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1973年のピンボール
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1973年のピンボールの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全25件 1~20 1/2ページ
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講談社文庫で二作目となる本作ですが、「風の歌を聴け」の続編という位置づけ。 但し、前作が「鼠」「僕」の青春小説という建付けでありましたが、今回はより「幻想的」な作りでありました。詳細は是非読んでいただければと。 ・・・ 前作で、バーでできた友人、ボンボン大学生の「鼠」。 本作でも登場しますが、「僕」とはすれ違いません。ただただ、けだるい日常で、恵まれた環境で、素敵な努力家の女性と戯れ、そして自己嫌悪する、といった状況。もう死語かもしれませんが、「アンニュイ」なんてカタカナで表現しましたがああいう感じでしょうか(フランス語なだけ!)。 その彼が、女との連絡を取らず(すなわち別れて)、ジェイズ・バーにもさよならをして、新たな旅立ちを決意する、という流れに、間接的に「再生」「再起」「回復」のようなワードを感じました。 また、「僕」は「僕」で翻訳の会社を友人と起こし、そこそこ恵まれた給料で働く中、ピンボール(要はパチンコ)にハマり、廃盤となった台を探しに行くという話が後半から本格化します。 ピンボールを女性と見立てて、会話なんか始まりますが、思いを寄せる女性を探し、再会したら、何だか吹っ切れた。次に進もうかな、みたいな。これまた「新生」「再出発」みたいな展開を暗示するような終末でした。 ・・・ こうした展開のなか、女性と音楽は村上氏の中では欠かせません。 音楽でいうとクラシックから、ジャズから、そしてビートルズなどのポップからジャンル問わず出てきます。音楽好きにはたまらないことでしょう。 あとは女性ですかね。双子の女性が部屋に住みつき(猫かよ!)、同居するという。ただ、性的な描写はなく、真ん中に入り川の字になり寝るなんていう、第二次性徴前の男の子のようなお話が綴られていました。 その気がないのに交わってしまった、あるいは蠱惑的な状況なのに特段なにも感じなかった、みたいな設定は何だか村上氏らしいです。 ・・・ あと本作、再読していて気になったのは冒頭に「直子」の表現が見られたこと。「ノルウェイの森」から村上作品に入った私としては非常に思い入れの深い名前でありました。 この名前、その後本作では全く出てこなかったとは思いますが、真実はどうなのでしょうね。また続作読むことで確認したいと思います。 ・・・ ということで村上氏の作品の再読でした。 分かるというより、感じる乃至解釈するといった作品でした。 兎に角古い作品ですが、私くらいおっさんだとまだまだ人生で見た風景でした。風呂なしトイレ共同なんて、電話共同なんて、今の子は想像つくかしら? ただ、若者のけだるさ、お酒の魅惑、こうしたものは時代に関わらず、ですかね。 | ||||
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「卒論の指導教授がうまいことを言う。文章はいい、論旨も明確だ、だがテーマがない、と。」(9章、87ページ)特に言いたいことはない、書くことが特にある訳ではない、というのがテーマなのかもしれない。後年『職業としての小説家』(2015年、ちなみにポートレートは荒木経惟による)で、書くことがないからこそ何でも書けると述べていたと思うがそれに通じるだろう(小説家が素直な心情を吐露するのは疑わしいのだが)。「革命」という大きな物語への幻滅からか、声高な主張は抑えられ、違和感や虚無感や諦観といったものが綴られているように感じられる。出会いも別れも劇的な描かれ方が排除されている(ジェイは例外かもしれない)その点も多くの物語と異なっている。 タイトルは大江健三郎の代表作の一つ『万延元年のフットボール』(1967年)のもじりであり、そこからピンボール(あるいはゴルフボール)が出てきたのだろう。また、比喩に用いられる動物たちは『個人的な体験』(1964)からの影響かもしれない。ゲームセンターも『個人的な体験』の冒頭に出てくる。また、ピンボール上に映る「二重の鏡」(120ページ)は川端康成『雪国』冒頭の車窓のシーンを踏まえたものだろう。霊園はフィッツジェラルド『氷の宮殿』でも描かれていたように思う。『万延元年のフットボール』に登場する「スーパーマーケットの天皇」と『1973年のピンボール』のジェイとは関連があるだろうか?(柄谷行人は、大江健三郎との対談で『万延元年のフットボール』は「まさに万延以来の日本の近代のある種の総決算だったんじゃないか」と述べその影響にある作品について中上健次『枯木灘』とともに『1973年のピンボール』をあげている。『大江健三郎 柄谷行人 全対話』2018年、108ページ、1996年に行われた対談) 小説の構成としては、プロローグである「1969-1973」から1〜25までの各章で「僕」と「鼠」との物語が「断片が混じりあってしまった二種類のパズルを同時に組み立てている」ように語られる。「違和感」も、この小説のテーマのひとつに思える。短編集『女のいない男たち』の序文では、短編では一つのテーマについて様々な手法・人物・人称を用いて多角的に捉えることができると述べているが、この長編小説ではそのような短編的手法によって各章が綴られているようにも読める。さらに言えば、村上春樹自身はポストモダン文学のトマス・ピンチョンの作品では『V.』(1963年、邦訳は1989年)が最も好みだと述べていたと思うが、この『1973年のピンボール』は『V.』と似たような構成をしている。 「僕」の物語と鼠の物語とで明確に別れている。 「僕」の物語はプロローグ、1、3、5、7、9、11、12、15、17、18、20、21、22、25の15章で15/26=58%。 鼠の物語は、2、4、6、8、10、14、16、19、23、24の10章で10/26=38%。 真ん中の第13章は「僕」と鼠の挿話(4%)。 四つの読み方があるだろう。プロローグから始めて第25章まで読む一般的な読み方、「僕」の物語を読んでから鼠の物語を読み方法、逆に鼠の物語から読み「僕」の物語を読む方法、第25章からプロローグへと読み進む方法。 各章に表題をつけるなら、例えば次のようだろう。プロローグ ガイドマップ、1 翻訳事務所、2 ジェイズ・バー、3 配電盤、4 灯台と女の家、5 アパートの電話、6 女との出会い、7 原書と「ラバー・ソウル」、8 霊園、9 ゴルフ場、10 ジェイの猫、11 葬式、12 事務の女の子、13 ピンボール、14 引退、15 「スペースシップ」その1、16 彼女の部屋、17 「スペースシップ」その2、18 素晴らしい一週間、19 ジェイとの別れ、20 スペースシップの行方、21 養鶏場の冷凍倉庫 その1、22 養鶏場の冷凍倉庫 その2、23 女との別れ、24 ジェイとの別れ その2 街との別れ、25 耳掃除。1と2、5と6、8と9(ガラス瓶で切った指先と潰れた猫の手も関連があると思える)、12と14では関連が強い。鼠の物語では、ジェイとの別れがクライマックスだろう、「僕」の物語では葬式と冷凍倉庫がクライマックスとなる。霊園、葬式、冷凍倉庫はゆるやかにつながっていると見做せる。 一般的な物語との違いをプロローグから見てみよう。その冒頭では故郷喪失について示されていると思える(なので、この小説では両親についての直接的なやりとりは叙述されない、この両親・肉親の排除も小説に軽やかさをもたらしている)。生まれた土地や井戸は土着的な響きを持つが、どうだろうか。それらから遠く離れている、ということを提示しているのかもしれない。「僕」のもとに来る懸命に伝えたがっていることは、猿の群れが散らばるように去っていき(追い払い)その行方は知れない。次に学生運動とその幻滅が提示される。また、双子の女の子はもしかしたら個人主義への疑問かもしれない。固有名詞の否定も日本近代文学への批判からきているかもしれない。「入口と出口」、小説にもそれが必要だろうが、それさえあれば良く、何か(物語)が語られあるいは語られなくても良い、と言っているようだ。(唯一固有名詞が与えられている)直子の父親は澁澤龍彦を思わせる(澁澤龍彦も左翼的政治運動に挫折したようだ)。プロローグ末尾の「ピンボール」は、小説あるいは物語と置き換えられるかもしれない。「ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。」これは冒頭で語り手ではなく聞き手として登場する「僕」に対応し、(ある種の)物語を否定しているように思える。 (追記) 『1973年のピンボール』は前作同様に芥川龍之介賞の最終候補に残った。『芥川賞全集 第十二巻』(文藝春秋、1983年)には当時の選評が記録されている。「第八十三回芥川賞選評(昭和五十五年上半期)」該当作品なし。10人の銓衡委員のうち比較的好意的なのは丸谷才一、大江健三郎、吉行淳之介の三名であり、吉行「(略)この時代を生きる二十四歳の青年の感性と知性がよく描かれていた。(略)この双子の存在感をわざと希薄にして描かれているところなど、長い枚数を退屈せずに読んだ。」丸谷「(略)古風な誠実主義をからかいながら自分の青春の実感である喪失感や虚無感を示そうとしたものでしょう。(略)大事な仕掛けであるピンボールがどうもうまくきいていない。双子の娘たちのあつかい方にしても、もう一工夫してもらいたいと思いました。(原文は旧仮名遣い)」大江「やはり詩的な領域になかば属する感覚、清新な文章によって、新世代のスタイルをあらわしているが、散文家としての力の耐久性には不安がある。(略)そこにはまた前作につなげて、カート・ヴォネガットの直接の、またスコット・フィッツジェラルドの間接の、影響・模倣が見られる。しかし他から受けたものをこれだけ自分の道具として使いこなせるということは、それはもう明らかな才能というほかにないであろう。」 双子について吉行と丸谷とで逆の評価をしている点が興味深い。大江の指摘する「詩的な領域」「清新な文章」「新世代のスタイル」などはかなりの賛辞のように思う、またヴォネガットとフィッツジェラルドとの影響・模倣とは流石の慧眼だと言える。 これらの選評をみると、村上春樹は『1973年のピンボール』においてその物語の起伏と同様にピンボールや双子をわざと突出させないようにアンチクライマクス様に扱ったと思える。また、「僕」の物語の軽妙な筆致にヴォネガットのスタイルを、視覚的かつ抒情的な風景描写を用いた鼠の物語にフィッツジェラルドのスタイルを落とし込んで、異なった文体で一つの作品を提示するという文学的企図を感じる意欲作だと思える。 | ||||
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問題なく受けとりました。 読み始めていますが、 ちょっとヨゴレや、使用感が目立つ、 「非常に良い」ではなく、「良い」レベル感かなと。 | ||||
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ピンボール唯一好き。 | ||||
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この本を購入したのは7年前です。 村上春樹の小説で、ベストセラーとよばれた作品を幾つか読んだ後、 初期作品から全て読んでみたいという衝動にかられ、読みました。 霧の中を漂うような意識の混濁と、 決して荒げない情念の萌芽がいたるところにみられると思いました。 後期作品を読んでしまうと、完成度の高さに、 初期作品をもう一度書き直して欲しいとさえ思ってしまうのですが、 はっきりと表現されなかったことを想像する時に、 村上春樹により近づけた気がします。 それが村上春樹のイデアなのでしょうか。 | ||||
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私は1963年生まれなので、よくピンボールで遊んだのも覚えているし、懐かしさを感じた。それに「私」の仕事と同業種なので、ますます面白く読むことが出来たわけだ。だが、この小説、あの時代の終わりを描いてるんだろうけど、より後生の読者にもアピールする普遍性には欠けているのではないか。私が記憶してるピンボール自体、既に古めかしい子供の遊びで、どうと言うことない地方都市の駄菓子屋の店頭にボロボロの機械が置いてあるイメージ。自分の好きだったピンボールの機種を追い求め、趣味人が集めていた多くの機種が田舎の倉庫に並べられてるイメージにははっとさせられた。本作に出て来るその他のアイテムで、ジュークボックスなんてのも今は見ないかな? だけどあの時代を経験せずに読んで、本作を味わうのは難しいと思うのである。時代や場所を超えて通用する普遍性がこの作品には乏しい。前作「風の歌を聴け」では、無為に過ごされる学生生活が多くの人の共感を呼ぶように思ったのだけど、本作の2人に共感するのは難しい。 恐らく多くの人が読んでみたけど、何が言いたいのかわからない、といった感想を抱いてしまうだろうが、そういう書き方をしてるから仕方ない。ファッションで読み彼の独特の感性を楽しむようなつもりでない限り、少なくとも若い人に勧められる作ではないと思う。 | ||||
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主題や大きな流れが掴めないままに読み終えてしまった… そんな私でも鼠が街を出るにあたって逡巡したり葛藤したりする姿には共感した。勝手ながら、就活が上手くいかないと悟った瞬間の気持ちを、25歳になって何も生み出せなかった鼠の気持ちに重ねてた笑 | ||||
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『風の歌を聴け』の続編 と言う感じである。 1973年と言う 時間のずれでの気分を うまくとらえる。 僕は言う 『同じ一日の同じ繰り返しだった。 どこか折り返しでもつけておかなければ間違えてしまいそうなほどの一日だ。 ・・・ 久しぶりに一人になってみると、 自分自身をどう扱えばいいのかが上手くつかめなかった。 不思議なことだ。何年も何年も僕は一人で生きてきた。 結局 うまくやってきたじゃないか、それが思い出せなかった。 二十四年間、すぐに忘れてしまえるほど短い年月じゃない。 まるで探し物の最中に、 何を探しているのかを忘れてしまったような気分だった』 僕は言う 『僕は不思議な星の下に生まれたんだ。 つまりね、ほしいと思ったものは何でも必ず手に入れてきた。 でも、何かを手に入れるたびに別の何かを踏みつけてきた。 わかるかい? そしてこう思った。 もう何もほしがるまいってね』 僕は 直子が死ぬことで ビンボールに夢中になる。 僕は言う 『僕が本当にビンボールの呪術の世界に入り込んだのは 1970年の冬のことだった。 その半年ばかりを僕は暗い穴の中で過ごしたような気がする。』 『あなたのせいじゃない、と彼女は言った。 そして何度も首を振った。あなたは悪くなんかないのよ。 精一杯やったじゃない。 違う、と僕は言う。・・・違うんだ。 僕は何一つ出来なかった。 指一本も動かせなかった。 でもやろうと思えば出来たんだ。 人に出来ることは限られたことなのよ。 と彼女は言う。 終わったのよ、なにもかも、と彼女は言う。』 物語の言いたいことは 以上のことだ。 ネズミは 暗澹たる気分となり、結局は眠ってしまう。 僕は 双子と一緒に暮らすが、その生活も終わりを遂げる。 一体、この双子は 何を意味するのだろう。 そういう暗示が好きなんだね。ムラカミハルキは。 | ||||
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前作から引き続き読みました。 おもしろかったですが、前作以上に理解不能な描写や出来事が多くあり、難解でした。 繰り返し読みたいと思います。 | ||||
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読み終わって、結局何が言いたかったのかわからない。けど頭にボーッと残るものがある。これは何なのか。 全てが夢の中の出来事のようだ。現代の話なのに現実味が全然なく、全編通して幻想的だ。 この雰囲気だけで読ませるところが世間に受けたのか。 | ||||
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私の過去と現在、鼠の過去と現在が交錯しながら物語は展開されていく。 長さも違うので一概に言えないが「海辺のカフカ 」より複雑で難しい印象を受けた。 ただ、文章は読みやすく、スムーズに物語が入ってくる。 | ||||
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1枚だけ製本から1mmほどずれていて、そこだけ飛び出していました。あとは問題なしです。 | ||||
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村上春樹の独特の文体は英語になっても変わらない。 倉庫のシーンはなんとも説明のしようがないが奇妙な味わいが残り村上春樹の独特さが感じられる。 | ||||
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専業作家になる直前の作品。 商売人としての著者の惨めな現実が、 どこか地に足のつかない架空世界を構築したのだろうか。 臭いセリフときざな描写は、気になりだしたらきりがないが、 そこは隠喩めいたストーリーの面白さに免じて、 まず受け入れるしかないのではないだろうか。 ほとんどの人間が、凡人として終わる現実の無意味性が 軽すぎる会話と浅い秘密の積み重ねで、 うまく表現されているような気がする。 文章が独自の進化と変貌を遂げて、 1Q84へ確かにつながったことを感じさせられた。 | ||||
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国内最大級のベストセラー「ノルウェイの森」を読み、不快感を味わい、なぜ、この作家がこれほどまでに人気なのか、研究してみようと、3部作の2作目「1973年のピンボール」を読んでみた。 中途半端だが・・・。 感想としては、「普通」 別にどうという事もないストーリーが170ページ位続く。 読み終わった後、「う〜ん、何が言いたかったのだろう?」と思った。 だけど、ひとつだけ良いところは、「ノルウェイの森」みたいな不快感はなかった所かな。 | ||||
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本作の著者の趣旨というか、文脈とは関係ないのだろうけど、ピンボールの蘊蓄や消えた機種を追い求める部分だけ、ミステリアスで冒険心がくすぐられて面白いとは思ったのだけど、あとは、どんな話だったか、読んだ後すぐ忘れてしまった。全体の雰囲気は悪くはないだろう。また何年か後に読むかもしれない。 | ||||
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鼠のことがたくさんか書かれてあった 鼠はこの作品でかなり悩んでますねー 個人的に鼠を応援したくなった。 続編が気になる。 | ||||
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少ない文章量に比して"謎の女"の数が多過ぎる気がした。 相変わらず全体的な筋書きは訳が分からなかったが、部分的には面白く感じられた。 主人公の家に居着いた双子は可愛かったし、ビンボールへの狂的な情熱という要素は斬新であった。 手っ取り早く読めるのもプラスである。胸を震わせるような大きな感動は求めようがないけれども。 | ||||
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●1回目 主人公と鼠のそれぞれの話を交互に描いています。 入り口があれば出口がある。同様に出会いがあれば別れがある。 「無から生じたものがもとの場所に戻った、ただそれだけのことさ」 ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- ●2回目 「ずいぶん考えたんだ。何処に行ったって結局は同じじゃないかともね。でも、やはり俺は行くよ。同じでもいい」 | ||||
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「風の歌を聴け」に続く青春3部作の2作目。 村上春樹の小説は、最近の著作を読んで再び初期に戻ると、いつも新たな発見がある。 今回の「1973年のピンボール」には「直子」と「双子」が登場する。 直子は「ノルウェーの森」、そして「双子」は「ねじまき鳥クロニクル」に登場する。 そして今回の物語で、鼠と僕は同じ時代を生きながら、最後まで会わず、言葉も交わさない。 それぞれが、それぞれの人生を淡々と歩んでいく。 そう、まさしく淡々と。 この「僕」と「鼠」が交わらないまま並行的に進行していくストーリー形態は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に同じ。 僕は双子との奇妙で落ち着いた生活を淡々とこなし、配電盤の葬式に出かける。 鼠は女との生活を終わらせ、街を出る。 そして双子も最後には元の場所に帰る。 私が大好きな、ビートルズの「ラバーソウル」を残して。 初めて読んだときに感じる、癖のあるやや軽薄な雰囲気が漂う文章は、2度目、3度目と繰り返し読むたびに薄れて行き、そして新たな春樹ワールドへと読者を連れて行く。 | ||||
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