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1973年のピンボール
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1973年のピンボールの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全135件 81~100 5/7ページ
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英語の勉強の強力なツールとしてDVDの字幕があります。英語を聴きながら英語の字幕を表示するのが一般的な使われ方でしょうが、英語を聞く耳を鍛えるほかに、英語をしゃべる力も身につけなければなりません。我々日本人はどうしてもとっさに日本語が頭に浮かぶので、自分のよく使う日本語表現の英訳の引き出しを多く持っておくと便利です。したがって、私は邦画DVDに英文字幕がついているときは、英文字幕を表示させます。 しかし、DVDプレーヤーやPCをいつも持ち歩くのは不便。そういうときに、自分が好きでほとんどそらんじているような日本文学の英訳本があると便利。このポケットに入る薄い英訳本はそのニーズに応えてくれます。丁寧に訳され原作のテイストを十分伝えていることは、随分前に上梓され、今もなお市販されている事実が十分証明しているでしょう。好きな村上春樹の名作を英語で読めて、こう訳すのか、という発見に満ちた優れた本です。 | ||||
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途中まで、”赤の他人の一般人の平凡な日常生活を描かれても面白くない”と書こうと思っていました。しかし、最後に不思議な世界が待っていました。読後感は何とも言えぬ不思議なものです。同じ話を自分が書いたら、とんでもなくつまらない文章になるでしょう。そんな話を不思議な作品に作り上げてしまう事を、まだ、理解できずにいます。なぜ?どうやったの?どこが不思議なの?手練手管で飾っているわけではないです。奇をてらっているわけではないです。不思議です… | ||||
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著者が二足の草鞋を履いていた時代に発表した、デビュー二作目の小説。 最初に読んだときはあまり記憶に残らなかったが、『風の歌を聴け』を読み返してみてわりと新鮮な印象を受けたので、こちらも手に取ってみた。 前作と比較すると現実の枠からはみ出した設定が多くなり、その分潜在意識の掘り下げは深くなっている。 そのため幅広い読者層に受け入れられる作風ではなく、ある程度は著者の嗜好やメンタリティにシンパシーを感じる人向きの内容と思う。 | ||||
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鼠のことがたくさんか書かれてあった 鼠はこの作品でかなり悩んでますねー 個人的に鼠を応援したくなった。 続編が気になる。 | ||||
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少ない文章量に比して"謎の女"の数が多過ぎる気がした。 相変わらず全体的な筋書きは訳が分からなかったが、部分的には面白く感じられた。 主人公の家に居着いた双子は可愛かったし、ビンボールへの狂的な情熱という要素は斬新であった。 手っ取り早く読めるのもプラスである。胸を震わせるような大きな感動は求めようがないけれども。 | ||||
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講談社の英語文庫です。村上春樹の小説の英訳です。村上春樹の小説は英訳になじむような気がします。英語はそんなに難しくないのですが、暗喩的な表現もあり、わかりにくいところも多々ありました。一部、心象風景の描写は、非常に共感できるものもありました。巻末の注釈がるのは、とても便利だと思います。村上春樹の雰囲気は良く味わえると思います。 | ||||
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●1回目 主人公と鼠のそれぞれの話を交互に描いています。 入り口があれば出口がある。同様に出会いがあれば別れがある。 「無から生じたものがもとの場所に戻った、ただそれだけのことさ」 ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- ●2回目 「ずいぶん考えたんだ。何処に行ったって結局は同じじゃないかともね。でも、やはり俺は行くよ。同じでもいい」 | ||||
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「風の歌を聴け」に続く青春3部作の2作目。 村上春樹の小説は、最近の著作を読んで再び初期に戻ると、いつも新たな発見がある。 今回の「1973年のピンボール」には「直子」と「双子」が登場する。 直子は「ノルウェーの森」、そして「双子」は「ねじまき鳥クロニクル」に登場する。 そして今回の物語で、鼠と僕は同じ時代を生きながら、最後まで会わず、言葉も交わさない。 それぞれが、それぞれの人生を淡々と歩んでいく。 そう、まさしく淡々と。 この「僕」と「鼠」が交わらないまま並行的に進行していくストーリー形態は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に同じ。 僕は双子との奇妙で落ち着いた生活を淡々とこなし、配電盤の葬式に出かける。 鼠は女との生活を終わらせ、街を出る。 そして双子も最後には元の場所に帰る。 私が大好きな、ビートルズの「ラバーソウル」を残して。 初めて読んだときに感じる、癖のあるやや軽薄な雰囲気が漂う文章は、2度目、3度目と繰り返し読むたびに薄れて行き、そして新たな春樹ワールドへと読者を連れて行く。 | ||||
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A few years before his translation of Murakami's third novel A Wild Sheep Chase would debut in America, Alfred Birnbaum was interested in bringing the literary world of Murakami Haruki to an English speaking audience. His first translation was Murakami's second novel Pinball, 1973. Birnbaum had hoped that the novel would be distributed internationally by Kodansha, but instead it and Birnbaum's 1987 translation of Murakami's debut novel Hear the Wind Sing were regulated to Kodansha English Language Library. This meant that instead of reaching a broader audience, the translated novel would solely be released in Japan with an appendix at the end that explained several obscure English terms. Unlike the translation of Hear the Wind Sing, Pinball, 1973 soon became out of print and with the growth of Murakami's popularity and his reluctance to have either Hear the Wind Sing or Pinball, 1973 released to a wider English speaking audience, the book has become quite a collector's item fetching between 350-500 dollars on Ebay and the like. However, is the novel really a good read? I would say that it is near vital in understanding the formation of Murakami's writing and the importance of his distant first-person narrator. Having won the Gunzo literary prize for new writers in 1979, Murakami penned Pinball, 1973 at a table within the confines of his bar called Peter Cat. Within this thin tome he returned to his characters "Boku," a masculine personal pronoun, and his friend the Rat. Whereas the first book was a bit disjointed and seemed more like a collection of vignettes than one cohesive story, Pinball, 1973 is a bit more cohesive and Boku actually has a goal: to find a long lost pinball machine called the Spaceship. Actually, the novel consists of two narratives: the first person account of Boku and the third-person account of the Rat. The two friends never meet each other within the book nor do they even mention each other, but there is a loneliness within the pages of the book that makes it evident how important the friendship they share is in between them. After graduating college, Boku and a friend start a small translation business and are successful enough to hire a pretty secretary, whom Boku will later marry, and live with comfort. However, there is emptiness inside Boku as he continues to translate useless articles concerning such things as ball bearings and the like. One morning this emptiness is slightly filled when twin girls appear on each side of Boku in his bed. Cute and perfectly identical, the twin girls take care of Boku's needs, but he longs for something more: his deceased girlfriend Naoko and the Rat. Naoko is mentioned within the pages of Hear the Wind Sing as a French major who hung herself near the tennis courts. It is not evident within that book how much the suicide effected Boku, but within this book we learn that after her death he spent all of his time within an arcade playing the Spaceship pinball machine and he became quite good at the machine and fully understood it, something that he was unable to do with Naoko. He eventually almost forgets about the machine, but one day it pops up and grabs his heart and he decides to go on a quest to find it and his own history in the process. Unlike Boku who has at least a goal, the Rat broods, drinks alcohol, and chain smokes. His depression is quite deep, and the reader learns why he flees to Hokkaido within the pages of this book. Whereas Hear the Wind Sing is quite barebones and its sentences clearly show Murakami's newness as a writer, Pinball, 1973 displays a maturing Murakami whose world of magical realism is beginning to form. However, in my opinion, the true power of the novel is Murakami's emphasis on desire and substitution of the desired object when the original is no longer available. A pretty powerful novel that unearths many of the themes that would continue to grow in Murakami's body of literature for twenty-five years plus after this novel was published, Pinball, 1973 is invaluable in understanding Murakami's body of work and two of his most important characters: Boku and the Rat. | ||||
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村上春樹の2作目は、いいきなもんである。文庫本で171ページの間に、「煙草」が61回出てくる。語り手である主人公も鼠もスペイン語の大学講師も実によく煙草を吸う。JT(ジェームズ・テイラーではない)のまわしもんか!? それから、「まるで・・・のように」という直喩が26回も使われる。うんざりだ。そして「うんざり」という言葉が6回発せられる。「それだけだ」が9回。決定的なのは、小説を書く上で35の誤謬があるが、そのうちの32が見つかるのである。たとえば、p.25に「これは『僕』の話であるとともに鼠と呼ばれる男の話でもある。」とあるが、p.28にも「これはピンボールについての小説である。」とある。作者が本文中で自作の解説をしてはいけない。しかも続けてね。細かいことを言えば、p.61の「3月のはじめ」に「冬の明るさ」はいただけない。3月は明らかに春である。P.77、ヘンデルの「レコーダー・ソナタ」(リコーダー・ソナタだろ!)にヴィオラとチェンバロとあるが、ヴィオラはヴィオラ・ダ・ガンバのまちがい。このヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロが通奏低音なのに、「レコーダーとヴィオラとチェンバロのあいだに通奏低音のように肉を炒める音が入っていた。」というのも笑える。あとデビュー作と同様に「シャワーに入る」と言ってるけど、シャワーは「浴びる」もんだ。p.17、「池には水仙が咲き乱れ」。池の周りなら許す。要するにしったかなんだ。それで読者の気をひこうとする。わかるだろ? | ||||
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本作は、後の作品に向け種を蒔いた恰好だ。「ノルウェイの森」「午後の最後の芝生」「ねじまき鳥クロニクル」「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」「アフターダーク」といった作品それぞれにおけるキーワードが、本文中にさらりと出てくる。これだけ多くのキーワードがこれほど早い時期に既に出ていたというのには驚きだ。まさに村上春樹の出発点となる作品である。勿論、これはこれで一個の世界をつくっている。最も面白いのは、氏の他の作品では「突然の喪失」が多いのに対し、ここでは失う時にも誰かが「見送る」ことだ。例えば、〈僕〉は、同じアパートに住む少女の引越を見送るし、〈双子〉が帰るのも見送る。喪失しても暗くなりきらないのは、送別があることに救われる部分があるからだろう。 | ||||
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「1Q84」の2009年に作者のデビュー連作を再読することはなかなか面白いもので、「1Q73年のピンボール」と言ってもいいような本作、既にパラレル・ワールドの世界が見え始めている。1973年という年は、既に「古き良き時代」とはいえないかも知れないが、それなりの青春の輝きのようなものがあったアナログの時代であった。 ジューク・ボックスから流れてくるのがあのジャクソン・ファイブというのも、マイケルの訃報を聞くにあたり、まったくの偶然とも思えないのだ。 ピンボール・メーカーとして"BIG4"の時代があった当時、世界のAccounting Firm は"BIG8"の時代であった。これまた、懐かしい。 1968〜69年という世界的な学生を中心とした「革命の時代」が過ぎ、1973年というこれから迎えるオイルショックも目前という時代、そうまだ何が起こるかわからない時代。そして、そう、「何もかもがすきとおってしまいそうなほどの11月の静かな日曜日だった。」のだ。 | ||||
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二十数年ぶりに読んでみたものの、理解不可能なまま終わってしまった。 大人になればもう少し理解できるのかな?と思ったけど、若くなくてはわからないこともあるのだということを知った。 大学生でこの本に初めて出会った時に、あまりに気障な文章に生理的嫌悪感を感じたものだけど、やはり今読んでも鼻につく感じがある。 逆に、最近の作品ではあまり感じることがなかったのだけど…。世の中が村上春樹的に洗練されてきたということだろうか? 基本的に、この人の作品に出てくる男の欲望に都合良く作られてるような人形っぽい女の子が好きになれない。 そして、主人公の一見紳士的でソフトでありながら、冷笑的で内向的な卑屈っぽさがどうも共感できない。 要するに、どこか納得できないものを感じてしまうのだ。 でもまぁ、この人の独自の世界ってすごいなと思うし、ストーリーも面白いし、アフォリズムにも感心させられる。 嫌いじゃないんだけど、やっぱりちょっと鼻につく、村上春樹。 何が言いたいんだ?っていうのが素朴な疑問です。 読んでいて少し不愉快になるのは、若い日々の自分の愚かしさを思い出してとても哀しくなるからだろうか。 そういう意味では、タイムリーに青春の哀しみを描いて、若者の支持を得た優れた作品といえるのだろう。 | ||||
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僕は村上氏の生きた時代背景は良く分からない。知っているとすれば全共闘時代の中に青春を見出した世代のひとりというイメージがある。それは扨置き。この作品は、全く世代の違う現代に生きる僕がこの作品に対する解釈を許してはくれなかった。だが無理矢理理解した結果以下のようになった。 若者が資本主義社会に埋没し、都会の喧騒の中リアリズムを模索してゆく暗い闇のお話しに感じた。戦争があるわけでもなく、ただなんとなく生きていられる。いくら女を抱いても、物に自身を投射しても自身の価値を見出だせないであぐねいている若者の物語と感じた。何も生み出さないピンボールに力を注ぎマニア並に知識を得て満足する姿は現代のオタクを連想させる。現実から逃れ、自身の妄想世界に自身をやつすことでしか現実感を獲得することもできない人間を連想させた。結果的にそれらからは「何も生まれないし何も得られない」。そんな空虚と虚脱感を感じた。 見知らぬ土地にいって何もかも終わらせてしまいたいのも、孤独を紛らわすためにリアリズムを感じさせない妄想的双子を登場させたのも作中の登場人物の絶対的孤独感の紛らわしに過ぎないと思った。そして次々に襲う不安定な感覚に僕らはやり過ごすことしかできないでいる。結果なにを得たのかも分からずバス停で、穏やかな日のもと、そしてそれからの漠然とした未来もただ生きるしかないという不確かな未来を暗示して終わった。僕は現代人の感覚も村上春樹の生きた若者の生き急ぐ渇き飢えみたいなものは共通していると最後に感じた。だからこそ「ゆっくり歩け、そして水をたっぷり飲む」が生きてくるのだと思う。僕らは渇いた青春時代を幾度と繰り返すけどいつか夢のようであればいいというそんな願いを感じた。 | ||||
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「風の歌を聴け」が中身の無い宝石箱だとするなら、 「1973年のピンボール」は中身のある宝石箱。 キラキラとした文章は素敵であこがれます。 箱の中身は時の流れの確かさと、自分の感覚の不確かさとでも言いましょうか。 前作にも増して読む価値があると思います。 但し前作を読んでから読むべきだという気が多少はしますが。 | ||||
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特に養鶏所の中に置かれた何十台ものピンボールマシン! 村上さんの本は、映像化することが難しいと思うのですが、この作品は双子の美人姉妹、ピンボールマシーン、ダムに投げられた配電盤、などなどシーンが映像化に耐えうる珍しい作品だと思います。 | ||||
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前作『風の歌を聴け』よりも遥かに小説っぽくなってる点が退屈。情景描写も頑張っているのだが、取っ て付けた感は否めない。しかし、そこに村上春樹という人物のお行儀の良さや真面目さを垣間みることもで き、やがて世界的人気作家になったことを思えば、極めて謙虚に前作の(評論家や先輩作家から指摘された であろう)弱点を補うこの姿勢──というか、村上春樹自体の人間としての資質が──、本作の魅力を下げ ても、後の作家としての価値を延ばす決め手にはなり得ていたのだろう。が、いかんせん退屈は退屈──こ の退屈さや雰囲気を好む読者の感性を決して否定はしないがそれでも。 それにしても、こんな“僕”がいつも運命的に女の子にモテちゃうというのも、かなり意表を突いた裏技 的マチズモと読めば、実はかなり男ワールド全開な汗臭い作品でもあるし、逆に言えば、隠し味としてすら もなかなか検出できないこうした裏マチズモを、ふんわり優しく“僕”という人称設定と語り口で包んでし まう春樹的手法に、少なくないアンチたちが嫌悪を示すのは自然な反応なのかもね(いつも僕ばっかモテて ずるい的な嫉妬混じりの突っ込みも含めて)。しかしながら、電話工事に訪れた作業員と一瞬好戦的になる “僕”のキャラクターに真のリアリティを感じたのは、苦し紛れの悪意ある深読みとは簡単には断罪できな いだろう。この“僕”を全て“俺”に変換しても尚、最後まで同じ気分でこの物語を読み切ることは絶対に できないはずだと思うからだ。 | ||||
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初期3部作の2作目。 昼休みにペットショップで猫と遊びたくなり、スタン・ゲッツを聴きながら 仕事したくなり、家の中で配電盤を探したくなり、ペニー・レインをサビ抜きで 口ずさみたくなり、純粋理性批判が読みたくなり、夕方のゴルフ場に行きたくなり、 ピンボールがしたくなり、そして双子の女の子と暮らしたくなる、そんな話。 | ||||
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「風の歌を聴け」の続編ではあるが、前作を読まなければ本作が分からないという分けではない。 文章は非常に読みやすいが非常に難解だ。僕と鼠の2人の物語が交互して書かれる。個人的には今に苦しみ抜け出そうとする鼠の話しが印象的だった。 | ||||
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「風の・・」の次に読むといいとの意見が多いですが、まったくそのとおりと感じた。 「風の・・」も「1973年の・・」も物語はシュールであるが、 私には感覚的に共感できる部分があり(あるいは錯覚かもしれないけど)、楽しく読めた。 全体的にシュールな内容なのだが、そこから何かを「感じれる人」は感じ取って欲しいと・・作者が材料を提示してくれているような気がした。 爽やかな、でもほろ苦いミントガムを噛んでいるような作品だと思う。 | ||||
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