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1973年のピンボール
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1973年のピンボールの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全135件 121~135 7/7ページ
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ピンボールの19章を読んだ人は、この小説の地平線上に「アフターダーク」があることに気づきます。世紀をまたいでツナガッテイルのです。 | ||||
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秋の小説です。 軽快な文体で暗いわけではないのですけれど、小説を通じて喪失感や倦怠感が重低音のように貫きます。 おもに「僕」と「鼠」の話が交差しながら進んでいくのですが、ふたりとも凍って冷たくなった原子のように凝り固まって圧迫されていきます。 現状にたしかな感覚を得られないままどんどんすべてが冬に向かっていき、ふたりとも行方を見失っていきます。「僕」は最後に大団円はずっと先のことだと語っています。たしかにそれは1983年まで待たなくてはいけないことをぼくら読者は知っています。 軽やかなスタート・ダッシュを決めたのが「風の歌を聴け」だとすればこの小説はその後の村上ワールドのターニング・ポイント的存在だといえるでしょう。物語が紡ぎだされるまでの変遷期とでもいうような。 たしかに文体も最初と最後では少し変わっていますし、村上ワールドのキーワード的きらめきが随所に蠢いています。それは最新作「アフターダーク」までつづくような。 それでは具体的にどこから変わったのか? ぼくはピンボールの挿話のあたりからだと思います。むかし「僕」が熱狂的にやっていた恋人みたいなピンボール台が象の墓場みたいなところで凍っている話。 そういえば、いまゲーム・センターでピンボールをやる人はあまりいないなあ。 派手な仕掛けはありません。しかし人によれば、そっと心に添う小説だと思います。実際通勤途中でこの本をふたたび読んで会社をサボりたくなることがしばしば。会社なんて行ってられないね、というような。そういう意味では通勤・通学中はお勧めしません。 | ||||
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村上さんの本書を読んだ学生時代から20年たち、ハードカバーが再版されたので懐かしくなって読み返してみた。初期三部作の二作目だった。「風の歌...」の「僕」と「鼠」の二人の主人公の青春の倦怠の日々が村上さんオリジナルのウィットの聞いた形容詞で淡い色彩画のように綴られる。「鼠」はより深い闇に沈んでいき、「僕」は昔の彼女を憧憬を追い求めるように、懐かしいピンボール探しの果てに、倉庫に放置された数々のピンボール機に再会し、倦怠の日々から現実のまっとうな日々に戻る。同居していた双子の女の子も去っていく。今の言葉で言えば癒されたのかもしれないが、レビュアーはピンボールと再会は他力が導いて「救って」くれたように、感じた。カバーの佐々木マキさんのイラスト画も悪くない。(名前から、ずっと女性と思ってました) | ||||
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デビュー作 風の歌をきけ と 大作 羊をめぐる冒険の合間の作品でわりと地味とという評価が多いが 美しさと言う点では傑出した作品である。冒頭の井戸掘りの話からはじまり 最後は11月の雨で終わる本作は いたるところに水のイメージに満ち溢れている。そんな愛らしい小品ではある一方 前期村上春樹の一大命題である「直子」という女性が早くも登場し その悲劇性は既にノルウェイの森を予感させるものがある。個人的にはとても好きです。 | ||||
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村上春樹の第二作にして、風につながる三部作の一角を成す作品。 この本はいささか古びている。 断章形式の、本質的に関係を持たない二つの物語。 訳もなく“僕”の部屋に押しかけ、そして去っていく双子。 バーから離れていく鼠という人物。 およそ凡て清新とは言い難い。だがこれこそが逆説的に、村上春樹の大きさを物語っている。 筒井康隆のそれと同じく、後身にいかに模倣されてきたかの証でもある。 とは言え、“猫の母”と名付けられ池に葬られる配電盤や、 養鶏場に並べられたピンボールマシンなど、不気味なまでの胎動のイメージは、今なお新鮮ではないだろうか。 | ||||
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三部作の真ん中ということで注目度はさほど高くはないが、個人的にはゆっくりと楽しめて読めた。始めに「パン屋再襲撃」を読んでしまったために、その後の話のつながりも感じられ、読むほどに想像力をかき立てられたのも一興か。これから羊をめぐる冒険を読むのだが、話の展開が気になる。鼠と僕の距離が縮まるのか?それともさらに離れていくのか?ベッドに入ってゆっくりと話の経過を読みふけってみよう。 | ||||
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処女作、風の歌を聴けもそうだったけど村上先生の小説は独特の味わいがあり、読んでいると引き込まれてしまいます。特に後半がすばらしかったです。この小説は何度でも読み返したいなぁ。 | ||||
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せいぜい、200ページ程度の文庫本。なぜか毎回読み直すと時間がかかる。各シーンで共感を覚え、自分の過去と出会うからか!?30歳を過ぎ、今回読み直して気づいたが、きどった言い回しの中にどれほどの真実が混ざっていることか!きどった態度が照れくさい時代に、この小説を読むのもいい。「僕は不思議な星の下に生まれたんだ。つまりね、欲しいと思ったものは何でも必ず手に入れてきた。でも、何かを手に入れるたびに別の何かを踏みつけてきた。わかるかい?」 | ||||
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冷夏(2003年)の合間の晴れ日、プールに持っていく本として久しぶりに本棚から手に取りました。かなりあざといチョイスだと思ったのですが、やはりという感じで一気に読んでしまいました。ピンボールというエンタテイメント、ビールという快楽、恋愛という心の揺れ、ほんらいは多分に「夏」的なそうしたものに、微妙な日陰を作ってしまう、その文章、世界観はやっぱり良いですよ。 | ||||
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本作品では「風の歌を聴け」で登場する二人の人物のその後が描かれている。相変わらず思いもかけぬ唐突な現実に巻き込まれていく「僕」。そう、いつもの村上作品と同じく唐突である。不可解な出会いとさらりとした別れ。でも登場するモチーフは、それなりに必然性を感じさせてしまう。一方、変わることがない日常、繰り返される会話の中にいた「鼠」。しかし日常に決別して「鼠」はついに旅立っていく。何処へ? それは三部作の結びである「羊をめぐる冒険」に引き継がれる。 | ||||
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村上作品に何を感じるかは人それぞれだと思う。僕にとってはこの作品は彼の作品の中で一番リアリティを感じてしまう。1970年代僕もピンボールに夢中だった。淡々と異性と付き合い、ビールを毎日飲み、思想もなく、当然にそこに政治もなかった。彼の作品の「こちら」と「あちら」が渾然一体となった生活があったのは事実だと思う。それがこの作品以降明確に分離する。僕にとっては村上作品の出発点はこの作品からだと思う。彼の原点を知る上でも外すことの出来ない作品であるのは間違いないと思う。是非とも読んでみて欲しい。 | ||||
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翻訳事務所を経営し、それなりに安定した生活を送っている僕。アパートにはなぜか双子の女の子が居候していて、故郷の町では親友の鼠が悩みながらも生きている。その昔に何度も遊んだピンボール・マシンにどうしても会いたくなった僕は探索を始めるが…。村上氏本人が指摘しているように、その後の作品群の方向性が、この小説に暗示されています。ねじまき鳥クロニクルで中心テーゼとなる「井戸」のメタファーや、色濃い死の香りと言った、村上ワールドの根幹をなす要素が随所に散りばめられています。処女作の「風の歌を聴け」と「羊をめぐる冒険」のはざまで、やや影が薄い作品ですが、繰り返し読むに耐える素晴らしい小説です。何時読んでも不思議な発見があり、深層意識の旅に連れて行ってもらえます。 | ||||
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著者の作品が好きで多くの作品を読んだが、私はこの作品が一番好きだ。著者の作品にはなんとも言えないせつなさがあるように感じていたが、この作品からは特に感じたような気がする。イメージは夕方の公園。たまにそのシチュエーションに自分がおかれると、この本を思いだし、なんともせつない気分になるのだ。 | ||||
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ちょうどこの時代、ヤング!向けの情報誌が反乱して、多くの物書きの文章が、わけのわからないディーテールに埋め尽くされた。この小説には、軽薄なディーテールは出てこないが、その影響を受けているように思う。だから、作者のやる気がからまわりして、「鼠」をめぐる話の1つの章ぐらいの重さしかない。プロローグと中身、エピローグの整合性もよくわからない。カット割りの悪い映画という感じがしてしまう。ただ、双子に挟まれてベッドで寝てみたい!とは思うなぁ・・ | ||||
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村上春樹は何を失ったのだろう。何かとても深い喪失感を彼の文章は抱いているように思えてならない。そして、どこか郷愁を誘うようであり、乾いた感じであり、それは、ウィスキーのようではないだろうか。とりわけ、この作品を読むと僕はそう思う。僕らは彼の小説に、酔う。それは、恐らく心地よい酔いであることだろう。確か、どこかで、村上龍が彼について“彼が本当にやりたかったのは小説じゃない気がする”といったようなことを語っていた。そうかもしれない。でも、きっと彼には書く必要があったんだろう。そして、そこにこそ、エクリチュ-ルの真の姿が見出し得るのではないだろうか。そして、その違和感のようなものにこそ、彼の作品の魅力があるのではないだろうかと思う。 | ||||
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