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方舟さくら丸
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方舟さくら丸の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.20pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全25件 1~20 1/2ページ
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〇 ひとことで言えば多彩かつ多面的な作品だ、ということになる。まずなんと言っても面白い。細部まで周到でマニアックで緻密な状況設定、世間のはみだし者ばかりを集めた登場人物たち、小気味よい物語の進行。冒険小説のスリルと推理小説の意外性を兼ね備えたエンターテインメントだ。 〇 次いでその文章術。さすがに安部公房だと唸らないわけには行かない。小説のはじめの方には秀逸な比喩と華やかな表現をちりばめ、後半になるとまっすぐな事実描写でわき目もふらずに畳みかける。体言止めの多用が生む不思議な余韻。全篇を対象と距離をおいた表現が生むユーモアが支配している。便器から脚が抜けなくなった主人公「もぐら」と、穴の底に囚われた『砂の女』の主人公と境遇はよく似ているのだが、もぐらは『砂の女』の主人公みたいにジタバタせずに、どこか余裕をもって事態を見守る。そこにユーモアがうまれている。 〇 さらに風刺も忘れていない。やり玉にあげられるのは、国家権力の粗雑、組織人間の危うさ、老人の醜悪、簡単にひっくり返る力関係のもろさなど。ただ、チクリチクリとやるだけで深入りはしていない。 〇 最後に、全編を通じて克明に追っている主人公の心理の不思議が味わい深い。彼は世間から逃れるためにシェルターを作り、最後は真っ先にシェルターから逃れて世間に戻った。ここに何か寓意があるのだろう。 〇 この作品でいったい作者は何を言いたかったのだろうか、と一応は考えてみたのだが、すぐにやめた。その気になれば何かもっともらしいことは言えそうな気はするけれど、上に列挙したことで十分ではないか。念の入った架空の小世界を作り上げて、2日にわたって何時間もの楽しい時間を読者に提供し、社会と人間の愚かを垣間見せ、ちょっとした価値の転換に似た感覚を味合わせ得たとすれば、小説家としてそれ以上なにを望むことがあるだろう。 〇 ああ、面白かった、で良いのだと思う。 | ||||
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大変安く購入出来ました | ||||
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ものすごく感動的な話ではないし、痛快な話でもない。しかし読み終わった後に、心の中に何か引っかかる塊のようなものができ、簡単には忘れられそうにない。 物語の全てが何かの隠喩であるような感じだが、何の隠喩なのかははっきりわからない。そのモヤモヤも、心の中に引っかかる。 はじめは主人公の考え方についていけないが、だんだん、主人公が自分とあまり変わらない人間のような気がしてくる。 物語の最初と最後に出てくる市庁舎の黒いガラス張りの建物に関して、主人公の受け取り方が大きく変化しているのは、主人公の成長のせいなのか、喪失感のせいなのか。 | ||||
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「ぼく」は地下採石場跡に、シェルターを作った。核戦争が起こっても生き延びられるエリートだ。 「乗船切符」はあと三枚、人選が難しい。 ある日デパートの屋上で出会った昆虫屋に声をかけたら、サクラとパートナーの女がついてきた。 共同生活が始まった。 「ぼく」は間違っても他人には愛されない、痛くて変な奴である。 肥満体で奇怪な家庭環境というところが、痛さに拍車をかける。エキセントリックな父親の造形が秀逸だ。 昆虫屋とサクラも印象に残るキャラだが、特記すべきはサクラの連れの女だ。最後まで女としか書かれない。 具体的な容姿の描写はないし、性的なシーンもないのに、不思議な色香を感じる。 作者の描く女性はなぜこんなにエロいんだろう。 例によって本筋は明確ではないが、細部が面白い。 侵入者撃退の罠とか、なんでも流せる巨大なトイレとか、ディテールが妙に楽しい。 主人公の情けなさに共感したので、最高点にします。 | ||||
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ストーリーの展開は面白いけど、私にはしっくりこない本でした。 | ||||
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地下採石場跡の巨大な洞窟に核シェルターの設備を造り上げた、豚もしくはモグラという渾名の青年〈ぼく〉。核戦争から生き延びるための切符を手に入れた三人の男女(怪しげな昆虫販売業者、的屋であるサクラの男と女)と〈ぼく〉との奇妙な共同生活が始まる。〈ぼく〉の生物学上の父親である暴君、猪突(いのとつ)、女子中学生狩りに熱中する「ほうき隊」の老人たち。グロテスクかつブラックユーモアに満ちたエピソードが展開され、やがてシェルター内に侵入者が現れたとき、〈ぼく〉の計画は破綻し始める。その上、〈ぼく〉は大型の便器に片足をくわえられ、身動きがとれなくなってしまうー。核時代の方舟に乗ることが出来るのは、誰なのか? 生き延びる資格があるのは誰なのか? 「箱男」「密会」と、謎とスリルに満ちた傑作を発表したあとに辿り着いた、人間の原罪を問う、安部公房の1980年代。本書は読むたびに新たな発見を得ることが出来る、公房の代表作の一つです! | ||||
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当時の世相を反映した上で作られたものなのかな、と。 (「核戦争の危機」はこの時代ではまことしやかにささやかれていた) その方舟に乗り合わせる事になった人間達。 彼らは危機からの脱出を試みる前に内部から崩壊していく。 一人で生きる事の出来ない人間。 しかし集団でも生きる事の出来ない人間。 このジレンマを如実に描き出している。 | ||||
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安部公房は非常に好きなのだが、正直にいうと『方舟さくら丸』は好きではない。 最後までその世界に没入することができなかった。 パーツ(シーン)は面白い。しかし余分なパーツ(シーン)も随所に混入していたために、興ざめすることが多かった。 現実味のない状況設定と、登場人物たちのありそうもない心理状態にシラけたことも多々あった。 何カ所か、前後の文脈から浮いたような文章があった。 表現がくどく、不要に思える箇所もかなりあった。 ストーリー展開が遅すぎて(余分なパーツのせい)、読むのが苦痛に感じることもしばしばあった。 後期の作品ということもあり、安部公房はすでにこのとき「燃えつきて」いたのかもしれない。 安部公房は、夢を見ると、枕元においたノートにすぐにメモするということを、どこかで読んだことがあるが、それらの夢を紡いで作ったようなお話しに思えた。 お付き合いできる夢ならいいが、『方舟さくら丸』は、ボクにとってはどうやらそうではなかったように思える。 ボクとは相性が悪いのだろう。 | ||||
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独特のタッチですが、感触はそこそこです。ただ最近読書から少し遠ざかっていたせいもあって、感情移入がなかなかできませんでしたねえ。 | ||||
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後半はいろんな出来事が立て続けに起きるから割と飽きずに読める。が、四人のメンバーがそろってからしばらく、特筆すべきこともなくだらだらとやり取りが続くところは飽きる。 安部作品はどうも、長編が苦手だ。特有の違和感がある。それは例えばモグラの足が便器にはまるところだったり、「女子中学生狩り」という話が突拍子もなく出てきたり、女の割合都合のいい描かれ方(尻を叩かれるところとか)だったり。その場の思いつきで書いているという感じが、特に隠ぺいされることもなく、ぬけぬけと描かれている。というところがどうにも気になってしまう。 この作品の執筆前後のエッセイ「死に急ぐ鯨たち」で、安部は「分析はやめて、イメージのなかを泳ぐように執筆している」と述べている。そう思ってみればなるほど、自由連想的な描かれ方をしているのも納得できる。が、どうも自由連想的なその場の着想が、話の進行に関わる「都合のいい偶然」というか、「見え透いた偶然」のように思えなくもない。例えば主人公が便器にはまったシーンは、その後昆虫屋に主導権を握らせるための伏線になっているし、ダイナマイトを爆発させざるをえないという理由づけにもなっている。「女子中学生狩り」なんかは、シェルターに取り残された「ほうき隊」の老人連中と明確に対比されるところが作為的だし、「生殖・切り離された世界で独自の生活を築いてゆく」という未来を読み手に想像させるために無理矢理ぶち込んだ要素、という感じがしなくもない。 儀式的なものを嫌悪している安部からしてみれば、物語然とした物語を好まないだろうし、自身が描く小説が型にはまることも望まないだろう。そういう意味では、自分でも何が起こるかわからない、というその偶然的な描き方にこそ(安部にしてみれば)意味があるとも言える。が、私には安部による長編小説の自由連想的な描かれ方が、「どうしてもそうなってしまう」という必然性を欠いているように感じられる(短編は別)。安部自身が無くし去ろうとした「分析的な意識」を、随所に感じざるをえない。 | ||||
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この本を読んで、を思い出した。 CUBEの製作は1997年で、1984年に出版されたこの本とは互いに何の関係もないのはわかっているけど。 空間に閉じ込められた数人が、自分たちで予兆しえない事件や出来事に巻き込まれ、 時間が進むにつれて当初の心理が微妙に壊れてゆき、その壊れる様子を追うという点では共通している。 一般的に「不条理」とも括られそうな両者。 非現実的な設定もさることながら、理解不能な状況の延々とした描写、そして「えっ!」って感嘆符と疑問符を幾つも付けたくなるようなラスト… これは好き嫌いがはっきり分かれるだろうし、正直言ってレビューは書きづらい。力点を置く場所を見つけにくいから。 しかし知的好奇心はくすぐられる。だから自分の空想力を思いっきり駆使して、この本のもつ「本当の面白さ」は何かを、 紙を火にかざしてあぶり出しで書かれたものを読むような作業を自分に課すしかない。 この本の主人公は、核戦争による世界の終末を予測し採掘跡の広大な洞窟に武装してひとり立てこもりカウントダウンを待つ。 ひとつ思ったのは、この本を現代言われるところの「引きこもり」の人が読めば、どういう感想を抱くか、ってこと。 だって、自分だけの世界の構築、自己の肥大化、自分の容姿へのコンプレックス、他人に対する資格審査、選民思考、 あげれば引きこもりに通じるキーワードはいくらでも出てくる。 でも、安部公房は後に社会問題化する引きこもりの人を描きたかったのだろうか? 私はむしろ逆で、世間一般の人共通の精神的属性を、安部はすべて引きこもり的なものに集約させようとしていると思う。 結末で洞窟から外へ出た主人公が平和な日常を過ごす街全体やそこに住む人全体を改めて凝視し、死んでいると感じたという描写は、 私たち誰もが宿命的に背負わされている疎外感を表現したかったのではないか。 すなわち、引きこもって我が道を行く人生を送るのも、社会に出て日の光を浴びて暮らすのも、どちらも孤独だってこと。 そうすると、現代の「社会的排除」という言葉で表されるような、自分が望む望まないにかかわらず 社会にいながら外界との接触がほとんどない人が現実的な存在として表面化したのは、そういう点で見れば不思議ではない。 CUBEは設定の妙から人間社会の不合理性をとことん突き詰めた形で一本の作品に結実させているが、 この本はその不合理性を咀嚼したうえで、人が生きるうえでの孤立性を浮き彫りにしようとする意図を感じる。 つまり、別に核戦争や自然災害を待つまでもなく、人はある意味孤独で、生きるうえで寂寥感を避けえないってこと。 その現実を受け入れ、「絆(きずな)」なんて言葉を安っぽく使わずに、寂寥感や排除とどう折り合いをつけ孤独に打ち勝てばいいのか。 同じところを時計みたいにぐるぐる回りつづけ自分の糞を餌に生息する昆虫“ユープケッチャ”を登場させ期待をもたせるものの 現代病とも言える孤独や疎外感を解消する具体的な手法までは書かれていないので、星1つを減じたい。 | ||||
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少ない登場人物の中での心理描写が匠に入り混じって、すぐに引き込まれてゆきました。 | ||||
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核戦争から身を守るための方舟を用意して来た主人公が、 ともに乗船する事になった、さくら、女、昆虫屋といっしょに どたばたする。そもそも自分が船長であったのに、最後の 土壇場で船を逃げ出さないといけない気になる。予期せぬ 乗船客が想定外の場所からつぎつぎ現れてパニックになるのだ。 本来乗船客を募って、出航するつもりだったのに、なぜか 連中をすべて敵と思い込む。 で、逃げ出したとたん、話は終焉するわけだ。外では核戦争が 起こっているのだから。 よく考えれば方舟から逃げ出さないといけない理由などないのだ けれど。 | ||||
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安部公房「方舟さくら丸」を読了。安部公房後期1984年の作品です。全編当時出たてのワープロで全て書かれた作品です。当時としては画期的なことだったのでしょう。機械が思考に影響を与えるのでは、などと考えられていたのでしょう。その通りな作品の様式です。本作を読んだ感想はまるで星新一のショートショートの世界から長編が生まれたと思える作品です。無機質で均一的な背景が全編を覆っています。そこに自分の身をおけるかどうか、これが本作を楽しめるか、楽しめないかの分かれ道です。自分は楽しむまで時間がかかりましたが、後半から楽しめました。 | ||||
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やっぱ、すごいわ。この作家は。 村上春樹は大好きだけれど、ノーベル文学賞の器ではない。 安部公房が賞をもらっていたら・・・。 もっともっと彼の小説が読みたい。 | ||||
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安部は短編がいい。ブラックなレトリックが秀逸な安部の作品は長編だと食傷気味になる。ただ、さすがに短編ほどブラックではなく現実感が垣間見える。他の人も書いていたが、終わり方が安部らしくなく「新境地」と言えるかもしれない。安部の晩年の作品なので彼も丸くなったということだろうか。安部は物語を「登場人物に語らせる」ことで有名。(自分の作品が教科書に採用されて)「教科書でこのとき主人公はなにを思ったかという設問があるが、そんなの私にだって分からない」と安部がインタビューで答えている。とはいえ、ストーリー展開に安部の経験が反映されているのは間違いないだろう。 | ||||
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「ワイドスクリーン・バロック」というジャンルがある。いや、あった。 1970年代にSF作家ブライアン・オールディスが提唱した概念。 いわく、それひとつで一本の小説が書けそうなアイデアを幾つも幾つもこれでもかとぶち込みつつも、 あくまでもステレオタイプなエンターテイメントを装い、 読者を幻惑・混乱させる濃厚で軽薄でめちゃくちゃな小説。(この理解であってるかな?) 『方舟さくら丸』はまさにそれ。ストーリー自体は単純明快。 オタク気質なピザ青年がとっておきのヒキコモリ場所を確保したのもつかのま、 そこにビジネスの匂いを嗅ぎとった山師どもが押寄せ、青年はやむなく閉鎖を決断する。 ただそれだけの話。深みも渋みもありゃしない。 だから読者がここで楽しむべきなのは、 インチキ昆虫「ユープケッチャ」に関するもっともらしいウンチクだとか、 ありふれた地図を利用したヴァーチャルトリップの実際だとか、 終末論を用いた人身掌握のノウハウだとか、 老人vs女子中学生の新たなるエデンの園の妄想だとか。 ここにはペテン師しか登場しない。 ペテン師達は互いに相手をコントロールしようとあらゆる詐術を駆使する。 これはパワーゲームの物語。そしてノンストップの饒舌でつづられた物語。 かつての失敗作『人間そっくり』から、演劇経験を経て、 『箱男』や『密会』で培われた安部の饒舌のスタイルは一旦『さくら丸』に結実する。 未消化で軽薄でそれでいて意味ありげなアイデアの数々の矢継ぎ早の投入に、 読者が目を白黒させる隙も与えず、饒舌は鮮やかな道しるべを示しつつ終幕に誘う。 文学史的には評価イマイチなれど、 シュールでポップな楽しい「後期」安部公房を知るには最適の一冊だと思うんですけどネ。 | ||||
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「ぼく」は、核戦争の海を悠然と進んでいく巨大船の船長だ。 核戦争が、巨大な廃坑を、終末の世界の中で、時の海を進む船に変える。「ぼく」は、なぜそのようなことを思い付いたのだろうか。安部の創作メモの中の「ぼく」にとっては、それは啓示だったことが分かるが、実際に私たちが出会う「ぼく」は、「なぜ」ということには、答えない。核戦争は先手必勝という結論にいずれ辿り着く、終末は避けられないというロジックだけが示される。 創作メモの中の啓示に打たれた「ぼく」は、乗船者を決めることが、人の生死を決定する「神の力」の行使であることをはっきりと自覚し、それを楽しむ。「ぼく」は、傲慢である。しかし、ここで出会う「ぼく」はそうではない。初めて乗船者を決めた日に、やっとそのことに気付く。そして「自分をひねりつぶしたい」程、後悔するのだ。そして、「ぼく」は、ある決断をする。 「ぼく」は、とても孤独な人間だ。本を読むのが好きで、論理的な問題を好む。「ノアの箱船」は、啓示では決してなく、論理だったのだろう。核戦争は避けられない。それではどうやって死なずに、生きるのか?論理で「ぼく」は、船長になる。私たちは、デパートの屋上で、人を探す「ぼく」に出会うが、なにも「ぼく」は孤独な世界から抜け出して、他者と関わる世界にたち向かおうとした訳ではない。船を動かすには船員が必要だ。だから、「ぼく」は人を探す。これもまた、論理なのだ。 「ぼく」は、物語の舞台を提供する者に過ぎないのかもしれない。また、それを背景にして動き回る人間たちを映し出す「鏡」に過ぎないのかもしれない。「ぼく」を取り巻く人間たちの間でこそ、国家論等のテーマが渦巻く。 だが、孤独で論理に従って動く「ぼく」には、妙に惹かれるところがある。現代に生きる私たちの運命を体現したようなところがある。上手く言葉にできないのだけれど。 | ||||
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思わずにやりとしてしまう船の仕掛け。 ユープケッチャの奇妙な新鮮さ。 初めは仲間だと思っていたが雲行きの怪しくなってゆく大男。 さくら男の一見頼りなさそうであるが、生活をともにしていると次第に頼もしくなってゆく過程。 ところがぼくは最後までさくら男の存在が邪魔であるという、読者に与えるもどかしさ。 ぼくは最後までさくら女がほしかった。 しかし結局は離れてゆく。 毎回、安部の作り出す登場人物たちの微妙な間柄が好きだ。 | ||||
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《豚》もしくは《もぐら》がぼくの綽名である。 すごくイメージが湧きやすい自己紹介だと思いませんか? 安部公房はこういうポップな表現が卓越していると思います。 ずば抜けた頭脳の持ち主で、その発想も奇抜。 なのに、まったく読者を拒絶していない。 そして、この『方舟さくら丸』は安部作品のなかでも、 特に没頭しやすい作品だと思います。 この作品で、主人公は、 自ら核シェルター設備を整えた、地下採石場跡の巨大な洞窟を住処とし、 それをノアの方舟にみたてて乗船適格者を探しているのですが、 徐々に他者によって聖域を侵されはじめます。 その過程が、会話文をふんだんに盛り込んで描写されており、 登場人物たちが、自身の腹の内を隠しながら他者の思惑を探る、 すごく人間臭いやりとりが面白くて、読み出すと止まりません。 ユープケッチャ。万能便器。オリンピック阻止同盟。 斬新な概念が最後まで尽きることなく溢れていて、 なぜだかニヤケながら読んでしまう。 奇想に心をくすぐられる、安部文学の入門書的小説です。 | ||||
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