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忘れられた巨人
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忘れられた巨人の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.88pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全139件 121~139 7/7ページ
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書評を読んで購入したけれど、あまりに虚構が奇抜すぎて小説の中に入っていけない。どこの国の話?なぜこんなに当たり前のように鬼とかでてくるわけ? | ||||
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主人公のアクセルは、記憶がよみがえったことで、アーサー王の騎士たる誇り高き時間と同時に自分の犯した罪を思い出す。 記憶や忘却が一意的に善か悪かを決めることはできない。心すべきは記憶/忘却をする私たちは、不完全で理不尽な人生を生きていることだ。忘却がなければ、罪に苛まれる人生しかないが、忘却ばかりだと価値ある人生や人格を評価することができない。それは喜びも悲しみも少ない、淡い水彩画のような人生だ。過去数千年にわたり、人類は紛争を重ねてきた。平和を願う意志はあっても、私たちの記憶がそれを許さない。これからも私たちは制約条件の厳しい世界を生きていかなくてはならない。 | ||||
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時代はアーサー王が身罷(みまか)ってさほどの歳月が過ぎていないころ。ブリトン人の老夫婦アクセルとベアトリスは、今は離れて暮らす息子を訪ねるべく、住み慣れた村を後にした。しかし息子がなぜ自分たちの元を離れたのか、今となっては記憶が定かではない。二人は文化習俗の異なるサクソン人の騎士や少年と行動を共にしながら息子の住む村を目指すのだが…。 先月(2015年6月)来日したカズオ・イシグロが『』以来ほぼ10年ぶりに世に問う新作小説です。 どんな内容なのか、何が描かれるのか、全く予備知識もなければ予測もせぬまま購入して読み始めたのですが、これはなかなか手ごわい小説でした。 まず物語の端緒では、アクセルとベアトリスの長年月を共に過ごしてきた夫婦ならではの互いをいたわり合う心根の美しさが描かれ、それは読者である私の気持ちにしっとりと寄り添いました。 ですが、息子に関する二人の記憶が曖昧なのは高齢のせいなのだろうか、とぼんやり思いながらページを繰り続けた末に、やがてこの物語が騎士や竜といった中世幻想譚の装いを見せ始めると、率直なところ、距離を感じてしまったのです。 この物語が訴えるのは、どうやら記憶が人間に与える喜びと哀しみのことのようです。 人間の記憶は幸せだったことよりも辛かったことのほうが強く脳に刻まれるものだと聞いたことがあります。それは将来訪れる危機的状況から身を守るために人間に備わった能力だとも耳にしています。 ですがその辛い思い出を反芻することは苦いおこないであることには違いありません。出来うるのであれば、その辛い記憶を拭ってしまいたい、そう考えるのも無理のないことです。 その願いが幸いにも叶ったとき、しかし同時に息子との掛け替えのない思い出も失ったとしたら。 アクセルとベアトリスのこの物語が紡ごうとしたのはそうした世界なのではないでしょうか。 「神様はわたしたちがしたことの何かに怒っているんじゃないかしら。それとも恥じているとか――」(中略) 「わたしたちを――わたしたちのしたことを――深く恥じて、ご自身でもわすれたがっていたら? その人がアイバーに言ったように、神様が覚えていないなら、わたしたちが忘れても不思議じゃありませんよ」(100) 村上春樹も記憶や思い出について繰り返し物語を編んできましたが、それは思い出こそが人間を支えるよすがになるというものでした。 「人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないかな。(中略)もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。」(『』250~251頁) 記憶を失うことが意味することの両面について見つめるきっかけを『忘れられた巨人』が与えてくれたのは、ひとつの得(う)るべき点だと私は思います。 ですが、この幻想譚の行方がなかなか読みとれなかった私には、この小説はおよそ10年前に『わたしを離さないで』で味わったような平坦な読書経験を与えてはくれませんでした。そのことが残念なのです。 ------- 373頁:「こいつを鞘から引く抜く」とありますが「引き抜く」ではないでしょうか? | ||||
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2005年に出版された「わたしを離さないで」が面白かっただけに今回は残念だった。 新鮮味のないありきたりな話の展開に物語に入り込むことができず、半分ぐらいからは作業的に読んでしまっていたので最後まで読まずに本書を閉じました。 最後まで読んでいたらまた感想が違ったかもしれないが、SFならではの興奮や次の展開への期待がまったく込み上げてこず、半分以上読み進めることが出来なかった。 | ||||
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導入部の期待感が、盛り上がることはなかった。こんごの展開は? | ||||
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《忘れられた巨人》カズオイシグロを読んだ。小説を買って読むのは本当に久しぶり。英国の6世紀頃を舞台にした老夫婦を巡るファンタジィ小説。 英国が今の形になるまで様々な曲折を経たことが理解できるが何より夫婦とは何か、生きるとは何か,私たちはそして私は何を記憶し何を忘れるのか、 もう一度考えさせてくれる気がする。英国人に帰化したイシグロの新境地。私にとって《日の名残り》以来の2作目だが、物語の展開に追われ一気に読んだ | ||||
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これは小説という形式を借りたカズオイシグロからの強烈なメッセージであり問題提起だ。 個人(恋人、夫婦や家族)のレベルでも、民族のレベルでも、国のレベルでも我々は過去の出来事や歴史認識を乗り越えていくことができるのであろうか。もしくは敢えて過去に蓋をすることで現在を幸せに生きていく道を選ぶのか。果たして過去を直視せずに蓋をしたまま生きていくことができるのか。過去を見つめずに真の愛情や信頼関係を築くことができるのか。何れのも道も険しい道であるが、カズオイシグロからは勇気をもって真摯に過去を直視せよ、それを乗り越えてこそ真の関係を構築できるのではないか(もしくは忘却の霧にまかせておく方がよかったのであろうか)と問題提起がなされている。本書の中では結論は明示されていないものの、読者の解釈によって如何様にも捉えることができる。 しかし、いずれも険しい道であろうが我々に選択は避けられない。 | ||||
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私は、楽しく読みました。 作者が今まで私たちに見せてくれた世界を思うと「何か深いものを読み取らねば」という書評の先生方や真面目な読者の皆さんの意気込みもわかるような気がしますが、ファンタジーとして十分魅了され、心躍らせてページをめくりました。 往年の円卓の騎士、傷を負った少年、無敵の戦士、そして勇者と姫君の「その後」の姿のようなアクセルとベアトリス。誰に心寄せて読み始めても、ふとした瞬間に見せる違う貌にひやりとしたり、どこからか生じていた違和感が腑に落ちたり。竜よりも記憶の齟齬が怖いと、人生も半ば過ぎた身には思いあたることです。 誰彼と、そこここをめくりながら語り合うことができたなら、また見えてくるあれこれがつまっている「物語」だと感じます。 あ、結局やっぱり何か読み取りたいのかしら。それもまた楽し。 | ||||
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何を書いても面白く読ませてしまう技はさすがで、今回は形式がファンタジーだが違和感はない。昔話ならば「アクセルとベアトリスの竜退治」とでもなろうか。最初の発想がどの時点で生まれたのか知らないが、特にここ数年の世相を映すような現代性が際立っている。異なる神の信者たちの諍いが忘却の川に忘れられた世界と書けば「ウルトラマン・ネクサス」を想起するが、あちらは恐怖がスペース・ビーストの餌になるのでレーテで鎮める。こちらは竜の息がその役を果たすが、その竜を巡り、老若の戦士が対立する。視点のずらし方も素晴らしく、あるエピソードを生かした終わり方もまた深い。もっとも必ずしも比喩を読み足る必要はないだろう。個人的には、これまでの最高傑作が「日の名残り」で、一版好きなのが「充たされざる者」――あの話をつまらないと思う人が多いらしいのはとても残念――と思っているが、カズオ・イシグロのことだから、これからも傑作を物してくれるだろう。最後になったが、いつもながら情景が美しい。短編でも同じだが、特別な表現を使わずに描かれる世界の美しさを堪能させてくれる。 | ||||
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昨日(5月31日)の朝日、毎日の二つの新聞の書評で、カズオ・イシグロの最新作「忘れられた巨人」が紹介されています。2005年の前長編「私を離さないで」で、臓器を病む人々のために、新しい臓器を提供するクローンとして生育される少年少女を描き、圧倒的な衝撃を世界に与えたイシグロの10年ぶりの小説だから、すばらしくないわけがない、と誰もが期待していたことが、評者の文面から伝わります。鬼を裂き、妖犬の首をはね、最後は竜と対決する、ファンタジ-の語り口はストーリ-テラ-としてのイシグロの面目躍如ですが、でもそれだけじゃないだろう、あのシイシグロだから、と評者たちが、戸惑っている様子も文面から伝わります。 民族の違いや宗教の対立を超えて人々がおだやかに共存するためには、過去の記憶を忘れる必要があるけれど、忘れ去った記憶には、愛情を始めとする活き活きとした感情の起伏がある、それをどうしても取り戻したいというのも人々の知性の性でもある。わざわざ、つらい過去を思い出すために、生命をかけた戦いをする価値があるのか、どうか。忘却の中に静かに暮らしてはどうか。 素直に読むと、こうしたモチーフをファンタジ-の形を借りて語っていると思います。であるならば、あの「私を離さないで」のイシグロとしては、物足りないではないか。そうした読後感でした。 | ||||
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ナチの犯罪も、日本の侵略も、9.11も、先の震災も、時間がたつと人々は 忘れてしまう。夫婦や親しい友との諍いも、表面は無意識だが、深層心理で意図 して忘れようとすることもある。忘れて良いこともあれば、決して忘れてはいけ ないこともある。 英国の作家 カズオ・イシグロの新作は「記憶と忘却」を巡る物語だ イシグロの作品は、一作ごとに大きく作風が異なる。英国の最高の文学賞ブッカー 賞を受賞した34歳の時に書いた「日の名残」では、英国人執事の回想を、英国の老 作家のような筆致で書き、名作「わたしを離さないで」では、SF的な前提で世界を 再構築し、人間の尊厳のありかたを深く見つめる。 「忘れられた巨人」では、6世紀前後のアーサー王没後の世界に舞台に「アーサー王伝説」 のサイドストーリーのような文体で物語を紡ぐ。その世界には、妖精も鬼もドラゴンも生息 している。しかし、ファンタジーの明るさはみじんも無い。過酷な自然環境と、重い空気が 深く垂れ込めている。 物語の縦糸は、共同体から疎外されている主人公の老夫婦が、終の棲家を目指し、息子の 住む遠くの共同体へと旅にでる話だ。 その旅を通して人々と出会い、彼らの住む世界は竜の吐く息で少しずつ記憶が損なわれて いることが明らかになってくる。 物語を通して、カズオ・イシグロは読者に静かに語りかける。人生は忘却により、いやな ことには向き合わずにすむ心地よさも確かにある。しかし我々が向き合うべきは、記憶を失 うことによる社会や個人の心の安定よりも、覚醒による現実の苦悩を乗り越えることにある のではないか。カズオ・イシグロの視座は限りなく高い。 「忘却という病」は何時の時代でもある。決して読みやすい小説ではないが、比喩的で、 普遍的で、示唆に富み、私たちの思考を深めるために確かな拠り所となる作品だ。 | ||||
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「私を離さないで」から10年。待ちわびたカズオ・イシグロの長編である。毎回新しい趣向で読者を驚かせる彼らしく、今回も入念に仕立てられた衝撃の物語が届けられた。流麗でありながら、緊張を強いられる文体は変わっていない。読み進むほどに疑念が深まり、行き先の見当がつかなくなるのは前作と同じだ。読み終わって、まだ一部を理解したに過ぎず、読み返すことでさらに深い発見を得られるだろうと思った。本作品には多様な解釈が可能であり、評価は分かれるかもしれない。 6世紀、アーサー王の死後数十年のブリテン島の岩だらけの丘を越えて、荒れた野を行くのは息子を訪ねて旅するブリトン人の老夫婦である。旅の途中で、竜退治に向かう戦士、呪いの傷を持つ少年、アーサー王の円卓の老騎士を伴って旅は進んでいく。途中にサクソン人の集落や修道院を通過し、竜や鬼、妖精に悩まされる。この老夫婦の旅を軸に戦士による竜退治のストーリーが交錯して物語は進んでいく。あくまで「ロード・オブ・リング」のようなファンタジー小説の趣なのである。 老夫婦は息子の住む村をめざすが、記憶があいまいである。息子はいつ、どのような事情で家を出たのか。どこに住んでいるのか。すべてが霧の中にある。竜の吐く息が霧となって漂い、記憶をさえぎるのだ。こうして記憶と忘却がもう一つのテーマとなっている。最後に竜が倒されて、すべての人の記憶がよみがえり、伏せられていた事実が明らかになるのだが「それは果たして望ましいことであったのだろうか」と作者は問いかけている。 5月10日に日経新聞に転載された英フィナンシャル・タイムズ紙のインタビューによるとイシグロ氏はこの小説の着想を9.11から得たと語っている。NY多発テロの直後に日本で開催された読者イベントにおいて、「第二次世界大戦で何が起こったのか、その大半の部分を日本は忘れてしまった」と思った。そして、「社会による記憶と忘却について、本を書きたいと思ったのです」。その後2004年にアーサー王時代の円卓の騎士が旅をする数行の文章に触れて作家の頭に物語の構想がひらめいたという。 つまり、ブリトン人とサクソン人が抗争を続ける中世のイングランドを描いて、殺戮と復讐の連鎖としての現代世界を想起させている。パレスチナやスロバキアやコンゴ等で起きた悲惨な殺戮と復讐を示唆している。作家は「正義」のための戦いと報復が繰り返される愚を指摘するのである。つまり、民族にとって歴史を記憶することが果たして正しいことなのか、そして、戦争を止めるには適度な忘却と赦しが必要ではないか、と問いかけている。このファンタジーの形をとった物語は、世界の歴史に関する作家からのメッセージであろうと私は理解した。もう一度読み返して確かめてみたい。 作品には、これまでのイシグロ氏の長編同様に哀しみと喪失感が漂っていた。そして、作家自身が「本質的にはラブストーリー」と語るとおり、深い愛に結ばれた老夫婦の姿に私は胸を突かれた。世の中がどれほど悲惨な事象で満たされていようとも、強い愛はそれらを駆逐する力がある。これこそこの作品における中心的なメッセージではないだろうか。カズオ・イシグロの新しい傑作の登場をよろこびたい。 | ||||
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純粋に物語として面白くなかった。久しぶりの長編で期待していただけにとても残念。冒頭は不安感と好奇心を刺激される感じがよかったものの、どんどん世界観が狭くなっていき、中盤から終盤のエピソードはとってつけたように不自然で退屈だった。後味も良くないし、考えさせられることもない薄い物語。メタファーとしての中途半端なSFよりも、「わたしを離さないで」のように、真剣にSFに向きあった結果生まれるリアリティある物語を読みたかった。 | ||||
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あまり書くとネタバレなのですが、作者の新作はいろいろ深みを思います。 | ||||
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待ちに待ったカズオ・イシグロの長編。人々の記憶が常にあいまいであるという不穏な空気をまといつつ、アーサー王の名や鬼や竜や妖精が出てくるファンタジー的設定に戸惑いを覚えましたが、「過去の罪」あるいは「人種、民族としての罪」「赦し」ということを描く舞台として上手く機能していると思います。「後世の人は~」「現代人が~たとすれば、」など、語り手に現代人の目線が時々挿入されるのは、「これは純粋なファンタジーではない」という目配せなのでしょう。 イシグロ作品の十八番である「あてにならない記憶」「やるせなさ」も健在。 相変わらずの物腰の丁寧な文体、大げさなレトリックもほとんどないのに読者を飽きさせない展開と伏線の回収、最後に明かされる真実とちょっとした驚きなど、ゆっくりと読む楽しみを味わえました。 読後、ウィスタンのとった行動や少年や老夫婦の行く末に思いを馳せる時、それは自分自身への問いにもなっていることに気づきます。 「同じ状況になった時、自分はそれを赦せるだろうか?」 色々考えさせられるという点では、いままでのイシグロ作品にひけをとりませんが、私としては「遠い山なみの光」「日の名残り」「わたしを離さないで」などのずっと一人称で語られる文体が大好きなので次回に期待したいです。 | ||||
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先に英語で読んだので、日本語訳を見たときはちょっと驚いた。 普通の日本語で書かれてる…? 原書は日常使われる英語では書かれていない。 作者カズオ・イシグロがインタビューで語ったところによると、「忘れられた巨人」ではあえて古語で書くことはせず、通常の英語のセンテンスからいくつかの語を削除することで古語のような雰囲気を出したそうだ。 つまり、擬古語ということである。 (日本語で擬古語で書かれた小説というと「」が思い出されるが、英語話者からすると「忘れられた巨人」も似たような印象になるのだろうか。) カズオ・イシグロは文体に凝る作家である。「日の名残り」も古めかしい執事の言葉遣いが特徴的な小説だった。 本作でも、擬古語の英語が幻想的な雰囲気の醸成に貢献している。 日本語訳でも、この文体の工夫は反映させるべきだったのではないかと思う。 | ||||
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アーサー王伝説、毒の霧を吐く竜など、前提になる知識が欠けている私にはまともに読めるか不安もありましたが、訳がこなれているのか、日本生まれのイシグロの努力と才能なのか、ストーリーに引き込まれて一気に読むことが出来ました。 私自身はイシグロと同い年のせいか、記憶をなくした人々や、主人公が自分自身の記憶や時に愛妻への思いも不確かに感じるあたりについ共感して読んでおりました。 映画化も計画されているようで楽しみですが、CG満載のハリウッド風アクション映画にするくらいなら、いっそ日本アニメの新しい表現に挑戦して欲しいように思いました。 | ||||
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本年(2015年)三月に英米で発表されたばかりのカズオ・イシグロの新作が、驚くべき早さで邦訳刊行された。原題は「The Buried Giant」、邦題は「忘れられた巨人」、早川書房が翻訳権を独占していることもあり、「わたしを離さないで」「夜想曲集」に引き続いて土屋政雄氏が翻訳を担当。その丁寧で穏やかな語り口は本書でも変わることはなく、カズオ・イシグロ・ファンとしては嬉しい限り。しかし一点だけ、邦題は今ひとつ適切でない気がする。 さてその内容だが、「わたしを離さないで」でクローン人間というSF的要素を大胆に取り入れて世界を驚かせたように、今回は日系英国人である作者が英国人の心の故郷とも言える「アーサー王物語」の伝説世界に果敢に挑戦している。 欧米では概ね好意的に受け入れられ、あとがきでは既に映画化権を某プロデューサーが獲得したとのこと。しかし、残念ながらストーリー自体は残念ながら凡庸。だって、今や伝説のソフトと化した感のある「Wizardry」以降、数多のRPGにアーサー王伝説や竜退治物語が流用され尽した現代において、そうそう目新しい物語を作り出せるわけがない。カズオ・イシグロもそれくらいは承知ていたはずで、解説によると 「(竜や鬼などの)表面的な要素に惑わされないでほしい。新作は単なるファンタジーではない。」 と発言し、却って一部の作家から「ファンタジーを見下している」との批判も受けたらしい。そしてその批判は決して的外れなものではないと私も思う。その上で敢えて言いたいのは、やはりこれは紛れもないカズオ・イシグロの世界であり、人を愛することの痛切な哀しみの物語なのだ、ということ。 舞台は六~七世紀ごろのブリテン島、伝説のアーサー王が円卓の騎士とともにローマ人やサクソン人を撃退し伝説の島アヴァロンへ去った少し後の時代。例えばまだ円卓の騎士ガウェインは老いて尚健在。しかし平定したと言っても島は今のイングランドのように美しい緑に覆われた平和な世界ではない。物語はこういう文章で始まる。 「 イングランドと聞けば、後世の人はのどかな草地とその中をのんびりとうねっていく小道を連想するだろう。だが、この当時のイングランドにそれを探しても、見つけるのは苦労だったはずだ。あるのは行っても行っても荒涼とした未墾の土地ばかり。」 その世界はアーサー王の系統であるケルト系のブリトン人(勝者)とゲルマン系のサクソン人(敗者)の微妙なバランスの上に成り立っているが、その世界に暗鬱とした影を落としているのが「健忘の霧」と「鬼、妖精、竜」たちの存在。 この霧のためにこの世界の住人たちの殆どは1,2日前の記憶も保てない。ブリトン人であり村では疎外されている老主人公夫婦アクセルとベアトリスもその例に漏れず、二人とも時に昔のことを断片的に思い出すことがあるがそれ以上は思い出せないでいるが、何かをある春の日に感じ取り、昔出ていった息子の元へ身を寄せることを決意し旅に出る。 もちろん老夫婦がそう簡単に息子のいる村へ辿り着けるわけもない。最初に逗留したサクソン人の村では悪鬼騒動に巻き込まれ、知り合いのブリトン人の長老の策略でサクソン人の勇者ウィスタンと悪鬼に傷つけられた少年エドウィンとともに逃げるように村を脱出したり、霧や竜の謎を知るという賢者ジョナスのいる山上の修道院へ向かう途中で見張り番の兵士に行く手を阻まれたり、修道院では賢者ジョナスには出会えたものの何故か突然の脱出を命じられ、雌竜クエリグを追う伝説の円卓の騎士ガウェインやエドウィン少年の助けを借りて修道院の地下から辛くも逃れたり。。。 一方のサクソン人戦士ウィスタンにも様々な艱難辛苦が用意されており、老夫婦と同行したり離れたり、ガウェインとの運命の出会いお互いを尊敬しつつも不穏な空気が流れたり、エドウィンの覚醒を促したりと、まさにRPGそのものの展開。 そのようなストーリーに文学的・思想的深みを持たせているのは、アヴァロンを髣髴とさせる「島」の描写の幻想性であったり、その島へ渡るための夫婦愛についての船頭の質問であったり、ウィスタンが疑問を呈する戦争がもたらす「海より深い底なしの憎しみ」やキリスト教の持つ「放置された不正義」であったりするわけだが、カズオ・イシグロのそのような問題提起は、今回ばかりはストーリー展開の速さに流されてやや上滑りしている感が否めない。 まだ刊行されたばかりなのでこれ以上語ることは避けるが、感想を述べるためにどうしても一つだけネタばらしをお許しいただきたい。人々を健忘に導く霧は雌竜クエリグが吐く息がもたらすものであり、竜の呼気にその様な効果を持たせたのは大魔術師マーリンであり、それを命じたのはアーサー王その人であったのだ。 アーサー王の命令の理由は?それはその効果が切れるときに明らかになるのでだろう。マクロレベルの変化は伏せておくが、ミクロの方は個人レベルの問題、例えばアクセルとベアトリス夫婦の過去についての謎が明らかになるということ。その謎が明らかになっても夫婦はお互いを愛し続けることができるのだろうか? 「わたしを離さないで」で「限られた生を生きることの痛切な哀しみ」を描ききってみせたカズオ・イシグロが今回描いたのは「人を愛することの痛切な哀しみ」であるとはそういうことであり、結末は読んでのお楽しみ。 と書いてきたものの正直なところ、まだこの小説が傑作なのが、凡庸なファンタジーなのか確信は持てない。しかし心配はしていない。10年前の小説「わたしを離さないで」が傑作であるとを知るのにそれなりの時間と努力を要したように、この物語も心の奥底に刻まれ熟成されてやがてその素晴らしさを思い知ることになる、と信じているから。 | ||||
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英語版の発売から二ヶ月も経たないうちに日本語訳が出た。 とりあえずページをめくってみたが、読みやすい、こなれた日本語になっている。 読みやすくしすぎじゃないかと感じる箇所もいくつかあるが、一般読者にとってはこのほうがよいだろう。 ただし、タイトル、The Buried Giantを『忘れられた巨人』としたのは、解釈の先取りであり(誤りではない)、読者の自由をいささか侵害している。 「巨人」は「忘れられた」のではない、個人と集団が「記憶」を巧妙かつ賢明に操作したことによって、すなわち意図的に「葬られた」のである。 (この小説を読み解こうとするとき、英語のburiedには「埋葬」の意味が強いことを意識しなければいけない。) 「埋められた巨人」としておいて、イシグロのメタファーの含蓄を読者が読み解くに任せるべきだった。 「ニューヨーク・タイムズ」、「ザ・ガーディアン」、「TLS」など、主要な新聞・雑誌の書評もほぼ出そろった。 予想通り、好悪が別れた。 『充たされざる者』(このタイトルの訳は『癒やされざる者』とするのがより適切で、『浮かばれない死者たち』とすると訳しすぎになる)が、ごく一部を例外として、一様に不評で、さんざんたたかれたのに比べれば、好意的な評価が多いようだ。 (念のために言っておくと、『充たされざる者』は、これまでのイシグロ作品中、最高の完成度を持つと評者は考えている。) アーシュラ・K・ルグィンのように、この小説をファンタジーとして議論するのは完全な的外れ。 この小説はファンタジー(とくにクエスト・ロマンス)の形を借りているだけで(『わたしを離さないで』が「改変歴史ものSF」の形を借りたように)、内容は「戦争の世紀」20世紀を描く、現代歴史小説なのだから。 巨大な歴史と小さな個人の歴史とが物語の進行の中で絡み合い、『日の名残り』、『わたしたちが孤児だった頃』、そして『わたしを離さないで』のときと同じく、底深い悲しみが浮かび上がる。 イシグロが「ザ・ガーディアン」のインタビューで語っているように、実は「戦争の世紀」は、ただ追悼すべき過去ではない。 ドラゴンが吐き出す霧の中に消え去ったはずの記憶がよみがえるとき、埋葬されたはずの「巨人」もまたよみがえり、新たな殺戮と破壊を現出させる。 ソ連崩壊の後、旧ユーゴスラヴィアで、ルワンダで、起こったことを念頭に、イシグロは紀元5世紀のブリテン島を舞台として、現代世界の終わりなき凄惨な悲劇をフィクション化したのである。 | ||||
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