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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.24pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全262件 41~60 3/14ページ
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本当に素晴らしい世界観なんだが、よくこの作者のレビューで目につく世界観がいい=雰囲気がいい(だけ)ではないからな 全ての作家全ての小説を読んだ訳ではないし、そんな事不可能なんだけど未だにマイナンバー1だわ 文学として素晴らしいとか、ノーベル賞にふさわしいとかは分からんけどもね 最後にどうしてもハルキストにこれだけは言わせてくれ スパゲティに意味を求めるな | ||||
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大好きで何度も読み返しています。文庫もボロボロになって2組目を買いました。 特に秋から冬へ向かうころ、無性に読みたくなるのですが、老眼で文庫本はメガネなしでは読めなくなりました。はやくKindle化してほしいです | ||||
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20代の友人に読ませてみたところ"予想してたのより読みやすくて、さすが文豪だと思った"という。それで、"意味は分かった?"と問うと、"意味は分からなかった"との答えが返ってきた。 私の感想も大体彼と同じ。 | ||||
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二つあるストーリーのうちどちらも良かったと思える人はどれぐらいいるんだろう。変わった設定だけど牧歌的世界観の「世界の終わり」は面白かった。方や「ハードボイルドワンダーランド」は装飾過多で設定の雑さが目立って退屈に感じた。物語に登場する映画や音楽がすべて洋物なのも「オラつき」を感じてゲンナリした。(これは個人的なアレルギーかも)初めての村上作品としては適切ではなかったと思う。 | ||||
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GOOD | ||||
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世界の終わりとハードボイルドワンダーランド 読書感想文(アマゾンレビューで沢山の☆を貰うための) この奇妙な取り合わせの題名の村上春樹の初期の小説は、題名と同じく奇妙な二重構造の物語です。 上巻の最初のページに挿入されている抽象画的な挿絵はこの物語の不思議さを具体化しているようです。 神話的な物語と実際的な場所に存在する物語は、人の持つ意識の表層と深層という二つの捉え方でその関連性を保ちつつ展開していきます。 上巻初めの挿絵の中の貝は人の心のカオスの部分の象徴であり、それを紐で縛って管理している人物が左側にいて、何かを懸命に読み解いている人が右側にいます。これは実際に人の心の中に実在する小宇宙なのかもしれません。 「ハードボイルドワンダーランド」の主人公は「私」で書かれ、世界の終わりの主人公は「僕」で書かれています。 まず物語の始まりは「私」が現実世界とは違う不思議なエレベータに乗るシーンからはじまりますが、その時点ですでに日常とは別の世界に足を踏み入れていて、この物語に村上春樹のどんな仕掛けが仕込まれているのかとワクワクしながら読み進んで行くことになります。 「ハードボイルドワンダーランド」は実際的な場所での描写で書かれていますが、「世界の終わり」の物語は非現実的な神話的な場所に置かれていて日常的な生活の描写はありません。読み進んで行くうちに二つの物語はリンクしていることに気づかされるのですが、それぞれの場所で同時進行的にクライマックスへと突き進んでいきます。 物語の流れとしては、それぞれの物語が深層的な部分での繋がりを感じさせながら進行し、それぞれの最終章で深く人の心に意味付けされた重厚な物語を提示しています。 読む方はその二つの物語がどのような形でリンクするのかを期待しながら読んでいるので、物語の中に深く引きずり込まれてしまうという事になります。 「僕」の物語は人の持つ深層の意識の中の世界で展開しています。その世界は心を無くした者だけで構成されている街が存在していて、心を手放した者達によって完結されいるとも言える構造であり、限定されている世界だという事になります。 その街には決められた秩序があり、そこに住む門番は新しく入ってきた人の影をナイフで剥ぎ取ります。剥ぎ取られた人はその街の図書館で一角獣の頭骨の中から夢を読み取るという行為をしながら自分の影との分離(決別)を待ちます。 最初の頃の「僕」は自我とされる影がまだしっかりと生きていますが「僕」は次第にその街に馴染んでいき、元通りの自分とは一体何なんだろうと自分がわからなってきます。しかし自分の影から心という存在の大切さを諭され、まともな人として生きていく事を決意し影と一緒にその世界から脱出することを選択します。 影と二人でその世界の出口までなんとかたどり着きますが、一転して「僕」のとった行動はその世界にとどまることです。 ハードボイルドワンダーランドの「私」は二つのシステム・博士・太った娘・図書館の女と、題名通りハードボイルドな展開の中でワンダーランド的な場所で冒険をします。この小説の表面的な面白さを担っている展開の部分でもあります。 科学的な仕組みで自分の頭脳が博士により操作されていて、最後は自分の意識が現実世界で終了(消滅)するという運命を知らされるまでの成り行をスリルとサスペンスをともなって書かれています。 残り少ない時間が過ぎていく中、「私」はその時間を自分の心の流れのままに任せた行動をとります。まるで自分の今までの人生を噛みしめながら確認しているようにも見て取れます。 いよいよという時間が訪れて自分のこれまでの人生を総括し一旦混濁の中に沈みますが、最後は自分を肯定したかのようにその回路を閉じ深い眠りに身をまかせます。 この「僕」と「私」のとった行動に人格としての共通する部分を感じてしまいした。 影の言う正しいロジックに反して最後は自分の心の流れの方を選択した「僕」。 最後に自分の心の存在を後悔するよりも受け入れることで静かに閉じた「私」。 その行動には規範的な教示からの束縛というものは取り除かれているように感じられます。 この二つのリンクされた物語から何かを汲み取ろうとすれば、人が所有するところのアイデンティティと心の流れは尊重されるべきものであり、固定化させるものではないという事ではないかと考えました。 この物語に出てくる主人公の最後の章を読んで頭の中に浮かんだのはカミュの異邦人という小説の中に出てくるムルソーのとった行動です。 ムルソーは自分の母親が死んだにもかかわらず恋人と戯れたりするのですが、その行為の中にキリスト教などの規範的教示(負の部分の)のようなものに思考を囲われてしまう危うさに警鐘を鳴らすことを埋め込んでいます。ムルソーの自発的な行動に意味を持たせているとも言えます。 それは人の心の自発的で自然な流れを尊重するという考えです。 カミュのそうした思想は戦争のもたらした不条理というものが根源としてあるのですが、村上春樹の場合は人との関わり合いにおいての不条理的なものからその考えが来てると思いました。 「僕」の最後の選択と「私」の穏やかな閉じ方。 その部分を書いた村上春樹の思いという部分に通底しているものは以下のようなものなのかも知れません。 ムルソーの行動を非人道的な行動と短絡的には決めつけることは出来ないという見方。 倫理・道徳という類の言葉が人の考えを固定化させることへの危険性。 ロジックがロジックの中でしか成立しないその回路の狭さ。 難しいことを難しく語れば語るほど説得力ということから遠のいていくこと。 村上春樹は物事の理解は経験則を伴わないとうまく受け止めることが出来ないと何かに書いていました。そのことから繋がった個人的な憶測ではあるのですが。 「私」の最終章で最後の時に近づいている場面で公正という言葉が何回も使われています。 しかしその中で使われている公正という言葉の意味する部分は具体的には書かれていません。公正という言葉を世の中の規範的なもの、あるいは正しさというものの抽象的な枠としての表現で使っているとも受け取れます。 そして解説・答え・導きなどの通過儀礼的な記述はないままにその枠は解決へと向かってるのです。 公正さを考えるという行為を一つのロジックとして扱っているようにも考えられます。 思考の道のりを省き、するりと抜けて「私」の頭の中の白いちりという形ができるという到着点に着地しています。 論拠が省かれた格好です。 ここの記述の後で太った娘との会話が出てきます。 この娘との会話の中で気持ちが変化した訳ではないという事ですが、この「私」の心の平穏をもたらしたものは何処から来たんだろうという問いが生まれてきます。 過去の出会った見ず知らずの人物にさえも祝福するという平穏さなのです。 最後に書かれた、「私はこれで失ったものを取り戻すことが出来るのだ、と思った。それは一時失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ」という主人公の言葉。 これは「私」は死というものを別の意味で捉えているという事なのか。 それとも「世界の終わり」という場所へとつながっていくのか、あるいは頭脳の再起動という装置が起動するのか。 はたまた「僕」の影が消えることと「私」の脳が停止することはリンクしているのか。 読む方が混沌としてきます。 読者はそのままページを閉じなければなりません。 不思議な感触だけが読後に残ります。 村上春樹の初期のころの作品。 いい材料と素晴らしい調理法で料理を差し出されますが、食する前に振りかける調味料はご自由にお選びくださいという事なのだと思います。 そしてその調味料の注意書きにはきっと「味覚はあなたの選択次第で激変する可能性があります」と書かれているのでしょう。 | ||||
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この本の読み方を発見しました。最初にざっとそのまま上下巻を読みます。感想としてはぼやけてよくわかりませんが、なんとなく薄っすらと内容を覚えているくらいです。次にもう一度読みますが今度はハードボイルドワンダーランドだけを読みます。それを全部読み終えたら世界の終わりを読みます。そしたる物語が繋がっているように読めますよ。大発見です。 | ||||
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大樹に寄り添った時のように、なんの不安もなく、ただただ物語に身を委ねることが出来る、そんな小説です。 ページをめくる手が止まらない。 没頭感が半端じゃない。 | ||||
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ラストに向けて2つのストーリーが綺麗に収束してゆき、どんどん読むスピードが上がった。もっともこのSF的着想の結末は意外でなく、むしろ予想通りではあった。が、細部に神が宿る村上作品らしく、終末を迎える主人公が「日常生活」の中でこれまで気付かなかった事に気付いて、その価値を再認識する様が見事に描かれていたので、テーマがくっきりと浮き彫りになったと思う。 ただ惜しむらくは、この主人公の「日常」が、私を含めた多くの読者の「日常」とかけ離れているのではないかと言う事。例えば、個人的には洋楽を聴かない私だと、沢山出て来る洋楽のいくらかでも知っていれば、もっと面白かったのに、と思った。そして何と言ってもセックスのハードルが低過ぎる世界観は、多くの読者の付いていけない要素であり、主人公が羨ましいと言うより違和感を覚えてしまうのが正直なところ。 逆に言えば、現代日本人には違和感を覚える要素が、村上春樹が海外でも読まれる理由なのかも知れない。本作がSF的アイディアを見事に描いた傑作なのは確かだけど、受け付け難い人もいるに違いなく、村上春樹の作風では仕方のないものだと思う。 | ||||
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代表作と言われてるようだが、先入観なしで読んでみた。2つのストーリーが交互に語られる趣向のSFファンタジー。世界観から違うので全然別の話かと思えば、主人公のキャラは似てるし、何だか交わって来た。巻き込まれただけの主人公の視点から、次第に恐るべき運命が明らかになって来るのは面白いが、あくまで平凡な日常生活はそのままなのが、独特の味だ。そして村上春樹らしいのが、セックスのハードルが低いこと。老科学者のぽっちゃりした孫娘が、食欲が第一と言って付け足しのように性交を行うのは面白いけど、本当に必要な要素であったのか疑問は残る、と素人エロ文書きの私が言うのも変だが。 まだ前巻だけど、スト-リーより細部を楽しむ村上春樹らしさは十分に味わう事が出来た。恐らく後半で大きく展開し、驚愕の結末を迎えるなんて事はないだろうと予想するが、続きを読んでみたい気にはなった。ある種中毒性を持った作家ではあるけれど、この作品も万人向けではないと思う。スッキリした読後感を求める人には向かない。 | ||||
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村上春樹作品は大、大、大嫌いです。 しかしそれでもこの作品だけは素晴らしいと思える。 グイグイと物語に引き込まれる感じ。 殊にラストシーンの美しさは読めば誰もが感動すること間違い無いだろう。 それにしても作家としての進化の方向性を間違えてしまった残念な人ですね。 エンタメ作家とか呼ばれようがこっち方面に参加すれば良かったのに。 | ||||
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ハルキストでなく、一般的な読書人の感想です。 全作読んではないが、10代終わりに読んだ「海辺のカフカ」をきっかけに春樹作品を読むように。「羊をめぐる冒険」「ねじまき鳥クロニクル」「1Q84」の4作は好き。 「蛍・納屋を焼く」「ノルウェイの森」「アフターダーク」「国境の南、太陽の西」「色彩を持たない多崎つくる~」はイマイチ。 20代のうぶな時代に読んでた時は、大人ってこんなにお酒をかっこよく飲むのか、、男女って出会ってすぐ関係持っちゃうのね、、と描かれる世界にドキドキしたりしてたけど、30代の今、再読ではそこらへんばかばかしく思って読んでいる。春樹批判のコメント類、よくわかる。 私の本棚に残っている上記4作は、パラレルワールドみたいな二層三層になっている深い精神世界がよい。 「エヴァンゲリオン」「惑星ソラリス」「マルホランドドライブ」「インセプション」「雲の向こう約束の場所」などが好きな人は好きだと思う。インセプションと雲の向こう~を最近見てからふと再読したところ、めぐりめぐってこの3作通じるところがある!!って思いました。 春樹作品が向いてる人は ・映画や本に感化されて、自分とは、世界とは、と思想や哲学を掘り下げて考えちゃう人 ・どちらかといえばネガティブな人 ・目に見えない意識や心や死後の世界、魂、力のありかについてたまに考えちゃう人 ・感受性が強く、余韻に浸ることができる人 猛烈に嫌いで投げ捨てたのが、ノルウェイと多崎つくる。この作家の性描写が大嫌い。 しかし彼の中で、男女がつながるのはすごい意味のあることなんだろうな、とどれを読んでも思う。性器がひとつに組み合わさった瞬間、なんか違う世界が開かれる、みたいな、、その世界観は面白いけど描写がね…美しく、わかりやすく、親近感のある書き方ならもっと作品を好きになれるんだけど。 あと今作の最後らへんに「ブルックナーのシンフォニーの番号なんてまず誰にもわからない」って決めつけてるセリフ。 音楽・文学・映画・料理・ファッション等に関する価値観がよく批判の対象になるけど、そりゃそうだよね。価値観の押し付けイラッとするもん、私はブルックナーの交響曲どれがかかってもわかるよ~だ。 それが、この作品だけの主人公の特徴なら問題ないのだ。が、そうではない。ほとんどの作品がこう。=村上春樹自身てのがじわじわ伝わってくる。嫌われるよねぇ。 そんな調子で、世界の終わり~も嫌いなシーンやセリフはたくさんあるものの、いま何年かぶりに再読を終えて、ラストの方の人生の向き合い方とかじーんときちゃった。だんだんとリンク具合がはっきりしてきて、頭骨がほわ~んと光る情景(だがここでもやっぱり性交しまくってる、無駄に)現実の自分と意識下の自分がつながる、不思議な感じ。 自分がこれまでに失ったもの、取り戻せないもの。主人公はそれぞれに、人生や世界の意味を知る。 どちらの世界が幸せ?本物? 選ばない・選べないのではなく、すべては見方ひとつ、受け止め方ひとつ。現実も脳内イメージも、どれもが自分が求めて作り上げた世界。 さて次は、RADIOHEADを流しながらねじまき鳥の再読を始めましょうか。 | ||||
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思索と示唆に富み、研ぎ澄まされた言葉の美しさ。小説を堪能しました。 | ||||
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(上下巻通してのレビューです) どんな目に会おうとも文句を言わない。キレない。我慢強い。できることをする。それでも世界を、人生を祝福する。この主人公は、意外と強い。 | ||||
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この作品は村上春樹作品の中の最高傑作であると断言できます。文句なしに面白い。 本作で描き出した世界観を超える作品は今後も出てこないかもしれない。村上春樹氏の創造力と筆力に圧倒されます。 | ||||
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この作品を初めて読んだ時、小説(物語)に関する概念が180度変わりました。 なにげない文章の中に核心に触れる部分があったり、思いもよらない伏線があったり。 村上春樹ワールドにどっぷりつかれます。 ぞくっとしたり、手に汗握ったり、涙が込み上げてくるような感情があったり、、本を読んでいるのに、まるで映画を見ているような感覚でした。 難易度高いだろうけど、映画化されたら相当面白いだろうなと思います。 | ||||
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下巻まで読み進むと、この交互に描かれた世界が、重なっていくことが明らかにされていく。描写されている人物や鉄道から『ハードボイルド・ワンダーランド』は現在であり、『世界の終り』はどうやら別の世界の別の時代であることが徐々に分かってくる。 『ハード…』の“私”は、ある実験台として25人の男と一緒に“組織”によってある処置を受けたことを登場人物である‟博士”から告白される。そしてこの地上で生きられるのは、1日半であることを宣告される。その時間の中では、村上氏が実際の経験に基づいて描述したのであろう、地下鉄の駅員との言い争い、ヤクルトが中日に負けたことも書かれている。或いは残された時間が少なくなった‟私”は、銀座の、今は亡き、村上氏が大好きな“Paul Stuart”に行って、シャツ、ネクタイ、ブレザーを買い、ビヤホール、銀座であればミュンヘンかライオンだろうけれども時計の文字盤にライオンが描かれているから後者か、に入った。すると、『……ビヤホールではどういうわけかブルックナーのシンフォニーがかかっていた。何番のシンフォニーかわからなかったが、ブルックナーのシンフォニーの番号なんてまず誰にもわからない。……』と書いている。村上氏は、ジャズだけではなくて、クラシック音楽も好んで聴いているようなのだけれども、どうやらブルックナーの音楽は余り好きではないようだ。また“私”は、サマセット・モームの「Razor's Edge」を3回読んだ、と語っている。ショーロホフにしても、トルストイにしても3回読んだと言う村上氏らしい描写で、実際に氏はこのモームの作品を3回読んだのだろう。ひょっとするとドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」も、4兄弟の名前をすべて諳んじているようだから、幾度も読んだのかもしれない。 それに比べると、『世界の…』の主人公である“僕”は、余り自己主張しない人物として描かれている。そしてこちらの世界は、幻想的である。『ハード……』と同じく、女性と料理が出てくるのだが、控え目なように思われる。そして‟僕”の“影”は、『ハード……』の“私”だと決めつけて、読み進んだのだけれども、そう簡単な設定にはなっていないようだ。 初期3部作の瑞々しさから飛躍し、村上氏が開拓した新しい手法の小説である。氏の代表作と呼んで差し支えないと思うのだが、いかがだろう。それこそ幾度も、これで2回目なのだが、読んでみたい作品である。 | ||||
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この作品は、1985年6月に新潮社から箱入りの単行本、書下ろしで発行された。村上氏は翌1986年10月から、ギリシャ、イタリアを中心とした欧州に移り住んでしまうので、この長編は「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」の所謂、初期3部作に続く長編小説と言うだけではなく、ヨーロッパ移住直前、そして偶然かもしれないがその後の日本が迎えるバブルの直前に書かれた。たしかに日本の代表的な株価指数である日経平均は、発表前年の1984年に史上初の1万円を記録していた。この「世界の終りと……」に続く長編で、氏の作品として初めて100万部以上の売り上げとなった「ノルウェイの森」は1987年に発行されている。興味深いのだが、「ノルウェイ……」はバブルではなかった欧州に住む村上氏によって書かれており、一方読者が存する日本はバブルの只中にあった。 この小説は、後年「1Q84」でも用いた手法、つまり2つの世界を交互に描くと言う、村上氏が得意とする手法で述べられていく。それぞれ『ハードボイルド・ワンダーランド』、『世界の終り』と名づけられ、各々の主人公は前者が‟私”、後者が“僕”とされている。そして『世界の……』の方には、巻頭に地図が付けられているのだが、『ハード……』には、地図はない。そして他の小説がそうであるように、主人公の男性と女性がそれぞれの世界で描かれ、これもいつものことだが、料理が登場する。それからやはり、「ねじまき鳥クロニクル」、「騎士団長殺し」がそうであるように、‟地下”が重要な位置を占めている。 もうだいぶ以前のことだが、出版当時には重い本だと言うのに、貪るように読んだ記憶が残っている。 | ||||
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やみくろと影はなんなのか明かさないのは卑怯だろ。ファンタジーならなにやってもいいわけじゃあるまい。現実世界に背を向けて、自分が作った物語世界で永遠に生きることを選ぶ。そんな奴、現実にいるか? そのくせ現実に縁した人々を「祝福」する。とことん嘘臭い。文章は巧いと言えるし、絶妙な喩えもあるが、それだけだ。思想は嫌気がさすほど浅い。リアルな人間が一人も出てこず、〝癒し〟にもならん。人間を描く気も読者を癒す気もないんだろうが、では、なにがしたいんだか。わからん。村上せんせがこれだけ評価されるのは、世界が病んでいるからだ。一刻も早く駆逐しなきゃいけない作家だ。 | ||||
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「自我は、その関心を、周囲の環境である「外的世界」に向ける場合と、 こころの世界である「内的世界」に向ける場合がある。」(参考:Wikipedia-分析心理学) 物語の最後に「私」は外的世界を失っても自分を再生する道を選択し, 同様に、無意識界の「僕」も暗い森の中に留まり、記憶を呼び覚ましながら生きることを決意します。 それは作者自身の創作における「デタッチメント時代」の宣言のようにも感じられます。 【ハードボイルド・ワンダーランド】 ハードボイルドな冒険活劇は、下巻に入ると極限状態に置かれた人間の揺れ動く心情を描き始める。 繰り返す円環の人生を象徴するような螺旋階段を上り切った先で、私は途方もない宣告を受けた。 「あんたの意識の中では世界は終っておる。」 私の運命はやがて無意識の永遠の覚醒の中に閉じ込められて、二度と現実には戻れなくなるというのだ。 地上に戻ると頽落的な日常の風景が続いていた。 残された時間の中で、この世界があらゆる形の啓示に充ちていることを感じとる。 そのすべてのものに対して公正さを与えることが出来るよう望みつつ意識を閉じた。 死に直面した主人公の目には、当たり前の日常が祝福に充ちた世界に映ります。 生き続ける私たちも強く求める気持ちがあれば、心の奥底から響く魂の呼び声を聴くことが出来るのではないでしょうか。 【世界の終り】 「街はそんな風にして完全性の環の中を永遠にまわりつづけているんだ。 不完全な部分を不完全な存在に押しつけ、そしてそのうわずみだけを吸って生きているんだ。」 「影」の語る言葉には説得力があり、確かにこの街は不自然で間違っているように映る。 それでも何かが僕の心に引っかかるのだ。 「僕は自分がやったことに責任を果たさなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。」 私たちは自己の責任において世界を開示して見ているのかもしれません。 それがどんなにつらく厳しい現実であろうと、失ってはならない大事な心があります。 「それは鳥のように風の中を舞い、永遠を見わたすこともできるのだ。」 私はこの作品に圧倒されました。この作品を知らない多くの方々にぜひ読んでもらいたいと願っています。 | ||||
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