■スポンサードリンク
1973年のピンボール
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
1973年のピンボールの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全135件 1~20 1/7ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私は村上春樹作品ではこれくらい前の時期の作品が好きですね。 ネズミシリーズは別々で呼んでも時系列に読まなくても違和感ないですし。 ほとんどの村上作品を読んでいますが、エッセイでも小説でも、 村上作品の読後の独特の余韻が好きですし、 なんとなく品がある雰囲気を全体に感じるので、 やはりモヤモヤしているときに読むのは最適かなと思います。 村上作品の主人公の男性たちって、友人、親友だといいなと思いますが、 恋愛対象としては避けたいような印象(笑) | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
最新刊があまりにもわからなかったので、いったいこの人ははじめからこんな感じなのか、改めての確認作業をした、二作目の感想。 さっぱりわからない。 一読して、読めるけどなんの余韻も残らなかったので、立て続けに再読したが、やっぱり感情がゆさぶられるような感動はあるわけもなく、なぜならわざとわけわからないように書いてるから、構図はわかったけど、意味はないんだろうと確認した。 このひとはエッセイを読めば、それでも回りくどい比喩に苛立ちを感じることもあるけど、まぁ普通に理解できる文章をかけるのだとわかるが、小説の形態ではなんでこんな書き方になるのか、意味のわからないやりかたになるのか、一言でいえば、SFファンタジー、を書いてるんだろうな。読めるけどわからない。読むと疲れて普通の小説が読むたくなる。でもまぁ、次の羊も読んでは見るけど。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
講談社文庫で二作目となる本作ですが、「風の歌を聴け」の続編という位置づけ。 但し、前作が「鼠」「僕」の青春小説という建付けでありましたが、今回はより「幻想的」な作りでありました。詳細は是非読んでいただければと。 ・・・ 前作で、バーでできた友人、ボンボン大学生の「鼠」。 本作でも登場しますが、「僕」とはすれ違いません。ただただ、けだるい日常で、恵まれた環境で、素敵な努力家の女性と戯れ、そして自己嫌悪する、といった状況。もう死語かもしれませんが、「アンニュイ」なんてカタカナで表現しましたがああいう感じでしょうか(フランス語なだけ!)。 その彼が、女との連絡を取らず(すなわち別れて)、ジェイズ・バーにもさよならをして、新たな旅立ちを決意する、という流れに、間接的に「再生」「再起」「回復」のようなワードを感じました。 また、「僕」は「僕」で翻訳の会社を友人と起こし、そこそこ恵まれた給料で働く中、ピンボール(要はパチンコ)にハマり、廃盤となった台を探しに行くという話が後半から本格化します。 ピンボールを女性と見立てて、会話なんか始まりますが、思いを寄せる女性を探し、再会したら、何だか吹っ切れた。次に進もうかな、みたいな。これまた「新生」「再出発」みたいな展開を暗示するような終末でした。 ・・・ こうした展開のなか、女性と音楽は村上氏の中では欠かせません。 音楽でいうとクラシックから、ジャズから、そしてビートルズなどのポップからジャンル問わず出てきます。音楽好きにはたまらないことでしょう。 あとは女性ですかね。双子の女性が部屋に住みつき(猫かよ!)、同居するという。ただ、性的な描写はなく、真ん中に入り川の字になり寝るなんていう、第二次性徴前の男の子のようなお話が綴られていました。 その気がないのに交わってしまった、あるいは蠱惑的な状況なのに特段なにも感じなかった、みたいな設定は何だか村上氏らしいです。 ・・・ あと本作、再読していて気になったのは冒頭に「直子」の表現が見られたこと。「ノルウェイの森」から村上作品に入った私としては非常に思い入れの深い名前でありました。 この名前、その後本作では全く出てこなかったとは思いますが、真実はどうなのでしょうね。また続作読むことで確認したいと思います。 ・・・ ということで村上氏の作品の再読でした。 分かるというより、感じる乃至解釈するといった作品でした。 兎に角古い作品ですが、私くらいおっさんだとまだまだ人生で見た風景でした。風呂なしトイレ共同なんて、電話共同なんて、今の子は想像つくかしら? ただ、若者のけだるさ、お酒の魅惑、こうしたものは時代に関わらず、ですかね。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
小説というより文学ですね。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
非常に読みやすいので、スーッと読むだけでも楽しめますが、一つ一つの物や出来事に込められた意味を考えながら読み込むと、ラストには強く心を打たれます。本を読む楽しさを教えてくれる作者の初期の傑作だと思います。主人公と鼠の関係性やそれぞれの物語が別々に紡がれる意味を理解するために、前作「風の歌を聴け」を読んでおくことをお勧めします。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
二度と戻って来ない、あのほろ苦い青春時代。そこには大切な人との出会いがあったが、失ってしまったものは、自分の記憶の中でしか存在せず、永遠に消え去ってしまう。そうした喪失感と自分を表現できない不器用さを見事に描いた小説だ。「風の歌を聴け」より評価が低いようだが、終盤はこの小説の方に心が揺さぶられる。学生時代に去って行った女学生の残していったグラスに、スヌーピーとウッドストックが楽しそうに遊んでいる漫画が描かれ、その上の「幸せとは暖かい仲間」と書かれた文字、の表現は絶品だ。鼠の彼女との別れ、主人公とピーンボールの再開と別れ、また双子の兄弟との別れ、読み終えた後に余韻を残す何とも言えないもの悲しさ等、読者の心を動かす傑作小説であることには違いない。ただ、鼠の行動には理解しがたいものがある。自己不全感や虚無感等は、あたかも境界性パーソナリティ障害か、うつ病を感じさせるもので、了解は難しかったのが実感だ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「卒論の指導教授がうまいことを言う。文章はいい、論旨も明確だ、だがテーマがない、と。」(9章、87ページ)特に言いたいことはない、書くことが特にある訳ではない、というのがテーマなのかもしれない。後年『職業としての小説家』(2015年、ちなみにポートレートは荒木経惟による)で、書くことがないからこそ何でも書けると述べていたと思うがそれに通じるだろう(小説家が素直な心情を吐露するのは疑わしいのだが)。「革命」という大きな物語への幻滅からか、声高な主張は抑えられ、違和感や虚無感や諦観といったものが綴られているように感じられる。出会いも別れも劇的な描かれ方が排除されている(ジェイは例外かもしれない)その点も多くの物語と異なっている。 タイトルは大江健三郎の代表作の一つ『万延元年のフットボール』(1967年)のもじりであり、そこからピンボール(あるいはゴルフボール)が出てきたのだろう。また、比喩に用いられる動物たちは『個人的な体験』(1964)からの影響かもしれない。ゲームセンターも『個人的な体験』の冒頭に出てくる。また、ピンボール上に映る「二重の鏡」(120ページ)は川端康成『雪国』冒頭の車窓のシーンを踏まえたものだろう。霊園はフィッツジェラルド『氷の宮殿』でも描かれていたように思う。『万延元年のフットボール』に登場する「スーパーマーケットの天皇」と『1973年のピンボール』のジェイとは関連があるだろうか?(柄谷行人は、大江健三郎との対談で『万延元年のフットボール』は「まさに万延以来の日本の近代のある種の総決算だったんじゃないか」と述べその影響にある作品について中上健次『枯木灘』とともに『1973年のピンボール』をあげている。『大江健三郎 柄谷行人 全対話』2018年、108ページ、1996年に行われた対談) 小説の構成としては、プロローグである「1969-1973」から1〜25までの各章で「僕」と「鼠」との物語が「断片が混じりあってしまった二種類のパズルを同時に組み立てている」ように語られる。「違和感」も、この小説のテーマのひとつに思える。短編集『女のいない男たち』の序文では、短編では一つのテーマについて様々な手法・人物・人称を用いて多角的に捉えることができると述べているが、この長編小説ではそのような短編的手法によって各章が綴られているようにも読める。さらに言えば、村上春樹自身はポストモダン文学のトマス・ピンチョンの作品では『V.』(1963年、邦訳は1989年)が最も好みだと述べていたと思うが、この『1973年のピンボール』は『V.』と似たような構成をしている。 「僕」の物語と鼠の物語とで明確に別れている。 「僕」の物語はプロローグ、1、3、5、7、9、11、12、15、17、18、20、21、22、25の15章で15/26=58%。 鼠の物語は、2、4、6、8、10、14、16、19、23、24の10章で10/26=38%。 真ん中の第13章は「僕」と鼠の挿話(4%)。 四つの読み方があるだろう。プロローグから始めて第25章まで読む一般的な読み方、「僕」の物語を読んでから鼠の物語を読み方法、逆に鼠の物語から読み「僕」の物語を読む方法、第25章からプロローグへと読み進む方法。 各章に表題をつけるなら、例えば次のようだろう。プロローグ ガイドマップ、1 翻訳事務所、2 ジェイズ・バー、3 配電盤、4 灯台と女の家、5 アパートの電話、6 女との出会い、7 原書と「ラバー・ソウル」、8 霊園、9 ゴルフ場、10 ジェイの猫、11 葬式、12 事務の女の子、13 ピンボール、14 引退、15 「スペースシップ」その1、16 彼女の部屋、17 「スペースシップ」その2、18 素晴らしい一週間、19 ジェイとの別れ、20 スペースシップの行方、21 養鶏場の冷凍倉庫 その1、22 養鶏場の冷凍倉庫 その2、23 女との別れ、24 ジェイとの別れ その2 街との別れ、25 耳掃除。1と2、5と6、8と9(ガラス瓶で切った指先と潰れた猫の手も関連があると思える)、12と14では関連が強い。鼠の物語では、ジェイとの別れがクライマックスだろう、「僕」の物語では葬式と冷凍倉庫がクライマックスとなる。霊園、葬式、冷凍倉庫はゆるやかにつながっていると見做せる。 一般的な物語との違いをプロローグから見てみよう。その冒頭では故郷喪失について示されていると思える(なので、この小説では両親についての直接的なやりとりは叙述されない、この両親・肉親の排除も小説に軽やかさをもたらしている)。生まれた土地や井戸は土着的な響きを持つが、どうだろうか。それらから遠く離れている、ということを提示しているのかもしれない。「僕」のもとに来る懸命に伝えたがっていることは、猿の群れが散らばるように去っていき(追い払い)その行方は知れない。次に学生運動とその幻滅が提示される。また、双子の女の子はもしかしたら個人主義への疑問かもしれない。固有名詞の否定も日本近代文学への批判からきているかもしれない。「入口と出口」、小説にもそれが必要だろうが、それさえあれば良く、何か(物語)が語られあるいは語られなくても良い、と言っているようだ。(唯一固有名詞が与えられている)直子の父親は澁澤龍彦を思わせる(澁澤龍彦も左翼的政治運動に挫折したようだ)。プロローグ末尾の「ピンボール」は、小説あるいは物語と置き換えられるかもしれない。「ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。」これは冒頭で語り手ではなく聞き手として登場する「僕」に対応し、(ある種の)物語を否定しているように思える。 (追記) 『1973年のピンボール』は前作同様に芥川龍之介賞の最終候補に残った。『芥川賞全集 第十二巻』(文藝春秋、1983年)には当時の選評が記録されている。「第八十三回芥川賞選評(昭和五十五年上半期)」該当作品なし。10人の銓衡委員のうち比較的好意的なのは丸谷才一、大江健三郎、吉行淳之介の三名であり、吉行「(略)この時代を生きる二十四歳の青年の感性と知性がよく描かれていた。(略)この双子の存在感をわざと希薄にして描かれているところなど、長い枚数を退屈せずに読んだ。」丸谷「(略)古風な誠実主義をからかいながら自分の青春の実感である喪失感や虚無感を示そうとしたものでしょう。(略)大事な仕掛けであるピンボールがどうもうまくきいていない。双子の娘たちのあつかい方にしても、もう一工夫してもらいたいと思いました。(原文は旧仮名遣い)」大江「やはり詩的な領域になかば属する感覚、清新な文章によって、新世代のスタイルをあらわしているが、散文家としての力の耐久性には不安がある。(略)そこにはまた前作につなげて、カート・ヴォネガットの直接の、またスコット・フィッツジェラルドの間接の、影響・模倣が見られる。しかし他から受けたものをこれだけ自分の道具として使いこなせるということは、それはもう明らかな才能というほかにないであろう。」 双子について吉行と丸谷とで逆の評価をしている点が興味深い。大江の指摘する「詩的な領域」「清新な文章」「新世代のスタイル」などはかなりの賛辞のように思う、またヴォネガットとフィッツジェラルドとの影響・模倣とは流石の慧眼だと言える。 これらの選評をみると、村上春樹は『1973年のピンボール』においてその物語の起伏と同様にピンボールや双子をわざと突出させないようにアンチクライマクス様に扱ったと思える。また、「僕」の物語の軽妙な筆致にヴォネガットのスタイルを、視覚的かつ抒情的な風景描写を用いた鼠の物語にフィッツジェラルドのスタイルを落とし込んで、異なった文体で一つの作品を提示するという文学的企図を感じる意欲作だと思える。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
日常の生活描写関係の事までいちいち気取った比喩で、 解説されなあかんレベルで解りづらいのは遠回しに過ぎる。 ただ、後半、主人公がついに想い人(比喩)に巡りあう直前、 その人の仲間たちが一斉に目覚める場面は圧巻。 また、他ならぬ自分自身が刻んだ記憶に無粋は無用と、 あえて最小限の逢瀬でその場を去る美学には、 矜持を感じます。 ただ俺はあの双子はいない方がいいと思う。 主人公の孤独が濃い方が、 後半のあの存在との逢瀬が引き立つ。 あの双子が例えなんらかの比喩だとしてもね。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本の状態ですが、まず開いて直ぐ1ページ目、使用済み付けまつ毛が挟まってました。途中途中に鉛筆で線が引かれ、メモ付箋も貼ってありました。 古本とは言え、付けまつ毛はかなり大きく気持ち悪かったです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
比喩描写に迫力がありながら、読みやすい作品。 表現するものの中身は難解だが、心に響く作品 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ピンボールが出てくる後半から一気に懐かしくなってきた。 読んだ当時はまだインターネットで検索!なんて全然ない時代だったから、いまは思う存分、ピンボールがいかなるものかを改めてググって確認。そうそう。これこれ。 なんとなくなんだけど、村上春樹の書くものは下半身(性的なもの)と頭が別れている感じがする。これがかっこつけているのか本当にそうなのか。 日本の話なのに全然そう感じないのもなんでかなあと不思議に思う。 気になるのは「鼠」と「僕」が小説の中で別々に描かれていること。ジェイズ・バーは存在している。うーむ。これどういう意味だっけ。また次ぎ読んで思い出さなくちゃ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
僕のアタマのなかで村上春樹とか(昭和終盤の)赤川次郎とかは 作家でなく"高額所得者"と認識されている。 赤川の陰惨なユーモアミステリは兎も角、 すらすら読めるムラカミ小説は時折、オカシクなる 読書のリズムを取り戻すのに重宝してる。 オモシロサはまた別の話。…て言ってたンですが、 この本は面白い。 特に"僕"と双子ちゃんをめぐるヤリトリ。 池に配電盤を葬る件りは、所用で乗り込んだ京都行きの高速バスの座席で、 こみ上げてくる笑いを堪えるのに苦労したほど!だから困ッちゃうんだな。 調子クルって。 ムラカミ小説にはスラスラスイスイ読めることしか求めていないのだ!! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
今まで注文した商品で、最も最低の状態で届いた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
問題なく受けとりました。 読み始めていますが、 ちょっとヨゴレや、使用感が目立つ、 「非常に良い」ではなく、「良い」レベル感かなと。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
わからない‼️何がいいのかな?わからない‼️わからない‼️ピンボールのように!⤴️ | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
処女作『風の歌を聴け』から更に観念的になり、散文詩に近づいたような作品である。前作同様、人生の無常や青春の儚さが感じられる。違いと言えば、過去や未来の持つ曖昧さや、それらとの訣別に焦点が当てられている点だ。ただ、この曖昧さは、真実ではない。過去や未来に含まれる事象は曖昧なものなどではなく、全てが厳然たる事実として存在する。単に人間がはっきりとそう認識できないがために、曖昧に感じられるだけのことだ。そして、その「できない」というところに、人間らしさがある。 作中でバーのマスターが語る言葉、「でも過ぎてしまえばみんな夢みたいだ」に、全てが凝縮されている。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
もう35年近く前に「ノルウェーの森」に幻滅していた頃、知人から「村上春樹の作品には日常の何でもないことが、とても大切に思えるように描かれている」と初期の三部作を読むように勧められた。 30年ぶりに読み返してみた。著者が何を伝えたいのかを精査しながら熟読したが、解りそうでわからない作品だ。ただ、30年前に読んだときは、とんでもない意味不明の駄作と感じたが、今回も知人の言った「日常の些細な大切なこと」は特に感じなかった。村上春樹の描写の丁寧さは十分に伝わってきたものの、残念ながら、自分にはそこが限界だった。改めて自分は村上文学には不導体であると再認識した。 蛇足だが、1973年という時代は、村上春樹にとってはほろ苦い24歳だったろうが、幼かった自分にとっては懐かしい無邪気で楽しい時代だった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
1973年9月から11月にかけての、今ほどやかましくはなかっただろう街の空気、秋の澄んだ空気を感じることができる。 11月という月が個人的に一番好きだから余計にこの作品が好きなのかもしれない。 11月のほかほかと暖かい陽だまりのような「僕」のささやかながら穏やかな生活とは反対に、「鼠」の毎日は11月の木枯らしのごとくぴりぴりとして冷ややかである。それがほかでもない「鼠」自身の弱さから来るものであることが余計に切ない。 小さいけれど自分らしい仕事を見つけて、自分だけの小さいけれど確かな世界を築き上げつつある「僕」と、何かをやってやろうと思いながら、そしてそれ相応の能力もありながら、それを具体化する術がないばかりに結局何もできずに、自分の弱さの中に沈みこんでいく「鼠」の違いはどんどん大きくなっていき、「羊をめぐる冒険」の悲劇へとつながっていく。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ピンボール唯一好き。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
物事には入口と出口がある。 「明けない夜はない」ではないけれど、心が何かに囚われているならば、行動するしかない。 出口は勝手に近づいてくれない。 そんなことを教わりました。 この物語では、 街を出ること・ピンボールの"彼女"に会いに行くことが、鼠・僕のそれぞれの出口になっているのかなと。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!