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(短編集)
あひる
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あひるの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.05pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全65件 41~60 3/4ページ
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判らない。なんだか変な感じ。読後感をまとめられない。読んでいる間は、どんどんそれから、それから~と気になって読み進む。でも、読み終わった途端、ぼ~っとしてしまう。いったい、何だったの?それが全て! | ||||
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むらさきのスカートの女で今村夏子先生の存在を知りました。文庫を探して、この本を見つけました。 文章の読みやすさ、分かりやすい物語が初心者も楽しめると思います。 しかし、老眼の方でも読みたい作品なんだなと感じたエピソードがあります。 ラーメン屋が混んで、暇で読んでいたところ、隣にいた母がちらっと見たためか、読みやすいと感じたようです。 母は50代です。老眼です。小さい文字を読めません。 それなのに、この本を読みたがっていました。 文字が大きくて、分かりやすいかららしいです。 今は母の手元にあります。 それぐらい、今村夏子先生の文章は魅力的なんだなと感じました。 | ||||
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今村作品は『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いて4冊目だが、今村夏子の実像が、かなり見えてきたように思う。 本作には、表題作「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄妹」が収録されているが、他の長編や作品集にくらべると、やや児童文学的な柔らかさが強いように思う。 しかし、独特の「不穏さが漂う」といった点は、他の作品と変わりはないので、本質的な違いはどこにもないと言って良いだろう。 さて、4冊目にして私が読み取った「今村作品の本質」とは、今村が描くのは「どこか不穏さをかもす、しかし優しい日常」といった「上っ面」ではなく、「日常に存在する不穏さに、過剰なドラマ性を見てしまう偏見を突いてくる、その批評性」ということである。 例えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いており、それゆえの周囲との軋轢葛藤も多少はあって、その点で「危うさ」や「不穏さ」が漂うのだが、しかし、物語は最後まで、よくある「破局」も「どんでん返し」もなく、「そのまま」の日常が続いてしまう。 これは、本作品集の「あひる」や「おばあちゃんの家」も同じで、これらの作品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さまを拝んでいる」ようだが、それで大きな破綻がおとずれるわけではなく、物語はありふれた日常的生活の中に収まってしまう。 「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最後は性格が変わってしまうが、悪い方に変わるわけではない。単に活発になるだけだ。 また「森の兄妹」に登場するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子供好きなおばあさんに過ぎない。 そして、これは『むらさきのスカートの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。 これらの作品では、直接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「変人」や「知的障害者」といった「普通から外れた人たち」が描かれて、多少は周囲の「普通」に波風を立てはするものの、それで決定的な「破局」や「どんでん返し」的なものがおとずれるわけではなく、最後は「日常」に回帰してしまう。 つまり、今村の描く「日常」とは、私たちの考える「影の差さない日常」などではなく、「ときどき影が差す(ものである)日常」なのだ。 私たちは、普通に生きていれば、ときどきその生活に「不穏な影」がさすものなのだが、それはたいがい「不幸の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、いつのまにか何事もなく過ぎ去ってしまうものだ、ということを知っているのではないだろうか。 それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「不穏な影」がさすと、それを、何か不幸がおとずれる「サイン=合図」であり「複線」だと思いこんでしまう。そのような「物語的紋切り型」に馴らされてしまって、小説というものに「偏見」を持ってしまっているのだ。 つまり、今村夏子は、そうした「偏見の虚構性」を、物語において突いているのである。「その発想は、馴れによる偏見に過ぎないよ。予感はあくまでも予感であって、的中する予言でなんかないんだ」という批評であり、これはきわめて「純文学的な試み」だと言えるだろう。 私たちは「新興宗教」というと「うさんくさい」とか「何か裏があるのではないか」などと、紋切り型の発想で偏見を持ってしまうが、言うまでもなく新興宗教にもいろいろあって、それは人間に白人もいれば黒人もいるとか、日本人にもネトウヨもいればパヨクもいるしノンポリもいる、といったことと同じである。 しかし、私たちは「密室殺人が起これば、そこにトリックがある」などといったような「パターン」で物語を見てしまう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けて、きわめて「先入観に無自覚」であり「偏見」的だと言ってもいい。 今村夏子は、こうした私たちの「物語的偏見」を、「反・物語」によって逆照射して見せているのではないだろうか。「こっちの方が、当たり前(普通)なんですよ」と。 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 【補記】(2019.07.12) 以下にご紹介するのは、現時点で既巻の今村作品5冊を、すべて読んだ段階で書かれた「今村夏子論」である。 つまり、個々の作品論ではなく「作家論」として書かれたものなので、それまでに書かれた作品論としてのレビューの巻末に収録させていただいた。 なお、下の書籍タイトルは、上から刊行順で、末尾に付して数字は、私が読んだ順番である。 『こちらあみ子』(2) 『あひる』(4) 『星の子』(3) 『父と私の桜尾通り商店街』(5) 『むらさきのスカートの女』(1) ※ なお『あひる』のレビュー部分はダブっておりますので、飛ばして下さい。 ================================================== あなただって変な人:今村夏子論(拡張版) 一一 Amazonレビュー:今村夏子『父と私の桜尾通り商店街』 本書『父と私の桜尾通り商店街』には、表題作の他「白いセーター」「ルルちゃん」「ひょうたんの精」「せとのママの誕生日」「モグラハウスの扉」が収められている。 現時点での最新作である『むらさきのスカートの女』から読み始めて、『こちらあみ子』『星の子』『あひる』と読んできて、現在刊行されている本としては最後に残った本書『父と私の桜尾通り商店街』を読了した現時点では、本書が最も完成度の高い1冊だと思う。 今村夏子の作風については『あひる』を読んだ段階で、「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を書いたので、本書については、その読みが外れていなかったかどうかを確認しながら読んだのだが、どうやら私の読みは、大筋で外れてはいなかったようである。 おなじことを繰り返すのも何なので、先に前記の『あひる』についてのレビュー「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を紹介してから、後で本書『父と私の桜尾通り商店街』について書くことにする。 ------------------------------------------ ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論 一一 Amazonレビュー:今村夏子『あひる』 今村作品は『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いて4冊目だが、今村夏子の実像が、かなり見えてきたように思う。 本作には、表題作「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄妹」が収録されているが、他の長編や作品集にくらべると、やや児童文学的な柔らかさが強いように思う。 しかし、独特の「不穏さが漂う」といった点は、他の作品と変わりはないので、本質的な違いはどこにもないと言って良いだろう。 さて、4冊目にして私が読み取った「今村作品の本質」とは、今村が描くのは「どこか不穏さをかもす、しかし優しい日常」といった「上っ面」ではなく、「日常に存在する不穏さに、過剰なドラマ性を見てしまう偏見を突いてくる、その批評性」ということである。 例えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いており、それゆえの周囲との軋轢葛藤も多少はあって、その点で「危うさ」や「不穏さ」が漂うのだが、しかし、物語は最後まで、よくある「破局」も「どんでん返し」もなく、「そのまま」の日常が続いてしまう。 これは、本作品集の「あひる」や「おばあちゃんの家」も同じで、これらの作品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さまを拝んでいる」ようだが、それで大きな破綻がおとずれるわけではなく、物語はありふれた日常的生活の中に収まってしまう。 「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最後は性格が変わってしまうが、悪い方に変わるわけではない。単に活発になるだけだ。 また「森の兄妹」に登場するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子供好きなおばあさんに過ぎない。 そして、これは『むらさきのスカートの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。 これらの作品では、直接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「変人」や「知的障害者」といった「普通から外れた人たち」が描かれて、多少は周囲の「普通」に波風を立てはするものの、それで決定的な「破局」や「どんでん返し」的なものがおとずれるわけではなく、最後は「日常」に回帰してしまう。 つまり、今村の描く「日常」とは、私たちの考える「影の差さない日常」などではなく、「ときどき影が差す(ものである)日常」なのだ。 私たちは、普通に生きていれば、ときどきその生活に「不穏な影」がさすものなのだが、それはたいがい「不幸の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、いつのまにか何事もなく過ぎ去ってしまうものだ、ということを知っているのではないだろうか。 それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「不穏な影」がさすと、それを、何か不幸がおとずれる「サイン=合図」であり「複線」だと思いこんでしまう。そのような「物語的紋切り型」に馴らされてしまって、小説というものに「偏見」を持ってしまっているのだ。 つまり、今村夏子は、そうした「偏見の虚構性」を、物語において突いているのである。「その発想は、馴れによる偏見に過ぎないよ。予感はあくまでも予感であって、的中する予言でなんかないんだ」という批評であり、これはきわめて「純文学的な試み」だと言えるだろう。 私たちは「信仰宗教」というと「うさんくさい」とか「何か裏があるのではないか」などと、紋切り型の発想で偏見を持ってしまうが、言うまでもなく新興宗教にもいろいろあって、それは人間に白人もいれば黒人もいるとか、日本人にもネトウヨもいればパヨクもいるしノンポリもいる、といったことと同じである。 しかし、私たちは「密室殺人が起これば、そこにトリックがある」などといったような「パターン」で物語を見てしまう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けて、きわめて「先入観に無自覚」であり「偏見」的だと言ってもいい。 今村夏子は、こうした私たちの「物語的偏見」を、「反・物語」によって逆照射して見せているのではないだろうか。「こっちの方が、当たり前(普通)なんですよ」と。 ------------------------------------------ 私は、上のレビューで、今村の小説を「反・物語」と表現した。これは、「小説のお約束」を意識的に裏切ってみせる、批評性を込めた小説、のことである。 よく言われるように、今村の作品は「不穏」と「優しさ」が同居している「不思議な世界」なのだが、この「不思議さ」は、小説的に「ありがちなパターン」にはハマらない、むしろ本来ならば相性が悪いとさえ考えられている「不穏」と「優しさ」が同居させられている点においてこそ、良い意味で読者は「予想」を裏切られ、その意外性を楽しむことができるのだ。つまり、平たく言えば「ありきたりの小説」ではないのである。 しかし、上に紹介した「今村夏子論」でも指摘したとおり、そうした「面白さ」は、読者の側が「小説」ばかりではなく、「人間」に対しても「偏見」を持っていればこそ、なのだ。 「普通の(まともな)人間」とはどういうものであり、「普通の(まともな)正義」とは、「普通の(まともな)人間関係」とはどういうものかといったことについて、決まりきった「常識」としての偏見に縛られて、そこから外れたものを「おかしなもの」「狂ったもの」「間違ったもの」と、深く考えることもなく決めつけてしまっているからこそ、そうしたものの裏をかいてくる今村夏子の作品は、「不思議」な作品であり、それでいて読者にひと時の「自由」を与えてくれるのである。 「あなただって、べつに普通である必要はないんだよ」と。 例えば、「白いセーター」の語り手は、いたってまともな女性のようだが、こまっしゃくれた子供にひどい目にあわされたあげく、最後は、ちょっと「おかしな人」になってしまう。 なぜに「嫌な思い出」のしみ込んだセーターを後生大事にしまい込み、それをときどき持ち出しては匂いを嗅いだりするのだろう。これは「普通」なら、倒錯的な行動なのだけれども、しかし、嫌な思い出によってこそ、つかめる「リアルな世界」というものもあろう。わたしたちは「きれいごととしての普通」のなかでだけ生きているわけではないのだ。 「ルルちゃん」では、語り手が知り合った、「普通」に魅力的で、しかし虐げられた子供に対する情の濃い女性が登場する。この女性は、常識的には非常に真っ当な人だし、やや過剰とも思える(ある意味では、イワン・カラマーゾフ的な)「虐げられた子供たちへの愛情」についても、本人は十分に自覚的なので、決して「異常」呼ばわりするのは妥当ではないだろう。 そして、その女性が、自分の力では救えない「虐げられた子供たち」への代替的愛情表現として、人形のルルちゃんを抱きしめるという行為も、決して異常なものとか言えない。 しかし、ルルちゃんの立場に立てば、それは迷惑なものにしか感じられないだろう。だからこそ、語り手は、ルルちゃんをその女性から「盗んだ」のではなく、「救出」したのである。それが語り手の「普通」感覚なのだ。 「ひょうたんの精」は、「普通」に読めば、幻想小説か「幻想にとり憑かれた女性」の物語ということになるだろうが、他人にはそうとしか思えなくても、彼女自身はそれを少しも不都合には感じておらず、その世界観を納得して生きているのだから、彼女の世界観が否定されねばならない謂れはどこにもない。 彼女は何も「間違って」いないし、狂ってさえいない。あえて言うなら、すべての人は、程度の差こそあれ、それぞれの幻想世界に生きているからである。 「せとのママの誕生日」も、「スナックせと」に集った、元従業員の女性たちがそれぞれに語る「ほとんどあり得ない奇妙な思い出」が、「矛盾なく」交錯する世界である。 「せとのママ」がいるかぎり、彼女たちの物語は、決して否定されることはなく、むしろ他には代えがたい独自性を持つ「大切な思い出」として、そのまま存在し得るのである。 「モグラハウスの扉」も、モグラさんという道路工事作業員の語った「物語」を生きる女性と、その女性とその女性の信じる世界を共有しようとする語り手の物語であり、彼女たちの間には、何の矛盾も不都合もない。 「父と私の桜尾通り商店街」にいたると、語り手が掴んで離さない「物語」は、現実の方を変えていこうとさえする勢いだ。 こうした「物語」から伝わってくるのは、私たちの持つ「普通」「常識」といった物語は、「周囲の顔色を窺い、周囲の世界観を内面化した、借り物」でしかない、ということなのではないだろうか。 たしかに無難に生きるのであれば、その方がいいのかも知れないけれど、しかしそれは、自ら進んで「凡庸な世界」を選ぶことでもある。 もしも私たちが、もっと「自分らしい世界」を生きたいと思うのであれば、「周囲の(無難な)世界」を弾き返すくらいの強度を「自分の世界」に与えなければならない。無論、それが出来るのは、「世間を目」を怖れない特別な「強者」たちであって、彼女らは、決して「敗者」などではないのである。 | ||||
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今村作品は『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いて4冊目だが、今村夏子の実像が、かなり見えてきたように思う。 本作には、表題作「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄妹」が収録されているが、他の長編や作品集にくらべると、やや児童文学的な柔らかさが強いように思う。 しかし、独特の「不穏さが漂う」といった点は、他の作品と変わりはないので、本質的な違いはどこにもないと言って良いだろう。 さて、4冊目にして私が読み取った「今村作品の本質」とは、今村が描くのは「どこか不穏さをかもす、しかし優しい日常」といった「上っ面」ではなく、「日常に存在する不穏さに、過剰なドラマ性を見てしまう偏見を突いてくる、その批評性」ということである。 例えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いており、それゆえの周囲との軋轢葛藤も多少はあって、その点で「危うさ」や「不穏さ」が漂うのだが、しかし、物語は最後まで、よくある「破局」も「どんでん返し」もなく、「そのまま」の日常が続いてしまう。 これは、本作品集の「あひる」や「おばあちゃんの家」も同じで、これらの作品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さまを拝んでいる」ようだが、それで大きな破綻がおとずれるわけではなく、物語はありふれた日常的生活の中に収まってしまう。 「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最後は性格が変わってしまうが、悪い方に変わるわけではない。単に活発になるだけだ。 また「森の兄妹」に登場するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子供好きなおばあさんに過ぎない。 そして、これは『むらさきのスカートの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。 これらの作品では、直接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「変人」や「知的障害者」といった「普通から外れた人たち」が描かれて、多少は周囲の「普通」に波風を立てはするものの、それで決定的な「破局」や「どんでん返し」的なものがおとずれるわけではなく、最後は「日常」に回帰してしまう。 つまり、今村の描く「日常」とは、私たちの考える「影の差さない日常」などではなく、「ときどき影が差す(ものである)日常」なのだ。 私たちは、普通に生きていれば、ときどきその生活に「不穏な影」がさすものなのだが、それはたいがい「不幸の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、いつのまにか何事もなく過ぎ去ってしまうものだ、ということを知っているのではないだろうか。 それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「不穏な影」がさすと、それを、何か不幸がおとずれる「サイン=合図」であり「複線」だと思いこんでしまう。そのような「物語的紋切り型」に馴らされてしまって、小説というものに「偏見」を持ってしまっているのだ。 つまり、今村夏子は、そうした「偏見の虚構性」を、物語において突いているのである。「その発想は、馴れによる偏見に過ぎないよ。予感はあくまでも予感であって、的中する予言でなんかないんだ」という批評であり、これはきわめて「純文学的な試み」だと言えるだろう。 私たちは「新興宗教」というと「うさんくさい」とか「何か裏があるのではないか」などと、紋切り型の発想で偏見を持ってしまうが、言うまでもなく新興宗教にもいろいろあって、それは人間に白人もいれば黒人もいるとか、日本人にもネトウヨもいればパヨクもいるしノンポリもいる、といったことと同じである。 しかし、私たちは「密室殺人が起これば、そこにトリックがある」などといったような「パターン」で物語を見てしまう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けて、きわめて「先入観に無自覚」であり「偏見」的だと言ってもいい。 今村夏子は、こうした私たちの「物語的偏見」を、「反・物語」によって逆照射して見せているのではないだろうか。「こっちの方が、当たり前(普通)なんですよ」と。 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 【補記】(2019.07.12) 以下にご紹介するのは、現時点で既巻の今村作品5冊を、すべて読んだ段階で書かれた「今村夏子論」である。 つまり、個々の作品論ではなく「作家論」として書かれたものなので、それまでに書かれた作品論としてのレビューの巻末に収録させていただいた。 なお、下の書籍タイトルは、上から刊行順で、末尾に付して数字は、私が読んだ順番である。 『こちらあみ子』(2) 『あひる』(4) 『星の子』(3) 『父と私の桜尾通り商店街』(5) 『むらさきのスカートの女』(1) ※ なお『あひる』のレビュー部分はダブっておりますので、飛ばして下さい。 ================================================== あなただって変な人:今村夏子論(拡張版) 一一 Amazonレビュー:今村夏子『父と私の桜尾通り商店街』 本書『父と私の桜尾通り商店街』には、表題作の他「白いセーター」「ルルちゃん」「ひょうたんの精」「せとのママの誕生日」「モグラハウスの扉」が収められている。 現時点での最新作である『むらさきのスカートの女』から読み始めて、『こちらあみ子』『星の子』『あひる』と読んできて、現在刊行されている本としては最後に残った本書『父と私の桜尾通り商店街』を読了した現時点では、本書が最も完成度の高い1冊だと思う。 今村夏子の作風については『あひる』を読んだ段階で、「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を書いたので、本書については、その読みが外れていなかったかどうかを確認しながら読んだのだが、どうやら私の読みは、大筋で外れてはいなかったようである。 おなじことを繰り返すのも何なので、先に前記の『あひる』についてのレビュー「ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論」を紹介してから、後で本書『父と私の桜尾通り商店街』について書くことにする。 ------------------------------------------ ドラマ性の偏見を突く:今村夏子論 一一 Amazonレビュー:今村夏子『あひる』 今村作品は『むらさきのスカートの女』『こちらあみ子』『星の子』に続いて4冊目だが、今村夏子の実像が、かなり見えてきたように思う。 本作には、表題作「あひる」のほかに「おばあちゃんの家」「森の兄妹」が収録されているが、他の長編や作品集にくらべると、やや児童文学的な柔らかさが強いように思う。 しかし、独特の「不穏さが漂う」といった点は、他の作品と変わりはないので、本質的な違いはどこにもないと言って良いだろう。 さて、4冊目にして私が読み取った「今村作品の本質」とは、今村が描くのは「どこか不穏さをかもす、しかし優しい日常」といった「上っ面」ではなく、「日常に存在する不穏さに、過剰なドラマ性を見てしまう偏見を突いてくる、その批評性」ということである。 例えば『星の子』は、新興宗教の信者家族を描いており、それゆえの周囲との軋轢葛藤も多少はあって、その点で「危うさ」や「不穏さ」が漂うのだが、しかし、物語は最後まで、よくある「破局」も「どんでん返し」もなく、「そのまま」の日常が続いてしまう。 これは、本作品集の「あひる」や「おばあちゃんの家」も同じで、これらの作品の語り手家族も、なにやら熱心に「神さまを拝んでいる」ようだが、それで大きな破綻がおとずれるわけではなく、物語はありふれた日常的生活の中に収まってしまう。 「おばあちゃんの家」のおばあちゃんは、認知症のせいか、最後は性格が変わってしまうが、悪い方に変わるわけではない。単に活発になるだけだ。 また「森の兄妹」に登場するおばあさんも、すこし怪しげではあるが、結局はただの子供好きなおばあさんに過ぎない。 そして、これは『むらさきのスカートの女』や『こちらあみ子』でも同じだ。 これらの作品では、直接「宗教」が描かれるわけではないけれど、いわゆる「変人」や「知的障害者」といった「普通から外れた人たち」が描かれて、多少は周囲の「普通」に波風を立てはするものの、それで決定的な「破局」や「どんでん返し」的なものがおとずれるわけではなく、最後は「日常」に回帰してしまう。 つまり、今村の描く「日常」とは、私たちの考える「影の差さない日常」などではなく、「ときどき影が差す(ものである)日常」なのだ。 私たちは、普通に生きていれば、ときどきその生活に「不穏な影」がさすものなのだが、それはたいがい「不幸の予兆」などではなく、たんなる思い過ごしで、いつのまにか何事もなく過ぎ去ってしまうものだ、ということを知っているのではないだろうか。 それなのに、私たちは「小説」などのフィクションのなかで「不穏な影」がさすと、それを、何か不幸がおとずれる「サイン=合図」であり「複線」だと思いこんでしまう。そのような「物語的紋切り型」に馴らされてしまって、小説というものに「偏見」を持ってしまっているのだ。 つまり、今村夏子は、そうした「偏見の虚構性」を、物語において突いているのである。「その発想は、馴れによる偏見に過ぎないよ。予感はあくまでも予感であって、的中する予言でなんかないんだ」という批評であり、これはきわめて「純文学的な試み」だと言えるだろう。 私たちは「信仰宗教」というと「うさんくさい」とか「何か裏があるのではないか」などと、紋切り型の発想で偏見を持ってしまうが、言うまでもなく新興宗教にもいろいろあって、それは人間に白人もいれば黒人もいるとか、日本人にもネトウヨもいればパヨクもいるしノンポリもいる、といったことと同じである。 しかし、私たちは「密室殺人が起これば、そこにトリックがある」などといったような「パターン」で物語を見てしまう。たしかにこれは「効率的」な読み方ではあろうものの、慎重さには欠けて、きわめて「先入観に無自覚」であり「偏見」的だと言ってもいい。 今村夏子は、こうした私たちの「物語的偏見」を、「反・物語」によって逆照射して見せているのではないだろうか。「こっちの方が、当たり前(普通)なんですよ」と。 ------------------------------------------ 私は、上のレビューで、今村の小説を「反・物語」と表現した。これは、「小説のお約束」を意識的に裏切ってみせる、批評性を込めた小説、のことである。 よく言われるように、今村の作品は「不穏」と「優しさ」が同居している「不思議な世界」なのだが、この「不思議さ」は、小説的に「ありがちなパターン」にはハマらない、むしろ本来ならば相性が悪いとさえ考えられている「不穏」と「優しさ」が同居させられている点においてこそ、良い意味で読者は「予想」を裏切られ、その意外性を楽しむことができるのだ。つまり、平たく言えば「ありきたりの小説」ではないのである。 しかし、上に紹介した「今村夏子論」でも指摘したとおり、そうした「面白さ」は、読者の側が「小説」ばかりではなく、「人間」に対しても「偏見」を持っていればこそ、なのだ。 「普通の(まともな)人間」とはどういうものであり、「普通の(まともな)正義」とは、「普通の(まともな)人間関係」とはどういうものかといったことについて、決まりきった「常識」としての偏見に縛られて、そこから外れたものを「おかしなもの」「狂ったもの」「間違ったもの」と、深く考えることもなく決めつけてしまっているからこそ、そうしたものの裏をかいてくる今村夏子の作品は、「不思議」な作品であり、それでいて読者にひと時の「自由」を与えてくれるのである。 「あなただって、べつに普通である必要はないんだよ」と。 例えば、「白いセーター」の語り手は、いたってまともな女性のようだが、こまっしゃくれた子供にひどい目にあわされたあげく、最後は、ちょっと「おかしな人」になってしまう。 なぜに「嫌な思い出」のしみ込んだセーターを後生大事にしまい込み、それをときどき持ち出しては匂いを嗅いだりするのだろう。これは「普通」なら、倒錯的な行動なのだけれども、しかし、嫌な思い出によってこそ、つかめる「リアルな世界」というものもあろう。わたしたちは「きれいごととしての普通」のなかでだけ生きているわけではないのだ。 「ルルちゃん」では、語り手が知り合った、「普通」に魅力的で、しかし虐げられた子供に対する情の濃い女性が登場する。この女性は、常識的には非常に真っ当な人だし、やや過剰とも思える(ある意味では、イワン・カラマーゾフ的な)「虐げられた子供たちへの愛情」についても、本人は十分に自覚的なので、決して「異常」呼ばわりするのは妥当ではないだろう。 そして、その女性が、自分の力では救えない「虐げられた子供たち」への代替的愛情表現として、人形のルルちゃんを抱きしめるという行為も、決して異常なものとか言えない。 しかし、ルルちゃんの立場に立てば、それは迷惑なものにしか感じられないだろう。だからこそ、語り手は、ルルちゃんをその女性から「盗んだ」のではなく、「救出」したのである。それが語り手の「普通」感覚なのだ。 「ひょうたんの精」は、「普通」に読めば、幻想小説か「幻想にとり憑かれた女性」の物語ということになるだろうが、他人にはそうとしか思えなくても、彼女自身はそれを少しも不都合には感じておらず、その世界観を納得して生きているのだから、彼女の世界観が否定されねばならない謂れはどこにもない。 彼女は何も「間違って」いないし、狂ってさえいない。あえて言うなら、すべての人は、程度の差こそあれ、それぞれの幻想世界に生きているからである。 「せとのママの誕生日」も、「スナックせと」に集った、元従業員の女性たちがそれぞれに語る「ほとんどあり得ない奇妙な思い出」が、「矛盾なく」交錯する世界である。 「せとのママ」がいるかぎり、彼女たちの物語は、決して否定されることはなく、むしろ他には代えがたい独自性を持つ「大切な思い出」として、そのまま存在し得るのである。 「モグラハウスの扉」も、モグラさんという道路工事作業員の語った「物語」を生きる女性と、その女性とその女性の信じる世界を共有しようとする語り手の物語であり、彼女たちの間には、何の矛盾も不都合もない。 「父と私の桜尾通り商店街」にいたると、語り手が掴んで離さない「物語」は、現実の方を変えていこうとさえする勢いだ。 こうした「物語」から伝わってくるのは、私たちの持つ「普通」「常識」といった物語は、「周囲の顔色を窺い、周囲の世界観を内面化した、借り物」でしかない、ということなのではないだろうか。 たしかに無難に生きるのであれば、その方がいいのかも知れないけれど、しかしそれは、自ら進んで「凡庸な世界」を選ぶことでもある。 もしも私たちが、もっと「自分らしい世界」を生きたいと思うのであれば、「周囲の(無難な)世界」を弾き返すくらいの強度を「自分の世界」に与えなければならない。無論、それが出来るのは、「世間を目」を怖れない特別な「強者」たちであって、彼女らは、決して「敗者」などではないのである。 | ||||
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表紙の絵がきれいだったので、手に取り読んでみました。 感想としては意味が分かるような分からないような・・3つの短編集が載っているのですが、筋が通っているようないないような・・、何も始まっているようで、始まっていないような・・不思議な小説でした。 でも読んでいてあまり楽しい気分にはなれなかったので星2(気に入らない)で。 | ||||
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私は好きだった。イヤミスではなく、イヤ純文学というか・・・怖さがじわじわと背中をのぼってくる感じ。先に「こちらあみ子」を読んでいて、こちらはちょっと乗れなかったので。(動物で救われたのか) | ||||
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白いブラウスの胸元で、墨汁をふくませた筆をパッとふられた感じ。 痛いわけではないからうめき声をあげたりはしないけれど、 とってもイヤーな感じ!! この黒い斑点、洗濯しても、もうとれないのだ。 読んじゃったからには。 この作家さんは、この先、どんな物語を書くのだろう? 全身シミだらけになりながら、今後も追っていきたい。 | ||||
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1ページの文字数は確かに少なくあっという間に読めました。しかし内容はそこはかとなく漂う人間の可笑しさやせつなさ、ふれあいなどの細やかな心の部分が語りすぎることなくじわっと感じられます。私は好きです。買って読んでよかったです。 | ||||
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まだ全てを読んでいませんが、まず驚いたのは1ページ12行×34字というスカスカ具合です。 そこまで密な読書家ではありませんが、普段は17行×45字くらいを読んでいますし 巻末の解説も16行×37字なので、肝心の本文が余計にスカスカに見えて仕方なかったです。 本文が153ページと現状でもかなり薄いので、これ以上薄くなるのは避けたかったのか…。 若年層がターゲットというわけでもないでしょうに、もう少し何とかならなかったのでしょうか; もしアマゾンでなく本屋だったなら、ここまでスカスカだと買わなかったかもしれません。 作品とは違う部分でそんな違和感があり、非常に勿体なく思いました。 | ||||
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4年ほど過ごした世羅高原の眺めを思い出した。田舎は温かいけどさみしく、そしてちょっとこわい。表題作の「三びきとも?」というセリフに心が揺らぐ感覚はなかなか他の作家では味わえない。炙り出しのようにどこにでもある家族の風景が浮かび上がってくる作品集。 | ||||
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すこし腐してやろうという腹づもりではあったのです。 ここに並ぶレヴューを読むまでは。 あざとすぎますよと。 平易で平穏な書きぶりをよそおいながら、 読み進めていくと、次々と足を払う様に読者を転倒させ、 なんとも邪悪な家族の光景をうきあがらせるのは、と。 しかも、その浮かびあがった光景自体は、 根本敬のマンガ、村田藤吉シリーズのそれじゃないですかと。 突然帰宅した弟に三人が正座させられるとこなんて、 吹き出しかけましたよ。まんまやんと。 ただねえ、確かに冒険なんだなあと分かりました。 ああいう書き方を選ぶのは。この素材に。 全然、通じない、あれぐらい、ヒントにヒントを重ねて書いてあるのに…。 そういう事が簡単におこるんだなあと。 たとえば、あの子供達の年齢をすこーし上げて、極端、中学生ぐらいにしてやれば、 これが危うい家族が暴力に曝される話だということを理解はしてもらえるだろうけど、そんな話今更なんなのということになるし…。 つまり、「破綻した個人の寄合場所としての家庭」をねっちこい文体や描写で固定的・実体的に描くのでなく、こういう淡彩な描き方をすることで、多様な読み方が可能なルーズな文章から、そういった家族像を再構築した読む側の「こういった家庭への私たちの視線」を逆照射することなしには、もはや「ニッポンの小説」とはいえない状況ですからねえ…。 でもねえ、小学生が真夜中に鍵を言い訳にやって来てカレーを4杯も食べる描写(ご丁寧に午前1時30分という時刻まで添えて)までして、「なんかおかしい」と気付いてもらえないとは思わないですよねえ…。 小説を書くのも、この時代独特の困難さというモノがあるんだなと、少し同情した次第。 全然、悪い作家じゃない、とまで擁護したくなった次第です。 | ||||
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よくある家族の絆を描いた感動ものの小説と違い、家族と過ごす日常の中で起こった出来事を淡々と描いた感じ。しかし、単調でなく、逆に淡白な語り口であるからこそ、ほんの些細な出来事の描写が読み手の感情を強く揺さぶってくる。サラッと一、二時間位で読める。良い本でした。 | ||||
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とても読みにくい。 内容ではなく、紙面が読みにくくてたまらない。 おかげで物語に入り込めなかった | ||||
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以前アメトークの読書好き芸人で光浦さんが紹介していたのを、記憶しており綺麗な装丁を見て購入。 とても読みやすい文章で1時間程度もあれば、読み終わってしまいます。 その中に何か家族や繋がり的なものを伝えようとしていることがあるのでしょうが、全体的に漠然としており私は理解しきれなかった印象です。 | ||||
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あひるは面白いと思ったけど、外は、うーん。書き下ろしの場合のつまらないバージョン。 | ||||
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ドラマチックな展開はなく、一見何気ない日常のように見える。しかしその背景にあるどことなく不穏な空気が妙にクセになる作品。『星の子』と同じく、作者の世界観に魅了された1冊でした。 | ||||
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市内の大きな書店に平積みされていた「文学ムック たべるのがおそい」の表紙に、以前読んだ「こちらあみ子」の作者の名前を見つけていたので、表題作はすでに読んでいました。ほかに短編がふたつ収められていますが、「あひる」が「こちらあみ子」の空気感を継いでいるように思います。新たに書き下ろされた掌編は、出来事や時間の流れをあちら側とこちら側から描くといったほのかな意匠が凝らされており、訳ありのおばあちゃんであったり家庭であったり、まだ2冊しか読んでいないのに早くも作者のカラーと言いたくなったりもする素材ですが、最後は童話のようなきれいな終わり方で、一瞬、狐につままれたような気持ちになります。 | ||||
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「こちらあみ子」を読んだ時の衝撃は強かった。 どうしたらこんなに異空を生きる人物が描けるのかと感心し再読・熟読した。文章の奥にある作者の思いを知りたいと思った。 今回の表題作については、題名のままで、父のことも母のことも弟のことも「私」のことも漠然としか読み取ることができなかった。 帯に書いてあるような「ざわつく」感情が起こらなかった。 「ざわつく」今村ワールドに期待したが、次回作をまってみたい。 | ||||
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AmazonPrimeで電子書籍を借りたら、文章が全て画像で、書籍として読めたものではなかった。 損をした、と思った。これから紙書籍を買うモチベーションが無い。 今村夏子さんには悪いが、kindleで購入する方は注意した方がいいと思う。 | ||||
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先々月(2017年4月)に読んだ『こちらあみ子』のことがとても印象に残ったので、同じ作者のもうひとつの短編集『あひる』も読んでみたくなりました。 ◆『あひる』 :主人公の父親が、同僚からペットのあひるを譲り受けてきます。あひるの名はのりたま。このあひるを飼い始めてから、主人公の家には近所の子どもたちが日参するようになります。静かだった一家の生活は、あひる見たさの子らが通い始めてから一気ににぎやかになっていくのです。 そのあひるが病気になって、獣医のところへ連れていかれ、戻ってきたと思ったら、なんだか別人、いや別あひるになっていたり、こどもたちは主人公一家にお菓子を出してもらったりして、なんとも賑やかな日常が綴られていきます。 だからといって天地がひっくり返るほど大きな事件が起きるわけではありません。 ならばこの物語の要諦はどこにあるのか。 私はこの小説を、あひるが、主人公一家の<うち>と<世間>とをつなぐ出入り口の役割を果たしている寓話だと思って読みました。ある日突然やってきたあひるによって、主人公たちの日常に風穴があけられる。そのことで、他者である<世間>との交流と軋轢が生まれ、彼らを翻弄すると同時に、人生のハリを与えてもくれるわけです。 しかし物語は、最後にその風穴が<うち>に向かって閉じられるところで終わります。 ほんのいっとき、<世間>に向けて<うち>が開いたことがある人生を歩めたかどうかを自問しました。 ◆『おばあちゃんの家』 :死んだひいおじいちゃんの奥さんは、すぐ近所に住んでいます。主人公みのりが、インキョと呼ぶそのおばあちゃんとの間でかわしたやりとりを描いた短編です。 これも『あひる』同様、主人公みのりの<うち>と、身近な<世間>=インキョとの、有るか無きかの境界線を越えた往来を綴っています。まだ幼いみのりにとっては、インキョとの関係が、人生における最初の<世間>との交流であるといえるでしょう。そんな<世間>との初めの一歩の経験を誰しも持つものです。私もその日々のことを思い返してみました。 ◆『森の兄妹』 :小学2年生のモリオとさらに幼いモリコの兄妹はお母さんと3人暮らし。森の中でおやつの草を探していたら、いつの間にか知らない誰かの敷地に入り込んでしまいます。そこにはおばあさんがひとり暮らしていました。モリオは気になってときどきそのおばあさんのところへ会いに行くようになり、そのたびに飴をもらって帰ってくるようになります。 これもまた<うち>の中で暮らしていた幼いモリオが、見知らぬ老婆という<世間>と出逢い、そしてまた別れていく話です。 幼いころに会ったあのおばあさんは一体誰だったのだろう。そんなことを、まだ幼いモリオは考えることなどないはずです。長じたときにやがて、記憶のかなたに朧気に立ち現れるその出会いの発端が何だったのかを思い出すこともできぬまま、不思議な気持ちとともに振り返る大人の日々がモリオを待っていることでしょう。 | ||||
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