰り返し議論しているので、半分も読まないうちに飽きてしまいます。もしも上下巻に分かれていたら、下巻は買わなかったと思います。 | ||||
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すべてのヒントが出てくるまで本格的な推理はしない。 探偵小説における「名探偵」とは、本来そういうものであります。 では、「これですべてのヒントが出揃った!」と、そう判断するのはいったい誰か。 言うまでもなく、名探偵本人なのであります。 しかし、この小説には、名探偵・矢吹駆は登場しません。 すべてのヒントが出尽くしたのかどうか、誰にもわからないのであります。 だから、推理マニアの登場人物たちは、不毛な推理を延々と楽しんでしまうのでした。 情報の中途半端さに甘んじて。あの、「虚無への供物」を思いださせるかのように。 そこに、かつて「フランス篇」のワトソン役を務めた、ナディア・モガールが登場します。 フランス時代、彼女もまた無責任な推理マニアでした。だけど今じゃすっかり大人。 はたして、矢吹駆に代わって名探偵役を果たすことができるのか・・・? (不毛な推理に付き合う覚悟だけは決めておいてくださいね。) | ||||
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すべてのヒントが出てくるまで本格的な推理はしない。 探偵小説における「名探偵」とは、本来そういうものであります。 では、「これですべてのヒントが出揃った!」と、そう判断するのはいったい誰か。 言うまでもなく、名探偵本人なのであります。 しかし、この小説には、名探偵・矢吹駆は登場しません。 すべてのヒントが出尽くしたのかどうか、誰にもわからないのであります。 だから、推理マニアの登場人物たちは、不毛な推理を延々と楽しんでしまうのでした。 情報の中途半端さに甘んじて。あの、「虚無への供物」を思いださせるかのように。 そこに、かつて「フランス篇」のワトソン役を務めた、ナディア・モガールが登場します。 フランス時代、彼女もまた無責任な推理マニアでした。だけど今じゃすっかり大人。 はたして、矢吹駆に代わって名探偵役を果たすことができるのか・・・? (不毛な推理に付き合う覚悟だけは決めておいてくださいね。) | ||||
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皆さんがご指摘のとおり、期待して買って読むとかなり厳しかったです。全体構成の見直し、文章をもっと刈り込むなど、かったるい印象を防ぐ手立てがあったはずです。 | ||||
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退屈極まりない小説でした。 作者が自分自身の為に書いた自慰的小説という感じです、著者の笠井氏に失望しました。哲学者の密室を星五つとするなら、この作品は星一つにも値しないと思います。矢吹駆シリーズ中、最低の作品であることは間違いないでしょう。 | ||||
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退屈極まりない小説でした。 作者が自分自身の為に書いた自慰的小説という感じです、著者の笠井氏に失望しました。 哲学者の密室を星五つとするなら、この作品は星一つにも値しないと思います。矢吹駆シリーズ中、最低の作品であることは間違いないでしょう。 | ||||
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ぶっちゃけ感想を一言でいえば期待外れな一作。まぁ余所でもレビューを読まれる人はいるでしょうから書いてしまいますが、今作は矢吹駆が登場しません。別シリーズの登場人物(というか笠井氏の分身)である宗像とシリーズのヒロインであるナディア・モガールを中心として謎の解明がされていきます。 ストーリーも盛り上がりに欠け、実に地味な展開。旧家における毒殺未遂事件を中核として、ひたすら面倒な検討が延々と続きます。 笠井氏がやろうとしたことは分かるんです。かつて法月綸太郎氏が論じ、氷川透氏が総括した「初期クイーン論」に対する笠井氏なりの解答もしくは立ち位置を表明しようというわけなのだと理解しているわけですが、これが小説として読んでいて楽しいかというと首をかしげざるを得ないわけですね。 事件関係者の証言や、出てくる証拠が二転三転し、読者はどれが事実なのか、さんざん引っ張り回されます。ある意味捜査官と同じ立場に置かれるわけです。捜査官は事件関係者の証言を、「完全な事実」「完全な虚構」「一部事実で一部虚構」「錯誤による事実に反するもの」のすべてを想定して捜査しなければならないわけで、おいしいところを摘み食いしていく名探偵とは、しなければならない作業、想定しなければならない可能性の量が比較になりません。それゆえ、推理小説における警察官はフットワークが悪く、愚鈍で頼りにならない存在として名探偵の引き立て役になるわけですね。 つまり、今回は読者がまさにその立場になってしまうため、読んでいて爽快感がない。ただ登場人物が推論しているのをボーっと見ていることしかできないのです。ゆえに私はエンタテインメントとしての推理小説として、今作に高い評価ができません。もっとも今作はあくまでキャラクターの顔見世であって、次作が日本編の本番という可能性も高いわけですから、まだまだシリーズからは目が離せないんですけどね。 追記 それにしても、20年前が舞台設定とはいえ、登場人物たちが飲酒運転しまくりなのが気になってしかたがありませんでした。 | ||||
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ぶっちゃけ感想を一言でいえば期待外れな一作。まぁ余所でもレビューを読まれる人はいるでしょうから書いてしまいますが、今作は矢吹駆が登場しません。別シリーズの登場人物(というか笠井氏の分身)である宗像とシリーズのヒロインであるナディア・モガールを中心として謎の解明がされていきます。 ストーリーも盛り上がりに欠け、実に地味な展開。旧家における毒殺未遂事件を中核として、ひたすら面倒な検討が延々と続きます。 笠井氏がやろうとしたことは分かるんです。かつて法月綸太郎氏が論じ、氷川透氏が総括した「初期クイーン論」に対する笠井氏なりの解答もしくは立ち位置を表明しようというわけなのだと理解しているわけですが、これが小説として読んでいて楽しいかというと首をかしげざるを得ないわけですね。 事件関係者の証言や、出てくる証拠が二転三転し、読者はどれが事実なのか、さんざん引っ張り回されます。ある意味捜査官と同じ立場に置かれるわけです。捜査官は事件関係者の証言を、「完全な事実」「完全な虚構」「一部事実で一部虚構」「錯誤による事実に反するもの」のすべてを想定して捜査しなければならないわけで、おいしいところを摘み食いしていく名探偵とは、しなければならない作業、想定しなければならない可能性の量が比較になりません。それゆえ、推理小説における警察官はフットワークが悪く、愚鈍で頼りにならない存在として名探偵の引き立て役になるわけですね。 つまり、今回は読者がまさにその立場になってしまうため、読んでいて爽快感がない。ただ登場人物が推論しているのをボーっと見ていることしかできないのです。ゆえに私はエンタテインメントとしての推理小説として、今作に高い評価ができません。もっとも今作はあくまでキャラクターの顔見世であって、次作が日本編の本番という可能性も高いわけですから、まだまだシリーズからは目が離せないんですけどね。 追記 それにしても、20年前が舞台設定とはいえ、登場人物たちが飲酒運転しまくりなのが気になってしかたがありませんでした。 | ||||
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『バイバイ、エンジェル』から始まる矢吹駆シリーズ、日本篇の第一弾。 駆シリーズといえば本質直感による推理と思想対決がウリだ。 だがそれもフランス編のみで、日本編ではそうでもないらしい。 約770ページにわたる巨編だが、事件はいたってシンプル。 誰が毒薬を入れたか、それにひたすらこだわっている。 帯に「論理小説の臨界!」とあるが、ロジック好きの方には向いているが、 そうでない読者には、長さの割りには楽しめないかもしれない。 とはいえ、主人公が作者自身をモデルにした宗像なので、 作中で自身の作への指摘などがあり、そういった面では楽しめるし、 駆の過去なども見えてくるのは面白い。 が、ロジック重視の内容は、個人的には淡々としすぎていて辛い。 エンターテイメントとしては、魅力が薄い。 これだけの巨編でメインの事件が2つというのは、どうかと。 今後の日本篇も、ロジックに重点を置いて展開していくのだろうか。 細かいことだが、アリバイ表の漢字で使われているゴシック体は、 ひらがなの明朝とマッチしておらず、非常に見づらい。 | ||||
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『バイバイ、エンジェル』から始まる矢吹駆シリーズ、日本篇の第一弾。 駆シリーズといえば本質直感による推理と思想対決がウリだ。 だがそれもフランス編のみで、日本編ではそうでもないらしい。 約770ページにわたる巨編だが、事件はいたってシンプル。 誰が毒薬を入れたか、それにひたすらこだわっている。 帯に「論理小説の臨界!」とあるが、ロジック好きの方には向いているが、 そうでない読者には、長さの割りには楽しめないかもしれない。 とはいえ、主人公が作者自身をモデルにした宗像なので、 作中で自身の作への指摘などがあり、そういった面では楽しめるし、 駆の過去なども見えてくるのは面白い。 が、ロジック重視の内容は、個人的には淡々としすぎていて辛い。 エンターテイメントとしては、魅力が薄い。 これだけの巨編でメインの事件が2つというのは、どうかと。 今後の日本篇も、ロジックに重点を置いて展開していくのだろうか。 細かいことだが、アリバイ表の漢字で使われているゴシック体は、 ひらがなの明朝とマッチしておらず、非常に見づらい。 | ||||
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あの矢吹駆シリーズの新展開。1988年暮れ(昭和の終わり)という特別の時間を 背景に、今度はパリでなく日本を舞台にしている。第一作『バイバイ・エンジェル』 からのファンである私などにとっては、たまらない設定である。 出だしは快調である。作者の直接的な分身といえる探偵小説家兼評論家の宗像冬樹を 語り手に、60年代末の学生叛乱の(祝祭的な)時代から、停滞と後退戦の70年代、 そしてバブル景気を謳歌するポストモダンの80年代までを手際よく要約しながら、 作品の舞台を準備していく。 シリーズ前半のナレーターであったナディア・モガールもきちんと登場するし、要所 要所で、形而上学的議論やポップカルチャー評論を取り入れることも忘れない。自ら の80年代作品である『ヴァンパイヤー・ウォーズ』に関する自己批評も面白い。 しかし、肝心の「高見澤家事件」が起こってからが、正直言ってぱっとしない。何度 も挟まれる推理合戦も冗長なだけで、盛り上がりを欠くし、このシリーズの売り物で ある思想的な論戦も新しい水準を見せることがない。まあ、蓮實重彦に対するイヤミ とか、吉本隆明へのシンパシーの再表明などはあるけれど、これは古くからの笠井潔 読者には周知の事柄である。 たとえ、繰り返しであっても、そこに少し新しい意匠をこらして、キャラクター小説 として楽しませてもらえれば、読者としては満足なのだが、その一番の楽しみが結局 与えられないことが、最もよくない。 500頁以上つきあって、第8章に至ったときに「おお、いよいよこれは」と大いに期 待したのだが、結局イントロだけで終わってしまった感じである。再結成コンサート の楽しみはかつてのヒット曲を唄ってくれることなのだから、”現象学的還元”をキー にした、あの決めの台詞を楽しませて欲しかった。 「いつだって真実は見る人の前にある。しかしこの場合には君が期待するような形で は存在しない…あのパリの事件の発端で私が言ったようにね」 とカケル本人が述べるところを読みたかった。しかし、その期待は残念ながら、果た されません。意味ありげなエピグラフが巻頭にあるのに。 初期三部作+『哲学者の密室』が圧倒的な水準を誇るだけに、本作の展開は残念です。 | ||||
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ほとんど推理小説を読まない僕に、とある芥川賞作家が、 「重厚な重みと面白さが両方あるすごい本」といって紹介してくれたのが 「哲学者の密室」という作品。 これは「オイディプス症候群」という作品を挟んだ、その続編です。 哲学、テロルについての考察、観念論などいろいろがバックにしかれるのだが、 (哲学者の密室では鋭いハイデガー批判を繰り広げる) あくまで登場人物に血が通っている小説たちです。 すごいですよ。 | ||||
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