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1973年のピンボール
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1973年のピンボールの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全135件 21~40 2/7ページ
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残念ながらこの感性に共鳴するものは持ち合わせていない・・。若い頃の作品だからほとばしるものがあるのだろうが・・凄い作家とは思うので、是非庶民にも理解出来る作品をお願いしたい(笑) | ||||
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10代の頃リアルタイムで読み、何回か読み返しているので、今、本作について書くのはレビューなどではなく、ただの思いになってしまうけれど。 改めて、2つの物語の重なり合い、探し物系サスペンス風展開、裏/表・陰/陽などのスタイルはここから始まったんだなあと思う。 「僕」の全て諦めてしまったかのような(、そして爺臭い)明るさと、鼠の何かに縋りつくような(、そして夢見るような)暗さ。 どちらがどちらというわけでもなく、どちらもどちらということでもなく。 抜け出そうとして抜け出せない/抜け出したくない、そんなあの頃の感覚をふたつに分けてからひとつに混ぜようと思ったら、こういう形で表すしかなかったのかな。 養鶏場のシーンは何度読んでもドキドキする。 リアルタイムで本を読むということはあまりしないので、時代と自分ということを考えてしまう数少ない作品。 | ||||
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鼠3部作の中間、橋渡し的存在の本作。 『風の歌を聴け』のような斬新さはないし、『羊をめぐる冒険』のようなわかりやすい面白さもない。 その上村上作品の中でも特に抽象的だし、降り続く雨のような鬱々さが漂っている。直子の挿話という『ノルウェイの森』の布石や、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の並行した二つの物語という手法の実験的習作として楽しむという見方はできる。 でも物語としては影も薄いし、あまり内容も頭には残っていない。 ただ、見知らぬ土地の話から始まり、ピンボールの解説で終わるプロローグだけは大好きで、ここだけ、何度でも読み返している。 あ、でも「双子」は村上作品の中でも屈指の人気ヒロインだよね。 | ||||
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村上春樹さんの作品はこの本で4作目です。 あまり小説を読んでいる方では無いのですが、独特の世界観は村上春樹の作品にしか出せないように感じる。 僕と鼠の視点で交互に物語は進んでいくのだが、双子、女の子など名前を持たない登場人物がほとんどで、自由に人物を想像出来る。 物語自体が非常に面白いかと言うとそうでは無いのだが、文章や一つ一つの会話が面白いので読み進めるのは楽しかった。 「あなたは20歳の頃何をしてたの?」 「女の子に夢中だったよ。」 「彼女とはどうなったの?」 「別れたね。」 「幸せだった?」 「遠くから見れば。」 こんな感じのアメリカンジョークのような会話がいくつも散りばめられており、それだけで楽しくなってくる。 何度か読み返せば物語自体ももっと深く楽しめるのかもしれないが、1回読んだだけの自分には物語の意味はあまり分からず、単純に文章を楽しみながら読み終えました。 誰もにオススメかというとそうでは無いのかもしれないが、個人的にはまた読み返したい小説でした。 | ||||
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友達の紹介で初めて村上春樹の本をよむことになりますが,最初はぴんと来なかったけど,だんだん読むうちにとても気に入りました.特に,第7章,主人公が熱で出社した日の描写に自分の一人生活が重なってきました.一人暮らしの方にお勧めします. | ||||
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鼠と僕のパートが交互に進んでいく構成。僕のパートはまずまずだが鼠パートが秀逸。アドレサンス特有の将来への不安、喪失感、虚無感。私自身も大学不登校を経験した事があるので酷く共感を覚えた。悩みが尽きない若者世代は一度読んでみて欲しい。自分自身を客観視する事が出来るかもしれない。 | ||||
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短いのに読み進めるのが億劫な小説でした。 読んでいる間、ずっと気分が乗らないというか、何一つ物語に惹きこまれず、なんにも頭に残らない。 内容云々よりも、本を開くのが面倒に思えてしまうのです。 何度も放り出しそうになりながらも無事読み切りました。 自分の頭の悪さに歯痒くなります。 同じ作家でも合う合わないがあるので、別の作品にもチャレンジしてみようと思います。 | ||||
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初期3部作は本当にすばらしいと思う。 批評家たちは、デタッチメントを強調するけど、そしてそれはかつてのバブル期の消費される時代へのアンチテーゼなのだろうけど、そんな小難しいことを抜きにしても、単純に物語として面白い。 何も入っていないような気がして、しかし見えないように大切なものが詰まっている、そんな感じがする。 しかし、村上春樹文学の普遍性(脱・土着性)はどのように生み出されるのだろうか、いつも不思議だ。 | ||||
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たいして中身のない話をゴチャゴチャと言葉を装飾したり、変てこなシチュエーションに作り上げてみせているようで、内容を理解する気にもならない。ただ、この独特な雰囲気を楽しばいいのかもしれない。さらっと読めてしまう。ピンボールやジュークボックスなど、ある世代にとっては懐かしく感じるところはあるかもしれない。 | ||||
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「ダンス・ダンス・ダンス」までを含めたの4部作の中で次作への橋渡し的な存在であるが、独立して好きな作品だ。平易な文章なので読みやすさはあるけれども、表現や比喩が独特なので人によってはもどかしく、何を言いたいのか分からずにあっさりと読み通してそのまま終わってしまうかもしれない。そういう意味ではわりとリスクの高い文体の作家なのだと今更ながら気づく。読み方にはコツも何もない思うが、個人的には受け身で読むというより、この小説の「僕」のように、何か大きな喪失感に襲われたときの、自分の無意識の精神(頭脳)による作用や対応、あるいはどういった精神の対処で月日をやり過ごし、乗り越えたかなど、過去の自分の経験を映像化して重ねて読むと面白いのではないかと思う。喪失感と格闘しているときの自分の精神構造を目の当たりにしているように思えた。そして「僕」が過去の象徴であるピンボール「スペースシップ」と対面するまでの過程で出てくる「配電盤」や「双子の姉妹」が何のことなのか分かるようでシンパシーを感じた。確かに頭も良く、いつも冷静でスカした「僕」だが、決して特別な人間ではなく、大きな喪失感に襲われれば大して自分たちと変わらず、精神や頭脳の働きはかなり近いのだという発見が嬉しかった。そういった意味では親しみやすく、全体的に重々しさもないが、短い小説のわりにはとても現実的で切実なことが表現されていて、たまに無性に再読したくなる小説である。 | ||||
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3フリッパーのスターシップでベストスコアを叩き出すシーンは、ザ・フーのロジャー・ダルトリー演じるトミー少年がピンボールの魔術師としてピンボールに打ち込むシーン(エルトンジョンカバー「ピンボールの魔術師」のMVの中)、目がイってしまっているシーンを彷彿とさせます。 スターシップとの邂逅シーンも圧巻です。 ただし、村上春樹初心者は別のモノから読み始めるべきですし、3部作の2作目に当たるので、まずは1作目の風の歌を読んだ方が良いでしょう。 | ||||
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もしこの作品単体だけを読まれたとしたら、全く意味不明でしょう。 特に鼠→「何で出てきた?」「不要だろ」となるし、双子の女→「意味不明」 読みながら、これは夢の中なのか? ピンボールは何?となるでしょう。 誰かに解説してもらう必要が出てきますよね(ネット検索すれば出てきます)。 鬱陶しくなるほど出てくる比喩、そして洋楽。 ナルシストなハイカラ野郎(西洋かぶれ)がキザって書いた文章。比喩と洋楽の紹介してるだけやんとなってしまうかもしれない。 少なくとも私はそんな感想でした。だから☆2です。 もうご存知の方も多いのでしょうが、この作品のみならず、「風の歌を聞け」、「羊をめぐる冒険」、「ノルウェイの森」と読むことで深さを味わえるようになっているのですよね。 それってどうなの? と思う気持ちがある反面、それでも大量の読者を獲得できているわけですから、肯定せざるを得ないというところですね。 | ||||
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この本を購入したのは7年前です。 村上春樹の小説で、ベストセラーとよばれた作品を幾つか読んだ後、 初期作品から全て読んでみたいという衝動にかられ、読みました。 霧の中を漂うような意識の混濁と、 決して荒げない情念の萌芽がいたるところにみられると思いました。 後期作品を読んでしまうと、完成度の高さに、 初期作品をもう一度書き直して欲しいとさえ思ってしまうのですが、 はっきりと表現されなかったことを想像する時に、 村上春樹により近づけた気がします。 それが村上春樹のイデアなのでしょうか。 | ||||
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美しく完成品は、サービスが良い、非常に良い買い手、あなたのような買い手は私の喜び、再び私たちの店に来ることを願っています!ありがとうございました! あまりにも良い品質と思われる。 私は仕事と外見の両方が大好きです。 うれしい私はこれで私の前に置き換え 強くお勧めします。 ショッピングのしやすさ | ||||
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本当に久しぶりに、村上春樹の第2作目の作品である「1973年のピンボール」を読んだ。これで2回目のはずなのだけれども、やはり時代を感じるとともに、こんな小説だったのか、と改めて感じさせられることも多かった。 やはりピンボールの魅力に取りつかれた人が蒐集した多くのピンボールが、倉庫の中で整然と並べられている光景を描いている部分が、何とも言えない。 懐かしいのは、他の作品でも登場する双子の女の子、あの「ノルウェイの森」でも悲劇的な役割を負う女性である、同一人物ではなさそうだが、直子、それから第1作でも登場したジェイ、鼠、だろうか。そして人ではないけれども「井戸」は、「ノルウェイ…」、「ねじまき鳥クロニクル」等でも取り上げられ、論文まで書かれているほどだ。 それから主人公である‟僕”が、カントの「純粋理性批判」を読む場面が幾度も出てくる。哲学史の中でも後世に与えた影響の最も大きな本のひとつであることは間違いないのだが、非常に難しいのでも有名だ。主人公によく読ませたな、と感心する。 この作品は、前作「風の歌を聴け」と同様に、村上氏はまず英語で書き、その後、日本語に翻訳したとしている。英語の堪能な村上氏ならではの、小説の書き方だろう。この2作の後、英語で書いてから日本語に訳すと言う手法は取っていないようだ。 ところで日本では本が文庫化される時には、巻末に‟解説”なるものがつけられるのが通常だった。ところが、その中にはもちろん役立つ解説も少なからずあったのだが、村上氏の文庫本には「風の…」にも、この「1973年の…」にも、おそらく以降のすべての文庫本に“解説”がついていない。恐らく村上氏の考えが、この解説のない文庫本の背景になっているのだろう。 | ||||
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この三部作から村上春樹を読んでみようと思いました。面白そうです。 | ||||
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私は1963年生まれなので、よくピンボールで遊んだのも覚えているし、懐かしさを感じた。それに「私」の仕事と同業種なので、ますます面白く読むことが出来たわけだ。だが、この小説、あの時代の終わりを描いてるんだろうけど、より後生の読者にもアピールする普遍性には欠けているのではないか。私が記憶してるピンボール自体、既に古めかしい子供の遊びで、どうと言うことない地方都市の駄菓子屋の店頭にボロボロの機械が置いてあるイメージ。自分の好きだったピンボールの機種を追い求め、趣味人が集めていた多くの機種が田舎の倉庫に並べられてるイメージにははっとさせられた。本作に出て来るその他のアイテムで、ジュークボックスなんてのも今は見ないかな? だけどあの時代を経験せずに読んで、本作を味わうのは難しいと思うのである。時代や場所を超えて通用する普遍性がこの作品には乏しい。前作「風の歌を聴け」では、無為に過ごされる学生生活が多くの人の共感を呼ぶように思ったのだけど、本作の2人に共感するのは難しい。 恐らく多くの人が読んでみたけど、何が言いたいのかわからない、といった感想を抱いてしまうだろうが、そういう書き方をしてるから仕方ない。ファッションで読み彼の独特の感性を楽しむようなつもりでない限り、少なくとも若い人に勧められる作ではないと思う。 | ||||
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前作「風の歌を聴け」のテーマを引き継ぎながらも、物語の構造はがらりと変わります。 次作「羊をめぐる冒険」への布石でもある本作ですが、唯一無二の世界観が光ります。 僕はピンボールをめぐる探索に挑み、一方で鼠は700キロ離れた街で思索を深めていきます。 【「僕」の物語】 直子を失った4年間の絶望の日々に終止符を打つために、僕は出口を捜し始める。 そんな日曜日の朝に双子が僕の部屋に現れて、僕の運命を導き始めた。 過去にしか繋がりを持たない僕の心を象徴する古い配電盤を彼女たちと見つけ、 死にかけたその配電盤を記憶の貯水池の底に沈める。 それから、繰り返されるピンボール・ゲームのような自己完結してしまった僕の世界観と向き会う。 東京の果てにある養鶏場の冷凍倉庫で、「3フリッパーのスペースシップ」に再会するシーンが物語のクライマックス。 そこには他にも恐ろしい数のピンボール台が、忘れられた過去の思想のように眠っていた。 僕はピンボール・マシーンに最後の別れを告げる。 全てが終わり、気がつくと僕の耳は素晴らしく鋭敏に世界中の物音を聞き分けていた。 【鼠の物語】 この小説は「僕」の話であるとともに鼠の話でもある。 鼠の自己対話は独立していながらも、同時進行する僕の意識世界と共振していく。 金曜日の夜に鼠は女に電話するのをやめる。 深い眠りがやってくるまで、「肉体が少しずつ実体をなくし、重さをなくし、感覚をなくしていくのに耐える。」 彼はきっと過去の記憶を追体験しているのではないだろうか。 鼠は誰にも何も語らないことを決意し、古い街を出て行く。 鼠の謎は持ち越されました。 次作「羊をめぐる冒険」ではこれまでの閉じた小さな人間関係の物語が、 歴史と文化を背負ったスケールの大きな物語へと展開していきます。 長編作家村上春樹がいよいよ誕生します。 | ||||
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村上春樹の信者だけが、「この作品は万人向けではないよ。特別な人にしか良さはわからない。そう、私のように。」って言っている。自分は選ばれし理解者だと延々とまくしたてる。どこのレビューを見ても言っている。 「このワインは万人向けではない、あなたたち初心者にはわからないでしょうけど?」って言ってる人よくいるものね。 | ||||
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他の方々の本作レビューをひと通り読んで、まだ書かれてなさそうなネタバレを。 双子がビートルズの「ラバー・ソウル」を主人公に内緒で買ってきて流した時になぜ主人公は黙ってしまったのか・・・本作ではその明確な理由は書かれてないが、この伏線は作品を越えて回収される。 ビートルズの楽曲「ノルウェイの森」は「ラバー・ソウル」に収録されているからだ。 小説「ノルウェイの森」の中で、直子が大好きだった楽曲。 出版された順番は違うけど、時系列は1968-69「ノルウェイの森」→1970夏「風の歌を聴け」→1973秋「1973年のピンボール」なので、本作の前に「ノルウェイの森」を読んでると、ピンボールに込められた想いや嵌った理由がだいぶ理解できると思う。 あと幾つか思うところを書くと、個人的には本作自体が「ピンボールというゲーム機器本体」に見立てられてるのでは、と思った。 ~虚無的に感じられる部分は「死んだ時間を提供するだけのピンボール(=今の生き方)をいいかげんやめたい、でもやめられない、変わりたい、変われない」という日々の堕落と呪術性(中毒・依存)を表す~ ↑煙草・酒・ゲーム・パチンコ・スロットなどに嵌り過ぎてダメ人間になった経験がある人はこの感覚がわかると思う。 ~配電盤を捨ててみたり養鶏場の冷凍倉庫に行ったり(主人公)、ジェイに町を出ることをなかなか告げられず何度もバーに通ったり(鼠)~ ↑人間は本当にやめたい何かを卒業する時、時間を無駄にして決意と挫折を繰り返したり、誰にも秘密の個人的葬式儀式を何度も繰り返した果てにある日ようやくやめることができるものだと思う。 『依存した何かを喪失した恋人に見立てる自己正当化(=擬人化)、堕落と中毒の繰り返しの果ての卒業・旅立ち』・・・これらも人間の持つ普遍性であり、これが本作のテーマ(=寓意・アレゴリー)の1つではないかと思った。人類普遍のと言った大きなものではなく、地べたに這いつくばるような個人のちっぽけな日常的テーマではあるけど。 それを読者に感じさせるためには変わらないダラダラとした虚無の日々・何度も行う卒業的儀式の描写は必要だし、その果てにようやくピンボールを卒業できる(本作を読了する)というカタルシスを味わえる構成になってるんだと思う。 大体、作者が読者に対して「ハヴ・ア・ナイス・ゲーム」とか「もしあなたが(本作=ピンボールを通して)自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう」とか皮肉的なこと言っちゃってるし。他にも「リプレイ、リプレイ、リプレイ」とか、「繰り返しだ」というフレーズも多いし。だから虚無の日々や葬式的儀式が何度もリプレイされてるのだろう。 本作自体をピンボール機器に見立てる(=読者に虚無と中毒を体感させた果てに卒業させる)という実験的試みがわかりづらいのが、本作が3部作の間に挟まっていまいち人気がないとされる理由ではないだろうか。 あと、「主人公と鼠」は直喩やメタファー・キーワード的単語を入れ換えても文脈が通じるものが多いので、2人1役と思って問題ないと思う。それを狙ってわざと共通する言葉を使ってると思うし、直接的絡みはないけど2人は無意識下でつながってるという設定かと。たとえば、鼠が「いったいどれだけの水を飲めば足りるのか」と思ったら、主人公が双子に「バケツ一杯分もの水を飲まされ」ますよね(私も3.11の時は被災者じゃないのになぜか異様に水が飲みたくなった)。 そして、何かの中毒になってる人間は誰かの助けなしには脱出しづらいもの・・・救いの存在の象徴として双子が現れ、癒され、卒業儀式を行うことを啓示され、まだ引きずる時もあるだろうけど一応は卒業できたから去っていったんだと思う。だから本作ラストで、トラウマでもある「ラバー・ソウル(ノルウェイの森)」を聴くことができたのだと思う(小説「ノルウェイの森」の冒頭では、1986年37歳になっても飛行機内で流れた「ノルウェイの森」に心を乱されるから完全にトラウマを無くすことは不可能みたいだが)。 | ||||
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