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(短編集)
あひる
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あひるの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.05pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全49件 1~20 1/3ページ
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日常にある違和感や些細な出来事を描いているように思えますが、視点と作者の書き方により、ホラーや夢の中にいるような、奇妙な話を読んでいる感覚になります。 ラストでは「これが私たちが住む世界の本質ですよね?」と静かに教えてくれ、人間の気持ち悪さを突きつけられます。 | ||||
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Amazon商品紹介より以下。 【新たな今村夏子ワールドへ】 読み始めると心がざわつく。 何気ない日常の、ふわりとした安堵感にふとさしこむ影。 淡々と描かれる暮らしのなか、綻びや継ぎ目が露わになる。 あひるを飼うことになった家族と学校帰りに集まってくる子供たち。 一瞬幸せな日常の危うさが描かれた「あひる」。 おばあちゃんと孫たち、近所の兄妹とのふれあいを通して、揺れ動く子供たちの心の在り様を、あたたかくそして鋭く描く「おばあちゃんの家」「森の兄妹」の3編を収録。 * 単行本で読んだ。2016/11/18発行。 よく伏線というか、沢山ありそうで読み返すと面白い。以下、ネタバレしまくり。 表題の「あひる」と、「おばあちゃんの家」「森の兄妹」が続く。 実はこの3編、全部繋がっているのではないかと思う。 時系列でいうと後の2編から戻って「あひる」へ。 ・弟は「将太」くん ・姉は「みのり」 ・おばあちゃんがいた 「あひる」では大人になった「みのり」か?名前が出て来ず「わたし」人称。 そして「おばあちゃんの家」では弟が出てくるが名前は出て来ず、「あひる」では「将太」が出てきた。 そうやって考えてみていくと可能性が大きかった。 家族構成がおばあちゃん・母と父、姉と弟で共通するからまさかな、と思っていたら。うっわ、面白いってなった。 びわ、って家庭で植えると不吉と言われている。 理由は諸説あるが、病人が寄ってくるとかいう。びわは食物としては病気にいいのだが、それが返って病人を寄せつけるというものだ。現に、「森の兄妹」の2人が誘われている。 そして唸ったのが“鳥”だ。気づいた人がいないのかと他を探してもいない。 3編とも“鳥”が出てくる。ニワトリ、あひる、孔雀、キジ。 ニワトリ小屋をあひる小屋にし(「あひる」)、あとの2編中で孔雀とキジが出てきた。 2編が繋がっている事は読めば察しがつくと思う。わたし(みのり)が小さい時に見た孔雀を森の兄妹が見た。実はキジだったが。 それを読んでまた「あひる」を読み返すと、“わたし(みのり)”のとある行動の前に、違った解釈ができた。 あひるが死ぬ前に、カギを探しにきたと言っていた男の子が現れる。 “わたし”は彼が何者なのかを考える。「真夜中に突然やってきて、食べるだけ食べたらサッサと帰っていった不思議なお客さん」「でもどこかで見たことがあるような気が、しないこともない」と思考を綴っている。 これは「森の兄妹」の事を思い出そうとしている。 思い出したどうかは不明だが、結局“わたし”はあひるの恩返しの方をとったようだ。都合のいいように生きる、悪い事は隠す。本書のテーマに添うかもしれないが、1つの発見だった。 「あひる」が他2編の後日談となるなら、おばあちゃんは亡くなったか居なく、 悲しい事を隠すような両親が痛ましい。このままだと断絶してしまいそうだったが、弟夫婦に子どもが生まれ、もしかしたらおばあちゃんが住んでた小屋(可能性が)の後に、取り壊してブランコができる。 こうやって人間は生きていくんだよ。 それを皮肉たっぷりに受け止めた、本作だった。いやぁー、ブラックは好きなもので、こんな短い話の中で探し物をしながら読む、面白かったですな。 こちらを読む前に「こちらあみ子」「ピクニック」を読んだので、ただ坦々と表面では日常を書きながらも、何かあるな~と期待しながら本書を読む事ができた。 もっと深堀りしていったらまた違う発見が出てくるかもしれない。 もしやおばあちゃんは小屋に押し込められていたんじゃないかとか(そこまでは無いだろうと信じたい)。 次は「星の子」を読んでいますが、宗教が出てくる。これも作家の持ち味がふんだんに出てきそうで、楽しみです。 | ||||
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ハッピーエンドではなく、読後心にざらっとした感覚が残ります。 『むらさきのスカートの女』が好きな人にはお薦めです。 今村ワールドの読後のざらっと感が、癖になるんだよね… | ||||
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日常を切り取った短編集。 ただ、ジャンルはよくわからない。 タイトルにもなっている1話目の「あひる」は、ちょっと怖い… 親戚から譲り受けて飼い始めたあひる。そのあひるが病気になり病院から帰ってくると別のあひるにすり替わっていた。 そこから、主人公の家ではなんだか不思議で不安な出来事が起きる。 3話の短編があり、物語は淡々と進んで読みやすいが、正直何を伝えたいのかはよくわからない。でも、ぐいぐい惹き込まれる不思議な小説。面白かったです。 | ||||
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今村夏子さんの着眼点がいいなと思いました。 | ||||
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すごいね。あひる、弟、私の関係に気がつかないと、怖さがわからない。ひょっとしたら、まだ読み込み不足かもしれない。どうしたら、こんな着想を得ることができるのだろう。天才か | ||||
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短編でさらっと読めるのだけれど読み進むこと構造が見えて来ることで、ジワジワと怖さが立ち上がる。短編同士の重なり合いも、また怖さをかきたてる。素晴らしさを感じます。 | ||||
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子供と大人の自然で美しい交流が描かれている。 | ||||
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ラジオで知って購入しました。 普段、本を読まない夫も読みましたが、 記憶に残る作品でした? | ||||
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一家だんらんのための生贄であり 後にそれはアヒルを見に訪れる子供たちに代わっていく。 最後におとうとの子供が新たな生贄として 誕生するのではないかという恐怖感でエンドと | ||||
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三編の短編集です。同じ家庭が舞台のようです。時期はあひるだけ違っているようですが。 あひるを飼ってから家庭内の変化も面白いですが、どの作品も家族間との関係の希薄さが印象に残ります。 他の作品より不気味さは弱めなので、今村さんの作品は重いと感じる方でも読みやすいと思います。 | ||||
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三作品が収録された短編集。 タイトル作の「あひる」は、あひるを貰い受けた一家の物語。いつしか、その家は、あひるを見にくる子供たちの集いの場となって…。あひるが調子を崩し、病院から戻る度に違和感を感じる主人公。父と母の作為に気づいてるようで、違和感を心の中に仕舞い込んでいる。色々と背景を想像してしまう作品だ。ホラーじゃないけれど、何やらもやもやと不安な気持ちにさせる読後感。 「おばあちゃんの家」と「森の兄弟」は、連作で先の物語の裏側が後の物語で補完されるという仕掛け。何も起きないけれど、こちらも、もやっとした著書独特の味わいがある。 好み。 | ||||
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一人称の目を通して、淡々と紡がれてゆく物語。見たままを書き綴っているだけなのに、ざわめく心とわだかまるような戦慄・・・・変な作品、そして、たまらなく気になる一冊でした。 | ||||
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手に汗を握る経験は共感ができる。 子供ながらにそれがコンプレックスだと思う事も | ||||
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『むらさきのスカートの女』『星の子』と読んですっかり今村夏子が好きになってしまい、続けてこちらを読んだ。 表題作含め収録された短編三作、これがまた全部独特の世界観で構成されていてあぁ……これこれ……と陶酔してしまった。 なんでこんなに惹かれるのかも一体何を読んだのかもよく分からない。 文章はかなり平易で簡潔で引っかかるところが何もなく主人公の視線をそのまま追えるのに、段々段々身体の中に歪みが澱のようにたまっていく感覚に襲われる独特の読み心地。主人公の視線は完璧に追えるのに一つ一つの事象については徹底的なまでに説明がない。 普通なら説明が加えられるような異常な状況でも、主人公にとってそれが日常なら主人公にとっては当たり前でなんら心に浮かぶことがないのでそのまま流されていく。その潔さ、小説という形態でそこまで切り捨てられるのかという謎の気持ちよさみたいなものもある。 | ||||
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おばあちゃんの記憶。 優しくて、残酷で、働き者で、 少し臭い。 手がしわしわで、おだやかで、 小説のようにオイオイと泣いて、 昔の家族構成や過去は見えない。 まるで最初から老人だったみたいな。 丸まっていて、笑っていて、 足腰が弱っていて、 感情が読めなくて、 サイボーグみたいに、 体のあちこちが人工で、 死を連想させる。 痛い痛いといっていて、 無条件に孫の味方で、 おやつやおこづかいをくれて、 娘を手足のようにつかい、 息子をイヌコロのように罵倒する。 自分のおばあちゃんと、 マンガのおばあちゃんと、 街で見かけたおばあちゃん、 テレビで観たおばあちゃん、 映画で観たおばあちゃん、 友達や親戚のおばあちゃん、 幼い頃のおばあちゃん、 大人になってからのおばあちゃん、 忙しくて、 放っておいた時期のおばあちゃん、 どれもこれもぜんぶが、 おばあちゃんの記憶として、 頭のなかでゴッチャになり、 そしてまた今回も新たに、 おばあちゃんの記憶が、 足されてしまった。 子供の頃の記憶も曖昧で。 それが自分のものなのか、 読んだり見たり聞いたりした記憶かが、 ハッキリしない。 おばあちゃんは、 アヒルと同じように記号だ。 いや、自分や他人や家族も、 ペットみたいに記号なんだ。 実は何も知らない、 でも失いたくなくて、 トラウマを含んでいて、 助けてほしくて、 一生ゆるせなくて。 愛しているという感情も、 記号なのかもしれない。 時間の経過で記号は入れかえられ、 場面に応じて自分をシフトする。 まるで家族なんていないか、 物置にある不用品みたいに。 残酷で、でも今も過去も、 未来にはきっと懐かしい、 思い出になっていく。 同時にどんどん自分の存在が、 誰かにとって、 忘れやすい記号になっていく。 自分が、いなくなった、 会わなくなった家族や親戚を、 少しずつ忘れてきたように。 交換可能どころか、 いなくなってもしばらく気付かない、 いてもいなくても一緒の存在。 自分がそんな、 田舎の茶箪笥のコケシみたいな、 ホコリをかぶった存在になるなんて、 昔なら信じられなかった。 子供はみんな、自分が主役だから。 誰かの脇役になる悲しさと、 それを悲しんであげる優しさが、 今村夏子さんの小説には、 全ての文字に表されています。 読みやすさは、 計算とか無能とか手加減とか、 そんな、よくある理由じゃなく、 深遠な優しさに思える。 本当はどうか知らないけど、 そう感じさせられる。 男性をこんなふうに、 穏やかで優しい目で見て、 包み込むように描く女性作家は、 あまり見たことがないです。 愚痴や不満の塊を吐き出すみたいに、 押しのけるように描く人が多く、 (イケメンは宝塚か少女漫画のよう) それがあまりに当たり前すぎて、 今村夏子さんを読むと、 あれ? なにかおかしいぞ? と、 不思議な感覚になるくらい、 今回もまた包まれました。 なかよしの姉や妹がいると、 こんな感覚になるのかな。 ぼくは男兄弟なので、 よくわかりません。 無条件の味方がほしくて恋をして、 何度も挫折するうち、 時間は飛ぶように過ぎていき、 押しのける人が普通だと、 思い込まされていたのかな。 これはぜひ男性に読んでほしいです。 世の中は残酷で時間は無情だけど、 でも、あたたかい記憶だって、 いつの間にか蓄積されている。 人は思ったより丸いのかもしれない。 とても上品な寂しさ。 穏やかで幼気な悲しさ。 冷たくてカビ臭い布団のなかで、 温めてくれるような優しさ。 こんな小説が、 もっと読みたいです。 | ||||
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日常の延長にあるような、手に取れるくらい明確な輪郭線を感じさせる風景を描いているのに、なにか奇妙に揺らいで見える。 その歪みがなにか、まったく答えを教えてくれない。 妙に惹きつけられる物語だ。 | ||||
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『こちらあみ子』『むらさきのスカートの女』と読み進め今村夏子3冊目。 やっぱり今村夏子面白い。 本文庫に収録されているのは『あひる』『おばあちゃんの家』『森の兄弟』の3作。 表題作の『あひる』は文句なく面白い。 声を出して思わず吹き出してしまう場面が少なくとも3回ありました。 まずは何より「わたし」の家で飼われるあひるの名前が「のりたま」と聞くだけで、もう可笑しい。 そして、『むらさきのスカートの女』の「わたし」同様、今村夏子の小説における語り手「わたし」には、いずれの作品においても今村夏子ならではの何とも言えない味があります。 『おばあちゃんの家』を単独で読むと☆4つかな、との読了感でしたが、その次の『森の兄弟』を読むと、「おお、なるほど、これは上手い」と気づかされます。 つまり『おばあちゃんの家』『森の兄弟』は2作セットで一つの作品として読むことで、今村夏子の作家としての技量の高さを感じさせられるのです。 本文庫に収録された3作品とも、子供たちの描かれ方が非常に巧い。 『むらさきのスカートの女』でも、公園のベンチに座ってクリームパンを食べる「むらさきの女」と子供たちが仲良くなっていく場面が生き生きと描かれていましたが、『あひる』でも、あひる見たさに次から次へのやってくる子供たちと「わたし」の両親とのやりとりが、どこか微笑ましくも物悲しくもあり、今村夏子のいずれの作品においても、子供の存在は小さくないと感じます。 読みやすい文体であっという間に読めてしまいますが、繰り返し読みたくなる中毒性もあり、しっかり心にも残る作品だと思います。 | ||||
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筆とる腕に遭いを問う手もみた。 | ||||
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数々の受賞歴を持つ筆者の淡々とした文脈の運びには定評があるが、その中に潜む不気味さが不気味を装わずに読者の背後に迫ってくる。怪談ではない怪談と言えるかもしれない。一読をお勧めできる作品と思う。(短編なので本屋の立ち読みでも良いかも・・・。) | ||||
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