■スポンサードリンク
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.24pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全267件 61~80 4/14ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この作品を初めて読んだ時、小説(物語)に関する概念が180度変わりました。 なにげない文章の中に核心に触れる部分があったり、思いもよらない伏線があったり。 村上春樹ワールドにどっぷりつかれます。 ぞくっとしたり、手に汗握ったり、涙が込み上げてくるような感情があったり、、本を読んでいるのに、まるで映画を見ているような感覚でした。 難易度高いだろうけど、映画化されたら相当面白いだろうなと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
下巻まで読み進むと、この交互に描かれた世界が、重なっていくことが明らかにされていく。描写されている人物や鉄道から『ハードボイルド・ワンダーランド』は現在であり、『世界の終り』はどうやら別の世界の別の時代であることが徐々に分かってくる。 『ハード…』の“私”は、ある実験台として25人の男と一緒に“組織”によってある処置を受けたことを登場人物である‟博士”から告白される。そしてこの地上で生きられるのは、1日半であることを宣告される。その時間の中では、村上氏が実際の経験に基づいて描述したのであろう、地下鉄の駅員との言い争い、ヤクルトが中日に負けたことも書かれている。或いは残された時間が少なくなった‟私”は、銀座の、今は亡き、村上氏が大好きな“Paul Stuart”に行って、シャツ、ネクタイ、ブレザーを買い、ビヤホール、銀座であればミュンヘンかライオンだろうけれども時計の文字盤にライオンが描かれているから後者か、に入った。すると、『……ビヤホールではどういうわけかブルックナーのシンフォニーがかかっていた。何番のシンフォニーかわからなかったが、ブルックナーのシンフォニーの番号なんてまず誰にもわからない。……』と書いている。村上氏は、ジャズだけではなくて、クラシック音楽も好んで聴いているようなのだけれども、どうやらブルックナーの音楽は余り好きではないようだ。また“私”は、サマセット・モームの「Razor's Edge」を3回読んだ、と語っている。ショーロホフにしても、トルストイにしても3回読んだと言う村上氏らしい描写で、実際に氏はこのモームの作品を3回読んだのだろう。ひょっとするとドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」も、4兄弟の名前をすべて諳んじているようだから、幾度も読んだのかもしれない。 それに比べると、『世界の…』の主人公である“僕”は、余り自己主張しない人物として描かれている。そしてこちらの世界は、幻想的である。『ハード……』と同じく、女性と料理が出てくるのだが、控え目なように思われる。そして‟僕”の“影”は、『ハード……』の“私”だと決めつけて、読み進んだのだけれども、そう簡単な設定にはなっていないようだ。 初期3部作の瑞々しさから飛躍し、村上氏が開拓した新しい手法の小説である。氏の代表作と呼んで差し支えないと思うのだが、いかがだろう。それこそ幾度も、これで2回目なのだが、読んでみたい作品である。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この作品は、1985年6月に新潮社から箱入りの単行本、書下ろしで発行された。村上氏は翌1986年10月から、ギリシャ、イタリアを中心とした欧州に移り住んでしまうので、この長編は「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」の所謂、初期3部作に続く長編小説と言うだけではなく、ヨーロッパ移住直前、そして偶然かもしれないがその後の日本が迎えるバブルの直前に書かれた。たしかに日本の代表的な株価指数である日経平均は、発表前年の1984年に史上初の1万円を記録していた。この「世界の終りと……」に続く長編で、氏の作品として初めて100万部以上の売り上げとなった「ノルウェイの森」は1987年に発行されている。興味深いのだが、「ノルウェイ……」はバブルではなかった欧州に住む村上氏によって書かれており、一方読者が存する日本はバブルの只中にあった。 この小説は、後年「1Q84」でも用いた手法、つまり2つの世界を交互に描くと言う、村上氏が得意とする手法で述べられていく。それぞれ『ハードボイルド・ワンダーランド』、『世界の終り』と名づけられ、各々の主人公は前者が‟私”、後者が“僕”とされている。そして『世界の……』の方には、巻頭に地図が付けられているのだが、『ハード……』には、地図はない。そして他の小説がそうであるように、主人公の男性と女性がそれぞれの世界で描かれ、これもいつものことだが、料理が登場する。それからやはり、「ねじまき鳥クロニクル」、「騎士団長殺し」がそうであるように、‟地下”が重要な位置を占めている。 もうだいぶ以前のことだが、出版当時には重い本だと言うのに、貪るように読んだ記憶が残っている。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
やみくろと影はなんなのか明かさないのは卑怯だろ。ファンタジーならなにやってもいいわけじゃあるまい。現実世界に背を向けて、自分が作った物語世界で永遠に生きることを選ぶ。そんな奴、現実にいるか? そのくせ現実に縁した人々を「祝福」する。とことん嘘臭い。文章は巧いと言えるし、絶妙な喩えもあるが、それだけだ。思想は嫌気がさすほど浅い。リアルな人間が一人も出てこず、〝癒し〟にもならん。人間を描く気も読者を癒す気もないんだろうが、では、なにがしたいんだか。わからん。村上せんせがこれだけ評価されるのは、世界が病んでいるからだ。一刻も早く駆逐しなきゃいけない作家だ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「自我は、その関心を、周囲の環境である「外的世界」に向ける場合と、 こころの世界である「内的世界」に向ける場合がある。」(参考:Wikipedia-分析心理学) 物語の最後に「私」は外的世界を失っても自分を再生する道を選択し, 同様に、無意識界の「僕」も暗い森の中に留まり、記憶を呼び覚ましながら生きることを決意します。 それは作者自身の創作における「デタッチメント時代」の宣言のようにも感じられます。 【ハードボイルド・ワンダーランド】 ハードボイルドな冒険活劇は、下巻に入ると極限状態に置かれた人間の揺れ動く心情を描き始める。 繰り返す円環の人生を象徴するような螺旋階段を上り切った先で、私は途方もない宣告を受けた。 「あんたの意識の中では世界は終っておる。」 私の運命はやがて無意識の永遠の覚醒の中に閉じ込められて、二度と現実には戻れなくなるというのだ。 地上に戻ると頽落的な日常の風景が続いていた。 残された時間の中で、この世界があらゆる形の啓示に充ちていることを感じとる。 そのすべてのものに対して公正さを与えることが出来るよう望みつつ意識を閉じた。 死に直面した主人公の目には、当たり前の日常が祝福に充ちた世界に映ります。 生き続ける私たちも強く求める気持ちがあれば、心の奥底から響く魂の呼び声を聴くことが出来るのではないでしょうか。 【世界の終り】 「街はそんな風にして完全性の環の中を永遠にまわりつづけているんだ。 不完全な部分を不完全な存在に押しつけ、そしてそのうわずみだけを吸って生きているんだ。」 「影」の語る言葉には説得力があり、確かにこの街は不自然で間違っているように映る。 それでも何かが僕の心に引っかかるのだ。 「僕は自分がやったことに責任を果たさなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。」 私たちは自己の責任において世界を開示して見ているのかもしれません。 それがどんなにつらく厳しい現実であろうと、失ってはならない大事な心があります。 「それは鳥のように風の中を舞い、永遠を見わたすこともできるのだ。」 私はこの作品に圧倒されました。この作品を知らない多くの方々にぜひ読んでもらいたいと願っています。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「個人の「心・魂」は、自我がその中心としてある意識と、無意識にまず二分され、 後者は更に、個人的無意識と集合的無意識に分けられた。」(参考:Wikipedia-分析心理学) 心理学の知見をベースにして、現代版「不思議の国のアリス」が誕生しました。 (上巻)では、無意識領域の「僕」が「理想の女性像」や「老賢人」「影」といった元型に出会う一方、 意識領域の「私」は精神的にも肉体的にも危機に襲われ、徐々に追い詰められていきます。 《ハードボイルド・ワンダーランド》 【着衣、西瓜、混沌】 「私の意識は完全な二重構造になっている。」 私はシャフリングを通じて意識の核にアクセスする特別な技術を持っているが、 その核を明確に認識することはできず、とても無防備で不安定な存在でしかない。 【フランクフルト、ドア、独立組織】 「博士の研究はいよいよ大詰をむかえていて、それを完成させるためにあんたを呼び寄せた。」 私は「組織」や「工場」そして「謎の独立組織」の駆け引きに翻弄され無力感に打ちのめされる。 《世界の終り》 【壁】 「これはみんなが通りすぎていくことなんだ。だからあんたも耐えなくちゃならん。しかしそのあとには救いがくる。」 壁に囲まれたこの街が、心を持つ他者と出会うことのない閉鎖された場所でありながらも、 僕とっては完全な世界であることを理解し始める。 【世界の終りの地図】 「何が僕を規定し、何が僕を揺り動かしているのかを知りたいんだ。」 切り離された自分の影とこの街から逃げ出す約束を交わしたのだが、 同時にこの世界の不思議な魅力にひかれていく。 物語は寓話的な形式をとっていますが、本質的には誰もが経験し得る運命を表しています。 (下巻)では私たち読者は、主人公と共に心の危機に対する解決策を探っていきます。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
村上春樹氏の小説は賛否両論あるようだが、私にはどうも非のほうの様だ。全部読んだわけではないので全くの主観ですが。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
小説好きな私だが、短気なせいか物語の展開が早い方が性に合っている。いくつか村上春樹氏の小説を読んだが傾向として長々と主人公の心理描写が続いたり登場人物の状況説明の多さ、物語の展開に関係無い比喩等でいたずらに話が長くなっているように感じてしまう。長い小説は好きだが読み終わって無駄な時間を過ごしたように感じてしまった。村上春樹氏の小説は非常の長いものが多いようだがこんな展開の仕方だったら私はご免です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
海辺のカフカを読むのを途中でやめて以来、村上先生の本を今読んでいませんが自分の中ではこの作品がピークだったのではないかと感じています。 先生が訳されたロンググッドバイのあとがきでロンググッドバイが無ければ今のレイモンド・チャンドラーの評価は少し下がっていたかもしれない。ロンググッドバイがあることにより誰もたどり着けない至高の領域にあるということが書かれていましたが、それと同じように個人的にこの作品が無ければ今のような先生の評価に至らなかったのではないか、とそんな気にさせる作品です。 後、上手く表現し辛いのですが新潮社もしくはこの印刷所の文字のフォントから出てくる静謐な感じは、ほろ苦い結末へと向かうハードボイルド編の雰囲気にとても合っていると思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
子供の頃に寝る前に、絵本を読み聞かせてもらったことを思い出しました。続きが気になるところで、今日はここまで、と本が閉じられて目をつむり、続きは夢で見る感じです。実は繋がっている二つの世界が少しずつ交互に語られるので、先を知りたくて読み急ぎそうになるところを、一息置いて思い巡らせる時間を作り出してくれます。 この小説の登場人物には名前がありません。実はあるのもしれませんが、あえて人物を識別する記号をつけないままストーリーは語られます。それでも、それぞれの姿形や言動が具体的に描写されることで、登場人物はアイデンティティをもっていきます。あたかも文字のない絵本を読んでいるように、まず頭の中で映像が描かれて、そこからストーリーが語られます。 主人公の青年は、選択の余地がないまま、大変なトラブルに巻き込まれ、憫然たる運命を受け入れざるを得なくなりますが、最後に自分の意思で重大な選択をします。私にとってこのシーンは、自分が自分であることは何なのかを考えさせられる心に残る場面で、ここだけを何回か繰り返して読みました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
終盤の「風の無い雪の…」辺りの表現がとても印象的 今でもしおりを挟んだまま時々読み返してます | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
大衆小説として大変面白く読みました。 残酷シーンは除く…なぜ必要なのアレ アンチのレビューも厳しいけど、信者のウットリ解釈論も他でやりなさい、気色の悪い | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
純文学よりも大衆娯楽小説寄りに振れた作品。娯楽小説として珍しく面白かった。あくまでも娯楽小説としてだけど。 どうでもいい事だが、この作品だけを読んで村上春樹面白いなんていわゆるハルキストには絶対に言わない方がいい | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本書を初めて読んだのは昭和62年(1987年)。 はや30年近くたつのに全く古びることなく、逆に読み返すごとに本書に新鮮な面白さが増していくという不思議。 初めて本書を読んだときは、初期三部作の文体に比べ、どこか文体に堅さのようなものを感じ少し違和感を感じたものです。 「私」という一人称で書かれた「ハードボイルドワンダーランド」の章は、村上春樹の好きなレイモンド・チャンドラーの探偵小説風で、「僕」という一人称で書かれた初期三部作とは違ったものを書こうという、村上春樹の挑戦のようなものが感じられたせいかもしれません。(ちなみに本書は「羊をめぐる冒険」が執筆される前に文芸誌に発表されたものの村上春樹自身が納得できず書籍化されなかった「壁」という作品をベースに大幅に書き直しをしたものだといいます。それだけに、強い気合いが感じられます。) しかし、今回久しぶりに読み返すと、ああ本書はこんなに面白かったんだ、と自分の中の評価が一気に高まりました。 文体の洗練度や文学的深みといった点でいえば、確かに後に執筆される「ねじまき鳥」「カフカ」といった作品たちに及ばないかもしれませんが、物語の面白さでいえば、本書は村上春樹のベストといえるかもしれません。 たとえていうならビートルズの「ハードデイズナイト」のような初期作品と「サージェントペパーズ」のような中期作品の違いのようなものかもしれません。ビートルズのアルバムは、純粋にメロディーのよさでいうなら初期作品、凝ったアレンジで誰もやっていなかった音楽アルバムの芸術性を高めたのは中期作品と言われますが、本書を読み返してみると、そんなビートルズのアルバムの変遷を思い出してしまいました。 というわけで、本書は物語として本当に面白い。いつまでも読み続けたく、読み終えるのがとても惜しい。 さて、今年(2016年)のノーベル文学賞はボブ・ディランでしたが、本書でこのボブ・ディランに触れている場面があります。 彼の声について「まるで小さな子が窓に立って雨ふりをじっと見つめているような声」だといっています。 村上春樹の比喩の使い方は本当に絶妙です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
村上春樹の初期の作品は、意味のないことをさも意味ありげに描くことに挑戦していた。 この作品でその傾向は頂点に達したと思います。 意味があるとかないとかは、もはや重要ではなくなって、 そうではないもの、こうした思わせ振りな表現でしか描けないリアルが立ち現れている。 人間的ではない人間。 それっぽい台詞。 実は何にも意味なんてないんじゃないかと思える比喩の連続。 それらの全てを、村上春樹は意図してやっているのだ。 薄っぺらでなんの価値もない、という意見を持つとしたら、 それも正しい意見だと思う。 しかし、薄っぺらでない世界とは、じゃあなんなのか。 そこが重要なのである。 意味がないからこそ描ける意味の世界。 初期村上春樹作品の頂点に位置し、 戦後文学においても、独自の立ち位置を示す作品だ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
久々に再読. この頃の村上春樹の作品はとても面白い. 若い人には是非,最近の作品ではなく,本作を中心とした作品群に手を出して欲しい. 個人的には,芸術家などの創作者は作品自体によって評価されるべきと考えているので,そもそもあまりメディアに露出しない人ではあるが,エッセイを除いた作品(単行本)をベースとしたレビューとする.一応,ファンなので,全部を読んでいる. デビュー作が1979年7月の「風の歌を聴け」で,最新作が2010年4月の「1Q84 BOOK 3」 なので,作品ベースとしては31年のキャリアの作家となる. 個人的には「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年6月),「回転木馬のデッド・ヒート」(1985年10月)あたりが一番好きな時代となる. その後,「スプートニクの恋人」(1999年4月)あたりから,少し違和感を感じ,「海辺のカフカ」(2002年9月)でその違和感ははっきりしたものとなった. 結果としては「夜のくもざる」(1995年5月)までが,楽しく読めて,その後はイマイチということになる. すると,約30年の氏のキャリアのなかで1995年に起きた阪神大震災,地下鉄サリン事件あたりを節目に前期,後期と便宜上分けたほうが,分かりやすいように思う. 前期,後期と分けたことから,ビートルズのベスト盤の通称「赤盤」「青盤」を引き合いにさせてもらうと,「赤盤」はロックンロールを中心としたストレートな楽曲が多く,「青盤」はロックに革命を起こしたとされるロックらしからぬ上質かつ緻密な音作りがされている. 音楽史のなかでいうと評価が高いのは「青盤」だろうが,私の好みは「赤盤」となる. 村上春樹も前期は荒削りでシンプルな文章が多いが,後期になると職業小説家らしく緻密な文章表現が多くなり,社会現象をベースとしたノンフィクションの執筆も始まる. なんだか似通っているように思う.ビートルズはだんだんとキャリアを積むにつれて,音楽的な深みや演奏技術も増して,メッセージ色が強くなっていって,「赤盤」「青盤」では,まるで別のグループのように変貌する. ビートルズの凄みは「赤盤」「青盤」の両方が傑作であり,優劣は個人的な好みにすぎないことだ. 「赤盤」が好みであるのは,音質は悪いが,一発録音が中心であるための演奏や歌の緊張感や,まだ自分の中に住んでいるティーンエイジャーに強く訴えかけるものがあるからだろう. 村上春樹も前期の作品,とくに「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」などを読むと,自分の中に住んでいるティーンエイジャーが強く共感する.この力は最近の作品群にはないものだ. 村上春樹の場合は残念だが,後期の作品群は正直あまり面白くない.1995年前にピークを迎えてしまったのだろう.文章表現は後期では向上しているのだが,表現するもの自体が面白くないので,面白いものではなくなっている.「東京奇譚集」(2005年9月)ぐらいだろうか.面白く読めたのは. 30歳ぐらいまでの若い方々,特に最近の作品を読んで面白くなかった方々には,前期の村上春樹作品を手に取って読んで欲しい.特に,この「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が全体構成の面では発展途上的な印象も受けるが,内容のバランスが良いと思う. この前後の作品はとても面白い.ちょうどあなたが仕事や生活のうえで感じているが言葉にならないことがあるとしたら,その一部が見事に文章化されている. | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人がいる騒がしい世界、 独りきりの静かな世界、 異なる二つの世界の「手触り」が出会う不思議な小説です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この作品は独特の哲学があり好きです。敗北や挫折のない世界、Beatlesの歌うStrawberry Fieldsにも似た世界を、村上春樹は“世界の終り”という否定的な言葉を用い、「影を切り離さなければ(心を失わなければ)入れない」、つまり、実現し得ない世界として描いています。主人公はそんな実現し得ない世界から、切り離された影と再びくっついて逃げ出すのではなく、影を失った図書館の少女の中に小さな心の光を見つけその世界にとどまることを選びます。心はともすると自分自身ではなく敗北や挫折から生じる“疲れ”に支配されてしまい、“世界の終り”はやってきます。そんなときでもきっと自分の中に心を取り戻せ、未来の光が訪れることをこの物語は語っているのだと思います。この作品が多くの人にとってオペラ『魔笛』に登場するパパゲーノになることを願っています。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
昔読んだのだが忘れてしまい、今度文庫本を買って又読んだ。 文句なく面白い。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
世間で評価が高いのに今ひとつ共感できない時、なんとか理解できないかと悪あがきしてしまうのですが、村上春樹もその筆頭でありました。 今まで「海辺のカフカ」以外はエッセイしか読んだことがありませんでしたけれど、最近の小沢征爾との対談などは、非常に良い印象でしたので、「この際、きちんと向き合おう」と思っておりました。 なんせ、ノーベル賞候補の常連ですもんね。 それで選んだのが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」。どの書評でみても「村上春樹のベスト5」に入るとの高い評価なので、「これしかない」と挑んだ次第。 で、結果は???? いや〜、これは想像を絶する駄作ですねー!!!「あいた口がふさがらない」というのが正直な感想です。なにしろ: ・まことしやかなこの「異世界」はカフカ丸出し(「城」読んでください)しかも、二つの世界がどうなるかは、早々と想像がついてしまい、小説の基本構造としても脆弱 ・主人公の人物描写は限りなく薄っぺらで一切共感できず。かと言って、何か特別な「深み」があるというわけでもない ・その他登場する「ピンクの娘」「おかしな博士」「図書館の女」等々も、ご都合主義で現れては消え、まったく役割不明。もともと「全体構想」が存在していたのかすら疑問 ・音楽や映画などに関する村上春樹の個人的「うんちく」が、特に後半やたらと登場し、うざったいと言ったらない。しかも、それがどうも唯一の「スパイス」でもあるようで尚更寒い ・性描写もあまりにもお粗末で稚拙。村上春樹の貧素な私生活を見せられるようで、かえっていたたまれなくなる ・結局、ここに書かれているのは村上春樹の「孤独」ということでしかない。本人も述べているように、幼い頃からの人格形成が「読書」のみに依存してきたことが如実にみてとれる。とにかく貧弱。 以上、はい、ボロクソであります。 これが日本でノーベル賞と騒がれるのが分かった気がします。これは、日本の小説にしては英語への翻訳が極めて容易で、日本以外にも同様な小説を好む読者がいて(日本人の作品としては)売れているというだけでしょう。しかし、売れているからといって、ノーベル文学賞ってことにはなりませんよね? ということで、自分の中では、村上春樹について決定的に結論が出てしまいました。もう二度と手に取ることはないと思いますが、「いや、おまえは間違っておる。だったらこれを読め!」というのがありましたら、是非、どうぞご推薦をお願い致します。 (尚、「共感できないものを無理に理解しようとするな!」というご意見があることも分かっているつもりですが、ここまで世の中の「一般的な評判」が高いものについては、何か普遍的な価値があるはずとも思うもので・・・。) | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!