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1973年のピンボール
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1973年のピンボールの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全89件 1~20 1/5ページ
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私は村上春樹作品ではこれくらい前の時期の作品が好きですね。 ネズミシリーズは別々で呼んでも時系列に読まなくても違和感ないですし。 ほとんどの村上作品を読んでいますが、エッセイでも小説でも、 村上作品の読後の独特の余韻が好きですし、 なんとなく品がある雰囲気を全体に感じるので、 やはりモヤモヤしているときに読むのは最適かなと思います。 村上作品の主人公の男性たちって、友人、親友だといいなと思いますが、 恋愛対象としては避けたいような印象(笑) | ||||
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小説というより文学ですね。 | ||||
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非常に読みやすいので、スーッと読むだけでも楽しめますが、一つ一つの物や出来事に込められた意味を考えながら読み込むと、ラストには強く心を打たれます。本を読む楽しさを教えてくれる作者の初期の傑作だと思います。主人公と鼠の関係性やそれぞれの物語が別々に紡がれる意味を理解するために、前作「風の歌を聴け」を読んでおくことをお勧めします。 | ||||
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二度と戻って来ない、あのほろ苦い青春時代。そこには大切な人との出会いがあったが、失ってしまったものは、自分の記憶の中でしか存在せず、永遠に消え去ってしまう。そうした喪失感と自分を表現できない不器用さを見事に描いた小説だ。「風の歌を聴け」より評価が低いようだが、終盤はこの小説の方に心が揺さぶられる。学生時代に去って行った女学生の残していったグラスに、スヌーピーとウッドストックが楽しそうに遊んでいる漫画が描かれ、その上の「幸せとは暖かい仲間」と書かれた文字、の表現は絶品だ。鼠の彼女との別れ、主人公とピーンボールの再開と別れ、また双子の兄弟との別れ、読み終えた後に余韻を残す何とも言えないもの悲しさ等、読者の心を動かす傑作小説であることには違いない。ただ、鼠の行動には理解しがたいものがある。自己不全感や虚無感等は、あたかも境界性パーソナリティ障害か、うつ病を感じさせるもので、了解は難しかったのが実感だ。 | ||||
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比喩描写に迫力がありながら、読みやすい作品。 表現するものの中身は難解だが、心に響く作品 | ||||
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ピンボールが出てくる後半から一気に懐かしくなってきた。 読んだ当時はまだインターネットで検索!なんて全然ない時代だったから、いまは思う存分、ピンボールがいかなるものかを改めてググって確認。そうそう。これこれ。 なんとなくなんだけど、村上春樹の書くものは下半身(性的なもの)と頭が別れている感じがする。これがかっこつけているのか本当にそうなのか。 日本の話なのに全然そう感じないのもなんでかなあと不思議に思う。 気になるのは「鼠」と「僕」が小説の中で別々に描かれていること。ジェイズ・バーは存在している。うーむ。これどういう意味だっけ。また次ぎ読んで思い出さなくちゃ。 | ||||
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わからない‼️何がいいのかな?わからない‼️わからない‼️ピンボールのように!⤴️ | ||||
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処女作『風の歌を聴け』から更に観念的になり、散文詩に近づいたような作品である。前作同様、人生の無常や青春の儚さが感じられる。違いと言えば、過去や未来の持つ曖昧さや、それらとの訣別に焦点が当てられている点だ。ただ、この曖昧さは、真実ではない。過去や未来に含まれる事象は曖昧なものなどではなく、全てが厳然たる事実として存在する。単に人間がはっきりとそう認識できないがために、曖昧に感じられるだけのことだ。そして、その「できない」というところに、人間らしさがある。 作中でバーのマスターが語る言葉、「でも過ぎてしまえばみんな夢みたいだ」に、全てが凝縮されている。 | ||||
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1973年9月から11月にかけての、今ほどやかましくはなかっただろう街の空気、秋の澄んだ空気を感じることができる。 11月という月が個人的に一番好きだから余計にこの作品が好きなのかもしれない。 11月のほかほかと暖かい陽だまりのような「僕」のささやかながら穏やかな生活とは反対に、「鼠」の毎日は11月の木枯らしのごとくぴりぴりとして冷ややかである。それがほかでもない「鼠」自身の弱さから来るものであることが余計に切ない。 小さいけれど自分らしい仕事を見つけて、自分だけの小さいけれど確かな世界を築き上げつつある「僕」と、何かをやってやろうと思いながら、そしてそれ相応の能力もありながら、それを具体化する術がないばかりに結局何もできずに、自分の弱さの中に沈みこんでいく「鼠」の違いはどんどん大きくなっていき、「羊をめぐる冒険」の悲劇へとつながっていく。 | ||||
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物事には入口と出口がある。 「明けない夜はない」ではないけれど、心が何かに囚われているならば、行動するしかない。 出口は勝手に近づいてくれない。 そんなことを教わりました。 この物語では、 街を出ること・ピンボールの"彼女"に会いに行くことが、鼠・僕のそれぞれの出口になっているのかなと。 | ||||
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10代の頃リアルタイムで読み、何回か読み返しているので、今、本作について書くのはレビューなどではなく、ただの思いになってしまうけれど。 改めて、2つの物語の重なり合い、探し物系サスペンス風展開、裏/表・陰/陽などのスタイルはここから始まったんだなあと思う。 「僕」の全て諦めてしまったかのような(、そして爺臭い)明るさと、鼠の何かに縋りつくような(、そして夢見るような)暗さ。 どちらがどちらというわけでもなく、どちらもどちらということでもなく。 抜け出そうとして抜け出せない/抜け出したくない、そんなあの頃の感覚をふたつに分けてからひとつに混ぜようと思ったら、こういう形で表すしかなかったのかな。 養鶏場のシーンは何度読んでもドキドキする。 リアルタイムで本を読むということはあまりしないので、時代と自分ということを考えてしまう数少ない作品。 | ||||
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鼠3部作の中間、橋渡し的存在の本作。 『風の歌を聴け』のような斬新さはないし、『羊をめぐる冒険』のようなわかりやすい面白さもない。 その上村上作品の中でも特に抽象的だし、降り続く雨のような鬱々さが漂っている。直子の挿話という『ノルウェイの森』の布石や、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の並行した二つの物語という手法の実験的習作として楽しむという見方はできる。 でも物語としては影も薄いし、あまり内容も頭には残っていない。 ただ、見知らぬ土地の話から始まり、ピンボールの解説で終わるプロローグだけは大好きで、ここだけ、何度でも読み返している。 あ、でも「双子」は村上作品の中でも屈指の人気ヒロインだよね。 | ||||
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村上春樹さんの作品はこの本で4作目です。 あまり小説を読んでいる方では無いのですが、独特の世界観は村上春樹の作品にしか出せないように感じる。 僕と鼠の視点で交互に物語は進んでいくのだが、双子、女の子など名前を持たない登場人物がほとんどで、自由に人物を想像出来る。 物語自体が非常に面白いかと言うとそうでは無いのだが、文章や一つ一つの会話が面白いので読み進めるのは楽しかった。 「あなたは20歳の頃何をしてたの?」 「女の子に夢中だったよ。」 「彼女とはどうなったの?」 「別れたね。」 「幸せだった?」 「遠くから見れば。」 こんな感じのアメリカンジョークのような会話がいくつも散りばめられており、それだけで楽しくなってくる。 何度か読み返せば物語自体ももっと深く楽しめるのかもしれないが、1回読んだだけの自分には物語の意味はあまり分からず、単純に文章を楽しみながら読み終えました。 誰もにオススメかというとそうでは無いのかもしれないが、個人的にはまた読み返したい小説でした。 | ||||
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友達の紹介で初めて村上春樹の本をよむことになりますが,最初はぴんと来なかったけど,だんだん読むうちにとても気に入りました.特に,第7章,主人公が熱で出社した日の描写に自分の一人生活が重なってきました.一人暮らしの方にお勧めします. | ||||
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鼠と僕のパートが交互に進んでいく構成。僕のパートはまずまずだが鼠パートが秀逸。アドレサンス特有の将来への不安、喪失感、虚無感。私自身も大学不登校を経験した事があるので酷く共感を覚えた。悩みが尽きない若者世代は一度読んでみて欲しい。自分自身を客観視する事が出来るかもしれない。 | ||||
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初期3部作は本当にすばらしいと思う。 批評家たちは、デタッチメントを強調するけど、そしてそれはかつてのバブル期の消費される時代へのアンチテーゼなのだろうけど、そんな小難しいことを抜きにしても、単純に物語として面白い。 何も入っていないような気がして、しかし見えないように大切なものが詰まっている、そんな感じがする。 しかし、村上春樹文学の普遍性(脱・土着性)はどのように生み出されるのだろうか、いつも不思議だ。 | ||||
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「ダンス・ダンス・ダンス」までを含めたの4部作の中で次作への橋渡し的な存在であるが、独立して好きな作品だ。平易な文章なので読みやすさはあるけれども、表現や比喩が独特なので人によってはもどかしく、何を言いたいのか分からずにあっさりと読み通してそのまま終わってしまうかもしれない。そういう意味ではわりとリスクの高い文体の作家なのだと今更ながら気づく。読み方にはコツも何もない思うが、個人的には受け身で読むというより、この小説の「僕」のように、何か大きな喪失感に襲われたときの、自分の無意識の精神(頭脳)による作用や対応、あるいはどういった精神の対処で月日をやり過ごし、乗り越えたかなど、過去の自分の経験を映像化して重ねて読むと面白いのではないかと思う。喪失感と格闘しているときの自分の精神構造を目の当たりにしているように思えた。そして「僕」が過去の象徴であるピンボール「スペースシップ」と対面するまでの過程で出てくる「配電盤」や「双子の姉妹」が何のことなのか分かるようでシンパシーを感じた。確かに頭も良く、いつも冷静でスカした「僕」だが、決して特別な人間ではなく、大きな喪失感に襲われれば大して自分たちと変わらず、精神や頭脳の働きはかなり近いのだという発見が嬉しかった。そういった意味では親しみやすく、全体的に重々しさもないが、短い小説のわりにはとても現実的で切実なことが表現されていて、たまに無性に再読したくなる小説である。 | ||||
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3フリッパーのスターシップでベストスコアを叩き出すシーンは、ザ・フーのロジャー・ダルトリー演じるトミー少年がピンボールの魔術師としてピンボールに打ち込むシーン(エルトンジョンカバー「ピンボールの魔術師」のMVの中)、目がイってしまっているシーンを彷彿とさせます。 スターシップとの邂逅シーンも圧巻です。 ただし、村上春樹初心者は別のモノから読み始めるべきですし、3部作の2作目に当たるので、まずは1作目の風の歌を読んだ方が良いでしょう。 | ||||
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美しく完成品は、サービスが良い、非常に良い買い手、あなたのような買い手は私の喜び、再び私たちの店に来ることを願っています!ありがとうございました! あまりにも良い品質と思われる。 私は仕事と外見の両方が大好きです。 うれしい私はこれで私の前に置き換え 強くお勧めします。 ショッピングのしやすさ | ||||
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本当に久しぶりに、村上春樹の第2作目の作品である「1973年のピンボール」を読んだ。これで2回目のはずなのだけれども、やはり時代を感じるとともに、こんな小説だったのか、と改めて感じさせられることも多かった。 やはりピンボールの魅力に取りつかれた人が蒐集した多くのピンボールが、倉庫の中で整然と並べられている光景を描いている部分が、何とも言えない。 懐かしいのは、他の作品でも登場する双子の女の子、あの「ノルウェイの森」でも悲劇的な役割を負う女性である、同一人物ではなさそうだが、直子、それから第1作でも登場したジェイ、鼠、だろうか。そして人ではないけれども「井戸」は、「ノルウェイ…」、「ねじまき鳥クロニクル」等でも取り上げられ、論文まで書かれているほどだ。 それから主人公である‟僕”が、カントの「純粋理性批判」を読む場面が幾度も出てくる。哲学史の中でも後世に与えた影響の最も大きな本のひとつであることは間違いないのだが、非常に難しいのでも有名だ。主人公によく読ませたな、と感心する。 この作品は、前作「風の歌を聴け」と同様に、村上氏はまず英語で書き、その後、日本語に翻訳したとしている。英語の堪能な村上氏ならではの、小説の書き方だろう。この2作の後、英語で書いてから日本語に訳すと言う手法は取っていないようだ。 ところで日本では本が文庫化される時には、巻末に‟解説”なるものがつけられるのが通常だった。ところが、その中にはもちろん役立つ解説も少なからずあったのだが、村上氏の文庫本には「風の…」にも、この「1973年の…」にも、おそらく以降のすべての文庫本に“解説”がついていない。恐らく村上氏の考えが、この解説のない文庫本の背景になっているのだろう。 | ||||
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